私たちは前回、1章と2章を「主の叱責」という題で学びました。主がユダとエルサレムを叱って、責めておられます。主は初めから彼らに関心がなくて悪いことをしているのなら話は別ですが、彼らは主によって初めから大切に育てられた国民です。大切に育てたのにも関わらず、彼らがそっぽを向いていることに対して叱責しておられます。
彼らは道徳的に乱れていました。けれども、エルサレムの町では依然として宗教的には熱心でした。また法的な正義が守られていませんでした。これらのことについて主は心が裂けるような悲しみと怒りを持っておられます。
エルサレムは「主の家」であるべきです。主が願っておられるのは、2章1節以降に書いてある、イスラエルだけでなくすべての民が、主の御言葉を聞きに上ってくるような、神中心の山になることでした。けれども彼らが行なっていることは異邦人が行なっている占いであったり、偶像崇拝であったり、またお金を愛して、富に安住していました。そのことに対して、主は裁きを行なわれます。金持ちも偶像礼拝者も、自分たちの頼りが全く頼りにならなくなるような患難を与えられます。これが前回までの話でした。
1A 支えと頼り 3−4
そして2章の最後の節をご覧ください。「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあるだろうか。」人間を頼りにしていて、神に頼らない過ちを戒めておられます。3章はこの続きです。
1B ユダのつまずき 3
1C 首領たち 1−15
1D 若者の支配 1−12
3:1 まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。・・すべて頼みのパン、すべて頼みの水、3:2 勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と、長老、3:3 五十人隊の長と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者。
2章後半では、黙示録6章にも出てくる世界的な患難が書かれていました。主が大地震を起こされ、人々が恐れて洞穴や土の中に入り主の御顔を避けようとする、と書いてあります。その時、ユダとエルサレムでも同じような災いを受けているのですが、この災いを主は、彼らが頼りにしていたものを取り除く形で行なわれます。
1節には、私たちが生きていく上で欠かすことのできないものが書かれていますね、パンと水です。私たちは当たり前のように食べ物と水を得ていますが、貧しい国ではこれさえも得られていません。そのために、自分は神なしでも生きられると思っているのです。
同じように、2節には、軍事や武力に頼っている姿が書いてあります。「勇士と戦士」です。それから国の指導者に頼っています。「さばきつかさと預言者」とあります。その他の行政をつかさどる人々、高官や議官がいますし、また自分の身を守ってくれるお巡りさんのような存在である五十人隊の長、そして彼らは、占いをする人、偶像を造る人、魔術をする人々に頼っていました。
どうでしょうか、どの国でもそうですが、私たち日本人がまさにこれらに頼り、安穏としています。日本は非常に安定した国であり、社会的な混乱がありません。あると言っても、たかが知れています。そして自分の心の不安は、占いであるとか、まことの神ではないものにすがっています。終わりの日には、主はこれらのものを全て取り除くのです。
3:4 わたしは、若い者たちを彼らのつかさとし、気まぐれ者に彼らを治めさせる。3:5 民はおのおの、仲間同士で相しいたげ、若い者は年寄りに向かって高ぶり、身分の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。
主はご自分が生きていることを、生活の基盤となっているもの、精神的に安定を与えるものを少しずつ取り除くことによって、人々に示されます。けれども、そこでまことの神に頼らずに、いつまでも自分に安定を与える他のものに頼ろうとすると、今、ここに読んでいるようなことが起こるのです。
つまり社会的混乱です。上に立つことの能力も資質も備えていない人でも、それに従おうとします。けれども、もちろんきちんと治めることはできないから、すぐに他の人にすげ替えて、そしてまた同じ問題が発生するのです。そして誰も指導してくれる人がいないと、自分たちの間で虐げる、つまり言い争ったり、仲間割れをしたりします。
3:6 そのとき、人が父の家で、自分の兄弟をとらえて言う。「あなたは着る物を持っている。私たちの首領になってくれ。この乱れた世を、あなたの手で治めてくれ。」3:7 その日、彼は声を張りあげて言う。「私は医者にはなれない。私の家にはパンもなく、着る物もない。私を民の首領にはしてくれるな。」
「着る物」という、ごく基本的な生活必需品を持っているだけで、その人を首領にしたがるのですから、相当困っているのです。けれども、まことの神に拠り頼もうとしません。
3:8 これはエルサレムがつまずき、ユダが倒れたからであり、彼らの舌と行ないとが主にそむき、主のご威光に逆らったからである。
ここに社会が乱れている理由が書いてあります。彼らが主に逆らっているからです。舌、つまり言葉をもって、そして行ないをもって、主に背いているからです。自分たち自身が主に治められることなくして、どうして誰かの指導の下にいることができるでしょうか?
