イザヤ書30章を開いてください、今日は30章から32章までを学びます。今日のメッセージ題は、「儚いこの世の助け」です。私たちが前回から、ユダが抱えている問題について主がお語りになっているところを学んでいます。前回で見た問題は、「神の御言葉に対して鈍くなっている。理解が遅くなっている。」という問題でした。これは私たちの鈍い心、そして今日のキリスト教会の、御言葉を避ける傾向に対する警告でもあります。
そして今回も身近な問題です。それは主ご自身ではなく、この世の知恵に頼ること、また主ご自身ではなく、この世の力に頼ることの過ちです。
1A この世への依頼 30−31
1B 人の計画 30
1C 神への反逆 1−17
1D 恥 1−5
30:1 「ああ。反逆の子ら。・・主の御告げ。・・彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず、同盟を結ぶが、わたしの霊によらず、罪に罪を増し加えるばかりだ。
これはもちろん、ユダが、アッシリヤの脅威に備えるためにエジプトに助けを求めに行ったときのことを話しています。
そしてその行為を、主はこれまでいろいろな方面から分析されています。ここでは、彼らは、はかりごとをめぐらし、また同盟を結んでいるが、それはわたしによるものではない、という問題です。はかりごとをめぐらすこと、同盟を結ぶこと、それは自体は間違っていないのです。私たちは、いろいろ考えて、そして時には他の人の協力を得ることは何ら間違っていません。計画を立てること、企画を練ることが間違っているのではなく、それを主から伺うのではなく、自分勝手に行なったことが大きな間違いだったのです。
興味深いのは、ここの箇所の英語の翻訳です。「はかりごとをめぐらす」の部分は、Who take counsel、つまり、「カウンセリングを受ける」となっています。
今日、多くの人がカウンセリングを必要としています。特に日本のキリスト教会では、他の国の教会と比べて、カウンセリングの需要が一段と高いです。しかし聖書には、神ご自身のカウンセリングがあることを教えています。主ご自身が私たちに知恵と知識、悟りを与えてくださり、どのよううに行動していけばよいのかを教えてくださっています。つまり主の御言葉そのものが私たちにカウンセリングをするのです。
ところが、教会の中で「カウンセリング」という言葉を聞くとき、多くの場合、この世の精神医学や心理学に依拠しているものです。その多くが非聖書的、いや反聖書的ですらあります。主からの単純な助言を度外視し、その助言を真っ向から否定するようなことを教会の中で許容しているのです。
ユダは、エジプトに行くことを考えていることを、主に反抗していることであるという意識はおそらくはなかったであろうと思われます。ただ、自分たちで考えて、これで良かろうと思っていることを行なっていたに過ぎないからです。けれども、主は彼らを「反逆の子ら」と呼ばれています。そして、「罪に罪を増し加えるばかりだ」と言っています。
私たちは、自分で考えて、自分なりの解決方法を探すのにさほど罪意識を感じません。嘘とつくとか、怒り散らすとか、そのような類のものには罪意識を抱きますが、けれども主が言われていることが既にあるのに、それを度外視して別のことを行うのは同じように、反抗の罪の他ならないのです。
同じように、英語の翻訳で「同盟を結ぶ」ところは、who devise plansつまり「計画を練る」となっています。主の御霊の導きを願い求めて、教会の行き先を考えるのではなく、初めから計画ありきで、このプログラムをこなせば教会が成長すると考えること、これもカウンセリングの問題と同じように、自分が主に反抗しているという意識は薄くとも、実は反抗しているもう一つの過ちです。
30:2 彼らはエジプトに下って行こうとするが、わたしの指示をあおごうとしない。パロの保護のもとに身を避け、エジプトの陰に隠れようとする。
結局何を求めていたかというと、安心感です。パロの保護の中での安心感、エジプトの陰で隠れようとしていました。私たちには、どこかで安心を求めています。それが原動力となって、私たちはこの世のカウンセリングとか、また教会成長プログラムとかに走るのです。安心感を求めること自体は間違っていません。けれども、求めるところが間違っているのです。パロではなく主の保護の中に身を避けて、エジプトではなくシオンの陰に隠れるべきなのです。
