1A 亜麻布の帯 13
1B 大きな誇り 1−14
1C 神に結び付けられた民 1−11
2C 御怒りの酒 12−14
2B 虜になる群れ 15−27
1C やがて来る闇 15−17
2C 落ちる冠 18−21
3C 裾まくり 22−27
2A 日照り 14−15
1B 喪に服す民 14
1C 水の枯渇 1−12
1D 嘆きと叫び 1−6
2D 苦難の時の救い主 7−9
3D さすらうことを愛す民 10−12
2C 偽預言者 13−22
1D 剣と飢饉 13−18
2D 雨を降らせる方 19−22
2B 滅ぼされる民 15
1C 神による追い出し 1−9
2C 引き裂かれる思い 10−21
1D 迫害 10−14
2D 癒えない傷 15−21
本文
エレミヤ書13章を開いてください、今日は13章から15章までを学びます。ここでのメッセージ題は「主の前に立つ預言者」です。
1A 亜麻布の帯 13
1B 大きな誇り 1−14
1C 神に結び付けられた民 1−11
13:1 主は私にこう仰せられた。「行って、亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水に浸してはならない。」
ここからまた新しいエレミヤの預言です。前回と前々回は、神殿の敷地内における預言を読みました。今回は、極めて興味深い預言の方法を読みます。言葉ではなくデモンストレーション、実演です。路傍でパントマイムをするがごとく、ユダの人々の前で亜麻布の帯を締めます。人々が、「なんだ、こりゃ?」と不思議がらせるような行動です。
エレミヤの少し後の、バビロンに捕え移された預言者エゼキエルも、主から同じように実演をしなさいと命じられています。左脇を下にして390日間横たわり、終わったら右脇を下にして40日間横たわります。そして人の糞でパンを焼いて食べなさいと主は命じられます。エゼキエルは人の糞はさすがに堪えたらしく、家畜の糞にしてくださいと主に頼みましたが、この奇妙な行動を見て、イスラエルの民は興味を引くわけです。それから、主が語られていることを告げます。(エゼキエル4−5章参照)
普通に話したのでは耳を傾けない民に対して、主はデモンストレーション、実演を通して何とかご自分の言葉を聞いてもらおうと努力しておられるのです。
イエス様は、宣教の途中で、同じような理由で、例えで語り始められました。種まきの例えなどがそうです。その理由を、こう言われています。「わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。(マタイ13:13)」そのまま真理を語ったのでは聞かれないから、例えを語ることによって注意を引寄せようとされたのでした。
13:2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。
当時の服は、一枚の布で出来ていました。それで帯を腰に巻いたのですが、男性は仕事など体を動かす時は、その布をもっと上にあげて帯で締めましたが、今、主が行ないなさいとエレミヤに命じられているのは、このことです。
そして1節に「水に浸してはならない」とありますが、水に浸せばもっと早く亜麻布の帯は柔らかくなります。けれども、主は、帯を新品のままにしておきたかったようです。水に浸ければ、それだけ腐敗も早くなります。
13:3 すると、私に次のような主のことばがあった。13:4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、すぐ、ユーフラテス川へ行き、それをそこの岩の割れ目に隠せ。」13:5 そこで、主が私に命じられたように、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。
ユーフラテス川は、今エレミヤがいるエルサレムから約600キロ離れています。かなり長い道のりです。ある人は、実際のユーフラテス川に行ったのではなく、アナトテから5キロ北東に行ったところのパラの町(ヨシュア18:23)に行ったのではないか、と言います。ユーフラテスのヘブル語は「ペラト(פְּרָת)」なので発音が似ているというのがあります。
いずれにしても、ユーフラテス川のところまで行った、あるいはユーフラテス川を指しているところまで行ったというのが大事です。
13:6 多くの日を経て、主は私に仰せられた。「すぐ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」
かなりの日数が経ってから、取りに行かせています。
13:7 私はユーフラテス川に行って、掘り、隠した所から帯を取り出したが、なんと、その帯は腐って、何の役にも立たなくなっていた。13:8 すると、私に次のような主のことばがあった。13:9 「主はこう仰せられる。わたしはユダとエルサレムの大きな誇りを腐らせる。
「大きな誇り」というのは、イスラエルに神が与えられていた特権です。契約の民であること、神が臨在しておられること、礼拝があり、律法があること。そして国としても周囲の国々を従える強く、大きなものとなりました。ダビデとソロモンの時代のことです。
けれども彼らはバビロンに捕え移されます。帯が腐るというのはこのことで、ユーフラテス河畔にバビロンの町がありますが、そこまで連れて行かれるということです。そこでユダとエルサレムが誇っていた霊的、国民的尊厳が損なわれることを意味していました。
13:10 わたしのことばを聞こうともせず、自分たちのかたくなな心のままに歩み、ほかの神々に従って、それに仕え、それを拝むこの悪い民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。
帯には帯の機能があって、その機能が果たされなければただ捨てられるだけです。イスラエルがそうなってしまう、という警告ですが、キリスト者に対しても同じことを主は言われています。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13)」
13:11なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。・・主の御告げ。・・それは、彼らがわたしの民となり、名となり、栄誉となり、栄えとなるためだったのに、彼らがわたしに聞き従わなかったからだ。
すばらしい約束ですが、主はイスラエルとユダをご自分の腰に結びつけていたと言われます。そんなにも近くされていたのです。私たちキリスト者も同じですね、「それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえられた方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。(ローマ7:4)」キリストに結びつけられることによって、その死とよみがえりにも結びつけられました。そのため、聖霊の実を結ぶことができるようになったのです。
そしてイスラエルがそうであったように、キリスト者も神の栄光となりました。エペソ書1章6節に、「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:6)」とあります。私たちを見ると、神の恵みがいかにすぐれたものであるかを見ることができる、というものです。
けれども、そのような光栄を光栄としてのみ引きずって、肝心要の「神との結びつき」と置き去りにしてしまった、という悲劇がイスラエルとユダを襲ったのです。「形」だけを保っていて「中身」がなくなってしまった、という状態です。
大事なのは神との結びつきなのです。第一に、「主のことばに聞く」ことです。生きた神の声として聞くことです。第二に、「かたくなな心のままにしない」ということです。ヘブル人への手紙で、「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。(4:2)」とあります。聞いているけれども、自分の今までのやり方、考え方があるから、主が語られていることをはねつけてしまうのです。そうなってはいけない、と言われます。
2C 御怒りの酒 12−14
13:12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主は、こう仰せられる。すべてのつぼには酒が満たされる。』彼らはあなたに、『すべてのつぼに酒が満たされることくらい、私たちは知りぬいていないだろうか。』と言うが、13:13 あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。見よ。わたしは、この国の全住民、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民をすっかり酔わせ、13:14 彼らを互いにぶつけ合わせて砕く。父も子もともどもに。・・主の御告げ。・・わたしは容赦せず、惜しまず、あわれまないで、彼らを滅ぼしてしまおう。』」
実演の後は例えを話しました。「全てのつぼに酒が満たされる」というのは、カナの婚礼ことを思い出していただけると良いのですが、酒を入れるためのつぼがあります。そこに酒を満たすことは当たり前のことです。だから、ユダの人々は「そんなこと知らないとでも思っているのか。」と反応しているのです。けれども、そういうあまりにも当たり前のことを話さなければ、彼らが気にも留めない、注意を払ってくれない、ということが分かって、このような例えを話しています。
そしてエレミヤ書だけでなく、聖書では、神の怒りと裁きを受けることを、酒を飲んで泥酔し、ふらふらになり、ぶっ倒れてしまうことを形容しています。ここでも強調されているのは、「ダビデの王座」「祭司」「預言者」などという言葉です。それの前後に、「この国の全住民」「エルサレムの全住民」とあります。彼らが、神からの特別な民として誇っていた者たちが、たちどころに倒れ伏してしまう様を描いています。
2B 虜になる群れ 15−27
1C やがて来る闇 15−17
13:15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。
再び「聞きなさい」という命令です。そして「高ぶるな」という命令です。イスラエルとユダが自分たちの光栄に誇り、主の御声に聞き従わないことを主は「高ぶり」と呼ばれました。御声を聞くことは、へりくだることです。自分を低くしないかぎり、聞き従うことはできません。
13:16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主がやみを送らないうちに、まだあなたがたの足が、暗い山でつまずかないうちに。そのとき、あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗やみとされる。
主は期限を与えておられます。「間もなく闇が来るよ」と警告しておられますが、今のうちに来れば助かるよ、とも言っておられるのです。
主がラザロのところに行かれる時にこう言われました。「昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(ヨハネ11:9-10)」主がラザロを通して証しを残されました。この光があるうちにわたしのところに来なさい、ということです。けれどもユダヤ人指導者はこの時機を逃しました。それでエルサレムにローマによる破壊、神からの裁きが下りました。
クリスチャン小説家、三浦綾子さんの本の中に「光のあるうちに」という題名のものがありますが、本当に光のあるうちに、なのです。いつまでもあるわけではありません。人それぞれに、主の光のところに来る時が与えられています。それに応答しなければ、闇があるだけです。
13:17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ。
エレミヤが泣いています。私たちは、自分の愛する人たちのために泣いているでしょうか?福音の真理を語ったら、迫害されるとか、家の秩序が乱れるとか、そのようなことを恐れて、彼らが罪の中で死んだままで神の怒りを受けることを何も考えていないのでしょうか?
そして、高ぶっているのはエレミヤではなく、彼らのほうです。「当たり前ではないか」と言われそうですが、しばしば伝道をし、証しを立て、それで批判や非難を受けると、逆に自分の至らなさを反省して苦しむ人が多いのです。違います、全く反対なのです。「高ぶり」は主の言葉を聞かないところの高ぶりです。自分のことではなく、他の人のために涙を流しましょう。
2C 落ちる冠 18−21
13:18 王と王母に告げよ。「低い座に着け。あなたがたの頭から、あなたがたの輝かしい冠が落ちたから。」
ここに「王」だけでなく「王母」も出てきています。おそらくこれは、エホヤキンが王であったときのことであると考えられます。
もう一度思い出していただきたいのですが、ヨシヤの死後、エホアハズが王となりましたが、エジプトの王ネコは彼を退けてエホヤキムを立てました。彼がネブカデネザルに反逆したので、後に彼はバビロンに捕え移されます。これが第一次バビロン捕囚であり、この時ダニエルも捕え移されました。そしてエホヤキムの次が、エホヤキンです。彼は王になった頃まだ18歳でした。だから母が実質的には権力を持っており、国を治めていました。彼女の名は「ネフシュタ(2列王24:8)」です。
彼の治世はたった三ヶ月です。ネブカデネザルの家来がまずエルサレムを包囲し、そしてネブカデネザル本人がやってきて、彼を捕虜とし、神殿の財宝をことごとく取って行きました。そしてちなみに、彼の後にネブカデネザルがゼデキヤを王として立てますが、彼のときに最後の、第三次バビロン捕囚が行なわれます。エルサレムが完全に破壊されます。
そして王と王母に対する言葉は、再び「低い座につけ」です。輝かしい冠、光栄の座から降りなさい、という主の呼びかけです。
13:19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれもあける者はいない。ユダはことごとく捕え移され、ひとり残らず捕え移される。
ネゲブはユダの南にある地域ですが、バビロンは南まで来て、完全に町々を破壊しました。
13:20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。・・あなたに賜わった群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。・・
「北から来る者たち」とはバビロンのことです。そして「あなたに賜った群れ、あなたの美しい羊」とは、ユダの民のことです。王が王であるのは自分が支配する民がいるからですが、その貴重な財産をことごとく奪われることを預言しているものです。
13:21 あなたは彼らを最も親しい友として、自分に教えこんでいたのに。主があなたを罰するとき、あなたは何と言おうとするのか。苦痛があなたを捕えないだろうか。子を産む女のように。
ここの「彼ら」とはバビロンのことです。当初ユダは、バビロンと親しくすることによってアッシリヤに対抗しようとしていました。またバビロンに従属してからも、バビロンを立てていれさえいれば、助かるかもしれないと思っていました。けれども、それは自分に思い込ませていただけであり、バビロンは決して自分の友ではなかったのです。
私たちは自分を救おうとするばかり、世の友になろうとします。けれども、世は私たちを守ってくれないどころか、かえって害を与えます。ヤコブがこう言いました。「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4:4)」
3C 裾まくり 22−27
13:22 あなたが心の中で、「なぜ、こんなことが、私の身に起こったのか。」と言うなら、それは、あなたの多くの咎のために、あなたのすそはまくられ、あなたのかかとがそこなわれたからだ。
何か大変なが起こると、私たちは、「地震、雷、火事、親父」のように、突然、いわれもなく、襲い掛かる災いと捕えがちですが、ユダの民がまさにそうでした。バビロンに捕え移されるのを、「なぜ、こんな酷いことが起こったのだろうか。」と心の中で悩み、叫んでいたのです。それに対する主の答えは単純であり、「多くの咎のため」です。
そして「裾はまくられ、踵が損なわれる」とありますが、バビロンに捕え移される時の姿でもあり、またエルサレムの尊厳が剥ぎ取られていることを表しています。高い衣服や化粧で身を包んだ高飛車な女が、このような悲惨な姿になることを言い含めています。
13:23 クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行なうことができるだろう。
ここは非常に重要な箇所です。クシュ人とは、エチオピヤ人のことで、黒人です。皮膚の色を黒から白にすることはできないだろう。それと同じように、あなたがたは悪に慣れ親しみ、それが性質になってしまった、と神は仰っているのです。
私たちは、この肉を自分の努力で直そうとします。改善するためのプログラムに参加します。けれども、自分は直らないどころか、かえって悪くなることもあるのです。なぜか?皮膚の色を変えることができないように、私たちのからだには罪が染み付いているからです。
だから、新しい性質に変えられることが必要なのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。(2コリント5:17)」「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22-24)」主から与えられる新しい性質のみが、私たちが変えられる唯一の方法です。
13:24 わたしは、彼らを、荒野の風に吹き飛ばされるわらのように散らす。
私たちは熱風というのを、日本の風土では体験することはできませんが、イスラエルの中東の地域に行けば吹いています。そこで吹いた後は、そこにあったものが掃除したよりもきれいに吹き飛ばされます。このように、わたしはユダの民を吹き飛ばすと主は言われるのです。
13:25 これがあなたの受ける割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。・・主の御告げ。・・あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。
主が与えられたイスラエルへの割り当ては、乳と蜜の流れる、麗しい地でしたが、今は、追い散らされることがその割り当てであると言われます。
13:26 わたしも、あなたのすそを、顔の上までまくるので、あなたの恥ずべき所が現われる。13:27 あなたの姦淫、あなたのいななき、あなたの淫行のわざ・・この忌むべき行ないを、わたしは、丘の上や野原で見た。ああ。エルサレムよ。あなたはいつまでたっても、きよめられないのか。
当時の習慣で、恥ずべき行ないをした女を、公衆の面前で服を剥ぎ取って辱めることがありましたが、そのことを話しています。バビロンに捕え移されるとき、文字通り起こったでもあるし、また霊的にそうでした。彼らは、カナン人のならわしにしたがい、偶像礼拝と不品行の罪を犯していたのです。それでバビロンを通して、神が彼らの恥を露にしておられるということです。
ヘブル書に、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13)」とありますね、暗闇の業はこのように露にされるのです。
2A 日照り 14−15
それでは次に、また新しいエレミヤの預言です。
1B 喪に服す民 14
1C 水の枯渇 1−12
1D 嘆きと叫び 1−6
14:1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。
ここからの預言は、当時ユダの国を襲った日照りのことについてです。それが長く続いたことは、エレミヤ書だけでなく、同時代に生きていたハバククも話しています(ハバクク3:17)。
以前も話しましたが、これはモーセが約束の地を目前としていたイスラエルに対して、すでに語っていたことでした。主に聞き従わないならば、こうこう、このような呪いが来ると語って、その中で日照りもあります。申命記28章23,24節です。「またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」
14:2 ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声をあげる。14:3 その貴人たちは、召使を、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る。彼らは恥を見、侮られて、頭をおおう。
「水ためのほとり」とは、貯水槽のことです。イスラエルにはいろいろなところに、貯水槽の遺跡を見ることができます。降水量が非常に少ないイスラエルでは、水を溜めることが自分たちの生存にとって死活問題なのです。
ところがここで、水ためのところに来ても水が見つからず、からの器のままで帰る、とあります。貴人がここまで貶められてよいものか、と思うほど、貶められてしまいます。
14:4 国に秋の大雨が降らず、地面が割れたため、農夫たちも恥を見、頭をおおう。
イスラエルには二つの重要な雨があり、「秋の雨」と「春の雨」があります。秋の雨は、秋の収穫が終わった後に降る雨であり、次の作物の種を蒔くために土を湿気をもたらすものです。そして春の雨は、成長した作物が最後に実を結ぶための雨ですが、ここでは秋の雨が降らないとあります。だから、地面が割れて、種を植えられない状況です。
14:5 若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。
野生の雌鹿は、非常に警戒心が強いです。その母鹿が子を産んで捨ててしまうほど、食べ物がないということです。
14:6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないためだ。
ジャッカルは、廃墟と課した町に住む獣として聖書で描かれていますが、野性のろばがそのようになってしまう、とあります。
2D 苦難の時の救い主 7−9
このような状況を主によって見せられて、いてもたってもいられなくなり、エレミヤは執り成しの祈りを始めるのです。以前、主に「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり祈りをささげたりしてはならない。(11:14)」と言われたのにも関わらず、です。
14:7 私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。私たちの背信ははなはだしく、私たちはあなたに罪を犯しました。14:8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。14:9 なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。主よ。あなたは私たちの真中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください。
このエレミヤの祈りは、後にダニエルによっても捧げられます。ダニエル書9章にて、ダニエルはエレミヤの預言を読んで、捕囚の期間が七十年であることを知り、悔い改めの祈りを捧げ始めました。彼はエレミヤの祈りを読みながら、同じように祈ったのでしょう。
ここには二つ、大切なことがあります。一つは、「自分の責任を認める」ことです。「私たちはあなたに罪を犯しました」とあります。私たちは、自分が犯した罪の結果を悲しむことは多いですが、罪を犯したことそのものを悲しむことは少ないです。主の心を悲しませた、主に反抗した、主を主として認めず、背を向けた、という主を中心にした祈りを捧げることができないのです。でも、自分が罪を犯したということを認めることによって、初めて主からの癒しがあります。
そしてもう一つは、「主のご性質に訴える」ことです。自分の行ないによれば、今、受けている災いは当然受けるべきなのです。けれども、主が憐れみ深い方だから私たちを赦してくださる、という訴えです。ここでは、「あなたの御名のために」「イスラエルの望み」「苦難の時の救い主」「私たちの真ん中におられる」「御名をもって呼ばれている」とあります。
3D さすらうことを愛す民 10−12
しかし主のお答えは、あまりにもつれないものでした。
14:10 この民について、主はこう仰せられる。「このように、彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない。それで、主は彼らを喜ばず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
エレミヤは、「一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。」と訴えましたが、主は、「彼らがわたしから離れて、さすらいの旅人になったのだ」と言われています。
14:11 主はさらに、私に仰せられた。「この民のために幸いを祈ってはならない。14:12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。」
そうなのです、彼らはまだ悔い改めていないのです。儀式的にはいろいろ行なっていますが、行いと心は変わっていないのです。変わっていない者たちに、幸いを与えることはできないのです。
エレミヤはとてつもない葛藤の中に置かれました。愛する同胞の民に襲い掛かる惨劇は見るに耐えない。けれども、彼らが行なっている悪の業にも耐えられない。この分裂状態です。悔い改めなければ、福音を信じなければ、どんなに泣き喚き、叫んでも、その人を救ってくださいという祈りを私たちの神は聞いてくださらないのです。
2C 偽預言者 13−22
1D 剣と飢饉 13−18
14:13 私は言った。「ああ、神、主よ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える。』と人々に言っているではありませんか。」
この訴えにはエレミヤの困惑が表れています。預言者の大部分は、平和を預言していたのです。他の人たちは、罪を犯しているユダに対して神の平安を教えていました。
エレミヤもできれば、神の平安を彼らに伝えたいのです。どんなことをしても、彼らが救われてほしい、災いが降りかからないでほしいと思っているのです。けれども神からの言葉は、彼らへの災いでした。
そこで、このような平和を預言する者たちが沢山います。「あなたは災いと仰られますけれども、他の預言者は平和を言っているではありませんか。もしかして、彼らのほうが正しいんじゃないですか?あなたが平和を語られているんじゃないですか。」という戸惑いです。
私たちの周りにも、私たちが聖書から神にはっきりと語られていることとは異なる、別の教えをする人々がいます。その時に私たちも同じことを感じないでしょうか?
14:14 主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。
偽預言者の問題です。主も終わりの日に、偽預言者、偽教師が現れることをお語りになりました(マタイ7:15‐23)。主は、実によって見分けなさいと言われましたが、ここエレミヤ書では、「幻、占い、自分の心の偽りごと」を主は挙げておられます。
ペテロが、偽預言者のことを念頭に入れて、聖書の預言についてこう言いました。「すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。(2ペテロ1:20-21)」人間の意志ではなく聖霊によるもの、神の霊感によるものであると言っています。
ですから私たちの務めは、聖書の言葉をまっすぐに説き明かすことです。パウロがテモテに言いました。「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。(2テモテ2:15)」私たちが願っているもの、感じていること、思っていることを語り始めるとき、それがそのまま偽預言になります。自分の気持ちとは正反対のことであっても、聖書が誤りがなく、誤っているのは自分のほうである、という立場が必要です。
14:15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない。』と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』14:16 彼らの預言を聞いた民も、ききんと剣によってエルサレムの道ばたに投げ出され、彼らを葬る者もいなくなる。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上にわざわいを注ぎかける。
これら偽預言者らに対する裁きです。自分は主の名によって語っていたとしても、それが救いを受ける条件ではないのです。主が偽預言者についてこう言われました。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:21-23)」
14:17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は夜も昼も涙を流して、やむことがない。私の民の娘、おとめの打たれた傷は大きく、いやしがたい、ひどい打ち傷。14:18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町にはいると、見よ、飢えて病む者たち。しかし、預言者も祭司も、地にさまよって、途方にくれている。』」
ここの「地にさまよって、途方にくれている」は、「自分たちの知らない地に入る」とも訳すことができます。つまり、預言者も祭司も差別なくバビロンに捕え移される、ということです。
2D 雨を降らせる方 19−22
14:19 あなたはユダを全く退けたのですか。あなたはシオンをきらわれたのですか。なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、なんと、恐怖しかありません。
エレミヤが再び、執り成しの祈りをささげています。
14:20 主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。14:21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、それを破らないでください。
再び、「御名のために」「あなたの栄光の御座」「あなたが立てられた契約」と、主のご性質と働きにエレミヤは訴えています。
14:22 異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。
バアルは、カナン人の神々の中で主神であり、農耕の神でした。けれどもこれらの神々ではなく、雨を降らせるのはあなたではありませんか、と訴えています。そうですね、エリヤが雨を降らせてくださるよう主にお願いしたら、大雨が降りました(1列王18:41‐46,ヤコブ5:18)。
2B 滅ぼされる民 15
1C 神による追い出し 1−9
15:1 主は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。
主はエレミヤに、ご自分の強い意思を伝えられました。「モーセとサムエル」です。二人とも、主がかつてその執り成しの祈りを聞かれた代表的な人物です。モーセの場合は、イスラエルが金の子牛を造って拝んだとき、主が、「わたしは彼らを絶ち滅ぼし、あなたを大いなる国民にする」と言われたとき、モーセの執り成しによって思い直されました(出エジプト32章)。また、荒野でつぶやき、エジプトに帰ろうと言ったときも主は、「彼らを打って滅ぼす」と言われたのですが、モーセの執り成しでそれを取りやめられました(民数14章)。
サムエルはどうでしょうか?彼は、ペリシテ人との戦いでイスラエルのために、叫んで祈ったら、主は救ってくださいました。けれどもイスラエルの民は、他に王を立ててくださいとサムエルに申し出ました。それが主の御心をそこなったことを民が後で気づいたとき、サムエルに自分たちのために祈ってほしいと願いました。サムエルは、「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。(1サムエル12:23)」と答えています。
この二人がたとえ祈ったとしても、わたしはこの民を顧みない、と言われているのです。ですから、祈っている人に関わらず、主はご自分が行なわれることを強く決めておられるのです。
15:2 彼らがあなたに、『どこへ去ろうか。』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。』
民は主の言葉を甘く考えて、「追い出されるならどこに行こうか」と軽々しく考えていますが、主は明確に、事の重大さを伝えておられます。死、つまり疫病による死か、剣で殺されるか、飢饉で死ぬか、そして生き残ったものは捕虜となるか、この四つしかありません。
15:3 わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。・・主の御告げ。・・すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。
丁重に葬られることもありません。獣に死体が食われるという、とてつもない悲惨な目に遭います。
15:4 わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行なったことのためである。
「おののきとする」とありますが、事実、私たち異邦人は、ユダヤ人の通った悲劇を見て、おののきます。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験ばかりをしなければいけないのかと、特にホロコーストを見て思うのです。
バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったのだろうと思いますが、その原因が「マナセがエルサレムで行なったこと」のためでした。主が心の中でユダを滅ぼすと決められたのは、その時であったことを列王記第二でも読むことができます。「ユダの王マナセは、これらの忌みきらうべきことを、彼以前にいたエモリ人が行なったすべてのことよりもさらに悪いことを行ない、その偶像でユダにまで罪を犯させた。それゆえ、イスラエルの神、主は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。わたしは、サマリヤに使った測りなわと、アハブの家に使ったおもりとをエルサレムの上に伸ばし、人が皿をぬぐい、それをぬぐって伏せるように、わたしはエルサレムをぬぐい去ろう。(21:11-13)」
ところでマナセ自身は、後に悔い改めて神から罪の赦しを得たことを歴代誌の著者は伝えています(2歴代33章)。けれども、このマナセが行なわせたことによって、ユダの民は罪から離れられなくなりました。そのことを主は予めご存知で、それで滅びを言い渡されたのです。
私たちにも、神の期限があります。私たちがあまりにも心をかたくなにして、罪の中で生きているなら、ついに罪の生活そのものに無感覚になります。その時が期限です。聖霊はいつも、私たちの良心に働き続け、罪を犯していることを示されるのですが、もしそのお働きがなくなったとき、それが終わりの時です。悔い改めないのではなく、悔い改められなくなるのです(ヘブル12:17)。
15:5 エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねよう。15:6 おまえがわたしを捨てたのだ、・・主の御告げ。・・おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた。
エルサレムが憐れみを受けるといったら、神ご自身しかいません。今でもエルサレムがユダヤ人のものであると考えているのは、世界の中で誰もいません。神ご自身だけなのです。その神が滅ぼすとお決めになったら、誰も救ってくれるものはいないのです。
15:7 わたしはこの国の町囲みのうちで、熊手で彼らを追い散らし、彼らの子を失わせ、わたしの民を滅ぼした。彼らがその行ないを悔い改めなかったからだ。
ここの「熊手」は脱穀をするときに使う箕のことです。収穫された麦などを空中にあげて、風で籾殻を吹き飛ばして、実だけが落ちるようにします。ユダの民を籾殻のように吹き飛ばす、ということです。
15:8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くした。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送り、にわかに、苦痛と恐怖を彼女の上に襲わせた。15:9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえいだ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに没し、彼女は恥を見、はずかしめを受けた。また、わたしは、彼らの残りの者を彼らの敵の前で剣に渡す。・・主の御告げ。・・」
七人の息子がいるのですから、この女は祝福された人であり、安全です。けれどもその安全をも取り上げると、主は言われます。ここの「息はあえいだ」というのは、息絶えたということです。
2C 引き裂かれる思い 10−21
エレミヤの葛藤は続きます。
1D 迫害 10−14
15:10 ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。
つまり、自分は人に恨まれることをことさら行なったことのないのに恨まれているということです。
エレミヤは、七人の母親が嘆き苦しむと主が言われるが、自分の母は自分を生んだことで苦しんでいる。その七人は英雄として死んでゆくかもしれないけれども、わたしは非国民として死ぬのだ、という嘆きです。今、エレミヤの信仰が試されています。
15:11 主は仰せられた。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。
主がエレミヤを召しだされた時に約束されたように、再び個人的な救いを約束してくださいました。
これはエレミヤ書40章を読むと、実現していることが分かります。バビロンがエルサレムを滅ぼした後、侍従長ネブザルアダンがエレミヤを解放して、こう言いました。「侍従長はエレミヤを連れ出して、彼に言った。『あなたの神、主は、この所にこのわざわいを下すと語られたが、主はこれを下し、語られたとおりに行なわれた。あなたがたが主に罪を犯して、その御声に聞き従わなかったので、このことがあなたがたに下ったのだ。そこで今、見よ、私はきょう、あなたの手にある鎖を解いてあなたを釈放する。もし、私とともにバビロンへ行くのがよいと思うなら、行きなさい。私はあなたに目をかけよう。しかし、もし、私といっしょにバビロンへ行くのが気に入らないならやめなさい。見よ。全地はあなたの前に広がっている。あなたが行くのによいと思う、気に入った所へ行きなさい。』(2-4節)」エレミヤの言葉は国中に広がり、そしてバビロンの耳にも入っていました。異教徒であるはずのネブザルアダンが、この災いをユダが罪を犯したためだ、と言っています。そしてエレミヤをどこに行ってもよい、と言って解放しています。
15:12 だれが鉄、北からの鉄や青銅を砕くことができようか。15:13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を獲物として、ただで引き渡す。それは、あなたの国中で、あなたが犯した罪のためだ。15:14 わたしはあなたをあなたの知らない国で敵に仕えさせる。わたしの怒りによって火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」
エルサレムの神殿の財宝はことごとく持ち去られました。
2D 癒えない傷 15−21
しかしエレミヤは、この主の言葉を聞いても、心や癒えていませんでした。人の側と神の側の隔たりがあまりにも大きいので、その間に立たされて疲れ果てています。
15:15 主よ。あなたはご存じです。私を思い出し、私を顧み、私を追う者たちに復讐してください。あなたの御怒りをおそくして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けているのを、知ってください。
彼が受けている迫害があまりも酷いけれども、状況は一向に良くなる兆しがありません。自分は殺されてしまいそうです。
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。
すばらしいことですね、御言葉を食べて、それが楽しみで、心の喜びになっています。詩篇1篇2節に、「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」とあります。
そして「あなたの名がつけられている」とありますね。患難期において14万4千人のイスラエル人が、神のしもべとして、それぞれの額に神の印が与えられました。自分が神のものとなっていることの認証です。
15:17 私は、戯れる者たちの集まりにすわったことも、こおどりして喜んだこともありません。私はあなたの御手によって、ひとりすわっていました。あなたが憤りで私を満たされたからです。
これが主の心を持っている人の寂しさです。自分は他の人々の中にいたいのです。ところが、そのような人々といようとするものなら、心の中にある主の憤りで引き離されてしまうということです。
私たちはエレミヤのように主の心を持っているでしょうか?自分が近づきたいと思っても、自分の意に反して近づくことはできない、ということはないでしょうか?それは主が引き離しておられるのです。主の聖さ、主の正義が引き離しているのです。
15:18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は直らず、いえようともしないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く者、当てにならない小川のようになられるのですか。
イスラエルにはワジと言って、一定の時期でないと水が流れていない涸れた川がたくさんあります。喉が渇いていて、水があると思って走っていったら、なんと涸れていた、ということはあるのです。このようにあなたは、私に対して期待はずれのことをされるのですか?という訴えです。
そこで主は戒めと同時に慰めの言葉を与えられます。
15:19 それゆえ、主はこう仰せられた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。
エレミヤは今、すべりそうになっています。信仰的に落ち込んでいます。いっそのこと、民といっしょになったほうがよっぽど楽なのに、と思っています。そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われているのです。
主は「わたしの前に立たせよう」と言われています。今、主ご自身と民の間にとてつもない対立があります。敵意があります。大きな溝があります。どちらかの側につかなければいけなくなっています。そして主はエレミヤに、ご自分の側につきなさいと励まし、戒めておられるのです。
私たちは、言えば対立を生むことを知っている言葉を知っています。神の御言葉は真理ですから、この世にいる人に反対します。そしてこの世の人も御言葉に反対します。いや、御言葉に反対するため、それを語る人を迫害します。私たちはそのことを知っているから、波風立てないほうが良いと考えて語らないのです。
けれども、その時点で私たちは、神の心から離れていくのです。神の情熱から離れていきます。神の熱心、神の正義に基づく救いへの熱意から離れていきます。いつの間にか世の中に埋没し、この世の価値観の中で生きてしまうのです。
エレミヤのようにどちらかでしかないのです。神の前に立って、主の言葉を人々に語り、人々から迫害されて、孤独になる。けれども主がともにおられるという約束と、自分を救ってくださるという約束が与えられる。あるいは語らないで、主から離れるという選択です。
ここで大事な言葉があります。「彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」私たちが、その人の救いとか口実を設けて、御言葉に反対する人の言っていることに聞き従うなら、その相手は二度と神の救いを受けることはないからです。
この対立と確執は近い関係であればあるほど、激しくなるでしょう。反対するのが夫、あるいは妻であればなおさらのことです。けれども、そこで自分が神の側についていなかったら、誰が救いをもたらしてくれるのでしょうか?私たちが主の側についているからこそ、人々が主のところに帰ることができるのです。
15:20 わたしはあなたを、この民に対し、堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても、勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。・・主の御告げ。・・15:21 また、わたしは、あなたを悪人どもの手から救い出し、横暴な者たちの手から助け出す。」
私たちが主の側につくときの分け前は、主のご臨在と約束です。どんなに今の自分の状況が耐え難いものであっても、主がともにおられる、そして主がそこから自分を救い出してくださる、という約束をいただくことができます。どうかこの世に妥協しないでください。対立するからといって、黙っていないでください。キリストにある良心をしっかりと保ち、必要なときに弁明してください。そうすれば、自分に反対している人々をもしかしたら、主のもとに勝ち取ることができるかもしれないのです。
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