士師記9−12章 「権威をさげすむ人々」

アウトライン

1A 権威への反逆 9
   1B ヨタムの呪い 1−21
   2B 呪いの実現 22−57
2A さらなる偶像礼拝 10
   1B その後の士師たち 1−5
   2B 偶像をやめられない民 6−18
3A 世捨て人エフタ 11−12
   1B アモン人からの救い 11
      1C 長老による任命 1−11
      2C アモン人への外交 12−28
      3C 愚かな誓い 29−40
   2B 内紛 12
      1C エフライムの反発 1−7
      2C その後の士師 8−15

本文

 士師記9章を開いてください。今日は一気に、9章から12章まで進みたいと思います。

1A 権威への反逆 9
1B ヨタムの呪い 1−21

9:1 さて、エルバアルの子アビメレクは、シェケムにいる自分の母の身内の者たちのところに行き、彼らと母の一族の氏族全員に告げて言った。9:2 「どうかシェケムのすべての者に、よく言って聞かせてください。エルバアルの息子七十人がみなで、あなたがたを治めるのと、ただひとりがあなたがたを治めるのと、あなたがたにとって、どちらがよいか。私があなたがたの骨肉であることを思い起こしてください。」9:3 アビメレクの母の身内の者たちが、彼に代わって、これらのことをみな、シェケムのすべての者に言って聞かせたとき、彼らの心はアビメレクに傾いた。彼らは「彼は私たちの身内の者だ。」と思ったからである。

 ギデオン死後の物語です。ギデオンが息子を七十人も持ち、多くの妻がいたことを私たちは先週読みました。けれども、シェケムにおいて妻ではなくそばめによる子が一人いました、「アビメレク」です。シェケムという町を思い出してください、ヨシュアたちがエリコとアイを陥落させた後に、そこに石の板に律法を書き記し、ゲルジム山から神の祝福を、エバル山から神の呪いを宣言しました。

 けれども、シェケムは元々カナン人の町でした。かつて族長ヤコブが、一時そこに滞在して、そこで娘ディナがそこの長ハモンの息子に陵辱されたことを思い出してください。ヨシュア後のイスラエルは、そこにいるカナン人を追い出していなかったので、そこにはカナン人が住んでいたのです。そしてギデオンの息子たちがイスラエル人であるのに対して、母がカナン人でシェケムの者である私が治めるほうが良いではないか、とそそのかしたのです。

9:4 彼らはバアル・ベリテの宮から銀七十シェケルを取り出して彼に与えた。アビメレクはそれで、ごろつきの、ずうずうしい者たちを雇った。彼らはアビメレクのあとについた。9:5 それから、アビメレクはオフラにある彼の父の家に行って、自分の兄弟であるエルバアルの息子たち七十人を一つの石の上で殺した。しかし、エルバアルの末子ヨタムは隠れていたので生き残った。

 シェケムの者たちは、アビメレクがギデオンの息子たちを虐殺するためのごろつきたちを雇うために、お金を渡しました。けれどもここに神の介入があります。七十人の息子の他に、実は末子ヨタムがいました。

9:6 それで、シェケムの者とベテ・ミロの者はみな集まり、出かけて行って、シェケムにある石の柱のそばの樫の木のところで、アビメレクを王とした。9:7 このことがヨタムに告げられたとき、彼は行って、ゲリジム山の頂上に立ち、声を張り上げ、彼らに叫んで言った。「シェケムの者たち。私に聞け。そうすれば神はあなたがたに聞いてくださろう。

 「ベテ・ミロ」はシェケムの高台にあるところで、貴族が住んでいた地区でした。そして、ヨタムが叫んだ「ゲリジム山の頂上」からはシェケムの町が一望できます。そこから声を張り上げると、エバル山にまで響き渡ります。

9:8 木々が自分たちの王を立てて油をそそごうと出かけた。彼らはオリーブの木に言った。『私たちの王となってください。』9:9 すると、オリーブの木は彼らに言った。『私は神と人とをあがめるために使われる私の油を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』9:10 ついで、木々はいちじくの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』9:11 しかし、いちじくの木は彼らに言った。『私は、私の甘みと私の良い実を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』9:12 それから、木々はぶどうの木に言った。『来て、私たちの王となってください。』9:13 しかし、ぶどうの木は彼らに言った。『私は、神と人とを喜ばせる私の新しいぶどう酒を捨て置いて、木々の上にそよぐために出かけなければならないだろうか。』9:14 そこで、すべての木がいばらに言った。『来て、私たちの王となってください。』9:15 すると、いばらは木々に言った。『もしあなたがたがまことをもって私に油をそそぎ、あなたがたの王とするなら、来て、私の陰に身を避けよ。そうでなければ、いばらから火が出て、レバノンの杉の木を焼き尽くそう。』

