アウトライン
1A 罪の悔い改め 58−59
1B 行ないの実 58
1C 空しい断食 1−5
2C 慈善 6−14
2B 悔い改めるイスラエル 59
1C 罪という仕切り 1−8
2C 罪の告白 9−15
3C 主ご自身の救い 16−21
2A 輝くシオン 60
1B 主の栄光 1−3
2B 財宝を携える国々 4−18
1C 集まる子孫 4−9
2C 救いの城壁 10−18
3B 主ご自身の光 19−22
本文
イザヤ書58章を開いてください、今日は58章から60章まで学びたいと思います。ここでのテーマは、「立ち上がるイスラエル」です。ここ58章から再び新しい部分に入ります。イザヤ書後半部分40章からは、「主の慰め」がテーマでした。そして神の主権について40章から48章まで、次に僕たるメシヤの働きが49章から57章までに書かれていました。
そして58章からは、「救いの完成」について書いてあります。60章から詳しく出てきますが、黙示録の最後の部分と極めて似た部分が出てきます。というよりも、イザヤが預言したことを使徒ヨハネが幻の中で確認したといったほうが良いでしょう。それはエルサレムです。栄光に輝くエルサレム、シオンの姿を黙示録の最後の部分で私たちは見ることができます。
けれどもその前に、神はイスラエルの罪の問題を取り上げられます。最終的な救いを主が与えられる前に、イスラエルの民は根本的な罪の悔い改めを行ないます。
1A 罪の悔い改め 58−59
1B 行ないの実 58
1C 空しい断食 1−5
58:1 せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。
主が今イザヤに対して、イスラエルに対して声を上げよと呼びかけておられます。その声とは、「そむきの罪」についてのことです。
58:2 しかし、彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。義を行ない、神の定めを捨てたことのない国のように、彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる。
イザヤがヤコブの罪について声を上げるのですが、それは彼らが神に反逆しているからではありません。むしろ自分たちに大きな問題があると気づいて、神に近づこうと努力しているのに、実際は神から離れているからです。
大患難において彼らは、再びホロコーストを通ります。ナチスのホロコーストよりも二倍酷い虐殺です。ゼカリヤ書には三分の二は絶たれてしまうことが書かれています(13:2)。ですから残された者たちは神を求め始めます。自分たちに何か問題があると思って、主に近づこうとします。
58:3a 「なぜ、私たちが断食したのに、あなたはご覧にならなかったのですか。私たちが身を戒めたのに、どうしてそれを認めてくださらないのですか。」
彼らが行なったことは断食でした。「身を戒める」というのは断食のことです。律法では贖罪日の時だけ、断食するように呼びかけられていますが、それ以外にも断食をしました。
ところが状況は一向に改善しません。さらに酷くなるばかりです。それで、「あなたはこの断食を認めてくださらないのですか。」と訴えているのです。そこで主が答えられます。
58:3b見よ。あなたがたは断食の日に自分の好むことをし、あなたがたの労働者をみな、圧迫する。58:4 見よ。あなたがたが断食をするのは、争いとけんかをするためであり、不法にこぶしを打ちつけるためだ。あなたがたは今、断食をしているが、あなたがたの声はいと高き所に届かない。
断食という行為そのものには熱心になりましたが、それにともなう具体的な行ないが伴っていなかったことを主は指摘しておられます。
これを何と呼んだら良いでしょうか、「霊的な空回り状態」とでも呼びましょうか。宗教的には熱心なのですが、具体的な生活において変化を見ることができない状態です。自分が神様に対して熱心にならなければいけないと感じているのですが、日常生活において神とともに歩んでいない状態です。
「断食の日に自分の好むことをする」とありますが、私たちが教会で熱心に祈った後に、一度教会から出たら自分の好きなことをどんどん行なっていくことはないでしょうか。「労働者を圧迫する」とありますが、会社の経営者は主を恐れる管理を行なっているでしょうか?「争いとけんか」とありますが、教会に来る前まで行っていた喧嘩を、礼拝が終わってから続けて行なうことはないでしょうか。
私たちには落ち着いた信仰生活が必要です。日々主から語られていることを聞き、そしてそれを具体的に実行に移す余裕と、落ち着きが必要です。
58:5 わたしの好む断食、人が身を戒める日は、このようなものだろうか。葦のように頭を垂れ、荒布と灰を敷き広げることだけだろうか。これを、あなたがたは断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。
