アウトライン
1A 贖われるエルサレム 52
1B 聖なる都 1−12
1C 美しい衣 1−6
2C 伝える者の足 7−12
2B 高められる僕 13−15
2A 罪を負われる方 53
1B 生い立ち 1−3
2B 身代わり 4−6
3B 静寂 7−9
4B 勝利 10−12
本文
イザヤ書52章を開いてください、今日は52章と53章を学びます。ここでのメッセージ題は、「驚きの知らせ」です。
私たちは、イザヤ書の後半部分を学んでいます。今、後半部分を学んでいますが、後半部分のテーマは「主の慰め」です。40章から48章までには、「神の主権」について書かれていました。主がシオンをお救いになりますが、それは神が前もって、予めお定めになったとおりに行なわれます。当時のイスラエルはバビロンによって捕え移された後、クロス王によって解放されます。
そして49章から57章までに、「しもべの働き」について主に書かれています。イスラエルを主がお救いになるときに一人の「しもべ」を選ばれて、この者によってご自分の民を救われます。救う、解放するとなると、私たち人間は力のある者が行なうことであり、その力を行使して敵を破り、解放します。実際、主は力のある方です。しかし、完全にしもべの姿を取り、その服従と従順によって人々に救いをもたらすというのは、思いつかないことです。
ところがこのパラドックスを、完全に自分を無にする者がかえって、多くの人々を救い出すというパラドックスを神が行なわれることをここの箇所は預言しています。そして今日学ぶ箇所は、そのクライマックスです。多くの人々が驚きます。信じられず驚きます。聞いたこともないものとして、愕然とします。この驚くべき知らせについて、これから私たちは学びます。
1A 贖われるエルサレム 52
1B 聖なる都 1−12
1C 美しい衣 1−6
52:1 さめよ。さめよ。力をまとえ。シオン。あなたの美しい衣を着よ。聖なる都エルサレム。無割礼の汚れた者が、もう、あなたの中にはいって来ることはない。
「さめよ、さめよ」という呼びかけから始まります。49章から、主がシオンを大いなる慰めることを語っておられますが、49章にはシオンは忘れられないことを約束しておられます。「女が乳飲み子をたとい忘れても、わたしはあなたを忘れない。(49:15参照)」と仰られています。
そして50章には、主がイスラエルと論じておられます。主が彼らをお見捨てになったのではなく、彼らが主から離れてしまったのだ。自分たちの罪が神から自分たちを引き離したのだ、ということです。そして神が選ばれたしもべを受け入れない者たちは、滅びてしまうことを語っておられます。
そして51章には、これらふるいにかけられてもなお残っている民が、救いにあずかることを約束してくださっています。アブラハムとサラにしたように、わたしもあなたがたを祝福すると言われました。そして、「さめよ、さめよ」という呼びかけの声が始まります。
初めは、残された民が主に対して、「さめよ。さめよ。」と叫びます。51章9節です、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。」かつてエジプトに対して行なったように、その力強い御手で私たちを救ってください、という祈りです。
主がこの声に応答されて、今度は主が、「さめよ。さめよ。」と言われます。51章17節です、「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」かつてあなたがたは、主に憤りを受けたが、その憤りはあなたがたを悩ます者たちにふりかかる、と約束してくださっています。
そして今よんだ「さめよ。さめよ。」です。主がエルサレムを踏みにじる者たちを、主が踏みにじってくださることによって、エルサレムが元いた地位に主が引き上げてくださることを約束してくださっています。
エルサレムが「美しい衣」を身にまとい「聖なる都」と呼ばれるようになるのですが、これを読んだユダヤ人はだれも、大祭司が身に着けていた装束を思い出すでしょう。出エジプト記28章で、神がモーセに大祭司の装束について教えられましたが、2節「あなたは兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ。」と仰せになりました。その装束が神の栄光を表しているので、聖なるものであり、かつ美しいのです。
新約聖書にも、身に着ける衣のことを神は語られています。黙示録19章で、小羊の婚宴に招かれている花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ていました。「その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(8節)」とあります。
無割礼の汚れた者が入らない、というのは、単に物理的に異邦人がエルサレムを踏み荒らさないということだけでなく、むしろエルサレムが汚れから完全に清められる、という霊的な意味があるのです。これが救いの完成であり、主が終わりの日に行なってくださる贖いです。
52:2 ちりを払い落として立ち上がり、もとの座に着け、エルサレム。あなたの首からかせをふりほどけ、捕囚のシオンの娘よ。
興味深い命令です。もうすでにあなたがたは解放されたのだから、その首にかかっているかせをふりほどきなさい。また、踏み荒らされていたけれども、もう誰もいない。ちりを払い落としなさい、と言われています。主が、似たようなことをよみがえらせたラザロについても、語られましたね。もう生きているのだから、巻いてある布はほどきなさい、という命令です。
