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イザヤ書9章を開いてください、前回は9章7節まで勉強しました。今日は9章8節から12章までを学びます。ここでのメッセージ題は、「イスラエルへの言葉」です。
今、私たちはイザヤが主によって預言をするように召された後の預言を読んでいます。6章において、ウジヤが死んだ後にイザヤが見た主の御座の幻がそれです。そしてウジヤの孫アハブが王となった時に、イザヤが語った預言が7章から12章までにあります。
私たちは前回、その初めの部分を学びました。アハブが主を試さずに、むしろアッシリヤに拠り頼んで、シリヤ・北イスラエルの軍から救い出されようとしました。その結果、彼らはむしろ、アッシリヤよって滅ぼされる危機に遭うことをイザヤは預言しました。
その中で希望がありました。イザヤの二人の子の名前がそれぞれ、「残りの者は帰還する」「神が私たちとともにおられる」というものでした。アッシリヤが滅ぼすところの異邦人のガリラヤに、メシヤの光が届くことをイザヤは預言しました。そのメシヤはダビデの子、そして神の御子ご自身であることを私たちは読みました。
そして9章8節以降はその続きになります。今度は、南ユダではなく、主に北イスラエルに対する神の言葉があります。
1A 伸ばされた御手 9:8−10:4
1B 外敵の襲撃 8−12
9:8 主がヤコブに一つのことばを送られた。それはイスラエルに落ちた。
これは、イスラエルに対する神の御言葉のことです。とくに北イスラエルに対して、主が語られた言葉のことです。エリヤを始め、北イスラエルに対して預言者が預言をしました。
9:9 この民、エフライムとサマリヤに住む者たちはみな、それを知り、高ぶり、思い上がって言う。9:10 「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」
エフライムはイスラエルの代表的な部族ですので、北イスラエル全体のことを指しています。またサマリヤは北イスラエルの首都です。
彼らが、「高ぶり、思い上がっている」と言っています。ことばを主が送られたことに対して高ぶり、思い上がっています。どのようにして、でしょうか?「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。いちじく桑の木が切り倒されたから、杉の木でこれに代えよう。」主が、「あなたがたが神に逆らったら、これこれのことが起こる。」という警告の言葉を送られました。それに対して、「たとえ、何かを損なっても、私たちにはまだ力がある。自分たちの力と知恵、また自分たちにあるもので、やり直せば良いことさ。」という高ぶりです。
これが北イスラエルの姿でありました。南ユダでウジヤが王であったころ、イスラエルではヤロブアム二世が王でした。その時、イスラエルはソロモンが王であった時の領土を回復したことが列王記に書かれています(U列王14:25)。これはヤロブアムの功績ではなく、一方的な主の憐れみによるものでしたが、彼らはそれを理解せず、悪に悪を重ねていきました。
特に、北イスラエルの末期は、王の側近や部下が王を暗殺して自分が王となって、数年後、数ヵ月後に今度は自分の側近に殺される、という繰り返しで終わっています。まさに、「れんがが落ちたから、切り石で建て直そう。」という態度です。他のもので補充すれば神に頼らなくても良い、という態度です。
イザヤを預言者として召される時に、主がイザヤに教えられたことがありました。6章9節からです。「すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。(9-10節)」いつまでも、いつまでも、主に対して、主の御言葉に対して心をかたくなに閉ざす態度です。そしてイザヤは、「主よ、いつまでですか。(11節)」と聞きました。そうしたら神は、町が荒れ果てて、人々が捕え移される時までであり、その後に残りの民が聖なる者とされることをおっしゃられました。
つまり主は、心をかたくなにする人には、主ご自身に頼るようになるため、その人が頼っているものを削ぎ取っていかなければならない、ということです。北イスラエルはついに、アッシリヤ捕囚という形ですべて削ぎ落とされてしまいました。最後まで悔い改めなかったのです。私たちが、いつになったら気づくのか?それが問われます。
