アウトライン
1A 敵対される主 21
1B かつての奇しい業 1−10
1C バビロンの進入 1−7
2C 生きる道 8−10
2B 正しい裁き 11−14
2A 最後のユダの王家 22
1B 廃墟となる町 1−9
2B 帰らない王(エホアハズ) 10−12
3B 不義の王(エホヤキム) 13−19
1C 自分の為の宮殿 13−17
2C ろばと同じ死 18−19
4B 抜き取られる王(エホヤキン) 20−30
1C 砕かれる恋人 20−23
2C 絶たれる子孫 24−30
3A 主の立てられる牧者 23:1−8
1B 散らされた群れ 1−4
2B 「主は正義」 5−8
本文
エレミヤ書21章を開いてください、今日は21章から23章の前半、8節まで学びたいと思います。ここでのテーマは、「正しい若枝」です。
21章からエレミヤの預言はもっと具体的になります。2章から始まるエレミヤの預言は主に八つありましたが、すべて一般的なものでした。ユダが犯している罪に対して、神の怒りが下ることについての内容でした。その結果、最後の20章を読むと、主の宮の監督者であるパシュフルがエレミヤに鞭打ち、足かせにはめ、エルサレムの町の中で彼をさらし者にしたのです。最後にエレミヤが、落ち込んで、自分の生まれたことさえ呪っていた言葉で終わったことを思い出してください。
けれども21章からは、具体的な王の名前が出てきます。ヨシヤの死後、南ユダを治める王たちの名が出てきます。私たちが列王記第二、歴代誌第二の最後のところで読むことのできる最後の王です。
ヨシヤの死後、彼の子エホアハズが王になりました。彼は三ヶ月で、エジプトのパロに捕え移されました。次にエホヤキムが王になりました。彼はバビロンに反逆し、その結果、ネブカデネザルは略奪隊をユダに送りました。そしてその次に、エホヤキムの子エホヤキンが王となりますが、彼の治世も短く三ヶ月です。バビロンに捕え移されました。そして最後にゼデキヤが王となります。彼もバビロンに背き、ついにエルサレムが破壊されます。
このエホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの四人の王がこれから読む箇所に登場します。そして最後に、ユダから出るまことの王、正しい若枝なるイエス・キリストが出てきます。
1A 敵対される主 21
1B かつての奇しい業 1−10
1C バビロンの進入 1−7
21:1 主からエレミヤにあったみことば。ゼデキヤ王は、マルキヤの子パシュフルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤをエレミヤのもとに遣わしてこう言わせた。
話は、一番最後の王ゼデキヤ王の時から始まります。二人の者をエレミヤに遣わしていますが、その一人「パシュフル」は、20章に出てきた「イメルの子パシュフル」とは違う人物です。父親の名前が違いますが、時代が違います。20章はおそらくエホヤキムが王であった時の出来事です。
21:2 「どうか、私たちのために主に尋ねてください。バビロンの王ネブカデレザルが私たちを攻めています。主がかつて、あらゆる奇しいみわざを行なわれたように、私たちにも行ない、彼を私たちから離れ去らせてくださるかもしれませんから。」
これは、紀元前588年の出来事です。バビロンがエルサレムを包囲しました。そしてエルサレムがバビロンに抵抗しています。この二年後、586年にバビロンが進入しエルサレムを滅ぼします。
ゼデキヤは、おそらくヒゼキヤ王の時のことをここで言及しているのだと思います。「主がかつて行なわれた奇しい御業」というのは、エルサレムを包囲していたアッシリヤの軍隊を主が、一夜にして滅ぼしてくださったことでしょう。主はバビロンに対しても、同じようにしてくださるかもしれないと期待しています。けれども、今の主の御心は正反対です。次をご覧ください。
21:3 エレミヤは彼らに言った。「あなたがたは、ゼデキヤにこう言いなさい。21:4 イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『見よ。あなたがたは、城壁の外からあなたがたを囲んでいるバビロンの王とカルデヤ人とに向かって戦っているが、わたしは、あなたがたの手にしている武具を取り返して、それをこの町の中に集め、21:5 わたし自身が、伸ばした手と強い腕と、怒りと、憤りと、激怒とをもって、あなたがたと戦い、21:6 この町に住むものは、人間も獣も打ち、彼らはひどい疫病で死ぬ。
主は、バビロンに対して戦ってくださるのではなく、むしろバビロンと共にエルサレムに対して戦われます。彼らの武器はエルサレムの真中に集められる、つまりバビロンがエルサレムの城壁を破って、その中に入ってくるということです。それだけでなく、バビロンの手に拠らず、疫病によっても直接、主の手が下ります。
