アウトライン
1A 「現状をよく考えよ」 1
1B 自分の住まいを建てる過ち 1−11
2B 主への恐れ 12−15
2A 「わたしがあなたがたと共にいる」 2
1B 先のものにまさる栄光 1−9
2B 仕事を始めてからの祝福 10−19
3B ゼルバベルの印形 20−23
本文
今日はハガイ書1−2章を学びます。今日のメッセージ題は、「主の宮を建てよ」です。
私たちはついに、預言書の中でも、バビロン捕囚以後の預言書に入りました。イザヤ書から始まる預言書の全てが、バビロン捕囚以前また捕囚の間に預言されたものです。けれどもハガイ書、ゼカリヤ書、そして旧約聖書の最後のマラキ書は、バビロンから帰還したユダの民に対して神がお語りになった預言です。
これら三つの預言書は、再建する神殿に関わることです。主がユダヤ人をその地から引き抜かれたのですが、今度は新しく植える働きを行なわれています。その働きが、廃墟から始めなければならず、また周囲の反対に遭わなければならず、がっかりしている所を預言者が来て励ましたのが、預言者ハガイそしてゼカリヤです。マラキは、祭司たちの捧げ物が中途半端であったことを咎めているものです。いずれにせよ、主が新しく始めておられる働きに献身すべく、強く促している書物であります。
時は1章1節にありますが「ダリヨス王の第二年」です。ペルシヤの王ダリヨスのことですが、紀元前520年のことです。バビロンにいたユダの民は、すでにペルシヤの初代の王クロスによって、エルサレムへの帰還と、神殿再建の発布を受けていました。そしてユダヤ人総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの率いる、総数五万人程度がエルサレムに帰還しました。異国の地といえども、既に70年間いて住み慣れていたバビロンを離れての旅路です。
けれども彼らが戻ったエルサレムは、荒れに荒れていました。そして、神殿の再建のために必要な資材や人材は、確かにクロス王がペルシヤの国庫を開いて援助してくれたものの、かつてソロモンが建てた神殿のことを考えたら、取るに足りないものでした。けれども、彼らはまず、祭壇を立てて、いけにえを捧げ、それから神殿の礎の工事を始め、完成させることができました。
ところが彼らは、その地域住民の強い反対に直面したのです。そこには既に、「サマリヤ人」と呼ばれる人々が住んでいました。かつてアッシリヤが、滅ぼした北イスラエルに異国人を移住させて、それでイスラエル人と異国人との間に生まれたのがサマリヤ人です。彼らは、かつての信仰の一部を受け入れていましたが、異教の儀式も取り入れた礼拝を行なっていました。イエス様に対してサマリヤの女が、「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。(ヨハネ4:20)」と言ったのはそのためです。サマリヤ人はゲリジム山で礼拝を守っていました。
このサマリヤ人たちが、神殿建設の工事を始めたユダヤ人に対して、「私たちも神殿建設に関わらせてください」と申し出てきました。ユダヤ人たちは断りました。するとサマリヤ人は態度を豹変させて、ペルシヤの役人を取り組んだ、猛烈な建設阻止工作を展開させたのです。その地域の役人たちがペルシヤ王に対して、ユダヤ人たちが税を納めることをやめるだろう、そして過去そうであったように王に反逆するであろうという内容の手紙を送りました。その手紙は受け入れられて、実力行使で建設を止めさせたのです。
そして今、もう16年ぐらい経っています。けれども、エルサレムに住むユダヤ人たちに二人の預言者が立ち上がりました。ハガイとゼカリヤです。二人の預言活動によって、ユダヤ人たちは神殿建設を再開させました。「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。(5:1-2)」
そしてユダヤ人は再び、周囲の住民からの強い反対にあったのですが、今度彼らは、その圧力に屈することなく黙々と工事を続けたのです。それで反対しているものが、当時のペルシヤの王ダリヨスに手紙を送り、返ってきた王の返事は、「工事を止めさせるな、むしろ彼らの建設に必要な材料を調達せよ。」でした。このように彼らを変えた預言とは何だったのか、その言葉の力を私たちは、ハガイ書で見つけることができます。
1A 「現状をよく考えよ」 1
1B 自分の住まいを建てる過ち 1−11
1:1 ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。
先に話しましたように「第二年の第六の一日」というのは紀元前520年で、捕囚後のユダヤ人の暦に従うと、この日は8月29日です。ちょうど、ぶどう、いちじく、ざくろなど夏の収穫が取れる頃です。そして毎月一日は、新月の祭りがあるので、祭りを祝うためにユダヤ人が集まってきていました。ちなみに「ハガイ」という名前の意味はヘブル語で「祭り」です。つまり、祭りのときに「祭り」という名前の預言者が語りました。
そしてハガイの預言の言葉を聞いた指導者が二人います。一人は、「ゼルバベル」です。彼はダビデ王族の直系の子孫です。バビロンに捕え移されたエコヌヤの子が「シェアルティエル(1歴代3:17)」で、その子がゼルバベルです。マタイによる福音書1章にあるイエス・キリストの系図にも、彼が「ゾロバベル」という名前で出てきます(12節)。
ですから彼は王なのですが、今はもはや自分を王と言うことができない状況にいます。「総督」と呼ばれています。イスラエルが紀元前586年にエルサレムの町と神殿をバビロンに破壊されて、捕え移されて以降、自分たちの主権を持ち、独立国になったことはありませんでした。イエス様がオリーブの山で弟子たちにお語りになった、「異邦人の時」が始まっていました。
だからゼルバベルは、あくまでもペルシヤ帝国の一地域であるユダヤの、ユダヤ民族を代表する責任者でしかありませんでした。ネヘミヤ記を読みますと、エルサレムの町の城壁が完成して、その後、彼らは何日も、長時間、神の律法を聞いていました。律法を聞いて悲しくなったイスラエル人たちをエズラやネヘミヤが、「今は喜びなさい。主を喜ぶことがあなたがたの力なのです。」と励ましました。そして、長い祈りを捧げましたが、最後にこう締めくくっています。「私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。(ネヘミヤ9:37)」
ペルシヤの異民族に対する寛大な政策にも関わらず、イスラエル人たちは自分たちの思いのままに自分の家畜を取り扱うことができない、王たちに納税しなければならない、など、自分たちに主権が与えられていなかったのです。ですから、エルサレムに帰還したけれども、理想の状態とは程遠く、いろいろな困難があって、すぐに気落ちしかねない雰囲気がありました。そういう状況の中でハガイが語ったのです。
そしてもう一人は「ヨシュア」です。彼は、正統な「ツァドク」というアロン直系の大祭司の子孫です。彼の父エホツァダクが、586年にバビロンに捕え移されました(1歴代6:15)。この彼とゼルバベルのコンビで、神殿再建の事業を推し進めました。ゼカリヤの預言に、二人の名前が頻繁に出てきます。そして両者とも、後に来られるキリストを表しています。ゼルバベルは王としてのキリスト、ヨシュアは大祭司としてのキリストです。
1:2 「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」1:3 ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。1:4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。
主は、ハガイを通して、ユダヤの民に叱責を与えておられます。まず、「この民」と彼らを呼んでおられますね。神の所有の民であり、神は普通「わたしの民」と彼らを呼びますが、今彼らは、神の所有の民のように生きていないので、そのじれったさ、怒りを「この民」と呼んでおられます。
そして彼らは、「主の宮を建てる時はまだ来ない」と言っていました。彼らは言い訳を言っていました。主から与えられた幻はユダヤ人がエルサレムに戻って神殿を建てることでした。アブラハム、イサク、ヤコブに神が約束された地に自分たちが住み、かつダビデに約束されたエルサレムの神殿を中心とするイスラエル国を建てることでした。けれども、イスラエル人が長いこと偶像を拝み、神に背き続けたので、神殿は破壊され、土地から引き抜かれてしまったのです。
けれども、今、主にあってエルサレムに戻っています。神殿再建を始めています。けれども信仰的に前進すると、必ず障壁にぶつかります。反対に遭います。ここまでか、と言わんばかりに自分が前進するのを妨げます。彼らは物理的に建築ができなくされました。それなら、のらりくらりと生きていこう、霊的生活は送るけれどもほどほどにして、状況が良くなったらまた前進しようか、と考えるようになってしまったのです。
けれども、私たちが前進するのを止めるとき、それは立ち止まっているのではなく、後退しているのです。神の家を建てる時はまだ来ていないと言いながら、自分の家を立派にして暮らしています。これを言い換えれば、神への礼拝を第一としていなくて、自分のことで生活がいっぱいになっている、ということです。主への礼拝よりも、自分のやっていることのほうが楽しくなっています。
1:5 今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。1:6 あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。
「現状をよく考えよ」は、新共同訳では「自分の歩む道に心を留めよ」と訳されています。自分が一度立ち止まって、はたして自分はいったい何をやっているのか考えてみるとき、吟味してみる時が必要です。日常生活の中できちんとやっていると思っていても、よく考えてみたら、「あれっ?どんでもないことをやっているな?これは、神様の目から見たら罪ではないか?このことも、神さまに喜ばれないな?」と気づきます。
ここのユダヤの人たちは、神ではなく自分自身を求めていたのは、いつの間にか無意識のうちにやっていたことでしょう。突然、方向転換するのは、よっぽどのことがない限りしません。だれか他のクリスチャンがやっていることにつまずいてしまってもう信仰は捨てるとか、意識的な背信はあることはあるでしょう。けれども、いつの間にか漂流してしまっていることのほうが圧倒的に多いのです。パウロは、コリントにある教会への手紙でこう言いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(2コリント13:5)」
そしてハガイは、「現状をよく考えれば、次のことに気がつくはずだ。多く種を蒔いているのに、収穫量は少なかったではないか?」ということを言っています。この時は8月の終わりで、夏の収穫量の少なさにすぐに気がついたことでしょう。そして、食べることにおいても、飲むことにおいても、着ることにおいても、満足できていません。
皮肉ですが、これらのことを第一にして生きてきたのに一向に満たされないのです。イエス様が同じことを言われましたね。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」優先順位が変わると、欲しいものも手に入らないのです。
1:7 万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。
「宮を建てよ」というのは、「わたしを第一にせよ、わたしを礼拝せよ。」ということです。そうすれば「わたしは喜ぶ」と言われています。
私たちは、神を喜ばす生活以外に、自分を満たすことはできません。黙示録4章に、天で神を賛美し、礼拝している場面が出てきます。そこで24人の長老がこのように言いました。「「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(11節)」ここの「あなたのみこころのゆえに」は、「あなたの悦びのゆえに」とも訳すことができます。神がご自分の悦びのゆえに、万物を創造し、存在させておられるのです。
ですから、私たちは自分を造られた神を喜ばすことによって、初めて造られた目的を果たすことができます。飛行機に車輪があるからといって、それを地上で走らせるだけに使ったらどうでしょうか?速度は出ないし、小回りは全然聞かないし、両横に飛び出している翼は邪魔になります。それは、空を飛ぶために飛行機は作られているのであって、車輪も離陸を助けるために作られているからです。ですから、自分を喜ばせているとき生活は空回りします。しかし神を喜ばせているとき、造られたとおりに生きているので自分自身も喜ぶことができます。
1:9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。
満たされない生活は、実は主ご自身が引き起こしていたものでした。「わたしはそれを吹き飛ばした」と言われました。主は、ユダヤ人に対して注意喚起をされていたのです。自分たちで、「このままではいけない」と悟ることができるために、あえて彼らの活動が成果を上げないようにされていました。
私たちが、自分の中で空回りしている生活を送っているか、それが実は主の呼びかけの徴であるのか、いつ気づくのかが大事になります。自分は平気だと思っている、自分は大丈夫だと思っている、自分はちょっと調子が悪いかな程度で見逃している、いろいろな徴候があるでしょう。私たちが立ち止まって、よく吟味して考えることが大事です。
1:10 それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。1:11 わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。」
イスラエルは地中海性気候の地域に位置します。したがって冬は雨季、春夏は乾季の気候です。作物は乾季に育てることになりますが、そのときの水分補給で重要なのは「露」です。主はそれを降らすことをお止めになりました。
10節と11節での描写は、モーセを通して主が警告しておられた災いそのものでした(例:レビ記26:19‐20)。そして、まさに捕囚前にイスラエルに起こった出来事でした。今、帰還したユダの残りの民は、敵にエルサレムを包囲されて、その中で食料がないために自分の子供を食い、バビロンに捕え移された、恐ろしい経験をして生き残った人々です。これらのことが、自分たちが神に聞き従わず、神に背いたために、これらのことが起こったことを、身をもって知っていました。だから悔い改めつつ、安定した生活を捨てて、エルサレムに帰還し神殿を再建しようとしました。
だから、まさか自分たちが過去に自分たち、父と母たちが犯した過ちを繰り返しているとは思っていなかったでしょう。そして、主が同じように懲らしめを与えはじめておられることは、思いもよらなかったでしょう。
2B 主への恐れ 12−15
1:12 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。
すばらしいですね、「聞き従った」と書いてあります。これまで読んできた預言書の中で、ここまで迅速に主に聞き従ったと書かれている箇所は本当に少ないです。ほとんどが、聞き従いませんでした。
彼らが聞き従うことのできた理由の一つとして、新鮮な神の御声を聞くことができたことが挙げられます。「彼らの神、主の御声」と書いてありますね。先ほどから、「主のことばがあった」とか、「主の御告げ」とか「万軍の主はこう仰せられる」という表現が頻繁に出てきています。預言書には多い表現ですが、ことハガイ書はこんなに短い預言書なのに非常にたくさん出てきます。
かつては御言葉の飢饉があったことをアモスが預言しました。8章11節に、「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。(8:11)」主の言葉、主の御声が聞こえなくなっているのは、パンや水に飢え渇くのと同様に飢饉であります。
そしてもう一つ、ユダヤ人が聞き従うことができた理由は、ハガイが主から遣わされた預言者であることを認め、彼の言葉は主からのものであると受け入れていたからです。「彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った」とあります。
パウロがテサロニケの教会の人々に手紙で、彼らが愛と信仰と希望に突出していることをほめていますが、その理由を次のように述べています。「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(1テサロニケ2:13)」
そして彼らが聞き従った三つ目の理由として、「主の前で恐れた」が挙げられます。神への健全な恐れは非常に大切です。恐怖ではなく畏怖の念です。ハガイは、「万軍の主」という神の呼称を使って、歯向かう者に対してはことごとく打ち砕く力を持つ方として神を紹介しています。
聖書に、人への恐れと神への恐れを比較している箇所があります。イエス様が弟子に言われた言葉です。ルカ12章です。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(4−5節)」ゲヘナに投げ込まれる権威を持つ方です。
そして聞いていたユダヤ人たちは、反対するサマリヤ人を恐れていました。けれども、その恐れのせいで、神の宮をないがしろにしていました。箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)」とあります。人ではなく神を恐れます。
1:13 そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。・・主の御告げ。・・」
「わたしは、あなたがたとともにいる」この単純な約束だけで、全ての働きは成功します。信仰によって再び前に進もうと思ったとき、主が必ず与えてくださる約束です。
主が復活された後、弟子たちに与えられた大宣教命令があります。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:18-20)」
ここにいるのは11人の弟子、つい数週間前に十字架につけられるイエス様を見捨てた人たちです。そして、11人が宣教対象にしなければいけないのは「あらゆる国々の人々」です。当時は、異邦人に福音を語ることなど考えも及びませんでした。自分とはまったく異なる価値観を持った人々を、異なる文化や言葉を持った人々を弟子にしていかなければならないのです。自分の力、勇気、知恵では到底できない、とてつもなく大きく、あまりにも遠く感じる目標です。
けれども、それを可能にするイエス様の一言が、「わたしは、いつも、あなたがたとともにいます。」でした。天と地に一切の権威が与えられている主がともにおられて、彼らを通して主が行なわれるのであれば、この使命を果たすことはできます。事実、福音は世界中に伝えられました。同じように、私たちが信仰に一歩を踏み出すときに、主は、「わたしは、ともにいる」とおっしゃってくださいます。
1:14 主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。1:15 それは第六の月の二十四日のことであった。
主が、彼らの心を奮い立たせられました。本当に、こんな短いメッセージであったのに、ハガイ書は預言書の中でも二番目に短い書物です。彼が預言したのは、第六の月から第九の月までの、実に三ヶ月です。私たちが一人の変わるのを見るのに、何年間、何十年間も経つことがあります。けれども、ハガイの言葉は人々の心を動かす力がありました。こうした言葉を聖書では「勧め」と言います。人々を行動に移させるような言葉です。ローマ12章8節に、「勧めをする人であれば勧め」なさいとあります。
そして彼らが仕事に取りかかった日にちは「二十四日」とあります。ハガイの預言を聞いた23日後です。おそらくその間、神殿建設の材料を調達していたのでしょう。
2A 「わたしがあなたがたと共にいる」 2
そして2章は、実際に仕事に取りかかった後に与えられた神の約束です。
1B 先のものにまさる栄光 1−9
2:1 ダリヨス王の第二年の第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。
今の暦では10月17日にあります。この仮庵の祭りの最終日になります。十五日から仮庵の祭りが始めて七日間行ないますが、二十一日は七日目になります。「祭り」という意味を持つハガイが、再び祭りの時に預言を行ないました。
彼らは、工事を再開させてから約一ヶ月弱経っています。すでに土台は据えられていましたから、その上に神殿を建て始めていました。
2:2 「シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者とに次のように言え。2:3 あなたがたのうち、以前の栄光に輝くこの宮を見たことのある、生き残った者はだれか。あなたがたは、今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。
初めのハガイの預言は、ゼルバベルとヨシュアに対しての言葉であると書かれていましたが、ここでは「民の残りの者」も加えられています。なぜなら、かつてのソロモンの神殿の目撃者である老人たちに主がお語りになりたかったからです。
バビロンによって神殿が破壊されたのは、紀元前586年です。今が紀元前520年ですから66年前の出来事でした。70歳後半以上の老人であれば、当時の神殿を思い出すことができます。
ソロモンが建てた神殿の栄華は、息が止まるばかりのものでした。シェバの女王がソロモンのとこに表敬訪問に来たときのことを思い出してください。彼女は、「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさよりはるかにまさっています。
(1列王10:7)」と言いました。そして、すべてが金で覆われており、銀は石ころのようなものにみなされていた、と書かれています。
バビロンに神殿を滅ぼされたときまでには、多くの財宝を周囲の国への貢ぎ物として渡していましたが、それでもその栄華は見劣りするものではありませんでした。
エズラ記に興味深い記事があります。エルサレムに戻ってきた人々が、神殿の土台を建てることができたので、その感謝と賛美をささげるために集まってきました。そこで、祭司たちが賛美を指揮したのですが、一方では喜びの叫び声がして、他方では大きな泣き声が聞こえました。喜び叫ぶ声は、ソロモンの神殿を目撃していない、比較的若い人々からのものです。礎を見て、こんなにすばらしいものが出来た、と喜んだのです。
同じ礎を見て、年寄りの人々は嘆き悲しんだのです。ソロモンの神殿に比べたらあまりにも見劣りするものだったからです。エズラ記3章には、「そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。
(3:13)」とあります。
主は、年寄りたちの嘆きを聞いて、今のちっぽけな神殿に少しがっかりしてきている人たちもいたことでしょう。それでこれら気落ちしている人々に、「あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。」と仰っています。
私たちが主にあって信仰的に前進するとき、主のわざに励んでいるとき、私たちをがっかりさせてしまう要素は、自分の目に見える現状です。あまりにも小さい働き、あまりにも小さい事柄にしか見えないことだらけです。主が示してくださった幻とは比べ物にならず、情けなくなります。
また、他の人との比較もすることがあるでしょう。あの人はこんなに成功しているのに、自分はいったい何なんだろう。パウロは、コリントにある教会に対して比較意識を戒めました。「彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。(2コリント10:12)」
2:4 しかし、ゼルバベルよ、今、強くあれ。・・主の御告げ。・・エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。・・主の御告げ。・・仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。・・万軍の主の御告げ。・・
見てください、「強くあれ」という励ましの言葉を、一人ひとりにかけておられます。ゼルバベルに、ヨシュアに、そしてすべての民にそれぞれに対して呼びかけておられます。
聖書の中には、この「強くあれ」という言葉がたくさん出てきます。モーセの後継者であるヨシュアは、モーセが死んで、自分ひとりでイスラエルを率い、約束の地で先住の民と戦わなければいけません。それで主が、「ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。(ヨシュア1:7)」ダビデの息子ソロモンに対しても同じです。これから一人で神殿建設の事業に携わらなければいけないとき、「私は世のすべての人の行く道を行こうとしている。強く、男らしくありなさい。(1列王2:2)」とダビデは言いました。そしてダニエルが、主イエス・キリストご自身と思われる主の使いに会って、体の力がなくなって倒れてしまったとき、「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。(ダニエル10:19)」とこの方は言われました。使徒パウロは、コリントにある教会の人たちに、「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。(1コリント16:13)」と言いました。
これからどうなるか分からない、しなければいけないことがあまりにも大きすぎる、やっぱり無理だ、とうろたえそうになっているとき、恐れているとき、主は私たちを「強くありなさい」と励ましてくださいます。
そして、パウロは、私たちの内なる人が、神の栄光の豊かさによって強められることを話しています。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。(エペソ3:16)」ハガイは次から、再建する神殿にある豊かな神の栄光を預言し始めます。
2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。
主の御霊が働いておられます。有名な聖句がありますね、「『権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」と。この御言葉は、ゼルバベルが神殿を土台の上に建てることに際しての神の約束です。そして主は、五万人ぐらいしかいないユダヤ人の集団に、出エジプトの御霊をもって臨まれています。この御霊はイスラエルを、紅海を二つに分けて、エジプトの精鋭部隊を海に沈ませました。
その時の「約束」は次の通りです。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:5-6)」これは、紀元前1445年ごろに語られた主の言葉ですが、千年近く経ったイスラエル人たちに同じ約束をしてくださっています。
もうとっくの昔に葬り去られていると思ってもおかしくない約束です。これだけ長い間、神に背いて、バビロンによって約束の地から抜き取られて、イスラエル人には、ほとんど何も残っていないのです。かつて、神の約束を聞いたのは約50万人のイスラエル成年男子でした。女子供を合わせたら二百万、三百万人いたことでしょう。今はたったの五万人です。しかし、主は初めの約束を決して忘れていません!
2:6 まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。2:7 わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。
これは終わりの時についての幻です。これまでも、大患難時代に天変地異が起こる幻を読んできました。そしてヘブル書では、このハガイ書の終わりの日の幻を引用して、著者がこう語っています。12章26節からです。「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この『もう一度』ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。(26-28節)」
そして終わりの日は、天変地異だけではなく、国々が揺り動かされます。大患難を生き残った異邦人たちは、エルサレムに建てられた神殿のために自分たちの財宝を携えてくることが他の箇所にも預言されています(ゼカリヤ14:14、イザヤ60:4‐5)。
そして、「わたしはこの宮を栄光で満たす。」と主は言われますが、これは財宝による輝きもあるかもしれませんが、何よりも、主ご自身が宮の中におられて、その栄光が放っていることを意味します。モーセが幕屋を完成させたとき栄光が満ちましたし、ソロモンが神殿を建てたときも、栄光の雲が宮に満ちて、奉仕者が中に入ることができませんでした。神の御国における宮もまた、主ご自身の輝きと栄光に満ちます。
2:8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。・・万軍の主の御告げ。・・
よく考えれば、そうなのです。ユダヤ人たちの手にあるのは、ソロモンの神殿で使われた金銀に比べたら、相当少なかったでしょう。しかし、考えてみれば、世界にあるすべての金銀は主ご自身のものです。
私たちも貧乏根性を払拭すべきでしょう。教会堂が小さい、財政は貧しい、人数も少ない、などと言っているなら、一度、外の空気を吸うと良いのです。その外にあるすべてのものは、主のものなのです。すべてが主のものであり、私たちはその主の僕なのです。
2:9 この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう。万軍の主は仰せられる。わたしはまた、この所に平和を与える。・・万軍の主の御告げ。・・」
ユダヤ人の老人は、今の建築中の神殿とかつてのソロモンの神殿を比べていました。けれども、主はかえって、ソロモンの神殿よりもさらにすぐれた、栄光に輝く神殿となると約束されています。終わりの時の神殿の青写真が、エゼキエル書40章以降にありますが確かにソロモンの神殿をはるかに凌ぎます。
そして、「この所に平和を与える。」と約束されています。今、周囲に神殿建設に反対する敵がいます。また、彼らの中でも労苦と内なる戦いの中にいました。平安が必要でした。そこで主は平和を約束されています。具体的には、終わりの時にキリストが平和の君として世界を支配してくださいます。
このようなすばらしい栄光を、主は少し気落ちしているユダヤ人たちに示されました。しかし、彼らが実際に建てる神殿のことではないじゃないか、と疑問に思う人がいるかもしれません。ずっと後のことを話されても、仕方がないよ、と思われるかもしれません。
いや、これが私たち人間の業と、神の御業の違いなのです。ゼルバベルたちにとって、自分たちで建てる神殿など、ある意味、大して問題ではないのです。所詮、自分たちの作品であります。例えば、私たちが教会堂を建てて、それが天地万物を造られた神ご自身の栄光で輝いているでしょうか?違いますね。
あるいは、ある人がイエス様を信じて救われましたが、その喜びは、教会の人たちの人数が少ないから、十数人のクリスチャンだけに分かち合われるだけかもしれません。その喜びは十数人だけのものでしょうか?違いますね。私たちは、一人が悔い改めたら、天において大勢の御使いが祝宴を開いていることを知っています。ものすごい歓声と喜びが天に鳴り響いているのを知って、それで一緒に喜んでいるのです。
ゼルバベルたちが建てる神殿は、その神殿の栄華を思ってのことではありません。むしろ、終わりの時に、主ご自身が建てて、主ご自身が世界の財宝を集められて、主ご自身が輝く栄光に満ちる将来の希望に裏打ちされて、建てるものなのです。この信仰と希望に裏打ちされた仕事、奉仕が、霊的な神の国の進展に寄与するのです。パウロは神の国は、「義と平和と聖霊による喜びだからです。(ローマ14:17)」と言いました。
2B 仕事を始めてからの祝福 10−19
2:10 ダリヨスの第二年の第九の月の二十四日、預言者ハガイに次のような主のことばがあった。
今の暦では12月18日です。栄光の神の宮の預言がなされてから、約二ヵ月後の預言です。
ところで、ハガイが1節から9節までの預言をして、そしてこの10節からの預言をする間に、もう一人の預言者ゼカリヤが預言しています。次のゼカリヤ書1章1節に、「ダリヨスの第二年の第八の月に」とあります。ゼカリヤが第八の月に八つの幻の預言を行い、さらに第九の月に預言したことが7章以降に書かれています。神が、神殿建設の工事をしているユダヤ人たちを、どんどん励まし、慰めておられる様子が伝わってきます。
2:11 「万軍の主はこう仰せられる。次の律法について、祭司たちに尋ねて言え。2:12 もし人が聖なる肉を自分の着物のすそで運ぶとき、そのすそがパンや煮物、ぶどう酒や油、またどんな食物にでも触れたなら、それは聖なるものとなるか。」祭司たちは答えて「否。」と言った。2:13 そこでハガイは言った。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるか。」祭司たちは答えて「汚れる。」と言った。
これは、祭司らが聖所で奉仕するときの規定についての質問です。一つ目の質問についてですが、レビ記6章にこう書いてあります。「罪のためのいけにえをささげる祭司はそれを食べなければならない。それは、聖なる所、会見の天幕の庭で食べなければならない。その肉に触れるものはみな、聖なるものとなる。(26-27節)」聖なるものとなった肉に触れると聖められるのですが、では聖められたすそに、他の食べ物が触れたら、それも聖められるのか、という質問です。祭司の答えは「否」です。
けれども、その逆は真です。だれかが死んで、葬儀のときにその死体を運んだりしなければいけません。その人は夕方まで汚れていて、その人が触ったものも汚れることが律法で定められています。
ここに「聖め」と「汚れ」についての、非常に大切な原則が二つあります。一つは、「聖め」は他の人から他の人へ伝播させることはできない、ということです。一人ひとりが、聖なる方、神に触れられないかぎり、聖められることはない、ということです。私たちが、教会の中にいて、他のクリスチャンたちといっしょにいるから自分は聖いのだ、と考えたらそれは大きな間違いです。いっしょにいれば大丈夫、というのは、キリスト教の中ではまったく通用しません。
そしてもう一つの原則は、「汚れ」は伝染する、ということです。汚れの源泉にいなくても、源泉によって汚れたに触れたら、自分も汚れます。私たちは、自分が汚れたことをしなければ、汚れたものの近くていても大丈夫だと思ってしまいます。また、汚れたものを見ても、実際に行なわないのなら大丈夫と思ってしまいます。けれども必ず、それはまず私たちの思いを蝕みます。それから私たちの感情、霊的状態、そして最後に物理的にもその腐敗が現れます。
2:14 ハガイはそれに応じて言った。「わたしにとっては、この民はそのようなものだ。この国もそのようである。・・主の御告げ。・・彼らの手で作ったすべての物もそのようだ。彼らがそこにささげる物、それは汚れている。2:15 さあ、今、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。主の神殿で石が積み重ねられる前は、2:16 あなたがたはどうであったか。二十の麦束の積んである所に行っても、ただ十束しかなく、五十おけを汲もうと酒ぶねに行っても、二十おけ分しかなかった。2:17 わたしは、あなたがたを立ち枯れと黒穂病とで打ち、あなたがたの手がけた物をことごとく雹で打った。しかし、あなたがたのうちだれひとり、わたしに帰って来なかった。・・主の御告げ。・・
主は再び、彼らが神殿建設を再開する前の彼らの状態を思い起こさせています。なぜ、そうなってしまったのかを、聖めと汚れの原則に照らして説明しておられます。彼らは、祭りを行ない、いけにえを捧げていましたが、ただ一つ、主の家を建てることをないがしろにしていたという心の中の汚れがありました。そのために、どんなに良い行ないをしたところで、心の中の一つの汚れが他のものに伝わり、彼らが行なう全てのことに影響を与えていたのです。
私たちはとかく、自分のしている悪いことは、他に行なっている数多くの良い行ないによって相殺されると考えてしまいます。個人的に隠れたところで行なっている罪があるけれども、他の人々には悪いことをしていないし、教会生活も守っている。だから相殺される、と思ってしまいます。けれども、神にとっては、これらは天秤ではないのです。一つに悪を行なっていれば、他のすべての正しいことが無き物に数えられるのです。
神が願っておられるのは、私たちが行なっているすべての事柄を、生活の全ての領域に渡って神に明け渡すことです。主の前に、事実そうであるように裸でいることであります。神の光の前に出て行くことです。そしてわずかな心の汚れであっても、それをキリストの血によって洗い清めていただくことによって、初めて神の子供として歩むことができます。
2:18 さあ、あなたがたは、きょうから後のことをよく考えよ。すなわち、第九の月の二十四日、主の神殿の礎が据えられた日から後のことをよく考えよ。2:19 種はまだ穀物倉にあるだろうか。ぶどうの木、いちじくの木、ざくろの木、オリーブの木は、まだ実を結ばないだろうか。きょうから後、わたしは祝福しよう。」
1章では、「現状をよく考えよ」と主は言われましたが、ここでは「今日から後のこと」です。いわば、カレンダーに印を付けておきなさい、と命じられています。
収穫してから三・四ヶ月経過していますが、すでに穀物倉には種がなくなっていました。それだけ不作だったのです。そして、ぶどうの木も、いちじくの木も、ざくろの木も、オリーブの木も、実を結ばないまま冬を迎えています。
もう神殿建設から三ヶ月経ちました。状況は変わらないように見えます。しかし主は、今日からカレンダーに印を付けなさい。そして、よく考えたら、この日から主が確かに私たちを祝福された、ということが分かるようにさせる、とおっしゃられています。
私たちも同じです。私たちは、悔い改めて主に従う、あるいは主からずっと離れていたけれども戻ってきて主に従うことを始めて、すぐには大きな変化を見ることはできないでしょう。ちょうど作物のように、時間が経って始めて、自分の生活から実が結ばれていることを確認するでしょう。状況はあまり変化しているように見えなくても、私たちが悔い改めたら、確実に内側から変えてくださるのです。実を結ばせるには時間がかかります。けれども、必ず祝福されます。
3B ゼルバベルの印形 20−23
2:20 その月の二十四日、ハガイに再び次のような主のことばがあった。
今の祭司に対する質問の預言と同じ日の二十四日です。
2:21 「ユダの総督ゼルバベルに次のように言え。わたしは天と地とを揺り動かし、2:22 もろもろの王国の王座をくつがえし、異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。
先ほど天地を主が揺り動かされて、さらに国々を揺り動かされる預言がありましたが、その具体的な内容を、主はゼルバベルに語っておられます。ここで読むように、異邦の民の国々がくつがえされ、その軍隊も倒れる、というものです。彼には必要な励ましでした。周囲は敵に囲まれています。これから自分たちが襲われるかもしれません。しかし主は、これらの異邦人の攻撃をすべて無き物にすることを約束されています。
まず、「もろもろの王国の王座をくつがえ」すということは、言い換えれば政権転覆のことです。イラク戦争によって、フセイン政権が倒れた時、世界は大きく騒ぎましたが、今度は一政権ではなくすべての政権転覆が起こるのです。その後に、新しい秩序、キリストの御国が立てられます。ネブカデネザルの見た夢では、人の像全体が、一つ石によって粉々に砕かれ、その石が大きな山となったという幻で、このハガイが言っている事を言い表していました。黙示録11章15節では、天において大きな声々が起こってこう言いました。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
そして主は、「異邦の民の王国の力を滅ぼし、戦車と、それに乗る者をくつがえす。」と言われます。政権転覆は、軍事的攻撃によってもたらされます。ハルマゲドンの戦いがそれです。ユーフラテス川がかれて、東からの王たちがやって来て、メギドの平野に世界の軍隊が召集します。しかし再臨の主が、これらの軍隊をことごとく滅ぼされます(黙示19:11‐16、イザヤ34:1-3)。
さらに主はゼルバベルに、「馬と騎兵は彼ら仲間同士の剣によって倒れる。」と言われました。イスラエルが過去に異邦の民と戦ったときも、主は同じように同士討ちをさせました。ギデオンが三百人でミデヤン人と戦ったときが、そうでした(士師7:22)。終わりの日も同じです。ゼカリヤを通して、主はこうお語りになっています。「主は、エルサレムを攻めに来るすべての国々の民にこの災害を加えられる。彼らの肉をまだ足で立っているうちに腐らせる。彼らの目はまぶたの中で腐り、彼らの舌は口の中で腐る。その日、主は、彼らの間に大恐慌を起こさせる。彼らは互いに手でつかみ合い、互いになぐりかかる。(ゼカリヤ14:12-13)」
2:23 その日、・・万軍の主の御告げ。・・シェアルティエルの子、わたしのしもべゼルバベルよ、わたしはあなたを選び取る。・・主の御告げ。・・わたしはあなたを印形のようにする。わたしがあなたを選んだからだ。・・万軍の主の御告げ。・・」
すごいですね、三度も、「主の御告げ」という言葉が一節の中に出ています。そして、「わたしの」「わたしは」という一人称を四回も使っておられます。今、主はゼルバベルに限りない愛情を注いでおられます。
「あなたを選び取る」と主は言われていますが、それは具体的には王として選び取ることです。「印形のようにする」という言葉からそれが分かります。ゼルバベルは、先に話しましたようにダビデ直系の末裔でした。けれども今、総督でしかありません。しかし神の目にはダビデの子孫であり、神の国を治める世継ぎの子、イエス・キリストにあって成就します。ゼルバベルはイエス・キリストを予め表すように、神様から選び取られたのです。
ゼカリヤ書には、大祭司ヨシュアと並んでゼルバベルが「二人の証人」と呼ばれています。ヨシュアは、大祭司としてのイエス様の姿を、ゼルバベルは王としてのイエス様の姿を表す証人でした。あまりにもお粗末な神殿であっても、主の目にはあらゆる愛情が注がれていたのです。
こうして、彼らは主からの励ましを受けて神殿建設に取り組みました。エズラ記に戻りますと、彼らが建設を開始してから、さっそく地域の役人がやって来て邪魔をしようとしました。けれども彼らは黙々と工事を進めました。「ペルシヤ初代王クロス様が、布告を出したのだ。」とだけ伝えました。それで総督らは、ペルシヤの王ダリヨスに手紙を送って、この旨を伝えました。ダリヨスは文書保管所を調べさせたら、はたしてクロスの発布の記録が見つかりました。そこでダリヨスは、総督らに「彼らに手を出すな。そして、彼らの建設費用を、国から出せ。いけにえのための家畜なども用意せよ。」と命じたのです。
それでハガイとゼカリヤの預言があってから4年後、紀元前516年に神殿が完成しました。エレミヤの預言どおり、神殿が破壊されてからちょうど70年後です。彼らは喜んで奉献式をお祝いし、また過越の祭りを楽しみました。エズラ記6章22節にこう書いてあります。「そして、彼らは七日間、種を入れないパンの祭りを喜んで守った。これは、主が彼らを喜ばせ、また、アッシリヤの王の心を彼らに向かわせて、イスラエルの神である神の宮の工事にあたって、彼らを力づけるようにされたからである。」主が力づけ、喜ばせてくださいました。
主は、どんな小さな集団でも、それに心を留め、限りない愛情を注いでくださいます。どんなに些細に見える新しい事であっても、信仰による前進は神にとってとてつもなく大きな出来事なのです。
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