断食という行為そのものが、主を喜ばせるものではありません。
2C 慈善 6−14
58:6 わたしの好む断食は、これではないか。悪のきずなを解き、くびきのなわめをほどき、しいたげられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか。58:7 飢えた者にはあなたのパンを分け与え、家のない貧しい人々を家に入れ、裸の人を見て、これに着せ、あなたの肉親の世話をすることではないか。
具体的な生活において、特に対人関係において私たちは行ないを改める必要があります。ユダヤ人、ことに現代のユダヤ教徒の問題はここにあります。すべて自分たちの活動に焦点が集まり、外部に対して関心が薄いことです。律法とそれにまつわる様々な掟を守ることには熱心ですが、自分の周りにいる人々がどのようになっているのかについて無関心です。
私たちも同じ問題を持っています。自分たちの信仰について熱心になるばかり、その周りで何が起こっているか見失うことがあります。この問題を取り扱っているのがヤコブの手紙です。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(1:26-27)」
58:8 そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。
他の人々に具体的に良い行ないを見せる時に、それは自分自身の傷を癒すことになるという原則があります。主が祈りなさいと命じられた祈りの中で、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12)」とあります。人を赦すことによって、私たちが神からの赦しを豊かに受けることができる、というものです。同じように、「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)」とあります。
58:9a そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、「わたしはここにいる。」と仰せられる。
私たちが具体的な行動を起こす中で、主との交わりを楽しむことができます。自分の内側でもがいているだけならば、もがいているだけなのです。使徒ヨハネも同じことを話しました。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。(1ヨハネ4:7)」
58:9bもし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、58:10 飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗やみは、真昼のようになる。
私たちが行ないに自分の信仰を現わすことをしなければ、無駄口が多くなります。「後ろ指を差し、つまらないおしゃべりをする」ことが多くなります。教会内で、またインターネットの掲示板等で、クリスチャンたちが延々と些細な事柄で議論していることがありますが、現場でどれだけその語っていることを実行しているのでしょうか?
この言葉の前に「くびきを除き」とありますね。これは単に、主人が労働者を酷使していることだけでなく、言葉においても人々を縛ることがあるでしょう。その反対に、人々に親切な言葉をかける、励ましを与える、具体的にいろいろ気にかければ、くびきの中にいる人々を解放させていくことができます。
58:11 主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。
どんな状況の中でも、内側からは御霊の命が流れ出るということです。
58:12 あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者。」と呼ばれよう。
エズラ記にある、神殿を建て直したゼルバベル率いるユダヤ人、そして城壁を建て直したネヘミヤがいました。ネヘミヤは、ユダヤ人の中で奴隷と売られている者たちがいることを耳にして、非常に怒り、もう二度とそのようなことのないように強く戒めましたが(ネヘミヤ5章)、まさにここイザヤ書にある神の警告を聞き入れた人だった訳です。
58:13 もし、あなたが安息日に出歩くことをやめ、わたしの聖日に自分の好むことをせず、安息日を「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼び、これを尊んで旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎むなら、58:14 そのとき、あなたは主をあなたの喜びとしよう。「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う。」と主の御口が語られたからである。
具体的な行ないの他に、私たちが大切にしなければいけないのは礼拝です。礼拝を捧げることは、私たちの無駄な言葉を減らします。主の栄光に見えるとき、私たちはただひれ伏すばかりです。安息日は日曜日ではなく、日曜日の礼拝が安息日というわけではありませんが、私たちの生活のリズムがこの日の礼拝によって、落ち着いた、しっかりとした信仰生活を歩むことができます。
2B 悔い改めるイスラエル 59
このように具体的な行動に移さなかった問題を主は取り上げられましたが、今度は根本的な罪の問題を取り上げられます。
1C 罪という仕切り 1−8
59:1 見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
大患難の中のユダヤ人は、叫んでもますます自分たちが殺されていきます。神は無力になったのか、御手が短くなったのか、耳が遠くなったのかと感じるはずです。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
非常に大切な聖句です。以前も50章にて主は、「わたしがあなたがたに離縁状を渡したのではない。あなたがたの咎がそうしたのだ。」ということを言われました(1節)。主は私たちを愛しておられます。私たちの祈りと願いを聞き入れ、共にいたいと願っておられます。だから問題は神の方にありません、むしろ私たちの罪にあります。罪が私たちを神から引き離し、交わりが出来ないようにさせるのです。
私たちはしばしば、自分が間違いを犯すと、それに対して神が怒りを表して、それで自分から神が立ち去るように考えます。けれどもそれは間違いであり、アダムが神のご臨在から自ら離れたことを思い出してください。神は共にいたいと願われていたのです。けれども、アダムが自分の内に罪を宿していたがゆえに、彼は神から離れるよう駆り立てられたのです。
そして次から、彼らが罪にまみれている姿を、主はお語りになります。大事な言葉は、「手」「口」「足」「思い」です。自分の体の器官、そして精神においても罪にまみれていることを主は明らかにしておられます。
59:3 実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。59:4 正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。
手と口についての罪です。
59:5 彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。59:6 そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。
続けて手についての罪です。
59:7 彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。59:8 彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
これは足と思いにおける罪です。ここの箇所が、ローマ人への手紙3章に引用されています。パウロは、私たち全ての者が罪の下にあることを主張するために、特に律法を持っているユダヤ人が罪を犯したことを主張するために、ここの箇所を引用しています。
ここに書かれているのは、私たちが生まれながらにして持っている罪です。アダムが罪を犯したために、全人類に入り込んだ罪です。私たちはここで表現されているような酷いことをしたことがない、と弁明するかもしれません。けれども、これはコップの下に沈んでいる泥のようなものであり、その水をかき混ぜると水全体が濁るように、何かによって掻き立てられたら、いつでもこれらのことを犯しえるのです。
これらがユダヤ人の問題であり、私たち人間の問題なのです。今の問題を、断食という方法で解決しとうとしました。けれども問題はそんな表面的なものではありませんでした。根本にある罪の問題なのです。これが取り除かれなければ、彼らには救いがないのです。
ところが彼らは律法の行ないによって義と認められようとした、それによってかえって義に到達することができなかったと、パウロがローマ9章で論じています。だから彼らは、この大患難によって、ユダヤ人だけでなく全人類が持っている罪の根本に直面しなければならないのです。
2C 罪の告白 9−15
この問題を解決するのは、どうすれば良いでしょうか?まず、このような問題があることをそのまま認めることです。罪を告白することです。「告白」という言葉は、「同意する」という意味を持っています。つまり神が言われていることを、その通りだと同意することです。次をご覧ください。
59:9 それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。
ここから主語が変わります。8節までは「彼ら」が主語でしたが、ここから「私たち」に変わります。つまり、罪の告白をしているのです。主が今、ここでユダヤ人たちに彼らの姿を明らかにされたので、その明らかにされたことに従って、私たちはその通りですと言い表しているのです。
「光を待ち望んだが、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみ」とありますが、キリスト教の中にもこのような動きがありました。つまり人間の不断の努力によって、世界は次第に良いほうに変えられ、そして神の国がこの地上に出来る、と考えました。このような社会進化論的な考えは、第一次、第二次世界大戦の時にもろくも崩れ去りました。光を待ち望んだのに、かえって闇がある状態です。根本的な罪の問題があるからです。
59:10 私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。59:11 私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
これからどういう方向で進んでいけばよいのか分からない状態です。いろいろ叫び、そして呻いているのですが、正義も救いもありません。まるで今の世界を描いています。問題がいろいろ出て、山積していますが、それをどう処理すればよいか分からないまま、また次の問題が出てきています。
59:12 それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。
すばらしい告白です。「そむきの罪は、私たちとともにある」というのは、単なる行為としての罪ではなく、常に自分にまとわりついている性質としての罪の告白です。ダビデも、バテ・シェバとの姦淫の罪、そして夫ウリヤを殺した罪のことで、「私の罪は、いつも私の目の前にあります。(詩篇51:3)」と言いました。
59:13 私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。59:14 こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。59:15 そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。
分かりますか、先ほど主が彼らに対して仰られたことを、そのまま認めています。主語を「私たち」に変えただけです。
そしてこれから本当の「救い」が始まります。彼らの行ないではなく、「主」が心を動かされました。「主がこれを見て、心を痛められた」とあります。次をご覧ください。
3C 主ご自身の救い 16−21
59:16 主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。
これが救いです。パウロは詩篇の言葉を引用して、「義人はいない。ひとりもいない。(ローマ3:10)」と言いましたが、ここでも誰もいないことが書かれています。誰もいないからこそ、主はご自分の御腕によって救いをもたらすことをお決めになったのです。
これが救いの根本です。救いは、私たちではなく主ご自身が行なわれる業です。私たちに全く救われる望みがないからこそ、主ご自身が全てを行なわれるのです。
「ご自分の義を、ご自分のささえとされた」とありますね。主は、ご自分の独り子、罪を知らない方を基として義を確立されました。
59:17 主は義をよろいのように着、救いのかぶとを頭にかぶり、復讐の衣を身にまとい、ねたみを外套として身をおおわれた。
義や救いが身に着けるものとして表現されていますが、これは義を私たちに与えるためです。ご自分の義を私たちに与えて、私たちが神の義を身につけることによって、私たちが神の前に認められるように、神がしてくださったのです。
これが信仰による義です。キリストの義が私たちに転嫁されることによって、私たちがキリストにあって神の前に義と認められます。私たちの義ではありません、神の義なのです。
そしてここには、「復讐の衣、ねたみの外套」とありますが、これは主の再臨の時の御業です。
59:18 主は彼らのしうちに応じて報い、その仇には憤りを報い、その敵には報復をし、島々にも報復をする。
ユダヤ人に対して行なった仕打ちに対して、ご自分の民を愛するそのねたみのゆえに、激しい憤りで敵に報復されます。
59:19 そうして、西のほうでは、主の御名が、日の上るほうでは、主の栄光が恐れられる。主は激しい流れのように来られ、その中で主の息が吹きまくっている。
すべての所で、ということですが、イエス様は、稲妻が東から出て、西に閃くように来られるとお話になりました(マタイ24:27)。また黙示録1章には、「すべての目が彼を見る」ともあります(7節)。
59:20 「しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中のそむきの罪を悔い改める者のところに来る。」・・主の御告げ。・・59:21a 「これは、彼らと結ぶわたしの契約である。」と主は仰せられる。
ここはローマ11章で、パウロが引用している箇所です。「・・・その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。『救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。(25-27節)」つまり、イスラエルが最後に、霊的な救いを受けるということです。物理的にも救われるのですが、彼らが自分の内に何も良いものがないことを認め、行ないではなくただ神の憐れみによってのみ救われることを知った時、神が御手を伸ばし、恵みの御霊を注いでくださいます。
しばしば黙示録の神の裁きを読み、これが恐ろしいことだと反応する人たちがいます。けれども実際はその反対なのです。不信者にとっては恐ろしいことですが、信者にとってはかえって救いなのです。この箇所はイスラエルの救いのことですが、原則はクリスチャンも同じです。自分たちを暗闇の中に置いていたこの世が裁かれる時が、主の再臨の時なのです。したがって恐ろしいことではなく、かえって大歓声を上げるべき時であります。
59:21b 「あなたの上にあるわたしの霊、わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、すえのすえの口からも、今よりとこしえに離れない。」と主は仰せられる。
主の契約はいつまで経っても変更されることはない、という確証です。
2A 輝くシオン 60
そして60章に入ります。神の御国における輝かしいシオン、エルサレムの姿を描いています。そして次回学ぶ61章以降には、神の御国をもたらすメシヤの働きが預言されています。
1B 主の栄光 1−3
60:1 起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。
ここでの「あなた」が誰なのか、読み進めますと、シオンつまりエルサレムであることが分かります。14節に、「あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。」とあります。私がクリスチャンになって間もない時、ここの箇所は主の栄光に輝くクリスチャンのことなのか?と思っていました。けれども、そうやって読んでいくと、世界の国々が、「あなた」つまり僕の息子や娘を携えて財宝を携えて来る、ということになり、実におかしくなります。
聖書を読むとき、特に預言を読むときに大事なのは「そのまま読む」ということです。シオンであれば、そのままシオンなのです。今でもイスラエルにダビデの町があります。そこがシオンと呼ばれているところです。また聖書には、天のシオンも書かれています。地上にシオンであり、かつ天にあるシオンが投影されているのです。
そしてここで、「起きよ」と主が呼びかけておられます。エルサレムに対して、呼びかけておられます。先にへりくだって、悔い改めをしたイスラエル人たちがいましたが、そのように倒れている人々に対して、「起きよ」と言われているのです。
60:2 見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。60:3 国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。
主がエルサレムに戻ってこられます。オリーブ山に立たれて、地殻変動が起こり、主は神殿を建てられ、その東門から神殿の中に入られます。この方が大祭司であられかつ王であり、この方の輝きが全世界にまで広がるのです。これが後のエルサレムの姿であり、この光を見て暗闇の中にいた諸国がエルサレムにやって来ます。
2B 財宝を携える国々 4−18
1C 集まる子孫 4−9
60:4 目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。
散らされていたイスラエル人たちが、かつてエルサレムの町にいたのに離散の民となった人々の子孫が、その国々から戻ってきます。「わきに抱かれて来る」とありますが、ちょうどペルシヤの王クロスが、エルサレムに帰還するユダヤ人を国として、全面的に支援したように、ユダヤ人が離散していた国々が彼らの帰還を後押しするのです。
60:5 そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。
財宝を持ってきます。かつてエジプト人は、イスラエル人がエジプトを出る時に、金や銀そのほかの財産を渡して去らせました。また、ソロモンが王であったとき、シェバの女王は贈り物を持ってきました。主が座しておられるシオンにも、同じように財宝を携えて来ます。
60:6 らくだの大群、ミデヤンとエファの若いらくだが、あなたのところに押し寄せる。これらシェバから来るものはみな、金と乳香を携えて来て、主の奇しいみわざを宣べ伝える。
ミデヤンはアブラハムのもうひとりの妻ケトラから生まれた息子です。モーセがシナイにいた時に、その姑がミデヤン人であったことを思い出してください。そしてシェバは今のサウジアラビアです。
金と乳香を携えて来る、とありますが、何か思い出す出来事はありませんか?そうです東方からの博士が、幼子イエスに対して、この二つと没薬を捧げて、礼拝しました。彼らは王として、イエス様を礼拝したのです。
60:7 ケダルの羊の群れもみな、あなたのところに集まり、ネバヨテの雄羊は、あなたに仕え、これらは受け入れられるいけにえとして、わたしの祭壇にささげられる。わたしは、わたしの美しい家を輝かす。
ケダルはイシュマエルの息子ですが、ここで重要なのは彼らが兄弟に対して敵対していたということです(創世16:12,25:28)。イスラム教の創始者ムハンマドは、自分はケダルの子孫であると主張しました。彼らはイスラエル人に敵対し、そして現在に至るまでイスラム教徒やアラブ人は彼らに敵対しています。
この敵対心は非常に根深いものです。クリスチャンになっても、中東にいるクリスチャンはイスラエルのことについてはよく思っていません。イスラエルに対する神の約束についても、どう受け止めたらよいか分からずに非常に悩みます。
しかし大事なのは、そのような人々でさえ、エルサレムのところに、神殿のいけにえとして自分たちの家畜を捧げるという事実です。これが麗しい神の恵みの御業です。どんなに敵対的な人であっても、どんなに呪われたと言われている人であっても、主は必ず救いの御手を伸ばされているという事実です。
60:8 雲のように飛び、巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか。60:9 まことに、島々はわたしを待ち望み、タルシシュの船は真先に、あなたの子らを遠くから来させ、彼らの金銀もいっしょに、あなたの神、主の名のために、イスラエルの聖なる者のために運んでくる。主があなたを輝かされたからである。
先ほどはイスラエルの南、アラビア圏からの捧げ物でしたが、ここはイスラエルの西、ヨーロッパ圏からの捧げ物です。「タルシシュ」はスペインにある町であると考えられています。以前、ツロに対する預言を学びましたが、地中海沿岸の植民都市が財宝をためていたことが預言されていました。
この地域からも、離散のユダヤ人の帰還とともに財宝がエルサレムに届けられます。
そしてこれらのいけにえ、財宝は、エルサレムを単に富ませるために捧げられるのではありません。そこに栄光の王であり祭司であられるキリストがおられるからであり、この方に礼拝を捧げるからです。
2C 救いの城壁 10−18
60:10 外国人もあなたの城壁を建て直し、その王たちもあなたに仕える。実に、わたしは怒って、あなたを打ったが、恵みをもって、あなたをあわれんだ。
外国人の王たちは、以前は、城壁を打ち壊す者たちでありました。バビロンしかり、そしてローマもそうでした。ネヘミヤ記の、エルサレムの城壁の再建の苦労を読んでみてください。異邦人たちは、彼らの働きを何とかして阻止しようとします。ところが今は、彼らが城壁を建て直します。エルサレムの再建に王たちが仕えます。主が怒られていたのですが、今は、恵みをもって憐れんでくださっているのです。
そして王たちが僕となります。これは何を意味しているかというと、私たちの主イエス・キリストは、王たちの王であられる、ということです。王たちも、この方の前では臣民として仕えなければいけないのです。
60:11 あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。
これと同じことが、黙示録21章、新しいエルサレムのところに書いてあります。「諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。(24-26節)」ですから、ここ60章は千年王国のエルサレムだけでなく、天のエルサレムも投影された預言です。
60:12 あなたに仕えない国民や王国は滅び、これらの国々は荒廃する。
これはゼカリヤ書にも預言されています。「地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。(14:17)」
千年王国は、このような絶対的な君主制であります。今は恵みの時です。人々が福音に従わなくても、同じようにその人たちに雨が降り、太陽光線は彼らを潤します。主が彼らに忍耐しておられて、悔い改めるのを待っておられるのです。けれども千年王国においては、悪が速やかに裁かれ、義と平和が海の水のように溢れ染み渡っています。
60:13 レバノンの栄光は、もみの木、すずかけ、桧も、共に、あなたのもとに来て、わたしの聖所を美しくする。わたしは、わたしの足台を尊くする。
かつてレバノンの杉を使ってソロモンが神殿を建てたように、千年王国でも聖所を飾ります。
