1A 関わりを絶つ生活 16
1B 滅び行く日常生活 1−13
1C 絶える声 1−9
2C 先祖以上の悪事 10−13
2B 暗闇の中の光 14−21
1C 帰還 14−18
2C 異邦人の回心 19−21
2A ユダの罪 17
1B 心の板 1−13
1C 刻み込まれた罪 1−4
2C 人間への信頼 5−13
1D 呪いと祝福 5−8
2D 何よりも陰険な心 9−11
3D 地に記される名 12−13
2B 癒しを願う祈り 14−18
3B 安息日の掟 19−27
本文
エレミヤ書16章を開いてください、今日は16章と17章を学びます。ここでのテーマは、「他の神々に仕える民」です。
1A 関わりを絶つ生活 16
1B 滅び行く日常生活 1−13
私たちは前回、15章、16章の学びで、エレミヤが実演をすることによって、神の宣告を人々に伝える話を読みました。腰に締めていた亜麻布の帯をユーフラテス川の岩の割れ目に入れておいたら、帯が腐った、という実演です。
私たちは、16章でも同じ実演を見ます。けれども今度は、エレミヤの人生と生活にかなり犠牲を強いるものです。
1C 絶える声 1−9
16:1 次のような主のことばが私にあった。16:2 「あなたは妻をめとるな。またこの所で、息子や娘を持つな。」16:3 まことに、主は、この所で生まれる息子や娘につき、また、この国で、彼らを産む母親たちや、彼らを生ませる父親たちについて、こう仰せられる。16:4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らはいたみ悲しまれることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。また、剣とききんで滅ぼされ、しかばねは空の鳥や地の獣のえじきとなる。」
エレミヤは神に預言者として召された時、20歳そこそこの若者でした。それから年数は経っているので、結婚の適齢期、いや適齢期を過ぎているかもしれません。その彼に「妻をめとるな」と主は命じられます。「生めよ、増えよ、地を満たせ」そして「あなたの子孫を海の砂、星の数のようにする」という主の命令をそのまま受け入れていたユダヤ人にとっては、結婚をするなという命令はあまりにも酷なことです。
けれども、それでも結婚をしてはいけない十分な理由があります。結婚して生まれてくる子供たちは、間もなく襲ってくるバビロンによる虐殺の中に入れられるだけだからです。このような悲惨を目の当たりにするぐらいなら、むしろ子を生まないほうがましだということです。
16:5 まことに主はこう仰せられる。「あなたは、服喪中の家にはいってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしはこの民から、わたしの平安と、・・主の御告げ。・・いつくしみと、あわれみとを取り去った。16:6 この国の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らをいたみ悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪もそらない。16:7 だれも、死んだ者を悔やむために葬儀に出て、パンを裂くこともなく、その父や母を慰める杯を彼らに飲ませることもないだろう。
結婚の次に、葬儀についての話が出てきました。冠婚葬祭と呼ばれる、いわゆる人間の人生の中で押さえなければいけない大切な儀式を行なうな、という主からの命令です。
葬儀は人々の弔い、痛み悲しみの場でありますが、けれども、それさえもバビロンが彼らを襲った時は、幸せな、平和なひと時になるであろう、ということです。バビロンによって倒れ、死ぬ人々は、その体が地面に放り出されたままで、獣が食い荒らすだけのものになってしまいます。
ここの箇所で興味深いのは、これはユダヤ人の葬儀であるにも関わらず、16節を見ると「身に傷をつけず、髪もそらない」と書いてあることです。これは異教徒のならわしであり、申命記14章1節には、「あなたがたは、あなたがたの神、主の子どもである。死人のために自分の身に傷をつけたり、また額をそり上げたりしてはならない。」とあります。彼らの葬儀の中で、既にこれらのしきたりが定着していたことを表しています。
16:8 あなたは宴会の家に行き、いっしょにすわって食べたり飲んだりしてはならない。」16:9 まことにイスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この所から、あなたがたの目の前で、あなたがたが生きているうちに、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。
冠婚葬祭を含め、他のあらゆる祝宴や宴会も避けなさいという命令です。
人生に周期的にやってくる結婚や葬儀、またその他の集まりや祭りさえも止めなさい、という主はいったい、どんなにひどい方なのか?と非難する人もいるかもしれません。死者を悼むことさえ行なっていけない等とは、何と言う非情な神であろうかと責めるかもしれません。
