アウトライン
1A 祝福された子孫 61
1B 油注がれた方 1−3
2B 主の祭司 4−11
2A 黙らないエルサレム 62
1B 新しい名 1−5
2B 堅固な町 6−12
3A 主からの報い 63
1B 復讐の日 1−6
2B 民の応答 7−19
1C 豊かな慈しみ 7−10
2C 力ある御業 11−19
4A 主からの火 64
1B 国々の震え 1−4
2B 不潔な着物 5−12
アウトライン
イザヤ書61章を開いてください、今日は61章から64章までを学んでみたいと思います。ここでのメッセージの題は、「主の報い」です。
私たちは今、イザヤ書の最後の部分を学んでいます。58章から始まる「救い」の部分です。イザヤ書は非常に鮮やかに、そして麗しく、私たちが信じる救いの福音を描いています。ユダヤ人たちが律法の行ないによって、外側の行ないによって義と認められようとしたが、実は生まれながらにしてもっている罪があり、それが彼らと神との仕切りとなっているのだ、ということを58章と59章に書かれていました。
私と妻は最近イスラエル旅行に行ってきましたが、正統派ユダヤ教徒の人たちの熱心を見ました。嘆きの壁で祈る姿、第三の神殿を建てるために準備している姿など、非常に熱心です。またイスラエル人は国家としてもすばらしい働きをしています。農業やIT技術を初めとする産業によってイスラエルは今、発達した国です。軍事的にもすぐれた防衛力を持っています。けれどもこれらの事柄によって、彼らは自分たちを救うことができると考えたら、それは間違いなのです。
私たちを救うことができるのは、ただ主のみであり、主ご自身がお与えになる義であり、それは十字架によって明らかにされました。根本的な罪の問題、私たちの内にある罪の性質が贖われなければいけないのだということを、58章と59章が語っています。59章で主は、誰も義を行なう者がいないので、主ご自身が義をよろいのように着て、救いのかぶとを頭にかぶると言われます。つまり、私たちの義ではなくて主ご自身の義であり、私たちが獲得する義ではなく、主がお与えになる義なのです。
そして神は贖い主をシオンに送ると約束されました。60章から、主の栄光がとどまっているシオンの姿、エルサレムの姿が描かれています。国々が贈り物をエルサレムに持ってきます。なぜなら世界中の人々がここに来て、御座におられる主を礼拝するからです。
1A 祝福された子孫 61
そして61章に入ります。61章では、シオンの町だけではなく、シオンにいる人々が栄光を現すことを神が約束してくださっています。
1B 油注がれた方 1−3
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。捕われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、61:2 主の恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ、すべての悲しむ者を慰め、61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。
再び出てきました、メシヤの歌です。これまでも、父なる神が「わたしのしもべ」と呼ばれたメシヤ、またメシヤ自身が「わたし」と言われる箇所がイザヤ書に何箇所が出てきましたが、ここもそうです。
「油そそぎ」とありますが、これがメシヤの元々の意味です。「油注がれた者」です。王や祭司、預言者らが当時、油を注がれて、主の働きに任命されたのですが、神に任命された唯一の方が、油注がれているのです。
イエス様がこの箇所を引用されましたね。ご自分の故郷ナザレで、安息日に会堂に入られました。主はユダヤ教のラビでありましたから、会堂にて聖書が渡されたら、それを朗読されます。その時、ちょうど朗読の箇所がここイザヤ書でした。そしてここ13章を見つけられ、読まれたのです。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4:18-19)
そして、「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおりに実現しました。(21節)」と宣言されました。分かりますか、イエス様は、「イザヤが預言しているメシヤは、わたしのことです。」と宣言されたわけです。
非常に興味深いことは、主は途中でこの箇所を読み終えられたことです。「主の恵みの年を告げ知らせるために。」のところまで読まれましたが、続きに「われわれの神の復讐を告げ、すべての悲しむ者を慰め・・」とありました。けれども主はあえて、ここ「主の恵みの年を告げ知らせる」のところで終えられたのです。
ここで主は、ご自分の初めの来臨と、次に来臨される時を分けられたのです。旧約聖書には、主が来られることが数多く書かれていますが、それは一度来るということではなく、二度来られるのだということです。一度目は、主の恵みの年を告げ知らせるため、二度目は、復讐を行なわれるためです。
ここ2節で興味深い違いがあります。「主の恵みの年」は「年」と言っておられるのに対して、「復讐の日」は「日」であるということです。年と日は、もちろん年がはるかに長いのです。主の恵みの時期は非常に長く、主の御怒りの時は非常に短いのだ、ということを表しています。