興味深いのは、ここで主がイスラエルを救うためにエジプトを打たれた時に出てきた「伸ばした手と強い腕」という表現が、ここで出てきていることです。主がイスラエルをかばってくださり、その敵に戦ってくださったその力強い御業は、今、かえってイスラエルに対して行なわれているということです。
21:7 そのあとで、・・主の御告げ。・・わたしはユダの王ゼデキヤと、その家来と、その民と、この町で、疫病や剣やききんからのがれて生き残った者たちとを、バビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す。彼は彼らを剣の刃で打ち、彼らを惜しまず、容赦せず、あわれまない。』」
疫病、剣、飢饉を逃れても、バビロンの手によって必ず殺されます。ゼデキヤはエルサレムの町から逃げますが、ついに捕えられ、自分の目の前で息子たちが虐殺され、そして自分自身の目がえぐり取られました。そして青銅の足かせにはめられて、バビロンに捕え移されます。自分の目で見る最後の記憶が、息子たちの虐殺という惨い仕打ちを受けました。
ゼデキヤは、神についての知識はありました。神は昔から、イスラエルの味方になってくださるという知識です。確かに神の契約はそのようなものでした。神は真実な方です。けれども、自分が神から離れ、神の命令に背き、自分の思うままのことを行っていながら、主の救いの働きを期待するのは間違っています。
これは新約においても同じです。ローマ人への手紙8章に、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(1節)」と断言されています。また、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(31節)」という約束があります。私たちは、この神の契約、神の約束を心の中に刻み込まなければいけません。
けれどもこの約束は、私たちが罪に対しては既に死んだ者とみなし、御霊に導かれているところにおいて有効です。失敗しても立ち上がり、主の中にとどまっていることが前提です。不義を行なっているのに、罪をためらいもなく犯し続けているのに、この約束が自分のものであると期待することはできないことを、新約聖書は教えています。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:9-10)」この他、ガラテヤ書5章19節以降、エペソ書5章5節、コロサイ3章5節以降、テサロニケ第一4章3節以降にあります。パウロは一貫して、「自分は救いの約束を受けたのだから、罪を犯し続けてもよい」と考えている者には、神の怒りが下ることを明確に告げています。
2C 生きる道 8−10
21:8 「あなたは、この民に言え。主はこう仰せられる。『見よ。わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。21:9 この町にとどまる者は、剣とききんと疫病によって死ぬが、出て、あなたがたを囲んでいるカルデヤ人にくだる者は、生きて、そのいのちは彼の分捕り物となる。21:10 なぜならわたしは、幸いのためにではなく、わざわいのためにこの町から顔をそむけるからである。・・主の御告げ。・・この町は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼くであろう。』」
このような神の裁きの中においても、神は彼らに「いのちの道」を置いてくださっています。御怒りの中にも憐れみを置いてくださっています。「いのちの道と死の道」というのは、申命記30章15節に出てきます。イスラエルに対するモーセの厳粛な言葉です。二つの道があり、祝福か呪いかのどちらかで、これはあなたがたが選ぶものだ、ということです。
「バビロンに投降すれば、バビロンはあなたがたを殺さない。分捕り物として、あなたがたをバビロンに地で生かす。」という約束です。これはもちろん、ユダヤ人にとってとてつもない屈辱です。耐え難いことです。けれども、この神の懲らしめの中に服することが命の道であり、癒しの道であります。
このことをきちんと行なったのが、あのダニエルです。彼は捕え移されたバビロンの地で、エレミヤの預言を読んだ後にこう祈りました。「主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。(ダニエル9:7)」あなたの裁きは正しいのです、という告白をダニエルは行ないました。
私たちの癒しの道、義と平和の道は、私たちの自尊心を養うことではなく、自画像、セルフ・イメージを良くすることではなく、神の懲らしめを甘んじて受けることなのです。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)」