3:9 彼らの顔つきが、そのことを表わしている。彼らは罪を、ソドムのように現わして、隠そうともしなかった。ああ、彼らにわざわいあれ。彼らは悪の報いを受けるからだ。
自分たちの悪を公然と表している、ということです。恥ずかしいから包み隠すこともしないで、悪を行なっている、ということです。
3:10 義人は幸いだと言え。彼らは、その行ないの実を食べる。3:11 悪者にはわざわいあれ。わざわいが彼にふりかかり、その手の報いがふりかかる。
ここは大事な箇所ですね、人間は、今何も災いがないから大丈夫だ、と思って悪いことをしつづけるのですが、必ず報いがあります。同じ事をパウロがロマ書2章で話しました。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。(6-8節)」
3:12 わが民よ。幼子が彼をしいたげ、女たちが彼を治める。わが民よ。あなたの指導者は迷わす者、あなたの歩む道をかき乱す。
いま主が、「わが民よ」と呼びかけておられます。「あなたがたは、指導者らに拠り頼んでいるが、これが彼らの姿なのだよ。」と問いかけておられます。それは、今よんだように、これから主が指導者らを取り除かれるのですが、実は既に指導者ら本人が、統治をするのに全くふさわしくない幼子や女たちによって支配されて、国全体をかき乱している、という事です。
「幼子」というのは、単純に幼い者ということで、王が子供のような精神構造しか持っていない、ということです。例えばイスラエルの王アハブなど、その振舞いはまるで小さな子供のようでした。また、同じ名前でユダの王アハブも、大人ではない子供のような考え方をしており、それはイザヤ書7章に出てきます。
「女たち」とは、自分の身の回りのことしか考えない人、何も考えていない人たちのことです。男の欲望をそそって、色気を使って、それでお金儲けしているような女がいます。数多くの政治家や指導者、経営者らが、宝石や高級ブランドの服だけにしか興味がないような女に動かされて、そして会社や社会、国そのものがその女によって動かされていると言っても過言ではないことが多いです。
2D 主の判決 13−15
そこで、主は指導者らを裁かれます。
3:13 主は論争するために立ち上がり、民をさばくために立つ。3:14a 主は民の長老たちや、民のつかさたちと、さばきの座にはいる。
彼らはいつも民を裁いている立場にいるのですが、今度は彼ら自身が法廷で主によって裁かれるのです。いつも権威者は、自分自身が権威の下にいることを忘れてはいけません。
3:14b「あなたがたは、ぶどう畑を荒れすたらせ、貧しい者からかすめた物を、あなたがたの家に置いている。3:15 なぜ、あなたがたは、わが民を砕き、貧しい者の顔をすりつぶすのか。・・万軍の神、主の御告げ。・・」
自分の幼さ、また女によって動かされている指導者は、結局、一般の民の犠牲の下、そのようなことを行なっています。本来、国の指導者は、人々の繁栄のために僕となって仕えなければいけないのに、です。
今ここで主は「わが民」とユダの民のことを呼ばれています。自分の管理、自分の下にある者が全て主ご自身のものであるという事実を忘れると、そこで乱用が起こります。
私たちはどうでしょうか?私たちに任されたもの、能力、時間、立場があります。それらのものを自分の欲を満たすために使うのであれば、私たちは必ず、他の人々を虐げる、犠牲を払わせることになります。全てのものは主から来ていることを覚えておくのは大事です。
2C 女の飾り 16−26
そして次に主は、エルサレムを一人の女に例えられます。聖書の中の他の箇所でもそうですが、主がイスラエルと契約を結ばれるとき、ご自分の妻にしたことを話されています。そしてイスラエルが他の神々に仕えるようになったら、それを「姦淫を犯している」と言い、それで主は一度、離婚状さえお出しになりました(エレミヤ3:8参照)。
3:16a 主は仰せられた。「シオンの娘たちは高ぶり、首を伸ばし、色目を使って歩き、足に鈴を鳴らしながら小またで歩いている。」
男たちに色目を使っていて、厚化粧をして、宝石で身を飾り、高級ブランド物で身を包んでいるような姿です。そしてこの姿を主は、「高ぶり」と呼んでいます。富に頼り、まことの神以外のほかのものに頼って、自分に満足し、決して主に振り向かない状態です。
3:16bそれゆえ、3:17 主はシオンの娘たちの頭の頂をかさぶただらけにし、主はその額をむき出しにされる。
この対比を見てください。1センチの髪の毛の乱れも気になるような女が、はげ頭になり、かさぶただらけになるのです。この「かさぶた」は、おそらくは汚れの意味も含んでいると思います。レビ記において、らい病人が汚れた者とみなされていますが、そこでの症状で頭における皮膚病もあります(13章)。
3:18 その日、主はもろもろの飾り・・足飾り、髪の輪飾り、三日月形の飾り物、3:19 耳輪、腕輪、ベール、3:20 頭飾り、くるぶしの鎖、飾り帯、香の入れ物、お守り札、3:21 指輪、鼻輪、3:22 礼服、羽織、外套、財布、3:23 手鏡、亜麻布の着物、ターバン、かぶり物を除かれる。
