アウトライン
1A 思い出される主 49
1B 蔑みからの救い 1−12
1C 召命 1−6
2C 賞賛 7−12
2B 子沢山の女 13−26
1C 子で飾られるシオン 13−21
2C 国々からの解放 22−26
2A 問われる主 50
1B 自分から離れた民 1−3
2B 侮辱を受ける弟子 4−9
3B 聞き従わない者の最後 10−11
3A 救われる主 51
1B 義を追い求める者 1−11
1C 切り出された岩 1−3
2C 広がる主の教え 4−8
2B 主の御腕 9−23
1C いにしえの力 9−11
2C 主による安全 12−16
3C エルサレムの弁護 17−23
本文
イザヤ書49章を開いてください、今日は49章から51章までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「わたしの僕」です。
今日から、イザヤ書の後半部分、40章から66章の中で、二つ目の大きな区切りになります。40章から48章は、神の救いの慰めにおける「神の主権」です。数多く、「あなたがたは、証拠を並べて立ててみよ。わたしが神であり、ほかにいない。」と、法廷の中にいるかのように主がご自分が神であることを主張されていました。
そして48章から、救いの慰めにおける「しもべ」です。40章から48章が、救いにおける父なる神の働きであるとすれば、49章からは救いの手段と言っても良いでしょう。全知全能の神である主が、どのようにして私たちをご自分のもとに引き寄せられるのか?それは、この方が選ばれたひとりの僕を通してです。
1A 思い出される主 49
1B 蔑みからの救い 1−12
1C 召命 1−6
49:1 島々よ。私に聞け。遠い国々の民よ。耳を傾けよ。主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。
主が「私」を召しておられる、とありますが、この「私」は誰でしょうか?新改訳では、神やキリストであれば平仮名で「わたし」、そうでなければ漢字で「私」と記しています。そのため、ここではあたかも神ではない人間を指しているように見えます。しかも3節には、「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。」となっています。これはイスラエルの民であり国であるという見方をすることもできます。
けれども、その解釈が合わないのは、5節を読むと分かります。「主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。」イスラエルを集めるために自分を主が造られた、ということは、この「私」はイスラエルではないのです。
この箇所は、文脈からも、また新約聖書における預言の成就からも、神が選ばれたしもべ、つまりメシヤであることが分かります。メシヤ、キリストであるとするのはあまりにも人間臭すぎる、と感じるかもしれません。けれども、これがむしろ神の御心なのです。ピリピ書2章6−7節、「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」キリストを人間と同じ姿にすることにより、人類への救いを成し遂げることを、神は御心にしておられます。
ここ1節では、呼びかけが「島々よ」また「遠い国々の民よ」となっています。イスラエルではなく異邦人です。特に遥か遠くにいる人々、地の果てにいる人々に対して呼びかけています。
「生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた」というのは、具体的にイエス様において実現しました。まずマリヤに対してガブリエルが、「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。(ルカ1:31)」と言いました。そしてマリヤがみごもったことを知ったヨセフが、内密に離縁しようと考えていたところ、「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。(マタイ1:21)」と言いました。
この出来事を、島々に対して、遠い国々の民に対してキリストご自身呼びかけておられるのです。福音書の初頭の、あの地味な出来事は全世界に響き渡らせる重要なものだったということです。
49:2 主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し、私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した。
主の口には、鋭い剣のようでありました。敵をことごとく滅ぼす全能の力があります。黙示録19章にて、白い馬に乗られたキリストが、全世界の軍隊に対してご自分の口から出る剣で戦われます。
けれども、そのような強い力を持つ言葉は、非常に抑えられて主ご自身の中に隠された、ということです。これは注目に値します。福音書の言葉、主ご自身が発せられた言葉は、これまでどれだけの人々の心を刺し、その人の人生を変えてきてきたことでしょう。非常に静かに、地味に、けれども確実に一人ひとりの魂を射止めたのです。
49:3 そして、私に仰せられた。「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす。」
主が「イスラエル」と呼ばれている理由は、イスラエルの理想としてのキリスト、またイスラエルを通して全世界に救いをもたらすキリスト、という意味を持っています。全世界は、イスラエルから出てこられたキリストを信じることによって、救いを得るのです。
そしてこの方が召し出された目的は、「わたしの栄光」つまり神の栄光です。天地を創造された神を知るには、その神を完全な形で表されたキリストを信じなければいけません。
49:4 しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、主とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」
これは、真のミニストリーの姿を表しています。労苦はともなうのに、それに見合う結果が表れたようには思えない。しかし確実に、主からの報いはある、というものです。主ご自身の働きは、数知れないものがありますが、ちょうどマリヤが高い香油を主に注いだように、その貴重な働きが無駄に注ぎだされてしまったかにさえ思います。けれども、決してそうではない、神が報いてくださる、ということです。
49:5 今、主は仰せられる。・・主はヤコブをご自分のもとに帰らせ、イスラエルをご自分のもとに集めるために、私が母の胎内にいる時、私をご自分のしもべとして造られた。私は主に尊ばれ、私の神は私の力となられた。・・
キリストが選ばれた理由は、イスラエルを神に立ち返らせるためです。主は、イスラエルの救いのために来られました。けれども、次をご覧ください。
49:6 主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
イスラエルの救いだけでなく、地の果てにまで救いをもたらす方になるために選ばれました。
2C 賞賛 7−12
49:7 イスラエルを贖う、その聖なる方、主は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。主が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」
この「人にさげすまれている者」「民に忌み嫌われている者」「支配者たちの奴隷」とは誰か、お分かりですね?主イエス・キリストご自身です。主がどのように人にさげすまれたか、民すなわちユダヤ人に忌み嫌われたか、そして当時のヘロデやピラトなどの支配者たちの奴隷となっていたかは、福音書を読めばよく分かります。
このように、普通なら一番、支配者になる可能性のない方が、なんと「王たちが見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す」ことになるのです!王の王、主の主として来られるキリストを彼らは伏し拝むのです。これが福音の奥義です。へりくだり、心に悲しみを持ち、柔和な者が天において偉大な者となる、というのは、主ご自身が私たちの先駆者としてその模範をお示しになったのでした。
49:8 主はこう仰せられる。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを見守り、あなたを民の契約とし、国を興し、荒れ果てたゆずりの地を継がせよう。
キリストへの恵み、キリストへの救いとは何かといいますと、主ご自身が復活したことに関わります。ヘブル5章7節から、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、(7-9節)」死からの救い、つまり復活です。
主が復活された結果、イスラエルの民の契約となり、国を興し、ゆずりの地を継ぐことになる、と言います。これはまだ将来を待ちます。主はもちろん約二千年前によみがえられましたが、イスラエルの完全な回復は将来を待ちます。
49:9 わたしは捕われ人には『出よ。』と言い、やみの中にいる者には『姿を現わせ。』と言う。彼らは道すがら羊を飼い、裸の丘の至る所が、彼らの牧場となる。
キリストが解放者であることが分かります。捕らわれる、闇の中にいるというのは、その状況にいた人でなければ理解できないでしょう。けれども、実はすべての人が罪という奴隷状態の中にいて、また闇の中にいます。そこからの解放です。
49:10 彼らは飢えず、渇かず、熱も太陽も彼らを打たない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、水のわく所に連れて行くからだ。
地上における神の国、千年王国についての約束でありますが、この箇所は黙示録7章にて、天の御国で主に仕えている人々についての描写で引用されています。大患難時代に殉教した聖徒たちが、天において害を受けることがないという慰めです。
49:11 わたしは、わたしの山々をすべて道とし、わたしの大路を高くする。49:12 見よ。ある者は遠くから来る。また、ある者は北から西から、また、ある者はシニムの地から来る。」
覚えていますか、40章の初めが、でこぼこ道を平らにするというバプテスマのヨハネについての預言でした。また聖なる道と呼ばれる大路についてイザヤ書35章8節にあります。イスラエル人にとっての救いは、「縦」すなわち罪からの救いだけでなく、「横」すなわち約束の地に戻ってくる、というものがあります。
ここの「シニム」はどこなのか、いろいろな意見があります。ある人は中国であると言いますが、定かではありません。
2B 子沢山の女 13−26
1C 子で飾られるシオン 13−21
49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。
キリストの僕としての働き、そして復活によって、イスラエルの民に慰めが訪れます。憐れみがやって来ます。けれども肝心のシオン、すなわちエルサレムは気落ちしています。
49:14 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。
この気持ち、共感できないでしょうか?シオンは数多くの苦難を味わってきました。キリストがよみがえられてから約40年後にローマによって破壊されて、つい最近(1967年)まで異邦人によって踏み荒らされていました。そのような長年のつらい経験によって、いくら慰めがあると言われても、それを単純に喜ぶことはできない、という気持ちです。
けれども、こうした気持ちに対して主は励ましを与えておられます。次をご覧ください。
49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。
ここでの女はもちろん神ご自身です。そして乳飲み子はエルサレムのことです。主が決してシオンを見捨てられないのは、母が乳飲み子を見捨てることがないぐらい、いやそれ以上である、と言っています。
これが主の選びの確かさです。私たちが、主は自分を忘れてしまったと気落ちしているとき、主の選びを思い出してください。決して見捨てることはないのです。
49:16 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。
すばらしい約束ですね、シオンは神の御手の中に刻まれています。イエス様が言われました。「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(ヨハネ10:29)」
49:17 あなたの子どもたちは急いで来る。あなたを滅ぼし、あなたを廃墟とした者は、あなたのところから出て行く。49:18 目を上げて、あたりを見回せ。彼らはみな集まって、あなたのところに来る。わたしは生きている。・・主の御告げ。・・あなたは必ず、彼らをみな飾り物として身につけ、花嫁のように彼らを帯に結ぶ。
ユダヤ人たちがエルサレムに戻ってくる、という預言です。廃墟の町がユダヤ人でいっぱいになること、これを「飾り物」として、また花嫁の帯として主は形容されています。
49:19 必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。49:20 あなたが子を失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい。』と。
ゼカリヤ書の預言にもありますが、エルサレムはあまりにも人が多くなるため城壁のない町とされることが預言されています(2:4)。
49:21 そのとき、あなたは心の中で言おう。『だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう。私は子に死なれた女、うまずめ、亡命のさすらい者であったのに。だれがこの者たちを育てたのだろう。見よ。私は、ただひとり、残されていたのに、この者たちはどこから来たのだろう。』」
贖われたユダヤ人を見て、エルサレムが驚いています。自分たちが生んだユダヤ人ははるか昔に去ってしまったのに、このように数多くの子孫はどのようにして生まれたのか、と驚いています。
ユダヤ人が世界中にまだ存在していること自体は、ものすごいことです。ローマがエルサレムを紀元70年に陥落した時以来、エルサレムは基本的にユダヤ人の町ではなくなりました。けれども、今数多くの人がそこに住んでいます。
これは神様の方法です。私たちが何も育てていなかったところで、主がとてつもない働きをしてくださる。迫害の教会で、指導者が牢屋に入れられたのに、ますます救われる人は増えていったという証しがあるように、です。
2C 国々からの解放 22−26
49:22 神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしは国々に向かって手を上げ、わたしの旗を国々の民に向かって揚げる。彼らは、あなたの息子たちをふところに抱いて来、あなたの娘たちは肩に負われて来る。
これは、帰還するユダヤ人を各地の国々が全面的に支援する姿を表しています。ナチスから逃れていたユダヤ人に日本を通過するビザを発行した杉原千畝さんは、後に帰還したユダヤ人たちに見つけられ、大きな栄誉を与えられましたが、その理由はここにあります。このことが、主が再臨されるときに起こります。
49:23 王たちはあなたの世話をする者となり、王妃たちはあなたのうばとなる。彼らは顔を地につけて、あなたを伏し拝み、あなたの足のちりをなめる。あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。」
先ほどあったように、どのように強力な国の指導者であっても、キリストがおられるシオンの前ではひれ伏します。それで、「わたしを待ち望む者は恥を見ることがない」とあります。私たちは、政治的指導者に救いを期待しているでしょうか?または社会に期待していますか?身近な人に期待していますか?恥を見ることのないのは、主ご自身のみです。
