士師記523節 「行なわない罪」

アウトライン

1A 周囲からの援軍
   1B 神の救いの意志
   2B 主ご自身への罪
2A なすべき正しいこと
   1B 関わらないことによる悪の発生
   2B 関わることによる御心の現れ
      1C 生活の横道
      2C 分析の放棄
      3C 神の救いの計画
3A イエスに味方する者
   1B 無敵の約束
   2B 寛容な心

本文

 士師記523節を開いてください。午後には37節から5章まで学びたいと思っています。

主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』

 今日から、士師の偉業の歴史を見ていきます。イスラエルが偶像を拝むことで神の前に悪を行ないましたが、それで神は彼らを敵に圧迫されるままにされました。そこで彼らが苦しみの中で主に向かって叫びます。哀れに思った神は、イスラエルに士師を遣わされます。士師によって、イスラエルの民は周囲の国から救い出され、安息を得ることができます。ところが、その士師が死ぬと再び彼らは神の前で悪を行ないます。この繰り返しであることを、前回学びました。

 そして37節から、士師たちが出て来ます。カレブの弟オテニエル、次にエフデ、それからシャムガルという人が出て来ます。それから4章で興味深いことが起こります。女預言者デボラがいました。戦いのために、神が彼女を通して、バラクという人に戦うことを命じました。ところがバラクは、「あなたがいっしょに行ってくださるなら、行きましょう。(4:8」と答えたのです。主の導きに従わないとどうなるのか?そして、男が頭にならないとどうなるのか?これは午後に詳しく話したいと思いますが、デボラはいっしょに行くことに同意しました。けれども、戦いに勝った時の光栄は女の手に行く、と言いました。

 それから戦って、カナン人の将軍シセラに圧倒的に勝利しました。シセラは戦車から降りて、逃げていきました。そこに、ヤエルという女のいる天幕の中に入って、そこで眠りました。その間にヤイルは、鉄のくいを彼のこめかみに打ち込んで、地に刺し通したのです。バラクがシセラを追っていましたが、光栄はその女の手に渡りました。

1A 周囲からの援軍
 そしてデボラが歌をうたいます。バラクも歌いますが、この歌詞を書いたのはデボラです。彼女は、イスラエルの各部族がいかにこの戦いに加わったのかを歌っていきます。参戦した部族に対しては祝福し、けれどもそうではない部族に対しては責めています。けれども、今呼んだメロズという町に対しては、激しい呪いを宣言しています。もう一度読んでください。これは単に彼女の恨みつらみではありません。「主の使いは言った。」とあります。イスラエルのために戦われるヤハウェの軍の将ご自身が、語られているのです。そして、イスラエルの軍を助けなかったということは、「主の手助けに来なかった」のであり、主ご自身の憤りをここに見ることができます。おそらくメロズの住民は、その戦場の近くに住んでいた人々なのでしょう。遠くにいる部族が、参戦するのを決めかねていたのではないと思います。カナン人が逃走しているのに、それを見て見ぬふりをしていたのではないか、と考えられます。

 デボラの次に神が起こされたギデオンも、敵の追撃の時に疲れ果てた兵士たちに糧食を与えなかったことに対して、彼はその住民を懲らしめました。そしてエフタという士師も、エフライム人が戦わなかったことについて、逆に切れたエフライム人と戦いを交えています。主の御霊がこれらの戦いに関わっているのに、人間的な判断で彼らの戦いを見て、見下していたり、無関心であったりした、それらの悪い態度に対する懲らしめが書かれています。

1B 神の救いの意志
 けれども、なぜこうも参戦しない者たちに対する言葉が激しいのでしょうか?それは、神の救いに対する情熱は何ひとつ変わっていない、ということが言えます。主は、エジプトにいるイスラエルをご自分の強い腕で連れ出されました。なんとしてでも、この苦境と圧迫からお前たちを贖いだす、という神の意志は極めて強かったのです。

 そしてヨシュアたちが、ヨルダン川を渡り、足の裏で踏むところはことごとく主のものとなりました。主がカナン人の王たちに対して、圧倒的に制圧することを願っておられました。ヨシュアたちが果敢に戦うときは、そこに敵に対する残滅を与えてくださったのです。それだけ、神がカナン人や周囲の住民に対しては強い意志を持っておられました。

 ですから士師の時代において、主が同じ熱情をもって敵を粉砕せしめる意図を持っておられました。これはすばらしいことです。彼らはバアルとアシュタロテ、またアシェラに仕えて、主の心を悲しませることを行なっていましたが、彼らが主に立ち返るならば、ヨシュア時代に与えられていた御霊の現れを、すぐにでもイスラエルの民に与えてくださったのです。私たちは神の恵みによって生きています。自分の反抗や肉の弱さによって失われてしまったものを、神はすぐにでもそれを埋め合わせ、埋め合わせるだけでなく、さらに満ちあふれさせてくださるのです。

2B 主ご自身への罪
 そしてイスラエルに神は、救助者を与えてくださいました。神の救いがそれら士師によって臨んできたのです。周囲の住民の圧迫から救われるということは、キリスト者にとっては罪からの救いと同じです。救いの力が与えられているのに、いつまでも自分の立場をあやふやにして、積極的に関わることをせず神の救いを受け入れなければ、それは罪の友となっていることと等しいです。積極的に味方するか、さもなければ敵対するかの二者択一であります。

2A なすべき正しいこと
1B 関わらないことによる悪の発生
 メロズの人の特徴は、「なすべき正しいことをしなかった罪」を犯していた、と言うことができます。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。4:17」とヤコブは言いました。彼らは、バアルなど偶像礼拝を行っていたから呪われたのではありません。その他の大きな罪や咎を犯したことも書いてありません。そうではなく、正しいことを行なわなかったから呪われたのです。

 人間には、そのような人たちが大勢いることに注目してください。ことさらに悪いことを行なっていないのです。だから正しい人のように見えるのです。ところが、善いことをするのに大きな関心がありません。悪について、その悪を嘆くことばさえ口から発するかもしれません。けれども、行動に移してその悪に対して立ち向かうことはしないのです。神の救いについていうならば、ことさらに罪を犯しているように見えません。そして、イエス・キリストが言われることに同意さえします。けれども、この方が自分の救い主であると心の中に受け入れることまで関わりたくはないのです。

 私たちは、一つの悪が行なわれるとき、それは直接の加害者だけで可能になったのではないことを良く知っています。最近話題になった事件を一つの例にします。いじめによって死んだ男の子がいますね。いじめる者たちが悪いことは確かなのですが、もし、学校の担任の先生、学校、教育委員会、そして警察のいずれもが一様に、そのいじめに不誠実な対応しかしなかったので、その子は自殺へと追いやられました。その自殺は、どこかで間接的に関わっている人々がその悪に対して立ち向かっていたのであれば、十分に回避できたのではないかと言われています。ある人がこう言いました。「悪が勝ち誇るのに必要なのは、善良な人々が何もしないことだけだ。"All that is necessary for the triumph of evil is that good men do nothing."

2B 関わることによる御心の現れ
 主は、私たちが実際に関わることを望まれておられます。

1C 生活の横道
 私たちはなぜ関わりたくないのでしょうか?一言でいえば「生活が乱されたくない」からです。今自分が行っていることに支障が出てきて、手間なことになり、面倒なことになるのが嫌だからです。けれどもイエス様は、隣人を愛することを教えるときに「良きサマリヤ人」の例えを話されました。「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』ルカ10:30-35

 ユダヤ人の祭司やレビ人と、サマリヤ人の対比をイエス様は行なわれています。先の両者は、この半殺しの倒れている人に関われば自分たちの宗教活動に支障が出ます。何もそういったものには関わらなければ、誰からも咎められることなく、いつものとおり一日を過ごすことができました。けれどもサマリヤ人は、傷にオリーブ油を塗り、ぶどう酒を注いで包帯を巻き、応急措置をしてあげました。それだけでなく宿屋まで家畜に乗せて、さらに宿屋代を彼のために支払っています。

 私たちは、生活の横道にそれることを恐れてはいけません。主の御霊が働かれる時は、非日常的なことが起こります。人が苦しんでいるところ、悩んでいるところ、弱まっているところ、そうしたところに主がご自身の力を発揮されます。

2C 分析の放棄
 そしてなぜ関わらないのか、もう一つの理由は、「分析をしたがる」という私たちの性質です。何か非日常的なことに出くわすと、「なぜこの人は、こんなことをするのだろう。」と、助けようとするまえに分析を始めるのです。生まれつきの盲人の話を思い出してください。「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:1-3」主は関心をもって、この男をご覧になりました。それは、「なぜこのようになってしまったのだろうか。」という分析ではなく、「この人に神のわざが現れるのだ。」という関心だったのです。それでイエス様はこの男への関わりを始められました。男の目が開け、また霊的な目も開かれました。

3C 神の救いの計画
 そして何よりも、関わりたくない大きな理由は、「自分を捨てなければいけない」からであります。神の救いのご計画を受け入れることそのものが、自分を捨てることです。イエス・キリストが自分の罪のために死なれ、三日目によみがえられたという福音を聞いて、それに同意するところまでは多くの人ができます。けれども、その中に自分を関わらせるとまでなりますと、自分のこれまでのあり方を変えなければいけないのに、身を引いてしまうのです。なすべき正しいことは知りながらも、それを行なわないで退いてしまうのです。

 福音と言うのは、自分自身を関わらせるものです。その象徴が水のバプテスマです。イエス・キリストの十字架と復活がもはや、知的な同意でも何でもありません。キリストと共に古い自分が死んだのです。そしてキリストと共に葬られたのです。そして新しい命にあってキリストとともによみがえったのです。キリストが成し遂げられた事柄について、私たちは自分自身がこの方に結ばれた者として関わるのです。

3A イエスに味方する者
 そこでイエス様は言われました。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。 (マタイ12:30」イエス様に積極的に関わらないのであれば、イエス様に反対している人々と何ら変わりないことを結果として行っています。グレッグ・ローリーという伝道師は、彼が高校生の時に回心するとき、「あなたは、イエスに味方しているか、逆らっているかのどちらかだ。」と言われて、「まさか、自分がイエスに敵対しているなんて考えていなかった。」と言っています。イエス・キリストについては、私たちは中立でいることはできないのです。

1B 無敵の約束
 私たちは、イエス様の味方になることによって、とてつもない祝福の中に入れられます。神が与えられている約束の一つは、「だれも自分に敵対できる者がいなくなる。」ということです。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8:31」考えてみてください、自分がイエス様に明け渡しているならば、神は自分に敵対しているのではなく、味方しているのです。ですから、私たちはもちろんへりくだって、心砕かれて、主の力強い御手の中に生きていかなければいけませんが、神が味方になっているという圧倒的な恵みの中に生きてください。

2B 寛容な心
 そして、もう一つの約束があります。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。(マルコ9:40」先ほどの、「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者」というのと一見、矛盾します。けれどもこれはそうではありません。イエス・キリストに対しては、個々人が深く関わるか、そうでないかの選択をしなければいけませんが、神の国が広がっていく時に、あらゆる人々がキリスト教にことさらに反対するのでなければ、あらゆるものが御国の広がりのために役に立つ、ということです。

 私たちはこの施設で礼拝を守っています。それを許してくださった神に感謝していますが、またこの施設の人々のことを感謝しています。神学的に聖書理解において異なる人たちがいるかもしれません。聖書にある神の真理については、妥協してはいけない姿勢は貫くべきですが、異なる理解を持っている人がある時に奉仕活動を共にするかもしれません。自分たちに反対しないのであれば、このような人々は神の国の拡がりの中で組み込まれているのです。だから、ピリピ書の中にはこうあります。「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。(4:5

 皆さんは今、主の御霊の流れの中にいるでしょうか?神の救いの中に関わっているでしょうか?それとも、同意だけしていて、外側で見ている状態でしょうか?ぜひ、神の救いを自分のものとしてみてください。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME