士師記11章30-35節 「主に口を開いたこと」

アウトライン

1A 誓願
   1B 告白
      1C 「イエスは救い主」
      2C 「イエスは主」
      3C 「あなたを愛しています」
   2B 取り消せない言葉
      1C 古い罪の生活
      2C 自己中心の生活
2A 行なうべき決断

本文

 士師記11章を開いてください。午後は9章から12章まで学んでみたいと思いますが、今朝は1130-35節に注目したいと思います。

30 エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」32 こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。33 ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」

 私たちは前回、士師ギデオンの戦いを読みましたが、今回はエフタという士師の戦いを読みます。彼は今読んだように、アモン人との戦いに臨みました。アモン人は、モアブ人の北に住んでいる民であり、モアブと同じロトを先祖として持っています。彼らはモアブ人と同じく、ケモシュという快楽の神を自分たちの神としていました。ケモシュの神は、両腕が前に出ているものが多く、そこに臨まずに妊娠し、出産した赤ん坊を置き、火で焚いていけにえとして捧げるという、おぞましい儀式を行なっていました。

 そのアモン人の地の近くに、ギルアデという地方がありました。ヨルダン川の東にあります。そこでエフタは育ちました。アモン人がイスラエルに戦争をしかけてきたので、イスラエルの長老たちは彼をかしらとして立て、戦争に臨みました。そしてエフタがアモン人との戦いに臨む時に、いま読んだように主に誓願を立てたのです。30節、「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」とんでもないことに、彼はヤハウェなるイスラエルの神に誓願を立てているのに、戦争に勝利して家の戸口から出てくるものを主にいけにえとして捧げる、という誓いを立てたのです。彼は、その出てくるものが人間だったらどうするのか?ということを考えていなかったのでしょうか?早まった誓いを立てたものでした。

 そして、最も恐ろしいことが起こりました。なんと自分のたった一人の娘が、父の戦勝をお祝いするために家から出てきたのです。彼は衣を引き裂き、打ちのめされました。彼はこう言っています。「私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」いいえ、人にあえて罪を犯させるかたちの誓いであれば、それは悔い改めて、誓いを打ち消すことができます。神は人間をいけにえに捧げることは厳に禁じておられます(例:申命記18:10)。そして人間を神に捧げたいときは、代わりにシェケル、つまり貨幣で支払うことによってその人の命を贖うことができることを、レビ記27章は教えています。ゆえに、彼は悔い改めて取り消さなければいけなかったのですが、彼が対峙していたアモン人の慣習を、彼自身が影響を受けていたのです。彼は自分が誓ったとおりのことをした、と39節に書いてあります。

1A 誓願
 神の御言葉について十分な知識を持ち合わせず、熱心さのあまり行なうと、しばしばこのような極端な行為に出てしまいます。このことについては午後礼拝で学んでいきたいと思います。今朝は、「誓い」そのものについて学んでいきたいと思います。

 私たちが誓うことについて、もっとも身近に存在するのは結婚でしょう。私は結婚して二十年目に入りました。その間いろいろなことが起こりましたが、今でも、その時に交わした誓約は有効であります。「わたくし清正は、多栄子を妻とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を近い、妻を想い、妻にのみ添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに誓います。」このような言葉を交わしましたが、それは事実、人生の荒波の中においても有効であり、今も、そしてこの瞬間も有効なものなのです。それだけ多大なる決断と決心が誓いというものは必要であります。

 旧約聖書の中には、エフタのように神に対して誓いを立てる人々が数多く出て来ます。私たちが既に学んだ聖書の人物の中では、ヤコブがいます。彼はエサウに命を追われるようにして家を出て、母リベカの故郷への旅に出かけましたが、ベテルというところで天からのはしごの夢を見ました。そして、主が約束の地を与え、子孫を多くふやし、そしてその旅路を守ってくださるという約束をしてくださいました。そこで彼は誓いを立てて、ここは神の家となり、十分の一をここで捧げると神に告げました。そして何と二十年以上経ってから、彼は妻と子供、そしてしもべや家畜に恵まれてここに戻ることができました。そして誓ったとおりのことを行なったのです。

 そして、これからの話しとしてハンナという女性がいます。サムエル記第一1章に出てくる話ですが、士師時代の末期の出来事です。彼女には子供が生まれませんでした。それで苦しくなり、神の天幕でこう祈りました。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。(1:11」ナジル人という主にささげられた者として、一生涯その子を捧げると誓ったのです。主はその願いを聞かれて男の子を与えられましたが、サムエルと名づけました。そしてハンナは誓ったとおりに、その子が乳離れしてから、神の天幕の中で奉仕するようにさせ、自分のもとから引き離したのです。そしてその預言者サムエルがイスラエルの偉大な預言者となります。

 そして人間以上に神が誓われた、という箇所が数多く出て来ます。神が約束の地を、ご自分が誓った地であるとして、イスラエルを確かにそこに導きいれてくださいました。そしてそこにおける祝福と呪いを誓われました。確かに、イスラエルが主に背き続けたのに、呪いの言葉がその通りになりました。主がご自分の口で言われた言葉を、どんなに長い期間が経っても、確かに果たされたのです。

 人間の誓いについては、主が何かをしてくださったこと、あるいはこれからしてくださることを信じて、その応答として自分も何かをすることを果たすことを「誓い」と言います。しかし、この誓いはしばしば、神が良くしてくださったことの応答として行なうのではなく、神から何かを得たいと思うときの取引条件として行うことがあります。自分が苦境の中にいて、それから救い出されることを願って、「神様、ここから救ってくださるならば、私はあなたに一生涯従っています。」と言うのですが、自分が救われてしまえば、その後に誓った言葉はすっかり忘れています。あるいは、誓った言葉は守ろうとするのですが、そこには心が伴っていません。なぜなら、神との関係が真実な愛によるものではなく、取り引きのような関係になってしまっているからです。

 そこで誓いについては、戒めがあります。「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。(民数30:2」そのとおりを実行しなければいけないという戒めです。けれども、この実行を、肉の弱さによってすることができません。それでイエス様は、当時のユダヤ人社会に対して「誓うな」と命じられています。マタイ533節から読みます。
 

さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイ5:33-37

 イエス様は、誓いそのものを無効にしているのではありません。「守ることのできない誓いであれば、いっそうのこと誓うな。」という意味で語られました。むしろ、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と答えなさい、と命じておられます。ヤコブも手紙の中で同じことを語っています。ここに誓いの真髄があります。

1B 告白
 誓いには、初めに「口に出す」という行為があります。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」というのは、心にあることを口に出す勇気です。それがたとえ自分に不利になることであったとしても、自分はどの立場にいるのか、何を信じているかについてはっきりと口に出さなければいけない、ということです。

 イエス様は婚姻の例えを話されたときに、王が王子のために結婚の披露宴を設けましたが、招待客が全然来ませんでした。そこで王は、大通りにいる出会った人々を片っ端から集めました。そうしたらたくさんの人で会場が埋め尽くされた、とあります。ところが、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいました。「そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。(マタイ22:12」この礼服というのは、キリストの義であります。信仰によって与えられる神の義と救いであります。それがないのに、天の御国の中に入ろうとしてきたのです。

 けれども問題は、彼は黙っていたということです。答えませんでした。自分がキリストの義を身につけていないということを分かっているのですが、それを口に出せば身につけていないことを認めてしまうことになります。そのプライドから、彼は答えられなかったのです。そこでこの話の続きは、「あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。(13節)」と王が言いました。地獄に放り出せ、ということです。

1C 「イエスは救い主」
 ですから、口で言い表す、あるいは告白する、ということは極めて大事です。それは神の救いに関することです。ローマ108-10節を読みます。「では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」心で信じているだけでなく、口で告白します。それによって、救われているのです。

 イエス様について、告白する三つのことを取り上げてみたいと思います。初めに、「イエスは私の救い主です」と告白することです。それは、罪からの救い、死からの救い、地獄からの救いは、まったくイエス・キリストに拠るのだと信じることです。自分の行ないでは全く神の義に到達できないことを知って、この方だけに救いを求めるのが「イエスが私の救い主」という意味です。

 私がクリスチャンになる前か後か、その時にある宣教師の人が教えてくれた例えは、深い穴に落ちてしまった時の救いでした。自分では絶対に這い上がることのできない、深い穴です。どうすれば良いのでしょうか?もっぱら自分の力や知恵ではなく、地上にいる誰かが紐を降ろすであるとか、または彼本人が降りてきてくれることです。これがイエスが地上に来られた意味である、と教えてくれました。信仰による義を前面に出して教えた、宗教改革の父祖であるマルチン・ルターは、次の詩篇の言葉を好みました。130篇です。「主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。(1-4節)」自分の不義について、自分は深い淵にいると認識しています。もっぱら神が赦してくださらないかぎり、その罪は取り除かれないことを認識しているのです。

 イエスが救い主であることを知るには、自分の罪の告白が必要です。イエスを心から受け入れられているのかそうでないかの違いは、罪を認め、その罪を告白しているどうかにかかっています。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1:7-9」自分が自分を清めるから神と交わりができるのではありません。もっぱら、キリストが流された血によって清められるのです。そこで罪を言い表せば、その血によって私たちの悪がすべて清められます!

 そして私たちは、イエスが神の御子であることも信じなければ救われません。この方こそが、神が人となられた唯一の方であり、それはイエスが死者の中からよみがえったことで証明されたことを信じることです。

2C 「イエスは主」
 そして次に、イエス様についての私たちの告白は、「イエスは主である」と言い表すことです。この方が自分の人生の主人となられた、という告白です。これをあいまいにしたまま、口に出しておかないまま信仰生活を歩むことはできません。パウロは、「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(ローマ14:8-9」と言いました。「イエス様が、この私のために死んでくださり、また生き返ってくださった。だから私は、この方に自分の命のすべてをお捧げします。」という決意です。生きるにしても、死ぬにしても、主のために行います。生きることも、死ぬことも、私たちは主のものです。

 そして、「イエスが主である」という告白には、自分自身はもはや自分のものではない、という意味が含まれています。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(1コリント6:19-20」パウロは自分のことを、「イエス・キリストのしもべ」あるいは「イエス・キリストの奴隷」と言いました。なぜなら、主人が奴隷を市場で対価を払って買い取ったように、イエス・キリストがご自分の血という対価を支払って、私たちをご自分のものにしたからです。私たちはこの告白ができているでしょうか?

 そして「イエスが主である」という告白には、「あなたが命じられることは何でも行ないます。あなたが導かれるところに、私も行きます。」という、自分の生活に対するイエス様の主権を認めることです。ペテロが、夢ごこちになったときに、天からふろしきが下りてきて、そこには汚れた動物がたくさんあり、主が、「それを屠って食べなさい」と言われると、ペテロは「主よ。それはできません。(使徒10:14」と言いました!これは矛盾する発言です。「主よ」と言っているなら、「はい、わかりました。」と答えるのです。けれどもペテロと同じように私たちはしてしまいますね。

3C 「あなたを愛しています」
 そしてもう一つ「主よ、あなたを愛しています」という、イエス様を愛しているという告白があります。これは私たちが絶えず、賛美の歌の中で行っているのです。けれども、それは心から発せられたものでしょうか?それとも、心も行ないも伴わない口だけのものでしょうか?もし口だけなら、私たちは誓いを破るという罪を犯しています。

 私たちが、「イエス様、あなたを愛しています。」と言うことができるのは、前回の学びでも学んだように、初めに神が私たちを愛してくださったからです。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:9-10

 そして私たちが神を愛しておられるのは、過去に御子が死んでくださっただけでなく、今、この時も神が慈しみを注いでくださっていること、真実を尽くしてくださっているからです。さらに、将来、主が私たちを確かに救い、神の国の中に招き入れてくださるからです。パウロはこの思いを、「マラナ・タ」と言いました。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。(1コリント16:22」ここの「主よ、来てください」が「マラナタ」です。

2B 取り消せない言葉
 そしてエフタは、誓いの言葉について「もう取り消すことはできないのだ」と言いました。エフタの誓いは愚かなものだったので、悔い改めて取り消していただくことはできたのですが、基本的に自分が口に出して言ったことは、取り消すことはできません。つまり、イエス様に従いますと告白したからには、「もう振り返ることはできない」ということです。有名な賛美歌で、インドで殉教にあう直前に歌った歌からこんな歌詞があります。"I have decided to follow Jesus. No turning back." 「私はイエス様についていくことを決めたのです。もう振りかえりません。」という意味です。イエス様の言葉でつまずいて、数多くの弟子がイエス様から離れていった後に、イエス様が十二弟子に「あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」と尋ねると、ペテロが答えました。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。(ヨハネ6:68戻るべき場所は残されていません。

1C 古い罪の生活
 それは自分の古い罪の生活に振り返ることはできないことです。パウロは言いました。「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。 (ローマ6:2」そして水のバプテスマについて教えられました。罪に支配された自分はキリストとともに葬られました。そしてキリストとともによみがえったのです。それでパウロはこうも言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17

 もし戻ってしまうのであれば、それはとても悲惨です。自分が惨めな思いになります。使徒ペテロがその姿を、「「犬は自分の吐いた物に戻る。」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる。」とかいう、ことわざどおりです。(2ペテロ3:22」と言いました。けれども主は、御霊の新生を経験した人々を、終わりの日まで守ってくださいます!「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、(24節)

2C 自己中心の生活
 そして、自分に仕える生活にも戻れません。でも、これは喜びです。もはや自分自身のために生きるのではなく、全ての道を主にゆだね、主の導きにしたがって行く生活です。

 さらに、これは主を否むことのできない生活です。ポリュカルポスというヨハネの弟子がいました。言い伝えによりますと、彼が死刑台に立つときに、執行者はためらいました。「老人が死ぬのを見るには忍びない。ただ、キリストを捨てなさい。それだけであなたはここから解放され、残りの日々を平和に暮らすことができる。」と言われたときに、彼はこう言いました。「80年以上、私は私の主である救い主、イエス・キリストに仕えてきました。ただの一度も、主は私を否んだことはありません。私はこの方を否みません。」

2A 行なうべき決断
 それでは、みなさんにお伺いします。イエス・キリストを自分自身の救い主また主として受け入れることを告白しますでしょうか?イエス様は言われました。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32-33」神の前だけでなく人の前でも言い表すことによって、自分自身が神の前で認められるかそうでないかが決まります。

 そしてイエス様を愛していると告白できますでしょうか?先ほど話したように、それは口だけでなく、真実な行ないが伴っているかどうかであります。イエス様は復活後に、漁をしているペテロたちに再び現れました。イエス様の言われるように網を降ろすと大漁でしたが、その魚を見ながらイエス様は、「これらのものより、わたしを愛しますか?」とペテロに尋ねられました。ペテロは、「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と答えました。けれども、イエス様が遣われたギリシヤ語の言葉は「アガペ」であり、ペテロのは「フィレオ」でした。アガペは、「他のものを犠牲にしても与える愛」であり、「フィレオ」は単純に好きであることを言い表す感情的な愛です。事実、ペテロはイエス様がよみがえられたのに、自分の職業であった漁を行なっていたのです。

 今、みなさんが愛しているものは、実際に何に自分の時間を割いて、何に情熱を抱いていて、何を自ら喜んで行っているかによって自ずと分かります。たとえ感情がしたくないと言っても、「いや、私はこれらのことをするのは、最上の喜びなのです。」と思いながらあえて行ないます。なぜなら、父なる神は子なるキリストの命を犠牲にすることを最も願わないことであったのに、それでもあえて行なわれたのです。私たちへの愛がまさっていたのです。この愛に触れられた人は、真にイエス様を愛することができます。

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