一つ一つの飾りを具体的に列挙しています。現代版に直したら、分かりやすいかもしれません。高級ブランドの具体的な名前を挙げながら、それら一つ一つがなくなっていく姿を想像すれば良いでしょう。
3:24 こうして、良いかおりは腐ったにおいとなり、帯は荒なわ、結い上げた髪ははげ頭、晴れ着は荒布の腰巻きとなる。その美しさは焼け傷となる。
これは、バビロンがユダを捕え移す時に、実際に女たちが受けた仕打ちです。女を飾る宝石など、すべての貴重品は没収されました。香水をつけていた人も何日も風呂に入っていないから、それが臭いにおいとなったことでしょう。そして手は荒縄に縛られて彼女たちは連れていかれました。そして髪も切られて、また悲しみを表す荒布を身にまとっていました。それからバビロンの包囲の火によって、火傷もしたことでしょう。
ですからここは、霊的なエルサレムの荒廃と同時に、物理的に起こることも預言しています。
3:25 あなたの男たちは剣に倒れ、あなたの勇士たちは戦いに倒れ、3:26 その門はみな、悲しみ嘆き、シオンはさびれ果てて地に座す。
戦いで自分が頼っていた男たちが死んでいきます。そして「門」つまり、行政的なところを行なう場には悲しい知らせばかりが入ってきます。エルサレムは荒廃しました。
2B 若枝 4
このような中で、主は彼女たちの心の中にまことの神を求める心を起こされます。
1C ひとりの男 1
4:1 その日、七人の女がひとりの男にすがりついて言う。「私たちは自分たちのパンを食べ、自分たちの着物を着ます。私たちをあなたの名で呼ばれるようにし、私たちへのそしりを除いてください。」
戦場で男たちがどんどん死んでいくので、男より女のほうが圧倒的に多くなります。それで、頼りたい男を求めて、七人の女がひとりの男にすがりつくのです。彼女たちは言います。「あなたに、生活を支えてほしいとは言いません。自分たちで何とかやりくりします。けれども、夫がいないという不面目だけは耐え切れないのです。どうか、私を妻にしてください。」ということです。
これは実際にエルサレムの女たちが、バビロンによる荒廃のときに経験したことでありますが、それだけでなくエルサレムの町全体が、何か自分たちが頼れるもの、自分を守ってくれるもの、自分たちの名誉を回復させてくれるものを、ひどく求めている姿でもあります。
ここの「ひとりの男」は、少なくなった男性、という意味だけではなく、本当に自分たちが拠り頼むべき本来の男性、つまりメシヤ本人を示唆しているのです。次をご覧ください。
2C 汚れの清め 2−6
4:2 その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、地の実は、イスラエルののがれた者の威光と飾りになる。
メシヤ預言です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされるだけでなく、世の終わりには世界の軍隊によって滅ぼされそうになります。その時に、エルサレムを守ってくれるあらゆる飾り、栄誉が剥ぎ取られます。そこで、生き残っているエルサレムの住民らは、自分たちを飾り、栄光を与える、まことの男性、メシヤを求めるのです。
「若枝」という名称は、メシヤの呼び名の一つです。イザヤ書11章には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。(1節)」とあります。53章2節には、「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。」とあります。そしてエレミヤ書にも、「その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。(23:5)」とあります。
4:3 シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。
すばらしいです。まことの男性を求めた残された人は、汚れではなく「聖」と呼ばれます。そして、「いのちの書」に記されています。
神には書物があります。モーセが、金の子牛を拝んで滅ぼされ、続けて滅ぼされていくイスラエルの民について、「あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジプト32:32)」と執り成しをしました。そして黙示録には、サルデスにある教会に対して、「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。(3:5)」と言われました。いのちの書があります。
イエス様は、悪霊を追い出して戻ってきた弟子に対して、「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」と言われました。そうです、天の御国に入るための、救いのための書物です。
