士師記7章1−8節 「神に用いられる人々」
アウトライン
1A 減らされる人数
1B 少人数による勝利
2B 人の誇りの除去
2A 試された心
1B 恐れ
2B 用心深さ
本文
士師記7章を開いてください。午後は6章から8章を学びますが、士師記の中に出てくる勇士の一人、ギデオンの戦記を学びます。今朝はその戦いの中心部分に注目したいと思います。7章1-8節です。
1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。2 そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。4 すると、主はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない。』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない。』と言う者はだれも、行ってはならない。」5 そこでギデオンは民を連れて、水のところに下って行った。すると、主はギデオンに仰せられた。「犬がなめるように、舌で水をなめる者は残らず別にしておき、また、ひざをついて飲む者も残らずそうせよ。」6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。
私たちは士師の勇猛な戦いを読み始めています。オテニエル、エフデ、シャムガル、そしてデボラとバラクでした。カナン人ヤビンの圧制からイスラエルを救い出し、イスラエルに安息が四十年間続きました。ところが、デボラが死ぬとイスラエルは再び主の前に悪を行ないました。そして主はミデヤン人を七年間、イスラエルに襲うようにされました。
ミデヤン人は、アラビア半島にいる遊牧民です。彼らがヨルダンの東までやってきて、ヨルダン川を渡ってイスラエル全土を荒らしに来ました。彼らは遊牧民なのでそこを攻め取って征服するのが目的ではなく、イスラエルが汗水流して育てた作物を略奪するためだけにやってきました。砂漠の民らしくらくだに乗ってやってきて、それは「いなごの大群のようにしてやって来た(6:5)」と書いてあります。数え切れないほどのらくだがいた、とあります。
その中で主の使いが、酒ぶねの中で小麦を打っていたギデオンを呼び、「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。(6:12)」と言います。脱穀は平らで広い開けたところで行なうのが常なのに、ミデヤン人が収奪に来るのを恐れて酒ぶねで行なっていたのです。そのように恐怖におびえていたギデオンを呼んで「勇士よ」と主は呼ばれたのです。その後の話を呼んでも、彼がどう見ても勇敢な男だとは思えない行動を彼は取り続けます。恐る恐る、主が命じられることに従っていきます。けれども主は忍耐強く、彼の不安や疑いに付き合うようにして、ご自分が共におられることの印を与えられました。
そして、ミデヤン人はアマレク人やその他の東の人々と共に、ヨルダン川を渡り、イズレエル平原にやってきました。モレ山という山を挟んで、ハロデの泉のところにギデオンたちは陣を敷きました。相手の数は十三万五千人です。後で本人ともう一人の兵士が、敵陣をこっそり見に行きますが、「そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。(士師7:12)」とあります。対して、ギデオンが声をかけて召集したイスラエル人は三万二千人です。相手と自分は四倍も違います。
1A 減らされる人数
ところが見てください、2節には「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。」と主は言われます。少なすぎるのではなく、多すぎると言われているのです。それで三万二千人がなんと一万人にまで減ってしまいました。さらに主が指示を与え、なんと三百人になってしまったのです。戦力差は、四分の一から五百分の一に減ってしまいました。
1B 少人数による勝利
私たち人間は、何かを成し遂げる時に多ければ多いほど良いと思っています。そしてある一定の量に達しなければ、何かを成し遂げることはできないと考えています。クリスチャン生活においても、自分は信仰者としての素養がまだ足りないから、この神の命令は守ることはできないと、量的なことを考えながら生きてしまいます。けれども、神はむしろ少ないところから、大きなことを行なわれる方法を取られます。
一般社会の中でも、減らさないと事を成し遂げられないことって沢山ありますね。例えば自分の身体はいかがでしょうか?贅肉は減らさないと、体をすばやく動かすことはできません。また、物のあふれる現代社会で、「捨てる術」というのが流行っています。捨てることでむしろ部屋の機能を果たせるのです。無駄なものを省かないと、本来の仕事ができないことが多いです。
神は、ある一人、また一部の人々を選ばれて、その人を通してご自分のことを行ない、多くの人々を動かしていくことを行なわれています。ノアの時代の洪水で、救われたのはわずか八人でした。けれども、世界のあらゆる民族は、その小さなノアの家族から分かれ出た者たちです。創世記は、12章以降、一挙にたった一人の人物に焦点を合わせます。アブラハムです。アブラハムによって、あらゆる民族を祝福すると言われました。
そして、神は世界の救済計画をイスラエルという、人間的な基準からすれば吹けば飛んでなくなってしまうような小さな民族によって成し遂げようとされました。新約聖書に行ってみてください。イエス様は、非常に頼りないたった十一人の弟子たちに対して、「あらゆる国民を弟子としなさい」という大宣教命令を出されたのです。イエス様は救いについても、「狭い門からはいりなさい」と命じられました。滅びに至る門は広い、と言われるのです。私たちの考えでは、「もっと門戸を広げないと、多くの人が救われないのではないか。」と考えますし、キリスト教会の中には、悔い改めとキリストへの信仰がなくても、すべての人が救われるという誤った教えまであります。いいえ、「狭い門から入りなさい」と命じられて、十字架という、最も狭められた救いへの道が備えられて、それで福音は今や全世界に広まっているのです。主は、人間的には何十万人いなければできないようなことを、あえて数人だけ選んで行なわれるような、「少ないところから多くを生み出す」方法を取られるのです。
したがって聖書に出てくる、イスラエルの戦史は一般の軍事的常識からすれば話にもならない、子供じみた話しに満ちています。人間の戦いを描くために神は、イスラエルに戦争を命じられたのではありません。神を信じていくという信仰の記録を残すために、その戦争を行なわせています。ダビデがこう歌いました。「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。 (詩篇20:7)」モーセがシナイ山のふもとで、神の戒めを守ることによる祝福を宣言したときに、「あなたがたの五人は百人を追いかけ、あなたがたの百人は万人を追いかけ、あなたがたの敵はあなたがたの前に剣によって倒れる。(レビ記26:8)」と言いました。まさにギデオンの話は、このモーセの預言に沿っているもので、三百人が十三万五千人を追いかけたのです。こうやって、戦っているのはイスラエルではなく、実は神ご自身であることを証言しているのです。
サウル王の息子ヨナタンも、道具持ちといっしょに、たった二人でペリシテ人の陣営に入りました。彼はこう言っています。「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。(1サムエル14:6)」神の国は、また教会は、民主主義ではありません。神主主義です。神の命令があります。その命令を一人や二人、掴み取る人々が起こされます。そして、その動きに他の多くの人の心も動かされて、それに付いていくのです。
ですから、私たちに必要なのは人数ではありません。私たちが常に大切にしなければならないのは、神ご自身の心です。この方の心を自分が掴み取っているか、ということです。ユダの王アサに対してハナニがこう言いました。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(2歴代16:9)」たった一人であっても、神の心と全く一つになっている人がいるならば、神は全世界に及ぶ御力を現してくださるのです。
2B 人の誇りの除去
本文では、神がなぜ人数を減らしたか、その理由を述べておられますね。2節の後半、「イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」と主は言われます。ちょっと待ってください、すでにギデオン軍はミデヤン軍に比べて四分の一の兵力しか持っていないのです。けれども、ここで勝利したのであれば、不思議なことに自分が行なったと誇ってしまう、というのです。
人間は本当に不思議で、非常に些細なことで自分を誇ります。どのような家に住むか、その暮らし向きの自慢を私たち人間はしてしまいがちですが、ある未開地における宣教活動の中で、その現地人が竹で作られた家に住んでいるか、木で作られた家に住んでいるかで比較している、というような話を聞いたことがあります。私たちはどうでも良いようなことで比べたり、誇ったりしています。
そこでパウロは、そうした人間の誇りを取り除くために、神が信仰の原則によって私たちを救ってくださることを教えておられます。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。(ローマ3:27-28)」行ないによっては一切、神に義と認められないことを、キリストの十字架は教えています。自分がどんなに努力して良い行ないをしても、自分自身が罪の中にいるので神の義に到達できないのだ、というのが福音の真理です。だから、キリストが身代わりになって死んでくださった。これを信じる者がその信仰によって義と認められる、というものです。
ここギデオンの話しでも同じように、神は、人間の力では完全に不可能だという人数にまであえて減らすことによって、神がミデヤン人を倒したのだという、神のみの栄光につながるようにさせた、ということであります。
2A 試された心
1B 恐れ
先ほど読んだ御言葉のとおり、神が見ておられるのは人数ではなく「心」です。心が神と一つになっている人が必要です。そこで神は二つのテストを与えられました。3節をご覧ください、「今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。」恐れ、おののいているかどうか、であります。十三万五千人の敵を目の前にして、恐れおののけば帰りなさい、と言っています。
モーセも申命記の中でこう話していました。「つかさたちは、さらに民に告げて言わなければならない。「恐れて弱気になっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」(20:8)」戦いにおいて、最も恐ろしい疫病は恐れであります。数多くの敵との戦いよりも、味方の陣営にある恐れのほうが危険であると言われます。覚えていますか、約束の地を目の前にして、十二人のうち十人が悪い知らせをもたらしたため、それが乾燥した空気の中で山林で火事が起こったように、その恐れはまたたく間にイスラエルの宿営全体に伝わりました。
恐れと言うのは、私たちの精神的な生活を蝕みます。精神的な生活だけでなく、霊的な生活に害をもたらします。主イエス・キリストを信じて永遠のいのちを得るという約束を得られないのは、恐れ退いているからだとヘブル書の著者は言います。「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル10:38-39)」信仰を持つということそのものが、これまでの自分のあり方を失うことに他なりません。それを失うことを恐れて退いてしまうのです。けれども、神が信頼に値する方であることを知れば、一歩踏み込んで、この方を信じ、命を得ることができます。
私たちは恐れに対してどのように対処すればよいでしょうか?ギデオンは、主に呼ばれた時から始めから恐れとの闘いを行なっていました。そこで主は何度もこう励ましています。「わたしが、あなたといっしょにいる。」です。主がギデオンを受け入れて、受け入れているだけでなく、共にいて、ギデオンの味方になっていておられるのです。この真理を全面的に受け入れている人は、多くの敵を前にしても恐れることがありません。ダビデはこう歌いました。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。・・私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(詩篇23:4-5)」
神があなたを受け入れ、神があなたを愛しておられるという真理が、根本的に恐れを締め出してくれます。「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(1ヨハネ4:18-19)」今読んだところには、「神がまず私たちを愛してくださった」とあります。私たちが神を愛したから神が愛するのではなく、神がまず愛してくださったのです。このような神の一方的な愛と受け入れがあるので、私たちは自分が罰せられることを恐れるのではなく、むしろ神と他の人々を愛していくことができるのです。
そして恐れを克服するのは、次に主にのみ目を留め、主の命令に聞き従うことです。その問題を見つめ続けないことです。良い例は、ペテロが水の上を歩いたことでしょう。「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14:28-31)」主を見つめている時は水を歩けました。けれども、波が出てきたのを見て、恐くなったので沈みかけました。イエス様から目を離して、問題を見てしまったのです。
私たちはいつも、主を見上げる必要があります。そして、主が命じられることを行っていくのです。そこには「自分」という能力の領域はありません。自分を失いながら、主に拠り頼むのです。
2B 用心深さ
次に主が試されたことを見てみましょう。6節と7節です。「6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。7 そこで主はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」」これはどういうことでしょうか?水を飲まなければいけない時に、犬のように口を水につけて飲んだら、その瞬間に敵が襲撃してきたら終わりです。兵士はつねに臨戦態勢でなければいけません。だから、手で水をすくって飲むひとだけが選ばれました。日常生活に必要なことはこなしていくのですが、周囲で何が起こっているかを、目を光らせて用心して生きていくのです。
似たように臨戦態勢で、日常の業務をこなしていた人々が聖書の中に出て来ます。ネヘミヤ記でエルサレムの城壁を再建しているユダヤ人たちです。城壁の修復がはかどると、周囲の者たちが陰謀を企てて、彼らに危害を加える脅しを行ないました。そこで、ネヘミヤは彼らを集めて励ましました。「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。(4:14)」そして、彼らの半分は武装して警備に当たり、さらに働いている者も、片手で仕事をし、もう一方の手は投げ槍を堅く握っていた、と書いてあります(4:17)。
私たちには主がついておられます。ですから安心です。恐れることはありません。けれども、それは私たちが怠惰になっていいことを意味しません。むしろ、霊的な武装をして日々の生活を送らなければいけないのです。主に仕えること、教会の奉仕は日曜日のことだけではありません。むしろ、ここで主がイスラエルの民を試されたように、水を飲むというような日常的なことをしているときにも、目を光らせていくという行為が必要なのです。
そこには何が必要でしょうか?一にも二にも「祈り」です。パウロは自分自身のそばに、いつもローマ兵がいました。獄中書簡と呼ばれている彼の手紙の一つがエペソ人への手紙です。彼は自費で支払った家にいましたが、鎖につながれていました。ローマ兵がいつもいました。それで彼は彼らの武具を使いながら、霊の戦いに備えることを教えました。腰には真理の帯を締めなさい、正義の胸当てを着けなさい、救いを鎧としなさい。平和の福音の備えを履き物とし、信仰の大盾を取りなさい。そして、御霊の剣である神のことばを受け取りなさい、と言いました。そして、最後のまとめとしてこう言っています。「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ6:18)」祈りが最大の武器ですが、そのためには絶えず目を覚ましていなさい、と言っています。そして、他の聖徒たちのために忍耐の限りを尽くして祈りなさい、と命じています。
そして、今言及しましたように、私たちには真理という帯が必要です。そのためには御言葉の真理を知る必要があります。しかもそれが、私たちの生活のど真ん中になければいけないのです。教会の中だけではありません。そして正義の胸当てです。自分の義が、自分の行ないの義ではなく、キリストを信じる信仰によって神から与えられる義であることを心に留めなければいけません。そして救いの鎧です。みなさんは、救われているという確信は持っているでしょうか?罪から、地獄から、死から救われているという確信は持っているでしょうか?また福音を伝えているでしょうか?そして何よりも、信仰を働かせていますか?それが悪霊どもの火の矢を打ち消す大盾になります。そして御言葉を、積極的に用いているでしょうか?覚えるだけではだめなのです。運用していくのです。そしてこれらを、日曜日だけではなく日頃の生活の中で適用していくのです。
本当は目を覚ましていなければいけないのに、眠っていた人が弟子たちの中でいました。ペテロを始めとするイエス様の弟子たちです。ゲッセマネの園でイエス様は三人の弟子に、「目をさまして祈っていなさい。心は燃えていても、肉は弱いのです。」と言われました。ところがみな眠りこけてしまいました。イエス様ご自身でさえ、ご自分の肉体を罪のためのいけにえに捧げるということを、血のしたたるような祈りを経なければ耐えることができなかったのに、ペテロたちは眠ってしまったのです。そのため、イエスを捕える者たちがやって来たときに、ペテロは剣をもって立ち向かおうとし、「命を捨ててもあなたに従います。」と言ったのに、数時間後には下女の言葉一言で、イエス様を否みました。
それで主は、ギデオン軍を三百人まで縮小しました。けれども、その三百人は恐れ知らずの、けれどもギデオンの指示によく聞き従った、よく整えられた者たちでした。主は、同じように私たちに余計なものを減らす時があります。これまで頼りにしていたもの、頼りにしていた人など、主ご自身ではないものを取られることがあります。そして私たちのうちにある、主から来たものではないもの、つまり恐れや霊的怠慢を取り除かれます。私たちに何かが取られるときに、その時にこそ最も大切なものかが何かを悟ることができるのです。