私たちはしばしば、神のご性質を忘れます。いつも怒ってばかりいて、時々優しくしてくださると考えますが、いやいや事実は逆なのです。主はモーセのところを通り過ぎられた時に、罰は三代、四代までと言われましたが、慈しみは千代に及ぶと言われました。三代、四代と千代ですよ!これだけ主は忍耐深い方なのです。そして、私たちが悔い改めるのを待っておられるのです。
そしてこの箇所は、再び主の慰めと憐れみの働きを伝えています。貧しい者、心の傷ついた者、囚われ人などに癒しと解放を与えられます。これは、全世界に対する主の働きでありますが、異邦人だけでなくシオンにいる人にも同じように弱い人に対して、頭の飾り、喜び、賛美を与えられます。そして最後は、「義の樫の木、栄光を現わす主の植木」と呼ばれます。義と認められて、栄光の姿に変えられるということです。
2B 主の祭司 4−11
このシオンにいる彼らが、シオンの町を建て直します。
61:4 彼らは昔の廃墟を建て直し、先の荒れ跡を復興し、廃墟の町々、代々の荒れ跡を一新する。61:5 他国人は、あなたがたの羊の群れを飼うようになり、外国人が、あなたがたの農夫となり、ぶどう作りとなる。
イザヤが預言しているのは、まだヒゼキヤの時代であることを思い出してください。バビロン捕囚にもなっていない前のことです。だからここでは廃墟と言うのは、バビロンによってエルサレムが破壊されて廃墟になっていることを意味しています。そして彼らは奴隷状態になり、外国人に仕えていたのです。けれどもそれが逆転することを主は約束してくださっています。
今日のイスラエルの国に、この兆候を見ることが出来ます。以前は荒地であったこの地に町々が建て直され、かつアラブ人が、イスラエル国籍を持っている人も、またパレスチナ人も、ユダヤ人が営んでいる農場や工場などで働いています。
今回のイスラエル旅行で、イスラエル国籍を持つアラブ人は、たとえパレスチナ国家が出来て、パレスチナ国籍を取得できるとしても、絶対にイスラエル国籍を手放すことはないとガイドは話していました。なぜなら、イスラエルにこそ職があるからです。けれどももちろん、完全な成就はメシヤがまた来られるのを待たなければいけません。
61:6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神に仕える者と呼ばれる。あなたがたは国々の力を食い尽くし、その富を誇る。
祭司は民に代わって主の前に出て執り成しをし、また民の前で神の恵みと祝福を分かち合う人です。祭司を通して、人々は主からの恵みを受けます。キリスト者も同じように約束されています。黙示録1章を見ますと、私たちは後に王となり祭司となることが約束されています。
ペテロは今も私たちが祭司であることを教えています。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9)」私たちが今、人々に主の恵みと分かち合う仲介者なのです。
61:7 あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。
一倍ではなく二倍です。モーセの律法に、牛や羊を盗んだ場合、それを返すだけでなく、さらに一頭、つまり二倍にして返さなければならないと神が命じておられます(出エジプト22:4)。ただ返せばいいじゃないか、と思うかもしれません。けれども被害を受けた人はそうは考えませんし、主ご自身もそうお考えになりません。物が盗まれたという精神的な被害があるのです。主が、「盗んではならない」と言われた時、それは主が人々に与えておられる物というのは、単に物質的なものだけでなく、人格的なつながりもあることを教えています。
したがって二倍によって、初めて完全な慰めが与えられるということです。ユダヤ人は恥を受けました。侮辱を受けました。けれども、その恥を補うだけでなく、さらに多くの祝福を受けるようになるのです。パウロは、「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。(ローマ11:15)」と言いました。
そしてこれが主の恵みです。私たちが罪によって失ってしまったものを取り返してくださるだけでなく、さらに増し加えて祝福してくださるのが神の恵みです。
61:8 まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。61:9 彼らの子孫は国々のうちで、彼らのすえは国々の民のうちで知れ渡る。彼らを見る者はみな、彼らが主に祝福された子孫であることを認める。
私たちが主に誠実に、忠実になる以前に、主が私たちに誠実を尽くしてくださいます。主が初めに約束してくださったことを、主は必ず成し遂げられます。これが「報い」です。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(ヘブル10:35-36)」
そしてこれが「とこしえの契約」です。ずっと後になっても、その子孫は覚えられて、主に祝福された者となります。後で出てきますが、アブラハムとヤコブが私たちを忘れても、あなたは私たちの父です、というイスラエルの残された者たちの祈りがあります。昔のイスラエルと、今のイスラエル人を切り分けるその考えは、神の御心に真っ向から反することです。
61:10 わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。61:11 地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。