60:14 あなたを苦しめた者たちの子らは、身をかがめてあなたのところに来、あなたを侮った者どもはみな、あなたの足もとにひれ伏し、あなたを、主の町、イスラエルの聖なる方のシオン、と呼ぶ。
この表現は、救われたイスラエル人に対してだけでなく、クリスチャンに対しても使われています。例えばフィラデルフィアにある教会に対して、主はこう言われました。「見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。(黙示録3:9)」
当時、ユダヤ人たちが町の人々を煽り、クリスチャンを迫害するように仕向けていました。このような人々もついには、クリスチャンが信じていることが真実であることを知り、彼らの前にひれ伏すという内容です。クリスチャンはもちろん、彼らが自分たちを迫害したように仕返しすることはありません。憐れみ深い王と同じように、彼らに憐れみを示します。
60:15 あなたは捨てられ、憎まれ、通り過ぎる人もなかったが、わたしはあなたを永遠の誇り、代々の喜びの町に変える。
この預言も少しずつ成就しています。ローマによって破壊されたエルサレムは、唯一、神殿の西壁の一部だけは残っていました。けれども長いこと、そこは瓦礫の中に埋もれており、ゴミ捨て場にさえなっていました。ところがオスマントルコがエルサレムを支配していた時から掘り起こされ、そこでユダヤ人が祈り始めるようになりました。それが嘆きの壁ですが、今は喜びの声がそこで聞かれます。
60:16 あなたは国々の乳を吸い、王たちの乳房を吸う。あなたは、わたしが、あなたを救う主、あなたを贖うヤコブの全能者であることを知る。
アブラハムに、神は「エル・シャダイ」全能の神として現れてくださいました(創世17:1)。エル・シャダイの元々の意味は、母親が赤ん坊に乳を与えることを意味します。完全に神により頼んでいる状態を指しています。
同じようにエルサレムは、ある意味、あらゆる国々から甘やかされることになります。あらゆる財宝と助けが与えられ、それに完全に頼っている状態になるわけです。
60:17 わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする。
すべて、町や神殿に用いられる材質がアップグレードします。
60:18 あなたの国の中の暴虐、あなたの領土のうちの破壊と破滅は、もう聞かれない。あなたは、あなたの城壁を救いと呼び、あなたの門を賛美と呼ぼう。
何よりも貴い財産は、金銀ではなく、平和であり正義です。これが今のイスラエルを見れば到達していないことは明らかです。
3B 主ご自身の光 19−22
60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
主が完全にご臨在している状態です。かつては幕屋の中でしか見ることができなかった、主のご臨在の輝きは、今はシオンの都全体を照らしています。
この姿は黙示録21章、新しいエルサレムの姿であります。「私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。(22-23節)」
60:20 あなたの太陽はもう沈まず、あなたの月はかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。
新しいエルサレムが天から降りて来たときも、「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示21:4)」とあります。
60:21 あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現わす、わたしの植えた枝。わたしの手で造ったもの。60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。
シオンの都だけでなく、イスラエルの民、そして教会の神の民も強くされます。
ここで、「わたし、主が、すみやかにそれをする」とあることに注目してください。これが主が終わりのことについて話される時に、常に語られていることです。すぐにでも来るから、あなたがたは用意していなさい、というメッセージです。いつ起こるのか分からないと思っていたら、この幻を主が与えた意味がありません。今すぐにでも来ると受け止めるからこそ、私たちは今のこの時を生きることができるのです。
そしてイザヤは、「時が来れば」と但し書きを入れています。言い換えると、まだ時が来ていないのです。ところが使徒ヨハネはこう言っています。「時が近づいているからである。(黙示1:4)」主がこの地上に来られて贖いを成し遂げられた今、主はこの救いを完成させるために、後はもう一度来られるだけとなりました。私たちには、時が近づいているのです。これまで見てきたことは、すぐにでも起こるのです。この期待感を持って、日々を生きていきましょう。
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