4:4 主が、さばきの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めるとき、
「汚れ」というのは、つまり出血のことです。レビ記の中に、血を流している女が不浄であるとみなされる掟があります(15章)。この洗いによって、主はエルサレムを嫌らしい女から聖なる女へと変えてくださいます。
その清めの方法が「さばきの霊と焼き尽くす霊」です。裁きというと、私たちは罪に定めることだけを考えます。裁かれるのは罰を受けることであり、その後、刑に処せられることだけを考えてしまいます。けれども、神が愛され、お選びになった民を裁かれる時は、むしろ救いをもたらすための裁きです。
コリント人への手紙第一で、教会の聖餐式が秩序をもって行なわれていないことに関連して、「自分を吟味して(11:28)」行ないなさいとパウロが命じました。しかしこう言います。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(同31-32節)」懲らしめのための裁きだ、ということです。
私たちが自分の罪が示されて、聖なる御霊によって清めていただくとき、それは裁きという方法を使います。自分が聖なる主の前にあってどのような存在であるのか、それをはっきりと示されます。私たちはそこで、キリストの十字架の前に走っていき、憐れみを請い、その血によって洗い清めていただくのです。
この裁きによる清めを拒むのであれば、私たちはキリストご本人から離れなければいけないことになります。自分の生活を変えたくないと思って、聖めのための裁きを受けるよりも、信仰から離れる選択を取る人々がいます。「神は裁く方ではなく、愛なのだ」という言葉をよく聞きますが、それは弁解です。主は愛されておられるのです。だから裁かれて、私たちを聖なる者にしようと願っておられるのです。
主が清められるのは、「火」という方法です。水の洗いもありますが、ここでは火です。金属を精錬させるときの清めを想像してください。主は聖なる方です。それで「私たちの神は焼き尽くす火(12:29)」であるとヘブル書には書いてあります。また私たち教会が携挙されて、キリストの御座の前に出る時も、火の中をくぐることをパウロは話しています(1コリント3:13)。
4:5 主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、4:6 昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。
「おおい」というのは、地球を紫外線から守るオゾン層のように、害になるものをすべて遮り、その中にいて安全な環境を作るためのものです。イスラエルが荒野で旅をしているときに、雲の柱が日中の灼熱の日差しから彼らを守り、真っ暗な夜には光となりました。
女が求めていたのは、この守りでした。普通、女性が男性に求めるもの、結婚するに当たって求めるものはこれです。清められたエルサレムには、主ご自身が覆いとなってくださいます。
2A 酸い葡萄 5
そして次にイザヤは、例えを話します。「愛の歌をうたおう」という言葉で、イスラエルをぶどう畑に例えています。
1B 愛の歌 1−7
5:1 「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。
これで主が、イスラエルを愛されて、そして丹精こめて養い育ててきたことを話すのは二回目です。父が子を育てるように育てたのに、そっぽを向いている、という言葉からイザヤは預言を始めました。
5:2 彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
主がいい加減にイスラエルを召しだされたのではないことが、ここから分かります。まず土地の開墾を行ないました。掘り起こし、石を取り除きました。そして、いつでも監視できるように、やぐらまで作りました。そしてぶどう汁を作るための酒ぶねまで作っています。
ですから当然、良いぶどう酒が実るのを期待するでしょう。ところがその反対の結果になってしまいました。酸いぶどう酒ができてしまいました。
5:3 そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。
これまで主は、ユダとエルサレムをご自分が裁判官と務める法廷へと引き出されていましたが、ここではその反対です。あなたがたが判断しなさい、とエルサレムとユダが裁判官になって、わたしを裁きなさいをおっしゃられているのです。
5:4 わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。
主が彼らが良い実を結ぶために、行なわれなかったことは何も他に残されていない、ということです。最大限のことを行なったのに、甘いぶどうの実ができない理由を見つけることができないぐらい、完璧に育てられました。