この「わたし」とは誰でしょうか?普通に考えれば、このように主が悲しむ者たちを慰めてくださることを知って、聞いている者たちを代表してイザヤが賛美している、というものでしょう。実際にそれで良いと思いますが、新改訳は興味深いことにこれを平仮名で「わたし」と書いています。新改訳では、神が一人称のとき平仮名で「わたし」と書き、それ以外は漢字で「私」と書いています。
興味深いことに、61章の始めには「神である主の御霊が、わたしの上にある」とありますが、この「わたし」はメシヤです。つまり続けてここもメシヤご自身が歌っておられると考えてもおかしくないのです。イザヤ書に出てくるメシヤは、僕の姿を取っておられます。私たち人間とその弱さもすべて身にまとって、私たちと同じようになられました。この方が私たちを代表して、私たちの長子となられて(ローマ8:29)、同じ兄弟として主を賛美してくださっていると読むことができます。
59章で、主がご自分の義と救いを身にまとって来られることが書かれていますが、ここではそれを受け取ったことを確認しているところです。救いの衣、正義の外套、そして栄冠と宝玉をすべて受け取り、身につけているわけです。私たちの行ないによる義ではなく、主が与えてくださる主ご自身の義です。
2A 黙らないエルサレム 62
このようなすばらしい約束を聞いて、イザヤが、いやメシヤご自身が「わたしは、シオンのために黙っていない」と言っておられます。
1B 新しい名 1−5
62:1 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。
今、歴史的にはバビロン捕囚前夜と言ってよいでしょう。イザヤにとってはまだ100年以上先のことですが、けれども神の時計ではもう目の前に迫っていることです。これから暗闇の中に入っていきます。そして暗闇の時代が続きます。エレミヤによれば、70年続きます。その間、「わたしは、黙りこまない」とメシヤがおっしゃっているのです。
ここにあるのは、神の希望を宣べ伝えることの熱意です。どんなに時代が悪くなっても、どんなに先が見えないようになっても、私は気落ちしない。私は恐れない。どんなことになっても、この希望があるのだから宣べ伝える、というものです。
同じことをパウロが、自分が殉教する直前にテモテにこう書き残しました。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:1-4)」御国の希望があります。輝かしい栄光があります。だから今、たとえ悪い時代でも、人々が空想話に逸れて行っても、あなたは御言葉をしっかり宣べ伝えなさい、と命じているのです。
62:2 そのとき、国々はあなたの義を見、すべての王があなたの栄光を見る。あなたは、主の口が名づける新しい名で呼ばれよう。62:3 あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。62:4 あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている。」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。
「新しい名」とは、新しいアイデンティティーのことです。自分が誰であるかを表す本性が新しくされる、ということです。シオン、エルサレムは、「見捨てられている」とか「荒れ果てている」とか呼ばれていました。けれども今は、「わたしの喜びは彼女にある」「夫のある国」という新しい名が付けられるということです。
黙示録にも、教会の勝利者に新しい名を与えるという約束を主がしてくださっています(黙示2:17)。私たちにはどういう名が与えられるのでしょうか?名前そのものよりも大事なのは、既に私たちが新しくされたという事実です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」
62:5 若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。
神とエルサレムとの関係が、夫と妻の関係になります。すばらしいですね、花婿が花嫁を見てその姿を見てただ喜ぶように、主がただ美しく飾られているエルサレムを見て喜んでくださるのです。何かをやっているから喜んでいるのではなく、ただその存在を喜んでおられるのです。ゼパニヤ書にも同じことを主は仰っています。「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。 (3:17)」
2B 堅固な町 6−12
62:6 エルサレムよ。わたしはあなたの城壁の上に見張り人を置いた。昼の間も、夜の間も、彼らは決して黙っていてはならない。主に覚えられている者たちよ。黙りこんではならない。62:7 主がエルサレムを堅く立て、この地でエルサレムを栄誉とされるまで、黙っていてはならない。
再び「黙っていてはならない」というメシヤからの命令です。今度は「見張り人を置いた」とあります。どんな時にも、その希望が実現するまで見張っていて、黙っていてはならない、ということです。
このような緊張状態を、イエス様はご自分が戻ってこられる事において命じておられます。「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。(マルコ13:35-37)」
約束を喜ぶ、ということと、その状態を持続させるというのは別問題です。主がすばらしい約束と希望を与えてくださっているのですが、実際に遅く感じることがたくさんあります。その間に、自分の周囲にある事に感けるようになるのです、「まだ主人は来ない」と。
そしてこれが、主の来られるのが近づけば近づくほど、その誘惑が強くなるのです。私たちを世の愛の中に引きずる力がますます強くなってくるのです。いろいろな形で悪魔は私たちを攻撃します。単なる肉の欲望もありますが、落胆、心の傷、不安など、あらゆる分野で私たちの心を蝕もうとします。目を覚まさなければいけません。箴言には「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23)」とあります。
62:8 主は右の手と、力強い腕によって誓われた。「わたしは再びあなたの穀物を、あなたの敵に食物として与えない。あなたの労して作った新しいぶどう酒を、外国人に決して飲ませない。62:9 取り入れをした者がそれを食べて、主をほめたたえ、ぶどうを取り集めた者が、わたしの聖所の庭で、それを飲む。」
士師記には、イスラエル人が育てた作物をミデヤン人が収穫時に取り去ってしまうことが書かれていますが、あのギデオンが恐れて酒ぶねの中で脱穀の作業をしていました。このようなことは二度とさせないと主は約束してくださっています。
そして「聖所の庭で、それを飲む」とあるように、主が神殿礼拝を回復してくださることも約束してくださっています。物質的だけでなく霊的な回復もあります。
62:10 通れ、通れ、城門を。この民の道を整え、盛り上げ、土を盛り上げ、大路を造れ。石を取り除いて国々の民の上に旗を揚げよ。62:11 見よ。主は、地の果てまで聞こえるように仰せられた。「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。』と。
これまで異邦人がユダヤ人を虐げてきたわけですが、その異邦人が住む全世界に彼らの解放を主が命じ、宣言されています。「地の果てまで聞こえるように仰せられた」とあります。
そしてここの「報いが主とともにある」という箇所は、黙示録の最後にも引用されています。主イエス様が教会に仰られます。「「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。(22:12)」私たちには報いがあります。「報い」という言葉を聞くと、大抵自分がした過ちに対して報復があると考えてしまいますが、そうではありません。むしろ、私たちが主にあって行なった労苦にする報いであります。
私たちが主にあって行なったこと、パウロが「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31)」と言いましたが、主にあって行なったどんなことでも、それは主の前に報いとして溜まっています。誰も見ていないところで行なったことは、特にそうです。人が見ていても、その人に見せるためではなく、ただ主に対して行なっているものについては、主は必ず報いてくださいます。これには忍耐が必要です。謙遜が必要です。すぐに結果が見えない、人々から感謝されないことが多いからです。けれども主は報いてくださいます。
62:12 彼らは、聖なる民、主に贖われた者と呼ばれ、あなたは、尋ね求められる者、見捨てられない町と呼ばれる。」
すばらしいですね「聖なる民」と呼ばれます。神のために聖め別たれた者です。罪から離れている者です。私たちはキリストの血によって、すでに聖なる者とされました。これを実際の生活の場にどれだけ実として見ることが出来るかが問われています。
3A 主からの報い 63
次の章は、61章の続きです。「主は恵みの年と、われわれの神の復讐の日を告げ(2節)」とありましたが、この復讐について、メシヤご自身が続けてお語りになります。
1B 復讐の日 1−6
63:1 「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」63:2 「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」63:3 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。63:4 わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。
メシヤ、キリストの衣が真っ赤に染まっています。この光景を見て、これは十字架による血だとまず思うかもしれませんが違います。神に敵対する者どもを殺して、その返り血が主の衣に付いた、その血です。
まず歴史的な背景を知らないといけません。ボツラはエドムの首都であった町です。エドムはイスラエルよりも弱い国でした。主が、「弟が兄に仕えるようになる」と、エサウとヤコブについてお語りになったように、です。けれども、イスラエルが弱まった時には必ず攻撃してきて、イスラエルに対する屈折した憎悪を吐き出していました。
この姿は、ここの預言ではエドム人ではなく、エドムのように神に敵対するすべての国々に対して語られています。イスラエルに敵対し、そして神ご自身に敵対する国々に、主が激しい怒りを現されるのです。
ボツラという名称は「ぶどうを集める」ことを意味します。それで主は、ご自分の敵をぶどうの実を集めて、それを酒ぶねに入れて押し潰し、ぶどう汁が出てくるように、主が彼らを踏み潰すことを予告されています。
