アウトライン
1A 油注がれた者 45
1B 諸国の平定 1−7
2B 創造者の主権 8−17
1C 造られた者の文句 8−10
2C 偶像礼拝者の恥 11−17
3B 諸国の救い 18−25
2A ひざまずくベル 46
1B 担ってくださる方 1−4
2B 背く者たち 5−13
3A 塵に座る女王 47
1B 神の復讐 1−7
2B 安逸の後の破滅 8−11
3B 呪術への裁き 12−15
4A ヤコブへの呼びかけ 48
1B 強情な民 1−11
1C 口先だけの礼拝 1−5
2C 悩みの炉 6−11
2B 贖う方 12−22
1C 主が愛される者 12−16
2C 平和への教え 17−19
3C バビロンからの解放 20−22
本文
イザヤ書45章を開いてください、45章から48章までを学びたいと思います。ここでのテーマは、「イスラエルの神、救い主」です。イザヤ書のテーマは、「主は救い」であります。イザヤ書の前半部分は、アッシリヤからエルサレムが救われる出来事を通して、自分たちの側には救うべき力がないことを学びました。そして今、後半部分は、「主こそ、救う力があるのだ」ということについて学んでいます。人が自分を救うのではない。主が私たちを救われるのだ、ということです。
そして今日学ぶ箇所は、後半部分の中でも一つ目の大きな区切りになります。後半部分は大きく分けて三つあります。40章から48章が一つ目です。主こそイスラエルを救う力がある、その力また主権について学んでいます。主ご自身の偉大さ、知恵、ご計画について学んでいます。そして49章から57章までが二つ目です。一つ目にも既に出てきましたが「しもべ」について学びます。主が私たちをお救いになるのは、僕を通してである。僕の苦難を通してである、という内容です。そして三つ目が58章から66章です。ここでは救いの完成です。
そしてこの一つ目の部分、40章から48章ですが、40章には神の偉大な力について書いてありました。覚えていますね、だれでも主を待ち望む者は新たな力を得る、という言葉です。そして41章から44章までは、主が私たちを守ってくださることについて学びました。「恐れるな」という言葉、「わたしはあなたを見捨てない」という言葉がありましたね。
そして今日学ぶ、45章から47章は、主のご計画です。主がイスラエルを救うご計画が強調されています。
1A 油注がれた者 45
1B 諸国の平定 1−7
45:1 主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
これまでも何度となく主は、クロスのことを語られました。そしてここでは、非常に明確に語っておられます。クロスを「油注がれた者」と呼んでおられます。これはすごいことで、ヘブル語ではそのまま「メシヤ」です。イスラエルを救う、救い主としての働きを、神はクロス王を通して行なわれます。
クロスは、ペルシヤ帝国の創設者であり初代王です。彼によって東はインド、西は小アジア、南はエジプトに渡る大帝国です。アッシリヤが滅んだ後、世界は、西に今のトルコにあったリディア、南にエジプト、そしてバビロンがあり、東にはメディヤがありました。ペルシヤ人は今のイラン南東部に移り住みました。
クロスは、祖父のメディヤ人の王アステュアゲスの孫です。言い伝えによりますと、彼は王族の子でありながら、年少期は羊飼いの子であったとあります。前回の学びイザヤ書44章28節で、主が「わたしの牧者」とクロスを呼ばれていますが、ちょうどダビデのように羊飼いが王となりました。そして彼は後に祖父と戦い、メディヤ王国を併合しました。その後、急速に領土を広げます。西のリディア(つまり小アジア)に打ち勝ち、そして紀元前536年にバビロンを倒します。後に彼の息子カンビュセスがエジプトを征服しました。クロスがバビロンを平定した後行なった初めのことが、ユダヤ人をエルサレムに帰還させ、神殿再建の布告を出したことです。
考えてもみてください、彼は他のペルシヤ人と同じくゾロアスター教の信者でした。またバビロンから受け継がれたマルドュクを信奉していた人です。そしてユダヤ人から多額の賄賂を受け取ったのでもありません。人間的な要因が何一つ見つからない状態で、彼はユダヤ人を政治的に、そして霊的に解放したのです。その理由が歴代誌第二の最後、エズラ記の最初に書いてあります。歴代誌第二のほうを読みます。
ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、主がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」(22-23節)
主が、クロスの霊を奮い立たせたとあります。歴史の中に、特にユダヤ人の歴史の中にはどうしても説明がつかないことがあります。例えばヒトラーはなぜ、ユダヤ人を根絶やしにする最終計画を行ない続けたのか?連合軍との戦いで、不利な状況になり物資も軍事力も磨り減っている時にさえ、遂行しつづけたのか?これが聖書には、悪魔であることがはっきりと書かれています。黙示録12章に、女を飲み干そうといきり立っているのが竜、悪魔であると書かれています。
クロス王はその反対です。なぜそこまでユダヤ人に寛大な政策を取ったのか?主の御霊が彼を奮い立たせていたからです。また、ユダヤ人の歴史家フラウィウス・ヨセフスによりますと、バビロンの町を陥落させた後、今私たちが読んでいるイザヤ書の箇所を読んで奮い立ったとあります(ユダヤ古代誌)。主の御霊がこの大いなる出来事の背後におられたのです。
