アウトライン
1A とてつもない回復 54−55
1B 夫の変らない愛 54
1C 子を産む女 1−10
2C 宝石の着飾り 11−17
2B 開かれた招き 55
1C 「出て来い」 1−5
2C 「主を求めよ」 6−13
2A 義の備え 56−57
1B 近づいた救い 56
1C 安息日を守る部外者 1−8
2C 見えない見張り人 9−12
2B 取り去られる義人 57
1C 益にならない義 1−13
2C いやされる者 14−21
本文
イザヤ書54章をお開きください。今日は57章まで学びたいと思いますが、57章でイザヤ書後半の「しもべの働き」の部分を終えます。イザヤ書の後半部分のテーマは「主の慰め」です。そして40章から47章までが、神の主権に表れている慰めが、そして48章から57章までが、神が選ばれたしもべによる慰めがあります。
前回私たちは、そのクライマックスの部分を学びました。神が選ばれたしもべは、人としてさげすまれるところまでご自分を低くされました。それだけでなく、何と他の人々の罪と咎を代わりに受けるところまで低くされたのです。その結果、義とみなされる人々、神の子供となる権利が与えられる人々が数多く出てきます。
そして54章です。受難の僕たるイエス・キリストによって私たちにもたらされるもの、それは第一に「回復」です。
1A とてつもない回復 54−55
1B 夫の変らない愛 54
1C 子を産む女 1−10
54:1 「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ。夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ。」と主は仰せられる。
「この夫に捨てられた女」とは、イスラエルのことです。イスラエルが、神が約束してくださった子孫による繁栄を一時、失いました。アッシリヤによって北イスラエルは捕え移され、南ユダはバビロンの捕囚の民となりました。けれども最後には、これまで問題なく子を産みつづけた普通の女よりも遥かに多くの子孫を生み出す、という約束を神はしてくださっています。
ちょうどこれはハンナの時のようです。ハンナは不妊の女でした。エルカナのもう一人の妻ペニンナは子を産みました。ハンナはもだえて、主の幕屋において声にならない祈りをささげました。そうしたらサムエルが生まれました。さらに後に、息子や娘が生まれました。サムエルが生まれた後にハンナがささげた祈りで、「不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。(1サムエル2:5)」と言っています。
これを他の言葉で説明するなら、なんと言えばいいでしょうか。「とてつもない回復」とでも言いましょうか。ローマ11章を開いてください。パウロは、多くのイスラエル人が福音を拒んでいる状態にあることについて、「彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。(11節)」と言っています。そして続けてこう言っています。11節です、「かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。」彼らが福音を信じないことによって、神の救いの御手は異邦人にまで伸ばされました。
彼らは、選びの民です。神は彼らと契約を結んでおられます。ゆえに、神は彼らが失敗している時でさえ、その失敗を用いて豊かな祝福をこの世界にもたらしてくださったのです。だったら、彼らが福音を受け入れる時はどうなるでしょうか?これが、神が彼らにもともと期待しておられたことです。福音を受け入れたなら、その失敗の時以上にさらに豊かな祝福を降り注いでくださる、ということです。
そこで11章12節を読んでください。「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。」異邦人の間に、イエス・キリストの福音を信じる人々がこの歴史上、数多く出てきました。これはとてつもない霊的な富であり、祝福です。それを見て、また今のかたくななユダヤ人を見て、「ユダヤ人にはもう希望がない。」という捨て台詞をはき捨てる人々がたくさんいます。けれども実際はその反対なのです。異邦人の間の救いがこんなにもすばらしいと思っていても、後に来るイスラエル人の救いとは比べ物にならないのです。イスラエル人の救いを私たちが見るときに、私たちはちょうどペニンナのように、今までの救いの喜びがしおれてしまうほど、栄光の輝きを知ることになるのです。
これが後に用意されている、とてつもない回復です。同じことをパウロは、ガラテヤ書においてここのイザヤ書の箇所を引用して説明しています。新しい契約によって新たに生まれた人々は、古い契約の中で祝福を受けた人々よりも、はるかに大きな祝福を受けることを説明しました(4章参照)。ここの場合は、地上にいるイスラエル人と、希望なく生きていた異邦人との対比です。イスラエル人は神がともにおり祝福を受けていたが、主が与えてくださる、約束による、信仰による祝福は地上の祝福よりもはるかに大きいことを彼は説明しました。
54:2 「あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。54:3 あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。
今でも中東にはベドウィン、遊牧民がいますが、家族の数が多くなってテントが手狭になったら、その幕を継ぎ合わせてさらに大きく張り伸ばします。このように、イスラエルは子孫が増えて自分たちが住むところを広げていくという約束を、神は与えてくださっています。そして今、その成就の一部を現代イスラエルで見ることができるのです。
54:4 恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。
自分の若かったころの恥とは、イスラエルの歴史において初期の時、外国の民に虐げられていた時のことであり、やもめ時代のそしりとはバビロンによって捕え移された時のことです。
54:5 あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。
イスラエルは長いこと、敵によって襲われて、虐げられ、惨めな思いをしてきました。だから、「あなたはもう恥を受けることはない。」と言われても、それをなかなか信じることができないのです。以前も主は、「天を引き述べ、地の基を定め、あなたを造った主を、あなたは忘れ、一日中、絶えず、しいたげる者の憤りを恐れている。まるで滅びに定められているかのようだ。(51:13)」とイスラエルに言われました。
だから主は、何度も、何度も、慰めの言葉をかけてくださっているのです。今、何年間も男が女性を自宅に監禁していたという事件を、しばしば聞きます。そこから出てきた女性が回復するのに、どれだけのリハビリが必要でしょうか。同じように、イスラエルが敵に襲われるという恐れから解放されるには、慰めの言葉が必要なのです。
人が回復するために必要なのは、慰めの言葉です。「あなたがこのような状態にいるのは、昔こんなことを行なったからだ。」という言葉ではなく、「あなたは、神に愛されているんですよ。だからこれだけの祝福が待っているんですよ。」という言葉をかけるのです。私たちの精神的な病を直すのは、薬でもなくカウンセリングでもありません。兄弟姉妹の交わりの中にある励ましと慰めなのです。
そこでここでは、主は、「あなたの夫は、あなたを造った万軍の主なのだよ。イスラエルの聖なる方であり、全地の神なんだよ。」と言われて、周囲の敵を恐れる必要はない、安全だということを保証してくださっています。
54:6 主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。」とあなたの神は仰せられる。
神とイスラエルとの関係は、始めから夫と妻の関係でした。真実と愛に基づく契約の関係です。ですから聖書全体において、イスラエルが神に背いているときに姦淫の罪を犯していると主は責め、捕囚の民になる時に夫と離縁したと言われ、回復するときは再婚すると呼ばれているわけです。
教会は花嫁と呼ばれています。まだ結婚していません。なぜか?キリストとの結婚は、キリストが教会を天にまで引き取るときまで執り行われないからです。だから、キリストが戻って来られることを待ち望み、慕い求めない教会生活はあり得ません。聖書の最後、黙示録22章にはこう書いてあります。「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。(20節)」
54:7 「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。54:8 怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う主は仰せられる。
神はイスラエルにご自分の怒りを現された期間をなんと、「ほんのしばらくの間」と言われています。バビロン捕囚は70年間、そしてエルサレムがローマ軍によって破壊された紀元70年から現在まですでに2000年近く経っています。けれども、神にとっては「ほんのしばらくの間」なのです。
なぜなら、その後に続く永遠という期間は、非常に長いからです。この後に来るとてつもない祝福、神の憐れみは、これまで受けてきた虐げを「あれは、ほんのしばらくの間だったね」と認めることができるほど実に長い期間、そして豊かな時としてくださるからです。
パウロも、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8:18)」と言いました。取るに足りない?とんでもありません、彼が受けた苦しみはコリント第二11章の後半に列挙されていますが、尋常なものではありません。でも、後の栄光に比べたら、取るに足りないのです。それだけ、とてつもない栄光が用意されているということです。
54:9 「このことは、わたしにとっては、ノアの日のようだ。わたしは、ノアの洪水をもう地上に送らないと誓ったが、そのように、あなたを怒らず、あなたを責めないとわたしは誓う。54:10 たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。
主は、水によって全地に裁きを下されましたが、箱舟から出てきたノアがささげた全焼のいけにえの煙のにおいをかがれたとき、「わたしは、決して再び人のゆえに、この地をのろうことはすまい。(創世8:21)」と言われました。そして契約を結ばれて、「すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。(9:11)」と約束してくださいました。実際、世界規模の大洪水は今日に至るまで起こっていません。
このように主は、必ずご自分の愛と平和の契約は動かすことはない、と約束してくださっています。
2C 宝石の着飾り 11−17
54:11 「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、54:12 あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。
ここの「慰められなかった女よ」は、新改訳のみの訳です。原語に「女」という言葉はありません。口語訳は「慰めを得ない者よ」となっています。けれども良い意訳だと思います。今ここで、エルサレムの都が宝石で飾られる預言をイザヤは行なっているのですが、ちょうど男に良いようにもてあそばれた女が、回復して、宝石を自分の身に飾っている比喩になっていると考えてもいいからです。
天のエルサレムは、実際に、宝石の輝きを持っている都であります。黙示録21章にその詳しい姿が描かれています。
54:13 あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。
主の教えによって豊かな平安を得ることができます。例え物理的に安全が保証されていたとしても、私たちに真の平安を与えるのは、主の教えです。
54:14 あなたは義によって堅く立ち、しいたげから遠ざかれ。恐れることはない。恐れから遠ざかれ。それが近づくことはない。
解放されているのに、これまで長いこと虐げられていたので自由にされることを恐れています。けれども、その恐れはもう近づくことはないと主が保証してくださっています。私たちも、キリストの血によって罪から解放されています。だから、罪から自由になる生活を享受することができます。恐れずに、その自由を満喫すればよいのです。
54:15 見よ。攻め寄せる者があっても、それはわたしから出たものではない。あなたを攻める者は、あなたによって倒される。
これまで主は、攻め寄る者はわたしによって攻める、ということをお話になっていました。アッシリヤにしても、バビロンにしても、それは主がイスラエルを裁くために遣わした器でありました。けれども、末期のユダ王国はバビロンを悪とみなし、神が悪を自分たちに引き起こされるわけはないと思っていました。けれども神は、すべてのことをご自分の栄光のために用いられる主権者であられるのです。
けれども今は、神はイスラエルを裁くことをお考えになっていません。イスラエルを憐れむことをお考えになっています。だからどんな敵が攻め寄ってきても、イスラエルが戦えば敵が倒れるように主はお定めになっているのです。
54:16 見よ。炭火を吹きおこし武器を作り出す職人を創造したのはわたしである。それをこわしてしまう破壊者を創造したのもわたしである。
そうです、今話しましたように、神は主権者なのです。
54:17 あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責めたてるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。・・主の御告げ。・・」
主権者であられるがゆえに、どんな武器も主がお許しにならなければ、その有効性は認められません。そしてここでは武器だけでなく、言葉の武器つまりそしりの言葉に対しても勝利することができることを約束してくださっています。
これはすばらしい約束です。イスラエルそしてユダヤ人ほど、責め立てる言葉を受けている人々はいません。何を行なっても、世界は必ずイスラエルを非難します。イスラエルは中東戦争で連勝しましたが、プロパガンダ戦争においては敗戦しています。武力で勝っても、宣伝において失敗しているのです。けれども、それも終わる時がやって来ます。
そしてこれは、キリスト者に対する約束であることも私たちは知っています。「今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(33-34節)」
2B 開かれた招き 55
そして55章では、異邦人も含めて神の救いに招かれています。
1C 「出て来い」 1−5
55:1 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。
見捨てられた女が、今は他のどの女よりも美しく着飾っているわけですが、そうした回復したイスラエルに、すべての人が差別なく招かれている姿がここに描かれています。
「出て来い」または「来なさい」という招きです。しかも、お金を払わずにただで水を飲みなさい、ただで穀物を得なさい、ぶどう酒と乳を得なさい、という招きです。スーパーマーケットでセールの割引ではなく、ただ売りをしていたらどうでしょうか?その店はたちまち人々でごったかえします。同じことを、主は今、人々に行なっているのです。
このことを主は、福音について行なっておられます。黙示録の最後で主が、「渇く者は来なさい。命の水がほしい者は、それをただで受けなさい。(22:17)」と言われました。日本人は、福袋には貪欲になりますが、福音に対しては「いや、私の生活をきちんと正してから福音を受け入れたいと思います。」となります。違うのです!そのままただで受け入れるのが福音なのです。