49:24 奪われた物を勇士から取り戻せようか。罪のないとりこたちを助け出せようか。49:25 まことに、主はこう仰せられる。「勇士のとりこは取り戻され、横暴な者に奪われた物も奪い返される。あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う。
主が守ってくださる、ということです。ユダヤ人に触れる者は、「わたしのひとみに触れる者だ」とゼカリヤ2章8節に書いてあります。主がこのように繊細に私たちを守ってくださっています。私たちが攻撃を受けたとき、迫害を受けるとき、どうかこのことを思い出してください。主が必ず救ってくださいます。
49:26 わたしは、あなたをしいたげる者に、彼ら自身の肉を食らわせる。彼らは甘いぶどう酒に酔うように、自分自身の血に酔う。すべての者が、わたしが主、あなたの救い主、あなたの贖い主、ヤコブの力強き者であることを知る。」
黙示録14章、16章、19章のそれぞれ終わりの部分で、預言されている内容です。諸国の軍隊が倒れ、血を流す預言です。
その時には、主が力強き方であることが現されます。今は、けれどもへりくだった方、虐げられた方として私たちのために仕えてくださっています。これが救いの方法です。私たちが力あるものを求めるのではなく、むしろ主のへりくだりの中に生きます。そうすれば、必ず主が全てのことについて報いてくださいます。
2A 問われる主 50
次50章は11節の短い箇所ですが、主がイスラエルの行ないについて問い質しておられます。
1B 自分から離れた民 1−3
50:1 主はこう仰せられる。「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるか。わたしが彼女を追い出したというのなら。あるいは、その債権者はだれなのか。わたしがあなたがたを売ったというのなら。見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。
先ほどシオンが、主が自分を見捨てられたと言ったところがありました。そのとき主は、わたしはあなたを見捨てる意図など少しもないことをお語りになりました。にもかかわらず、なぜ神とイスラエルとが別れ別れになってしまったのか?その理由を彼らに尋ねています。
主は、「わたしは離婚状も渡したことがないし、債権者にあなたを売ったこともない。わたしのほうからは、何もあなたを引き離し、見捨てることをしなかった。あなたの咎と罪が、わたしからあなたを引き離したのだ。」ということです。後に59章でも、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(1-2節)」とあります。
主と私たちとの関係は不変です。決して私たちの失敗や罪で変わるものではありません。けれども、主との交わりを引き裂くのは決まって罪です。私たちが罪を犯しているとき、その関係は失われていませんが、主との親しい交わりは失われています。
50:2 なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないと言うのか。見よ。わたしは、しかって海を干上がらせ、多くの川を荒野とする。その魚は水がなくて臭くなり、渇きのために死に絶える。50:3 わたしは天をやみでおおい、荒布をそのおおいとする。」
私たちはしばしば、本当は自分自身の問題なのに、主ご自身が引き起こしている問題であると訴えている自分を発見します。主がお見捨てになったのではなく、自分が罪を犯して神から離れたというのもそうですが、ここでは、「なぜ主を呼び求めたのに、主は沈黙されているのか。」という問いです。
しかしこれも、主ご自身ではなく私たち自身が引き起こしている問題です。主は語っておられます。呼んでおられます。それに応答しないので、彼らは救い出されないままでいたのです。神が無力なのではなく、自分たちが全能の神に応答していなかったのです。
主はいろいろな問題を起こして、私たちに注意を喚起されます。ここで、海が干上がること、川を荒野にすること、魚がそのため死ぬこと、天が暗くなることなど、主がこれらの問題を起こして、そしてご自分がいることを教えておられるのに、それに無頓着なのです。今の日本や世界はいろいろな問題が起こっています。主が何かを語っておられます。私たちがそれに耳を傾けなければいけません。
2B 侮辱を受ける弟子 4−9
再び、僕なるメシヤの御姿が現れます。
50:4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
主イエスは、人間の姿を取られました。父なる神から離れては、何も行なわないようにしておられました。私たちが今、主の言葉に聞き入る弟子であるように、主ご自身が父なる神の御声に聞き入る弟子のようでありました。
そしてその主な働きは「疲れた者をことばで励ます」ことでした。「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)」主は、天災においても私たちを呼びかけることはありますが、私たちに救いをもたらすために、へりくだった僕の声を聞かせてくださいます。そして心に励ましを与え、私たちを立ち直らせてくださいます。
ところが、当時のユダヤ人の指導者はその言葉にも耳を傾けませんでした。
50:5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、50:6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