2B 正しい裁き 11−14
21:11 ユダの王家のために。・・「主のことばを聞け。21:12 ダビデの家よ。主はこう仰せられる。朝ごとに、正しいさばきを行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。さもないと、あなたがたの悪行のために、わたしの憤りが火のように燃えて焼き尽くし、消す者はいない。」
この言葉は、実はエレミヤが前々から、王たちに語っていたことです。次の22章を読むと、ほとんど同じ言葉が出てきます。彼がこれを語っていたのに、ヨシヤ以降の王は聞き入れませんでしたが、今、エレミヤはゼデキヤにも同じ言葉を告げています。
「朝ごとに正しい裁きを行なう」とありますが、イスラエルとユダは三権分立の発達した民主主義の国ではありませんでした。絶対君主制でした。したがって、人々が何かの事件に巻き込まれて、それを訴え出る時には裁判所ではなく、王に直訴していました。
覚えていますか、ダビデの息子アブシャロムが民の心を王から自分になびかせるために、彼は「朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。(2サムエル15:2)」とあります。裁きのために王のところに来て訴えようとしていたからです。彼らに、アブシャロムが自分だったらその訴えを聞いてあげられるのに、王の側にはいないと言いました。このように、「朝ごとに正しい裁きを行なう」というのは王の責務だったのです。
そして、その裁きは、虐げられている者のために、虐げている者を王が代わりに裁くというものでした。聖書全体に、神が貧しい者の叫びを聞かれる、という根本的な姿勢を読むことができます。例えば、詩篇12篇5節、「主は仰せられる。『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。』」モーセの律法の中には、女性、奴隷、貧しい者、やもめ、在留異国人についての、彼らを弁護し、彼らを救済する数多くの定めがあります。
ですから、神の代理人として立てられている王が、これら弱者を虐げる者に厳しい制裁を加える役目を担わされていたのです。そしてこの責務を怠っている王に対しては、神は、今度は、容赦ない裁きを王自身に与えられます。
21:13 「ああ、この谷に住む者、平地の岩よ。あなたに言う。・・主の御告げ。・・あなたがたは、『だれが、私たちのところに下って来よう。だれが、私たちの住まいにはいれよう。』と言っている。
ここの「谷」は、エルサレムを囲む谷を指しています。町の東はケデロンの谷が、南と西にはヒノムの谷があります。つまりここは、北側だけを防御すれば、エルサレムは十分守られるという安心感を表しています。そして「平地の岩」というのは、谷に囲まれたエルサレムの町の中のことです。
21:14 わたしはあなたがたを、その行ないの実にしたがって罰する。・・主の御告げ。・・また、わたしは、その林に火をつける。火はその周辺をことごとく焼き尽くす。」
私たちは、自分たちには神の怒りはくだらないという変な安心感を抱いています。自分がこのような悪いことを行なっているが、その報いは受けないで済むだろうという変な期待を抱いているのです。けれども、神は行ないに応じて報われる方です。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。(ローマ2:6)」
「林に火をつける」とありますが、これは王の宮殿のことです。覚えていますか、ソロモンが建てた宮殿は「レバノンの森(1列王7:2)」と呼ばれました。レバノンの杉の木を使って宮殿を建てたからです。次の章で出てきますが、エホヤキムは無給で人々に働かせ、この宮殿をさらに拡大させました。これに火をつける、と主は言われます。具体的には、バビロンが火をつけてこれを燃やす、ということです。
2A 最後のユダの王家 22
1B 廃墟となる町 1−9
22:1 主はこう仰せられる。「ユダの王の家に下り、そこで、このことばを語って22:2 言え。『ダビデの王座に着いているユダの王よ。あなたも、この門のうちにはいって来るあなたの家来、あなたの民も、主のことばを聞け。
時間は前に戻っています。ヨシヤが死んだそのすぐ後にエレミヤが語り始めたと考えられます。
22:3 主はこう仰せられる。公義と正義を行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。
先に話したように、王はその与えられている絶対的な権力を、力がないために虐げられている人のために用います。力のある者が力のない人の弱さを担うのです。