30:3 しかし、パロの保護にたよることは、あなたがたの恥をもたらし、エジプトの陰に身を隠すことは、侮辱をもたらす。
ここから、エジプトのようなこの世の制度に保護を求めるとどのようになるか、その結果を主は述べておられます。それは恥です。
30:4 その首長たちがツォアンにいても、その使者たちがハネスに着いても、
ツォアンもハネスも、エジプトの主要な都市です。ユダから主だった人たちがそこに着いても、役に立たないということです。
30:5 彼らはみな、自分たちの役に立たない民のため、はずかしめられる。その民は彼らの助けとならず、役にも立たない。かえって、恥となり、そしりとなる。」
世の知恵に頼ると、私たちは初めに考えていた安らぎではなく、恥が伴います。エバが蛇に惑わされて、善悪の知識の木から実を食べ、またアダムも食べましたが、その結果、彼らも心の満たしではなく、恥がともないました。神の知恵ではなく、自分たちで善悪を知ることができるという誘惑に負けたためです。
2D 苦悩 6−7
30:6 ネゲブの獣に対する宣告。「苦難と苦悩の地を通り、雌獅子や雄獅子、まむしや飛びかける蛇のいる所を通り、彼らはその財宝をろばの背に載せ、宝物をらくだのこぶに載せて、役にも立たない民のところに運ぶ。
この世の知恵に頼ることによる二つ目の結果は苦悩です。ネゲブの獣に対する宣告とありますが、エジプトに下る時にユダは、ネゲブ砂漠を通らなければいけません。エジプトからの助けを得るために、彼らは財宝をろばやらくだに載せていますが、危害を与える獣の中を苦労して運ばなければいけないことを、ここでは話しています。
教会の中で、主が導かれるものに頼っていくのではなく、人間的な手法でその運営を行なっていけば、その中にいる人々は大変になります。疲れてきます。主によってではなく、自分で企画したものは、主ではなく、自分自身で継続させていかなければなりません。苦労が伴います。また苦悩も伴います。いろいろな人間的な、肉的な思惑が教会の中を錯綜するので、それで悩みも多くなのです。
30:7 そのエジプトの助けはむなしく、うつろ。だから、わたしはこれを『何もしないラハブ』と呼んでいる。」
「ラハブ」は、エジプトの別名です。ここの別訳は、「病気で休んでいるラハブ」です。何も処方箋、解決法を持っていないのに、それに期待をかけてずっと待っている状態です。むなしいですね。
3D 記憶 8−11
30:8 今、行って、これを彼らの前で板に書き、書物にこれを書きしるし、後の日のためとせよ。代々限りなく。30:9 彼らは反逆の民、うそつきの子ら、主のおしえを聞こうとしない子らだから。
彼らが特に自分たちが反逆していると思っていないので、主が言われたとおり、恥や苦難がやってきても、それを主が前もって警告されていたことは、すっかり忘れていることでしょう。けれども、「あなたがたは、確かに主の御言葉に聞き従わなかったから、このようになっているのだ。」とその因果関係をしっかり記憶してほしいと主は願われています。
私たちも、ある方法で上手くいかなかったら、じゃあ別の方法をと考えて、いつまでも苦しみの中にいるときに、非常に単純な主の呼びかけを忘れています。主に救いを求めていない、この問題一つに尽きることを思い出すとき、初めて救いが来ます。
30:10 彼らは予見者に「見るな。」と言い、先見者にはこう言う。「私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。30:11 道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。」
ここに意図的に彼らが御言葉を拒んでいる姿が描かれていますね。そして何を聞きたいのか?「私たちの気に入ることを語れ」です。同じことをパウロはテモテに、終わりの時に起こることとして話しました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:2-4)」
4D 破滅 12−14
30:12 それゆえ、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「あなたがたはわたしの言うことをないがしろにし、しいたげと悪巧みに拠り頼み、これにたよった。30:13 それゆえ、このあなたがたの不義は、そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目のようになる。それは、にわかに、急に、破滅をもたらす。30:14 その破滅は、陶器師のつぼが容赦なく打ち砕かれるときのような破滅。その破片で、炉から火を集め、水ためから水を汲むほどのかけらさえ見いだされない。」
世の知恵に頼った時におこる結果の三つ目は、破滅です。ここ13節で「そそり立つ城壁に広がって今にもそれを倒す裂け目」とありますが、現在の神殿の西壁、嘆きの壁の一部が大きく膨れている部分があります。おそらく神殿の丘の地下にイスラム教徒が祈祷室を作ったために、地盤が動いてそのようになっていると言われていますが、非常に危うい状態です。
イザヤは、その他、陶器師のつぼが粉々に打ち砕かれることもたとえにして、世の知恵による破壊について述べています。どんなに表向きは優れていて、大きなもののように見えても、必ず壊れてしまい、なくなってしまう、ということです。そしてそれは突如として起こります。
30:15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
ここですね、主が与えてくださる知恵には救いがあります。そのためには、私たちは急いで世の知恵に頼ろうとするのではなく、立ち止まって、静かにする必要があります。どうでしょうか、私たちに何か問題があって、その問題を解決してもらうために、いろいろ行動に動くことはしないでしょうか?カウンセラーに連絡を入れるとか。教会全体の運営について言えば、なかなか人々が教会に来ないので、焦りから成長プログラムに走ることはないでそうか?
ただ、立ち止まって、主を待ち望めばいいのです。私は、最近、年の若い信者の人が、いろいろな集会に顔を出しているのを見て、次のようにアドバイスをしました。「私も大学生の時はそうだった。何かが物足りないと思って、また、神のビジョンは何かを求めて、いろいろな集会に顔を出した。けれども今は、ただ自分の部屋で、聖書を開いて、祈って、御言葉をいただき、主と交わることだけで満足している。」と。ここには平安があります。そして力も与えられます。またどんな差し迫った大きな問題からも救われます。
30:16 あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。30:17 ひとりのおどしによって千人が逃げ、五人のおどしによってあなたがたが逃げ、ついに、山の頂の旗ざお、丘の上の旗ぐらいしか残るまい。
自分の知恵によって危機を免れようとすると、襲ってくる危険は恐れです。実際はさほど大きな問題ではないのに、その不安や恐れによって大きな問題のように感じます。敵に追い回されているのではなく、自分の恐れによって出来上がった敵に追い回されているのです。
2C 神の恵み 18−33
けれども、次に良き知らせがあります。
1D 民の立ち上がり 18−26
30:18 それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
「それゆえ」と書いてありますね。主は、今見ているようなユダの人々の状態を憐れんでいてくださっています。かわいそうに思われています。私たちがこの世の知恵に頼って、恥、苦しみ、破滅、焦りの中にいることを、可愛そうに思っておられます。
それで主は立ち上がってくださいます。恵みを注ごうと待っておられます。恵みの福音です。私たちが何も神に認められるようなことは何もしていないのに、それでも主は私たちを愛して、私たちに祝福を注ごうとされているのです。
そして、「幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」とあります。先ほどもありました、立ち返って静かにする、落ち着いて信頼する、そうすれば救われるし、力を得る、とありました。これがすべての問題解決の鍵です。
30:19 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。
これから、主が私たちに注いでくださる霊的祝福について書いてありますが、その前に、ユダの人々を「シオンの民、エルサレムに住む者」とあることに注目してください。主がご自分の名を置くと言われた、選びの町の住民です。主が選ばれた者たちです。ゆえに霊的祝福があります。同じように私たちは、キリストにあって選ばれた者です。エペソ書1章には、世界の基の置かれる前からキリストにあって選ばれた、とあります。
そしてその祝福とは、一つ目は、主が祈りに応えてくださる、ということです。叫び声を出せば主がすぐにそれに応答してくださる、ということです。このような親密な関係を主と持つことができる、ということです。
