イザヤ書33−35章 「世界を変える主」

アウトライン

1A 主の立ち上がり 33
   1B 国々が与えた苦しみ 1−12
   2B 国内の罪 13−16
   3B 麗しい王と都 17−24
2A 国々に対する聖絶 34
   1B 大虐殺 1−15
      1C すべての国々 1−4
      2C エドム 5−15
   2B 主の書物 16−17
3A 主の贖い 35
   1B 荒地の喜び 1−7
   2B 聖なる道 8−10

本文

 イザヤ書33章を開いてください、今日は33章から35章までを学びます。今日のテーマは、「世界を変える主」です。とうとうイザヤ書前半部分のクライマックスが来ました。もちろん36章から39章までの、アッシリヤから救われるエルサレムの記事がクライマックスなのですが、それはこれまでの預言の背景となる出来事です。預言としては、今日学ぶところがクライマックスです。

 28章から「ああ」または「災いだ」という言葉から始まる、エルサレムやユダに対する預言がありました。33章も「ああ」で始まりますが、対象が異なります。ユダヤ人ではなく、彼らを滅ぼそうとする敵に対する主の裁きです。

1A 主の立ち上がり 33
1B 国々が与えた苦しみ 1−12
33:1 ああ。自分は踏みにじられなかったのに、人を踏みにじり、自分は裏切られなかったのに、人を裏切るあなたは。あなたが踏みにじることを終えるとき、あなたは踏みにじられ、あなたが裏切りをやめるとき、あなたは裏切られる。

 これは、アッシリヤのことですが、アッシリヤが周辺の国々に対して戦争を行なったとき、自分たちがその国々から虐げられたから戦ったのではなく、ただ欲望のままに戦いました。世界の大国になる国々は、多くの場合そうですね。相手に対して自分たちが戦う何の原因もないのに、ただその土地が欲しい、資源が欲しい、そこの住民の力が欲しいと願って戦争をするのです。

 けれども、そのように人々を圧迫していく人または国は、自分たちがその圧迫をやめたときに、必ず自分たちがその圧迫を受けます。ですから多くの専制君主や他の人を貶めている人は、途中から恐れによって人々をさらに圧迫します。初めは欲望から始まった圧制は、途中で自分も同じ目に遭うかもしれないという恐れによって、それを継続して行なわなければいけなくなるのです。

 けれどももちろん、このような虐げは必ず破綻が来ます。ここに書かれているとおり、必ず虐げる者は同じ虐げを受けます。

33:2 主よ。私たちをあわれんでください。私たちはあなたを待ち望みます。朝ごとに、私たちの腕となり、苦難の時の私たちの救いとなってください。

 アッシリヤによって包囲されていたエルサレムの住民、そして神を敬う残りの民は、この祈りをささげていました。圧迫の中で一日、一日を過ごしていた時に、主の憐れみが日ごとに必要だったのです。

 私たちもこの祈りが必要ですね。主を求める人には、必ず苦しみが来ます。主を求めることは、そのままこの世に対抗して生きることですから、この世からの圧迫が来ます。だから私たちは、二日に一遍の祈りだけでは済まないのです。毎日、毎日、朝ごとに主からの助けが必要なのです。

33:3 騒ぎの声に国々の民は逃げ、あなたが立ち上がると、国は散らされます。33:4 あなたがたの分捕り物は、油虫が物を集めるように集められ、いなごの群れが飛びつくように飛びつかれる。

 主が行動を起こされれば、すべてのことは解決します。これだけ強大な力を持っていても、主が立ち上がりさえすれば、その軍隊は瞬く間にいなくなります。ここの分捕り物とは、ものすごく数多い軍隊が一気にいなくなって、その場に大量に物を残していたという意味です。アッシリヤ軍18万5千人が死んだ時はそのようになっていたことでしょう。

33:5 主はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。

 祈りから賛美をささげていますが、すばらしい信仰告白です。一つ目、「主はいと高き方」です。アッシリヤよりもはるかに高いところにご自分の王座を持っておられる方です。私たちの目の周りの立ちはだかっている問題よりも、はるか高いところに御座を持っておられる方です。

 そして「高い所に住み」とあります。詩篇46篇を見ますと、山々が海のまなかに移っても、なお残っている所が神の都です。この地上の天地は滅び去りますが、主がおられる天はいつまでも残ります。ですから私たちが今受けている試練は一時的なのです。永遠の、不動の神がおられるのですから安心です。

 そして「シオンを」とあります。主が選ばれた都です。主が選ばれた人には、特別な契約があります。特別な恵みがあります。

 そして「公正と正義で満たされる」とあります。主が、「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6」と言われました。主は必ず、正義をこの地上に確立してくださいます。必ず公正に裁いてくださいます。公正と正義が必ず支配します。

33:6 あなたの時代は堅く立つ。知恵と知識とが、救いの富である。主を恐れることが、その財宝である。

 義に飢え渇いている人々にとって、それが満たされる時代がやって来ます。ここにも、私たちにとても大切な言葉があります。

 一つは、「知恵と知識」です。これは必ずしも、知的な知識のことではありません。けれども、救いについて、聖書そして御霊によってたくさんの知識が与えられ、またそれにふさわしい行動、つまり知恵も与えられます。一度、信じたのだから、もう救いについて知らなくても大丈夫だ、ではないのです。この救いは、ここに書いてあるとおり富んでいるものなのです。だからそれをもっともっと実感して、喜び、楽しまないともったいなのです。

 そしてもう一つ「主を恐れること」です。主を敬うこと、畏れかしこむことです。単なる知識や知恵ではなく、主に対する畏敬を持っているからこそその知識と知恵が生かされます。

33:7 見よ。彼らの勇士はちまたで叫び、平和の使者たちは激しく泣く。

 ここは、エルサレムがアッシリヤに対して、何もすることができない状況を表しています。アッシリヤがユダを攻めてきたとき、ヒゼキヤ王は聖所のありとあらゆる金銀を使って、アッシリヤをなだめようとしました。けれどもそれは失敗でした。彼らはその多額の金銀を受け取ったのに、やはりエルサレムを包囲したのです。だから7節に、「彼らの勇士たちは叫び、平和の使者たちは激しくなく」とあります。アッシリヤに対して戦うにはあまりにも弱く、平和外交も失敗に終わりました。

33:8 大路は荒れ果て、道行く者はとだえ、契約は破られ、町々は捨てられ、人は顧みられない。

 ユダの地域にあった幹線道路はアッシリヤによって荒されました。そして人としての定めもことごとく破って、ユダの町々を倒していきます。

33:9 国は喪に服し、しおれ、レバノンははずかしめを受けて、しなび、シャロンは荒地のようになり、バシャンもカルメルも葉を振り落とす。

 イスラエルの地全体を花に例えて、その花がしおれてしまうと言っています。実際にこの三つの地域は非常に美しい地域で、自然または農地があることですが、レバノンはもちろんイスラエル北部の地域です。北部の海岸地域です。そしてシャロンはカルメル山の東に広がっている平野です。それからバシャンはヨルダン川東岸、そして今のゴラン高原の地域ですが、そこがアッシリヤによって衰え果てました。

33:10 「今、わたしは立ち上がる。」と主は仰せられる。「今、わたしは自分を高め、今、あがめられるようにしよう。

 主が立ち上がられる時が来ます。主が高き方であり、高き所におられるにふさわしく、全ての人が認めることができるようにするために立ち上がられる時が来ます。詩篇1101節で、「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、私の右の座に着いていよ。」と父なる神がキリストにおっしゃっている場面がありますが、今は主は座しておられます。そして私たちのために大祭司としてとりなしておられます。けれどもその座から立ち上がられる時があります。それが敵に報復するときなのです。

33:11 あなたがたは枯れ草をはらみ、わらを産む。あなたがたの息は、あなたがたを食い尽くす火だ。33:12 国々の民は焼かれて石灰となり、刈り取られて火をつけられるいばらとなる。

 火による報復です。終わりの時に主は火をもって裁きを行なわれます。34章で詳しく見ます。

2B 国内の罪 13−16
33:13 遠くの者よ。わたしのしたことを聞け。近くの者よ。わたしの力を知れ。」

 今度は遠くにいる者たちだけでなく、近くにいる者たちに対しても主が報復をされます。つまり、アッシリヤだけでなく、シオンの中にいる不信者たちに対して、です。

33:14 罪人たちはシオンでわななき、神を敬わない者は恐怖に取りつかれる。 「私たちのうち、だれが焼き尽くす火に耐えられよう。私たちのうち、だれがとこしえに燃える炉に耐えられよう。」