これが黙示録14章で次のように預言されています。「また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。(14:17-20)」
都、つまりエルサレムの外で1600スタディオンつまり約300キロに、血の海が広がります。黙示録19章には、再臨のイエス様が血に染まった衣を着ていて、そして国々の民を打つとあります。猛禽類の宴会が始まり、主によって打たれた死体をそれらが食い漁ることが預言されています。
黙示録12章には、イスラエルの残された者が、蛇の前を逃れて荒野に行くことが記されています。そこで蛇また竜が彼女を飲み干そうとするのですが、地が彼女を助けて、大水を飲み干したとあります。この荒野がボツラの辺り、今のヨルダンではないかと考えられます。
つまりイスラエルは全滅の危機に瀕します。荒野に逃げる人もいれば、またエルサレムに残る人もいます。反キリストを中心にした全世界の軍隊は、荒野に逃れたイスラエルの民を完全に滅ぼそうと戦いに出ます。その時に天から来られた再臨のイエスが、彼らに戦われます。そして戦いはエルサレムのほうまで及びます。この時の様子を、ここイザヤ書63章は描いているのです。ヨルダンからイスラエル一帯で最後の戦い、ハルマゲドンの戦いが繰り広げられ、イスラエルそして神ご自身に敵対する者ども、世界の軍隊をことごとく滅ぼされるのです。
63:5 わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。63:6 わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」
主が救いを与えられる時、だれも執り成す人がないから、わたし自身で救いの腕を伸ばした、とイザヤ書59章16節にありました。同じように、主が復讐される時も、だれも主ご自身の復讐に関わる人がいません。それでご自分ですべての軍隊に対して戦われます。
黙示録19章にハルマゲドンの戦いの時、「天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。(14節)」とあります。主が地上に再臨されるとき、天にある教会も共に降りてきます。その時、ただつき従うだけです。私たちは戦いません。主ご自身が独りで戦われます。
2B 民の応答 7−19
以上、これらすべての御業、すべての主の慰めの言葉を聞いて、ここからイスラエルの残りの民の応答が始まります。これらの御言葉を聞いて、彼らがどのように祈るかを見ていきます。
1C 豊かな慈しみ 7−10
63:7 私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。
そうです、全て主の豊かな恵みと慈しみです。その恵みにしたがって、主が私たちに報いてくださいます。
63:8 主は仰せられた。「まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ。」と。こうして、主は彼らの救い主になられた。
これは素晴らしいことです、彼らは決して行ないにおいて、偽りのない子と呼ばれることはありません。けれどもそのように主がみなしてくださるのです。イスラエルが荒野の旅をしている時に、多くの罪を犯しました。けれども、モアブの野で宿営をしている時、バラムがこのように預言しました。「ヤコブの中に不法を見いださず、イスラエルの中にわざわいを見ない。(民数23:21)」実際は不法はあるのに、主はイスラエルを憐れみ、不法はないとみなしておられるのです。
63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。
この「ご自身の使い」は、ヤハウェの使いであるイエス・キリストご自身です。イスラエルが旅をしているときに、主の使いが前を進むことを約束しておられました。
そして主は、イスラエルの苦しみと一つになってくださいました。これが神の民であることの特権です。主イエス様は、私たちの弱さに同情できないような方ではない、とヘブル書にあります。私たちを遠くから眺めて、苦しんでいる私たちに教訓を与えるような方ではなく、いっしょに苦しみを感じてくださっているのです。
63:10 しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。
ここから彼らの罪の告白が始まります。イスラエルの民は、神がそれだけ良くしてくださったのに、ずっと反抗しつづけました。そのため神は、モーセが預言したように、敵が彼らを虐げるままにさせて、彼らが戦いに負けるようにされました。
2C 力ある御業 11−19
63:11 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。「羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。
終わりの日に、主に立ち返ろうとするイスラエルの残りの民は、イスラエルの始めの出来事を思い出します。イスラエルが民族として誕生するモーセの日を思い出します。彼らにとっては、ずっと、ずっと前の話です。はるか昔のことなので、今の自分たちとは関係がないように思われます。けれども彼らには信仰があります。古のモーセの日に生きておられた神は、今、私たちが信じる神と同じであるということを。
63:12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、63:13 荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。63:14 家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。」このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。
力強い業を行なわれた主、救いの業を行なわれた主がおられました。そして同じ主が今もおられるのだ、という信仰告白です。私たちにとって、どうでしょうか?同じ信仰を持っているでしょうか?現代と聖書時代は違うから、という思考形式がどうしても私たちを支配してしまいます。主が地上におられた時の力強い業は、今は見ることが出来ないと考えてしまいます。けれども問題は主ご自身ではなくて、私たちにあるのです。このことを、イスラエルの残りの民も告白していきます。
けれども本当の悔い改めと、本当のリバイバルは、まさに主が初めにしてくださったことを今、体験することです。「あなたがたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたがたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(黙示2:5)」
63:15 どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押えておられるのですか。
主は、聖なる御住まいにおられるという認識です。神は天に御座を持っておられる方です。したがって、力と熱心は、昔のモーセの日からではなく、天から直接下りてきます。
63:16 まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。
アブラハムそしてイスラエルは、モーセよりもさらに遡った話です。イスラエルの父祖です。アブラハムに主は、あなたの子孫を祝福すると約束してくださいました。
このアブラハムが、はるか数千年後の子孫である私たちを知らないと言っても、あなたはとこしえの神です、と告白しています。主の契約は永遠のものであり、アブラハムの時に結ばれたものは今でもそうだ、ということです。
ここですばらしいのは、彼らが主を、「私たちの父」ですと言っていることです。イエス様に対してユダヤ人宗教指導者は、「私たちの父はアブラハムです。(ヨハネ8:39)」と言いました。けれどもイエス様は、ご自分を今殺そうとする殺意を心に抱いている彼らに対して、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔からでた者であって(ヨハネ8:44)」と言われました。自分たちの先祖がアブラハムであろうかなかろうと、今、自分が神とどのような関係を持っているかが大事なのです。心に殺意を抱いているなら、悪魔の言うことを聞いているのであり、父は悪魔なのです。けれども残りの民は、アブラハムではなく、自分たちが直接、神につながろうとしています。
63:17 主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。
これは必ずしも、彼らが主を非難している発言ではありません。神の主権を知った上で話しています。ローマ9章でパウロは、ユダヤ人が福音を受け入れないのは、神が彼らをかたくなにされたからだ、と論じています。けれども、それは神のせいではなく、彼らが聞いて信じなかったからだ、ということを10章で述べています。
残りの民が、はるか昔から先祖たちが神に逆らっているのを、実は神は初めからご存知で、彼らがかたくなになっているのを用いられて、これまでご自分の業を行なってきました。このことを彼らは話しています。ユダヤ人たちが神から離れているのも、神の御心の中にある。けれども、いつまでその状態なのですか。もうそれが終わりに来ても宜しいのではないですか?と聞いているのです。
63:18 あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく、私たちの敵は、あなたの聖所を踏みつけました。63:19 私たちは、とこしえからあなたに支配されたことも、あなたの御名で呼ばれたこともない者のようになりました。
ヨシュアがカナン人の地を占領したのが紀元前1400年頃です。そして、バビロン捕囚によって土地を失ったのは紀元前586年です。ですから約1000年間彼らは土地を所有していましたが、近年1948年になるまで彼らは離散の民でした。しかも今でも、イスラム教徒が神殿の丘を支配しています。
「とこしえから支配されたことも、御名で呼ばれたことのない者のようになった」つまり、神様とは全く関係のないような民に成り果ててしまった、と告白しています。「モーセのことはずっと昔の話で、まあそんなことがあったかもなあ。」というのが、世俗的なユダヤ人の反応です。アメリカに住む人ならば、自分がユダヤ人であることをさえ意識しない人が多いでしょう。
4A 主からの火 64
残りの民は告白を続けます。
1B 国々の震え 1−4
64:1 ああ、あなたが天を裂いて降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。64:2 火が柴に燃えつき、火が水を沸き立たせるように、あなたの御名はあなたの敵に知られ、国々は御前で震えるでしょう。64:3 私たちが予想もしなかった恐ろしい事をあなたが行なわれるとき、あなたが降りて来られると、山々は御前で揺れ動くでしょう。64:4 神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。
これはシナイ山での出来事です。主が山に降りてこられました。それは、恐ろしい光景でした。そしてその勢いをもって、国々に対峙されることを主や約束してくださっています。先に63章で主が、ご自分の衣を血で染めながら国々に戦われることを約束してくださったようにです。このようなことまでしてくださる神が、他にいるでしょうか、と言っています。
2B 不潔な着物 5−12
ところが問題は自分自身にあります。主はこのように偉大な方だけれども、自分たちが罪にまみれているからどうしようもありません、と嘆いています。
64:5 あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行なう者、あなたの道を歩み、あなたを忘れない者を。ああ、あなたは怒られました。私たちは昔から罪を犯し続けています。それでも私たちは救われるでしょうか。64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
自分たちが正しいと思って行なっていることさえ、神の前では不潔な着物であると告白しています。この「不潔な着物」は、女性の生理によって汚れた布の意味を持っているそうです。非常に生々しい表現です。
これは前に既に、主がイザヤを通して語っておられました。「主の御手が短いのではない。あなたがたの咎が神との仕切りになっているのだ。(59:1参照)」そして、「実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。(59:3)」彼らが、体のすみずみに至るまで罪が染み込み、罪にまみれている姿を主は描いておられます。
この罪の性質が解決されなければ、自分たちが義を行なおうとしても、不潔の着物にしか過ぎないことしかできない、ということです。私たちがもし、自分にある原罪、アダムから受け継がれている罪を認めることなしには、つまり、自分は生まれてからこの方、神に対して罪を犯していたことを認めなければ、どんなに良い行ないをしたと考えても、実は不潔な着物ぐらいなのだ、ということです。
64:7 しかし、あなたの御名を呼ぶ者もなく、奮い立って、あなたにすがる者もいません。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの咎のゆえに、私たちを弱められました。
ここで、神が問題なのではなく自分が問題なのだ、という告白を行なっています。先ほど、「なぜ、私たちの心をかたくなにさせて」という言葉を言っていましたが、それは神に責任をなすりつけていたのではないことが、ここからも分かります。
64:8 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。
この陶器師と粘土の関係は、パウロがローマ9章でも語っているとおりです。ある者を神はかたくなにされ、ある者をあわれまれるのは、神の主権によるものだ。だから、陶器が陶器師に向かって、「なぜ、このように造るのか。」と非難することは出来ない。そんな権利はないのだ、という論理です。
私たちの人生はすべて、神の主権の中にあります。もう既に神は私たちをどのように用いられるかご存知です。これは恐ろしいことのように聞こえますが、神の意図はいつも愛であることを忘れないでください。私たちをご自分のみこころのままに動かされる時、そこには私たちへの良い意図があることを忘れないでください。
64:9 主よ。どうかひどく怒らないでください。いつまでも、咎を覚えないでください。どうか今、私たちがみな、あなたの民であることに目を留めてください。64:10 あなたの聖なる町々は荒野となっています。シオンは荒野となり、エルサレムは荒れ果てています。64:11 私たちの先祖があなたをほめたたえた私たちの聖なる美しい宮は、火で焼かれ、私たちの宝とした物すべてが荒廃しました。64:12 主よ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。
今、バビロンによって、そして終わりの日に荒らす忌むべき者によって、エルサレムが荒らされます。そこでこのように、「あなたは、私たちの神です」という告白をもって、主がこの状況を打開してくださるよう祈っています。
次回で、イザヤ書の最後の学びになります。この残りの民の祈りに対する主の答えが書かれています。その回答が驚くべきものです。「わたしを捜さなかった者に、わたしは見つけられた。」という答えです。肝心のイスラエルがかたくなになり、異邦人の間でわたしは見出された、ということです。
旧約聖書は律法、新約聖書が恵みと考えている人は、旧約聖書にあるイザヤ書を読むことはできないでしょう。このイザヤ書の中に、ローマ人への手紙とまったく同じ、神の救いのご計画が啓示されています。次回がクライマックスです。
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