私たちの不幸は、自分の殻の中に閉じこもることです。よく「閉じこもり」という言葉が使われますが、霊的な閉じこもりがあります。それは主からの助けが用意されているのに、ただ自分の中で泣き崩れていることです。けれども主の恵みに触れてからは、それらの叫びはみな主に申し上げることができるようになります。
30:20 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。30:21 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。
二つ目の霊的祝福は、はっきりと主の御声を聞き取ることができることです。物質的には、ここに書かれてあるとおりわずかかもしれません。けれども、あらゆる状況の中で主が何をお考えになっているか、ご聖霊がいつも教えてくださるのです。「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(1ヨハネ2:27)」
30:22 あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚し、汚れた物としてそれをまき散らし、これに「出て行け。」と言うであろう。
彼らは、心から偶像を憎むことができるようになります。エジプトに頼ろうとする心は、実は偶像礼拝なのです。神以外の他のものを神とする偶像礼拝なのです。私たちがこの世の知恵に頼っていることは、心の奥底に神ではないほかのものを信念として根深く持っていることを示しています。これを捨てることは容易ではありませんが、主の憐れみと恵みによって捨てることができます。
30:23 主は、あなたが畑に蒔く種に雨を降らせ、その土地の産する食物は豊かで滋養がある。その日、あなたの家畜の群れは、広々とした牧場で草をはみ、30:24 畑を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。
これまでの預言もそうでしたが、イザヤが生きていた時代だけのことを語っているのではなく、終わりの時に究極的にどのようになるかがここに描かれています。イエス・キリストが再臨されて、地上に神の国を立てられたときに、イスラエルの地は、ここに書かれているとおり豊かな農作地となります。
30:25 大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日に、すべての高い山、すべてのそびえる丘の上にも、水の流れる運河ができる。
大いなる虐殺、やぐらの倒れる日とは、キリストに立ち向かう世界の軍隊がキリストによって滅びることを指しています。つまりハルマゲドンの戦いです。
高い山にも水の流れる運河が出来る、つまり水がものすごく豊かになる、ということです。地中海性気候の中にあるイスラエルにとって、これは考えられないことです。そして、
30:26 主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。
究極の癒しを主が与えられます。これが三つ目の霊的祝福です。むろん肉体の癒しも神の国では約束されていますが、ここでは反逆によって、罪によって傷ついた心を主が十分に癒してくださり、また慰めてくださることを意味しています。
黙示録21章で、天からエルサレムが降りてくるとき、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(4節)」とありましたね。イエス様が泣かれた時のことを覚えておられるでしょうか?ラザロが死に、そのことを悲しむ人々の姿をご覧になったときに泣かれました。死は、私たちに究極の悲しみをもたらします。もっとも心に傷を与えるのが死です。ヨブも、また伝道者の書でソロモンも、どうせ死ぬのなら生きてこなければよかったということを話しています。けれども、主がその死を滅ぼされることによって、究極の癒しを与えてくださいます。
そして天のエルサレムには、イザヤの預言と同じように太陽、月がありません。神と小羊ご自身がおられるからです。さらに、都の中央にはいのちの木があり、その木の葉が人々をいやすとあります。この点でもイザヤの預言と同じです。
2D 敵に対する攻撃 27−33
30:27 見よ。主の御名が遠くから来る。その怒りは燃え、その燃え上がることはものすごく、くちびるは憤りで満ち、舌は焼き尽くす火のようだ。30:28 その息は、ほとばしって、首に達するあふれる流れのようだ。破滅のふるいで国々をふるい、迷い出させる手綱を、国々の民のあごにかける。
ここからイスラエルを滅ぼそうとしていたアッシリヤ、また終わりの時の世界の軍隊に対する主の報復が始まります。
主が彼らを攻撃する方法は、主に息です。あるいは言葉と言ってもよいでしょう。覚えていますか、黙示録19章で主が諸国の軍隊と戦われる時に口から出てくる剣によって戦われました。
30:29 あなたがたは、祭りを祝う夜のように歌い、主の山、イスラエルの岩に行くために、笛に合わせて進む者のように心楽しむ。30:30 しかし、主は威厳のある御声を聞かせ、激しい怒りと、焼き尽くす火の炎と、大雨と、あらしと、雹の石をもって、御腕の下るのを示される。
イスラエルは、自分たちが救われたことを喜び楽しんでいます。一方で、アッシリヤまたは世界の軍隊は、主の恐ろしい怒りの中で怯えています。次もご覧ください。
30:31 主の御声を聞いてアッシリヤはおののく。主が杖でこれを打たれるからだ。30:32 主がこれに下す懲らしめのむちのしなうごとに、タンバリンと立琴が鳴らされる。主は武器を振り動かして、これと戦う。
主が怒りを下されるたびに、楽器が奏でられています。タンバリンと立琴とありますが、覚えていますか、黙示録にて主が激しい怒りと地上に下すときに、天では歌がありました。賛美がありました。出エジプト記の時も思い出してください、紅海の中にエジプトの軍隊が沈んだのを見たとき、モーセは歌い、モーセの姉ミリヤムはタンバリンで主を賛美しました。自分たちの敵、いや究極的には神ご自身の敵が滅んだからです。
30:33 すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。主の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。
トフェテとは、新約聖書ではゲヘナと呼ばれている場所です。エルサレムの町の南にある谷、ヒノムの谷はいわば、ごみ焼却所でした。そこで絶えず火が焚かれ、消えることはありませんでした。エルサレムは異教のならわしに従い、そこで要らない子どもを燃やして、偶像の神へのいけにえとしてささげていたのです。
この火が消えることがない物を遺棄する場所ゲヘナの名称を、主イエスは地獄を言い表す時に用いられたのです。ですから、王たちが今、ゲヘナつまり地獄へと投げ込まれることがここに預言されています。
2B 力 31
このように主は、イスラエルを贖われ、そして敵と戦われます。次の章で再び主は、エジプトにより頼むことの愚かさについて叱責をされます。
1C 肉の弱さ 1−3
31:1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
先ほどは、知恵について主が責められていました。ここでは、力について責めておられます。何を自分たちを守る力としているか。彼らの拠り所は馬であり、戦車であり、強い騎兵隊でした。イスラエルの聖なる方、主を自分たちの力としませんでした。
他の有名なダビデの賛美がありますね。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:7)」目に見えるところの力に拠り頼むのは、私たちにとって大きな誘惑です。いとも簡単に出来てしまいます。
この歌をうたったダビデは、自分が勇士であるにも関わらず、決して自分の力に頼りませんでした。例えば、サウルが、自分が隠れている洞窟にやってきて休眠を取っているとき、彼は手を下しませんでした。サウルの上着の端を切り取ったことさえ、彼は良心が痛んだのです。
31:2 しかし主は、知恵ある方、わざわいをもたらし、みことばを取り消さない。主は、悪を行なう者の家と、不法を行なう者を助ける者とを攻めたてられる。31:3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。
ここに非常に大切な対比があります。目に見えるものと目に見えないものの対比です。肉と霊の対比ですが、私たちは霊というと幽霊のような、おぼろげでふわっとしたもののように勘違いします。しかし聖書によれば、御霊によって天と地が造られたのであり、目に見えるものは、目に見えないもののよって支配され、動かされているという圧倒的な力の差があるのです。
