私たちは前回、神様の全世界的なご計画について見てきました。24章から始まる、終わりの時における神のご計画です。主が大患難を地上に下されて、それからイスラエルの残りの民を救われます。残りの民が救われたことをうたう歌が25章と26章にありました。今日はその続きです。
1A イスラエルの回復 27
1B 蛇への罰 1
27:1 その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。
主が数々の裁きを地上に下されましたが、地上の罪悪の背後に常にいた悪魔を最後に滅ぼされます。ここに「レビヤタン」とありますね。レビヤタンは、ヨブ記の最後のところで神がヨブにお見せになった、火を噴く怪物のことです。その描写をじっくり読むと、それが竜であることが分かります。
竜というと、私たちは架空の動物であると考えます。けれども世界中に竜の伝説があり、架空の動物にしてはあまりにもありふれています。聖書では、ここにあるとおり竜が存在していたことを教えています。蛇がエデンの園でエバを惑わしましたが、今私たちが見るような地を這う姿は、主が蛇を呪われた後のことです。その前はどうだったのかと言うと、おそらく竜だったのではないかと考えられます。ここにもあるとおり、竜でもあり、そして蛇なのです。
そしてこの動物の背後で働いている存在の正体は、黙示録12章に書かれていますが、サタンであり悪魔です。主は最後に、悪魔を縛り、底知れぬ所に閉じ込めることを黙示録20章のところで約束してくださっています。
2B ぶどう畑の実 2−6
27:2 その日、麗しいぶどう畑、これについて歌え。27:3 わたし、主は、それを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている。27:4 わたしはもう怒らない。もしも、いばらとおどろが、わたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。
ここから、神ご自身の歌が始まります。25章と26章は、救われたイスラエルが神に対してうたった歌に対して、ここ27章は主ご自身が歌をうたっておられるのです。すばらしいですね、私たちは自分の神への思いや賛美を歌にして表現するのですが、主ご自身も歌にして、御自分の愛を民に伝えてくださるのです。
そしてここで主は、イスラエルを「麗しいぶどう畑」に例えておられます。覚えていますか、イザヤ書の5章のところで、主は同じようにイスラエルをぶどう畑に例えておられました。その時は、イスラエルが良いぶどうではなく酸いぶどうを実らせたことを、主が嘆いておられました。「甘いぶどうがなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。(5:2)」と言われました。けれどもここでは確かに、イスラエルが実を結ばせ、神がその実を喜んでおられることを歌っておられます。
同じように主は確かに、私たちを成長させてくださいます。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)」イスラエルと同じように、私たちも良い実ではなく悪い実を結ぶことがあるでしょう。以前と何ら変わらない生活を送っていたら、イスラエルと同じです。けれども、主は私たちが実を結ぶからこそ、前もって選んでくださったのです。私たちが主のうちにとどまれば、必ず主が私たちの内に実を結ばせてくださいます。
27:5 しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。
今、主は、イスラエルに敵対する勢力に対して和解を呼びかけておられます。3節、4節で、ぶどう畑を台無しにする勢力と主が戦われることが書かれていますが、これらの敵対する勢力も、御自分の守りの中に入りたければ、迎え入れるとおっしゃっているのです。
これはすばらしい福音です。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった(ローマ5:8)」とありますが、私たちが神に敵対している時でさえ、和解の手を伸ばしておられます。私たちが神に敵対すれば、必ず報いがあります。死ななければならず、死後に裁かれます。けれども、私たちが降伏さえすれば主は豊かな祝福を注いでくださるのです。
27:6 時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。
これは物理的にも、霊的にも成就する預言です。物理的には、今、その一部をイスラエルの国で見ることができます。イスラエルは四国、九州と同じくらいの面積しかありませんが、世界で有数の花や果物の輸出国です。これが終わりの時には完全な形で成就します。
そして霊的に、神に対する実を世界に広げる役目をイスラエルは担います。神がいかにすばらしい方かを、その栄光を人々に分かち合っていくのです。
ここで「時が来れば」という言葉があります。実には時が必要です。すぐ目で見える形で出てこないのが特長です。私たちは、すぐに何か結果がでることを望みます。けれども、じっくり時間をかけて育てる必要があります。これは地道な作業です。けれども確実な道です。必ず結果が出てくる方法です。
3B 罪の除去 7−13
27:7 主は、イスラエルを打った者を打つように、イスラエルを打たれただろうか。あるいは、イスラエルを殺した者を殺すように、イスラエルを殺されただろうか。
これは、異邦の諸国に対する神の裁きと、イスラエルを懲らしめる時の神の裁きの違いを述べています。バビロンがイスラエルを打ちましたが、バビロンは永遠の、完全な破壊を主は宣言されました。けれどもイスラエルは違います。残された者が回復して、国全体も回復することができるように、救いと憐れみを与えておられます。
27:8 あなたは彼らを追い立て、追い出し、彼らと争い、東風の日、激しい風で彼らを追放された。
アッシリヤ捕囚やバビロン捕囚など、離散のことです。
27:9 それゆえ、次のことによってヤコブの不義は赦される。祭壇のすべての石を粉々にされた石灰のようにし、アシェラ像と香の台をもう立てなくすること、これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ。
罪の赦しを得るために、罪の除去が行なわれます。私たち人間は、罪の赦しと聞くと、罪を許可する、罪を許容すると考えます。けれども神は違います。罪を捨て、そして憐れみを受けるのです。
27:10 城壁のある町は、ひとり寂しく、ほうっておかれる牧場のようになり、荒野のように見捨てられる。子牛はそこで草をはみ、そこに伏して、木の枝を食い尽くす。27:11 その大枝が枯れると、それは折られ、女たちが来てこれを燃やす。これは悟りのない民だからだ。それゆえ、これを造った方は、これをあわれまず、これを形造った方は、これに恵みを与えない。
ユダヤ人が離散の民になった後、イスラエルの土地がどのようになったかを述べている箇所です。このように主はイスラエルを打たれましたが、その次に回復を与えられます。
27:12 その日、主はユーフラテス川からエジプト川までの穀物の穂を打ち落とされる。イスラエルの子らよ。あなたがたは、ひとりひとり拾い上げられる。27:13 その日、大きな角笛が鳴り渡り、アッシリヤの地に失われていた者や、エジプトの地に散らされていた者たちが来て、エルサレムの聖なる山で、主を礼拝する。
離散の民が帰還することができるようになる約束です。ユーフラテス川からエジプト川というのは、当時はアッシリヤからエジプトまでの領域です。これらの地域に散らばったユダヤ人が、主がその土地を裁かれる時、エルサレムに連れて来られます。
そしてこの二つの川の名前は、主がアブラハムに約束された所有の土地と同じですね。主がアブラハムに約束された地は、北はユーフラテス、南はエジプトの川です。そこまですべてが主のものとなり、そしてイスラエルのものとなります。
2A 主の嘆き 28−29
そして28章から、イザヤ書全体の中で大きな区切りが始まります。ここまで全世界的な働きへと幻が広がっていきましたが、再び焦点はイスラエルとユダ、特にユダとエルサレムに戻ります。そしてこれまで話されてこなかった、彼らが抱いていた問題について話されます。
1B エフライムの酔いどれ 28
1C 肥えた谷 1−6
28:1 ああ。エフライムの酔いどれの誇りとする冠、その美しい飾りのしぼんでゆく花。これは、酔いつぶれた者たちの肥えた谷の頂にある。28:2 見よ。主は強い、強いものを持っておられる。それは、刺し通して荒れ狂う雹のあらしのようだ。激しい勢いで押し流す豪雨のようだ。主はこれを力いっぱい地に投げつける。
イザヤ書にこれまでも、「ああ」という言葉が出てきましたね。「災いだ」と訳すこともできる言葉です。そしてその対象は「エフライム」です。北イスラエルの代表的な部族ですね、これで北イスラエルのことを表しています。