この原則が教会の中にも働いています。パウロがローマ人への手紙の中で、こう書きました。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをみなうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。(15:1‐2)」これがいわゆる「ミニストリー」というものです。神の恵みによって与えられた賜物、力を用いることによって、弱い人を強め、立つことができるようにするのです。
これは実際しんどいことです。ちょうど、母親が毎日、子供に食事を与えるように、自分を顧みずに犠牲を払って行なうことです。(ユダの王もしんどかったと思います。朝起きたら、門の前に列をなして民が待っているのです。みな、何らかの形で不正や虐げを受けた人ばかりです。)でも、けれどもこれが神が私たちひとりひとりに願われていることであり、ひとりひとりが主に対してミニストリー、つまり奉仕を持っていなければいけません。
22:4 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行なうなら、ダビデの王座に着いている王たちは、車や馬に乗り、彼らも、その家来、その民も、この家の門のうちにはいることができよう。22:5 しかし、もしこのことばを聞かなければ、わたしは自分にかけて誓うが、・・主の御告げ。・・この家は必ず廃墟となる。』」
先ほどエレミヤが話した「命の道と死の道」が、ユダの王家の中にも存在します。彼らが弱い人たちのために裁くなら、彼らは幸せになれます。王としてその光栄と繁栄にあずかることができます。けれども、これを行なわなかったら、どんなにその家が繁栄しているように見えても、必ず廃墟となります。
22:6 まことに、ユダの王の家について、主はこう仰せられる。「あなたは、わたしにとってはギルアデ、レバノンの頂。しかし必ず、わたしはあなたを荒野にし、住む者もない町々にする。22:7 わたしはあなたを攻めるため、おのおの武具を持つ破壊者たちを準備する。彼らは、最も美しいあなたの杉の木を切り倒し、これを火に投げ入れる。
先に話したように、王の宮殿は杉の木に囲まれていました。主はそれを「ギルアデ、レバノンの頂」と呼ばれました。ギルアデはヨルダン川東岸、南北に広がる地域ですが、そこも森で有名なところです。彼らはその家と富を誇っていましたが、神がそれを破壊されます。
22:8 多くの国々の民がこの町のそばを過ぎ、彼らが互いに、『なぜ、主はこの大きな町をこのようにしたのだろう。』と言うと、22:9 人々は、『彼らが彼らの神、主の契約を捨て、ほかの神々を拝み、これに仕えたからだ。』と言おう。」
異邦人でさえもが、エルサレムの廃墟を見て、神を考えざるを得なくなります。つまり神は、イスラエルを祝福されることでご自分を証しされているだけではなく、ご自分が語られたとおりイスラエルを裁かれることにおいてもご自分を証しされているのです。ローマ3章4節に、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」とあります。
そして次から、具体的に王たちの行く末を予め告げます。
2B 帰らない王(エホアハズ) 10−12
22:10 死んだ者のために泣くな。彼のために嘆くな。去って行く者のために、大いに泣け。彼は二度と、帰って、故郷を見ることがないからだ。22:11 父ヨシヤに代わって王となり、この所から出て行った、ヨシヤの子、ユダの王シャルムについて、主はまことにこう仰せられる。「彼は二度とここには帰らない。22:12 彼は引いて行かれた所で死に、二度とこの国を見ることはない。」
これは、ヨシヤの子エホアハズに対する預言です。「シャルム」とはエホアハズのことです。彼について、列王記第二23章31節から書いてありますが読んでみましょう。
「エホアハズは二十三歳で王となり、エルサレムで三か月間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナの出のエレミヤの娘であった。彼は、その先祖たちがしたように、主の目の前に悪を行なった。パロ・ネコは、彼をエルサレムで王であったときに、ハマテの地リブラに幽閉し、この国に銀百タラントと金一タラントの科料を課した。ついで、パロ・ネコは、ヨシヤの子エルヤキムをその父ヨシヤに代えて王とし、その名をエホヤキムと改めさせ、エホアハズを捕えて、エジプトへ連れて行った。エホアハズはそこで死んだ。(31-34節)」
ヨシヤは、バビロンと戦っているアッシリヤを助けるために北上しているエジプトのパロ、ネコと戦いました。そしてメギドで戦死しました。その後、ユダの民は彼の子、エホアハズを王に立てたのです。けれども、この動きをネコは気に入らず、自分に従属する王を別に立てたのです。それがエホヤキムです。