ダニエル書10章を読めば、大国の興亡の背後には、それぞれの国に天使がいるからであることが明らかにされています。今の超大国を見てください、アメリカ、中国、ロシアなどなど、目に見える国々は目に見えない存在によって動いているのです。
エリシャが、自分のしもべに見せたことも忘れてはならないでしょう。シリヤ軍に取り囲まれて、しもべは絶望的になりましたが、エリシャが神に願ったのは、彼が霊の世界が見えるようにすることでした。見たものは、自分たちを取り囲むシリヤ軍をさらに取り囲んでいる、火の戦車などの天使の軍勢でした。
だから私たちの戦いは、血肉に対するものではないのです。だから祈りが大事なのです。ニュースを見て一喜一憂するのではなく、福音が世界にくまなく広がっていくために、私たちは力を尽くして祈っていくべきなのです。これは核兵器よりもはるかに強力な世界をひっくり返す武器なのです。
2C 主の守り 4−9
31:4 まことに主は、私にこう仰せられる。「獅子、あるいは若獅子が獲物に向かってほえるとき、牧者がみなそのところに集められても、それは、彼らの声に脅かされず、彼らの騒ぎにも動じない。そのように、万軍の主は下って来て、シオンの山とその丘を攻める。
私たちは何か妨害が入ったら、少し心が動きますね。けれども、ここのライオンのように少しも心を動かさない雄々しさ、勇ましさが主にはあります。
私が尊敬する聖書教師デービッド・ホーキング氏は、そのような人なのですが、一度、説教壇から同性愛が罪であることを強く主張していたときに、説教壇のマイクをつかんで妨害使用とした人がいました。彼は「後で話すから」と一言いっただけで、そのまま説教を続けたのです。ほんの少しも動じていませんでした。
またイスラエル旅行のとき、カルメル山にある修道院の屋上で、その修道院のルーツがいかに偶像礼拝にそまってしまったか、バアルの預言者と対決したエリヤを記念するのに、その預言者の末裔がこの場所をしきっている、という暴露話をしましたが、後ろで大きく手を叩いてやめなさいという合図をしている人がいたのに、まったく無視して話していました。
主の御霊に満たされると、こうなるんだなといつも関心していますが、主が今、アッシリヤの大軍、または世界の諸国の軍隊の大きさにまったく動じることなく、攻めておられます。
31:5 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」
紀元前701年、アッシリヤがエルサレムを包囲したときに、朝起きて外を見ると18万5千人がみな倒れているのをエルサレムの住民は目撃しました。飛びかける鳥のように主は守ってくださったのです。
31:6 イスラエルの子らよ。あなたがたが反逆を深めているその方のもとに帰れ。31:7 その日、イスラエルの子らは、おのおの自分のために自分の手で造って罪を犯した銀の偽りの神々や金の偽りの神々を退けるからだ。
そうなんです、この世の知恵に頼ることも反逆の罪であることをイザヤは先に話しましたが、この世の力に頼ることも主への反逆なのです。そしてそれは神ではないものを神にしている偶像礼拝でもあります。
イスラエル人は偶像を捨てました。私たちはどうでしょうか?神ではなく自分で考えてよしと思っていること、神ではなく目に見えるものにより頼んでいること、これらのものを捨てることができるために、主は時に、アッシリヤのような脅威を私たちに送られます。自分たちではどうすることもできない状況を私たちに送られます。それによって、私たちが自分ではなく神により頼むことができるようにするためです。
31:8 アッシリヤは人間のものでない剣に倒れ、人間のものでない剣が彼らを食い尽くす。アッシリヤは剣の前から逃げ、若い男たちは苦役につく。
分かりますか、アッシリヤを倒したのは、さらに強力な国の軍隊ではありませんでした。人間ではないものからの剣が彼らを食い尽くしました。主の使いの剣です。肉よりも霊のほうがはるかに強いことがここにも現れています。
31:9 岩も恐れのために過ぎ去り、首長たちも旗を捨てておののき逃げる。・・シオンに火を持ち、エルサレムにかまどを持つ主の御告げ。・・
主がシオン、エルサレムを強固に守っておられます。ここから私たちが学び取らなければいけないことは、守ってくださるのは主であり、自分ではないということです。自分で守ろうとすれば、いま見たように、主の守りはありません。だから大変です。けれども、主が守ってくださることに信頼すれば、主が責任を取ってくださいます。