けれども、これが危急の時であることを考えなければいけません。バビロンによる破壊、彼らの滅びが差し迫っている時であることを考えなければいけません。この過酷さの中にあって、私たちは時に非情にならなければいけないことがあるのです。
パウロは、結婚についてコリントにいる教会の人々から、質問を受けたことがありました。結婚をすべきなのか、すべきではないのかという質問です。それに対する答えは、「結婚しても罪ではないし、とても良いことであるが、結婚しないほうがもっと良いことだ。」というものでした。コリント人への手紙第一7章を開いてください、26節から読みます。
現在の危急のときには、男はそのままの状態にとどまるのがよいと思います。あなたが妻に結ばれているなら、解かれたいと考えてはいけません。妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません。しかし、たといあなたが結婚したからといって、罪を犯すのではありません。たとい処女が結婚したからといって、罪を犯すのではありません。ただ、それらの人々は、その身に苦難を招くでしょう。私はあなたがたを、そのようなめに会わせたくないのです。兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は、妻のない者のようにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者のように、買う者は所有しない者のようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。(26-31節)
分かりますか?パウロは、主が間もなく来られることを知っていました。神の怒りがこの地上に激しく下り、何もかもが破壊される日が近いことを知っていました。だから、この世における、多くの時間と財産、労力を費やすものに愛着を抱かないこと、という勧めを行なっているのです。
もちろん、私もパウロと同じように、日常生活の活動を止めなさいと勧めるものではありません。結婚をこれからしたい人はすればよいと思います。子供も産めばよいと思います。そして、長期的な計画も立ててよいと思います。けれども、これらがいつ何時、過ぎ去ってしまうかもしれないのだ、ということを私たちはわきまえなければいけない、ということです。
主にある働きをしている人は、このような厳しい決断に迫られることがあるでしょう。宣教のため遠い国にいるため、親の葬儀に参席できなくなるということもあります。主は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。(ルカ9:58)」また「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。(同60節)」と言われました。
また私たちは、これから滅びゆく偶像礼拝などを避けるために、家族といえども厳しい判断をしなければいけないことがあります。嫁いだ家が仏壇に供え物をすることを強要するので、離婚をせざるを得なかった、という話もあります。私たちは最近、家族の葬儀に出席しましたが、焼香をたかず、また骨拾いもせず、他の親族の目にはあまりにも非情に見えたことでしょう。けれども、これらは滅び行くものであり、主が裁かれる対象なのです。
主が言われました。「「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(ルカ14:26)」憎む、というのは、いわゆる憎しみを抱くことではなく、自分が最も愛着や敬意を感じているものでさえ、主に従うゆえに心の中で退ける、という意味です。
2C 先祖以上の悪事 10−13
16:10 あなたがこの民にこのすべてのことばを告げるとき、彼らがあなたに、『なぜ、主は私たちに、この大きなわざわいを語られたのか。私たちの咎とは何か。私たちの神、主に犯したという、私たちの罪とは何か。』と尋ねたら、16:11 あなたは彼らにこう言え。『あなたがたの先祖がわたしを捨て、・・主の御告げ。・・ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、わたしを捨てて、わたしの律法を守らなかったためだ。
ユダの民にとって、他の神々に仕えることはあまりにも当たり前のことでした。神についての知識があまりにも歪められていたために、偶像を拝みながら、なおかつ主なる神に仕えることができると思っていたのです。それでエレミヤは改めて、神についての根本的な知識を教えているのです。
「原爆どころではない、日本にはもっと大きな災いが下る。」と私が話したら、日本の人たちはここのユダの人々を同じ反応をすることでしょう。「どんな罪が、咎があるというのか。」そして私が、「それはあなたがたが、まことの神ではないものを神として拝んでいるからだ。」と言ったら、エレミヤと同じようにとてつもない迫害を受けることでしょう。けれども、これは神の真理にしたがうと、事実なのです!
16:12 また、あなたがた自身、あなたがたの先祖以上に悪事を働き、しかも、おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み、わたしに聞き従わないので、16:13a わたしはあなたがたをこの国から投げ出して、あなたがたも、先祖も知らなかった国へ行かせる。
「先祖以上の悪事」です。これはマナセから始まった偶像礼拝のことを話しています。イスラエルは、エジプトから連れ出された時から、金の子牛を拝むなど偶像礼拝の罪を犯しました。そしてヨシュアの死後、士師の時代において偶像を拝み続けました。サムエル、そしてダビデの時代にはなくなりましたが、ソロモンの晩年から再び始まり、北イスラエルと南ユダで行い続けたのです。
けれども、マナセがやったことは、それよりももっと酷いことでした。実に、主が根絶やしにしなさいと命じられたカナン人たちが行なっていたことよりも酷い、と書いてあります。この箇所を読んでみましょう。歴代誌第二33章です、1節から読みます。
マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行なった。彼は、父ヒゼキヤが取りこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。彼は、主がかつて、「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように。」と言われた主の宮に、祭壇を築いたのである。こうして、彼は、主の宮の二つの庭に、天の万象のために、祭壇を築いた。また、彼はベン・ヒノムの谷で、自分の子どもたちに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行ない、霊媒や口寄せをして、主の目の前に悪を行ない、主の怒りを引き起こした。さらに、彼は自分が造った偶像の彫像を神の宮に安置した。神はかつてこの宮について、ダビデとその子ソロモンに言われた。「わたしは、この宮に、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだエルサレムに、わたしの名をとこしえに置く。もし彼らが、わたしの命じたすべてのこと、わたしがモーセを通して与えたすべての律法とおきてと定めとを、守り行ないさえするなら、わたしは、もう二度と、わたしがあなたがたの先祖たちのものと定めた地から、イスラエルを取り除かない。」しかし、マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエル人の前で根絶やしにされた異邦人よりも、さらに悪いことを行なわせた。(1-9節)
この行ないを、ヨシヤは再び取り除き、きよめたのですが、彼の死後、再開してしまったのです。マナセの時代に、彼らはこれを習慣として身につけ、国民生活の一部としてしまっていました。
16:13bあなたがたは、そこで日夜、ほかの神々に仕える。わたしはあなたがたに、いつくしみを施さない。』
これが神の方法です。彼らが他の神々に仕えたから、他の神々を拝んでいる国で仕えるようになる、という裁きです。まことの神に仕えれば自由が与えられますが、罪を弄んでいれば、その罪の奴隷となるのです。
2B 暗闇の中の光 14−21
1C 帰還 14−18
16:14 それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とは言わないで、16:15 ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。
私は、この箇所をはじめ読んだ時、あまり理解できませんでした。エレミヤ書が、これだけずっとユダが真っ暗な闇を預言したのにも関わらず、ここで突然、大きな光を与えているからです。「何か読み間違っているのではないか」と目を疑いました。でも、やはりこれは、主が彼らを全世界的にイスラエルの地へ帰還させる、神の救いのご計画の完成を描いているのです。
イスラエルの民は、出エジプトをもって誕生しました。出エジプトが彼らのルーツであり、本性であり、始まりです。この物語を語らなければイスラエルがイスラエルでなくなってしまいます。けれども、主はこのルーツを変えられます。彼らはあまりにも長いこと、世界の国々の中で虐げられ、笑いものにされ、恐怖を抱きながら生きてきました。その彼らが、イスラエルの地に戻ってくるということが、かつてエジプトから主がイスラエルを出してくださったこと以上の、新しいイスラエルの誕生となるのです。
誕生というのは語弊があるでしょう。誕生ではなく復活です。パウロは、今はかたくなに福音を拒んでいるユダヤ人が信仰を持つようになることを次のように表現しました。「もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。(ローマ11:15)」死者からの生き返りです、新しいアイデンティティー、本性です。
この新しい性質が与えられるため古いものが破壊され、死んでいくというのが次回の学び、エレミヤ書18章に出てきます。陶器師が、新しい器を作るために製作中の器を壊す話です。
16:16 見よ。わたしは多くの漁夫をやって、・・主の御告げ。・・彼らをすなどらせる。その後、わたしは多くの狩人をやって、すべての山、すべての丘、岩の割れ目から彼らをかり出させる。
話は再びバビロンによる破壊に戻っています。漁夫についての例えは、イエス様がペテロに対してお語りになったことを思い出しますが、その時は、福音によって人々を捕えるという福音宣教のことを意味していました。