旧約聖書を読んで、主のイスラエルへの取り扱いが酷すぎるとか、身勝手に人々を殺しているとか、いろいろ批判する人がいます。けれども、それは読み方が誤っているのです。創世記の初めから読んでいけば、そこには連続して失敗する人類に対して、主がいかに近づいてくださっているかの知恵に満ちています。そして律法は正しく、聖なるものです。何一つ、誤ったところはありません。にもかかわらず、彼らは悪い実を出したのです。
5:5 さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。
周囲の敵にそのまま踏みつけさせるようにする、ということです。
5:6 わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
外側からだけでなく、内側からの力もなくすようにするということです。経済力、教育の力、社会的な安定、それらの国力をないままにする、ということです。
5:7 まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。
このように、まったく別のものが生まれてきたということですが、実はこの例え、イエス様がユダヤ人指導者らに、十字架にかけられる直前にお語りになったものです。マタイ21章を開いてください。21章の33節からです。「もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」この話を聞いた時点で、聖書に通じているユダヤ人は、イザヤ書5章からのものだと察することができたでしょう。
「さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。」この時点で、預言者らをユダヤ人の指導者が迫害し、殺したことも察知できたのでしょう。イザヤも王マナセによって殺されたと、彼らは考えていました。
「そして、しかし、そのあと、その主人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。』」ここで、彼らはイエスが神の息子であり、そして農夫は自分たちであることを知りました。
「だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。」ここです、イザヤの預言は、甘いぶどうではなく酸いぶどう酒ができた、とありました。そして神は、良い実、つまり甘いぶどうを実らせることができるように、他の国民つまり異邦人に働きかける、ということを主はおっしゃられたのです。これが、今、異邦人に対して主が実を結ばせておられる理由になっています。キリスト教会では、もちろん残された民であるユダヤ人もいるのですが、異邦人が中心になっています。
ということは、私たちは同じことを主から期待されていることを知らなければいけません。主がイスラエルに対して行なわれたように、私たちが良い実を結ぶことができるように、主はあらゆることを行なってくださいました。主が私たちをキリストにあって選び、召してくださったのは、いうまでもなく良い実を結ばせることなのです。
私たちが主の目にあって、良い実を結ばせているでしょうか?主が刈り取りに来られるときに、私たちは収穫のできる実を持っているでしょうか?自問自答、吟味してみなければいけません。
2B 荒廃 8−30
1C 忌まわしいもの 8−24
そして次に、六つの「忌まわしいもの」が始まります。「ああ」という言葉で訳されていますが、主が律法学者とパリサイ人に言われた「忌まわしいものよ」と同じ言葉であり、「災いだ」と黙示録で中天を飛ぶ鷲と同じ言葉です(8:13)。どのような酸いぶどうなのか、具体的に読むことができます。
1D 富に安住する者 8−17
5:8 ああ。家に家を連ね、畑に畑を寄せている者たち。あなたがたは余地も残さず、自分たちだけが国の中に住もうとしている。
一つ目の「ああ」または「忌まわしいもの」は土地を買収し、占有することです。
イスラエルには、土地について大切な掟があります。レビ記25章23節に、「地は買い戻しの権利を放棄して、売ってはならない。地はわたしのものであるから。あなたがたはわたしのもとに居留している異国人である。」とあります。そこは確かに彼らの土地ですが、それは主が彼らに与えられたのであって、本質的には彼らのものではなく、主のものなのです。そして、土地を売ってはならないというのは、主が各部族、各氏族、各家族に与えられたものを、いつまでも相続し、損なわれることのないようにするためです。
それを自分の金の力に任せて、貧しい人たちから土地を買い取り、また地代が高いので貧しい人が購入することがないようにしている、ということです。