 ここの「神を敬わない者」の英訳は、hypocriteつまり偽善者です。信じていると装っていながら、実はそうではない人たちのことです。ただ物理的にシオンにいるから自動的に救いに与っているわけではありません。エゼキエル書20章には、「わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。(37-38節前半)」とあります。大患難のときに、民族的にはユダヤ人でありながら信仰を持たない者は滅んでしまうことがここに書かれています。

 これは教会の中でも同じです。教会という目に見える組織の中には、目に見えないキリストのからだの一部にされている人もいれば、そうでない人もいます。神の裁きが来た時にふるいにかけられます。

 そして焼き尽くす火に耐えられようと嘆いている声がありますが、ヘブル書1229節で引用されています。「私たちの神は焼き尽くす火です。」私たちはとかく、このような箇所を避けたいし、比喩的に解釈したくなります。けれども、ラザロと金持ちについてのイエス様のお話も思い出してください。あそこでも金持ちは、火の熱さの中で苦しんでいましたね。地獄は実際に存在するところなのです。

33:15 正義を行なう者、まっすぐに語る者、強奪による利得を退ける者、手を振ってわいろを取らない者、耳を閉じて血なまぐさいことを聞かない者、目を閉じて悪いことを見ない者、

 ここに私たちに対する、義への招きがあります。正しく生きるとはこのようなことなんだよ、というガイドラインです。まっすぐに語らずに、曲がって語ることがありますね。自分の物欲しさから、人から奪い取ろうとする気持ちもあります。そして他の人から良くしてもらったら、その人をえこひいきする誘惑もあります。さらに、次の耳を閉じ、目を閉じることはどうでしょうか?毎日聞くニュース、そして暴力や性的表現の多い世の中ですが、私たちはこれに対して健全な嫌悪感や拒否感を抱いているでしょうか。そしてそのように生きる者への約束が次に書かれています。

33:16 このような人は、高い所に住み、そのとりでは岩の上の要害である。彼のパンは与えられ、その水は確保される。

 すばらしい約束ですね。高い所に住み、岩の上の要害とは、もはや敵の攻撃を受けることはない、ということです。主にあって安心し、安全でいられます。そして、日毎の糧も与えられます。私たちが持っている二つの課題、安全と生活の必要が、主にあって正しく生きることによって確保されるのです。

3B 麗しい王と都 17−24
 そして次は、神の国の情景です。主が地上に再臨されて、神の国が建てられたときの光景です。

33:17 あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。

 すばらしいです、今、あなたの目は私たちの王、主イエス・キリストを見ています。この方が「麗しい王」と形容されています。すべての良き物を持っておられて、栄光に輝いておられる私たちの主を、物理的に見ることができるようになります。コリント第一13章、あの有名な愛の章の中に、「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(12節)」とあります。完全に、顔と顔を合わせて見ます。

 そしてそれは、遠く広がっています。エルサレムを中心にして、地の果てまで麗しい王の支配が広がっています。目に浮かんできそうです!

33:18 あなたの心は、恐ろしかった事どもを思い起こす。「数えた者はどこへ行ったのか。測った者はどこへ行ったのか。やぐらを数えた者はどこへ行ったのか。」33:19 あなたは、もう横柄な民を見ない。この民のことばはわかりにくく、その舌はどもって、わけがわからない。

 これはアッシリヤのことです。アッシリヤがイスラエルとユダの民を支配して、その民の住民を数え、その土地を測り、やぐらを数えていたのですが、それが今はどこに行ったのか、と驚いています。もはや自分たちを支配する、横柄な者はいない、という驚きと喜びです。

 エフライムに対する裁きの一つに、外国の言葉を自分たちのところで聞くようになる、というものがありましたね(28:1113)。もう支配する民の外国語は聞かれなくなる、ということです。

33:20 私たちの祝祭の都、シオンを見よ。あなたの目は、安らかな住まい、取り払われることのない天幕、エルサレムを見る。その鉄のくいはとこしえに抜かれず、その綱は一つも切られない。

 麗しい王の次に、神の都シオンを見ています。この都は「祝祭の都」と呼ばれています。主を祝うための七つの祭りを、主はレビ記23章でお定めになっていますが、主を祝うことがその都の大きな特徴となります。

