士師記13−16章 「御霊に満たされる肉の人」

アウトライン

1A イスラエルを救うナジル人 13
   1B 妻に現れる主の使い 1−7
   2B 不思議という名 8−25
2A ペリシテの女 14
   1B ぶどう畑の若い獅子 1−9
   2B 妻のくどき 10−20
3A 復讐劇 15
   1B ジャッカルによる放火 1−8
   2B 生新しいろばのあご骨 9−20
4A 力を失うサムソン 16
   1B ガザの遊女 1−3
   2B デリラ 4−22
   3B 最後の復讐 23−31

本文

 士師記13章を開いてください。午前礼拝でお話しましたが、サムソンによって士師記における士師の記録は終わります。彼の姿はまさに、士師時代の混沌した霊的状態を代表している存在です。つまり、「神の御霊によって力強い働きをしているのに、肉欲に引きずられて生きていた。」という矛盾です。御霊によって力強い働きをしているのであれば、聖い生活をしているはずだと私たちは思ってしまいます。肉欲に引きずられて生きているのであれば、力強く主の働きをすることができないと思います。けれども、それは時に両立しえることを、サムソンを通して見ていけます。

1A イスラエルを救うナジル人 13
1B 妻に現れる主の使い 1−7
13:1 イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なったので、主は四十年間、彼らをペリシテ人の手に渡された。

 これまで周囲の民に虐げられていた期間に比べると、もっとも長い期間になっています。この期間はおそらく、私たちが前回学んだ士師たちの期間と重なっていると思われます。107節に、「主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。」とあります。南西にペリシテ人がおり、北東にアモン人がいますが、前回はアモン人に支配されたギルアデの人々の話を読み、士師エフタによる救いを読みました。そして今、ペリシテ人側の話に入ります。

 他の士師と異なり、サムソンの時はペリシテ人から救われて安息を得た話は出てきません。彼が士師であったのは二十年であったと14章の終わりに出てきますが、その二十年の間もペリシテ人の手に渡されていました。ペリシテ人からの救いは、最後の士師サムエルを待たねばなりません。それは、サムエル記第一7章に出てきます。そしてペリシテ人が頭をもたげることのなくなるのは、ダビデがペリシテ人を制圧する時です。彼らの力は相当強いものでした。

13:2 さて、ダン人の氏族で、その名をマノアというツォルアの出のひとりの人がいた。彼の妻は不妊の女で、子どもを産んだことがなかった。13:3 主の使いがその女に現われて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。13:4 今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。13:5 見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」

 不妊の女に対して、主にささげられた男の子を与えるという話は、ここだけで終わりません。サムエルを産んだハンナは、主に対して一生涯ささげるという誓いの祈りをしました。「その子の頭に、かみそりを当てません。(1サムエル1:11」と言いましたが、サムエルも生まれながらのナジル人だったのです。そしてルカによる福音書1章を読みますと、キリストの先駆者であるバプテスマのヨハネも、ナジル人であったことが分かります。父ザカリヤに対して、彼がイスラエルの民を神に立ち返らせる器となることを天使ガブリエルが伝えました(15-17節)。

13:6 その女は夫のところに行き、次のように言った。「神の人が私のところに来られました。その姿は神の使いの姿のようで、とても恐ろしゅうございました。私はその方がどちらから来られたか伺いませんでした。その方も私に名をお告げになりませんでした。13:7 けれども、その方は私に言われました。『見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。今、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。その子は胎内にいるときから死ぬ日まで、神へのナジル人であるからだ。』」

 霊的なことについて、夫よりも妻のほうが敏感な時があります。ハンナについても、夫エルカナに対してではなく祭司エリはハンナに直接、子が与えられることを伝えました(1サムエル1:17)。バプテスマのヨハネについては、ザカリヤは不妊の女に子を与えることを信じられず、ヨハネが生まれるまで口が利かなくなりました。代わりに妻エリサベツがイエスの母マリヤと霊的な事柄について会話をしています。私が思い起こす御言葉は、ペテロ第一37節です。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

2B 不思議という名 8−25
13:8 そこで、マノアは主に願って言った。「ああ、主よ。どうぞ、あなたが遣わされたあの神の人をまた、私たちのところに来させてください。私たちが、生まれて来る子に、何をすればよいか、教えてください。」13:9 神は、マノアの声を聞き入れられたので、神の使いが再びこの女のところに来た。彼女は、畑にすわっており、夫マノアは彼女といっしょにいなかった。13:10 それで、この女は急いで走って行き、夫に告げて言った。「早く。あの日、私のところに来られたあの方が、また私に現われました。」13:11 マノアは立ち上がって妻のあとについて行き、その方のところに行って尋ねた。「この女にお話しになった方はあなたなのですか。」その方は言った。「わたしだ。」13:12 マノアは言った。「今、あなたのおことばは実現するでしょう。その子のための定めとならわしはどのようにすべきでしょうか。」13:13 すると、主の使いはマノアに言った。「わたしがこの女に言ったことすべてに気をつけなければならない。13:14 ぶどうの木からできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命令したことはみな、守らなければならない。」

 ちょうどギデオンに主の使いが現れたように、主はマノアにも現れてくださいました。

13:15 マノアは主の使いに言った。「私たちにあなたをお引き止めできますでしょうか。あなたのために子やぎを料理したいのですが。」13:16 すると、主の使いはマノアに言った。「たとい、あなたがわたしを引き止めても、わたしはあなたの食物は食べない。もし全焼のいけにえをささげたいなら、それは主にささげなさい。」マノアはその方が主の使いであることを知らなかったのである。

 ギデオンも食事を用意しました。彼も主の使いであるかどうか確信が持てなかったのですが、またたく間に火によって焼き尽くされた時に、祭壇の火によっていけにえを受け入れる主ご自身であると悟りました。

13:17 そこで、マノアは主の使いに言った。「お名まえは何とおっしゃるのですか。あなたのおことばが実現しましたら、私たちは、あなたをほめたたえたいのです。」13:18 主の使いは彼に言った。「なぜ、あなたはそれを聞こうとするのか。わたしの名は不思議という。」

 聖書時代の時の名前は、相手の本質や正体を表します。私たちが「神の御名をほめたたえる」という時は、神の本質をほめたたえています。そしてその本質は、「不思議」でありました。人の考えうる想定をはるかに超えた方であることを表しています。キリストの誕生の預言にも、この方の名前の一つが不思議であったことを思い出してください。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6」主は私たちの生活でも、不思議を行なわれたいと願っておられます。

13:19 そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主にささげた。主はマノアとその妻が見ているところで、不思議なことをされた。13:20 炎が祭壇から天に向かって上ったとき、マノアとその妻の見ているところで、主の使いは祭壇の炎の中を上って行った。彼らは地にひれ伏した。13:21 ・・主の使いは再びマノアとその妻に現われなかった。・・そのとき、マノアは、この方が主の使いであったのを知った。13:22 それで、マノアは妻に言った。「私たちは神を見たので、必ず死ぬだろう。」13:23 妻は彼に言った。「もし私たちを殺そうと思われたのなら、主は私たちの手から、全焼のいけにえと穀物のささげ物をお受けにならなかったでしょう。これらのことをみな、私たちにお示しにならなかったでしょうし、いましがた、こうしたことを私たちにお告げにならなかったでしょう。」

 再び、主の使いの現れを「神を見た」として同一視しています。三位一体の神の中でこのことをおできになるのは、第二格のキリストのみです。

13:24 その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。13:25 そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。

 サムソンと言う名前は「力強い」という意味合いがあります。そしてその幼少の頃は、豊かに祝福され育ちました。バプテスマのヨハネも、またイエス様ご自身も、その成長期において体だけでなく霊も強くされていく姿を見ることができます。ですからサムソンも、始まりはとても良かったのです。ところが彼には一つの弱さがありました。「女」です。

2A ペリシテの女 14
1B ぶどう畑の若い獅子 1−9
14:1 サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。14:2 彼は帰ったとき、父と母に告げて言った。「私はティムナで、ある女を見ました。ペリシテ人の娘です。今、あの女をめとって、私の妻にしてください。」14:3 すると、父と母は彼に言った。「あなたの身内の娘たちのうちに、または、私の民全体のうちに、女がひとりもいないというのか。割礼を受けていないペリシテ人のうちから、妻を迎えるとは。」サムソンは父に言った。「あの女を私にもらってください。あの女が私の気に入ったのですから。」14:4 彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった。主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたからである。そのころはペリシテ人がイスラエルを支配していた。

 ダン族は、地中海沿岸地域に割り当て地が与えられていました。けれども、谷にはエモリ人がいて、彼らは山地にしか住めなかったことが士師記134節に書いてあります。そして海洋民族であったペリシテ人がその間に力を持っていきました。エジプトの北からイスラエルの中部の地中海沿岸地域に移り住み始めたのです。ダン族はペリシテ人と戦うことよりも、他の土地を求めて北上していきます。次回の学びでその話を読みます。けれども、マノアのように残っている人々がいました。

 ですから、父の家のマノアと、ペリシテ人の支配するティムナは目と鼻の先でした。サムソンはそこに平気に入っていき、そこの女に目を付けたのです。親は、「割礼を受けていないペリシテ人」と言っていますが、これはイスラエルがペリシテ人に対して使う蔑称の言葉となっていきます。まったくの不信者、神から遠くはなれた人たち、という意味合いです。

 けれども、興味深いことは4節です。これらのことを、主がペリシテ人と事を起こすためにあえて行なわれたことだ、ということです。ということは、主がサムソンに女を好きになる情欲を引き起こしたのか?ということになります。いいえ、それは決してありません。ヤコブ113節には、「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」とあります。

 ではなぜ、このように主が起こされたとあるのでしょうか?それは、主がイスラエルをペリシテ人から救いたいと強く願われているからです。午前礼拝で学びましたように、見知らぬ女のところ、外国の女のところに行くことは、よみへの門であります。けれども、主は第一にサムソンに憐れみをかけ、そのような傾向を持っていてもそれでも彼をペリシテ人からイスラエルを救うための器として用いたいと願っておられます。それで、女を好きになるということさえも用いて、ペリシテ人との戦いを引き起こすことを願っておられました。

 今日でも、現実にキリスト教会の中で、ある人を通して数多くの人が救われたのに、本人が罪を犯したということが起こっています。カルバリーチャペルも実は、ロニー・フリズビーという元ヒッピーの伝道者を通して、「イエス革命」という運動が起こっていました。彼の語る福音によって、数多くのヒッピーが、麻薬やフリーセックスから解放されて、イエス様を愛する人々と変えられていきました。ところが彼は同性愛の性癖を持っていました。相手との関係を絶つことがでいず、ついに彼はエイズにかかって死んでしまったのです。では、彼を通して救われた人が本物の救いを手に入れなかったのか、と言ったらそうではありません。そのような問題を持っていても、主がそのヒッピーたちを救いたいという強い意志を持っておられたので、彼を用いられたのです。

 ですから、御霊の働きには二種類あります。それは主の御霊が上から臨まれる働きと、そして御霊が内に住まわれるという働きです。サムソンのように主の御霊が激しく下るのは、主がその人の周りにいる人々にご自分の働きをしたいときに与えられるものです。新約聖書では、「聖霊のバプテスマ」とか「聖霊の満たし」、また「御霊の賜物」などと呼ばれています。けれども、イエス・キリストを自分の救い主として心の中で受け入れると、聖霊がその人の内に住んでくださいます。それはその人が、内側から変えられて、キリストの似姿に近づいていくことです。周囲で驚くべき主の働きが起こったとしても、それは必ずしもキリストが内に住んでおられて、その人がその聖さに留まっていることを保証するものではないのです。自分を通して主が働かれることを願うと同時に、それ以上に自分の内で主が働かれることを願わなければいけません。

14:5 こうして、サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。14:6 このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。サムソンは自分のしたことを父にも母にも言わなかった。14:7 サムソンは下って行って、その女と話し合った。彼女はサムソンの気に入った。14:8 しばらくたってから、サムソンは、彼女をめとろうと引き返して来た。そして、あの獅子の死体を見ようと、わき道にはいって行くと、見よ、獅子のからだの中に、蜜蜂の群れと蜜があった。14:9 彼はそれを手にかき集めて、歩きながら食べた。彼は自分の父母のところに来て、それを彼らに与えたので、彼らも食べた。その蜜を、獅子のからだからかき集めたことは彼らに言わなかった。

 ここにサムソンのさらなる霊的な未熟さが、大きく表れています。サムソンが「ぶどう畑」に近づいています。彼は、ナジル人ですから、ぶどうから出たものは何も食べても、飲んでもいけませんでした。けれども、なぜぶどう畑に近づいたのでしょうか?主の命令をないがしろにしています。けれども、主の御霊が彼に激しく下ります。獅子をなんと子やぎを引き裂くように引き裂きました。そして今度はその死体に蜜蜂の群れと蜜がありました。死体に触れてはならない、というのもナジル人に対する神の命令です。ところが、それを無視して蜜を食べました。

 私たちが霊的に成長するというのは、表向きの働きや奉仕を行なえている姿ではありません。むしろ、御言葉にある神の命令にどれだけ従えているかどうかであります。御言葉が私たちを霊的に成長させるのであり、サムソンのように大きな働きをしていることには拠りません。

2B 妻のくどき 10−20
14:10 彼の父がその女のところに下って行ったとき、サムソンはそこで祝宴を催した。若い男たちはそのようにするのが常だった。14:11 人々は、サムソンを見たとき、三十人の客を連れて来た。彼らはサムソンにつき添った。14:12 サムソンは彼らに言った。「さあ、あなたがたに、一つのなぞをかけましょう。もし、あなたがたが七日の祝宴の間に、それを解いて、私に明かすことができれば、あなたがたに亜麻布の着物三十着と、晴れ着三十着をあげましょう。14:13 もし、それを私に明かすことができなければ、あなたがたが亜麻布の着物三十着と晴れ着三十着とを私に下さい。」すると、彼らは言った。「あなたのなぞをかけて、私たちに聞かせてください。」14:14 そこで、サムソンは彼らに言った。「食らうものから食べ物が出、強いものから甘い物が出た。」彼らは三日たっても、そのなぞを明かすことができなかった。

 婚姻の後に、このように祝宴を設けてなぞかけをするのはよくあることでした。サムソンは、先の獅子の死体に蜜が取れたことを詩のような形態にして謎々にしました。

14:15 四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った。「あなたの夫をくどいて、あのなぞを私たちに明かしてください。さもないと、私たちは火であなたとあなたの父の家とを焼き払ってしまう。あなたがたは私たちからはぎ取るために招待したのですか。そうではないでしょう。」

 これは後にペリシテ人が彼らに行ないました。ですから、この脅迫はでっち上げではなく、実際のものだったのでしょう。ペリシテ人がいかに人命を無視するような、異教的な民であったかを物語っています。

14:16 そこで、サムソンの妻は夫に泣きすがって言った。「あなたは私を憎んでばかりいて、私を愛してくださいません。あなたは私の民の人々に、なぞをかけて、それを私に解いてくださいません。」すると、サムソンは彼女に言った。「ご覧。私は父にも母にもそれを明かしてはいない。あなたに、明かさなければならないのか。」14:17 彼女は祝宴の続いていた七日間、サムソンに泣きすがった。七日目になって、彼女がしきりにせがんだので、サムソンは彼女に明かした。それで、彼女はそのなぞを自分の民の人々に明かした。

 サムソンはこれから、数多くのペリシテ人を打ち倒していきますが、たった独り女の口説きによって倒れます。

14:18 町の人々は、七日目の日が沈む前にサムソンに言った。「蜂蜜よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か。」すると、サムソンは彼らに言った。「もし、私の雌の子牛で耕さなかったなら、私のなぞは解けなかったろうに。」

 「雌の子牛」とは、自分の妻のことを指しています。

14:19 そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民三十人を打ち殺し、彼らからはぎ取って、なぞを明かした者たちにその晴れ着をやり、彼は怒りを燃やして、父の家へ帰った。14:20 それで、サムソンの妻は、彼につき添った客のひとりの妻となった。

 ペリシテ人に対する戦いは、サムソンの怒りから始まりました。ところがこれが誤解を生んで、その女の父は、他の男に娘をやってしまいました。

3A 復讐劇 15
1B ジャッカルによる放火 1−8
15:1 しばらくたって、小麦の刈り入れの時に、サムソンは一匹の子やぎを持って自分の妻をたずね、「私の妻の部屋にはいりたい。」と言ったが、彼女の父は、はいらせなかった。15:2 彼女の父は言った。「私は、あなたがほんとうにあの娘をきらったものと思って、あれをあなたの客のひとりにやりました。あれの妹のほうが、あれよりもきれいではありませんか。どうぞ、あれの代わりに妹をあなたのものとしてください。」

 その女はまだ父の家にいましたが、他の男に与えたとその父は言っています。つまり、その男とも同居をしていませんでした。同居せずに共に寝るときだけ妻とした女のところに行くという慣習は、今のパレスチナのアラブ人の間にも残っています。

15:3 すると、サムソンは彼らに言った。「今度、私がペリシテ人に害を加えても、私には何の罪もない。」15:4 それからサムソンは出て行って、ジャッカルを三百匹捕え、たいまつを取り、尾と尾をつなぎ合わせて、二つの尾の間にそれぞれ一つのたいまつを取りつけ、15:5 そのたいまつに火をつけ、そのジャッカルをペリシテ人の麦畑の中に放して、たばねて積んである麦から、立穂、オリーブ畑に至るまでを燃やした。

 サムソンは、すごいことを考えました。ジャッカル(または、狐と訳すこともできますが)は、自分の体に火を付けられていますから、慌てて畑の中を激しく動き回ったことと思います。それでなおさら、畑に火が広がっていきました。

15:6 それで、ペリシテ人は言った。「だれがこういうことをしたのか。」また言った。「あのティムナ人の婿サムソンだ。あれが、彼の妻を取り上げて客のひとりにやったからだ。」それで、ペリシテ人は上って来て、彼女とその父を火で焼いた。15:7 すると、サムソンは彼らに言った。「あなたがたがこういうことをするなら、私は必ずあなたがたに復讐する。そのあとで、私は手を引こう。」15:8 そして、サムソンは彼らを取りひしいで、激しく打った。それから、サムソンは下って行って、エタムの岩の裂け目に住んだ。

 サムソンは自分の妻とその父をペリシテ人が殺したことで、先ほどは畑という所有物だけに危害を加えましたが、今度は命を奪い取りました。

 彼が、主がペリシテ人を打てという命令を受けて行なっていないことは確かです。ただ復讐するという単純な思考で行なっています。けれども不思議なことに、ヘブル11章ではサムソンは信仰の英雄として数えられています。彼には漠然と、ペリシテはイスラエルの敵であるという思いはあったでしょう。それが信仰として数えられています(32節)。

 私たちは、とかく他の人々が行なっている働きについて、その動機が不純だとして裁く過ちを犯してしまいます。自分たちと同じようにやっていないからそれは間違っている、と思ってしまいます。もちろん私たちは「結果が良ければどんな手段を取っても構わない。」という極端に陥ってはいけません。けれども、神は欠陥のある働きであったとしても、先ほど申しましたように、罪人を救いたいという一心によってそのような働きでも人々を救う働きを行なわれます。

 私たちには、心の広さ、寛容が必要です。パウロがピリピ人への手紙でこう言いました。彼は牢獄からこのような言葉を書いています。「人々の中にはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者もいますが、善意をもってする者もいます。一方の人たちは愛をもってキリストを伝え、私が福音を弁証するために立てられていることを認めていますが、他の人たちは純真な動機からではなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えており、投獄されている私をさらに苦しめるつもりなのです。すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。(ピリピ1:15-18

2B 生新しいろばのあご骨 9−20
15:9 ペリシテ人が上って行って、ユダに対して陣を敷き、レヒを攻めたとき、15:10 ユダの人々は言った。「なぜ、あなたがたは、私たちを攻めに上って来たのか。」彼らは言った。「われわれはサムソンを縛って、彼がわれわれにしたように、彼にもしてやるために上って来たのだ。」15:11 そこで、ユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った。「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか。あなたはどうしてこんなことをしてくれたのか。」すると、サムソンは彼らに言った。「彼らが私にしたとおり、私は彼らにしたのだ。」15:12 彼らはサムソンに言った。「私たちはあなたを縛って、ペリシテ人の手に渡すために下って来たのだ。」サムソンは彼らに言った。「あなたがたは私に撃ちかからないと誓いなさい。」15:13 すると、彼らはサムソンに言った。「決してしない。ただあなたをしっかり縛って、彼らの手に渡すだけだ。私たちは決してあなたを殺さない。」こうして、彼らは二本の新しい綱で彼を縛り、その岩から彼を引き上げた。

 サムソンはエタムの岩の裂け目に住んでいました。そこはユダの割り当て地です。サムソンはダン人でありますが、人里離れて独りの生活を楽しんでいました。先ほど、「この復讐が終わったら、私は手を引こう。」と言っていましたね。イスラエルの共同体から離れて生きているというのも、彼の霊的未熟さを表しています。信仰者またキリスト者は、一匹狼になることはできません。なぜなら、御霊によってキリストの体の一部になるためのバプテスマを受けたからです。

 そしてユダの民の反応ですが、サムソンに対するために何と三千人の者たちを用意しています。それは「ペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか。」ということです。ちょっと待ってください、その三千人を使ってサムソンに付き従ってペリシテ人と戦うこともできたはずです。ギデオンも同じような仕打ちを受けました。ミデヤン人の王たちを追撃しているのに、スコテとペヌエルの住民は彼らに水もパンも与えませんでした。ミデヤン人を倒せると思っておらず、彼らが支配者だと思っているからです。私たちは主が救いを与えておられることをわきまえないと、時にこのようにかえって神に用いられている器に敵対することがあり、結果的に主の働きそのものを阻むことになってしまいます。

15:14 サムソンがレヒに来たとき、ペリシテ人は大声をあげて彼に近づいた。すると、主の霊が激しく彼の上に下り、彼の腕にかかっていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から解け落ちた。15:15 サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。15:16 そして、サムソンは言った。「ろばのあご骨で、山と積み上げた。ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」15:17 こう言い終わったとき、彼はそのあご骨を投げ捨てた。彼はその場所を、ラマテ・レヒと名づけた。

 サムソンの怪力の現れです。再び、一見相矛盾する言葉が出てきています。主の霊が激しく彼に下ったにも関わらず、彼は「生新しいろばのあご骨」を手にしてペリシテ人を打ち殺していることです。死んで間もない体に彼は再び触れています。それでも主はご自分の御霊を彼に注いでおられます。

 主の御霊の働きには、忍耐があります。恵みがあります。たとえ罪に陥ったとしても、その人がその罪に気づくことのできるように、注意を与えられます。すぐにその人を役に立たない者にすることはありません。神の猶予期間があるのです。問題は、それを猶予期間だと本人が思っていないことです。自分が誤った方向に動いているのに、主は今までと同じように自分を通して働いていてくださる、と思っています。それで自分の罪を悔い改めるどころか、その罪をますます行なってしまうという過ちを犯します。

15:18 そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」15:19 すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。15:20 こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。

 霊的に大きな勝利が与えられると、次に襲ってくるのが落ち込みです。預言者エリヤも同じように、バアルの預言者と対峙した後に、自分は死んだほうがましであるという落ち込みを経験しました。主は憐れみ深い方です。彼に、岩がくぼんだ所から水が出るようにしてくださいました。

 そしてサムソンが二十年間イスラエルをさばいた、という言葉が出てきています。「ペリシテ人の時代に」とあるように、彼は他の士師と異なりイスラエルに安息を与えるまでの救いと解放は与えませんでした。個人的復讐の域を超えていなかったからです。

4A 力を失うサムソン 16
 15章までのサムソンは、実は神の憐れみによって守られていました。ペリシテ人の女を妻にすることはとうとうなかったのです。代わりにペリシテ人と戦うように神が仕向けられました。けれども、主ご自身にも限界があります。その伸ばした憐れみの手をつかむことをしなければ、その自由意志を尊重せねばならないからです。この憐れみの期間を、これまでの自分を改める機会にするのであれば、サムソンを大いに用いられたことでしょう。けれども、彼はますます罪の中に陥っていきました。再び女のところに入っていったのです。

1B ガザの遊女 1−3
16:1 サムソンは、ガザへ行ったとき、そこでひとりの遊女を見つけ、彼女のところにはいった。16:2 このとき、「サムソンがここにやって来た。」と、ガザの人々に告げる者があったので、彼らはサムソンを取り囲み、町の門で一晩中、彼を待ち伏せた。そして、「明け方まで待ち、彼を殺そう。」と言いながら、一晩中、鳴りをひそめていた。16:3 しかしサムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った。

 サムソンが行っているところは、ペリシテ人の町で最も大きい「ガザ」です。ペリシテ人の中心部にいました。そして彼は、ペリシテ人の女を妻にするのではなく、結婚することもせずに遊女を買っています。

 ガザの者たちは、自分たちの城壁内に入ってきた彼が、檻の中に自ら入ってきたライオンのように考えていました。けれども、サムソンには力が残されています。その城壁の門をそのままぶち壊して、それをユダの地にある、かつてカレブがアナク人から奪い取ったヘブロンの山頂に運んでいったのです。ガザの者たちの面目は丸つぶれになりました。

2B デリラ 4−22
16:4 その後、サムソンはソレクの谷にいるひとりの女を愛した。彼女の名はデリラといった。

 「ソレクの谷」は、サムソンの故郷ツォルア、国境の町ベテ・シェメシュ、またペリシテ人の町ティムナなどがあるところです。故郷に近いところまで彼は戻ってきました。ならば彼は再びイスラエルの男として、真っ直ぐに生きていくべきでした。ところが、一人の女「デリラ」を愛しています。デリラの名前の意味は「捧げられた者」というもので、もしかしたら女祭司、つまり宗教の儀式の中で忌まわしいことを行う娼婦であった可能性があります。

16:5 すると、ペリシテ人の領主たちが彼女のところに来て、彼女に言った。「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。私たちはひとりひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」

 おそらく一人につき、何十万円という金額です。ペリシテ人の領主たちはおそらく、ペリシテ人の五つの町に沿って五人いたであろうと考えられます。数百万円の金額の提示を受けました。

16:6 そこで、デリラはサムソンに言った。「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう。どうか私に教えてください。」

 デリラは、全く隠し立てしていません。ペリシテ人の領主に言われたとおり、そのまま話しています。どのようにしてあなたを苦しめることができるのか?と聞いています。こんなに単刀直入なのに、なんとサムソンはその策略に気づいていません。おそらく、女との面白会話を楽しんでいるだけだと思っていたでしょう。

16:7 サムソンは彼女に言った。「もし彼らが、まだ干されていない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」16:8 そこで、ペリシテ人の領主たちは、干されていない七本の新しい弓の弦を彼女のところに持って来たので、彼女はそれでサムソンを縛り上げた。16:9 彼女は、奥の部屋に待ち伏せしている者をおいていた。そこで彼女は、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言った。しかし、サムソンはちょうど麻くずの糸が火に触れて切れるように、弓の弦を断ち切った。こうして、彼の力のもとは知られなかった。

 サムソンは本当のことを話していませんが、少し漏らしています。「七本の新しい弓の弦」と入っていますが、彼の髪には七つの房がありました。一部の真実を語ってしまったのです。

 これが罪のなす業です。罪は私たちを現状について無感覚にさせます。初めは、自分が犯してしまった罪について、とてつもない責め意識を持ちます。けれども、次に罪を犯すときにはその罪責感が少なくなります。そして何度も繰り返す中で、自分は滅んでいっているにも関わらず、罪に対して無感覚になるのです。新約聖書では、「かたくなになる」という言葉、また「麻痺する」という言葉を使っています。かたくなになるとは、ちょうど受験勉強で鉛筆を持つ時にできるペンだこに、針を刺しても痛くないような状態です。麻痺するとは、アイロンに触ってしまい重度の火傷をして、その後に無感覚になることを意味します。このようなことが、今サムソンに起こっています。

16:10 デリラはサムソンに言った。「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。さあ、今度は、どうしたらあなたを縛れるか、教えてください。」16:11 すると、サムソンは彼女に言った。「もし、彼らが仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」16:12 そこで、デリラは新しい綱を取って、それで彼を縛り、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言った。奥の部屋には待ち伏せしている者がいた。しかし、サムソンはその綱を糸のように腕から切り落とした。

 実はこれも、ナジル人の誓いの一部を話しています。「仕事に使ったことのない新しい綱」は、それまで汚れた動物や死体に触れたことのないもの、ということを言い含めています。少しずつ、自分の心の守りが崩れているのを見ます。

16:13 デリラはまた、サムソンに言った。「今まで、あなたは私をだまして、うそをつきました。どうしたらあなたを縛れるか、私に教えてください。」サムソンは彼女に言った。「もしあなたが機の縦糸といっしょに私の髪の毛七ふさを織り込み、機のおさで突き刺しておけば、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」16:14 彼が深く眠っているとき、デリラは彼の髪の毛七ふさを取って、機の縦糸といっしょに織り込み、それを機のおさで突き刺し、彼に言った。「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」すると、サムソンは眠りからさめて、機のおさと機の縦糸を引き抜いた。

 ついに、自分の髪について語ってしまいました。髪の毛を切ってしまってはいけないので、それは伏せています。

16:15 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する。』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」16:16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。

 ティムナの女に対してもそうでしたね。ここが彼の弱さでした。けれども、箴言に書いてある通り、「愚かな者は自分の愚かさをくり返す。(26:11」のです。

16:17 それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」16:18 デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。

 デリラはサムソンの愛人ですから、彼が本当のことを言ったかどうかはわかります。

16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。

 髪の毛を剃るのは他の人に頼みました。彼が起き上がらないように、そっと剃り上げるためです。そして悲惨な言葉がこれです。「彼の力は彼を去っていた。」であります。

16:20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。

 もう一つの恐ろしい言葉が出てきました。「主が自分から去られたことを知らなかった。」であります。本人が、主が自分から離れたことを気づかないのは悲惨です。マタイ7章によると、終わりの日にはそのような人が大勢出てくることを、イエス様は予告されました。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(21-23節)」たくさんの預言や奇蹟を行なったのに、イエスの御名によって行なったのに、イエス様ご自身は「わたしはあなたがたを全然知らない。」と言われています。個人的な関係、人格的な関係がなかった、ということです。

16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。

 ペリシテ人は、当時の者たちが敵に対してしばしば行なうことを行ないました。目を抉り出すことです。それからガザに引き立てていきました。先ほど話しましたように、そこがペリシテ人の中心地であり、彼らには門を取られていったという屈辱があります。そして、青銅の足かせをはめられ囚人状態になっています。そして、最も悲惨なのは臼を引いていることです。もしこれが婦人がひくような小さな臼であれば、手を動かしているだけですが、家畜用の大きな臼であれば、牛と同じように一日中、同じところをただ回っているだけです。これが、罪が私たちに行なうことです。私たちを奴隷状態にするのです。

 しかし、神の恵みの一言がここにあります。頭の毛が少し伸び始めていた、ということです。主はサムソンをあきらめておられませんでした。同じように、主は罪に陥った兄弟を、再び用いることがおできになります。

3B 最後の復讐 23−31
16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」

 ダゴンは、ペリシテ人の神です。半分魚の形をしている神と言われています。そして、ここで自分たちの神をほめたたえていますが、これはまことの天地を造られた神、イスラエルの神の怒りを引き起こさないことは決してありません。主はサムソンを用いられることに決められます。

16:25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう。」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、16:26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」16:27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。16:28 サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」16:29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。16:30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。

 サムソンに信仰が与えられました。主に呼ばわっています。「神、主よ。」と呼んでいます。神が、その小さな信仰に応じて、ご自分の御名が汚されていることをご自身が怒りを感じられて、それでサムソンを最後に大いに用いられました。これまで殺したペリシテ人よりもさらに多くのペリシテ人を殺すことができました。けれども、これはもちろん複雑な栄誉であります。彼は目を抉り出された状態で、ペリシテ人の前で戯れて、それで自害するという道は決して栄誉なことではありません。サムソンはこのような形で終わらなくても、主に用いられて大いにペリシテ人を打ち負かすことができたはずです。

 これが、主に属する者が罪を犯していく結果であります。信仰を捨てず悔い改めるならば、神はそれに必ず報いてくださいます。決してお見捨てにはなりません。けれども罪から来る結果を刈り取ることからは免れることはできません。パウロは言いました。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7

16:31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。

 サムソンは、身内すなわちダン族の者たちと、家族の者たちによって丁重に葬られました。どのように遺体が葬られるかは当時の社会では非常に重要なことでした。父マノアと共に葬られました。尊厳をもって死んでいます。そして再び、二十年間、イスラエルをさばいた、という文句で終わります。

 いかがでしょうか?サムエルを通して私たちは、霊的成長を遂げなければいけないことを学んだのではないでしょうか?主に用いられることはすばらしいですが、それ以上に主の命令に聞き従う、従順な心が必要です。それによって初めて、後の世だけではなくこの地上においても、主からの豊かな報いを受けることができます。

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