9:11 そこで主は、レツィンに仇する者たちをのし上がらせ、その敵たちをあおりたてる。9:12 東からはアラムが、西からはペリシテ人が、イスラエルをほおばって食らう。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
レツィンは、北イスラエルと屈託して南ユダを襲うとしたシリヤの王です。けれども北イスラエルもシリヤも、アッシリヤによって倒れました。また、元々シリヤはイスラエルにとって友好国ではなく、むしろ敵国であり、たびたびイスラエルを襲いました。同じようにペリシテ人も襲いました。
このように、「自分たちで何とかやる」という考えは、たとえ自分の敵であったとしてもそれと手を組もうと考えさせます。自分を痛めつける相手を取り組もうとするのです。けれども、やはりそれは自分を痛めつけるのです。私たちが自分を守るために、自分自身を救い出すために、本来、自分自身を痛めつけるものを利用することがありますね。一時的な助けになるかもしれませんが、自分の内側はどんどん痛めつけられていきます。
そしてここに、「それでも、御怒りは去らず、なおも御手は伸ばされている」とあります。この言い回しが、この後3回続きます。主がかつてイスラエルを贖うために、エジプトに御腕を伸ばされて災いを下されましたが、今はイスラエルに同じ手を伸ばしておられます。そしてイスラエルが拒めば、さらになお激しい裁きが彼らの上に下るのです。
2B 指導者の除去 13−17
9:13 しかし、この民は、自分を打った方に帰らず、万軍の主を求めなかった。9:14 そこで、主はイスラエルから、かしらも尾も、なつめやしの葉も葦も、ただ一日で切り取られた。9:15 そのかしらとは、長老や身分の高い者。その尾とは、偽りを教える預言者。9:16 この民の指導者は迷わす者となり、彼らに導かれる者は惑わされる。
かしらとは、政治的な指導者のことであり、尾は預言者、つまり霊的・精神的な指導者ということです。彼らは、イスラエルが主の目にどのような状態になっているかを見せるのではなく、かえって偽りを教えました。このような指導者らは、主によってイスラエルから切り取られました。
その偽りとは何でしょうか?それは、イスラエルがこのままでは外敵に襲われる、ということを教えないことです。同じように私たちが、キリストの福音を宣べ伝えるように命じられている者たちが、すべての人が罪人であり、そのままでは死んで神の裁きを受けるのだ、という危機を伝えなければ、同じような偽りを人々に言い含めることになります。
9:17 それゆえ、主はその若い男たちを喜ばず、そのみなしごをも、やもめをもあわれまない。みなが神を敬わず、悪を行ない、すべての口が恥ずべきことを語っているからだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
私たちは政治の指導者や、また教会の指導者について多くを批判します。けれども、北イスラエルの場合、彼らにそのような指導者がいたのは、実はイスラエルの一般の人々、強い人々、弱い人々を問わず、神を敬わず、悪を行なっていたからです。
偽の預言者たちが出回るのは、偽の情報を得たいという人々がいるからです。テモテへの手紙第二5章にこう書いてあります。「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:3-4)」
今の時代、政治家は、国民の人気取りに躍起になっています。国の将来の舵を取るのではなく、大衆が望んでいることをただ行なうだけです。けれども、キリスト教会がそれを行なったらどうなるでしょうか?ここの偽預言者らが「しっぽ」に例えられたように、人々の後について回る単なる声にしか過ぎなくなるのです。
3B 人食い 18−21
9:18 悪は火のように燃えさかり、いばらとおどろをなめ尽くし、林の茂みに燃えついて、煙となって巻き上がる。
外敵がイスラエルを襲っています。
9:19 万軍の主の激しい怒りによって地は焼かれ、民は火のえじきのようになり、だれも互いにいたわり合わない。9:20 右にかぶりついても、飢え、左に食いついても、満ち足りず、おのおの自分の腕の肉を食べる。
これは実際にイスラエルの中で起こりました。文字通りの共食いです。そしてあまりにも腹を空かせているので、自分自身を食べるという陰惨な光景が描かれています。