けれどもここではその意味ではなく、天の御国の奥義の例えで主が、地引網であらゆる種類の魚を集めるところと同じ意味です。主は、「この世の終わりにもそのようになります。御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。(マタイ13:49-50)」と言われましたが、ユダの民はどの人もバビロンから逃れられないことを意味しています。狩人の例えも同じです。
16:17 わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。
主の目には、すべてのことが裸になっているという厳粛な事実です。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。(ヘブル4:13)」
16:18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。それは彼らがわたしの国を忌むべきもののしかばねで汚し、忌みきらうべきものを、わたしの与えた相続地に、満たしたからである。」
罪に対して二倍の報復、というのは不公平ではないか。行なったことにしたがって報われるのが筋ではないか、と思われるかもしれません。けれどもモーセの律法で、盗みについてこういう定めがあります。「もし盗んだ物が、牛でも、ろばでも、羊でも、生きたままで彼の手の中にあるのが確かに見つかったなら、それを二倍にして償わなければならない。(出エジプト22:4)」
人は、神によって与えられた人格と尊厳があります。そして各人に、神はその人が管理する物、財産を任されています。これを盗むというのは、単にその物質を取ることだけでなく、その人格や尊厳をも否定し、ひいては神ご自身を否定する行為なのです。ですから、盗んだ物を返すだけでなく、さらに同じ分を多く返還することによって、その尊厳が保たれるということです。
ですから、二倍の報復というのは、神の公平な裁きなのです。
2C 異邦人の回心 19−21
16:19 主よ、私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ。あなたのもとに、諸国の民は地の果てから来て言うでしょう。「私たちの先祖が受け継いだものは、ただ偽るもの、何の役にも立たないむなしいものばかりだった。16:20 人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」と。16:21 「だから、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手と、わたしの力を知らせる。彼らは、わたしの名が主であることを知る。」
再び非常に唐突な預言が登場しています。これはユダの民に対するものではなく、異邦人です。彼らが自分たちの持っている偶像を捨てて、主のみが神であると告白している場面です。
ユダが偶像礼拝の罪の中で溺れていることを神が責めておられるど真ん中に、このように外国人がまことの神に立ち返るという預言は、イザヤ書の最後のところでも私たちは読みました。「わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられたわたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、『わたしはここだ、わたしはここだ。』と言った。わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。(65:1-2)」
このようどんでん返しのような救いのご計画を、神は初めから持っておられるということです。「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。(ローマ9:30-31)」今、主は、信仰による義を異邦人に与えられ、そのため異邦人が偶像から生ける神に立ち返っています。
パウロがテサロニケ人たちに、「あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり・・(1テサロニケ1:9)」と言っています。ですから、今、私たち日本人が偶像から離れ、生ける神に仕えるのでなければ、この預言の祝福は私たちに与えられないのです。
そしてここの預言箇所は、終わりの日のことも背景に持っています。エレミヤに神が、ユダヤ人の世界的帰還の預言を与えられましたが、それはユダヤ人の回復、復活であると同時に、キリストが王の王、主の主として、世界を君臨される時でもあります。その時、諸国の民はどの人もイエス・キリストが主であると告白します。
2A ユダの罪 17
1B 心の板 1−13
1C 刻み込まれた罪 1−4
17:1 ユダの罪は鉄の筆と金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。17:2 彼らの子たちまで、その祭壇や、高い丘の茂った木のほとりにあるアシェラ像を覚えているほどだ
「金剛石」は新共同訳では「ダイヤモンド」と訳されています。祭壇の青銅に刻まなければいけないので、それよりも硬いものでなければいけません。
ここで語られているのは何でしょうか?祭壇は、もちろん神殿において動物のいけにえを捧げるところです。その四隅にある角にいけにえを血を塗ることによって、罪の贖いをします。この主に対する礼拝は青銅のように硬いものであって、偶像礼拝とは相容れないことを表します。