そしてネコはエホアハズをエジプトに連れて行き、エホアハズはエジプトで死にました。たった三ヶ月の話です。ヨシヤの死を悼んでいたのですが、そんなことより、自分自身の境遇を悼み、悲しめと命じておられます。
3B 不義の王(エホヤキム) 13−23
そしてエジプトによって立てられたエホヤキムに対する預言が次にあります。彼はかなりの悪者です。
1C 自分の為の宮殿 13−17
22:13 「ああ。不義によって自分の家を建て、不正によって自分の高殿を建てる者。隣人をただで働かせて報酬も払わず、22:14 『私は自分のために、広い家、ゆったりした高殿を建て、それに窓を取りつけ、杉の板でおおい、朱を塗ろう。』と言う者。
彼はエジプトに銀と金を送らなければならずそのために民に重税を課しましたが、民が苦しんでいるのを知っていながら、なんと無賃金で自分の宮殿の改築を行なわせていました。
22:15 あなたは杉の木で競って、王になるのか。あなたの父は飲み食いしたが、公義と正義を行なったではないか。そのとき、彼は幸福だった。
王のすばらしさは杉の木で決まるのか?と主は問いかけておられます。そうではなく、公義と正義によってではないか、と言われています。その例として、彼の父ヨシヤと取り上げておられます。彼はたしかに富がありました。「飲み食いしたが」とあり、豊かに暮らしていました。けれども、彼は自分の住まいによって幸福だったのではなく、公義と正義を行なったからです。
22:16 彼はしいたげられた人、貧しい人の訴えをさばき、そのとき、彼は幸福だった。それが、わたしを知ることではなかったのか。・・主の御告げ。・・
ここに大事な言葉が出てきました。「わたしを知る」という言葉です。この「知る」は近しい関係に入る、親しくなる、という意味です。何をもって、ヨシヤは主を知りましたか?「虐げられた人、貧しい人の訴えを裁く」ことをもって、彼は主を近しく知っていました。具体的に人々に仕え、行動に移していた時に彼は主との親しい関係を持っていたのです。
私たち福音派と呼ばれる教会では、しばしば「神を知的に知るだけでは不十分である」と話します。頭だけで知識として知っているだけでは、救いを得られないことを強調します。そして心で信じて、初めて主を知ることができる、と話します。その通りです。
けれども、それを感情的に知った、と言い換えることができる場合が数多くあります。親しく知っていると思われる人が、あまりにもキリストの命令とはかけ離れたことを行ない得るのです。感情的に知るのも不十分なのです。行動を起こすことによって、初めて主を知ることができるのです。
ヨハネがこのことについて、詳しく話しています。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。(1ヨハネ4:7)」兄弟を愛することによって、初めて神を知っているのだと言っています。さらに、こうも言っています。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。(1ヨハネ3:16‐17)」具体的な愛の行ないがあってこそ、神の愛がとどまっていると言っています。
22:17 しかし、あなたの目と心とは、自分の利得だけに向けられ、罪のない者の血を流し、しいたげと暴虐を行なうだけだ。
2C ろばと同じ死 18−19
そして次に、このような暴虐を働いたエホヤキムが、同じような目に自分自身が遭うことをエレミヤは告げています。
22:18 それゆえ、ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムについて、主はこう仰せられる。だれも、『ああ、悲しいかな、私の兄弟。ああ、悲しいかな、私の姉妹。』と言って彼をいたまず、だれも、『ああ、悲しいかな、主よ。ああ、悲しいかな、陛下よ。』と言って彼をいたまない。22:19 彼はここからエルサレムの門まで、引きずられ、投げやられて、ろばが埋められるように埋められる。
彼は民からも、実に自分の家の者からも非常に嫌われます。死んでも、悼む者がいないのです。そして何と、彼はエルサレムの門から引きずられて、投げやられて、ろばが埋められるように埋められます。
エホヤキムは、その治世の第三年ネブカデネザルが王となったときにバビロンに捕え移されます(2歴代36:5‐7)。他の王族の者たちも捕え移されますが、その中にダニエルや三人の友人がいました(ダニエル1:1)。けれども、理由は分かりませんが彼はエルサレムに戻されました。そして今度は、エジプトではなくバビロンに従属することになります。
そして三年後、バビロンが勢力をさらに広げるべくエジプトに向かいましたが、その時は、エジプトはバビロンを追い返しました。これを見て、彼はエジプトの側につくことにし、バビロンに反逆したのです。そこでネブカデネザルは略奪隊を、自分の国から、またアラムやモアブ、アモン人を使って送ります(以上2列王24:1‐2)。