このように世界を平定し、かつユダヤ人を解放する器としてクロスが用いられたことは、イスラエルを救い、世界をご自分のものとされるメシヤ、キリストの働きを表すことになるのです。
では今、読んだ箇所を詳しく見てみましょう。1節「諸国を下らせ」というのは、今説明したとおりです。リディア、バビロン、後にエジプトを平定します。そして、「王たちの腰の帯を解き」とあります。王の力を失わせるという意味ですが、これが文字通り、バビロンの最後の王ベルシャツァルに実現しました。彼が大宴会を開いているときに、壁に人の指が文字を書きましたが、そのため彼の「腰の関節がゆるみ、ひざはがたがたに震えた」とダニエル5章6節にあります。
そして、「彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする」とありますが、前回説明しましたように、クロスはバビロンの真ん中に流れているユーフラテス川を迂回させることによって、その水かさを減らし、その下から門を潜り抜けました。そして中では乱交パーティーを開いているために、護衛は泥酔している者たちばかりだったため、難なくベルシャツァル王を殺し、血を多く流さずにバビロンを倒しました。
45:3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
昔の国々は、戦っているときに、自分が負けた場合に相手に略奪されないように、財宝を密かな所に隠します。けれども、それらも主はクロスに見つけさせるようにさせました。
45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。
クロスによるユダヤ人の救いについて驚くべきことは、クロス自身が主を知らなかったことにあります。彼は多神教者でありました。にもかかわらず主が彼に「油注がれた者」という肩書きを、そしてクロスと名指ししておられる、ということです。
理由は、世界に、日の昇るところからその沈むところまで、ご自分の他に神はいないことを知らしめるためです。ダニエル書を読めば、ネブカデネザルが似たような人物でした。彼もバビロンの神ベルを拝む多神教者でした。けれどもダニエルを通して、イスラエルの神こそ主の主であることを知りました。彼がイスラエルの神のみを自分の主としたのかどうか、それは定かではありません。もしかしたら回心したかもしれませんが、いずれにしても、世界の超大国であるバビロンの王がイスラエルの神が自分の上にいることを知り、認めたことによって、イスラエルの神は世界に、「わたしこそ神であり、他にいない」ことを知らしめたのです。
同じように世界を平定した王が、積極的に、意図的にユダヤ人を解放することにより、世界にイスラエルの神こそが、まことの神であることを顕示させたということになります。
45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」
主がすべてを掌握されている、その主権が明確に述べられています。イザヤ書40章から48章までのテーマです。特にここ「光を造り出し、やみを創造し」と言われているのは、ペルシヤの宗教であるゾロアスター教のことを意識されています。ゾロアスター教では、宇宙の法の神が光の神であり、それに対抗する神が暗闇の神であるという二元論を取っています。一般の文献では、この善と悪の戦い、そして善の最終的な勝利を、ユダヤ教が受け継いだという説明がされていますが、イザヤ書がこうした考えを粉砕しています。光は神ではなく、闇も神ではなく、それを造られたのがわたし、主である、と主が宣言されているのです。
2B 創造者の主権 8−17
1C 造られた者の文句 8−10
45:8 「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。」
全世界に及ぶ神の義とその救いが、天から滴り落ちる雨のように形容されています。イザヤ書全体でもそうですが、今日学んでいる箇所に頻繁に出てくるのが、「正義」そして「救い」です。神がご自分の正義によって、イスラエルを救い、そしてイスラエル自身も義とする、という内容です。
これはどこかで聞き覚えがないですか?そうです、ローマ人への手紙のテーマです。神は福音によって人々を救われますが、それは神の義が人々に信仰によって啓示されるため、人々を正しいと認めるその義認の働きによって、人々を救うという教理です。
人間の律法の行ないによっては救われえない。けれども、神が一方的に、罪人である私たちを義とみなされることによって、私たちをご自分の怒りから救い、贖ってくださるという内容ですが、これがまさにここの箇所に出てくる内容なのです。
ユダヤ人は徹底的に罪を犯した。彼らの行ないによっては、決してバビロンの奴隷状態から救われようがない。けれども神が一方的に、ご自分の圧倒的な力と、不信者を用いるという意表を付くような知恵によって、彼らを救われるのです。彼らが決して、自分の力によって救ったと言うことができないようにされました。彼らの行為とはまったく関係なしに、彼らが義と認められるように、つまり神に受け入れられる者にしてくださいました。
45:9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。45:10 ああ。自分の父に「なぜ、子どもを生むのか。」と言い、母に「なぜ、産みの苦しみをするのか。」と言う者。
この9節の言葉が新約聖書に引用されていますが、どこに出てくるか思い出せますか?ローマ9章です。同じローマ人への手紙に出てきます。9章で、主が、エサウではなくヤコブを、二人が生まれる前に選ばれたのは、人間の行ないではなく、一方的な神の憐れみによることが書かれています。そして出エジプト記のパロは、神からの怒りを受けるために心を神がかたくなにされたことをパウロは書きました。その後で、「神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。』と言えるでしょうか。(20節)」と言った後で、ここの箇所を引用しています。
ユダヤ人によって、クロスによって救われるというのは不満でしょう。まことの神を信じているのでもないのになぜ?という気持ちが出てくると思います。私たちも、クリスチャンではない人、未信者の人が、神さまの働きに深く関わるような場面に出くわしたら、「クリスチャンでもないのに、どうして・・・」と思うと思いますが、けれども主は不信者をも用いられることがあるのです。
いや、主は悪魔でさえも、ご自分の栄光のために用いられます。悪魔は神に反逆している天使です。けれども、その反逆をも用いてご自分の計画を、ご自分の栄光のために遂行されるのです。私たちが自分たちの思い通りにならない暗闇の力に対して、ゾロアスター教のようにならないでください。それ力が神から離れて動いており、自分たちで何とかしなければいけない、自分の善の神によって戦ってもらうように一生懸命祈らなければいけない、とならないでください。主が、完全に掌握されているのです!
2C 偶像礼拝者の恥 11−17
45:11 イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。
クロスを立たせるという主の御言葉を聞いて、異邦人が不満げになっているところを、主が語っておられます。「何だ、これはいったいどういうことなんだ。クロスって誰のことだ?そして、ユダヤ人が救われる?彼らは奴隷状態のままでよいのだ。勝手に解放されたら、彼らはまた悪さをするかもしれない。」云々と、主がなされていることについて、またユダヤ人のことで文句を言っている状態です。
45:12 このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。
主は、「わたしが創造主だ。」と異教の神々を拝む者たちに宣言されています。そして・・・
45:13 わたしは勝利のうちに彼を奮い立たせ、彼の道をみな、平らにする。彼はわたしの町を建て、わたしの捕囚の民を解放する。代価を払ってでもなく、わいろによってでもない。」と万軍の主は仰せられる。
先ほど話しましたように、クロスはバビロンで、商業によって栄えた裕福なユダヤ人から賄賂を受け取ったわけではありません。ただイスラエルの捕囚を解放したのです。理由は、主がそうされているからです。そして、偶像を拝む人々に対して、次のように挑まれます。
45:14 主はこう仰せられる。「エジプトの産物と、クシュの商品、それに背の高いセバ人も、あなたのところにやって来て、あなたのものとなる。彼らは鎖につながれて、あなたに従って来、あなたにひれ伏して、あなたに祈って言う。『神はただあなたのところにだけおられ、ほかにはなく、ほかに神々はいない。』」45:15 イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。
クロスではなく、その息子カンビュセスがエジプトを平定しました。そのときのエジプトの態度です。ペルシヤがエジプトを征服したのに、エジプト人はイスラエルの神を認めています。それだけ、ペルシヤと、ユダヤ人の解放が密接に結びついていたのです。
そして、イスラエルの神について「あなたはご自身を隠す神」と言っています。はたして、そうでしょうか?少し後に、「わたしは隠れたところで語らない。」と主が言われています。けれども、偶像を拝んできた者たちにとっては、その目が霊的に盲目にされていたので、イスラエルの神がご自分を隠していたと思ったのでしょう。見える人にははっきりと見えるのですが、見えない人には本当に隠されています。
45:16 偶像を細工する者どもはみな、恥を見、みな共に、はずかしめを受け、恥の中に去る。45:17 イスラエルは主によって救われ、永遠の救いにはいる。あなたがたは恥を見ることがなく、いつまでも、はずかしめを受けることがない。
偶像を拝む者たちと、イスラエルとの対比です。偶像礼拝者は恥を見るが、イスラエルは永遠の救いに入ります。
3B 諸国の救い 18−25
しかし、主はご自分の救いの手をイスラエルだけにとどめておかれません。諸国に対して、ご自分の救いを受け入れるよう呼びかけられます。
45:18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。
再び、わたしは創造主であるということを明らかにしておられます。ここでは、形をもって創造したことを強調されています。秩序をもって創造した、ということですね。創世記1章に、あらゆる被造物を区別して、混ざり合わせることなくして創造しているところを読むことができます。
45:19 わたしは隠れた所、やみの地にある場所では語らなかった。ヤコブの子らに『むなしくわたしを尋ね求めよ。』とも言わなかった。わたしは主、正義を語り、公正を告げる者。
他の異教と聖書との違いは、聖書が公正明大に神の御言葉を告げていることです。そして、そのはっきりと語られた言葉は、むなしく返ってくることなく、すべて成就します。
45:20 諸国からの逃亡者たちよ。集まって来て、共に近づけ。木の偶像をになう者、救えもしない神に祈る者らは、何も知らない。45:21 告げよ。証拠を出せ。共に相談せよ。だれが、これを昔から聞かせ、以前からこれを告げたのか。わたし、主ではなかったか。わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。
ペルシヤ帝国によって征服された国々の民に、そして偶像に期待をかけていたが裏切られ、そこから出てこようとしている人々に「集まって近づけ」と呼びかけておられます。そして、偶像は前もって、クロス王による救いを告げていたか、その証拠を出しなさいと挑んでおられます。
イザヤがこの預言をしたのは、約150年前のことです。そのようなことができる神は、ただひとりしかいません。私たちの周りにある宗教の中で、前のことを告げている経典はどこにあるでしょうか?歴史の中で、その成就を認めることができる経典はどこにあるでしょうか?コーランには預言がありますが、全部、旧約聖書と新約聖書を切り貼りして、自分たちのバージョンにしているだけのことです。聖書以外にないのです。
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
諸国から逃げてきた人だけでなく、地の果ての全ての人に呼びかけておられます。「わたしを仰ぎ見て、救われよ。」です。神ご自身の伝道、神ご自身の救いの招きです。
45:23a わたしは自分にかけて誓った。わたしの口から出ることばは正しく、取り消すことはできない。
誓いというのは、人間よりすぐれたものを指して誓うと、ヘブル人への手紙6章に書かれています。けれども神は、神ご自身よりすぐれているものを見つけることはできません。だから、ご自分にかけて誓っておられるのです。
それが、神ご自身の口から出ることばは正しく、取り消すことはできない、ということです。
45:23bすべてのひざはわたしに向かってかがみ、すべての舌は誓い、45:24 わたしについて、『ただ、主にだけ、正義と力がある。』と言う。主に向かっていきりたつ者はみな、主のもとに来て恥じ入る。45:25 イスラエルの子孫はみな、主によって義とされ、誇る。」
この23節後半部分の言葉、「すべてのひざがかがみ、すべての舌が誓い」というのは、ピリピ人への手紙に引用されている部分です。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(2:10-11)」
このイザヤ書の箇所にも書いてありますが、この告白は、主に向かっていきり立つ者も、またイスラエルの子孫も行なうものです。いきり立つ者はは、恥じ入りながら行ないます。そしてイスラエルの子孫は、義とされ告白します。主を誇り、大いに喜びながら告白します。
これが二つの道です。全ての人が、いずれイエス・キリストが主であると告白します。けれども種類が違います。救われることによって、喜んで、誇りながら、「イエス様あなたは私たちの主です」と告白するのか、恥じ入って、くやしくなりながら「あなたは、主です」と言い表すのか、です。
2A ひざまずくベル 46
主は続けて、偶像をあざけり、これを低くし、これを拝むことの空しさをお語りになられます。
1B 担ってくださる方 1−4
46:1 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。
ベルは、バビロンの神です。カナン人のバアルと同じです。そしてネボはベルの息子です。
46:2 彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。
これは、バビロンが捕え移されていくときに、自分たちの神々を自分たちが獣に乗せて、運ばなければいけない現実を、神が皮肉を込めて話しておられるところです。
イザヤがこれを語っているのは、まだアッシリヤが支配している時ですが、そのときにもバビロンはありました。イザヤ書39章に出てきた、メロダク・バアルダンです。彼はアッシリヤに反逆して、その戦いに敗れましたが、その際、いまここに書いてあることを行ないました。当時の戦争は、勝利した国が、相手の国の偶像をこなごなに砕き、自分たちの勝利を宣言します。そのように、自分の神々が砕かれるのを恐れて、避難するときに自分たちの荷物の中に混ぜて行ったのです。
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。
この大きな違いが分かりますか?ベルとネボは、彼らが支えないといけなく、彼らにとって重荷となっていますが、イスラエルは逆に、主ご自身が支えていてくださり、主がイスラエルの重荷を担ってくださるのです。
私たちは時として、自分の神をベルやネボのようにしてしまうことはないでしょうか?自分たちがきちんと祈らなければ、自分たちが仕えなければ、機能していくことはできない神であるがごとく、重荷をもって信仰生活、教会生活を送っていることはないでしょうか?
違います!信仰とは、自分を支えていてくださる神を証しすることです。奉仕は、自分を担っていてくださる方に感謝をもって応答することです。神のすばらしさを、そのすばらしさの中にいる人々によって自然と明らかにされているところが、教会なのです。
2B 背く者たち 5−13
46:5 わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。46:6 袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。46:7 彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。
これが偶像の現実ですね。「袋から金を惜しげなく出し」というところなど、まるで日本の宗教ビジネスを物語っているようです。何もしてくれない偶像のために、多額の金を注ぎ込んでいます。
46:8 このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。
先ほど主は、「ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者」に語りかけておられました。ここでは「そむく者」に語りかけておられます。同じ人々です。イスラエルのまことの神ではなく、偶像を拝んでいるユダヤ人、偶像に心をひかれているユダヤ人に、「しっかりしなさい、立ち上がりなさい。救いは近いのだ。」と激励しておられるのです。
46:9 遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。
大昔の事、つまりイスラエルが出エジプトからどのように救い出されたのか、など、この世界にイスラエルの神以外に救いはないことを証しする出来事を思い出しなさい、ということです。
イスラエルはそれを初めの愛として経験しました。ところが時が経て、力を失い、疲れて、周りにある偶像に手を出すようになったのです。けれども、イエス様がエペソにある教会に対して言われたように、「あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(黙示2:4‐5)」なのです。
主が私たちのためにしてくださったこと、神の愛を、私たちはご聖霊によってつねに、心に注がれていなければいけません。それでこそ私たちは困難に耐えて、望みを持つことができるのです。「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:5)」
46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。
前から話しています、私たちが信じる方は、初めの時に終わりのことを語られる永遠の神です。神は初めから、永遠の昔から終わりに至るまでのご計画を持っておられます。そして、それを歴史の中で、時間の中で展開させているだけです。
神はそのご計画を、私たちにとって良いもの、最善のものとして立てておられます。ですから、目的から話されるのです。最終的な目的はこのようなものだよ。だから、これを信じてこれから歩みなさい、という呼びかけなのです。アブラハムを呼ばれたとき、「あなたは大いなる国民となる。あなたによって、すべての民族は祝福される。」と神の救いのご計画の最終目的から話されました。私たちに対しても、「あなたがたは、神の国に入るのだ。神の国を相続するのだ。」と、救いの完成から語っておられます。
46:11 わたしは、東から猛禽を、遠い地から、わたしのはかりごとを行なう者を呼ぶ。わたしが語ると、すぐそれを行ない、わたしが計ると、すぐそれをする。
イザヤが語っているときは、まだイスラエルの地にユダヤ人はいますから、クロスは、東から、遠い国からの者です。「猛禽」という描写もすごいですね、世界の諸国を倒していく、敏捷で、勇壮な鷲のような存在です。
46:12 わたしに聞け。強情な者、正義から遠ざかっている者たちよ。46:13 わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」
すばらしいですね、悔い改めなさい、という呼びかけを主はしておられるのですが、それは勝利が近づいているからだ、救いが近づいているからだ、ということです。彼らが悔い改めてから、その時まで待って救おう、ではないのです。また、今すぐに悔い改めないと救いからもれるよ、でもないのです。あなたがたは必ず救われる、だから今、立ち上がりなさい、ということなのです。
これがキリスト者に対する、主の悔い改めの呼びかけです。「今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマ5:9)」とパウロは言いました。神の怒りからの救いは、必ず実現すること、保証されていることなのです。けれども、今の私たちの歩みがどのようになっているでしょうか?救いが近づいているのに、正義から遠ざかっていないでしょうか?だから、今、この大いなる神に立ち返りなさい、あなたがたのためにすばらしいことをしてくださり、これからもしてくださる神、今も、実はずっと私たちを背負っていてくださっている神に立ち返りなさい、と呼びかけておられるのです。
今日は、ここまでにしましょう。あと二章ありますが、内容が盛りだくさんなので、次回に回したいと思います。
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