これはまさに、福音書で主が受けられた苦難であります。むちで打たれ、ひげを抜かれ、侮辱され、つばきをかけられましたが、主は抵抗されませんでした。
50:7 しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。
主はゲッセマネの園で祈られています。文字通り血の出る祈りをされて、ご自分の願いではなく父のみこころがなるように、と祈りました。その時に主は父なる神にすべてをおゆだねしたのです。たとえ侮辱を受けても、心の中で屈辱を受けておられませんでした。その心は顔を火打ち石にしたとあるように、打たれても揺るぎませんでした。
50:8 私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。50:9 見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。
主が最後に至るまで父なる神に従順であり、その義の行ないによって、ご自分を罪に定めた者たちがかえって裁きを受ける、ということです。ユダヤ人指導者はイエスを罪に定めましたが、実際は主が裁き主であり、彼らの行ないを裁かれます。
3B 聞き従わない者の最後 10−11
50:10 あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。50:11 見よ。あなたがたはみな、火をともし、燃えさしを身に帯びている。あなたがたは自分たちの火のあかりを持ち、火をつけた燃えさしを持って歩くがよい。このことはわたしの手によってあなたがたに起こり、あなたがたは、苦しみのうちに伏し倒れる。
自分が光を持っていると思っている者は、いつしか倒れます。自分が光を持っておらず、暗闇の中を歩いていると認める者は、主のしもべの声を聞いて神に信頼することができます。どちらに向かうかは各人の選択です。
3A 救われる主 51
そして次から、主のしもべの声を聞いて、義を追い求めるイスラエル人への救いの約束が書かれています。
1B 義を追い求める者 1−11
1C 切り出された岩 1−3
51:1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。51:2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。51:3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
御声を聞いて、義を求める人には、ここにある慰めの約束があります。この慰めは、自分たちのルーツに基づくものです。「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴」とあります。イスラエルの民は、自然発生的に形成された民族ではありません。初めから主の召しがあって、主が形造られて、それで民族となりました。
そして彼らの父祖アブラハムとサラのことを考えれば、不妊の女が90歳のときにイサクを産むのですから、その祝福の約束はとてつもないものです。主が初めに約束してくださったことを思い出しなさい、主は変わっていない、あなたがたを同じように祝福する、ということです。
私たちが将来の神の約束について確信が持てないとき、同じようにもうすでに主が行なってくださった良い働きを思い出しましょう。初めに主が何を行なってくださったか、思い出しましょう。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6)」
2C 広がる主の教え 4−8
51:4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
49章と50章が合わさった預言になっています。国々の民の光は主のしもべ、メシヤのことです。そして教えは、メシヤの言葉です。
51:5 わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。
異邦人への救いの御手がすみやかに伸ばされていることを表しています。イスラエルから、イエス・キリストから出た言葉は、異邦人世界へ速やかに伝わりました。
51:6 目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。
主が言われましたね、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35)」天変地異が起こっても、大患難の中で天地が滅び去っても、主のことばはそのまま残ります。その教えの基づく主の救いと義は、いつまでも絶えることがありません。
51:7 義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。51:8 しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。
これは、イスラエルの残りの民に対する主の励ましです。異邦人の救いの完成があって、それからイスラエルがみな救われるとローマ11章にありますが、その直前、彼らは激しい迫害に遭います。ヤコブにとっての苦難と言われているものがそれであり、主がオリーブ山で、荒らす憎むべき者が聖所に立つのを見たなら、逃げなさいと命じられた部分です。
それら迫害者を恐れてはならない、ということです。彼らは滅びるが、主の義と救いはいつまでも立ちます。
2B 主の御腕 9−23
1C いにしえの力 9−11
51:9 さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。
今、残された民が主に向かって叫んでいます。主の御腕に向かって叫んでいます。「ラハブ」はエジプトの別称です。「竜」とありますが、エジプトの背後に働いていた悪魔を窺わせます。
51:10 海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。
紅海が分かれた時のことです。
51:11 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
先ほどのアブラハムとサラと同じように、主が力強く働かれた初めのことを思い出して、これからのシオンの回復を堅く信じています。
ところで彼らが叫んでいる「主の御腕」ですが、次回の学び53章では、受難のメシヤが「主の御腕」として呼ばれています。このように力強い方が打たれ、苦しめられるという衝撃的な出来事を、王たちは驚きをもって見つめています。
2C 主による安全 12−16
51:12 わたし、このわたしが、あなたがたを慰める。あなたは、何者なのか。死ななければならない人間や、草にも等しい人の子を恐れるとは。51:13 天を引き延べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。そのしいたげる者の憤りはどこにあるのか。
これから主が救いの御手を伸ばされるのに、まるで自分たちが滅びるかのように恐れおののいていることに対する主の叱責です。同時にこれは慰めです。「あなたは滅びないのだよ。わたしが慰める。」と強く励ましておられます。
51:14 捕われ人は、すぐ解き放たれ、死んで穴に下ることがなく、パンにも事欠かない。51:15 わたしは、あなたの神、主であって、海をかき立て、波をとどろかせる。その名は万軍の主。51:16 わたしは、わたしのことばをあなたの口に置き、わたしの手の陰にあなたをかばい、天を引き延べ、地の基を定め、「あなたはわたしの民だ。」とシオンに言う。
主がすぐに彼らを守り、救ってくださいます。
3C エルサレムの弁護 17−23
51:17 さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。
先ほどは、残された民が「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」と叫んでいましたが、今度は主ご自身が呼んでおられます。
51:18 彼女が産んだすべての子らのうち、だれも彼女を導く者がなく、彼女が育てたすべての子らのうち、だれも彼女の手を取る者がない。51:19 これら二つの事が、あなたを見舞う。だれが、あなたのために嘆くだろうか。滅亡と破滅、ききんと剣、・・わたしはどのようにしてあなたを慰めようか。51:20 あなたの子らは網にかかった大かもしかのように気を失って、すべての町かどに倒れ伏す。彼らには、主の憤りと、あなたの神のとがめとが満ちている。
これが、これまでエルサレムが受けていた神の憤りです。先ほど、なぜ恐れているのかと主がおっしゃっておられましたが、彼らは敵の虐げの中でずっと恐れて生きていました。それは、主のエルサレムに対する裁きのゆえです。けれども主は、慰めの御業を行なわれます。
51:21 それゆえ、さあ、これを聞け。悩んでいる者、酔ってはいても、酒のせいではない者よ。51:22 あなたの主、ご自分の民を弁護するあなたの神、主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはあなたの手から、よろめかす杯を取り上げた。あなたはわたしの憤りの大杯をもう二度と飲むことはない。51:23 わたしはこれを、あなたを悩ます者たちの手に渡す。彼らはかつてあなたに、『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう。』と言ったので、あなたは背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた。」
主は、ご自分がイスラエルを裁くために用いられた敵に対して、同じ仕打ちをその敵に用いられるとおっしゃっておられます。
ここで私たちが知らなければいけないことは、「神は私たちの味方」であることです。そうです、確かに主は罪を犯す私たちを、悪魔が攻撃するのを許して痛めつけられることがあります。けれども、決して主がお見捨てになったと考えないでください。主は必ず、その憤りを必ず取り去ってくださいます。そして取り去るだけでなく、自分を攻撃していた相手に向けられます。つまり、私たちの味方になってくださり、私たちを防御する、ということです。
主は力強い働きをされる。しかし、それは主のしもべを通してである。しもべはへりくだった方で、その教えは柔和で、そのへりくだりを通して、私たちは神の力強さを体験できる、という内容です。次の52章は、主がエルサレムを贖われることについて話されます。
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