それで彼はエルサレムから追い出されるのです。おそらくエルサレムの住民は、バビロンを恐れて、降伏のしるしとしてエルヤキムをエルサレムからつまみ出したのでしょう。誰かが彼を殺したのかもしれません。そこで、ここのエレミヤの預言にあるように、ろばが埋められるように埋められるという言葉が実現したのでしょう。
4B 抜き取られる王(エホヤキン) 20−30
次からは、エホヤキムの子エホヤキンに対する預言です。
1C 砕かれる恋人 20−23
22:20 レバノンに上って叫び、バシャンで声をあげ、アバリムから叫べ。あなたの恋人はみな、砕かれたからである。
「バシャン」は今のゴラン高原です。ガリラヤ湖の北東にある高原地帯です。そして「アバリム」はヨルダン川の東にある山々です。エリコの向こう側にあります。そしてレバノンですが、これら周囲の民とユダは同盟を結んでいました。バビロンに対抗するためでしたが、それで主はこの地域の人々を「あなたの恋人」と呼ばれています。
エジプトに代わって、バビロンがこの地域全体に入り、国々を倒していきました。列王記第二24章7節に、「エジプトの王は自分の国から再び出て来ることがなかった。バビロンの王が、エジプト川からユーフラテス川に至るまで、エジプトの王に属していた全領土を占領していたからである。」とあります。
22:21 あなたが繁栄していたときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『私は聞かない。』と言った。わたしの声に聞き従わないということ、これが、若いころからのあなたの生き方だった。
エホヤキンは十八歳の時に王になりました。若いですが、主が彼に幼いころから語りかけておられたのでしょう。でも彼はかたくなに、「私は聞かない」という態度を取り続けました。
22:22 あなたの牧者はみな風が追い立て、あなたの恋人はとりこになって行く。そのとき、あなたは自分のすべての悪のゆえに、恥を見、はずかしめを受ける。
「牧者」は指導者のことです。父エホヤキムがエルサレムからいなくなりました。そして、恋人である周囲の民もとりこになって行きました。
22:23 レバノンの中に住み、杉の木の中に巣ごもりする女よ。陣痛があなたに起こるとき、産婦のような苦痛が襲うとき、あなたはどんなにうめくことだろう。」
宮殿の中にずっととどまっている彼を主は、「巣もごりする女」と呼ばれています。主の前に出ていって、へりくだり、心を広げるのではなく、宮殿の中に閉じこもりました。
2C 絶たれる子孫 24−30
22:24 「わたしは生きている、・・主の御告げ。・・たとい、エホヤキムの子、ユダの王エコヌヤが、わたしの右手の指輪の印であっても、わたしは必ず、あなたをそこから抜き取り、22:25 あなたのいのちをねらう者たちの手、あなたが恐れている者たちの手、バビロンの王ネブカデレザルの手、カルデヤ人の手に渡し、22:26 あなたと、あなたの産みの母を、あなたがたの生まれた所ではないほかの国に投げ出し、そこであなたがたは死ぬことになる。22:27 彼らが帰りたいと心から望むこの国に、彼らは決して帰らない。」
「エコヌヤ」はエホヤキンのことです。「右手の指輪の印」とは、王の権威によって何かを認証する時に使う印のことです。いわゆる判子ですね。ですから王にとって自分の体の一部のようなものです。
主はエコヌヤを「わたしの右手の指輪の印であっても」と言われています。エコヌヤはダビデの家の者です。ダビデの家に世継ぎの子が与えられると主がダビデに約束されたその継承者です。ですから神にとって彼は、右手の指輪の印のような存在です。
そうであっても、主は彼を抜き取られたのです。主ご自身が、契約の堅さ、それが変更されることのない、確かな約束であることを知っておられました。けれども、彼らが主を完全に捨ててしまっている今、その約束を破棄せざるを得なくなったのです。
「私はイエスを以前信じたのだから、その後の生活がどうであれ必ず天国に行けるのだ。」という考えは、ちょうどこれと同じです。永遠のいのちの約束は確かなのです。けれども、主を捨てて、主が与えられた御霊をないがしろにして、契約の血、その罪の赦しと贖いを踏みつけるようなことをするのであれば、残るは生ける神の怒りだ、ということをヘブル書の著者は語っています(10:29参照)。
エホヤキンは三ヶ月間だけの王でした。彼が王になってすぐにネブカデネザルがやって来て、彼をバビロンに捕え移しました。彼は王になったとき若かったので、母が力を持っていたのですが、母もともにバビロンに捕え移されることになります(2列王24:10‐17)。
22:28 このエコヌヤという人は、さげすまれて砕かれる像なのか。それとも、だれにも喜ばれない器なのか。なぜ、彼と、その子孫は投げ捨てられて、見も知らぬ国に投げやられるのか。
エコヌヤは父エホヤキンと違って、別に民から嫌われていたわけではありません。後に偽預言者が、彼はバビロンから必ず戻ってくるという預言をしているほどで、民は期待をかけていたぐらいです。
では、なぜ投げ捨てられてしまったのか?これは主ご自身が行なわれたことであることを明らかにするためでした。
22:29 地よ、地よ、地よ。主のことばを聞け。22:30 主はこう仰せられる。「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。」
非常に興味深い預言がここにあります。エホヤキンの次の王はゼデキヤです。彼はエホヤキンのおじです。エホヤキンには息子が七人いましたが、ダビデの家を受け継ぐ者はいませんでした。
ここで問題になるのが、マタイによる福音書1章にあるイエス・キリストの系図です。その中に、「バビロン移住の後、エコニヤにサラテルが生まれ(12節)」という記述があります。エコニヤの名前が系図の中にあるのです。
けれどもマタイは注意深く16節に、「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」と記しています。「イエスの父」ではなく「マリヤの夫」なのです。なぜならマリヤは処女の時にイエス様を身ごもったのであり、ヨセフとイエス様には血のつながりがないからです。
ですからマタイによる福音書の系図は、公式のダビデ王朝の継承者としての主の姿を描いてはいるのですが、ダビデの子孫としての系図は他にあります。ルカによる福音書3章23節から、また別の系図があります。「このヨセフは、ヘリの子・・・」とありますが、ヘリはヨセフの義理の父であり、実際はマリヤの父です。そして順次さかのぼると、ダビデの息子「ナタン」の名が出てきます。その後は、マタイの系図と同じです。
つまりマタイの系図は、ソロモンからの王の継承が記録されているのに対して、ルカはダビデの別の息子ナタンからの子孫の系図が記録されているのです。このことによって、イエス様がダビデの家を受け継ぐ子、神の国を治めるメシヤであるという証拠は成り立つのです。
3A 主の立てられる牧者 23:1−8
こうして、ゼデキヤ、エホアハズ、エホヤキム、そしてエホヤキンがいかにダビデへの神の約束を反故にさせてしまったかを見ました。主がエコヌヤの子孫から王を出さないといわれた時点で、ダビデの家に何の希望も見出せないかのようになってしまいました。けれども違います。次から神の回復の計画があります。
1B 散らされた群れ 1−4
23:1 「ああ。わたしの牧場の群れを滅ぼし散らす牧者たち。・・主の御告げ。・・」23:2 それゆえ、イスラエルの神、主は、この民を牧する牧者たちについて、こう仰せられる。「あなたがたは、わたしの群れを散らし、これを追い散らして顧みなかった。見よ。わたしは、あなたがたの悪い行ないを罰する。・・主の御告げ。・・
「牧者」というと、今では教会の牧師のことを連想しますが、もともとは全般的に指導者を表す言葉でした。ここでは今、私たちが見てきた王たちのことを指しています。
弱った者のために裁きを行なわなければいけない、つまり羊を守り、羊をかばわなければいけないはずの牧者が、かえってそれを散らしてしまったことを咎めておられます。具体的に、ユダの民とエルサレムの住民の大多数が死に、残された者はバビロンに捕え移されました。
23:3 しかし、わたしは、わたしの群れの残りの者を、わたしが追い散らしたすべての国から集め、もとの牧場に帰らせる。彼らは多くの子を生んでふえよう。
ここからです。この文章の主語に注目してください。「わたしは」ですね。主ご自身です。主ご自身が散らされた残りの羊の群れを集めてくださいます。
ここに福音、良い知らせがあります。聖書の中で、主が「わたしが」と言われているとき、そこには人間にはできなくなっていることという前提があります。人間の行ないによっては、救いはないのです。エコヌヤの子孫は王として残らないという、絶望しかないのです。けれども、だから神がご自分で行なわれるのです。
これが、エレミヤの描いている、モーセを通して与えられた契約の限界です。イスラエルの従順がその契約を成り立たせるのに必要な条件だったのです。けれどもエレミヤ書には後で「新しい契約」が登場します。イスラエルが守り行なうことができなかったから、今度は、わたしがこの契約を成立させる、と約束してくださっています。神ご自身が、私たちにはできなくなっていることを、キリストにあって行なってくださるのです。
23:4 わたしは彼らの上に牧者たちを立て、彼らを牧させる。彼らは二度と恐れることなく、おののくことなく、失われることもない。・・主の御告げ。・・
バビロンからの帰還後、ユダには何人かの指導者がいました。ゼルバベルとヨシュア、そしてエズラ、さらにネヘミヤがいます。彼らは優れた指導者であり、牧者でした。けれども究極的には、彼らではありません。彼らはまだペルシヤの支配に中におり、恐れることなく、おののくことなく、失われることもない、という状態ではありませんでした。
イエス様は、ご自分のことを「良い牧者」と呼ばれました。単なる雇われの羊飼いであるならば危険が迫ったら逃げてしまうが、わたしは羊のために命を捨てると言われました。実際、主は、群集を眺めて、弱った羊のようになっているのを見てかわいそうに思い、宣教の働きを行なわれました。そして最後、「十字架につけろ」とののしる彼らのために、「何をしているのかわからないのです、赦してください」と祈りながら、息を引き取られたのです。
この同じ主が再び来られる時に、この預言が成就します。次をご覧ください。
2B 「主は正義」 5−8
23:5 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。
ダビデの若枝です。これはイザヤも預言したことで、メシヤのことです。けれどもここエレミヤ書では、「正しい若枝」とあります。なぜなら、先に見た不義の王たちとは違って、この方は公義と正義を行なわれるからです。
23:6 その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。
新改訳聖書では、ここの「主」が太字になっています。これは神の名前です。יהוה(YHWH)です。子音だけなので、「ヤハウェ」とも読めるし「エホバ」とも読めます。この名前の元々の意味は「一つになる」です。私たちに必要があるとき、その必要になってくださる、ということです。
この名前で主はかつて、何度も現れてくださいました。アブラハムがイサクをささげる時は、「ヤハウェ・イルエ」主が備え、となられました。主が羊を備えてくださったからです。荒野でイスラエルがアマレク人と戦った時は、「ヤハウェ・ニシ」主は旗になってくださいました。ギデオンがこれからイスラエルを率いて、ミデヤン人と戦わなければいけないときは、「ヤハウェ・シャローム」です。彼は不安でしたが、主が平安になってくださいました。
そしてここでは、「主は私たちの正義」です。「ヤハウェ・ツィドゥケヌ」です。エレミヤの時代、どんなに正義が必要だったことでしょうか。これが最も欠けていました。何度も何度も、「正しいさばき」「公義」「正義」の言葉が出てきました。これがなかったので、エルサレムは滅びました。
けれども主ご自身が正義になってくださいます。主が戻って来られ、世界中に散らされたイスラエルの民を集められ、彼らを、正義をもって治めてくださいます。
23:7 それゆえ、見よ、このような日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、彼らは、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる。』とはもう言わないで、23:8 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる。』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」
イスラエルは、自分たちの救い、贖いを確認するために、常に出エジプトを思い出していました。今でも過越の祭りを祝い、エジプトでの苦役とそこからの贖いを思い起こしています。
けれども、それは次に来る主の輝かしい贖いの御業とは比べものになりません。主が世界中から離散の民を集めて、イスラエルの地に住まわせてくださるとき、これが彼らにとっての救いとなり、贖いとなるのです。彼らはエジプトから贖われて、モーセによって神と契約を結びましたが、今度は世界中から贖われて、主ご自身が御霊を注がれ、新しい契約を彼らと結ばれます。
私たちが生きている今現在でも、どれだけ正義が必要とされているでしょうか?指導者が、弱っている人、困っている人を擁護し、弁護する働きを行なっているでしょうか?そのような指導者が出てきたら、という期待を人々は持っています。実はそれはメシヤ到来の期待なのです。
けれども、メシヤは既に来られました。イエス様がすでに貧しい人、弱い人を解放するために来られました。この方が十字架につけられたという言葉を信じる時、私たちはまことの救いを得るのです
そしてこの正義を主は信じる者に与えてくださっています。キリストのからだが、弱い人の弱さを担うことによって、人々のために労苦することによって、この正義を見ることができるようになるのです。
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