28:3 エフライムの酔いどれの誇りとする冠は、足の下に踏みにじられ、28:4 肥えた谷の頂にあってこれを美しく飾る花もしぼみ、夏前の初なりのいちじくの実のようになる。だれかがそれを見つけると、それを手に取って、すぐのみこんでしまう。
エフライムが抱えていた問題は、誇りでした。ヨハネ第一の手紙2章16節に、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など」とありますが、暮らし向きの自慢がエフライムの問題でした。エフライムは肥沃な土地にあり、経済的に豊かでした。これらのものに溺れて、世の楽しみに耽っていたのがエフライムです。主はこれを「酔いどれ」と呼んでおられます。
ここ28章と29章で取り扱われている問題は、神に属することを判断することができない心、鈍い心、聞くことができない耳です。酔っている時に物事が判断できないように、この世の楽しみのために、主のことがさっぱり分からない、全く無関心、というのがエフライムの問題でした。そのために、主が裁かれます。彼らはアッシリヤに捕えられました。
28:5 その日、万軍の主は、民の残りの者にとって、美しい冠、栄えの飾り輪となり、28:6 さばきの座に着く者にとって、さばきの霊となり、攻撃して来る者を城門で追い返す者にとって、力となられる。
すばらしいですね、北イスラエルに対しても主は御自分の契約を覚えておられます。彼らにも残りの民がいて、彼らは美しい冠、栄えの飾り輪となる約束を与えてくださっています。
私たちはどちらの美を求めるか、どちらの栄光を求めるかが問われています。世にある栄光か、それともキリストのへりくだりからにじみ出てくる栄光と美を求めるか、の違いです。
そして、彼らはきちんと、明晰に物事を裁くことができるようになります。主が裁きの霊となられる、とありますね。彼らは主からのの声をはっきりと聞き、そしてそれを実際の生活に適用していきます。
2C 幼子の教え 7−13
28:7 しかし、これらの者もまた、ぶどう酒のためによろめき、強い酒のためにふらつき、祭司も預言者も、強い酒のためによろめき、ぶどう酒のために混乱し、強い酒のためにふらつき、幻を見ながらよろめき、さばきを下すときよろける。28:8 どの食卓も吐いた汚物でいっぱいで、余す所もない。
物事を霊的に判断し、裁く立場に着いているのは祭司や預言者たちです。彼らまでが世の楽しみに耽っており、宗教的な儀式や預言の言葉を述べているのですが、それを行ないながら酔っ払っている状態です。牧師なのにお酒を飲んで酔いしれたり、ギャンブルをして楽しんでいるような状態、と考えればいいでしょう。
28:9 「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。28:10 彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。』と。」
祭司や預言者が、イザヤの預言を聞いてあざけっている様子がここに描かれています。イザヤの語る神の言葉は、あまりにも単純で、まるで子供に対して語っているようである、ということです。
ここは、子供が基礎的なことを繰り返すときの言葉になっています。新共同訳には、その意義が表れるようにヘブル語もあります。「戒めに戒め、戒めに戒め」は、「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ」で、「規則に規則、規則に規則」は、「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ」と括弧書きになっています。
これは非常に興味深いことです。祭司や預言者はこの基礎的なことができていなかったのに、もっと高尚なこと、複雑なことを求めていたことです。幻を見ながら酔いつぶれておきながら、語ることは上等なものを求めていたのです。
伝道者の書に、「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる(7:29 新共同訳)」という言葉があります。人間はもともとまっすぐに造られています。幼子でも真理が分かるように、信仰という手段で私たちに神との関係を教えています。ところが、それを人間は拒みます。基本的なことさえ出来ていないのに、そのできていないことを改めないで、もっともっと複雑なことを考えようとするのです。