私たちが言葉によって攻撃を受けたとき、自己弁明をすべきかどうか迷います。自分で行うのは非常に簡単に見えます。けれども実はその逆であることを私たちは知っています。主に任せること、主の守りの中に隠れることが実はもっとも容易なのです。
2A 正義の王 32
そして次に、主が敵を攻撃されて、ご自分が王になる神の国の幻があります。
1B 正しい秩序 1−8
32:1 見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる。
この「ひとりの正義の王」はもちろんイエス・キリストです。主がエルサレムから世界を統治されます。そして「首長たち」とあります。神の国はイエス・キリストご自身のワンマン・ショーではありません。ご自分の権威を多くの人に委託する、共同統治の形態を取ります。
使徒に対して主は、「世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたにも十二の座について、イスラエルの十二の部族をさばくのです。(マタイ19:28)」と言われました。そして回復したイスラエルは、諸国の民を支配するようになることがイザヤ書14章1−2節にあります。
そして教会がキリストとともに統治することは、何度も何度も約束として啓示されています。「私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった・・(黙示1:6)」「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8:17)」
そしてまた、大患難時代に殉教した者たちも復活して、キリストとともに千年の間王となった、と黙示録20章4節にあります。
32:2 彼らはみな、風を避ける避け所、あらしを避ける隠れ場のようになり、砂漠にある水の流れ、かわききった地にある大きな岩の陰のようになる。
憩うことができる、安心できる、ということです。神の国に約束されたこの祝福は、霊的に今、私たちにも与えられています。
32:3 見る者は目を堅く閉ざさず、聞く者は耳を傾ける。32:4 気短な者の心も知識を悟り、どもりの舌も、はっきりと早口で語ることができる。
先ほどもありました、霊的祝福の一つは、主の声を聞くことが出来き、また主に対して自由に語ることができることです。霊的に閉ざされていた人々が知恵を得て、語ることができます。
32:5 もはや、しれ者が高貴な人と呼ばれることがなく、ならず者が上流の人と言われることもない。
先に、主が「正義によって治める」とありましたが、実際に正義があらゆるところにまかり通ることを、ここでは表しています。
今の世の中では、しれ者が高貴な人と呼ばれることがあります。実際は悪いことをしているのに、高く評価されています。悪いことをしている人、恥ずべきことをしている人が幅を利かせていますが、神の国ではそうではありません。
32:6 なぜなら、しれ者は恥ずべきことを語り、その心は不法をたくらんで、神を敬わず、主に向かって迷いごとを語り、飢えている者を飢えさせ、渇いている者に飲み物を飲ませないからだ。32:7 ならず者、そのやり方は悪い。彼はみだらなことをたくらみ、貧しい者が正しいことを申し立てても、偽りを語って身分の低い者を滅ぼす。32:8 しかし、高貴な人は高貴なことを計画し、高貴なことを、いつもする。
正しいことを正しいとする人が、高い地位に着きます。良い評判を得ます。そして報われます。私たちは、これは正しいことだと思っても胸のうちに閉まっておかなければならないことがしばしばですが、神の国では堂々と、はっきりと前面に出すことができるのです。
2B 過ぎ去る安逸 9−14
32:9 のんきな女たちよ。立ち上がって、わたしの声を聞け。うぬぼれている娘たちよ。わたしの言うことに耳を傾けよ。
今、まだ悔い改めていないユダに対して主が問い詰めておられます。主の前で貧しくならなければいけないのに、「主がおられなくてもへっちゃらさ」といううぬぼれと自己満足の中に生きていたのです。それを「のんきな女たちよ」「うぬぼれている娘たちよ」と主は言われているのです。
32:10 うぬぼれている女たちよ。一年と少しの日がたつと、あなたがたはわななく。ぶどうの収穫がなくなり、その取り入れもできなくなるからだ。32:11 のんきな女たちよ。おののけ。うぬぼれている女たちよ。わななけ。着物を脱ぎ、裸になり、腰に荒布をまとえ。32:12 胸を打って嘆け。麗しい畑、実りの多いぶどうの木のために。
アッシリヤの侵攻の時はヒゼキヤのへりくだりと祈りのゆえに、危険を回避できましたが、バビロンが包囲したときに、この言葉が成就しました。
32:13 いばらやおどろの生い茂るわたしの民の土地のために。そして、すべての楽しい家々、おごる都のために。32:14 なぜなら、宮殿は見捨てられ、町の騒ぎもさびれ、オフェルと見張りの塔は、いつまでも荒地となり、野ろばの喜ぶ所、羊の群れの牧場となるからだ。
エルサレムの町が廃墟となることを、主は警告しておられます。テサロニケ人への手紙第一5章で、私たちが平安だ、安全だと言っているときに、突如として破壊が襲いかかる、という言葉がありますが、私たちにとっての敵は私たち自身であります。自分は大丈夫だ、という安逸です。目を覚まして、祈っているところから離れて、日々を何となく生きていることです。
3B 平和と安全 15−20
32:15 しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。32:16 公正は荒野に宿り、義は果樹園に住む。
再び主が回復されたイスラエルの幻が書かれています。それを引き起こすのは、上からの霊です。つまり主の御霊です。ここからでも、主の霊が幽霊のようなおぼろげなものとは裏腹に、土地を肥沃にする力と命を持った方であることが分かります。
将来は物理的にそのようにしてくださるのですが、私たちのうちにおられる御霊は霊的に多くの良い実を私たちのうちに結ばせてくださるという約束があるのです。私たちはどれだけの実を結ばせているでしょうか?足りないと感じているならば、御霊にもっともっと満たされることを願い求めましょう。
32:17 義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。32:18 わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む。
神の国の特徴の一つは、平和があります。世界の人々は誰でも平和を求めています。多くの人が、一部の戦争が好きな国のために世界に戦争があると思っていますが、そうではありません戦争を行っている国の人々も、平和を願っています。戦争をすることがいかに大変なことか、一番知っているのは、戦争をしている当事者です。
けれども平和は来ません。なぜか?平和の君を受け入れていないからです。すべての戦争は、人の心から来ています。平和の君であるイエス・キリストを自分の主にしないかぎり、世界の平和は決して来ないのです。だから私たちは、平和を造る者として福音を宣べ伝えるのです。そして、神の国を建ててくださるイエス・キリストを待ち望むのです。
そして平和が義とともに語られていることに注目してください。イザヤ書の他の箇所でもそうですが、正義があるからこそ平和の実があることを私たちは忘れてはいけません。悪がはびこっていて、それを取り除こうとする人々がいて戦いが起こっているのをみて、「戦うのは間違っている。平和になれ。」と叫んでいる人は見当違いなのです。
聖書では、正義があって初めて平和があることを教えています。これは個人生活でもそうなのです。ヘブル人への手紙12章で、主の愛による懲らしめが書かれています。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)」私たちが主からの訓練を受けて、罪から離れ、聖い生活を歩むことができればできるほど、その生活は平安になります。心のうちが平安ですし、そして周りとの関係も平和になります。
32:19 ・・雹が降ってあの森を倒し、あの町は全く卑しめられる。・・32:20 ああ、幸いなことよ。すべての水のほとりに種を蒔き、牛とろばとを放し飼いするあなたがたは。
今のエルサレムは滅ぼされるけれども、将来のエルサレムは、何の不安も緊張もなく、ゆったりと何の妨げもなく、農作業ができるし、放牧ができるということです。
以上、私たちがどちらに拠り頼んでいるか、という問いかけを、イザヤ書30−32章で主は私たちにされております。正義の王である主のもとに身を避ければ、安らぎがあります。主が守ってくださいます。けれども私たちは目に見えるものにより頼もうと焦ります。この世にある知恵により頼もうとします。けれども、主に頼るという単純な行為を選び取りなさい、という勧めです。
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