同じように新約聖書において、互いに食い合うことが書かれています。ガラテヤ書に、キリストにある自由を、肉を働かせる機会とすることによって、「・・・互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。(5:15)」と使徒パウロは言っています。私たちが、真の預言、つまり神の御言葉をまっすぐ説き明かす教えを聞かなければ、霊的な栄養不良に陥り、同じキリストにある仲間を批判し、引き落とし、かみ合うのです。
9:21 マナセはエフライムとともに、エフライムはマナセとともに、彼らはいっしょにユダを襲う。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
イスラエルはユダを襲いましたが、その理由は彼らが窮乏していたからであることがわかります。ユダは確かに堕落していましたが、けれども神に立ち上がろうとしている残された者もいました。そこには命があったのです。同じくガラテヤ書に、「肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害した(4:29)」とありますが、霊的に窮乏している人は、キリストにあって満ち足りている人に襲いかかります。
4B 不義の掟 10:1−4
10:1 ああ。不義のおきてを制定する者、わざわいを引き起こす判決を書いている者たち。10:2 彼らは、寄るべのない者の正しい訴えを退け、わたしの民のうちの悩む者の権利をかすめ、やもめを自分のとりこにし、みなしごたちをかすめ奪っている。
もともと法律は、善を促進させるため、そして悪を抑制するために作るものです。しかし、ここにその逆のことを行なっている姿が描かれています。その時に一番被害を被るのは、いつも社会の底辺にいる人々です。
10:3 刑罰の日、遠くからあらしが来るときに、あなたがたはどうするのか。だれに助けを求めて逃げ、どこに自分の栄光を残すのか。10:4 ただ、捕われ人の足もとにひざをつき、殺された者たちのそばに倒れるだけだ。それでも、御怒りは去らず、なおも、御手は伸ばされている。
イスラエルは、最終的にアッシリヤの捕囚の民となります。その時に、高い所に座っていた人々は、他の捕囚の民の足元に膝をつき、殺された者たちの側に倒れるという卑しめられた状態に陥ります。
2A 怒りの杖 10:5−34
1B アッシリヤの高慢 5−19
1C 絶ち滅ぼす心 5−11
10:5 ああ。アッシリヤ、わたしの怒りの杖。彼らの手にあるむちは、わたしの憤り。10:6 わたしはこれを神を敬わない国に送り、わたしの激しい怒りの民を襲えと、これに命じ、物を分捕らせ、獲物を奪わせ、ちまたの泥のように、これを踏みにじらせる。
イスラエルは、アッシリヤを通して神によって裁かれましたが、ではアッシリヤ自身はどうなるのでしょうか?そのような疑問が出てくるかと思います。主は、その答えを今、与えておられます。
一つは、主は積極的に、アッシリヤを用いられたという事実を知らなければいけません。「わたしの怒りの杖」「わたしの憤り」「わたしは、送り、襲えと命じ、わたしが略奪を命じ、踏みにじることをさせた」と、神が介入されている様子が描かれています。
10:7 しかし、彼自身はそうとは思わず、彼の心もそうは考えない。彼の心にあるのは、滅ぼすこと、多くの国々を断ち滅ぼすことだ。
アッシリヤ自身は、自分たちが神の怒りの器として用いられているとは考えませんでした。そして、ただ滅ぼすこと、断ち滅ぼすことしか考えなかった、とあります。歴史的にアッシリヤは非常に残酷な国民として知られています。遺跡として出てくるものの中には、彼らが引き連れる奴隷の体の一部がなくなっているものが多いです。耳を引きちぎったり、鼻をもぎとったりと残酷なことをして、人々を恐怖によって従わせていました。
聖書の中で終始一貫、教えられている真理があります。それは神がすべてのことに主権をお持ちで、全てものを動かし、神の支配から漏れるものは何一つない、ということです。もちろん神は悪を行なうような方では絶対になく、悪は罪から、そして悪魔から出ているものですが、それらをも神は後にご自分の栄光のために用いられるのです。
私がスーパーマーケットの魚部門で働いているとき、コスト削減ということで、魚のあらゆる部分を捨てないで、加工するなりして商品にしなさい、とマネージャーが言っていましたが、神はどのようなつまらないものでも、ご自分の栄光と目的のために用いられます。
神が唯一、ご介入されない部分があります。それは人間の自由な意思です。北イスラエルがあれだけ神をないがしろにしていたのに、神はすぐに彼らを裁かれなかったのは、彼らに自由意志があることを尊重されたからです。そしてアッシリヤがイスラエルや他の諸国の民をことごとく滅ぼすようにされたのも、アッシリヤ人の自由意志を尊重されたからです。
だから神はいつも、私たちが自分で選択して、神を認め、神をあがめることを待っておられます。自分が神を認めなくても何も変わらないではないか、と言って、神はいないと結論づけることに対して、神は怒りを発せられます。
10:8 なぜなら、彼はこう思っている。「私の高官たちはみな、王ではないか。10:9 カルノもカルケミシュのよう、ハマテもアルパデのようではないか。サマリヤもダマスコのようではないか。10:10 エルサレム、サマリヤにまさる刻んだ像を持つ偽りの神々の王国を私が手に入れたように、10:11 サマリヤとその偽りの神々に私がしたように、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。」と。
イスラエルの高ぶりは、自分たちで何とかなる、という自分により頼む類いのものでした。一方アッシリヤの高ぶりは、すべてのことを自分がやっているという自惚れでした。「私たちの高官はみな、王ではないか」というのは、国々の王を自分の高官たちが従わせている、だから自分は王の王であるという自負です。つまり、自分を神の位置に置きました。
そして彼らは、エルサレムの神をないがしろにしました。当時の世界では、それぞれの国がその国を代表する偶像の神を持っていた、という事実がありました。そこでアッシリヤは、それぞれの国を打ち倒すことによって、その諸国の神々も自分の手に入れた、と考えたのです。確かに、他の国々の神々は偶像であり、無力であるのはその通りです。
しかしエルサレムの神はどうでしょうか?エルサレムの神は、偶像のように地域に限定されるような方ではありません。エルサレムにご自分の御名を置くことを選ばれましたが、天の天も収めることができないような大きな神、無限の方です。しかしアッシリヤは、エルサレムの神をも他の偶像といっしょくたに考えるという過ちを犯しました。
神を知らない人が、または神を知らない指導者がどのようにしてキリスト者を迫害するのかというと、大抵この道をたどります。つまり、自分の権力は自分のものであり、自分より上の者は存在しないと考えること。そして、すべてのものの上におられる方を自分の下に置こうと考えることです。これは個人レベルでも起こります。例えば、自分の威厳を保つために、不信者の父がクリスチャンの長男に仏壇と墓を守らせます。国レベルでも起こります。戦死者を敬うためにということで、すべてのものをカミにしてしまう神社に、見境なくすべての人を祭ろうとする動きなどもその一つです。
ある元首相はキリスト教の映画を観て、無関心あるいは蔑視の態度を取りました。少なくても尊重する態度、一定の関心を持てばよいのにそれさえもしません。そのような無関心や蔑視が、自分自身の多神教の信仰とあいまって、アッシリヤと同じような罪を犯すのです。
2C 自分の功績 12−19
アッシリヤの高ぶりが続きます。
10:12 主はシオンの山、エルサレムで、ご自分のすべてのわざを成し遂げられるとき、アッシリヤの王の高慢の実、その誇らしげな高ぶりを罰する。10:13 それは、彼がこう言ったからである。「私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私は賢いからだ。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。10:14 私の手は国々の民の財宝を巣のようにつかみ、また私は、捨てられた卵を集めるように、すべての国々を集めたが、翼を動かす者も、くちばしを大きく開く者も、さえずる者もいなかった。」
これは、アッシリヤがエルサレムの町を包囲して、エルサレムを陥落させようとした時に発した言葉です。ヒゼキヤがユダの王のときに、アッシリヤの王の将軍ラブ・シャケが、エルサレムの住民に対して叫びました。この高慢の実に対して、主はどのようにお答えになるでしょうか?
10:15 斧は、それを使って切る人に向かって高ぶることができようか。のこぎりは、それをひく人に向かっておごることができようか。それは棒が、それを振り上げる人を動かし、杖が、木でない人を持ち上げるようなものではないか。
ああ、このことがすべての人が知ることができますように、と祈ります。バビロンの王ベルシャツァルは、ダニエルから「あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。(ダニエル5:23)」と言われました。世界の全てのものと、そして自分を支配する神を認めないというのは、斧が斧を使う人を動かそうとするような、また、のこぎりがのこぎりを引く人を動かそうとしているような、滑稽でかつ哀れなことなのです。
10:16 それゆえ、万軍の主、主は、その最もがんじょうな者たちのうちにやつれを送り、その栄光のもとで、火が燃えるように、それを燃やしてしまう。10:17 イスラエルの光は火となり、その聖なる方は炎となる。燃え上がって、そのいばらとおどろを一日のうちになめ尽くす。
イザヤ書37章の終わりに、エルサレムを取り囲む18万5千人のアッシリヤ軍が、主の使いによって一夜のうちに滅んだことが書かれています。
10:18 主はその美しい林も、果樹園も、また、たましいも、からだも滅ぼし尽くす。それは病人がやせ衰えるようになる。10:19 その林の木の残りは数えるほどになり、子どもでもそれらを書き留められる。
アッシリヤの王セナケリブはその後立ち去り、自分の神ニスロクを拝んでいたときに、息子に殺害されました。あれだけ、あらゆる神々に対して、エルサレムの神に対してでさえ勝ち誇っていたのに、です。そして、アッシリヤは後にバビロンとの戦いに敗れ、滅びました。
2B イスラエルの残りの者 20−34
1C 主への立ち返り 20−26
10:20 その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。10:21 残りの者、ヤコブの残りの者は、力ある神に立ち返る。10:22 たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。壊滅は定められており、義があふれようとしている。10:23 すでに定められた全滅を、万軍の神、主が、全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ。
20節の「その日」というのは、単にアッシリヤ軍がエルサレムの町の周りで倒れたことだけを指しているわけではなさそうです。なぜなら、確かにエルサレムの町の住民が、この主の御業を見て神に立ち返った人もいるでしょうが、ここでは全世界的な出来事として描いています。23節に、「全世界のただ中で行なおうとしておられるからだ」とありますね。
ここにイザヤ書、また他の預言書にある預言の特質があります。差し迫った、地域的なことに対して主が語っておられるときに、同時に最終的に、究極的にご自身が行なわれることを、預言者を通してお語りになっています。アッシリヤ軍がエルサレムを追い詰めることは確かなのですが、終わりの日には、全世界の国々の軍隊がイスラエル、そしてエルサレムの町を追い詰めるのです。ゼカリヤ書にそのことが詳細に預言されています。
その日、その時に、残りの民は主に立ち返ります。これが、主が願われていることです。これが、主が世界の軍隊をイスラエルに仕向ける理由です。
さらに、「もう再び、自分を打つ者に頼らない」とありますね。これまで北イスラエルはシリヤ、アッシリヤに頼り、ユダはエジプトに頼りました。けれどもこれらはむしろ自分たちを痛めつける相手です。これから手を離すことによって初めて、まことの神によりすがることができたのです。
預言的には終わりの時、ユダヤ人は、福音の真理を受け入れないために、偽のメシヤを受け入れてしまいます。その反キリストがヒトラーよりも酷い反ユダヤ主義者、迫害者であることを後で気づきます。それで、数多くのユダヤ人が殺されるのですが、数少ない残りの民がまことの神に立ち返る、ということです。
10:24 それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「シオンに住むわたしの民よ。アッシリヤを恐れるな。彼がむちであなたを打ち、エジプトがしたように杖をあなたに振り上げても。10:25 もうしばらくすれば、憤りは終わり、わたしの怒りが彼らを滅ぼしてしまうから。10:26a オレブの岩でミデヤンを打ったときのように、万軍の主がアッシリヤにむちを振り上げる。
ギデオン率いるイスラエルが、ミデヤン人を打ったときの話です。
10:26b杖を海にかざして、エジプトにしたように、それを上げる。10:27 その日になると、彼の重荷はあなたの肩から、彼のくびきはあなたの首から除かれる。くびきはあなたの肩からもぎ取られる。」
イスラエルが初めに経験した出エジプトになぞらえて、アッシリヤからの救いを約束してくださっています。紅海のほとりでエジプト軍に追われたイスラエルの民が、大いなる勝利を得たように、今、アッシリヤ軍に打たれようとしているところから、大いなる勝利を得ることを約束してくださっています。そして奴隷状態からも解放される、ということです。
2C 取り除かれる重荷 28−34
10:28 彼はアヤテに着き、ミグロンを過ぎ、ミクマスに荷を置く。10:29 彼らは渡し場を過ぎ、ゲバで野営する。ラマはおののき、サウルのギブアは逃げる。10:30 ガリムの娘よ。かん高く叫べ。よく聞け、ラユシャよ。哀れなアナトテ。10:31 マデメナは逃げ去り、ゲビムの住民は身を避ける。10:32 その日、彼はノブで立ちとどまり、シオンの娘の山、エルサレムの丘に向かって、こぶしを振りあげる。
これらの町々の名前は、それぞれどこにあるかを調べると、鮮明な臨場感に包まれます。アヤテというのは、ヨシュア記のアイの町と同じです。エルサレムから十数キロ北にある町です。そしてゲバ、ラマ、ギブア、ガリム、ラユシャ・・・と、どんどん南、南へ進んでいることがわかります。そしてノブはエルサレムに隣接する町です。そこでこぶしを振り上げたわけです。
私たちの生活でもこのようなことがあるでしょうか?自分が恐れているものが近づいている。それが近づかないように、離れていくように願う。けれども、さらに近づいてくる。とうとう自分の目の前に立ちはだかった、という状況です。
10:33 見よ。万軍の主、主が恐ろしい勢いで枝を切り払う。たけの高いものは切り落とされ、そびえたものは低くされる。10:34 主は林の茂みを斧で切り落とし、レバノンは力強い方によって倒される。
一夜にして18万5千人のアッシリヤ軍を倒した時のことです。彼らの高ぶりを、たけの高い木々に例えています。レバノンの杉は非常にすばらしいものですが、それらに例えています。
3A エッサイの根 11
そして次をご覧ください。非常に対照的な預言的描写があります。
1B 主の知識 1−9
1C とどまる御霊 1−5
11:1 エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。
アッシリヤはそびえ立つ木々でありましたが、それは激しく切り倒されます。そして、ここに出てくるのは既に切り落とされている根株です。けれども、ここから新芽が出ています。
これは紛れもなくダビデの子、キリストのことです。エッサイはダビデの父ですが、ダビデの世継ぎの子がメシヤとなることをサムエル記第二において、そしてこのイザヤ書のほかの箇所にも描かれています。
ユダの国は、アッシリヤの後、バビロン、そしてペルシヤ、ギリシヤ、そしてローマへと、どんどん国々の支配を受けてきました。自分たちが高くなろうとしても、強くなろうとしても、すぐに切り倒されます。けれども根株は残っているのです。決して根こそぎにされないのです。これが、神の約束の強さです。神の約束を成就させない力が働いているように見える時でも、主の真実は何ら変わることなく続いているのです。
そして、切り倒されているところに新芽が生えます。へりくだったところに、命があります。キリストはへりくだった方として現われました。そこに命がありました。私たちの生活が押しつぶされます。けれども、そこにこそキリストが現われてくださいます。そのへりくだりにこそ御霊の命があります。
そして実を結びます。命があるところに実が結ばれます。自分で高めようとしたところには、命の水がありません。いばらとおどろ、と主はアッシリヤを呼ばれましたが、乾燥して、すぐ燃え尽きてしまうものです。私たちの歩みは、非常に小さいものに見えるかもしれません。けれども、どうかこの、へりくだりの中にある主の命、そしてその命から結ばれる実を見てください。これを主が喜ばれます。
11:2 その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
主がバプテスマをヨルダン川で受けられた時に、御霊が鳩のように降って来られましたね。その御霊の特徴は、おもに知識と知恵に関することです。理解や判断に関することです。私たちはしばしば御霊というと、感じるもの、感情的に高まるものであると考えます。それゆえ、聖書の学びなどを敬遠する人たちがいます。あまりにも知性的であり、霊的ではないと。しかしここの定義によると、御霊のご性質がそのようなものなのです。
興味深いことに、御霊のご性質を数えると七つあります。「主の霊」「知恵」「悟り」「はかりごと」「能力」「知識」そして「主への恐れ」です。黙示録において、御霊が「七つの霊」と表現されています。七は神のご性質を表す数字であり、完全を表しています。