私たちも振りほどく必要があります。もう古いものは過ぎ去りました。キリストにあって新しく造られました。まとわりつく罪や重荷は振り払うのです。
52:3 まことに主はこう仰せられる。「あなたがたは、ただで売られた。だから、金を払わずに買い戻される。」
「ただで売られる」「金を払わずに買い戻す」、どちらもおかしな表現ですね。お金の取り引きがなければ、売ったり買い戻したりできないはずです。次の節を読むとその答えが分かります。
52:4 まことに神である主がこう仰せられる。「わたしの民は昔、エジプトに下って行ってそこに寄留した。またアッシリヤ人がゆえなく彼らを苦しめた。
ここです、「ゆえのない苦しみ」です。奴隷はもちろん、主人になる人がお金を払って買い取ります。これだけでも酷いことですが、仮に、「これは、ただで持っていっていいよ。」と奴隷売人が言ったら、もっと酷いことですね。これをエジプトやアッシリヤがイスラエルに対して行なった、ということです。つまり、自分たちの都合に合わせて、勝手にイスラエル人を我が物として、自分たちのやりたい放題使った、ということです。
インターネット上で、反ユダヤ的な発言を繰り返している人とメールで議論したことがあります。「ユダヤ人が謂われない迫害を受けてきた」と私が言ったことに対して、相手は、「『謂われない』ことについては、保留にします。」というようなことを言いました。つまり、彼らが歴史を通じて受けた迫害は、それに相応する悪いことを行なったからだ、と言いたいわけです。
本当にそうでしょうか?彼らは選びの民です。それゆえに彼らが神に逆らえば、それだけ厳しい裁きを受けます。けれども預言者らが一貫して言っているのは、「主が確かに彼らを敵の手に渡されたが、敵は神が許容された以上にやりたい放題やった。」ということです(例:ゼカリヤ1:2)。
ゆえにイスラエル人たちは、同じように自分たちの行ないに関わらず、主が買い戻される、というのがここでの論理です。「金を払わずに買い戻される」というのは、彼らが行なったことによっては決して買い戻される、つまり贖われ、救われることはないけれども、主が一方的にお救いになる、ということです。
ここが選びと召命についての、非常に大切な教理です。主は、これだけご自分に逆らってきた民に対して、「あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。(ローマ11:2)」とパウロは言っているし、そして「神の賜物と召命は変わることがありません。(ローマ11:29)」と言いました。私たちが対価を支払って、それで神に贖われたのではありません。無対価で、買い戻されたのです。もちろん、神ご自身がもっとも尊い、ご自分の子キリストの血という、対価を支払われているのです。
52:5 さあ、今、ここでわたしは何をしよう。・・主の御告げ。・・ わたしの民はただで奪い取られ、彼らを支配する者たちはわめいている。・・主の御告げ。・・また、わたしの名は一日中絶えず侮られている。
エジプト人もアッシリヤ人も、イスラエルの民が信じる神を侮り、あざけていました。パロは、「主とはいったい何者か。(出エジプト5:2)」と言いましたし、アッシリヤのラブシャケも、「国々の神々がアッシリヤの王の手から救い出せなかったのに、主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。(36:18‐20参照)」と言いました。
そしてここの箇所は、パウロが、ユダヤ人教師たちが教えていることを行なっていないことについて論じているときに引用した箇所です。「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。これは、『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。』と書いてあるとおりです。(ローマ2:23-24)」
アッシリヤにいる捕らえ移されたイスラエル人たちは、まことの神、主から離れていきていました。「主はいったい何者だ。」と侮られても、全然不思議ではなかったのです。けれども次の節の接続詞を見てください。
52:6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るようになる。その日、『ここにわたしがいる。』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」
「それゆえ」です。「彼らのゆえに、わたしの名は侮れられている。しかし、わたしの民はわたしの名を知るようになる。」ではないのです。「しかし」ではなくその反対、「それゆえ」なのです。神が予め知っておられて選ばれた民が罪の中にいて、敵の思うままにされているのを見て、「これではいけない、わたし自身で何とかする。」というのが、恵みであり、神の選びなのです。
神は救い主です。神は初めからすぐれた車を選んで、それを好むような方ではありません。むしろ、神の関心は、故障してもう動かないとされている車に向きます。主は、ご自分がキリストにあって選ばれた者が失敗して、悪魔の思う壺にはまってしまったのをご覧になり、それを再び立ち上がらせることにご自分の情熱をお注ぎになります。
ここで、「わたしの名を知るようになる」というのは、主ご自身をその本質をもって知るようになる、とうことです。神の名前は単なる称号ではなく、神の性質、本質そのものであります。
そして、「『ここにわたしがいる。』と告げる者がわたしであることを知るようになる。」というのは、キリストご自身の預言です。主は、「わたしはある」とユダヤ人に言われました。「わたしはヤハウェである。モーセに現われた、『わたしはある』」と同じ者である、ということなのですが、この方が、確かに主ご自身、ヤハウェご自身であることを知ることになる、ということです。
2C 伝える者の足 7−12
52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。
すばらしい福音宣教の言葉です。パウロがこの箇所を引用して、宣教の必要性について説いています。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。『良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。』(ローマ10:14-15)」
ある人が書いた本の中に、なぜ今の教会が強くないのかを説明しています。それは第一に、「信者が弟子になっていない。」ことです。主イエスを救い主として受け入れたけれども、この方に従う生活を送っていない、主の命令に従っていないという問題があるため教会が強くありません。そしてその人はこうも言いました。「第二に、弟子たちが使徒になっていない。」キリストの教えをいっぱいに受けているけれども、人々に福音を伝えるために出て行っていない、ということです。
主が、「あなたがたは行って、あらゆる国々の人々を弟子としなさい。(マタイ28:19)」と言われましたが、自分が宣教の対象としての弟子にはなったが、今度はこの命令にしたがって、ほかの人を弟子にしていくことをしていない、ということです。けれどもこれは良い知らせです。主は、これを持ち運ぶ人たちの足を「美しい」とみなしておられます。
そしてこれは、「平和」を告げ知らせることでもあるということです。「キリストこそ私たちの平和であり(2:14)」とエペソ書にあります。この方を主と受け入れることによって、神との平和、そして神の平安を持つことができます。
その知らせの内容は、「あなたの神が王となる。」であります。自分が信じている神の下に、すべての物が従っているわけではないことを、ヘブル書の著者が教えています(2:8参照)。けれども黙示録11章にあるとおり、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。(15節)」と言うことができる日がやって来ます。
そしてこのような、キリストが王として来られる再臨の日だけでなく、今、自分がキリストを主としてあがめているのであれば、すでにこの福音は私たちのものとなっているのです。「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。(コロサイ1:13)」この方を自分の王として抱くことは、つまり暗闇の圧制、悪魔と罪の虐げから解放されることに他なりません。
52:8 聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、主がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。
この「見張り人」とは、霊的にエルサレムを注視している人々、つまり預言者たちであろうと考えられます。ハバククは、「私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。(ハバクク2:1)」と言いましたが、主が語られることを待つのが見張り台です。彼らが、自分たちが語っていることがその通りになるのを見て、大声で叫んでいます。ハバククは、このことをユダの国が飢饉で苦しんでいる時に行いました。主がお語りになったから、まだ見ないうちに、その実現を思って喜び勇んだのです(3:18)。
52:9 エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。主がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。52:10 主はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現わした。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。
エルサレムの贖いは、すべての国々への証しになります。すでに教会の誕生によって、その霊的な側面は実現しました。エルサレムにキリストの教えがいっぱいになりました。そしてエルサレムからユダ、サマリヤへ、そして地の果てにまでで使徒たちは主を証ししました。
52:11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。
これはこの良い知らせを携える者たちに対する戒めです。主が平和と幸い、救いの知らせを持っておられるのだから、それを携える者たちも清くなければいけない、という戒めです。テモテ第二2章21節にこう書いてあります。「ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。」
52:12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。
主のご臨在がはっきりとしているので、あたかも自分の周りにある暗やみが自分を支配するのを恐れるかのように出なくても大丈夫だ、ということです。