高尚なことを求めて、パウロの朴訥な言葉を見下げていたコリントの教会に対して、十字架の言葉の単純性について話しました。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。』知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(1コリント1:18-20)」真理は単純なのです。けれどもこの世の知恵は複雑です。
ここの「規則に規則」と訳されている部分は、英訳はline upon lineとなっています。つまり「行から次の行へ」という意味です。私たちはこのように、一行ずつ御言葉を学んでいます。そして、これらを複雑にすることなく、そのままの意味で理解しようと努力しています。
私が初めて、チャック・スミス牧師が来日されて、その説教を大学生の時に聞いたとき、大きなリバイバル集会での説教でしたが、内容が聖書だけの話で、あまりにも退屈になり眠気が差してしまいました。その聖書の単純な教えさえも、実は何も行なっていなかったことに後になって気づき、主との素朴な関係について学ぶようになりました。
御言葉は単純です。そしてそのまま読んでいくに値するものです。そして御霊によって、私たちに欠けたところが示され、戒めを受け、悔い改め、思いを変え、そして行動を変えるのです。
28:11 まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる。28:12 主は、彼らに「ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」と仰せられたのに、彼らは聞こうとはしなかった。28:13 主は彼らに告げられる。「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。」これは、彼らが歩くとき、うしろざまに倒れ、手足を折られ、わなにかかって捕えられるためである。
彼らが、子供だましのような説教だとあざ笑っていたので、主は彼らの願いどおりのことを行われました。つまり難しい、理解できない言葉を与えられました。アッシリヤがサマリヤの町を陥落したとき、彼らは外国語を聞きました。自分たちには理解できない言葉を聞きました。これが彼らに対する報酬です。
12節に、これらの戒めを聞けば、憩いがあるという約束を与えてくださっています。私たちが、神の御言葉を聞いて、それを自分の魂に染み透らせるなら、憩いがあります。主が言われましたね、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:29)」
3C 暗闇の業 14−19
28:14 それゆえ、あざける者たち・・エルサレムにいてこの民を物笑いの種にする者たちよ。主のことばを聞け。
これまでエフライムに対して主が語られましたが、実はエルサレムのことを眼中に入れて話しておられました。酔いどれのエフライムの姿を描いておられましたが、それを物笑いの種にしているエルサレムに対して、主は語っておられるのです。
これから主は、北イスラエルのように完全に世的にならなかったユダの中にある独特の問題についてお語りになります。統一イスラエルが南北に分裂した時、主が御自分の名を置くと言われた神殿があったのは、南ユダでした。だから北イスラエルの初代王ヤロブアムは、民の心がユダに片寄るといけないと思って、新しく混合宗教を北イスラエルの国土内に作ったのです。
だからユダには正当性があります。主が選ばれたという正統性があります。それゆえに、かえってユダに落とし穴がありました。それは、「自分たちは正統だ。自分たちは神に選ばれているから大丈夫。」という自負です。この自負の潜む危険は、あからさまに間違いを犯している人を見て、自分自身を見ることを忘れることです。
私たちは正統的なキリスト教会に属しています。ローマ・カトリックの腐敗から脱したプロテスタント、そしてさらにキリストの福音を純粋に信じる福音主義の中にいます。そして細部のところでも、自分がこれが正しいと思って信じているところにしたがって、教団や仲間、群れの中にいるわけです。
けれどももし私たちがエルサレムにいる者たちのように、あからさまに間違った道を歩んでいる人たちだけを見るならば、大きな問題が生じます。確かに、今日キリスト教会で起こっていることには行き過ぎがたくさんあります。終わりの時ですから、好き勝手に教師を集めている人々がたくさんいます。けれども、では自分たちはどうなのか?自分たちも誤った道に歩んでいることはないのか?こうした自己吟味が必要なのです。
28:15 あなたがたは、こう言ったからだ。「私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいる。たとい、にわか水があふれ、越えて来ても、それは私たちには届かない。私たちは、まやかしを避け所とし、偽りに身を隠してきたのだから。」
エルサレムにいた者たちも、イザヤの預言をあざけていました。それは、エルサレムがアッシリヤの脅威に備えるために、エジプトと契約を結ぶことに対して、イザヤがしてはいけないというメッセージを語っていたからです。それは死とよみの契約だ。それはまやかしであり、偽りだ、というメッセージでした。
ところがそれをエルサレムにいる人は、あてこすったのです。「そうですよ、私たちは死と契約を結び、よみと同盟を結んでいますよ。でも、あなたが言っているような災難は、私たちには届きませんから。これらの嘘、偽りにこれまで身を隠してきたのですから。」と言ったのです。
私たちのうちにも、当てこすりの心はないでしょうか?主がこれはやってはいけない、と警告されているのに、「ああ、大丈夫。私はこの問題については、自分で処理できるから。これまでもばれてこなかったし・・・。」という感じで。では、こうした態度に対する主の言葉を聴きましょう。
28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。
主はイザヤ書において、何度も何度も、シオンに堅固な礎が据えられていることを教えておられます。ここでは、「試みを経た石」とあります。いろいろな試みがあったけれども、なおかつ残っている、堅い土台です。表向きは良く見えても、試練が来たらすぐに倒れてしまうものではなく、何度も検証済み、検査済みなのです。この石が主ご自身であられます。
28:17 わたしは公正を、測りなわとし、正義を、おもりとする。雹は、まやかしの避け所を一掃し、水は隠れ家を押し流す。
少しぐらいごまかしを働いても大丈夫でしょう、という妥協を私たちは心の中で抱いてしまいます。けれども、私たちは主が公正な方、正義の神であることを忘れてはいけません。
28:18 あなたがたの死との契約は解消され、よみとの同盟は成り立たない。にわか水があふれ、越えて来ると、あなたがたはそれに踏みにじられる。28:19 それは、押し寄せるたびに、あなたがたを捕える。それは朝ごとに押し寄せる。昼も夜も。この啓示を悟らせることは全く恐ろしい。」
主は、彼らのあざ笑いに対して、一つ一つ答えておられます。死との契約は解消される、つまり人間的な解決法はすぐに台無しになる、ということです。エジプトはアッシリヤに倒れてしまい、彼らはよりどころを失いました。そして、にわか水、つまりアッシリヤの軍隊がユダの地を襲い、どんどん攻めてきます。
4C 農作の例え 20−29
このように、主がエルサレムを責めておられますが、主は誤解のないように「農作の例え」によってユダに対するきめ細かな配慮をお語りになられます。
28:20 寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。
これはエジプトのことです。エジプトは安心感を与えるには不足しているということです。
28:21 実に、主はペラツィムの山でのように起き上がり、ギブオンの谷でのように奮い立ち、そのみわざを行なわれる。そのみわざは異なっている。また、その働きをされる。その働きは比類がない。
主は、エルサレムを始めに建てた王のことを思い起こさせておられます。ダビデです。ダビデの下でイスラエルが統一した時に、ペリシテ人がイスラエルを襲いました。そこでダビデが戦ったのが、ペラツィムの山であり、ギブオンの谷です。そのときに主がイスラエルを救われたように、主が比類なき働きを行なわれます。
28:22 だから今、あなたがたはあざけり続けるな。あなたがたを縛るかせが、きつくされるといけないから。私は万軍の神、主から、全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。
非常に大事な戒めです。主は私たちに、真理が私たちを自由にすると約束されました。ところが私たちは、真理以外の、御子以外のものに解決法を見出して、それにしたがって生きようとします。そうすると、せっかく主が救いと解放を与えられたときに、その解決法がかえって足かせになることがあるのです。初めから主のみにより頼めば、私たちは何事からも自由です。他のことを心配する必要はありません。
そしてここで、「全世界に下る決定的な全滅」と主は言われています。つまり、これはエルサレムがアッシリヤに包囲された時だけのことではなく、終わりの時に全世界の軍隊がエルサレムに攻めてくるときの預言でもあるのです。ゼカリヤ書12章に、「わたしは、エルサレムを、すべての国々の民にとって重い石とする。(3節)」とあります。今でもエルサレムは、国際世論の圧力を受けていますが、終わりの時は実際に世界の軍隊が攻めてくるようになります。
そして次が、農作業の例えです。
28:23 あなたがたは、私の声に耳を傾けて聞け。私の言うことを、注意して聞け。28:24 農夫は、種を蒔くために、いつも耕して、その土地を起こし、まぐわでならしてばかりいるだろうか。28:25 その地面をならしたら、ういきょうを蒔き、クミンの種を蒔き、小麦をうねに、大麦を定まった場所に、裸麦をその境に植えるではないか。28:26 農夫を指図する神は、彼に正しく教えておられる。28:27 ういきょうは打穀機で打たれず、クミンの上では脱穀車の車輪を回さない。ういきょうは杖で、クミンは棒で打たれるからである。28:28 パンのための麦は砕かれない。打穀をいつまでも続けることがないからだ。脱穀車の車輪を回しても、馬がこれを砕きはしない。28:29 これもまた、万軍の主のもとから出ることで、そのはかりごとは奇しく、そのおもんぱかりはすばらしい。
主はそれぞれの農作物の種類にしたがって、脱穀の仕方が異なるように作っておられるように、ユダに対して、他の国々とは別に決め細やかなご計画と知恵を持っておられる、ということです。主がユダを打たれるときも、そこで主が御自分の栄光を現わすときにしてくださり、主の救いをイスラエルが知ることができる出来事としてくださいます。これは私たちに対しても同じですね。主はむやみに私たちを懲らしめることはなさいません。必ず私たちの益になるようにしてくださいます。
2B アリエルの呻き 29
1C 祭壇の炉 1−8
29:1 ああ。アリエル、アリエル。ダビデが陣を敷いた都よ。年に年を加え、祭りを巡って来させよ。29:2 わたしはアリエルをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こり、そこはわたしにとっては祭壇の炉のようになる。
ここでのアリエルは、エルサレムのことです。「アリエル」は、二つの意味があります。一つは、「神の獅子」です。ダビデが陣を敷いた町、祭りを例年行なっている町は、勇ましく、神の壮健さがあります。ダビデが神の箱をエルサレムに持ってくるとき、彼が力いっぱい主の前で踊ったことを思い出してください。
そしてもう一つの意味は、2節にある「祭壇の炉」です。幕屋あるいは神殿の外庭に、青銅の祭壇がありますね。アリエルには、この意味もあります。つまり今、神は、勇ましく、壮健な町が、祭壇の炉のように、火の試練を受けているということです。
29:3 わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁を築く。
これはアッシリヤがエルサレムを包囲した時のことです。紀元前701年の出来事です。
29:4 あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。あなたが地の中から出す声は、死人の霊の声のようになり、あなたの言うことは、ちりの中からのささやきのようになる。
自信と力にみなぎっていたエルサレムの住民が今、その自尊心が究極の形でつぶされている状態をここでは描いています。私たちが自分たちのプライドがつぶされるとき、自分の自尊心が抑えられるとき、私たちの声は小さくなります。そしてついに黙ってしまいます。砕かれた魂は、神を賛美します。へりくだった者は、神のすばらしい御業をみなに言い広めます。けれどもプライドが砕かれないと、押しつぶされてはいるだけで、まだその力はマグマのように地下で生き生きとしているのです。
29:5 しかし、あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり、横暴な者の群れは、吹き飛ぶもみがらのようになる。しかも、それはにわかに、急に起こる。
アッシリヤの18万5千人の軍隊は、一夜にして滅びました。
29:6 万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。
シナイ山に降りてこられた主のお姿を思い出してください。雷、地震などがありました。黙示録にも数多く出てきますが、主の聖さと力が現れるときにこの現象が起こります。
29:7 アリエルに戦いをいどむすべての民の群れ、これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たちはみな、夢のようになり、夜の幻のようになる。29:8 飢えた者が、夢の中で食べ、目がさめると、その腹はからであるように、渇いている者が、夢の中で飲み、目がさめると、なんとも疲れて、のどが干からびているように、シオンの山に戦いをいどむすべての民の群れも、そのようになる。
完全に消し去られる、ということです。私たちは試練に遭うと、その試練が何トンもある重い石のように感じますが、主の前では幻想や夢のようなものにしか過ぎないのです。
2C 眠りの霊 9−14
29:9 のろくなれ。驚け。目を堅くつぶって見えなくなれ。彼らは酔うが、ぶどう酒によるのではない。ふらつくが、強い酒によるのではない。29:10 主が、あながたの上に深い眠りの霊を注ぎ、あなたがたの目、預言者たちを閉じ、あなたがたの頭、先見者たちをおおわれたから。
先ほど、エフライムは実際の酒によって酔いしれて、そのために主の御言葉を聞くことができませんでした。そしてそれをエルサレムは物笑いの種にしていました。けれども実は、彼ら自身も同じ問題があったのです。お酒ではありません、けれども深い眠りの霊が注がれていて、主からの言葉を解することができなかったのです。
29:11 そこで、あなたがたにとっては、すべての幻が、封じられた書物のことばのようになった。これを、読み書きのできる人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「これは、封じられているから読めない。」と言い、29:12 また、その書物を、読み書きのできない人に渡して、「どうぞ、これを読んでください。」と言っても、「私は、読み書きができない。」と答えよう。
この箇所を読んで、私は今日のキリスト教会の姿を見ました。聖書のことを知りたい人が、「ここはどのような意味なのですか。」と教会の人に聞いても、「これは難しい書物ですね。いろいろな解釈があるので、封じられているのですよ。」と答えます。特に黙示録がそうです。「これは封じられた書物だ。」と。けれども、黙示録は封印が開かれた姿を描いています。そしてそれを聞いて、守るものは幸いだ、と言っています。
なぜ、このように分からない状態が起こるのでしょうか?次を見てください。
29:13 そこで主は仰せられた。「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない。
覚えていますか、この箇所を主は律法学者に対して使われました。いろいろな清めのしきたりは人間の命令を教え込まれてのことに過ぎず、むしろそのしきたりによって、正義や憐れみなどの主の命令をおろそかにしている、という責めでした。
今日のキリスト教会の問題は、聖書を聖書のまま教えないことです。ある週にはこの箇所、次の週にはあの箇所と教え、そして自分の主張、自分が学んだ神学を教えます。例えば、洗礼式や聖餐式を執り行うのは、牧師でなければいけないのでしょうか?聖書を読んでください、どこにも書いてありません、キリストの弟子であったアナニヤが、パウロに洗礼を授けました。これはごく一例に過ぎませんが、聖書をそのまま教えないので、聖書のことは分からなくなり、そして人が教えることばかりが人々を縛っているのです。
29:14 それゆえ、見よ、わたしはこの民に再び不思議なこと、驚き怪しむべきことをする。この民の知恵ある者の知恵は滅び、悟りある者の悟りは隠される。」
主が行なわれることはいつも不思議なこと、驚き怪しむべきことです。恵みの御霊は、私たちが心に思い浮かばないこと、目で見たこともないもの、耳で聞いたことのないことを行なわれます。そして、この分野については私は知っていると自負している人たちが、恥を見るのです。
3C はかりごとを隠す者たち 15−21
29:15 ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行ない、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう。」と。
先ほども、エジプトと同盟を結ぶところで、闇の中で隠れて事を行なうことについて言及されていましたが、隠れて物事を行なうときに私たちはいつも、「他に誰も見ていないから」という思いがあります。ところが、もちろん主はそこにおられるのです。
29:16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。
私たちが、主がすぐそばにおられるのに、まるで見ておられないかのように考えるのは、まるで主がただの人間のようにみなしていることに他なりません。つまりここで書いているように、「彼は私を造らなかった」とか、「彼はわからずやだ」とみなしているに過ぎないのです。
日本人は罪の文化ではなく恥の文化であるという有名な文句がありますが、もちろんこの問題は日本人だけでなく、すべての人間にあります。誰が見ているかで自分の行動が変わってしまいます。ああ、私たちがいつも、主が今ここにおられるということを思い出すことができますように。
ちなみにこの箇所は、ロマ書9章にてパウロが神の主権について話しているときに引用している箇所です。神が御自分の思いのままに人をあわれみ、またかたくなにされることについて、文句を言うことは、陶器が陶器師に「なぜこのように造ったのか」と文句を言っているのと同じである、ということです。
29:17 もうしばらくすれば、確かに、レバノンは果樹園に変わり、果樹園は森とみなされるようになる。29:18 その日、耳しいた者が書物のことばを聞き、盲人の目が暗黒とやみの中から物を見る。29:19 へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエルの聖なる方によって楽しむ。
イスラエルの回復の時の預言です。これまでも数多く、神の国が建てられ、そしてイスラエルの国が果樹園のようにみなされるという預言がありましたが、ここでは、一つのテーマ、つまり、主の言葉について理解が与えられることに注目しています。耳が聞こえない人が聞こえるようになり、目が見えない人が見えるようになる、ということです。
そして、へりくだる人、貧しい人が聖なる神を見ることが出来る、ということです。なんとすばらしいことでしょうか!私たちが主の言葉を聞くことが出来る方法は、国語の読解力を上げることではありません。ましてや神学校に行くことでもありません。主にあって真のへりくだりと貧しさを持つことです。主の前にへりくだる人は、主のすばらしさを知ることができます。
29:20 横暴な者はいなくなり、あざける者は滅びてしまい、悪をしようとうかがう者はみな、断ち滅ぼされるからだ。29:21 彼らは、うわさ話で他人を罪に陥れ、城門でさばきをする者のあげあしを取り、正しい人を、むなしい理由でくつがえす。
悪いことをする人は、隠れたところで行ないます。表向きは正しく見えるのですが、影で陰湿なことを行ないます。だから、主が終わりの時に、隠れたことを露にして裁かれるのです。
4C ヤコブの贖い 22−24
29:22 それゆえ、アブラハムを贖われた主は、ヤコブの家について、こう仰せられる。「今からは、ヤコブは恥を見ることがない。今からは、顔色を失うことがない。29:23 彼が自分の子らを見、自分たちの中で、わたしの手のわざを見るとき、彼らは私の名を聖とし、ヤコブの聖なる方を聖とし、イスラエルの神を恐れるからだ。
主は、イスラエルに与えられた元来の約束と契約を思い起こさせておられます。アブラハムの贖い主、ヤコブの家という言葉です。これらが永遠の契約であり、この約束と契約に基づいてすべての神の働きが行なわれることを、私たちはずっと前に創世記の中で学びました。
主は初めに約束されたことを必ず果たされます。私たちのうちに良い働きを始められたら、キリスト・イエスの日までに必ず完成させてくださいます。
29:24 心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者もおしえを学ぶ。」
これが今日の学びの最後の箇所です。まとめと言っても良いでしょう。「心の迷っている者」とは、移り変わりが激しい人と言い換えることができます。誘惑にすぐに負けてしまう人です。このような人が悟りを得て、もう誘惑にたやすく負けることはなくなります。そして「つぶやく者」は、試練に遭って、なぜこんなひどいことが起こるのかと苦々しく思っている人のことです。主からの試練を、喜びではなく、怒りによって受け止めていますが、このような人もおしえを学びます。試練の中にあって、主の愛と平和、主の義を学びます。
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