11:3 この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、
最後の御霊の特徴に、「主を恐れる霊」とありましたね。キリストが世を治められるとき、どのように治めるかがここに書かれています。主(ここでは父なる神)を恐れることによって治められる、ということです。
神を恐れることは、自分の目や耳に頼るのではなく、つまり自分自身の判断や理解に頼るのではなく、もっぱら神により頼むということです。主イエス・キリストは、ご自分が神の御子でありながら、父から離れてわたしは何もしないと何度も話されました。
そしてこれは、キリストが私たちに残された模範です。私たちは、目で見えるところ、耳で聞くところではなく、主が何と言われているのか、その主への恐れ、畏敬に基づいて物事を判断するのです。「主を恐れることは知識の初め(箴言1:7)」とあるとおりです。
11:4 正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。11:5 正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。
キリストが再臨される時のことの預言です。主は、ご自分の口から出る言葉によって、すべてをさばかれます。ハルマゲドンの戦いの最後に神に反抗する軍隊に対しても、ご自分の口から出る剣によって戦われます。そして、鉄の杖で牧する、と黙示録19章に書かれています。
2C 動物界の平和 6−9
そして次に、千年王国の平和が預言されています。
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
弱肉強食の中で生きてきた動物界に、平和が訪れます。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
平和が訪れる一つの理由として、肉食動物が草食に変わることが挙げられます。これは真新しいことではありません、ノアの時代の洪水の前は、すべての動物が草を食っていました。洪水後に肉を食べ始めたのです。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
これは、今、子供を平気で外で遊ばせることができないぶっそうな世の中になってきたことを考えると、本当にすばらしい約束です。子供が危害に遭うことが一切なくなることが約束されています。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
海の中で、海の水を免れている空間はあるでしょうか?もちろん、海底の岩陰に気泡が残っていたりすることはあるかもしれませんが、漏れることなくすべてに水が行き渡っています。同じように主の知識が行き渡ると、完全な平和が訪れるのです。
2B 御民の帰還 10−16
そして、主の再臨において知っておかなければいけない、もう一つの大きな出来事があります。それは、ユダヤ人のイスラエル帰還です。
1C 国々の旗 10
11:10 その日、エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のいこう所は栄光に輝く。
まず、キリストがユダヤ人だけでなく、世界の国々の民のいこいの場所となられます。世界の人々がキリストを自分の避け所、栄光とします。そして次のことが起こります。
2C 二度目の買い取り 11−16
11:11 その日、主は再び御手を伸ばし、ご自分の民の残りを買い取られる。残っている者をアッシリヤ、エジプト、パテロス、クシュ、エラム、シヌアル、ハマテ、海の島々から買い取られる。
ここに「再び」とありますから、初めがあったのです。それは続けて読むと分かりますが、出エジプトの出来事です。主がイスラエルをエジプトから買い取って、彼らをエジプトから動かし、ご自分の民とされました。同じように、再臨のキリストは世界中に散らばっているユダヤ人を買い戻し、それゆえユダヤ人がイスラエルに帰還することが約束されているのです。
11:12 主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。
主の裁きは、ユダヤ人を国々散らすところで終わりますが、主の回復はユダヤ人を帰還させるところから始まります。マタイによる福音書24章に、「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。 (31節)」とあります。「その選びの民」とはユダヤ人のことです。この文脈、そしてここイザヤ書の箇所から、教会のことではありません。
11:13 エフライムのねたみは去り、ユダに敵する者は断ち切られる。エフライムはユダをねたまず、ユダもエフライムを敵としない。
先ほど、エフライムがユダを襲うことが書かれていましたね。そのような敵対関係はなくなります。ソロモンの死後以来分裂していたイスラエルの南北王国は、キリストが来られることによって統一します。
私たちが今見ている現代イスラエルは、この預言の前触れとなるようなしるしです。世界中からユダヤ人が帰還することによって誕生した国です。そして、分裂せず一つになった国です。もちろん、完全な成就は見ていません。キリストが再臨されたときに完全に成就します。
11:14 彼らは、西の方、ペリシテ人の肩に飛びかかり、共に東の人々をかすめ奪う。彼らはエドムとモアブにも手を伸ばし、アモン人も彼らに従う。
周りの国々も従わせます。かつて自分たちを襲って、痛めつけていた国々がユダヤ人に従うようになります。
11:15 主はエジプトの海の入江を干上がらせ、また、その焼けつく風の中に御手を川に向かって振り動かし、それを打って、七つの流れとし、くつばきのままで歩けるようにする。11:16 残される御民の残りの者のためにアッシリヤからの大路が備えられる。イスラエルがエジプトの国から上って来た日に、イスラエルのために備えられたように。
イスラエルとユダを押さえつけていた大きな二つの国、南はエジプト、そして北はアッシリヤが、戻っていくユダヤ人をもはや妨げることはしません。エジプトの川はものすごく浅くなります。アッシリヤからは大路が備えられます。
4A 主の救い 12
そしてイザヤは、将来残りの民が叫ぶ賛美を記録しています。救いの賛美です。
1B 賛美 1−3
12:1 その日、あなたは言おう。「主よ。感謝します。あなたは、私を怒られたのに、あなたの怒りは去り、私を慰めてくださいました。」
イスラエルへの主の怒りは、イスラエルを滅ぼすためのものではありません。以前も話しましたが、これを理解しなければいけません。主が抱かれていた怒りは、自分が愛している者が離れていくような激しい悲しみの怒り、ねたみの怒りです。彼らを遺棄するためのものでは決してありません。むしろ彼らの救いのためです。
コリント第二の手紙にこう書いてあります。「今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:9-10)」
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。
救いはどこから来るのか?ここにその決め手が書かれています。「信頼」です。これが、イザヤ書に終始一貫して書かれている教えです。他のあらゆるものへの依頼を取り除いて、ただ主のみに拠り頼む、このことを私たちは学んでいるのです。
そしてこれができるときに、私たちに平安が与えられます。「恐れることはない」とありますね。すべてを主に委ねることができたときに、周りの状況がどんなに大変に見えても、私の心は平安で保たれています。
12:3 あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。
私たちの喜びの源は、主の救いから出てきます。私が罪人であり、ただ滅んで、永遠の刑罰を受けなければいけない存在であった。にもかかわらず、神が一方的に憐れんでくださり、キリストの贖罪によって私たちを救ってくださった。この事実から出てくる喜びです。
2B 宣伝 4−6
次に賛美の喜びの声から、宣教への呼びかけになります。
12:4 その日、あなたがたは言う。「主に感謝せよ。その御名を呼び求めよ。そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。御名があがめられていることを語り告げよ。12:5 主をほめ歌え。主はすばらしいことをされた。これを、全世界に知らせよ。
詩篇でもそうでしたが、賛美せよという呼びかけの後に、語り告げよという命令があります。つまり、霊の救いを受け、そのために主を喜び、そして主の御名を人々に知らしめるという働きです。これは今、イスラエルの目がまだ開かれていない今、教会に委ねられています。私たちが、あらゆる国々に御名を知らせています。
12:6 シオンに住む者。大声をあげて、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は、あなたの中におられる、大いなる方。」
これで、アハブ王に対してイザヤが語り始めた預言が一先ず終えます。エルサレムが危機に迫っていましたが、終わりは、大声を上げて、喜び歌え、聖なる方が、あなたの中におられるからだ、という喜びの声になっています。
そして次回から、ユダとイスラエルではなく、周辺の異邦人の国々に対する主の言葉がずっと続きます。
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