 この喩えにある木々はもちろん、シェケムの住民です。彼らは、自分たちのために王になる人を願っていました。けれども、オリーブの木は自分から出てくる油、すなわち神の幕屋に用いられる燭台の油のために用いられているので、彼らを治めることはできません。同じように、いちじくの木も良い実をもたらすのに、ただ木々の上のそよぐために用いられることを好みませんでした。ぶどうの木もそうです。神への注ぎの供え物として、また人々を喜ばすものとして用いられるべきなのに、どうしてそよぐためだけに用いられなければいけないのか、と言っています。そしてシェケムが願った、「これは良い」と思った王が現れました。けれども、木々を覆うことなど何もできない「いばら」です。そして、かつシェケムの者たち自身を焼き尽くし、また自分自身も焼き尽くすために用いられることになります。

 シェケムの者たちは、王を求めているようで、結局、自分自身を求めていたのです。「あなたは、とにかく王になっていてくれれば良いのだ。」と言いながら、神に仕える器を雇おうとするのですが、その器が持っている役割や賜物を重んじることなく、自分たちの欲に仕えてもらえればよいと思っているのです。

9:16 今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。9:17 私の父は、あなたがたのために戦い、自分のいのちをかけて、あなたがたをミデヤン人の手から助け出したのだ。9:18 あなたがたは、きょう、私の父の家にそむいて立ち上がり、その息子たち七十人を、一つの石の上で殺し、女奴隷の子アビメレクをあなたがたの身内の者だからというので、シェケムの者たちの王として立てた。9:19 もしあなたがたが、きょう、エルバアルと、その家族とにまことと真心をもって行動したのなら、あなたがたはアビメレクを喜び、彼もまた、あなたがたを喜ぶがよい。9:20 そうでなかったなら、アビメレクから火が出て、シェケムとベテ・ミロの者たちを食い尽くし、シェケムとベテ・ミロの者たちから火が出て、アビメレクを食い尽くそう。」9:21 それから、ヨタムは逃げ去り、ベエルに行き、兄弟アビメレクを避けてそこに住んだ。

 アビメレクまたシェケムの者たちの問題は何でしょうか?まずアビメレクですが、彼は「自分自身が王になりたい。」という欲望を持っていました。しかし、聖書には一貫した神の原則があります。それは、「自分を高める者を神は低め、自分を低くする者を神は高く引き上げる。」ということです。また、王や指導者になるのかは神が決めることであり、自分自身が決めることではありません。自分自身を求めることで何を行ったでしょうか?「他者を排除」しました。アビメレクは、ギデオンの他の息子たちを虐殺することで自分が君臨できる場を確保したのです。

 そしてシェケムの者たちの問題は何でしょうか?彼らは、「神の立てた権威をないがしろにした」という罪を犯しています。ギデオンの息子たちがイスラエルを治め、またシェケムも治めていました。それを不満に思っていました。ギデオンの息子たちによる統治は完全でなかったことでしょう。けれども、その権威を排除することが解決の道になるのでしょうか?いいえ、権威を排除することは、つまり自分の肉に仕えることであり、さらなる不満が生じます。私たちの肉は決してその欲を満足させることはできません。

 神が与えた権威には必ず実績があります。ヨタムがこう言っています。「あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。」ギデオンがミデヤン人の手からイスラエルを解放しました。この手柄があってこその今の平和でした。神の権威は、その人がどれだけ労苦し働いたかに拠っています。教会の中にある権威も、牧者であるとか長老であるとか、執事というのは、その呼び名が大切なのではなく、むしろ「働き」です。牧会の働きをしている人が牧者であり、教会の諸事に仕えている人が執事であり、その働きに裏打ちされているのです。

 そして、そのように労苦している人を新約聖書では「尊敬しなさい」と命じています。「兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。(1テサロニケ5:12-13」私たちが互いに、主にあって仕えている他者の働きを忘れてはいけません。その働きのゆえに感謝することを忘れてはいけません。そのへりくだりの中に神の平和が私たちの間に支配するようになります。

2B 呪いの実現 22−57
9:22 アビメレクは三年間、イスラエルを支配した。9:23 神は、アビメレクとシェケムの者たちの間に悪霊を送ったので、シェケムの者たちはアビメレクを裏切った。9:24 そのためエルバアルの七十人の息子たちへの暴虐が再現し、彼らの血が、彼らを殺した兄弟アビメレクと、アビメレクに加勢して彼の兄弟たちを殺したシェケムの者たちの上に臨んだ。

 神が悪霊を送った、とあります。これは言い換えれば、「神がご自分の守りを引き上げて、悪霊が働くままにされた。」ということになります。私たちが神の権威をないがしろにするときに、その結果はすぐに悪魔や悪霊がもたらす混乱であります。

9:25 シェケムの者たちは、山々の頂上に彼を待ち伏せる者たちを置いたので、彼らは道でそばを過ぎるすべての者を略奪した。やがて、このことがアビメレクに告げられた。9:26 エベデの子ガアルとその身内の者たちが来て、シェケムを通りかかったとき、シェケムの者たちは彼を信用した。9:27 そこで彼らは畑に出て行って、ぶどうを収穫して、踏んだ。そして祭りをし、自分たちの神の宮にはいって行って、飲み食いし、アビメレクをののしった。9:28 そのとき、エベデの子ガアルは言った。「アビメレクとは何者か。シェケムとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは。アビメレクはエルバアルの子、ゼブルはアビメレクの役人ではないか。シェケムの父ハモルの人々に仕えなさい。なぜわれわれはアビメレクに仕えなければならないのか。9:29 だれか、この民を私の手に与えてくれないものか。そうすれば私はアビメレクを追い出すのだが。」そして彼はアビメレクに言った。「おまえの軍勢をふやして、出て来い。」