「余地も残さず」という言葉があります。几帳面で良さそうですが、実はその反対で、貪欲の表れなのです。ためて、ためて、ためて、大きな心をもって人々に分け与えること、余裕をもたせることがなく生きていないでしょうか。私たちは、無駄になってもよいという心を持っていないといけません。イエス様に高価な香油を注いだマリヤのようでなければいけません。主にささげているのであって、その人に与えているのではありません。与えるのが、受け取るより幸いなのです。
5:9 私の耳に、万軍の主は告げられた。「必ず、多くの家は荒れすたれ、大きな美しい家々も住む人がなくなる。5:10 十ツェメドのぶどう畑が一バテを産し、一ホメルの種が一エパを産するからだ。」
つまり、収穫量が非常に少なくなる、ということです。自分では蓄えているつもりでしょうが、それが、穴があいた袋のようにどんどん失われていきます。
5:11 ああ。朝早くから強い酒を追い求め、夜をふかして、ぶどう酒をあおっている者たち。5:12 彼らの酒宴には、立琴と十弦の琴、タンバリンと笛とぶどう酒がある。彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない。
二つ目の災いは道楽です。一つ目はけちによる貪欲ですが、ここは浪費による貪欲です。
ここで大切なのは、彼らがぶどう酒をあおり、音楽があるために、主の御業についての判断が麻痺してしまっている、ということです。酒場で酔っ払っている人にイエス様を宣べ伝えてみてください。彼らはその次の日にはすっかり忘れています。
5:13 それゆえ、わが民は無知のために捕え移される。その貴族たちは、飢えた人々。その群衆は、渇きで干からびる。
この無知は、神の知識についての枯渇です。御言葉を聞いても、冷静な判断力が失われているために何も入りません。そのため霊的に枯渇し、ついには奴隷状態になるのです。ここでの「捕え移される」というのは、文字通り、バビロンに捕え移されたことも意味するでしょう。
私たちの周りには、感覚に訴えるものが非常に多いです。テレビ映像、広告・宣伝など、私たちが思考を働かせなくても良いようになっています。けれども、御言葉の学びは頭を使います。忍耐を要します。この過程を踏まなければ、その人はやがて霊的枯渇状態に陥るのです。
5:14 それゆえ、よみは、のどを広げ、口を限りなくあける。その威光も、その騒音も、そのどよめきも、そこでの歓声も、よみに落ち込む。
伝道者の書で学びましたが、どんなに快楽を楽しんだにしても、すべての人は同じところに行く、だから空しい、ということをソロモンが話しました。同じことをここでイザヤは話しています。和気藹々と楽しくやっていても、ドンちゃん騒ぎをしていても、彼らは神のことを知らないで、どんどん死んでいくだけだ。その陰府の口は飽くことを知らず、死人を受け入れている、ということです。
5:15 こうして人はかがめられ、人間は低くされ、高ぶる者の目も低くされる。5:16 しかし、万軍の主は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される。
「高ぶる」というと、私たちは威張っている人を思い浮かべますが、神のことに無関心なこと、無関心になるぐらい遊興を楽しんでいること、これこそが高ぶりなのです。
5:17 子羊は自分の牧場にいるように草を食べ、肥えた獣は廃墟にとどまって食をとる。
一つ目と二つ目にある物欲に対する、主がもたらされる結果です。彼らが持っている財産は、獣などによって食い尽くされるように、捨てて置かれるようになります。
2D 倫理的堕落 18−24
5:18 ああ。うそを綱として咎を引き寄せ、車の手綱でするように、 罪を引き寄せている者たち。5:19 彼らは言う。「彼のすることを早くせよ。急がせよ。それを見たいものだ。イスラエルの聖なる方のはかりごとが、近づけばよい。それを知りたいものだ。」と。
三つ目の忌まわしいことは、あえて公然と神を侮辱している人たちのことです。聖書にある価値観に対してひどく反対し、また実際にそうなるのかとあえて試みる人たちのことです。終わりの時になると、嘲る者がやって来て「キリストの来臨の約束はあるのか。(3:4)」と言う者たちが出てくると第二ペテロに書いてありますが、このような人たちのことです。
5:20 ああ。悪を善、善を悪と言っている者たち。彼らはやみを光、光をやみとし、苦みを甘み、甘みを苦みとしている。
四つ目は、価値観を完全に反対にしてしまう人たちのことです。これは今はやっているでしょう、例えば同性愛を聖書の基準に従って罪だと言えば、それが逆に非寛容の罪に問われます。愛という名の下で、罪を許します。
5:21 ああ。おのれを知恵ある者とみなし、おのれを、悟りがある者と見せかける者たち。
五つ目は、悪を正当化するだけでなく、それを知識という名の下で理論武装することです。例えば今の同性愛について言えば、それが病気であるとか先天性のものであるとか議論します。
5:22 ああ。酒を飲むことでの勇士、強い酒を混ぜ合わせることにかけての豪の者。5:23 彼らはわいろのために、悪者を正しいと宣言し、義人からその義を取り去っている。
最後、六つ目はお酒を飲みたいがために、わいろを受け取って公正な裁きを行なわない人たちのことです。
5:24 それゆえ、火の舌が刈り株を焼き尽くし、炎が枯れ草をなめ尽くすように、彼らの根は腐れ、その花も、ちりのように舞い上がる。彼らが万軍の主のみおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のみことばを侮ったからだ。
三つ目から六つ目までの忌まわしいことは、みな、道徳的、また霊的な忌まわしさでしたね。公然とした侮辱、価値観を正反対にすること、罪を理論武装して正当化すること、そして酒のために判断を曲げること、これらはみな、「みおしえをないがしろにし、聖なる方のみことばを侮った」からです。
私たちが、どれだけ御言葉をないがしろにしてきたでしょうか?日本の危機、そして日本の教会の危機は、みことばをないがしろにし、侮っている危機です。聖書の言葉を教えることが、そのまま教えることが、非常に難しい精神土壌です。アメリカでは、高校を中退したような無学の牧師が、聖書を教えてくれとペンタゴンに呼ばれて、政府の高官たちに呼ばれるぐらいです。そこまで行かなくても、他のアジアの地域で、御言葉が語られれば、人々が集まってきます。ところが、日本ではクリスチャンが少ないのは、またクリスチャンが強くないのは、ひとえに御言葉が聞けないという無能力です。そしてその原因が、ここまで語られてきた、物質や富に頼っている高ぶり、そして道徳的な罪、高ぶりがあるからです。
2C 遠く離れた国 25−30
そして最終的に、神がユダをどのようにするかを次にイザヤが述べています。
5:25 このゆえに、主の怒りが、その民に向かって燃え、これに御手を伸ばして打った。山々は震え、彼らのしかばねは、ちまたで、あくたのようになった。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
まず、天災によって彼らを裁かれます。大地震を起こされます。けれども、それでも収まりません。
5:26 主が遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図されると、見よ、それは急いで、すみやかに来る。
遠く離れた国、そうですバビロンのことです。北イスラエルにとってはアッシリヤですが、今はエルサレムとユダに語られていますから、バビロンのことが神の眼中にあるのでしょう。
5:27 その中には、疲れる者もなく、つまずく者もない。それはまどろまず、眠らず、その腰の帯は解けず、くつひもも切れない。5:28 その矢はとぎすまされ、弓はみな張ってあり、馬のひづめは火打石のように、その車輪はつむじ風のように思われる。5:29 それは、獅子のようにほえる。若獅子のようにほえ、うなり、獲物を捕える。救おうとしても救い出す者がいない。5:30 その日、その民は海のとどろきのように、イスラエルにうなり声をあげる。地を見やると、見よ、やみと苦しみ。光さえ雨雲の中で暗くなる。
先ほど、シオンの娘を主が、栄光によっておおい、雲となり火となって守ってくださる、とありましたが、ここではそのような光はなく、完全な暗闇の中に彼らを置かれます。
そしてイザヤの預言はいったん終わるのです。あれっ?回復のメッセージは?と、これまでのイザヤの預言の流れを読んできた方は疑問に思うでしょう。けれども、イザヤはこれで終わらせたかったのです。確かに彼は神の御言葉を語っていました。そして神の御言葉なのですから、当然、彼はそれを曲げることはなく、時折、ユダの回復も預言したのです。ところが全体の語調は、「神がそのようにしたいと願われているのに、イスラエルはその逆をやっている。だから、神は裁かれるのだ!」という、激しい感情で語っているものです。
イザヤが本格的に、主の御霊の流れの中で預言活動を行なうのは6章に入ってからです。そこで彼は主の御座を見ます。そして、ユダの民を「わざわいだ」と言っていたけれども、自分自身が災いで、「彼らは汚れている!」と叫んだけれども、彼自身が汚れていることに気づきます。そして祭壇の火によって、その口が贖われ、そしてさらにスケールの大きい、神の幻を預言するようになるのです。
イザヤは、「もうこれで十分だ。ユダが滅びるので十分だ。これで語ることを終えよう。」という義憤で満足していたのです。しかし主の言葉を語るというのは、自分の語りたいことではなく、まさに主に引っ張られるようにして語るものです。主が復活されたあと、ペテロに、「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネ21:18)」と言われましたが、この転換が必要なのです。
それでは次回はイザヤの預言活動の転換と、北イスラエル、そしてそれを倒そうとしているアッシリヤを含めた大きなスケールの中にある幻を見ていきます。
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