ヨハネは第一の手紙の中で、光と闇が相容れないことを話しています。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1:6-7)」ですから心から主に礼拝を捧げるのであれば、主とともに偶像を拝むことはできなくなるはずで、主を捨てるか、あるいは偶像を捨てるかのどちらかでしかないのです。
そして2節には、子供たちまでアシェラ像を覚えているとありますが、先に生まれてきた子供が死に、葬られることもなく獣のえじきとなるということを主が語られましたが、それは無実の子供たちを殺すことではなく、子供たちも同じ偶像礼拝を行なっていた、ということです。
偶像礼拝を行なっている国は、子供が生まれてきたすぐ後から偶像礼拝の儀式の中に入れてきます。日本では宮参り、そして七五三があるでしょう。カナン人はアシェラ像を拝んでいましたが、幼い子たちがテレビやインターネット等で、あまりにも簡単にポルノに触れることができます。
17:3 野にあるわたしの山よ。わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、獲物として引き渡す。あなたの国中にある高き所の罪のために。17:4 あなたは、わたしが与えたあなたの相続地を、手放さなければならない。また、わたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃えよう。
「高き所」というのは偶像礼拝をするところです。山の高いところでこれを行なっていました。
2C 人間への信頼 5−13
1D 呪いと祝福 5−8
17:5 主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。
ユダの罪は、偶像礼拝だけではなく、人間と肉の力に頼っていたところにもあります。ヨシヤが死んだ後に、エジプトがユダを従えました。けれどもバビロンが台頭しました。ユダの王エホヤキムはバビロンに従属しましたが、エジプトが一度ネブカデネザルを追い返したのを見て、反逆したのです(2列王24:1)。
17:6 そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。
これはイスラエルの南部、ネゲブの砂漠に広がる光景です。死海沿いの道を南に行くと、そこの岩は塩で出来ています。主ではなく人に拠り頼むとこのようになる、と言います。
17:7 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。17:8 その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、いつまでも実をみのらせる。
これはまさに、詩篇の始まりの言葉です。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。(1:3)」ここエレミヤ書では日照りの時でも同じように実を結ばせることができる、と言っています。
前回の学び14章、15章で日照りについての預言がありましたね。環境がこのような酷い状況であってももし主に拠り頼めば、その人は救われることを約束しています。事実、ほとんど全てのユダヤ人がバビロンによって滅ぼされ、残った者は捕え移されましたが、エレミヤだけは救われました。
これは私たちキリスト者に対する問いかけでもあります。この地上の国は必ず、人間に頼ります。肉を自分の腕とします。神を知らないのですから当然です。けれども、キリスト者は御言葉に聞きます。主のみを自分の泉とします。今日、大変な不況の中に日本はいますが、この時こそ主に拠り頼み、祈りに励み、御言葉にしがみつく必要があるのです。
2D 何よりも陰険な心 9−11
そして主は、このようなかたくなな心について次のように話しておられます。
17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
この「陰険」という言葉は、口語訳では「偽るもの」、新共同訳では「とらえ難く病んでいる」と訳されています。英語では”wicked”で「邪悪」です。これが聖書の描いている人間の心の姿なのです。
「人間はそんなに悪い存在ではない」と反論する人がたくさんいると思います。けれども、聖書ははっきりと人間が罪の下にいることを、次のように伝えています。ローマ3章10節からです。
「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」「彼らの足は血を流すのに速く、彼らの道には破壊と悲惨がある。また、彼らは平和の道を知らない。」「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(10-18節)
そしてエレミヤは、心は「直らない」と言っています。そうです、心理学者は思いや行動を直そうとします。精神医学者は、物理的な療法によって、つまり薬物によって直そうとします。けれども、心はそのように生易しいものではないのです。いや、外側からの人為的な操作によって、人の心は直しようがないのです。
そして、「だれが、それを知ることができよう」です。実は、自分自身もそこまで自分が邪悪だと思っていないのです。並大抵の人間だと思っているのです。けれども、口語訳にあるように人の心は自分を偽ります、欺きます。
17:10 わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。
人間には自分の心を知ることはできませんが、主は知っておられます。「主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。(1歴代28:9)」「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。(箴言17:3)」「こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。(黙示2:23)」
主はしばしば、私たちを試されます。自分がいかに自分を頼ることができないのかを、その中にある邪悪さを明らかにすることによって試されます。平穏な時は、自分はなかなかの人間だと思うのですが、不都合なことが起こったとき、まさか自分にこんなひどい心や思いがあるとは、と驚くのです。そこでダビデはこう祈っています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。(詩篇139:23)」
そして彼は続けて、「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(同24節)」傷ついた道を知らされることによって、初めてとこしえの道を歩むことができるのです。私たちが自分の邪悪さを知ることによって初めて、本当に神の憐れみにすがり、キリストの十字架のところに走っていくことができます。
17:11 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公義によらないで富を得る者がある。彼の一生の半ばで、富が彼を置き去りにし、そのすえはしれ者となる。」
しゃこ(鷓鴣)は鳥の一種です。雛は自分を育てているのが自分の母親ではないので、巣立てば母親を見捨てます。同じように、自分で働いたものではないところから出てくる富は、簡単に自分の手から離れてしまうことを、ここでは教えています。
3D 地に記される名 12−13
17:12 私たちの聖所のある所は、初めから高く上げられた栄光の王座である。17:13a イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。
ダイヤモンドのとがりで刻まれたように頑強な罪、荒野の溶岩地帯のように乾ききった心、そしてしゃこのように、人の富を奪う心。これらの地上で起こっている、人間の心がもたらす諸悪を見て、エレミヤは上を見上げました。主がおられる御座、天を思いました。
コロサイ書でパウロがこう勧めています。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。(コロサイ3:1-3)」私たちが、ますます天に思いを馳せなければいけない時代になっています。この地に生きていながら、なおかつ自分が天に属していることを思わなければいけません。
17:13b「わたしから離れ去る者は、地にその名がしるされる。いのちの水の泉、主を捨てたからだ。」
エレミヤの言葉に対する主の返答です。5節に「心が主から離れる者はのろわれよ」とありましたが、主はここで「地にその名がしるされている」と言われています。新共同訳は「地下に行く者として記されている」と訳されていますが、上手に言い表しています。すべての人間は、天に召されるか、あるいはこの地上で滅び、ハデスに下るかのどちらかしかありません。
そして、「いのちの水の泉」とご自分のことを言われました。覚えていますか、エレミヤ書の最初に主はこう言われました。「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。 (2:13)」
人間は誰でも水を求めます。もちろん物理的な水も認めますが、霊的な水の源を求めています。ある人は知的なことに、ある人は肉的なこと、そしてある人は社会的なことに、また宗教的なものに源を求めている人さえいます。けれども、それらはすべて「こわれた水ため」であり、枯渇していくものなのです。
イエス様がサマリヤの女に、「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)」と言われました。主のみが私たちのいのちの源泉なのです。主との交わりのみが、私たちを完全に満たすことがでいます。
2B 癒しを願う祈り 14−18
17:14 私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。
エレミヤには、ユダの罪を見ることによって受けた傷、また彼らから迫害され、あざけりを受けていることによって生じた傷があります。それを癒してください、また迫害から救ってくださいと祈っています。
エレミヤは、「あなたが癒し、救われるのであれば、私はそうなる」と言っています。主のみが自分を立ち上がらせることができる、という信仰です。
17:15 ああ、彼らは私に言っています。「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」
まだユダの民は、エレミヤが話している言葉を見ていません。そして他の偽預言者は幸いが来ることを預言しています。彼らはエレミヤの言葉を馬鹿にしているのです。
ペテロも、今の時代のことをこのように言いました。「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』(2ペテロ3:3-4)」どうでしょうか、私たちが福音を語るときに、この嘲りを受けますね?