 そしてその都は、これまで約束されてきた安息、安全、安定のすべてを持っています。

33:21 しかも、そこには威厳のある主が私たちとともにおられる。そこには多くの川があり、広々とした川がある。櫓をこぐ船もそこを通わず、大船もそこを通らない。

 神の都の特徴はそこから川が流れ出ていることです。覚えていますか、主が初めに造られたエデンの園にも大きな川が流れていました。

 そして主が再臨された後の千年王国です。エゼキエル書47章に、エゼキエルが神殿からの水がそのかさを増し東へ流れて出ていることが書かれています。そしてそれは死海に達し、もはや死んだ海ではなく、生きた海となることが預言されています。またゼカリヤ書14章8節には、東に流れる川だけでなく西の海に、つまり地中海にも流れることが啓示されています。ここイザヤ書の預言は、この千年王国時代のものです。

 さらに黙示録21章には、天のエルサレムにおける生ける水の川についての記述があります。ですからどの時代にも、どの経綸においても、主はご自分の国においてその中心から流れる川を持っておられるのです。

 これは霊的には、神がご自分の命と癒しの御霊を私たちの内側からあふれ出させてくださることも意味します。主が私たちのからだを、ご自分の御霊を住まわせる宮にしてくださったがゆえに、私たちの内側から、いやしと命を与えられるのです。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38

33:22 まことに、主は私たちをさばく方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる。

 ここに、私たち民主主義の国が掲げている三つの機関と同じ働きが書かれています。一つは、「さばく方」つまり司法です。そして「立法者」つまり立法ですね。そして「王」つまり行政です。三権分立は、人間が支配するときにその権力が集中しないようにするための方法であり、抑制力が働くには良い制度ですが、もちろん完璧ではありません。所詮、人間が支配しているのです。

 けれども麗しい王であられるイエス様が支配されるときは、そんな心配は要りません。むしろ権力が集中していたほうが良いのです。すべての神の知識と知恵がこの方のうちに隠されているのですから(コロサイ2:3)!

33:23 あなたの帆の綱は解け、帆柱の基は、結びつけることができず、帆は、張ることもできない。そのとき、おびただしい分捕り物や獲物は分け取られ、足なえさえも獲物をかすめ奪う。

 これは、神の敵の軍隊が残したものです。これを人々が分捕り物として取っていきます。

 アレック・モティアという人が書いたイザヤ書の注解では、イザヤ書のメシヤを受難のメシヤの外に、征服のメシヤが描かれていることを説明しています。私もこれに同意です。征服者としてのキリストが一貫して表れています。これまで悪魔が、そして人間が支配してきた国々を、主がご自分のものとして奪還する、その征服の姿を一貫して描き出しています。

 私たちは征服と聞くと、人間が行なう征服のイメージが強いのであまり聞こえは良くないかもしれませんが、むしろこれら人々を自分の欲のために征服してきた国々、人々を圧迫してきた国々を主が制圧し、そして謙遜と愛に満ちた国を打ち立てられる、というシナリオになっています。黙示録には、「この世の国は私たちの王およびキリストのものとなった。主は永遠に支配される。(11:15」とあります。また霊的に私たちが救いを受けたとき、「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配に移してくださいました。(1:13」とコロサイ書にあります。

33:24 そこに住む者は、だれも「私は病気だ。」とは言わず、そこに住む民の罪は赦される。

 病気も罪もなくなります。病気と罪は関わりを持っていますね。主が、天井から吊り降ろされてきた中風の人に、「あなたの罪は赦されました。」と言われました。そしてヤコブ書には、「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(5:15」とあります。

2A 国々に対する聖絶 34
1B 大虐殺 1−15
1C すべての国々 1−4
34:1 国々よ。近づいて聞け。諸国の民よ。耳を傾けよ。地と、それに満ちるもの、世界と、そこから生え出たすべてのものよ。聞け。

 主はこの言葉を語るのに、すべての国々に呼びかけておられます。すべての国々が聞かなければいけない大事なメッセージが次から始まります。「日本は、キリスト教や中東の宗教とは別のものだ。」では決してないのです!

34:2 主がすべての国に向かって怒り、すべての軍勢に向かって憤り、彼らを聖絶し、彼らが虐殺されるままにされたからだ。34:3 彼らの殺された者は投げやられ、その死体は悪臭を放ち、山々は、その血によって溶ける。

 ものすごい光景ですね。けれども聖書は、この激しい神の怒りがすべての国々に対して向けられる大患難時代のときを、一貫して描いています。「ハルマゲドンの戦い」として知られているものです。世界はこれまで自分たちを高ぶらせ、そして戦争を行なってきました。そして最後には、神とキリストに対する戦争を仕掛けます。詩篇第二篇を後でお読みください。

 私たちは、つねに国々との関係の中で緊張状態にあります。アメリカが北朝鮮をテロ支援国家から外して、日本の信頼を傷つけましたが、日米同盟がこれからどうなっていくかわかりません。中国の脅威もあります。そして中東はいつも世界戦争の火種です。原油や食料の高騰のために、これから世界がどうなるかわかりません。世界の指導者は、サミットなどでお互いに仲良くしていることを演じるのに精一杯ですが、いつ何時、そのバランスが崩れて最悪の方向に行くか知れないのです。

 これらをすべて主はご存知です。主は高き所から、これら国々の動きを見下ろしておられます。主はご存知なのです、これらの軍事行動の行く末は父なる神とご自分に向けられたものになることを知っておられます。なぜなら、キリストを主として王として認めないところにすべての争いの原因があるからです。

 ですから国々に対する最終的な裁きは、それら国々が仕掛ける戦争に対して応戦し、彼らを打ち滅ぼされることによって現れます。

34:4 天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は、枯れ落ちる。ぶどうの木から葉が枯れ落ちるように。いちじくの木から葉が枯れ落ちるように。

 最終戦争の時には、同時にまた天変地異も起こります。アダムが罪を犯したとき以来、地は呪われたものとなってしまいました。もちろん環境のために私たちは働きかけることは大切ですが、もともとの原因はやはり、人間が神に背いた罪によるのです。ですから、完全な回復は神にしかできません。神は、人間の罪の決済をされるのと同時に、環境もすべてリモデルされるのです。

2C エドム 5−15
34:5 天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。

 ここからハルマゲドンの戦いが、具体的にどのように展開するのか、もっと詳しい啓示を主が与えておられます。その戦いの舞台の中心はエドムです。死海の南西の部分がエドムですが、以前学びましたね、モアブへの預言のときに、その地域にユダヤ人が逃げてくることを学びました。モアブはエドムの北にあります。死海の東の地域一帯が、主と世界の軍隊の戦場となります。

34:6 主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。34:7 野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。

 牛や羊のいけにえをささげるとき、それは非常に血なまぐさいですが、主は彼らが死体となって転がっていくことを、動物のいけにえに例えておられます。

34:8 それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。

 ここですね、なぜ主がエドムをその戦場にされたのか理由が書かれています。「シオンの訴えのために仇を返す」ためです。

 モアブに対する主の宣告のところで学びましたが、大患難時代、ダニエルの第七十週目の半ばにおいて、反キリストが自分の本性を表します。それまでは平和の君として振舞っていました。ユダヤ人は彼がメシヤだと思って、その政治的指導者と契約を結びます。神殿を自分たちが建てることができる、というのがその契約の条項の一つです。

 ところが三年半後に、反キリストは自ら聖所の中にはいり、自分が神であると宣言します。そして自分を拝まないものを殺していきます。そのときにユダヤ人は、逃げなさいと主はオリーブの山で弟子たちに言われました。山々に逃げなさいと言われました。その行き先が死海の東のほうです。モアブとエドムの地域です。

 黙示録11章を読みますと、竜は女を追っていく、とあります。つまり反キリストは逃げたユダヤ人を追って、これらを滅ぼそうとするのです。そのときに世界の軍隊も反キリストに関わります。それで世界の軍隊がユダヤ人殺しに関わるようになります。その時に主が天から戻ってきてくださるのです。その時に主が、ユダヤ人を救われるために世界の軍隊と戦われるのです。

 つまり、主の復讐の日であり、シオンのために仇を返す年となります。

34:9 エドムの川はピッチに、その土は硫黄に変わり、その地は燃えるピッチになる。34:10 それは夜も昼も消えず、いつまでもその煙は立ち上る。そこは代々にわたって、廃墟となり、だれも、もうそこを通る者はない。

 エドムの地は完全な廃墟となります。バビロンと似ていますね。

34:11 ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

 虚空のはかり縄、虚無のおもり、というのは興味深い表現です。その地域だけが、不思議な空間となります。何もない、すべて時間が止まってしまったような空間となります。

34:12 そのおもだった人たちのうち、王権を宣言する者が、だれもそこにはいない。すべての首長たちもいなくなる。34:13 そこの宮殿にはいばらが生え、要塞にはいらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。34:14 荒野の獣は山犬に会い、野やぎはその友を呼ぶ。そこにはこうもりもいこい、自分の休み場を見つける。

 この「野やぎ」は悪霊と訳すこともできる言葉です。

34:15 蛇もそこに巣を作って卵を産み、それをかえして、自分の陰に集める。とびもそれぞれ自分の連れ合いとそこに集まる。

 猛禽類だけが生息する地になります。

2B 主の書物 16−17
 そして主は、「このことは絶対に起こる」と確証する言葉を次に語られます。

34:16 主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。34:17 主はこれらのもののために受ける割当てをくじで定め、御手が測りなわで測ってこれを分け与えたので、とこしえまでも彼らはこれを所有し、代々にわたって、ここに住む。

 ここまで「連れ合い」「測りなわ」などの言葉が出てきましたね。これらの言葉を使って、主の言葉が必ずそのとおりになり、成就することを強調されています。

 主の書物を調べて、その通りなっていないものは何一つありません。聖書の預言で外れたものは、何一つありません。これほど多くの批判や疑いがかけられた書物はありませんが、一度たりとも間違った預言であるという確証が出ていません。なぜなら、間違ったものがないからです!

 その理由が、「主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。」からです。聖書の言葉が、主がお語りになった言葉、そして御霊による言葉であることを信じることはとても大事です。私たちは聖書で理解できない箇所にたくさん出くわします。その時に、「聖書は間違っている」という判断を下してはいけません。分からないのは私たちの知性の限界が問題なのであって、それは間違っているということではないからです。分からなければ、いつか分かる時まで頭の中で書棚にファイルとして入れて置けばよいのです。

 そうすると、以外に後で分かるときがあります。けっこう多いです。数年前はさっぱり分からなかった箇所、十回、二十回読み直しても分からなかった箇所が、突如として分かるときがきます。そして改めて、聖書には一貫性があることを確認します。主の口が語られた言葉であることを覚えておいてください。

 そしてここでは、これらの国々への虐殺は、必ず起こることであることを主が必ず起こると言われているのです。私たちが今、この世で起こっていることを見るとき、その裁きのことを思いの中に潜めて、主を畏れかしこみつつ生活することが必要です。

3A 主の贖い 35
 そして今日の最後の章です。主がこの地上を完全に清算された後、ご自分のみこころにかなった世界に完全に変えられます。

1B 荒地の喜び 1−7
35:1 荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。35:2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜わるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。

 荒野に花が咲きます。そして先ほど、しおれて衰えると言われたレバノン、カルメル、そしてシャロンが以前のすばらしい姿に回復します。そしてさらにすばらしいことは、これらの地域からエルサレムを眺めるとき、主ご自身の栄光が見えるということです。「彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る」とあります。

 私たちの霊の救いと、世界のこのような回復は密接に結びついています。今の環境問題と福音宣教は実は、密接に結びついています。ローマ8章19節を開いてみましょう。「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(19-23節)

 お分かりになりますか、主が初めに人を造られたとき、人が動物と自然を支配するように、管理するように造られました。けれどもアダムが罪を犯しました。そのため彼は霊的に死にましたが、と同時に、自然の管理権と支配権を悪魔に委譲してしまったのです。今、天災があります。地震、水害などがあります。これらはもともと、神が天地を創られたときには存在していなかったものです。けれども悪魔が支配しているので、この世にそのような天災があります。

 けれども、神はキリストをこの世に遣わされました。この方がご自分の血によって世を贖われました。それは、その中にいる私たち人間を贖うためです。主はよみがえられ、天に昇られて、今は神の右の座におられます。

 私たちは、霊は贖われました。そして肉体の贖いも約束されています。けれども、それは主が協会のために戻ってこられるとき、携挙のときを待たなければいけません。そして被造物は主が地上に戻ってこられるときです。こうしたアダムが初めに持っていた支配権を、初めて行使することができます。主がまず、ご自分のかたちに似て造られた人間を贖い、それからその人間が再び支配することができる自然界を贖ってくださるからです。

35:3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」

 主は今、励ましておられます。今、苦しみの中に、圧迫の中に生きている人が弱くなり、膝がよろめくときに、しっかりとしなさい、と励ましておられるのです。間もなく、これまで私たちが読んできた神の復習が来る。神の報いが来る。だからしっかりしなさい、と鼓舞しておられるのです。

 この箇所は、ヘブル人への手紙12章で引用されています。主がご自分の愛する者を懲らしめられるとき、私たちがそのむちによって弱ってしまっていても、立ち上がりなさいと主が命じておられます。その箇所をちょっと読んでみます。「ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。(ヘブル12:12-13

 これはちょうど、リハビリのことを話しています。足の怪我の回復のために、その足を安静にしておくのも大切ですが、動かさないと回復しないという面もあります。私はリハビリについて詳しいことは分かりませんが、アメリカの病院では術後入院の期間が日本に比べて極端に短いです。開腹手術をして三日目には退院ではないでしょうか?これは動かすことによって回復するという考えがあるからです。

 私も、以前、小さいころ喘息持ちでした。喘息というのは精神的な要素がかなり大きくて、親から甘えられるという口実にもなります。わずかに記憶していますが、喘息が完全に治っていないのにプールに入ったら、直ってしまいました。

 私たちが罪を犯したら、主による愛の懲らしめがあります。けれども、それが辛くてそのままじっとしていたらその傷はいえません。むしろ主にあって、今までと同じようにきちんと歩めばよいのです。悪魔から来る攻撃もあるでしょう。もう罪赦されたのに、お前はだめだという声も聞きます。人からの攻撃もあるでしょう。けれども普通に、主にあって歩むのです。これが回復の道です。

35:5 そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。35:6 そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。

 すばらしいですね、身体障害の問題も解決します。この預言は、主が初めに地上に来られた時にも行ってくださったことですね。覚えていますか、バプテスマのヨハネが牢屋から人をイエス様に遣わしました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。(ルカ7:19」と。主が到来されたことを宣べ伝えたヨハネさえ、この方がキリストなのかどうか疑いが入ったのです。

 主は答えられました。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。(ルカ7:22」主が行われた癒しの働きは、イザヤ書に書かれているメシヤ預言を成就させるためでもあったのです。

35:7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。

 エドムとは対象的ですね。エドムは焼けた地になり、ジャッカルが棲息するところになりますが、世界全体としては水の潤いでいっぱいになります。

 特にイスラエルの地域では、ここの箇所は考えられないことです。沢、水のわく所、葦やパピルスの茂みなどは、水がふんだんにないと生じません。

2B 聖なる道 8−10
 そして被造物だけでなく、先ほど話しましたように人々も贖われます。

35:8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。35:9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。

 千年王国では、イエス・キリストがエルサレムに王として君臨されています。この方に礼拝をささげるために、人々がエルサレムに巡礼しにいきます。今でも多くのクリスチャンがイスラエルの聖地旅行に行きますが、後の日にはすべての人が行くようになります。

 そしてその巡礼の道は、大路であり、聖なる道です。罪の中に生きている人は、そこには一切入ることはできないし、猛獣もそこに立ち入ることはできません。完全に主にあって守られた路であります。黙示録に天のエルサレムの啓示がありますが、そこでも同じような但し書きがありますね。「しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。(黙示21:27

 私たちは今、主にあって完全にされた者です。キリストにあって、義人とみなされています。けれども罪の性質の問題がありますね。これがまだ力を持っています。けれどもこれも、信仰によって、自分は罪に対して死んでいるとみなし、聖霊に導かれることによって肉の行いを殺すことができます。

 しかしながらまだ、罪の性質をもった体を持っています。けれども、先ほど話したようにもはや、体の贖いを体験したものにとっては、罪そのものが存在しません。だから今、ここで聖なる道を堂々と、喜んで歩くことができるのです。

 そして、私たちは仏教徒のように、世の中の繰り返しを信じていません。贖われたのに、再び罪の汚れがあるところに戻されることはありません。完成されたら、本当に完成されるのです!だから今ここで、罪に汚された者が決して入ることができないという約束はすばらしいのです!

35:10 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。

 贖われた者たちの特徴は、喜びと楽しみです。すべての罪と死から来る悲しみと嘆きは終わりました。主が私たちを完全に贖ってくださいました。だからとこしえの喜びです。

 そして私たちは何のために贖われたのか?主を礼拝するためです。罪によって神から遠く離れていた私たちが、キリストの血によって近い者とされました。そして私たちは、主に近づき、主の前で礼拝することができるようになります。

 私たちがよく知っている祈りで、主の祈りがありますね。主ご自身が祈ることではなく、主が私たちに祈りなさいと命じられた祈りです。二つ目の願いは何ですか?一つ目は、「御名をあがめさせたまえ」ですが二つ目は、「御国を来たらせたまえ。」です。今学んだところが、まさに御国です。


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