 「ガアル」という生粋のシェケム人がいました。アビメレクは、ギデオンの息子に対して「私は母によってシェケム人の血を持っている身内だ」と言って受け入れられたのですが、ですから両親がどちらもシェケム人の者になびくのは当然のことです。

9:30 この町のつかさゼブルは、エベデの子ガアルの言ったことを聞いて、怒りを燃やし、9:31 トルマにいるアビメレクのところに使者を送って言わせた。「今、エベデの子ガアルとその身内の者たちがシェケムに来ています。今、彼らは町を、あなたにそむかせようとしています。9:32 今、あなたとあなたとともにいる民は、夜のうちに立って、野で待ち伏せなさい。9:33 朝早く、太陽が上るころ、町に突入しなさい。すると、ガアルと、彼とともにいる民は、あなたに向かって出て来るでしょう。あなたは好機をつかんで、彼らを攻撃することができます。」

 ゼブルはアビメレクの役人です。アビメレクはトルマというところにいて、シェケムの中には住んでいませんでした。そして、ガアルのしていることを告げ、彼らの動きを制圧する方法も伝えています。

9:34 そこでアビメレクと、彼とともにいた民はみな、夜のうちに立って、四隊に分かれてシェケムに向かって待ち伏せた。9:35 エベデの子ガアルが出て来て、町の門の入口に立ったとき、アビメレクと、彼とともにいた民は、待ち伏せしていた所から立ち上がった。9:36 ガアルはその民を見て、ゼブルに言った。「あれ、山々の頂から民が降りて来る。」すると、ゼブルは彼に言った。「あなたは、山々の影が人のように見えるのです。」9:37 ガアルはまた言った。「いや。人々がこの地の一番高い所から降りて来る。また一隊がメオヌニムの樫の木のほうから来る。」9:38 すると、ゼブルは彼に言った。「『アビメレクとは何者か。われわれが彼に仕えなければならないとは。』と言ったあなたの口は、いったいどこにあるのですか。あなたが見くびったのは、この民ではありませんか。さあ、今、出て行って、彼と戦いなさい。」9:39 そこで、ガアルはシェケムの者たちの先頭に立って出て行き、アビメレクと戦った。

 ゼブルはガアルの友人の装いをしていました。そして彼を鼓舞し、戦いなさいとそそのかしています。

9:40 アビメレクが彼を追ったので、ガアルは彼の前から逃げた。そして多くの者が刺し殺されて倒れ、門の入口にまで及んだ。9:41 アビメレクはアルマにとどまったが、ゼブルは、ガアルとその身内の者たちを追い払って、彼らをシェケムに住ませなかった。

 ガアルの一味をシェケムから追い出すのに成功しました。

9:42 翌日、民は、野に出かけて行って、アビメレクに告げた。9:43 そこで、アビメレクは自分の民を引き連れて、それを三隊に分け、野で待ち伏せた。すると、民が町から出て来るのが見えたので、彼らを襲って打った。9:44 アビメレクと、彼とともにいた一隊は突入して、町の門の入口に立った。一方、他の二隊は野にいたすべての者を襲って、打ち殺した。9:45 アビメレクはその日、一日中、町で戦い、この町を攻め取り、そのうちにいた民を殺し、町を破壊して、そこに塩をまいた。

 次の日は、シェケムの住民たちを虐殺しました。彼は身内の者たちであるにも関わらず、無慈悲極まりないです。「塩をまく」というのは、町が破壊されたことを示す動作です。

9:46 シェケムのやぐらの者たちはみな、これを聞いて、エル・ベリテの宮の地下室にはいって行った。9:47 シェケムのやぐらの者たちがみな集まったことがアビメレクに告げられたとき、9:48 アビメレクは、自分とともにいた民とツァルモン山に登って行った。アビメレクは手に斧を取って、木の枝を切り、これを持ち上げて、自分の肩に載せ、共にいる民に言った。「私がするのを見たとおりに、あなたがたも急いでそのとおりにしなさい。」9:49 それで民もまた、みなめいめい枝を切って、アビメレクについて行き、それを地下室の上に置き、火をつけて、地下室を焼いた。それでシェケムのやぐらの人たち、男女約一千人もみな死んだ。

 「エル・ベリテの宮」とありますから、偶像の宮だったのでしょう。神を祭るところだから、アビメレクも危害を加えないのではないかという期待があったかもしれません。けれども彼はまことの神だけでなく、偶像の神にも何ら敬意を持っていませんでした。