55:2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。
私たちはみな、これをやってしまいます。主ご自身以外のもののために、一生懸命労するのです。サマリヤの女のことを思い出してください、彼女が毎日井戸に来て大変な思いをして水を汲んでいましたが、それは霊的にも同じでした。彼女の霊的な飢え渇きを、彼女は男との関係で満たそうとしていましたが、満ち足りることはできませんでした。内側で泉となり、永遠のいのちに至る水を彼女は飲むことができたのです。
クリスチャンでさえ主のために労しているはずが、主に関する周囲の事柄で頑張り、徒労に終わることが多いのです。主の喜ばしい知らせを伝えるはずのものが、伝道活動でかえって疲れきってしまう。主を礼拝し、互いに励まし慰める教会の交わりがかえって、雑事で疲れてしまう。そうではなく、ただ「わたしに聞き従い、良い物を食べよ。」なのです。主ご自身のところに行くのです。そうすれば脂肪で元気づく、つまり豊かな満足が得られるのです。
55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。
これは、かつてダビデに主が約束してくださった、ダビデの王座からメシヤが出てきて神の国を建てるという約束です。
55:4 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。
イスラエルの国の王であるメシヤは、イスラエルの君主であるだけでなく、諸国の民の君主となるという約束です。
55:5 見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。
異邦人たちが集まってくるという約束です。ここや、後に出てくる異邦人がエルサレムで祈りにやってくる約束など、ユダヤ人には大きなチャレンジとなるでしょう。彼らは自分たちだけで集まって、自分たちだけの祝福、自分たちだけの救いと、内向きになっているからです。イエス様が地上におられた時代の時も、また現在もユダヤ教の人々は、異邦人に関心を持っていません。
けれどもここにあるように、異邦人がわんさとイスラエルにやって来ます。そして実際、霊的には、神様のパラドックスの中でユダヤ人よりも先に数多くの異邦人が、神の国の中に入ってきているのです。
2C 「主を求めよ」 6−13
ここまでが「来なさい」という招きです。次は一歩さらに進んで、「求めなさい」という呼びかけを主が行なわれます。
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。
主からの呼びかけ、招きはいつまでもあるわけではありません。主が私たちを救いにお招きになる、その瞬間があります。御霊が私たちに、「キリストは主です」と言い表すように導かれるその瞬間があります。だから、その時を逃してはいけません。パウロは、「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(2コリント6:2)」と言いました。
55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
私たちの取るべき二つの大事な行為があります。一つは「捨て去る」ことです。自分の身勝手な道、やり方を捨てること、自分の悪い思いや計画を捨てることです。もう一つは「主に帰る」ことです。神を信じ、主イエス・キリストを信じることは、実は「帰る」ことです。なぜなら、私たちを造られたのは神であり、私たちはもともと神のものなのです。それが自分の道を歩んでいたために離れていた、ということです。
そして大事なのは、このことを「今」行ないなさいという呼びかけを、主が行なっておられることです。私たちは過ちを犯します。今ではなく、いつか都合の良い時に行なおうと考えるのです。そして、自分の悪習慣を、いくつかの段階を経て少しずつ取り除こうと努力します。けれども悔い改めは、いくつかの段階ではなく、一回性のものです。一度に止めればよいのです。
私たちのもう一つの過ちは、罪の赦しも神は少しずつ行なわれると思い込むことです。今までに犯したこんなにたくさんの罪を、主がすぐに赦してくださるはずがないと考えます。だから苦行を通して、主が私たちを懲らしめながら、少しずつ赦されると考えるのです。実にカトリックの「煉獄」という教義はこの考えに基づいています。
けれどもヨハネ第一の手紙1章7節にあるように、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」私たちが罪を言い表したら、神は、「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(9節)」
55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
これは、私たちが神の主権を考えるときに、非常に重要な真理であります。神の選択は、私たちが普通に、自然に考えるものといつも違います。アブラハムの子について、兄のイシュマエルではなくイサクが選ばれました。同じようにエサウではなくヤコブでした。初代教会においては、ペテロの思いとは違って異邦人のコルネリオが救いにあずかりました。パウロが小アジヤだけの宣教に満足していたのに、御霊はそれを禁じられヨーロッパへの宣教に導かれました。私たちが考えるよりもずっと高いところで神は考えておられるので、私たちの思いと主の思いは往々にして異なるのです。
そしてその主の思いは、肯定的なものです。私たちの願うことをかなえてくださるのですが、私たちがこうやったら願いがかなえられると思っていることよりも異なる方法で、願っていること以上にかなえてくださいます。「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことができる方に」とパウロは、エペソ人への手紙で言っています(3:20)。
そしてこの箇所では、罪の赦しの文脈で主は語っておられます。つまり、その罪の赦しの豊かさは私たちが考えるような小さいものではない、ということです。考え付くこともができない、とてつもない豊かさを持っている、ということです。「目で見たことがないもの、耳で聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。(1コリント2:9)」であります。
そして次に、主がかなえてくださるその約束の確かさについて、お語りになります。
55:10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
これは自然の現象ですね。誰でも認めるところです。雨や雪が天に戻ることはありません。戻りはしますが、それは必ず地上に降って、それから地を潤したあとに循環して戻ります。必ず、潤いと実りをもたらすという結果を知っています。
55:11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
すばらしい約束です、雨や雪が天から降ってそのまま戻ることが当然ないように、主が一度語られた言葉も、そのまま成就することなく戻ってくることはありません。
このロゴス・ミニストリーの意味は「神の御言葉に奉仕する」ということですが、神の御言葉の真実さを証しすることができます。ただ御言葉に聞くだけなのです。けれども信仰をもって聞いた人々が、思いが変えられ、その生活が変えられ、その言葉がその人のうちで実現していくのを証しすることができます。
55:12 まことに、あなたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。55:13 いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」
イスラエルが回復するとき、また異邦人の救いが完成するとき、自然界も贖いを経験します。ローマ8章において、被造物もともに呻いていることが書かれています。天災は、神が元来意図されていたものではありません。弱肉強食の世界も同じです。けれども自然界が喜び踊ります。主の回復が訪れるからです。
2A 義の備え 56−57
このように、キリストの受難によってイスラエルの回復と異邦人の救いが引き起こされます。そして最後、この救いを前にしてあなたがたは備えなさい、というメッセージを主はお与えになります。
1B 近づいた救い 56
1C 安息日を守る部外者 1−8
56:1 主はこう仰せられる。「公正を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのは近く、わたしの義が現われるのも近いからだ。」
主が私たちを救ってくださる、主の義が現れることが近いことを知って、私たちは何をすべきでしょうか?「主がどっちみち救ってくださるのだから、私たちは気ままに生きていればいいや。」ということでしょうか?違います。むしろ主が救ってくださるのだから、私たちは義を行なうべきなのです。
パウロが近づいている救いについて、ローマ13章11節からこう言っています。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(11−14節)」
56:2 幸いなことよ。安息日を守ってこれを汚さず、どんな悪事にもその手を出さない、このように行なう人、これを堅く保つ人の子は。
義を行なうことについて、その一例として安息日を守ることを主は言われています。なぜか?ユダがバビロンに捕え移されるその理由の一つが、安息を守っていなかったことがあるからです。レビ記に土地の安息についての教えが書かれています。七年に一度、土地を一年休ませなさいという命令です(25:2‐4参照)。ところが彼らは土地を休ませませんでした。彼らがバビロンに捕えられていた70年間、土地は安息を得ることが出来たと、歴代誌第二の最後に書かれています。
これからエルサレムに帰還することを約束されているユダヤ人にとって、安息を守ることは義を行なうことの最優先事項の一つだったのです。
56:3 主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される。」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ。」と。
再び主は、異邦人の救いについて言及されています。ここでは異邦人だけでなく、宦官も含まれています。去勢している宦官は、申命記23章1節によると「主の集会に加わってはならない。」と命じられています。だから、イスラエルに連なろうとしている異邦人も宦官も、自分たちは部外者であるという疎外感を持っているのです。
けれども主は平和の神です。エペソ書2章にて、異邦人が神の契約、祝福、約束、希望から遠く離れていたが、イエス・キリストによって近い者にされたことが書かれています。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。(14節)」疎外感を与えていた隔ての壁は、キリストの十字架によって破棄されました。
56:4 まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、56:5 わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。
宦官は去勢していますから、子を持つことはできませんが、それ以上の分け前と名を与えると主は約束してくださっています。
56:6 また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、56:7 わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。
これは、神殿の外庭のことを知っている人々には驚くべき預言です。外庭は異邦人を含む誰でも入ることができますが、壁があってそこから中に入るには死も覚悟しなければいけない但し書きの表札がありました。けれども神の国においては異邦人もユダヤ人と同じように神殿に入って祈ることができます。
この箇所を引用されて、主は宮きよめを行なわれました。棕櫚の聖日にエルサレムに入城された後、神殿の外庭では羊や牛、鳥を売っている者、両替商でいっぱいでした。それらを追い払って主はここのイザヤ書を引用されたのです。
ところで私たちが今、安息日を守らなければいけないのかどうかについての疑問が、ここの箇所を読んで湧いてきたかと思います。答えは「ノー」です。主は安息日を、イスラエル人との契約の中でお語りになりました(出エジプト31:13)。コロサイ書でパウロは、異邦人の教会が安息日などのユダヤ人の律法を守ろうとする偽りの教えが入ってきていることについて、警鐘を鳴らしています(2:16)。
もちろん神がお造りになられた一週間、六日働いて一日休み、主を礼拝することはとても良いことです。けれども、「ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。(ローマ14:6)」とパウロは勧めています。
56:8 ・・イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ。・・わたしは、すでに集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」
すでに集められた者とはユダヤ人のことです。さらに集めて加えるとは、異邦人のことです。終わりの日には、分け隔てなく主の霊的祝福にあずかれるようになります。
2C 見えない見張り人 9−12
そして9節から雰囲気が、がらっと変わります。神は、究極的な救いのご計画、その最後に行き着くところを啓示された後に、今この預言を聞いている人々への警告を発せられます。救いが完成すると言っても、すべての人が救われるのではありません。拒む人々もたくさんいます。異邦人だけでなくユダヤ人の中にいます。
56:9 野のすべての獣、林の中のすべての獣よ。食べに来い。
聖書には終わりの時に、猛禽類の動物に対して、宴会に招く主の言葉がいくつか出ています。エゼキエル書で、ゴグとマゴグが率いる軍勢がイスラエルを攻めるのに失敗し、その死体が群がっているところに猛禽や獣が食べなさいと主が呼びかけておられるところがあります(39:17−20)。そして主は、オリーブの山で弟子たちにご自分が戻られる時、「死体のある所にははげたかが集まります。(マタイ24:28)」と言われ、黙示録19章に獣たちの宴会の場面が出てくるのです。
このように、主に反抗する諸国の軍隊が倒れるような、人類の歴史の中で最も大きな出来事がある時に、肝心のユダヤ人、しかも指導者らの中にそのことに全く気づいていない者たちがいることをイザヤは預言しています。
56:10 見張り人はみな、盲人で、知ることがない。彼らはみな、おしの犬で、ほえることもできない。夢を見て、横になり、眠りをむさぼっている。
自分たちの民がどのような状態になっているかを見張るべき指導者らが、完全に今起ころうとしていることに気づいていません。「おしの犬」とは非常にきつい表現です。番犬が番犬の役割をまったく果たしていません。
56:11 この貪欲な犬どもは、足ることを知らない。彼らは、悟ることも知らない牧者で、みな、自分かってな道に向かい、ひとり残らず自分の利得に向かって行く。
聖書の中に、指導者らが牧者、羊飼いとして例えられているところがたくさんありますが、彼らが、いま何が起こっているか全く分かっていないということです。
56:12 「やって来い。ぶどう酒を持って来るから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」
この時、ユダヤ人にとって最も大きな危機に瀕しています。ゼカリヤは、エルサレムが包囲されて、すべての国々がこの町を攻めることを預言しました(12:2;14:2)。ユダヤ人は全体の三分の二が断たれると言っています(13:8)。明日は今日よりもすばらしいどころか、完全な暗闇なのです。
2B 取り去られる義人 57
そして次に、この大患難の時に起こることを、イザヤは預言しています。捕囚前のイスラエル人たちが行なっていた忌まわしい偶像礼拝と不品行を、その時にも行なっていることを預言しています。
1C 益にならない義 1−13
57:1 義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない。まことに、義人はわざわいから取り去られて、57:2 平安にはいり、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。
災いがこの地上に下ります。そして義人は、その正義に対する固守のゆえに殉教などで死に絶えます。だから地上はますます悪がはびこり、神の御怒りを受ける舞台と化します。この地上にいるよりは、早く死んで天における安息に入ったほうがずっと良い時代です。
主が、ご自分が来られるのはノアの日のようだ、と言われましたね。「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(マタイ24:38-41)」
この「取られる」人が義人であることは、ここのイザヤ書から分かります。そして聖書には、義人が死ぬことによって地上から取り去られることのみならず、生きている時にそのまま天に移されることも啓示しています。神とともに歩んでいたエノク、そして火の戦車によってエリヤは天に昇りました。そして終わりの日に、キリスト者らはラッパの音と天使の号令の下に一気に空中に引き上げられます。空中まで降りてこられた主に会うためです。そして天に引き上げられます。
57:3 しかし、あなたがた、女卜者の子ら、姦夫と遊女のすえよ。ここに近寄れ。57:4 あなたがたは、だれをからかい、だれに向かって口を大きく開いて、舌を出すのか。あなたがたはそむきの子ら、偽りのすえではないか。
これは残された人々、イスラエルの人々です。偶像礼拝の中に染まっています。そして、神を信じている敬虔な者や神に関する事柄をからかい、あざ笑っています。
知らなければいけないのは、現代のイスラエルは土地や国、民族の復興において聖書の預言どおりになっていると同時に、このような霊的退廃も預言どおりになっている、ということです。エルサレムの町には正統派のユダヤ教徒がいて、道徳的にも高潔を保っていますが、テルアビブの町はラスベガスやサンフランシスコよりも酷いと、テルアビブにいる宣教師が話していました。ある人によると、世界の邪悪な五大都市の中に入るそうです。
57:5 あなたがたは、樫の木の間や、すべての生い茂る木の下で、身を焦がし、谷や、岩のはざまで子どもをほふっているではないか。
これが、ヨシュアらが約束の地に入る前から行なわれていた、カナン人たちの宗教行為です。緑が生い茂っているところに偶像を据えて、その前で淫らな行ないをします。そしてもちろん望まない妊娠をするわけですが、生まれてきた子を偶像の前でほふってささげるのです。
57:6 谷川のなめらかな石がおまえの分け前、そこいらの石が、おまえの受ける割り当て。それらに、おまえは、注ぎのぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物をささげているが、こんな物で、わたしが慰められようか。
偶像は石にしか過ぎません。彼らが石にしかすぎないものにぶどう酒を注ぎ、穀物のささげ物をささげています。主は「こんな物で、わたしが慰められようか。」と言われていますが、彼らはある意味、これを必死にささげているのです。ユダヤ社会に危機が迫り、迫害が起こっています。彼らはその恐れから、さらにこれらの偶像礼拝行為に走っているのです。
57:7 そびえる高い山の上に、あなたは寝床を設け、そこにも、上って行ってあなたはいけにえをささげた。
偶像はよく、高い山の上に安置されています。私たち日本人はこれをよく知っているでしょう、高い山の頂上には必ず鳥居があります。
57:8 あなたは、とびらと柱のうしろに、あなたを象徴する像を置いた。あなたはわたしを捨てて、裸になり、寝床に上ってそれを広げ、彼らと契りを結び、彼らの寝床を愛し、その象徴物を見た。
「とびらと柱のうしろに」という言い回し、これは申命記6章、「これをあなたの家の門柱と門に書き記しなさい。(9節)」という命令を意識したものです。主の教えを自分たちの家の中にも中心に据えるために、その中に入るときに思い起こさせるためです。
ところがここでは、そのとびらと柱のうしろでは、つまり隠れたところで暗闇の業を行なっています。私たちは良心がきよければ、人々の前で大胆になることができます。自分の信じていることを人々の前に明らかにすることができます。けれども暗闇の業は隠れたところでしかできないのです。
57:9 あなたは油を携えてモレクのところまで旅し、香料を増し加え、あなたの使者たちを遠くまで送り出し、よみにまでも下らせた。57:10 あなたは、長い旅に疲れても、「あきらめた。」とは言わなかった。あなたは元気を回復し、弱らなかった。
生まれた赤ん坊を人々はモレクの像にささげていたのですが、そのモレクはモアブ人とアモン人が拝んでいたものです。そこまで彼らはわざわざ出て行き、贈り物を携えていったのです。そして使者たちも送り、その中で死ぬ人もいました。
にもかかわらず、彼らはあきらめなかったのです。罪の生活を送っていると、こういうことをします。もうこの生活はうんざりだと思っていても、そしてその生活を送るために多くの犠牲を払っていることを知っていても、それを意固地になって止めようとしないのです。
57:11 あなたは、だれにおじけ、だれを恐れて、まやかしを言うのか。あなたはわたしを思い出さず、心にも留めなかった。わたしが久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか。
彼らには恐れがなかったのではありません。恐れていたのです。人を恐れ、敵を恐れ、いろいろなものを恐れていました。けれども主に対する恐れは抱きませんでした。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)」です。
57:12 わたしは、あなたの義と、あなたのした事どもを告げよう。しかし、それはあなたの益にはならない。
彼らがここまでして一生懸命行なっている業はみな、益にならないものです。イザヤ書の後ででてきますが、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。(64:6)」とあります。
57:13 あなたが叫ぶとき、あなたが集めたものどもに、あなたを救わせよ。風が、それらをみな運び去り、息がそれらを連れ去ってしまう。しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる。
さて、ここからです。主がここまで彼らの行ないを詳しく描かれたのは、彼らを裁くためではありません。彼らの生活がいかに痛々しいものであるかをお見せになるためです。これから、彼らをいやす御業を行なわれます。
2C いやされる者 14−21
57:14 主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」
イザヤ書の中に、離散のユダヤ人が大路を通ってエルサレムに歩いていく預言がありました。例えば35章8節からこうあります。「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。(8-10節)」
つまりここ57章14節では、ユダヤ人が回復して、何のつまずきもなく主を礼拝することができるようになるよう準備しなさい、という主の呼びかけであるのです。
57:15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。
偶像とは対照的に、主はいと高い所におられる方であり、永遠に生きておられる方で、かつ聖なる方です。この方とともに住む方法は、自分も主のところに行けるように高くしていくのではなく、むしろ逆に自分を低くすることです。心砕かれて、へりくだる人とともに主は住まわれます。
57:16 わたしはいつまでも争わず、いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから。
主はご自分が造られた魂が滅びるのを望んでおられません。怒られても一時的です。
57:17 彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った。57:18 わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう。
先ほどの偶像礼拝と不品行に走る姿は、心に傷を持っている姿でもありました。その痛々しさを見て、主はあわれんでくださったのです。いやしを行なってくださいました。そのいやしの方法は?そうです、ご自分のしもべがその痛みと病を打ち傷によって負ったことによってです。
57:19 わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。
「くちびるの実」とは、主を賛美して、感謝して、喜ぶところのくちびるです。彼らに霊の救いの回復を与えられます。そして近くの者、つまりエルサレムの町にいる者にも、遠くの者、つまり離散のユダヤ人にも平安を約束してくださっています。
57:20 しかし悪者どもは、荒れ狂う海のようだ。静まることができず、水が海草と泥を吐き出すからである。57:21 「悪者どもには平安がない。」と私の神は仰せられる。
憐れみを受けていやされる者と悪者を最後に対比させています。これは非常に大切なことです。私たちにはいつも選択が与えられています。どちらの道に進むかの選択が与えられています。心砕かれてへりくだれば、すぐに憐れを受けることができます。しかしその声を完全にないがしろにすれば、この荒れ狂う海しか残っていません。ちなみに黙示録最後の新天新地には、海がありません。この荒れ狂う姿はそこには存在しないからです。
これで「しもべによる神の慰め」の部分を終えます。次回はイザヤ書の後半部分のさらに最後の部分です。主の救いのクライマックスが描かれています。
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