ナチスによって収容所に入れられたユダヤ人たちは、米軍を始めとする連合軍がそこを解放したとき、食糧を我先とむさぼって食べた人はかえって消化不良で死んでしまいました。もうすでに解放されているのです。食糧も充分に与えられるのです。ゆえに、自分の消化器官が飢えによって弱まっていることを知り、少しずつ食べる必要がありました。
霊的な解放もこれと同じです。御霊によって新たに生まれた人は、自分が置かれている周りの環境に過敏に反応します。こんなところにいたら、私は救いを失ってしまうかもしれない、という不安を抱きます。また、これまで行なっていた悪習慣もどのように断ち切ったらいいか思いあぐねて、かえって不安になります。けれども、主はおられるのです。主が自分を前で導き、後ろで守ってくださいます。主とともにいることを知れば、どのようにそれらの環境や習慣から脱出できるのかを知ることができるのです。大事なのは主との交わりです。
2B 高められる僕 13−15
そして次から、「しもべの歌」として最も有名な、そして最も驚くべき働きを読むことになります。これまで、「しもべの歌」がいくつか出てきました。これらがみな、既に驚くべきものでした。
イザヤ書42章1節から、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(1-3節)」世界に公義をもたらす器として神に選ばれたこの僕は、力や大きな声ではなく、静かに、柔和に人々に接していきました。このへりくだりによって、世界の人々を変える影響力を発揮したのです。
そして49章1節、「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいる時から私の名を呼ばれた。」とあります。しもべは人の子として、人間としてお生まれになりました。その口からは世界の国々の軍隊を打ち滅ぼす剣があるにも関わらず、それを御手の影に隠し矢筒の中に隠した、とあります。
そして50章4節、「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」しもべは神から学ぶ者、弟子と同じようになりました。徹底的に自分を低くし、神に服従する者となりました。
そのため続けて、「神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。(5-6節)」とあります。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。(マタイ26:39)」と祈られた主は、この仕打ちをすべて父の御心として甘んじて受けたのです。
そして52章13節からの「しもべの歌」です。へりくだり、人の子として生まれ、弟子のように服従したしもべは、人々の病と痛みをになう者、そしてついに罪のいけにえとなられるのです。
52:13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
このしもべは栄えます。次に出てきますが、国々や王たちよりも、ずっと高められます。私たちはピリピ人への手紙2章で主が十字架の死に至るまで父なる神に従われたので、神が、「キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。(9節)」とあります。ですから今、昇天された主が、この地上に戻ってこられる時のことを描いています。
52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、・・その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。・・
「ここにわたしがいる」と告げられた主、王となられた主、エルサレムを贖われ、救いを与え、地上の国々に光となられた主が、あまりにも顔が損なわれており、人間としても判別できない程になっている、というのです。これで多くの者が驚愕しています。
黙示録にて、イエス様をヨハネは「ほふられたと見える小羊」と形容しています。主は復活された時栄光の体を持っておりますから、十字架につけられたその無残な姿とは違うと思いますが、それでも何らかの形で栄光の主にも傷が残っていると考えられます。主が戻って来られる時、何らかの形で、十字架に至る道で殴られ、打たれたその姿を鮮烈に見ることができる何らかの痕跡を身にまとって戻って来られるのです。
52:15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。
ここの「驚かす」の言葉は、「注ぎかける」と訳すこともできる言葉です。つまり、キリストの贖いの御業によってイスラエルの残りの民だけでなく、国々にも清めの注ぎかけが行なわれる、ということです。
そして王たちが口をつぐみます。王の王として来られるのですから、自分たちの力や栄光よりもはるかにまさる力と栄光をまとって来られてもおかしくないのに、そして実際に全能の神の栄光と力をもって来られるのですが、まさかこんな無残な、悲惨な死を遂げた人だとは考え付かないことなのです。
また、「口をつぐむ」という言葉が出てくる時、多く、不正な者が主ご自身や真実に触れて起こる反応として出てきます。詩篇107篇42節に「直ぐな人はそれを見て喜び、不正な者はすべてその口を閉じる。」とあります。今、世界の国々の指導者らが、キリストにまみえる時、はたしでどれだけの人が、「あなたが、私の主です。私の王です。」と言えるでしょうか?
王子の祝宴の席に、礼服を着ないで来た人がいました。「どうして礼服を着ないで、ここにはいってきたのですか。」と聞いても、その人は黙っていました。それで王はこいつを追い出せ、と命じます(マタイ22:12‐13参照)。私たちは、プライドが心にあるとき告白することができません。自分が何者かとでも思っているとき、主から尋ねられても口を閉ざしてしまいます。
2A 罪を負われる方 53
1B 生い立ち 1−3
53:1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
主語は「私たちの」です。これはイスラエルの残りの民であります。51章1節に出てきた、義を追い求める者たちであります。彼らは、このしもべについて聞いていたことを今、事実として確認しているわけですが、とうてい信じがたい存在として圧倒されているのです。
「主の御腕」という言葉はもうすでにイザヤ書に出てきました。51章9節、「さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。」とあり、エジプトから力強い腕で、イスラエルを連れ出された神のことを話しています。「この力強い方が、えっ、嘘でしょう!そんなっ・・・」と肺から息が抜けたような脱力感を抱いているのです。
主が地上におられるとき、ユダヤ人指導者らはこの方をそのような理由から受け入れることはできませんでした。ヨハネ12章に、この箇所を引用してヨハネがこう証言しています。「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行なわれたのに、彼らはイエスを信じなかった。それは、『主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。』と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。(37-38節)」
私たちはこれから、主イエスが辿られた道を読んでいきます。クリスチャンとして生きているなら、何度も聞いていることでしょう。けれども、もし私たちが国々や抱いたような驚きを持たずに聞くならば、聞いているだけでこの方にきちんとお会いしていない、主との交わりを避けていることになります。
私たちが主の御前に出るときに、十字架は「ああ聞いてきたし、もう信じているからね。」という平静を装うことはできません。主はある意味で急進派です。過激です。主が語られる御言葉は、いつでも私たちの心をえぐり出し、私たちがただ十字架の前にしか存在できない無力の者であることを悟らせます。
53:2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
ここには主の生い立ちが描かれています。「若枝」という呼称はすでに出てきました。イザヤ書11章2節に「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」とあります。命をもったみずみずしく、初々しい枝です。
けれどもこれは、「砂漠の地から出る根のように育った」とあります。イスラエルとエジプトの旅行から帰ってきましたが、エジプトからイスラエルに行くとき、バスで移動しました。シナイ半島の砂漠が、延々と6時間ぐらい続いていました。ですから、この「砂漠の地から出る根」というのが一体何を指しているか実感できます。それはまさに次に続く言葉、「私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない」なのです。
主がナザレの町で育ち、そしてガリラヤ地方に動かれていきましたが、何の変哲もない、一般のユダヤ人として育ち、行動されたのです。誰が見ても別に何とも思わない、ごくごく普通の人だったのです。
私たちは、信仰生活を歩んでいくにあたって、何らかの見栄えを気にするのではないでしょうか?何か真新しい、人々が慕うようなものを求めるでしょう。けれども、私たちが嫌がる、その平凡な生活の中に主はおられるのです。それだけ主はへりくだった方だったのです。
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
主は何の変哲もないだけはありませんでした。その後、嫌がられ、のけ者にされ、病や痛みをいなわれた方でした。福音書において、この成就を見ることができます。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。(マルコ11:9)」とイエス様を称揚して向かえた群衆が、「十字架につけろ。(マルコ15:14)」と叫んだのです。そしてローマ兵は、この方にいばらの冠をかぶらせ、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫び、葦の棒で頭をたたいたり、つばきをかけ、ひざまずいて拝んだりしたのです(マルコ15:17‐20参照)。
「私たちも」と告白していますね、残りの民が自分たちの先祖、つまりユダヤ人たちが同じことを行ないました。カヤパ邸でつばきをかけ、顔をおおってこぶしで殴りつけて、「言い当ててみろ」などと言いました。役人たちもイエス様を平手で打った、とあります。
弟子でさえ、この有様を見て顔を背けてしまったのです。ペテロが、主を三度否定したのも、自分の命が可愛かったというのもあるかもしれませんが、それよりも主のこの姿から顔をそむけたかったからです。文字通り、誰も彼を尊びませんでした。
2B 身代わり 4−6
そして次に、イザヤはこれらの仕打ちの背後にある理由について説明します。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
これらの酷い仕打ちは、身代わりに受けていたことだ、というのです。「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」と残りの民が告白しています。ご自分を無にされた、とピリピ書2章にありますが、神が人として生まれ、弟子のように学ぶ者として生きられただけでも、かなりのへりくだりと従順が試されますが、さらに、聖書の古代から救いの方法として神が与えておられた「犠牲」をご自分の体をもって行なわれる、というものなのです。
これは誰も考えていませんでした。王の王であるメシヤが、いけにえになるなどどうして考えられましょうか。これが神の知恵であり、そして私たちを驚愕させるものなのです。
そしてここは、マタイ8章で引用されている箇所ですが、主が病人をおいやしになり、悪霊を追い出されたことの成就であることを述べています(17節)。主は何でもおできになりますが、その癒しの土台は、自分自身が最終的にその痛みをになわれるところから出てきます。
さらに、ここには「神に罰せられた」のだとあります。つまり、父なる神がご計画されていたことだと言うことです。黙示録13章8節に、「天地創造の時から、屠られた小羊(新共同訳)」とあります。神が天と地をお創りになるその前から、この方が罰せられることをお定めになっていたのです。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
イザヤは聖霊の導きによって、さらにメシヤの働きを突っ込んで書いています。4節には、「病」と「痛み」を彼がになったと言いましたが、ここでは「そむきの罪」と「咎」を負われたことを話しています。
罪と病には密接な関わりがあります。アダムが罪を犯して、それで全世界に罪が入り、死が入り込んだことがローマ5章に書いてありますが、この時に病も人類に入り込んだのです。罪は病を引き起こしました。そして究極の病であり死をもたらしました。
もちろんすべての病人が、その本人が罪を犯したから病に伏しているわけではありません。けれども、アダムによってもたらされた呪いの下にあるこの世界に住んでいるから病にかかっていることは確実なのです。
主は、そこで病に対する究極の癒しをもたらしてくださいます。それは私たちの朽ちる体から朽ちない体、復活の体を与えてくださることです。そしてこの天地も新しくされて、そこには死も、悲しみも、叫びも、涙もなくなることが黙示録21章に書かれています。
ここの「刺し通され」ること「砕かれる」ことは、すべて主の十字架において成就しました。「砕かれる」は「傷を負う」と訳すこともできます。釘を手と足に刺し通され、傷を負われました。
けれども「懲らしめ」と「打ち傷」は、十字架の上でのことではありません。これはピラトがイエス様が無罪であると知っていたにも関わらず、ユダヤ人を喜ばせるためむち打ちで懲らしめた、その出来事です。
あのメルギブソンの映画「パッション」は、ここの聖書の箇所が始めに出てきて、そして打ち傷の場面が最も残虐なものとして論争を呼び起こしました。けれども、あの映画はカトリックの伝統が色濃く聖書の記述通りでないものが数多くありますが、あの鞭打ちの場面は史実に非常に忠実に描かれている場面なのです。
その結果、どうでしょうか?私たちには代わりに「平安」が与えられ「いやし」が与えられます。交換するのです。コリント第二5章21節、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21)」
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
残りの民は、自分たちの罪を告白しています。羊は、羊飼いがいなければ、おのおの自分勝手な道に向かう愚かな動物です。自分たちがそのようであると告白しています。
けれども自分たちを罰するのではなく、・・・先ほどからエルサレムが一方的に神の救いと贖いにあずかる慰めの約束がありましたが、その慰めはすべてこのしもべが、身代わりに彼らの罪と咎を身に引き受けたからです。
3B 静寂 7−9
そしてイザヤはさらに、この方がこの無残な死を遂げる時の態度を語っています。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
ただ肉体の苦痛を味わっているだけではありませんでした。痛めつけている相手に、ののしり返さなかったのです。十字架の上にかかっている囚人は、そうではありませんでしたね。ののしっていました。
これも究極のしもべの姿です。父なる神の御心に黙して従うしもべの姿です。マタイ27章にこう書いてあります。「さて、イエスは総督の前に立たれた。すると、総督はイエスに『あなたは、ユダヤ人の王ですか。』と尋ねた。イエスは彼に『そのとおりです。』と言われた。しかし、祭司長、長老たちから訴えがなされたときは、何もお答えにならなかった。そのとき、ピラトはイエスに言った。『あんなにいろいろとあなたに不利な証言をしているのに、聞こえないのですか。』それでも、イエスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた。(11-14節)」先に話しましたね、多くの国々を驚かすとありましたが、ここで総督が非常に驚いています。
53:8a しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
「取り去られた」という言葉は「断たれた」と訳すことができます。ダニエル書9章26節にある「彼は断たれ」と書いてある言葉と同じです。主が死なれたのは、33歳ぐらいでした。これからの人生と言うときに、急に断たれたのです。
53:8b彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
ここにも、しもべとしての謙遜があります。だれもこの出来事について、その意味を見出すことはできませんでした。あの時に、イスラエルのための、いや全人類のための永遠の救いを、自分たちのための身代わりの死を成し遂げられていたのだ、と悟っていた人はどれだけいたでしょうか?誰からも認められない形で死なれたのです。
53:9a 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。
十字架の上でつけられたほかの二人の囚人とともに死なれました。そして、アリマタヤのヨセフの墓に葬られました。彼は金持ちであるとマタイが記しています(27:57)。
53:9b彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
「この人には何の罪も見出せない」という証言は、何人もの人が行いました。イエス様を裏切ったイスカリオテのユダでさえも、「罪のない人の血を売った(マタイ27:4)」と告白しました。
そしてここは、ペテロが私たちの模範として、引用している箇所です。彼は後に、逆さで十字架につけられ殉教しましたが、迫害の中で苦しんでいる兄弟姉妹に対してこう語っています。「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。(1ペテロ2:21-23)」だから正しいことのため、キリストの名のゆえに打ち叩かれるなら、栄光の御霊がとどまっていてくださるのだ、と言っています(1ペテロ4:14参照)。
4B 勝利 10−12
そしてこの犠牲の死によって、贖いが成し遂げられたことをイザヤは明確に述べます。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「主のみこころであった」とあるところは、「喜びであった」とも訳せるところです。痛めつけることが、傷を与えることがなぜ喜びなのでしょうか?答えが、しもべは死んでよみがえるという希望があり、さらによみがえりの後、ご自分について来る者たちがずっと出てくることを見ることができるからです。
ヘブル書に、「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(12:2)」とあります。父なる神だけでなく、主ご自身もこの喜びを抱いておられたのです。すばらしいですね、主はいやいやながら十字架の苦しみをお受けになったのではありません。私たちが地獄に行かない方法が他にないから、仕方がなく十字架に向かったのではありません。むしろこの喜びを抱いておられたのです。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
主は今、今日に至るまで、この満足感を抱いておられます。「その知識によって」とあるのは、「このしもべを知ることによって多くの人が義とされ」という意味です。主を知ることによって、多くの人が信仰による義を得ています。
53:12a それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。
この「強者たち」というのは、義と認められた者たちのことです。彼の子孫すなわち神の子どもとされた者たちのことです。ローマ8章には、私たちはキリストとの共同相続人であると書かれています。神の相続者となっているのです。神の御国をキリストとともに統治するのです。
53:12b彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。
これがここの箇所のまとめです。しもべがなぜ「しもべ」と呼ばれるか?へりくだった方であり、人としてお生まれになり、弟子のように従順で、そして人々ために罪の犠牲となられました。驚くべきしもべであり、これによって多くの人が義とされ、神の御国の市民となっています。驚くべき贖いであり、救いであり、良い知らせです。
そして最後、「そむいた人たちのためにとりなしをする」とあります。主は十字架の上で、「彼らをお赦しください。」と祈られましたが、それだけでなく今、神の右の座で大祭司として、私たちのために執り成していてくださるのです(ローマ8:34参照)。
次回は、このような僕の働きによって、人々がどのような救いと喜びを得るのか続けて学んでいきます。
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