9:50 それから、アビメレクはテベツに行き、テベツに対して陣を敷き、これを攻め取った。9:51 この町の中に、一つ、堅固なやぐらがあった。すべての男、女、この町の者たちはみなそこへ逃げて、立てこもり、やぐらの屋根に上った。9:52 そこで、アビメレクはやぐらのところまで行って、これと戦い、やぐらの戸に近づいて、それを火で焼こうとした。9:53 そのとき、ひとりの女がアビメレクの頭にひき臼の上石を投げつけて、彼の頭蓋骨を砕いた。9:54 アビメレクは急いで道具持ちの若者を呼んで言った。「おまえの剣を抜いて、私を殺してくれ。女が殺したのだと私のことを人が言わないように。」それで、若者が彼を刺し通したので、彼は死んだ。

 前回話したように、どのように自分が死ぬかは面子の問題であり、非常に重要視していました。女によって殺されたことはあまりにも不名誉だと思いました。けれどもこの話は後世にも伝わり、ダビデが、ウリヤを敵の城壁の前にまで連れて行かせたときに、このアビメレク事件に言及しています(2サムエル11:21)。

9:55 イスラエル人はアビメレクが死んだのを見たとき、ひとりひとり自分のところへ帰った。9:56 こうして神は、アビメレクが彼の兄弟七十人を殺して、その父に行なった悪を、彼に報いられた。9:57 神はシェケムの人々のすべての悪を彼らの頭上に報いられた。こうしてエルバアルの子ヨタムののろいが彼らに実現した。

 ヨタムの呪いは神から来たものでした。すべてその通りに実現しました。

2A さらなる偶像礼拝 10
1B その後の士師たち 1−5
10:1 さて、アビメレクの後、イスラエルを救うために、イッサカル人、ドドの子プワの息子トラが立ち上がった。彼はエフライムの山地にあるシャミルに住んだ。10:2 彼は、二十三年間、イスラエルをさばいて後、死んでシャミルに葬られた。

 アビメレクは真性な士師ではありませんでした。神から選ばれたのではなく自称士師でありました。けれども神は、この混乱を整理するかのようにイッサカル人のトラを士師として起こしてくださいました。

10:3 彼の後にギルアデ人ヤイルが立ち上がり、二十二年間、イスラエルをさばいた。10:4 彼には三十人の息子がいて、三十頭のろばに乗り、三十の町を持っていたが、それは今日まで、ハボテ・ヤイルと呼ばれ、ギルアデの地にある。10:5 ヤイルは死んでカモンに葬られた。

 トラの次は「ギルアデ人ヤイル」です。ギルアデはヨルダン川の東側、ガド族とマナセ半部族の割り当て地のところです。彼は、ギデオンと同じように多くの息子がいました。そしてそれぞれの息子がろばに乗っています。これはそれぞれに統治の権限が与えられていたことを表し、事実、それぞれが町を治めて、全体で三十の町を治めていました。おそらく、この時期にイスラエルは平穏だけでなく、ちょっとした繁栄も享受していたことでしょう。

2B 偶像をやめられない民 6−18
10:6 またイスラエル人は、主の目の前に重ねて悪を行ない、バアルや、アシュタロテ、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アモン人の神々、ペリシテ人の神々に仕えた。こうして彼らは主を捨て、主に仕えなかった。

 彼らは再び偶像礼拝に陥りました。さらにひどくなっています。カナン人やエモリ人のバアルやアシュタロテにとどまらず、その周囲の民の神々をも慕い始めました。偶像あるいは私たちの欲望はとどまることを知りません。自分の周囲にあるものに飽き足らないと、もっと遠くにあるものを求めます。

10:7 主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡された。10:8 それで彼らはその年、イスラエル人を打ち砕き、苦しめた。彼らはヨルダン川の向こう側のギルアデにあるエモリ人の地にいたイスラエル人をみな、十八年の間、苦しめた。10:9 アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。

 南西からはペリシテ人が、そして東北からはアモン人が攻めてきました。ペリシテ人については、13章以降のサムソンの時代に出てきますが、今はアモン人の攻撃に注目しています。アモン人はギルアデの東にいる民です。ギルアデはもちろんのこと、ヨルダン川を渡り内地にも入りました。

10:10 そのとき、イスラエル人は主に叫んで言った。「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです。」10:11 すると、主はイスラエル人に仰せられた。「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。10:12 シドン人、アマレク人、マオン人が、あなたがたをしいたげたが、あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。10:13 しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。10:14 行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」

 神は、ある意味で見限りを始めています。彼らの主に対する叫びには、ある重要なことが抜けています。それは、「主に対する、また主が行なってくださった救いについての感謝がない。」ということです。苦しみの中に入っている時は、そこから抜け出したい一心で主に叫ぶのですが、根本的に、主が彼らを周囲の敵から救い出してくださったということを思い出すことをせず、主が与えられた恵みを当たり前のように受けて、それで周囲の偶像に走ったのです。「彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、・・」とローマ121節にあります。先に出てきた士師ヤイルによって回復された安息を、その士師が骨折って治めていたことも考えることなく、感謝していなかったことも問題でしょう。

 それで、自分たちが仕えていた外国の神々の民によって彼らは虐げられました。偶像というのは、自分がそれを楽しんでいると思いきや、同じ偶像が自分を虐げ、苦しめていきます。自分が楽しんでいると思っている罪が、自分を苦しめるのです。

 さらに主は、「その神々に叫び、彼らが救うが良い。」と言われていますが、偶像はその瞬間は楽しみを与えますが、いざというときには何ら助けにはなりません。偶像は一人ひとり違います。自分の頼りにしているある人物かもしれません。ある物事かもしれません。けれども、本当に大事な時には助けにはならないのです。

10:15 すると、イスラエル人は主に言った。「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください。」10:16 彼らが自分たちのうちから外国の神々を取り去って、主に仕えたので、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなった。

 主は憐れみに満ちたお方です。滅ぼすことを悔やまれる方です。主はご自分の民の苦しみと一体になっておられます。だから、彼らがまた悪を行なうであろうことが分かっていたとしても、今の彼らの苦境を見て忍びなくなられたのです。「しかし、あわれみ深い神は、彼らの咎を赦して、滅ぼさず、幾度も怒りを押え、憤りのすべてをかき立てられはしなかった。(詩篇78:38」そこで主は、アモン人と戦うためにギルアデ人から士師を起こされます。

10:17 このころ、アモン人が呼び集められ、ギルアデに陣を敷いた。一方、イスラエル人も集まって、ミツパに陣を敷いた。10:18 ギルアデの民や、その首長たちは互いに言った。「アモン人と戦いを始める者はだれか。その者がギルアデのすべての住民のかしらとなるのだ。」

 だれも戦いを率いる人がいませんでした。かしらがいない、指導者がいないというのは、しばしば神の裁きの現れであり、その民の霊的状態が低下していることを示しています。主が働かれる時にはそのしもべを神は起こしてくださり、御心を行なわせます。そしてその民に祝福を与えます。

3A 世捨て人エフタ 11−12
1B アモン人からの救い 11
1C 長老による任命 1−11
11:1 さて、ギルアデ人エフタは勇士であったが、彼は遊女の子であった。エフタの父親はギルアデであった。11:2 ギルアデの妻も、男の子たちを産んだ。この妻の子たちが成長したとき、彼らはエフタを追い出して、彼に言った。「あなたはほかの女の子だから、私たちの父の家を受け継いではいけない。」11:3 そこで、エフタは兄弟たちのところから逃げて行き、トブの地に住んだ。すると、エフタのところに、ごろつきが集まって来て、彼といっしょに出歩いた。

 エフタは、アビメレクと同じように妻ではない女から生まれた人でした。けれどもアビメレクとは異なり、他の家族から受け入れられず追い出されていました。

11:4 それからしばらくたって、アモン人がイスラエルに戦争をしかけてきた。11:5 アモン人がイスラエルに戦争をしかけてきたとき、ギルアデの長老たちはトブの地からエフタを連れて来ようと出かけて行き、11:6 エフタに言った。「来て、私たちの首領になってください。そしてアモン人と戦いましょう。」11:7 エフタはギルアデの長老たちに言った。「あなたがたは私を憎んで、私の父の家から追い出したではありませんか。あなたがたが苦しみに会ったからといって、今なぜ私のところにやって来るのですか。」11:8 すると、ギルアデの長老たちはエフタに言った。「だからこそ、私たちは、今、あなたのところに戻って来たのです。あなたが私たちといっしょに行き、アモン人と戦ってくださるなら、あなたは、私たちギルアデの住民全体のかしらになるのです。」11:9 エフタはギルアデの長老たちに言った。「もしあなたがたが、私を連れ戻して、アモン人と戦わせ、主が彼らを私に渡してくださったら、私はあなたがたのかしらになりましょう。」11:10 ギルアデの長老たちはエフタに言った。「主が私たちの間の証人となられます。私たちは必ずあなたの言われるとおりにします。」11:11 エフタがギルアデの長老たちといっしょに行き、民が彼を自分たちのかしらとし、首領としたとき、エフタは自分が言ったことをみな、ミツパで主の前に告げた。

 エフタはここで、「かしらになることができる」という高ぶりによってこの役を引き受けたのではありません。主がイスラエルを救うのに、かしらを必要としていることを感じて、それでこの働きをするという導きを感じて、引き受けました。なぜ分かるかと言いますと、ヘブル書11章には信仰の勇士としてエフタの名が挙がっているからです。アビメレクと同じような状況、いやもっと悪い状況であったにも関わらず、彼は自分を引き上げることをせず、他の人々を通して神によって引き上げられました。兄弟によって退けられたという傷も乗り越えて、主に命じられていることを行なったのです。

2C アモン人への外交 12−28
11:12 それから、エフタはアモン人の王に使者たちを送って、言った。「あなたは私と、どういうかかわりがあって、私のところに攻めて来て、この国と戦おうとするのか。」

 エフタは勇士でありましたが、霊的素質も持っています。モーセはイスラエルの民に、「町を攻略しようと、あなたがその町に近づいた時には、まず降伏を勧めなさい。(申命20:10」と言いました。ここは町の攻略ではないですが、けれども戦う前に外交の手段によっての解決を求めたのです。

11:13 すると、アモン人の王はエフタの使者たちに答えた。「イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの私の国を取ったからだ。だから、今、これらの地を穏やかに返してくれ。」

 アルノン川は死海の東に流れている川であり、ヤボク川は死海とガリラヤ湖の真ん中あたりのヨルダン川に流れ込んでいます。まさにそこがギルアデです。

11:14 そこで、エフタは再びアモン人の王に使者たちを送って、11:15 彼に、エフタはこう言うと言わせた。「イスラエルはモアブの地も、アモン人の地も取らなかった。11:16 イスラエルは、エジプトから上って来たとき、荒野を通って葦の海まで行き、それからカデシュに来た。11:17 そこで、イスラエルはエドムの王に使者たちを送って、言った。『どうぞ、あなたの国を通らせてください。』ところが、エドムの王は聞き入れなかった。イスラエルはモアブの王にも使者たちを送ったが、彼も好まなかった。それでイスラエルはカデシュにとどまった。11:18 それから、彼らは荒野を行き、エドムの地とモアブの地を回って、モアブの地の東に来て、アルノン川の向こう側に宿営した。しかし、モアブの領土にははいらなかった。アルノンはモアブの領土だったから。11:19 そこでイスラエルは、ヘシュボンの王で、エモリ人の王シホンに使者たちを送って、彼に言った。『どうぞ、あなたの国を通らせて、私の目的地に行かせてください。』11:20 シホンはイスラエルを信用せず、その領土を通らせなかったばかりか、シホンは民をみな集めてヤハツに陣を敷き、イスラエルと戦った。11:21 しかし、イスラエルの神、主が、シホンとそのすべての民をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは彼らを打った。こうしてイスラエルはその地方に住んでいたエモリ人の全地を占領した。11:22 こうして彼らは、アルノン川からヤボク川までと、荒野からヨルダン川までのエモリ人の全領土を占領した。

 私たちの聖書通読の旅で民数記の後半を学んだ方は、ここのエフタの歴史説明は極めて正確であることを知ることでしょう。アモン人は、アルノン川からヤボク川までは自分たちのところだと言っていますが、いいえイスラエルの民はエモリ人から取ったのです。しかも、エモリ人に対してそこをただ通過するだけなのだと言って戦うつもりはなかったけれども、彼らが全面戦争をしかけてきました。その防衛戦で主が勝利を与えてくださり、イスラエルが占領したのです。

 興味深いことですが、近現代のイスラエル史でもまったく同じことが起こっています。多くの人がパレスチナ人を何千年も住んでいた先住民だと思っています。いいえ、彼らは単なるアラブ人です。ヨシュアの時からここに住み、エルサレムはダビデの時からユダヤ人のものとなっています。そして、イスラエルが一方的にあの土地を攻め取り奪ったと言いますが、イスラエルは国連の分割案を受け入れ独立したのですが、一切ユダヤ人の土地を認めないアラブが一斉に攻撃をしかけてきたのです。それで防衛してイスラエルが占領したのが、今の土地です。どんどん、どんどん歴史を修正していき、あたかも事実であるかのように話しているのは昔も今も変わりません。

11:23 今、イスラエルの神、主は、ご自分の民イスラエルの前からエモリ人を追い払われた。それをあなたは占領しようとしている。11:24 あなたは、あなたの神ケモシュがあなたに占領させようとする地を占領しないのか。私たちは、私たちの神、主が、私たちの前から追い払ってくださる土地をみな占領するのだ。

 当時の戦いは、神々の戦いです。外国と戦った勝ったのは、自分の国民の神が、相手側の国の神に打ち勝ったからだ、と考えます。ですから、イスラエルがその神の命じられたところを土地を占領するのはどこが悪いのか?と言っています。

11:25 今、あなたはモアブの王ツィポルの子バラクよりもまさっているのか。バラクは、イスラエルと争ったことがあるのか。彼らと戦ったことがあるのか。

 モアブのバラク王でさえ、イスラエルと戦うのを恐れて、呪い師バラムを雇いました。

11:26 イスラエルが、ヘシュボンとそれに属する村落、アロエルとそれに属する村落、アルノン川の川岸のすべての町々に、三百年間住んでいたのに、なぜあなたがたは、その期間中に、それを取り戻さなかったのか。11:27 私はあなたに罪を犯してはいないのに、あなたは私に戦いをいどんで、私に害を加えようとしている。審判者である主が、きょう、イスラエル人とアモン人との間をさばいてくださるように。」11:28 アモン人の王はエフタが彼に送ったことばを聞き入れなかった。

 最後に、三百年も住んでいたのにどうして突然、自分たちの土地であると主張するのか?と言っています。エフタのいうことは、すべて道理にかなっていますが、結局アモン人は戦いたかったのです。この話を聞き入れませんでした。

3C 愚かな誓い 29−40
11:29 主の霊がエフタの上に下ったとき、彼はギルアデとマナセを通り、ついで、ギルアデのミツパを通って、ギルアデのミツパからアモン人のところへ進んで行った。11:30 エフタは主に誓願を立てて言った。「もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、11:31 私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。」

 エフタは、ミツパにおいても、戦いに勝ったらイスラエルのかしらになることを主の前に話しました。そしてここでは戦いに出て行くので主の前に誓いを立てました。けれども、これがとてつもない悲劇に終わります。

11:32 こうして、エフタはアモン人のところに進んで行き、彼らと戦った。主は彼らをエフタの手に渡された。11:33 ついでエフタは、アロエルからミニテに至るまでの二十の町を、またアベル・ケラミムに至るまでを、非常に激しく打った。こうして、アモン人はイスラエル人に屈服した。11:34 エフタが、ミツパの自分の家に来たとき、なんと、自分の娘が、タンバリンを鳴らし、踊りながら迎えに出て来ているではないか。彼女はひとり子であって、エフタには彼女のほかに、男の子も女の子もなかった。11:35 エフタは彼女を見るや、自分の着物を引き裂いて言った。「ああ、娘よ。あなたはほんとうに、私を打ちのめしてしまった。あなたは私を苦しめる者となった。私は主に向かって口を開いたのだから、もう取り消すことはできないのだ。」11:36 すると、娘は父に言った。「お父さま。あなたは主に対して口を開かれたのです。お口に出されたとおりのことを私にしてください。主があなたのために、あなたの敵アモン人に復讐なさったのですから。」11:37 そして、父に言った。「このことを私にさせてください。私に二か月のご猶予を下さい。私は山々をさまよい歩き、私が処女であることを私の友だちと泣き悲しみたいのです。」11:38 エフタは、「行きなさい。」と言って、娘を二か月の間、出してやったので、彼女は友だちといっしょに行き、山々の上で自分の処女であることを泣き悲しんだ。11:39 二か月の終わりに、娘は父のところに帰って来たので、父は誓った誓願どおりに彼女に行なった。彼女はついに男を知らなかった。こうしてイスラエルでは、11:40 毎年、イスラエルの娘たちは出て行って、年に四日間、ギルアデ人エフタの娘のために嘆きの歌を歌うことがしきたりとなった。

 この箇所を読むたびに、多くの人が困惑します。「どうしてエフタは、どうしてそんな変てこな、早まった誓願を立てたのか?」ということと、「本当に娘を全焼のいけにえとして捧げたのか?」ということです。私自身非常に困惑しますが、けれどもこれまでも、主を愛している者が実に恐ろしい発言や行動を取っていた場面がありました。ロトを思い出してください。彼は主を信じていましたが、ソドムの男たちが「そのやつらを知りたいのだ。」と強姦しようとしにきたときに、二人の旅人を守るために、なんと自分の未婚の娘二人をなぶりものにしてくださいと提供しようとしたのです(創世19:6)。心は主に向いているのですが、自分も知らぬうちに、神の知識に著しく反する文化や考えを受け入れてしまっている、ということはあり得るのです。

 ギルアデは、しばらくの間アモン人に虐げられていました。アモン人は、モアブ人と同じくケモシュという偶像を拝んでいました。快楽の神です。両腕があり、その上に誕生したばかりの赤子を載せて、その像を火で燃やして、太鼓を叩きながらその赤子をケモシュに捧げる行為を行っていました。また、列王記第二には、モアブの王がなんと自分の長男をいけにえにささげる場面も出て来ます。人身犠牲は彼らの間ではよく行なわれていたのです。

 エフタは主を愛していました。先ほどイスラエルの歴史を正確に説明したように、律法もかなり知っています。けれども、律法には人間をささげることについては厳に禁じられています。それで人間を主に捧げるときは、シェケルという貨幣によって贖うことができるというものがあります。初子の時は、羊を代わりにささげることによって贖います。けれども、彼はその知識を持っておらず、周囲の慣習の影響を受けて、捧げてしまったのです。しかも、本人も娘も子孫が与えられないことを嘆いているだけで、娘が捧げられることについては甘んじて受けているのも、私たちの目からすると異様です。

 私たちはここから何を学び取るべきでしょうか?パウロが、ユダヤ教徒についてこう述べています。「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。(ローマ10:2-3」熱心であったが神の知識が足りなかった、ということです。そしてイエス様ご自身も弟子たちに、「事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。(ヨハネ16:2」と言われました。神についての知識が足りないと、熱心になればなるほど、かえって神に真っ向から反対することを行ってしまうこともあるのです。

 どうすれば、そうなりそうになるときにブレーキをかけることができるでしょうか?ローマ123節です。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(ローマ12:3」神の恵みが与えられているかどうか?であります。神の恵みがあるところにのみ、神から与えられた、信仰の量りに応じて与えられた賜物があります。神の恵みを忘れて自分が何とかするのだと考えるときに、慎み深さがなくなってしまいます。恵みの中で、私たちはへりくだることができます。

2B 内紛 12
1C エフライムの反発 1−7
12:1 エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。「なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。」12:2 そこでエフタは彼らに言った。「かつて、私と私の民とがアモン人と激しく争ったとき、私はあなたがたを呼び集めたが、あなたがたは私を彼らの手から救ってくれなかった。12:3 あなたがたが私を救ってくれないことがわかったので、私は自分のいのちをかけてアモン人のところへ進んで行った。そのとき、主は彼らを私の手に渡された。なぜ、あなたがたは、きょう、私のところに上って来て、私と戦おうとするのか。」

 覚えていますか、ギデオンがミデヤン人に突撃した後に、彼はエフライムに援軍を願いました。そしてエフライムが非常に怒ってギデオンに、なぜ自分たちを初めに呼ばなかったのか?と言いました。ギデオンは柔らかく答えて、エフライムを立てて、それで彼らの憤りは静まりましたが、ここではその余裕さえもありません。エフライムはなんと、「あなたの家とあなたもろとも火で焼き払う」と言っています。まるで、エフライムは自分が全イスラエルを仕切っているという態度ですね。極めて高慢です。

 エフライムがいかに高慢になっているか、エフタの反論によく表れています。エフタはアモン人とかつて激しく戦ったことがあったようです。その時に援軍を呼んだのにエフライムは来ませんでした。エフライムの怒りがもし、ギルアデに援軍をかつて出しているような仲であれば、一理あったかもしれません。先ほど話したように、人に与えられる神の働きは、その人がどれだけその働きのために労しているかに拠っています。神は忠実な者に、ご自分のことをお任せになります。けれども、そのような奉仕をせずに、要求ばかりしているのです。そして、エフデは孤軍で戦い、主が勝利を与えてくださったのです。主が行なわれた御業なのに、それをあたかも自分の既得権のように振舞っています。

12:4 そして、エフタはギルアデの人々をみな集めて、エフライムと戦った。ギルアデの人々はエフライムを打ち破った。これはエフライムが、「ギルアデ人よ。あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの逃亡者だ。」と言ったからである。

 ここに、エフライムの高慢が最もよく表れています。ギルアデは、ガド族、またマナセ半部族に、モーセがまだヨルダン川の向こう側にいるときに与えた割り当て地です。したがって、エフライムからの逃亡者ではありません。極めて差別的であり、事実に基づいていません。

12:5 ギルアデ人はさらに、エフライムに面するヨルダン川の渡し場を攻め取った。エフライムの逃亡者が、「渡らせてくれ。」と言うとき、ギルアデの人々はその者に、「あなたはエフライム人か。」と尋ね、その者が「そうではない。」と答えると、12:6 その者に、「『シボレテ』と言え。」と言い、その者が「スィボレテ」と言って、正しく発音できないと、その者をつかまえて、ヨルダン川の渡し場で殺した。そのとき、四万二千人のエフライム人が倒れた。12:7 こうして、エフタはイスラエルを六年間、さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。

 訛りを使ってエフライム人かそうでないかを区別しました。地方によって、また国によって必ず発音できないものがありますね。韓国の人に、英語の「イエス」様の名前"Jesus"を言わせたら、「ジージャス」になります。Zの発音がないためにそうなるのです。

  いずれにしても、同じイスラエルの民なのに戦争をして、四万二千人も死んでしまいました。これもまた霊的状態が低下していることの表れです。同じキリスト者が争い、ねたみ、互いに滅ぼすことは肉の現れです。

2C その後の士師 8−15
12:8 彼の後に、ベツレヘムの出のイブツァンがイスラエルをさばいた。12:9 彼には三十人の息子がいた。また彼は三十人の娘を自分の氏族以外の者にとつがせ、自分の息子たちのために、よそから三十人の娘たちをめとった。彼は七年間、イスラエルをさばいた。12:10 イブツァンは死んで、ベツレヘムに葬られた。

 エフタの後の士師です。イブツァンといいますが、前に出てきた士師と同じくたくさんの息子と娘がいます。しかも、他の氏族との婚姻を推進していました。自分の統治範囲を広げるためだったのでしょう。

12:11 彼の後に、ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間、イスラエルをさばいた。12:12 ゼブルン人エロンは死んで、ゼブルンの地のアヤロンに葬られた。12:13 彼の後に、ピルアトン人ヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。12:14 彼には四十人の息子と三十人の孫がいて、七十頭のろばに乗っていた。彼は八年間、イスラエルをさばいた。12:15 ピルアトン人ヒレルの子アブドンは死んで、アマレク人の山地にあるエフライムの地のピルアトンに葬られた。

 イブツァンの後はエロン、そしてエロンの後はアブドンです。アブドンも同じくたくさんの息子、また孫がいて、孫にも一頭ずつろばがあてがわれました。つまり、やはり王のように、自分の家族を通して勢力を伸ばしていました。ギデオンの時からそうですが、次第に王のような存在をイスラエルの民が欲していることが分かります。主のみが王であるところから、サムエル記第一に入って、はっきりと周囲の諸国と同じように王をくださいと明言するところにまで発展します。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME