士師記3−5章 「主に用いられる人たち」
アウトライン
1A 戦う救助者 3
1B 残された国民 1−6
2B 敵からの解放 7−31
1C 上にとどまる御霊 7−11
2C 左利きの暗殺者 12−30
3C 牛の突き棒 31
2A 励ます女預言者 4−5
1B 言葉によって 4
1C ともにおられる主 1−9
2C 敵への撹乱 10−16
3C 鉄のくい 17−24
2B 歌によって 5
1C 解放 1−9
2C 共に労した者たち 10−23
3C 女の光栄 24−31
本文
士師記3章を開いてください。今日は3章から5章までを学びますがここでのテーマは、「主に用いられる人たち」です。私たちは前回、イスラエルが主の命令にそむいて住民を滅ぼさなかったこと、そのために彼らと契約を結び、彼らの神々に従い、拝み始めたことを学びました。私たちが、この世、罪、肉に対して妥協すると、その小さな罪が大きな敵となって私たちを痛めつけることを学びました。それでは本文を読みましょう。
1A 戦う救助者 3
1B 残された国民 1−6
カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。・・これはただイスラエルの次の世代の者、これまで戦いを知らない者たちに、戦いを教え、知らせるためである。・・すなわち、ペリシテ人の五人の領主と、すべてのカナン人と、シドン人と、バアル・ヘルモン山からレボ・ハマテまでのレバノン山に住んでいたヒビ人とであった。
イスラエルの新しい世代は、ヨシュアの時に戦ったその戦いを少しも知りませんでした。そのため、彼らはその外国の神々に仕えるようになったのですが、このままでは彼ら自身が主によってさばかれます。神がイスラエルに、これらの住民をことごとく滅ぼしなさいと命じられたのは、イスラエルにえこひいきをしているからではなく、イスラエルが正しいからではなく、その住民がとてつもなく悪いことをしていたからです。彼らはその偶像礼拝を行ないながら、忌まわしい不品行や殺人を行なっていました。生まれてきた赤ちゃんを火の中にくぐらせるようなことをしました。したがって、ソドムとゴモラの町が火と硫黄によって滅ぼされたように、イスラエルを用いてカナン人たちを滅ぼすことをお考えになっていたのです。
ですからイスラエルが彼らと同じことをしていれば、イスラエルが神のさばきの対象となります。けれども神はそれを望まれていません。イスラエルのことを愛しておられます。そこで主は、あえて住民を強くして、イスラエルを征服し、イスラエルを苦しめるようにされて、彼らがただ主に拠り頼み主の御名を呼ぶように促されています。私たちが罪を犯しているとき、もし何も起こらなかったら罪の中に生きつづけて、ついに滅びに至るでしょう。けれども私たちを愛してやまない主は、あえてその罪の結果を私たちに刈り取らせて懲らしめられます。その悲しみの中で主に立ち返らせるためです。コリント第一11章にはこう書かれています。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(31−32節)」
主は、イスラエルが「戦いを教えるために」これらの国民を残されていると言われています。私たちには戦いがあります。この世との戦い、罪との戦い、肉の欲望との戦い、悪魔との戦い、信仰をきよく保つところの戦いがあります。むろん戦うことは嫌だし、平穏に暮らせれば何て良いだろうと思いますが、けれども戦いの中で自分自身ではなく主に拠り頼むようになります。主がぶどうの木で私たちが枝です。ぶどうの幹から離れれば私たちは何もすることができませんが、自分ではなく主に拠り頼むときに、私たちは多くの実を結ぶようになります。ですから戦いは必要なのです。
これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。イスラエル人は、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の間に住んで、彼らの娘たちを自分たちの妻にめとり、また自分たちの娘を彼らの息子たちに与え、彼らの神々に仕えた。
モーセはこれらの住民と縁を結んではならないと命じたことが申命記7章3節に書かれていますが、まさにそのことを彼らは行ないました。そこで主は、残された住民によってイスラエルを試みられるのですが、私たちも主から試みられるときがあります。それはイスラエルと同じように、私たちと主との関係は、本当はどうなっているのかを知るためです。クリスチャンらしくふるまうことはいくらでもできますが、本当に主の命令に聞き従い、主を愛しているのかを知るために主は試練を与えられる時があります。その時にこそ私たちは主がともにおられることを知り、この方との交わりを深めることができます。
2B 敵からの解放 7−31
次から、主がイスラエルに送られる救助者、あるいは士師たちの話が始まります。
1C 上にとどまる御霊 7−11
こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。
アラヌ・ナハライムはメソポタミアのことであり現在のシリア北部に位置します。ずっと北に位置する王がイスラエルにまでやって来て、彼らを支配するようになりました。
イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。
最初の士師はオテニエルです。あのカレブの甥になります。
主の霊が彼の上にあった。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押えた。
オテニエルがクシャン・リシュアタイムに打ち勝つことができたのは、主の霊が彼の上にあったからでした。彼に特別な能力があったからではなく、彼に軍事力や政治力があったからではなく、御霊によって勝利したのです。ゼカリヤを通して主は、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(4:6)」と言われましたが、私たちが罪に打ち勝ち、その生活から救われるのは、ただ主の御霊の働きによります。
こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。その後、ケナズの子オテニエルは死んだ。
イスラエルに平和が訪れました。これは戦いによって与えられました。神の平安は、罪からの解放によって初めてもたらされます。ですから、まず戦わなければいけないのです。
2C 左利きの暗殺者 12−30
そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。彼らが主の目の前に悪を行なったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。
前回の士師記の学びで話しましたように、この時期のイスラエルの生活はひとつの悪循環になっています。イスラエル人は外国によって虐げられて、その苦境の中から主に叫び求め、それから主が救助者を送られ、それによって平和が訪れ、けれども士師がいなくなれば、再び主の目の前に悪を行ないます。この繰り返しが士師記ですが、オテニエルがいなくなってからイスラエルは再び悪を行ない、主はモアブの王エグロンを強くされました。
ここで付け加えなければいけないことは、彼らの悪は「主の目の前」であることです。けれども士師記の最後には、「自分の目に正しいと見えることを行なっていた(21:25)」とあります。私たちが考えて、これは正しいとか悪いとか判断するのではなく、主にとって悪いものなのか正しいものなのかを考えなければいけません。ですから聖書のことばが私たちの判断基準になるのです。今日、絶対的な基準である聖書をないがしろにして、自分が正しいと思うこと、すなわち状況倫理が幅を利かせています。気をつけなければいけません。
エグロンはアモン人とアマレク人を集め、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領した。
「なつめやしの町」はエリコのことです。モアブはヨルダン川の東に住んでいる民ですが、ヨルダン川の西にまでやって来て、エリコを占拠しました。
それで、イスラエル人は十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。
クシャン・リシュアタイムが支配していたときは9年間ですが、ここでは二倍の18年間です。
イスラエル人が主に叫び求めたとき、主は彼らのために、ひとりの救助者、ベニヤミン人ゲラの子で、左ききのエフデを起こされた。イスラエル人は、彼を通してモアブの王エグロンにみつぎものを送った。
ベニヤミン人で左利きのエフデが第二の士師となりました。彼がエグロンにみつぎものを持っていきましたが、従属している国は支配している国にみつぎものを持っていくことを当時行なっていました。
エフデは長さ一キュビトの、一振りのもろ刃の剣を作り、それを着物の下の右ももの上の帯にはさんだ。
普通の人の利き手は右ですが、ベニヤミン族には左利きの人が多かったようです(20:16参照)。ですから剣は普通の人とは反対に右腿のほうに付けました。
こうして、彼はモアブの王エグロンにみつぎものをささげた。エグロンは非常に太っていた。みつぎものをささげ終わったとき、エフデはみつぎものを運んで来た者たちを帰らせ、彼自身はギルガルのそばの石切り場から戻って来て言った。「王さま。私はあなたに秘密のお知らせがあります。」すると王は、「今、言うな。」と言った。そこで、王のそばに立っていた者たちはみな、彼のところから出て行った。
エフデは、モアブの王を暗殺しようとしています。大事な秘密の知らせがあると言って、彼の部下がいない二人だけの時を設定しました。
エフデは王のところへ行った。そのとき、王はひとりで涼しい屋上の部屋に座していた。そよ風が吹く、一休みできる場所です。エフデが、「私にあなたへの神のお告げがあります。」と言うと、王はその座から立ち上がった。このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を刺した。柄も刃も、共にはいってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。
エフデはかなり用意周到な人物でした。王が太っていることを知って、1キュビトという指先から肘ぐらいまでしかない剣を作りました。これによって彼の腹の中に剣のすべてが入ってしまい、引き抜くことがでいないようにしました。
そしてエフデは自分が左利きであることを利用しています。左手を伸ばして右腿のところに手を入れても、瞬時にそれが剣であるとは相手は気づきにくいでしょう。人間的には一般から離れているような特徴、他の多くの人と異なるので恥ずかしいとまで思うことを、主が逆にご自分の栄光のために用いられます。
エフデは窓から出て、廊下へ出て行き、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めた。彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来た。そして見ると、屋上の部屋にかんぬきがかけられていたので、彼らは、「王はきっと涼み部屋で用をたしておられるのだろう。」と思った。それで、しもべたちはいつまでも待っていたが、王が屋上の部屋の戸をいっこうにあけないので、かぎを取ってあけると、なんと、彼らの主人は床の上に倒れて死んでいた。
エフデは時間稼ぎをするために、あえて屋上の戸のかんぬきを締めました。
エフデはしもべたちが手間取っている間にのがれて、石切り場の所を通り過ぎ、セイラにのがれた。セイラは死海の東川の地域です。エフデは行って、エフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。すると、イスラエル人は彼といっしょに山地から下って行き、彼はその先頭に立った。
セイラからエフライムまでの距離はかなりありますが、彼は急いで行って、そしてイスラエル人を召集しました。
エフデは彼らに言った。「私を追って来なさい。主はあなたがたの敵モアブ人をあなたがたの手に渡された。」それで、彼らはエフデのあとについて下って行き、モアブへのヨルダン川の渡し場を攻め取って、ひとりも渡らせなかった。
ヨルダン川の西にもたくさんのモアブ人がいました。彼らが自分たちの国に戻ろうとするのをイスラエルは阻止しました。「渡し場」というのは橋ではなく、浅瀬になっていて徒歩で歩くことができる場所です。そこを攻め取りました。
このとき彼らは約一万人のモアブ人を打った。彼らはみなたくましい、力ある者たちであったが、ひとりも助からなかった。「ひとりも」というのはすごいです。ごく少数も助かることができませんでした。このようにして、モアブはその日イスラエルによって征服され、この国は八十年の間、穏やかであった。
80年は、士師の中で最も長く続いた平和の期間です。
3C 牛の突き棒 31
そしてエフデと同時期に、違う地域でペリシテ人と戦った士師がいます。エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。
牛の突き棒とは、牛が畑を耕しているときに余計な動作をしないように突いて正すためのものです。片方の先はとがっていて、もう一方はのみのようになっています。シャムガルは、おそらくは農作業をしている普通の人だったのでしょう。このように、普段の生活の場で大きな働きをするように主が用いられます。私たちが特別に神学校に行かなければ人をイエスさまに導くことができないのではなく、自分の置かれているところで、自分が持っているもので主にお仕えすることができるのです。
シャムガルの働きはここにしか記されていません。後で5章のデボラの歌の中に彼の名前が出てくるだけです。
2A 励ます女預言者 4−5
1B 言葉によって 4
1C ともにおられる主 1−9
その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。エフデは死んでいた。エフデが死んだ後、再びイスラエルは悪を行ないました。それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた。
ハツォルとは、ガリラヤ湖の北西にある町です。ヨシュアがこの町にいた王が攻めてきたので戦ったことがヨシュア記に書かれています。けれども残っていた民をイスラエルが滅ぼさなかったためにヤビンという王が立てられ、そして今イスラエルは彼に従属しなければならなくなったのです。
彼は鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に叫び求めた。
戦車一両だけで、兵士何千人にも匹敵する力を持っていたでしょう。第二次世界大戦を描く映画では、連合軍とドイツ軍の兵士が銃撃戦をしているときに敵の戦車がやってくると、すぐに退散しなければなりません。どんなに打ち込んでも一台の戦車を倒すことはできません。昔も同じです。イスラエルは、この強大な軍事力の前でどうすることもできませんでした。
そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。
女預言者デボラが登場しました。聖書の中では、いくつかの箇所で女預言者が登場します。モーセの姉ミリヤムは預言者でした。ヨシヤが南ユダで王であったとき、フルダという女性が預言を行なっていました(2列王22:14)。そしてイエスさまがお生まれになったとき、エルサレムにはアンナという女預言者がいました(ルカ2:36)。それから伝道者ピリポには四人の娘がおり、彼女たちは預言をしていました(使徒21:10)。そして最後にコリント第一11章5節には、女が預言をしたり祈るとき、と書かれています。
このように女性が神のみことばを語るように用いられているのが聖書の教えです。女性はいっさい神のみことばを教えてはならないというのは誤った教えです。しかしながら、聖書には男が女のかしらであり、男のかしらはキリストであると書かれています(1コリント11:3)。神の秩序があります。この働きを女預言者デボラにも見ることができます。彼女はバラクが戦いに出るように彼を励ます人として用いられます。自分がかしらではなく、かしらを手助けする働きです。
あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」
デボラは、「主はこう仰せられる」と言わず、「命じられたではありませんか?」と問いかけをバラクに行なっています。なぜなら、バラクにもおそらくは主に語りかけがあったからではないかと思われます。デボラは励まして、それを行ないなさいと勧めているのです。
タボル山は、ちょうどゼブルン、イッサカル、ナフタリ族の割り当て地の境にある山です。その西にはイズレエル平野が広がっています。キション川は、その平野を流れているのですが、川と呼ぶにふわさしくないかもしれません、ちょろちょろ水がわずかに流れているだけです。けれども、そこで主が勝利を与えてくださいます。
バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」バラクは主の語りかけに対して条件をつけています。そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。
デボラはもともとバラクといっしょに行くつもりだったようです。ですからバラクの願いはもっともなように聞こえますが、条件をつけたために「あなたは光栄を得ることはできません」とデボラは言っています。ここには、イエスさまが言われた、「神の国とその義を第一に求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」という原則があります。私たちが神さまに呼ばれたとき、必要な物や必要な人がいます。けれども、その必要が満たされなければ私はあなたの呼びかけに応じません、としてはいけないのです。呼び出しに応じたときに、主は必要なものを備えてくださいます。私は今、所沢で通訳の奉仕をしていますが、牧師はたとえ通訳がいなくても開拓を始めるという覚悟をしていました。そんなことも知らず私は、そちらの礼拝に参加したいとお願いしました。主が与えてくださるのです。
2C 敵への撹乱 10−16
バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。
この他、5章にあるデボラの歌によりますとイッサカルも進んで戦いに参加したようです。
ケニ人へベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。
モーセはイテロというミデヤン人の家に入り、そこのチッポラという女性と結婚しました。ホバブは彼女の兄弟です。その子孫であるケニ人は砂漠に住むために南に移動しましたが、ヘベルは北のほうに住んだみたいです。
一方シセラは、アビノアムの子バラクがタボル山に登った、と知らされたので、シセラは鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、ハロシェテ・ハゴイムからキション川に呼び集めた。シセラがキション川にやって来ました。そこで、デボラはバラクに言った。「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」
再び、「出て行かれるではありませんか。」と問いかけの形でバラクに預言しています。励ます人です。
それで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼について行った。主がシセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で逃げた。バラクは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムに追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者はひとりもいなかった。
主が戦車九百両とその陣営をかき乱されました。具体的に何が起こったかは5章に書かれています。洪水が起こったようです。キション川が氾濫し、泥によって戦車が身動きできなくなってしまいました。そこで陣営は混乱状態に陥り、そこをバラクが襲いかかりました。
強力な戦力であったはずの戦車がかえって戦いの邪魔になってしまいました。昔アフガニスタン紛争があったときに、ソ連の戦車はゲリラ兵の前で無力だったと言われていますが、最新兵器であるからこそ大きなわながあるのです。霊的にも同じことが言えます。私たちは人間的に、「こんな不利な状況であれば戦うことができない。」と思います。しかし主は、敵のその強さを逆に弱さにしてしまう逆転を行なわれます。がっかりしてはいけません。
3C 鉄のくい 17−24
しかし、シセラは徒歩でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げて来た。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったからである。
先ほど出て来たヘベルですが、彼はハツォルの王ヤビンと親しい関係にありました。一人で徒歩で逃げてきたシセラをヘベルの妻ヤエルが受け入れました。
ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕にはいったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。丁重に扱っています。シセラはまた彼女に言った。「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか。』とあなたに尋ねたら、『いない。』と言ってください。」
ここでヤエルは機転を利かせました。夫へベルはヤビンと親しくしていますが、シセラが負けたことを知ったのでしょう。あるいは元々、ヤブンと親しくしていることはよくないと思っていたのでしょうか?動機は分かりませんが、主のみこころにかなった行動を次に取ります。
だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。
当時天幕を張るのは女性の仕事でした。ですから鉄のくいも槌もいつも使っているものでした。シャムガルと同じですね、普段使っているもので戦っています。それから彼のこめかみに一気にくいを打ち込みました。一人の女の手によって、あの強靭シセラは死に絶えました。
また鉄の戦車でもってイスラエルを圧迫していたシセラは、同じ鉄をもって殺されました。自分が蒔くものによって刈り取ります。
ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。
デボラが預言したとおりです。バラクはシセラを殺すという光栄を一人の女に取られました。
こうして神はその日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを服従させた。それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。
シセラが死んだので、その王ヤビンも倒すことができました。
2B 歌によって 5
1C 解放 1−9
その日、デボラとアビノアムの子バラクはこう歌った。
デボラが勝利したことを歌います。バラクもそれに合わせて歌いました。彼女は言葉によってバラクを励ましましたが、ここでは歌をもってみなを励まします。預言は、人の徳を高め、勧め、慰めるためのものであるとコリント第一14章に書かれていますが、デボラは言葉と歌で人々を励ましたのです。
イスラエルで髪の毛を乱すとき、民が進んで身をささげるとき、主をほめたたえよ。
イスラエルが進んで戦いに参加したことについて、主をほめたたえています。
聞け、王たちよ。耳を傾けよ、君主たちよ。私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。
イスラエルの指導者に聞かせるために歌っています。
主よ。あなたがセイルを出て、エドムの野を進み行かれたとき、大地は揺れ、天もまた、したたり、雲は水をしたたらせた。山々は主の前に揺れ動いた。シナイもまた、イスラエルの神、主の前に。
イスラエルがキション川で勝利したとき、天候がそれを左右しました。天候を変えたのは主ご自身に他なりません。雲をしたたらせた神をほめたたえています。
アナテの子シャムガルのとき、またヤエルのときに、隊商は絶え、旅人はわき道を通った。農民は絶えた。イスラエルに絶えた。私、デボラが立ち、イスラエルに母として立つまでは。
イスラエルは外国の民に支配されていたので、主要な道路を歩くことができませんでした。恐ろしくて歩けなかったのです。
新しい神々が選ばれたとき、城門で戦いがあった。イスラエルの四万人のうちに、盾と槍が見られたであろうか。
イスラエルが住んでいた町の目の前で戦いが繰り広げられていたのに、イスラエルには戦う武器がありませんでした。武器も外国の民によって没収されていたのです。
私の心はイスラエルの指導者たちに、民のうちの進んで身をささげる者たちに向かう。主をほめたたえよ。
歌の折り返し句です。イスラエルの指導者たちに対して語りました。
2C 共に労した者たち 10−23
黄かっ色のろばに乗る者、さばきの座に座する者、道を歩く者よ。よく聞け。
今度はロバに乗る金持ち、さばきをする裁判官たち、そして道を歩く一般人に対して語りかけています。
水汲み場での、水を汲む者たちの声に。そこで彼らは主の正しいみわざと、イスラエルの主の農民の正しいわざを唱えている。そのとき、主の民は城門におりて来た。
平穏な暮らしが戻ってきたことをほめたたえています。
目ざめよ、目ざめよ。デボラ。目ざめよ、目ざめよ。歌声をあげよ。起きよ。バラク。とりこを捕えて行け。アビノアムの子よ。
デボラとバラク自身が自分たちに目をさませと呼びかけています。
そのとき、生き残った者は貴人のようにおりて来た。主の民は私のために勇士のようにおりて来た。その根がアマレクにある者もエフライムからおりて来た。ベニヤミンはあなたのあとに続いて、あなたの民のうちにいる。指導者たちはマキルからおりて来た。指揮をとる者たちもゼブルンから。イッサカルのつかさたちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵とともに谷の中を突進した。
ここでは、自分たちとともに戦ったイスラエル部族が列挙されています。エフライム、ベニヤミン、マキルはマナセの総称です。ゼブルン族も参戦しました。イッサカルも同じく戦いました。
ルベンの支族の間では、心の定めは大きかった。なぜ、あなたは二つの鞍袋の間にすわって、羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。ルベンの支族の間では、心の秘密は大きかった。
ルベン族は必ず戦うと言ってくれましたが、行動には移さなかったようです。口ではいっしょに働きますと言っても、実際には行動に移さない人が奉仕をしている人の中でいますが、そういう人たちのことです。
ギルアデはヨルダン川のかなたに住んでいた。なぜダンは船にとどまったのか。アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。
ギルアデはヨルダン川東岸のガドやマナセの一部です。彼らは参加しませんでした。ダンは自分の水産業のビジネスを行なっていたので、戦いに行くのは煩わしいと思ったようです。アシェルも同様です。
ゼブルンは、いのちをも賭して死ぬ民。野の高い所にいるナフタリも、そうである。
ゼブルンとナフタリが先陣を切りました。こうして戦った部族と戦わなかった部族がいますが、主に用いられる人は自分の利益よりも、他者のことを考えます。パウロは、テモテの働きぶりを見てこう言いました。「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。(ピリピ2:20−22)」同じ思いは、自分ではなくキリストを求めるところから出ます。
王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。
ここからどのようにしてカナン人の王たちが負けたのかが書かれています。天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。
これはおそらく天使たちではないかと思われます。聖書の中で星は、天使のことを意味していることが多いです。万軍の主が天使をひきつけて、シセラと戦っておられます。
キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。私のたましいよ。力強く進め。そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬はけりまくる。
戦車がまったく無力になりました。
主の使いは言った。「メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。」
シセラを追っているときに、メロズの町の者たちは何も行なわなかったようです。それでデボラはのろいを宣告しています。ヤコブ書に、「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(4:17)」と書かれています。正しいことをしないのは、悪いことをしているのと同じように罪なのです。
3C 女の光栄 24−31
女の中で最も祝福されたのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。
ここから主に用いられたヤエルのことについての賛美が始まります。
シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与え、高価な鉢で凝乳を勧めた。ヤエルは鉄のくいを手にし、右手に職人の槌をかざし、シセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し通した。ヤエルの足もとに彼はひざをつき、倒れて、横たわった。その足もとにひざをつき、倒れた。ひざをついた所で、打ち殺された。
シセラは打たれたときに、立ち上がったのでしょうか。けれどもすぐに倒れてしまいました。
シセラの母は窓越しに、格子窓越しに外を見おろして嘆いた。『なぜ、あれの車の来るのがおそいのか。なぜ、あれの車の歩みが遅れているのか。』知恵のある姫君たちは彼女に答え、彼女も同じことばをくり返した。『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。めいめいひとりの勇士にひとりかふたりの娘を。シセラには染めた織物の分捕り物を。染めた織物の分捕り物、色とりどりに刺繍した織物。分捕り物として、首には二枚の刺繍した織物を。』
シセラがなかなか戻らないのをどうしているかと心配しているシセラの母と、彼女を励まそうとしている女たちの声です。デボラが女ですから、それらしい歌となっています。
主よ。あなたの敵はみな滅び、主を愛する者は、力強く日がさし出るようにしてください。
すばらしい励ましです。主を愛する人が輝き、敵は滅びるようにと賛美しています。パウロも、「主を愛さない者はみなのろわれよ。主よ、来てください。(1コリント16:22)」と言いました。
こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。
また敵に脅かされない生活が戻ってきました。戦うことによる救いと平安について、学びました。私たちは戦わない限り、おびえた生活を歩まなければいけません。御霊によって、自分の弱さを逆に強さにしていただき、また敵の強さを逆に弱さにしていただき、そして神の平安を勝ち取ります。
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