アウトライン
1A 義の訴え 1
1B ユダの暴虐 1−4
2B バビロンの暴虐 5−11
3B 裁きに用いられる悪 12−17
2A 信仰による義 2
1B 必ず来る幻 1−4
2B 六つの災い 5−20
3A 畏れ慄く祈り 3
1B 主の光臨 1−15
2B 主にある喜び 16−19
本文
ハバクク書を開いてください、今日は1章から3章までを学びたいと思います。今日のメッセージ題は、「約束を喜び迎える信仰」です。ハバクク書は、私個人の信仰の原点、いや全ての人にとって原点になる書物です。なぜなら、ずばり「信じること」、神の約束を信じきって、その約束にあって喜んでいることを取り扱っているからです。
私が思い出すのは、チャック・スミス著の「収穫の時代(ハーベスト)」ですが、その初めの言葉が、イザヤ書55章8‐9節でした。「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」自分の思いもよらない神のご計画がある。それは、あまりにもすばらしい。けれども、それはあまりにも高い所にあるので、今、起こっていることが正反対に見えます。今だけを見ると悪いことばかりが起こっているように見えて、神がおられるのか、あるいは、おられても何も行動に移しておられないのではないかと感じる時があります。けれども、そこで必要なのは信仰です。自分の思いと異なる思いを持っておられる神を信じること、また、自分の思いよりもはるかに大きなことを考えておられることを信じることです。
チャック牧師が17年間の牧会をしていて、ある時は20名にも満たない教会員数になったこともある。だれが後に、数万人の教会の牧師となり、そこから何千もの教会が出てくるのか想像できません。けれども、その20人にも満たない教会の牧師であった時が、実は神がご自分の計画を実行されている最中であった、ということです。
預言者ハバククは、これをもっと大きな規模で、ユダという国全体で起こっている出来事、また世界帝国として台頭してきたバビロンの国を通して起こっている出来事を通して経験します。
ハバクク書は、ユダの暴虐に対して何も行なっておられないようにみえる状況に対して、神に訴えるハバククの祈りから始まります。そしてその祈りに対する答えとして、バビロンをユダの暴虐を裁く器として用いようとされている意図を神は明かされます。その答えに驚いたハバククは、「なぜユダよりももっと悪いバビロンを、ユダの悪を裁くのに用いられるのか。」という疑問と訴えを主に述べます。それで、神の答えを待とうと見張り所に立っている彼に対して、バビロンの徹底的な裁きを明らかにされるのです。そしてハバククが、畏れおののいて、神の到来への祈りと喜びを歌にして残します。
そしてハバクク書は、私たちの信仰の要になる御言葉を私たちに与えられます。「正しい人はその信仰によって生きる(2:4)」です。イエス・キリストの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられている啓示を受けた使徒パウロは、この御言葉をローマ書、ガラテヤ書、そしてヘブル書において引用しています(ヘブル書の著者は意見が分かれますが、私は個人的にパウロだと思っています)。したがって、この御言葉の背景であるハバクク書を学ぶことによって、「信じる」とは一体何なのかをじっくりと学ぶことができます。
1A 義の訴え 1
1B ユダの暴虐 1−4
1:1 預言者ハバククが預言した宣告。
「ハバクク」という名前の意味は「喜び迎える(英語では"embrace")」という意味です。「抱擁する」と訳すことのできる言葉でもあります。まさにその名のように、彼はユダの惨状が悪化の一途を辿っているのに、主の約束を抱擁して、喜び勇んでいきます。
そして預言を行なった時代ですが、おそらくはユダ国の末期、ヨシヤが死んで、エホヤキム王の治世の時でなかったかと言われています。次の読むように、ヨシヤの宗教改革が彼の死によって終わり、再びかつて行なっていた悪を繰り返していた時期です。
1:2 主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐。」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。1:3 なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。1:4 それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行なわれません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行なわれています。
ハバククの特徴を一言で言い表すなら、「義に飢え渇いている」人です(マタイ5:6参照)。ユダの中に悪がはびこっており、それに対する正しい裁きが行なわれていないという訴えを神に対して行っています。そして裁判所においては、正しい人の訴えが悪者たちの企みによってつぶされています。
3章でハバククは、その預言を神殿の中での賛美として用いるように残していますが、それから彼は神殿の奉仕者、祭司やレビ人の関連の人であると考えられます。ですから彼は「律法」に敏感です。律法が、神の言葉がまったく適用されておらず、まるで神の言葉が眠ってしまっているかのように見える、と訴えています。まるで神が何も行動に移しておられないかのように見えます。このことに対する答えが、次からです。
2B バビロンの暴虐 5−11
1:5 異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。1:6 見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。
神の答えは、「わたしは確かに、ユダの暴虐に対して働いている。彼らを裁くためにカルデヤ人を起こしている。」でありました。そしてそれを、「驚き、驚け。あなたがたは信じまい。」と言われています。
まずもって主が「異邦の民」を用いられること自体が、ハバククにとって驚きでした。主の契約の民ではないのに、神を信じている人々なのに、なぜ主が彼らを用いられるのか?ということです。
そして異邦の民だけではありません。「強暴で激しい国民」として有名なカルデヤ人、つまりバビロン人を用いる、ということです。バビロンが激しい暴力で、自分たちの領土を拡大し、膨張させていくのですが、それを用いてユダを裁くと言われるのです。
私たちもハバククと同じように義に飢え渇く時に、ハバククと同じように神がこの状況をどう見ておられるのか?と訴えたくなる時がありますね。こんなに悪がはびこっているのに、どうして主は何もされておられないのか?と訴える祈りを持っています。
けれども、神は働いておられます。むしろ、その正しい訴えに沿って、力強く働いておられます。けれども私たちの思いとははるかに異なる方法によってです。私たちが、神が行なわれるその方法にただ気づいていないだけなのです。続けて、バビロンの横暴な姿を読んでいきましょう。
1:7 これは、ひどく恐ろしい。自分自身でさばきを行ない、威厳を現わす。
ダニエル書2章に出てくるネブカデネザルの姿を思い出していただきたいのですが、彼は自分が語ったことがそのままバビロンの法律になりました。夢を解き明かすことのできる者が、彼の見た夢を言い当てることができなかったので、彼はすべての知者を滅ぼそうとしました。これがバビロンの特徴で、法や秩序などは無視して、自分自身が法律なのです。
1:8 その馬は、ひょうよりも速く、日暮れの狼よりも敏しょうだ。その騎兵は遠くから来て、はね回り、鷲のように獲物を食おうと飛びかかる。
ナホム書にも出てきましたが、バビロン軍の侵略する速さはとてつもないものでした。
1:9 彼らは来て、みな暴虐をふるう。彼らの顔を東風のように向け、彼らは砂のようにとりこを集める。1:10 彼らは王たちをあざけり、君主たちをあざ笑う。彼らはすべての要塞をあざ笑い、土を積み上げて、それを攻め取る。
国々の民をことごとく攻め取る姿を、「東風」また「砂」のようであると言っています。東風はことごとく作物を枯らしてしまう熱風として聖書には登場します。そして荒地の砂がものすごい勢いで吹き荒れます。同じようにバビロンが王たちを集める、ということです。そして王の町々を、どんな要塞があろうと、塁を築いて安々と攻略していきます。
1:11 それから、風のように移って来て、過ぎて行く。自分の力を自分の神とする者は罰せられる。
バビロンが神の裁きの器として用いられているのであれば、彼らがイスラエルの神を認めるのであればまだ理解できます。けれども、全くそうではありません。反対に、自らの力を自分の神としていきます。まるで終わりの日の反キリストのように、力の神を拝むのです(ダニエル11:38参照)。
3B 裁きに用いられる悪 12−17
1:12 主よ。あなたは昔から、私の神、私の聖なる方ではありませんか。私たちは死ぬことはありません。主よ。あなたはさばきのために、彼を立て、岩よ、あなたは叱責のために、彼を据えられました。1:13 あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。1:14 あなたは人を海の魚のように、治める者のないはう虫のようにされます。
ハバククは、自分の祈りが完全に聞かれていたことを知ります。確かにユダの暴虐に対して、暴虐をもって裁かれることを知りました。けれどもどうしても理解できなかったのは、その方法でした。ユダは悪いことを行なっていましたが、バビロンはその比ではありません。そのもっと悪いバビロンが、ユダに対する神の正しい裁きの器として用いられることが到底受け入れられなかったのです。
私はかつて、「神は原爆をもって日本を裁かれた。」と発言したことに対し、ものすごい反発を受けました。原爆という悲惨な方法をなぜ神が用いられるのか?ということに対する反発と、日本は、原爆を落としたアメリカが、必ずしも戦争終結のための最終手段として落としたのではないと考えているからです。そしてこの反発は、不信者の日本人だけでなくクリスチャンの間にも起こりました。
けれどもちょうどこれが、ハバククの感じている心の葛藤なのです。「確かに悪いことをしたかもしれないけれども、それを裁くのにどうしてもっと悪いものを用いられるのか?」ということなのです。ここに私たちは信仰が必要なのです。神の、あまりにも深い摂理と知恵に支えられたご計画に対する信仰が必要なのです。
まずハバククは、神を疑うことは決してしませんでした。「昔から、私の神、私の聖なる方」と言っています。たとえ自分は理解できなくても、神は変わりなく欠けた所のない完全な方です。そしてユダは、たとえバビロンを通しての裁きを受けても「死ぬことはない」と告白しています。契約の民なのだから、神が全滅させることは決してないことも信じていたし、知っていたのです。それから、「彼」すなわちバビロンの王が、神の叱責のための器とされたことも認めました。神の叱責だから、後に回復されるための一時的な裁きであることも悟っていました。
けれども、「このバビロンに対しては何も行なわないのですか?」という訴えを行なっています。ユダの悪に対しては裁かれるのに、もっと悪いことをしているバビロンに対しては、「あまりにも目がきよいので、悪に対して目に留めることはできないのですか。」と尋ねています。私たちも、そう感じることはないでしょうか?私たち人間の営みはあまりにも汚れているので、神がその状況を見ることはできない、神がそこから離れておられると感じるのです。
けれどもその時に思い出していただきたいのは、キリストの十字架です。そこには人間のどす黒い陰謀と打算と憎しみと暴虐が渦巻いている場面でした。そしてキリストご自身が、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになられたのですか。」という祈りを捧げました。けれども事実、父なる神はこのことの全ての事柄において直接介入しておられたのです。むしろ、神はキリストにあってこれらの敵意をご自分の中に受け止められたのです。コリント第二5章18節に、「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ」とあります。聖なる神が、これら悪の全ての中に介在しておられるのです。だから、確実に全ての悪いことに対して目を留めておられます。
1:15 彼は、このすべての者を釣り針で釣り上げ、これを網で引きずり上げ、引き網で集める。こうして、彼は喜び楽しむ。1:16 それゆえ、彼はその網にいけにえをささげ、その引き網に香をたく。これらによって、彼の分け前が豊かになり、その食物も豊富になるからだ。1:17 それゆえ、彼はいつもその網を使い続け、容赦なく、諸国の民を殺すのだろうか。
先ほどバビロンが、「自分の力を自分の神とする(11節)」とありましたね。それをここでは、具体的に言い表しています。神が用いておられる器は、まるで神を無視して、自分たちの網、つまり武器を拝んでいるのです。これでは神が彼らを用いられても、彼らを通して神の栄光が現われないではないか?むしろ、この偶像崇拝が単にはびこっているだけではないか?という訴えです。興味深いことに、古代の資料では実際に矢や槍などを、文字通り伏し拝んでいたということです。
2A 信仰による義 2
1B 必ず来る幻 1−4
2:1 私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。
この訴えを行なった後で、ハバククはしっかりとその答えを得ようとして見張り所に立ちました。見張り所はもちろん、城壁の上で遠くから攻めてくる敵をいち早く見つけて城内の民に伝える役を果たしていました。同じように、目を覚まして、用心して、主が語られるのをハバククは待ったのです。そして主の答えがあります。
2:2 主は私に答えて言われた。幻を書きしるせ。これを読む者が急使として走るために、板の上にはっきり書きしるせ。2:3 この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。
主はハバククの訴えにしっかりと答えてくださいます。これを「書き記せ」と命じておられます。だから、まやかしではありません。神はご自分が示されることに責任を持ってくださいます。
そして、「読む者が急使として走るために」とあります。これはちょうどエステル記に出てくる急使のようです。ユダヤ人を撲滅する法令が発布されて彼らは全滅の危機に陥りましたが、エステルの執り成しによってそれをくつがえす法令をさらに王が発布するようにさせました。その法令をペルシヤにいる諸国民に、それぞれの言語で、「早く走る御用馬の早馬に乗る急使に託して送った。(8:10)」とあります。だから、ちょうど「新聞の号外」のようなものです。題目を簡潔で分かりやすくしすぐに理解できるように書きなさい、と言うことです。
そして、この幻は「定めの時」のことで、「終わりについて告げ」ているとあります。終わりについてイエス様は「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。(マタイ24:36)」と言われました。父なる神は、いつこの日をもたらすかを、ご自分で定めておられるのです。だから、必ず来るし、その定めの日が来たら遅延されることは決してありません。
けれども私たちの目からは、遅れているように見えます。そう感じてしまいます。それで神はハバククに、「もしおそくなっても、それを待て。」と言われました。使徒ペテロが言ったように、「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(2ペテロ3:8)」なのです。これを辛抱強く待つのが、主の再臨を待つキリスト者の姿です。これをヤコブは手紙の中で、「大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待」つ農夫に例えています(5:7)。そして主は、とても重要な言葉をハバククに語りかけられます。
2:4 見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
ここに「正しい人」の基準があります。「信仰によって生きる」ことです。何か特別なことを神のために行なうことではなく、神がこれから行なわれることを信じぬくこと、全面的に受け入れることが正しい者であると神はみなされるのです。パウロがローマ書で体系的に教えている「信仰義認」の法則です。
私たちは、信じることは簡単であり、行なうことが難しいと思います。けれども、ここまで読んできたように、神が行なわれることを信じるのは並大抵のことではありません。その神の働きにある知恵と知識、そのご計画はあまりにも深く、理解し難いものだからです。けれども、それでも神に信頼すること、この信頼を神は喜ばれます。そして、ご自分がなされることを信じている者に対して、「あなたは正しい」と宣言してくださるのです。
そして新約時代に生きている私たちにとっては、神がこれから行なわれることだけでなく、既に行なわれたことを信じることが要求されます。ずばり「キリストの十字架」です。信じる行為そのものは実に簡単です。けれども人間の小さい頭で考えると、なぜこれが神の救いなのか分からないのです。「ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが(1コリント1:23)」とあるとおりです。
けれども、神が聖なる方であること。そして人間はとてつもない、救いのない罪人であること。そして神がそんな私たちを愛し、ご自分の子を罪の犠牲にして、その罪を赦してくださろうとしていること。これは神の奥深い心であり、知恵であり、力です。これを知って、信仰をもって受け入れること、これ自体を神は正しいとみなしてくださいます。
そして、この正しい者と対比して、「心のまっすぐでない者は心高ぶる。」と神は言われます。次に、心高ぶるバビロンの姿を神は明らかにされます。
2B 六つの災い 5−20
2:5 実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。
カルデヤ人が酒好きであったことは、古代の資料に記録されています。酒に酔いしれると、そこに表れるのは高ぶりです。覚えていますか、ダニエル書5章にてバビロンの最後の王ベルシャツァルが、ぶどう酒の杯としてエルサレムからネブカデネザルが取ってきた神殿の器を用い、そして木や石や金や銀で造られた神々に賛美しました。
そして、国々をことごとく自分のものにしていく様子を、「陰府」と「死」に例えています。人の死のことを考えてください、毎年、また毎日、人がどんどん死んで行きます。「葬式ビジネスに不景気はない」なんてよく言われますが、飲み込んでも、飲み込んでもその陰府の口は飽き足りることを知らないからです。
2:6 これらはみな、彼についてあざけりの声をあげ、彼を皮肉り、風刺してこう言わないだろうか。「ああ。自分のものでないものを増し加える者。・・いつまでだろうか。・・質物でおのれを肥やす者。」
ここから、「ああ」という言葉による六つの災いが書かれています。「ああ」は「忌まわしいものよ」と訳すことのできる言葉です。バビロンに食い物にされた数多くの国々が、バビロンが倒れるのを見て、あざけりの歌をうたっています。
イザヤ書にも、バビロンの王に対するあざけりの歌がありました。陰府に下った王のところに、地のすべての指導者の霊が蠢いていますが、バビロンの王が下ってきたことを知って立ち上がります。「彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。(14:10-11)」このようにあざけるのですが、実はこれは終わりの日のバビロンの姿であり、また、その背後にいる反キリストそしてサタンの姿であります。ですから、このハバクク書の箇所も陰府の中で国々が嘲っていると考えられます。
一つ目の忌むべきことは、「質物で己を肥やす」ことです。つまり自分のものではないものを奪い取って、それで富んでいるということです。
2:7 あなたをかむ者が突然起き上がり、あなたを揺り動かす者が目ざめないだろうか。あなたは彼らに奪い取られる。2:8 あなたが多くの国々を略奪したので、ほかのすべての国々の民が、あなたを略奪する。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ。
奪い取ったのだから、その裁きは奪い取られることによって与えられます。「目には目を」という神の報復の方式です。具体的にはメディヤ・ペルシヤ連合軍がバビロンに入り、バビロンの城を取ったことで成就しました。終わりの日には、文字通り世界の軍隊がバビロンの都を滅ぼすことが預言されています(黙示17:16)。
2:9 ああ。自分の家のために不正な利得をむさぼり、わざわいの手からのがれるために、自分の巣を高い所に据える者。2:10 あなたは自分の家のために恥ずべきことを計り、多くの国々の民を滅ぼした。あなたのたましいは罪を犯した。2:11 まことに、石は石垣から叫び、梁は家からこれに答える。
二つ目の災いは「不正な利得」です。それゆえ罰せられなければいけないのですが、「巣を高い所に据える」つまり、上手にその罰を逃れています。被害を受けた者は泣き寝入りです。けれども、「石が石垣」また「梁は家から」とあるように、バビロンの町の建物が全てのことを目撃しているということです。つまり、神がすべてを見ておられるということです。
2:12 ああ。血で町を建て、不正で都を築き上げる者。2:13 これは、万軍の主によるのではないか。国々の民は、ただ火で焼かれるために労し、諸国の民は、むなしく疲れ果てる。2:14 まことに、水が海をおおうように、地は、主の栄光を知ることで満たされる。
三つ目の災いは、「血と不正で町を築き上げ」ていることです。バビロンの町を建てる時に国々の奴隷によって造りました。けれども、その建物は後に滅ぶ定めになっており、それで「ただ火で焼かれるために労する、むなしい疲労だ」と言っているのです。
そして、「地が、主の栄光を知ることで満たされる」とは、バベルの塔のことが背景にあります。かつてのバベルの塔は、神の名ではなく自分たちの名を上げるために塔を建てようとしましたが、神はそれを止めさせました。この都が低められることによって、この都に栄光が行くのではなく、神ご自身に栄光が与えられることを示しています。
2:15 ああ。自分の友に飲ませ、毒を混ぜて酔わせ、その裸を見ようとする者。2:16 あなたは栄光よりも恥で満ち足りている。あなたも飲んで、陽の皮を見せよ。主の右の手の杯は、あなたの上に巡って来て、恥があなたの栄光をおおう。
五つ目の災いは、「友を酔わせて辱める」ことです。つまり、友好的な姿勢を見せながら、相手国を騙して、最後にその国を根こそぎ奪ってしまうことです。それに対する裁きは、やはり同じ量りによって与えられます。辱めたのだから、辱められるのです。「陽の皮」とは男性の性器の包皮のことです。無割礼の彼らをあざ笑っています。
2:17 レバノンへの暴虐があなたをおおい、獣への残虐があなたを脅かす。あなたが人の血を流し、国や町や、そのすべての住民に暴力をふるったためだ。
バビロンはレバノンの木を切り倒して進み行き、いわば環境破壊を行なっていきました。人に対してではなく自然に対しても暴力を振るっていたのです。
2:18 彫刻師の刻んだ彫像や鋳像、偽りを教える者が、何の役に立とう。物言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、何の役に立とう。2:19 ああ。木に向かって目をさませと言い、黙っている石に向かって起きろと言う者よ。それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない。
最後、六つ目の災いは偶像礼拝です。先に、彼らが自分の力を神とし、武器を神としたその愚かさに対して神は裁きを下されます。
2:20 しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ。その御前に静まれ。
「聖なる宮におられる」ということは、心に収めるべき大切な真理です。これは、この天と地が過ぎ去ろうともなお存在している、天における神の住まいです。天の御座は永遠であり、不動であり、どんなことが起こっていても、何の影響も受けません。
そして主は最後に、「全地よ。その御前に静まれ。」と言われます。バビロンの暴虐と不正、流血、貪り、そして偶像礼拝によって国々が踏みつけられました。けれども、これらのものを主は徹底的に、完膚なきまで滅ぼされます。それによって、この方のみが神であり、栄光を受けるべき方であることを全世界が知ることになります。それゆえ、「騒ぎ立てるな。わたしこそが神だ。」と宣言しておられるのです。
ですから、ハバククの訴えは、彼が願っている以上に神は答えておられるのです。確かにユダはバビロンによって滅ぼされます。けれども、それはバビロンを正しくすることでは決してなく、むしろ神はバビロンへの永遠の滅びを定めておられることを、彼は知ったのです。主は全地よ静まれ、と仰いましたが、ハバクク自身もその騒ぐ心を静めることができました。
3A 畏れ慄く祈り 3
1B 主の光臨 1−15
3:1 預言者ハバククの祈り。シグヨノテに合わせて。
神の畏れ多い御業、そのご計画を知り、ハバククはこれを神殿礼拝における賛美で用いる歌として残そうとしています。それは「シグヨノテ」という言葉から分かります。詩篇にもたくさん出てくる言葉です。
3:2 主よ。私はあなたのうわさを聞き、主よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。
ハバククは「この年のうちに」と願っています。つまり、「主よ、早く来てください。」という切望です。彼は、「定めの時のため」だということは分かっています。けれども、主の正しい裁きを願う者には、いや主ご自身を慕い求める者には、この日が早く来る事を願いながら生きるのです。パウロは言いました。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。(1コリント16:22)」何と言う、熱烈で、主を愛し慕う言葉でしょうか!そして黙示録の最後にも、「御霊も花嫁も言う。『来てください。』(22:17)」とあります。
そして、「激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。」という祈りも貴重です。ハバククがバビロンの滅びを願っているのですが、その前にユダがバビロンによって滅ぼされる出来事が先行します。したがって、この出来事の内にも憐れみを忘れないでください、私たちを全て滅ぼすことはなさらないでください、という祈りです。私たちもこの祈りが必要です。悪と不義に満ちているこの世は、神の怒りを受けるにふさわしくなっています。けれども、その中にあっても、主が一人でも多くの人をご自分の救いに招きいれてくださるよう願うのが正しい心です。
3:3 神はテマンから来られ、聖なる方はパランの山から来られる。セラ/その尊厳は天をおおい、その賛美は地に満ちている。3:4 輝きは光のよう。ひらめきはその手から放たれ、そこに力が隠されている。
ハバククは、主の輝かしい到来を預言しています。かつて主が出エジプトにおいて、また約束の地に入る時において見せてくださった大いなる力と威厳をもって、再び来てくださることを祈り求めている祈りです。この願いがそのまま、再臨のキリストの預言になっています。
ここには「テマン」から来られて、「パラン」の山から来られるとあります。テマンはエドムの町であり、死海の南にある山々のことも指します。そしてパランはテマンの西、ネゲブ地方の南の荒野です。かつて出エジプト記にて主がシナイ山に輝かしい栄光をもって現れてくださったように、主が再臨されるときも、この地方に現れてくださることを預言しています。
イザヤ書63章などにあるように、主は再臨されるときまず、エドムにあるボツラに行かれます。今のヨルダンのペトラの町です。反キリストの手を逃れてこの荒野に来たユダヤ人の残りの民を、反キリスト率いる世界の軍隊が滅ぼそうとします。そこに主が天から介入されて、彼らと戦われるのです。その時に主はこのエドムの地域からイスラエルの地域に移られて、最後はエルサレムに行かれるのですが、その栄光が今、テマンからパランに移っています。
3:5 その御前を疫病が行き、熱病はそのうしろに従う。
出エジプト記にて、エジプトに災いが下ったように、主が戻って来られる時に疫病と熱病が付き従います。黙示録16章には、その災いによって苦しんでいる人々の姿が描かれています。
3:6 神は立って、地を測り、見渡して、諸国の民を震え上がらせる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その軌道は昔のまま。
主がパランからテマンに移られているのですが、その時に地上の人々は震え上がっています。「とこしえの山」と「永遠の丘」は、そのように人間が思っている山や丘です。どんなに安定しているように見える山や丘も主の威光の輝きの中で打ち砕かれていきます。そして、「その軌道」とは、主が通られる道です。主は、天地が滅んだとして、何の影響も受けずいつもの通りです。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)」
3:7 私が見ると、クシャンの天幕は乱れ騒ぎ、ミデヤンの地の幕屋はわなないている。
「クシャン」はエチオピヤのことです。紅海のアフリカ側にいます。「ミデヤン」は、紅海のサウジアラビア側にいる民です。テマンからパランに主が移ってこられるので、紅海の両側の民が震えおののいているのです。
3:8 主よ。川に怒りを燃やされるのですか。あなたの怒りを川に向けられるのですか。それとも、あなたの憤りを海に向けられるのですか。あなたは、馬に乗り、あなたの救いの戦車に乗って来られます。
主はかつて、海に対して憤りを向けられました。紅海がイスラエルの前で分かれ、そしてエジプトが入ってきた時に戻りました。そして川に対しても向けられました。ヨルダン川が堰をなし、そこを渡ったヨシュアたちはエリコの町をことごとく滅ぼしました。
同じように主は、イスラエルを救うために天変地異をもって戻って来られるのです。「馬」とありますが、黙示録19章には白い馬に乗られるイエス・キリストの御姿を読むことができます。
3:9 あなたの弓はおおいを取り払われ、ことばの杖の誓いが果たされます。セラ/あなたは地を裂いて川々とされます。3:10 山々はあなたを見て震え、豪雨は流れ去り、深い淵はその声を出し、その手を高く上げます。
かつて士師デボラとバラクがカナン人と戦った時に、主が豪雨を降らせてキション川が氾濫し、カナン人の戦車がぬかるみにはまり、イスラエルは彼らを打ち破ることができました(士師5:26参照)。それと同じように、いやその規模をはるかに超えて、主は激しい地殻変動を再臨の際に行なわれます。そのため、新しくできた谷に川ができ、豪雨が降り、地下水からも水があふれ出て激しく流れます。
3:11 太陽と月はその住みかにとどまります。あなたの矢の光によって、あなたのきらめく槍の輝きによって、それらは動きます。
太陽と月が留まったのは、あのヨシュアが五人の王を追跡している時に、アヤロンの谷でヨシュアが神に願った時に起こった出来事です。同じように、主は再臨されるときに、天体の動きまでも変えてしまわれます。
ここまでが天変地異における神の栄光の輝きを見ましたが、次にこの力をもって反抗する諸国の民に憤りを注がれる主の御姿を読みます。
3:12 あなたは、憤って、地を行き巡り、怒って、国々を踏みつけられます。3:13 あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。あなたは、悪者の家の頭を粉々に砕き、足もとから首まで裸にされます。セラ
「ご自分の民」とはイスラエルのことです。そして「油注がれた者」はキリストのことです。キリストを通して神はイスラエルの民を救われる、という意味です。
3:14 あなたは、戦士たちの頭に矢を刺し通されます。彼らは隠れている貧しい者を食い尽くす者のように、私をほしいままに追い散らそうと荒れ狂います。3:15 あなたは、あなたの馬で海を踏みつけ、大水に、あわを立たせられます。
ボツラにいたユダヤ人たちを諸国の軍隊は追い散らそうとするのですが、その軍隊をことごとく主が打ち倒される姿です。そして地中海のような大きな水までが、主の御介入によって泡を立てています。
2B 主にある喜び 16−19
ものすごい力です。映画でも到底、映し出すことはできないものすごい光景です。これを幻の中で見たハバククは、今、震え、戦慄いています。
3:16 私は聞き、私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく。私たちを攻める民に襲いかかる悩みの日を、私は静かに待とう。
主は、ハバククの祈りの訴えに答えてご自分の威光を現してくださいました。飢え渇く魂で主を求める者には、神はご自身を現してくださいます。
そして彼は、「静かに待とう」と言っています。彼はもはや、「なぜ、こんなことをなされているのですか。」という、訴えるような祈りは捧げませんでした。「主よ、あなたのなさることをなさってください。」という祈りに変えられたことでしょう。主の御心を知った者たちが得る、幸いと平安です。
3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
ここに、驚くべきハバククの姿勢を見ることができます。彼の名の通り「喜び迎える」信仰です。
今、起こりつつあるのはユダの地における飢饉です。いちじくの木、ぶどうの木の実、オリーブの木、畑それぞれが実を結ばせません。家畜もいなくなります。これらのことが起こって、それでバビロンがユダを攻めます。けれども、彼はこれらがすべて確実に神のご計画通りに動いていることを、今は知っています。そして、将来の輝かしい主の現われのために起こっていることを知っています。だから、状況を見て絶望的になるのではなく、むしろ大いに喜んでいるのです。
この「喜び勇む」という言葉は、歓声を上げて、喜び踊っている姿です。ちょうど接点で争っている自分の応援するチームが制限時間ぎりぎりで最後の一点を入れることができた時、飛び上がって喜ぶ、そんな喜びを表すヘブル語が使われています。
これが信仰によって義と認められている者たちが持っている、大いなる特権です。とてつもない酷い状況の中にいながらにして、喜ぶことのできる力が与えられることです。この秘訣は、一つの言葉に隠されています。「主にあって」です。食べ物がことごとく無くなっていることを彼は喜んでいるのではありません。もちろん、これらは依然として悲しいことです。そうではなく、主の中で喜んでいるのです。主が与えてくださる救いの中で喜んでいるのです。
私たちは「幸せ」になりたいと願います。けれども、幸せは往々にして感情的なものであり、環境や状況に拠っているので、いつ無くなってもおかしくないものです。けれども喜びは不動です。喜びは霊的なものであり、主から来る者なのでいつまでも無くなりません。
私たちは、主にあって喜んでいるが、状況を悲しむことがあります。例えば愛する人が死んだ場合です。感情ではいなくなったので悲しいです。けれども霊では大いに喜んでいます。なぜなら、離れているのはしばらくの間であり、主が戻ってこられたら再会できるからです。感情では悲しみが、霊では喜びがあるという不思議な状態を私たち信仰者は味わうことができます。
3:19 私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために。弦楽器に合わせて。
いま説明した、悪い状況の中でも喜んでいられる人を高い崖を平気で駆け上っていく「雌鹿」に例えています。喜びは私たちを高い所に歩くことができるようにしてくれます。どんな難所であっても、主にあっては喜びの中で突き進むことができる所です。どんなに悪いことも、主のご計画の中にあっては、良いことのために一切が動いています(ローマ8:28)。だから余裕をもって勝利することができるのです。
そして最後にハバククは、これを弦楽器に合わせて、指揮者のために残している、と言っていますが、先ほども言いましたように神殿礼拝の賛美に用いるためです。すばらしいことでしょう。この信仰は単に理論的、知性的に受け入れるだけではなく、歌にして心の柱に沈みこませる必要があるからです。誰かがこれにメロディーをつけて、賛美にしてくれないかと願います。