17:16 しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、避けたことはありません。私は、いやされない日を望んだこともありません。あなたは、私のくちびるから出るものは、あなたの御前にあるのをご存じです。
エレミヤは自分を「牧者」であるとみなしています。他の人を導き、世話する人はみな牧者です。牧者にとって大事なのは、「主に従う」ことであり、そして「唇から出るものが、主の御前にある」ことです。主が語られていることを人々に伝えているか、それをもって人々を導こうとしているかどうかです。
17:17 私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。17:18 私に追い迫る者たちが恥を見、私が恥を見ないようにしてください。彼らがうろたえ、私がうろたえないようにしてください。彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。
必死の祈りです。自分が迫害によって弱くなっていることを、正直に告白しています。私たちも人に悪いことを言われた時に、自分の中にこもるのではなく、それを主に打ち明けてください。主に打ち明けるところの戦いになります。
3B 安息日の掟 19−27
そして主は、エレミヤ書においては新しい話題を提供されます。
17:19 主は私にこう仰せられる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、17:20 彼らに言え。これらの門のうちにはいるユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ。主のことばを聞け。17:21 主はこう仰せられる。『あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門のうちに持ち込むな。17:22 また、安息日に荷物を家から出すな。何の仕事もするな。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりに安息日をきよく保て。
安息日です。エレミヤ書が、モーセによって与えられた契約の期限が切れたことを主が語っておられることを、これまで話してきました。モーセの契約において、安息日がその契約のしるしでした。出エジプト記31章16,17節にこう書いてあります。「イスラエル人はこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。これは、永遠に、わたしとイスラエル人との間のしるしである。それは主が六日間に天と地とを造り、七日目に休み、いこわれたからである。」
私たちの神は契約を結ばれる神です。そして、その契約を認証する印も明示されております。主がノアと結ばれた契約は、地上を洪水で滅ぼすことはもはやしない、というものでした。そして、こう言われています。「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる。(創世9:13)」虹が印でした。
アブラハムには多くの国民の父とするという約束を、主が与えられました。その契約のしるしは割礼です。「あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。(創世17:11)」そして、ダビデには世継ぎの子が神の国を相続するという約束が与えられましたが、印は処女から生まれる男の子です。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7:14)」
そして新しい契約、エレミヤに与えられた約束である新しい契約は、イエス様がこう言われて認証を与えられました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)」主が流される血が、新しい契約の印なのです。
このように契約と印があるのですが、イスラエルの民はその印であるところの安息日を守っていなかったのです。
17:23 しかし、彼らは聞かず、耳も傾けず、うなじのこわい者となって聞こうとせず、懲らしめを受けなかった。17:24 もし、あなたがたが、ほんとうにわたしに聞き従い、・・主の御告げ。・・安息日にこの町の門のうちに荷物を持ち込まず、安息日をきよく保ち、この日に何の仕事もしないなら、17:25 ダビデの王座に着く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この町の門のうちにはいり、この町はとこしえに人の住む所となる。
これまで彼らは安息日を守っていなかったのですが、主はそれでも彼らが聞き従う機会を与えておられます。エレミヤがエルサレムのすべての門を回るように命じ、そこに行き来する人々に対して安息日を語ることについて語りました。
17:26 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地や低地から、また山地やネゲブから、全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、穀物のささげ物や乳香を携えて来る者、感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。
「低地」と訳されているところは「シェフェラ」という地域で、イスラエルの中心部を南北に連ねている山々と地中海沿岸地域の間にある部分です。これらの名称を見ると、南ユダ地域全般から人々が来て、いけにえを携えることができる、ということです。
17:27 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日をきよく保たずに、安息日に荷物を運んでエルサレムの門のうちにはいるなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くして、消えることがないであろう。』」
印を守らなければ、それに伴う対価があるということです。私たちにとってその印は何でしょうか?先ほど引用した、イエス様が流された血です。主が流された血を私たちが自分たちの心に注がれていなければ、その人は、またその教会は、同じように対価を支払います。ヘブル人への手紙には、こう書いてあります。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。 (ヘブル10:29)」
ですから私たちは、いつも主の血潮を注いでいただかなければいけません。先ほど引用したヨハネ第一の手紙をもう一度引用します。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7)」主との交わりです。光の中の歩みです。そして、その交わりの中で、主の血が私たちの罪をすべて清めてくれます。
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME