アウトライン
1A 今の励まし 29
1B 捕囚の中で 1−20
1C 定住への勧め 1−9
2C 七十年後の帰還 10−14
3C 残された者の破滅 15−20
2B 偽預言者への呪い 21−32
1C 恥ずべき事 21−23
2C 迫害 24−32
2A 終わりの日の幻 30−31
1B 土地 30
1C イスラエルとユダの帰還 1−3
2C 大患難 4−11
3C 傷の癒し 12−17
4C エルサレムの再建 18−24
2B 民 31
1C エフライムへの慰め 1−22
1D 永遠の愛 1−6
2D 残りの民の帰還 7−14
3D ラケルの泣き声 15−22
2C ユダの建て直し 23−40
1D 魂への潤い 23−26
2D 神による種蒔き 27−30
3D 新しい契約 31−37
4D 新しいエルサレム 38−40
本文
エレミヤ書29章を開いてください、今日は29章から31章までを学んでいきます。ここでのメッセージ題は、「将来と希望の計画」です。
1A 今の励まし 29
29章ですが、これは前回の学びである偽預言者との対決の続きになります。エレミヤは、いろいろな人々に、これから神が行なわれることを預言しなければいけませんでした。ユダの王や祭司だけでなく、エルサレムに集まってきた周囲の諸国からの使者に対しても、バビロンに服さなければいけないことを放しました。エルサレムの中だけでなく、周囲の国々でも偽預言を行なっている人々がいたからです。
そして29章は、第一次、第二次バビロン捕囚ですでにバビロンに住んでいる人々に対して手紙を送って預言をしています。なぜなら、既に捕え移された人々にも偽預言を行なう人々がいたからです。
1B 捕囚の中で 1−20
1C 定住への勧め 1−9
29:1 預言者エレミヤは、ネブカデネザルがエルサレムからバビロンへ引いて行った捕囚の民、長老たちで生き残っている者たち、祭司たち、預言者たち、およびすべての民に、エルサレムから手紙を送ったが、そのことばは次のとおりである。29:2 ・・これは、エコヌヤ王と王母と宦官たち、ユダとエルサレムの貴族たち、職人と鍛冶屋たちが、エルサレムを出て後、29:3 ユダの王ゼデキヤがバビロンの王ネブカデネザルのもとに、バビロンへ遣わした、シャファンの子エルアサとヒルキヤの子ゲマルヤの手に託したもので、次のように言っている。・・29:4 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。29:5 家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。29:6 妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。29:7 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。」29:8 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「あなたがたのうちにいる預言者たちや、占い師たちにごまかされるな。あなたがたが夢を見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。29:9 なぜなら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。・・主の御告げ。・・」
偽預言者たちは、間もなく主がバビロンのくびきを打ち砕き、捕え移された民はエルサレムに戻ることができるという預言を行なっていました。前回学んだ28章では、主の宮でハナヌヤが、あと二年でバビロンに戻ってくると預言していたのです。けれども事実は次の10節に出てきますが、バビロン捕囚には70年が定められているのです。手紙が出された時には既に数年経っていましたが、あと少なくとも60年ぐらいはバビロンに住むことになります。
だからエレミヤは、「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ」という言葉を伝えたのです。また子も生んでもよい、結婚もしてもよい、と勧めています。しっかり定着して、生活をしなさいと命じているのです。
さらに神は、バビロンの町のためにも繁栄を求め、そのために主に祈れと命じておられます。バビロンに反逆することを強く願っていたユダの民にとって、これは許せないことでした。けれどもそうしなさい、と神は命じておられるのです。
ここに私たちは、終わりの時に生きるキリスト者の姿を見ることができます。この世に生きていていますが、それは過ぎ去ると主は私たちに教えておられます。だから、この世における生活を放棄してよいのかと言ったら、そうではありません。むしろ、しっかり働きなさいというのが主の命令です。「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。(2テサロニケ3:12)」と、パウロはテサロニケの人たちに対して、終わりの時について話した後に勧めたのです。
さらに、自分が住んでいる国の人々のためにも祈りなさいというのも私たちに対する命令です。終わりの日は確かに、地上の王たちが私たちの神とキリストに反逆する日であります(詩篇二篇参照)。これら地上の王たちの中から反キリストが現われ、反キリストは神に対してけがしごとを言うことで知られます。だからなおさらのこと、地上の国の指導者に反逆はしたくても、祈りなさいという命令には従いにくいのです。けれどもパウロもペテロも、「上に立つ人を敬い、その人たちのために祈りなさい」と命じているのです(1テモテ2:1、1ペテロ2:17)。静かに、慎ましく、神を畏れかしこみつつ生きる、というのが終わりの日におけるキリスト者の特徴です。
2C 七十年後の帰還 10−14
けれども、私たちはこの世に属する者たちではありません。この世で主に仕えますが、この世は過ぎ去る時が来ます。だからこの世の事柄に密着してもいけないというのも一つの命令です。当時のバビロンにいたユダヤ人も、ずっとバビロンに住むのではなく、七十年後には帰還するという約束を与えられていました。
29:10 まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
有名な聖句ですね。私たちに対する神の幸いな約束、将来と希望、そして平安を与えるための計画です。神が私たちのために、最善の計画を立てておられるという確信を与える御言葉です。
けれどもその文脈、背景を知らなければいけません。ユダヤ人がバビロンにいる時に主はこの約束を与えてくださった、ということです。苦しみと屈辱、不便と試練、これからどうなっていくのか分からない不安、そのようなものを抱えている時に与えられた約束です。自分の目で見れば、幸いどころか災いしか感じることができないような状況の中で与えられた約束です。私たちの人生がこれからバラ色になるという約束ではありません。むしろ、困難な中にあっても得ることができる幸いをここでは約束しているのです。
有名なローマ人への手紙8章28節の御言葉も同じです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」これを読んで私たちは慰められますが、けれどもその益とは、あるいはその善とはいったい何でしょうか?次の言葉、29節を読まないと分かりません。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」その善とは、私たちが御子のかたちと同じ姿になることです。それらの困難を通して、私たちの内側がさらに練り清められ、キリストに似姿に近づいていくことが善であり、益なのです。私たちにとって益というよりも、神にとって益、神の栄光になるということでの益なのです。
そしてここの約束は、「呼び求めて、祈り、心を尽くして捜し求めるなら」という条件付きです。そのような困難の中で、主を呼び求め、祈り、心を尽くして捜し求める時に初めて、私たちは神がどのような思いを思っておられるのかを知ることができる、というものです。私たちが主を追い求めることをせずに、ただ無目的に生活を送っていれば、この幸いを確信することはできません。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7-8)」
29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。・・主の御告げ。・・わたしは、あなたがたの捕われ人を帰らせ、わたしがあなたがたを追い散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる。」
これが神がユダヤ人に与えておられる幸いな約束です。バビロンなのに「すべての国々」と書かれているのは、バビロンが単なる国ではなく帝国であったからです。諸国民、諸国語、諸民族を従えていた世界帝国だったからです。
3C 残された者の破滅 15−20
29:15 あなたがたは、「主は私たちのために、バビロンでも預言者を起こされた。」と言っているが、29:16 まことに、主は、ダビデの王座に着いている王と、この町に住んでいるすべての民と、捕囚としてあなたがたといっしょに出て行かなかったあなたがたの兄弟について、こう仰せられる。29:17 万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らの中に、剣とききんと疫病を送り、彼らを悪くて食べられない割れたいちじくのようにする。
覚えていますか、エレミヤは主の宮のところで幻を見ました。良いいちじくの実が入っているかごと、悪いいちじくの実のかごです。良いいちじくはバビロンにいる民、悪いいちじくはエルサレムの住民です。
29:18 わたしは剣とききんと疫病で彼らを追い、彼らを、地のすべての王国のおののきとし、わたしが彼らを追い散らしたすべての国の間で、のろいとし、恐怖とし、あざけりとし、そしりとする。29:19 彼らがわたしのことばを聞かなかったからだ。・・主の御告げ。・・わたしが彼らにわたしのしもべである預言者たちを早くからたびたび送ったのに、あなたがたが聞かなかったからだ。・・主の御告げ。・・29:20 わたしがエルサレムからバビロンへ送ったすべての捕囚の民よ。主のことばを聞け。」
彼らの目には、エルサレムに居残っている人々のほうが幸いなのです。そして自分たちが悲惨だと思っています。けれども実際はその逆なのだ、というのが本当の預言です。私たちの目に良いと思われることを行なうことがいかに間違っているか、聖書は警告しています。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12,16:25)」
2B 偽預言者への呪い 21−32
1C 恥ずべき事 21−23
29:21 イスラエルの神、万軍の主は、わたしの名によってあなたがたに偽りを預言している者であるコラヤの子アハブと、マアセヤの子ゼデキヤについて、こう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はあなたがたの目の前で、彼らを打ち殺す。29:22 バビロンにいるユダの捕囚の民はみな、のろうときに彼らの名を使い、『主がおまえをバビロンの王が火で焼いたゼデキヤやアハブのようにされるように。』と言うようになる。
「神はバビロンを打ち、あなたがたを救われる」と預言していたこの二人は、ネブカデネザルによって火で焼かれます。覚えていますか、同じようにバビロンにいたダニエルの三人の友人もまた、ネブカデネザルによって燃える火の炉に投げ入れられましたが、何の害も受けず救い出されました。このアハブとゼデキヤはそのまま燃やされたようです。
29:23 それは、彼らがイスラエルのうちで、恥ずべきことを行ない、隣人の妻たちと姦通し、わたしの命じもしなかった偽りのことばをわたしの名によって語ったからである。わたしはそれを知っており、その証人である。・・主の御告げ。・・」
偽預言者の特徴を、私たちは以前も学びました。その預言の言葉が偽りであるだけでなく、その行ないが偽りであるということです。初代教会の中にも偽預言者が忍び込んでいましたが、そこにも偽りの教えと共に恥ずべき行ないを警告しています。ペテロ第二2章14節には、「その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。」とあります。
2C 迫害 24−32
エレミヤはまた別の偽預言者の名を挙げています。
29:24 あなたはネヘラム人シェマヤに次のように言わなければならない。29:25 「イスラエルの神、万軍の主は、次のように仰せられる。あなたは、あなたの名によって、エルサレムにいるすべての民と、マアセヤの子、祭司ゼパニヤ、および、すべての祭司に次のような手紙を送った。29:26 『主は、祭司エホヤダの代わりに、あなたを祭司とされましたが、それは、あなたを主の宮の監督者に任じて、すべて狂って預言をする者に備え、そういう者に足かせや、首かせをはめるためでした。29:27 それなのに、なぜ、今あなたは、あなたがたに預言しているアナトテ人エレミヤを責めないのですか。29:28 それで、彼はバビロンの私たちのところに使いをよこして、それは長く続く。家を建てて住みつき、畑を作ってその実を食べなさいと、言わせたのです。』」
シェマヤは、今バビロンにいます。けれども、エレミヤの預言を手紙で読んで非常に怒り、彼に足かせや首かせをはめよ、という手紙をエルサレムに出しています。
これが偽預言者の第二の特徴と言ってよいでしょう。それは、「本当の預言者を迫害する」ということです。預言者や聖徒を迫害するのはこの世だけではありません。同じ預言者、同じ聖徒であるはずの人々が、この世の価値観に便乗しているために迫害するのです。
29:29 ・・祭司ゼパニヤがこの手紙を預言者エレミヤに読んで聞かせたとき、29:30 エレミヤに次のような主のことばがあった。・・
受け取ったゼパニヤはその命令に従わずに、エレミヤに読み聞かせました。エレミヤを預言者とは認めていたようです。
29:31 「すべての捕囚の民に言い送れ。主はネヘラム人シェマヤにこう仰せられる。わたしはシェマヤを遣わさなかったのに、シェマヤがあなたがたに預言し、あなたがたを偽りに拠り頼ませた。29:32 それゆえ、主はこう仰せられる。『見よ。わたしはネヘラム人シェマヤと、その子孫とを罰する。彼に属する者で、だれもこの民の中に住んで、わたしがわたしの民に行なおうとしている良いことを見る者はいない。・・主の御告げ。・・彼が主に対する反逆をそそのかしたからである。』」
神がバビロンにいるご自分の民のために行なおうとされている平安の計画、将来と希望を与える計画は、彼らの子孫には実現しないという宣言です。同じバビロンにいるのですが、場所を問わず、彼らだけにはその幸いは訪れません。
2A 終わりの日の幻 30−31
そして30章に入ります。ここから33章まで、神の怒りと裁きの預言の中にある慰めと幸いの計画を読むことができます。今日は前半部分、30章と31章を読んでみたいと思います。
1B 土地 30
1C イスラエルとユダの帰還 1−3
30:1 主からエレミヤにあったみことばは、次のとおりである。30:2 イスラエルの神、主はこう仰せられる。「わたしがあなたに語ったことばをみな、書物に書きしるせ。30:3 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、わたしの民イスラエルとユダの捕われ人を帰らせると、主は言う。わたしは彼らをその先祖たちに与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」
エレミヤは、70年後にユダヤ人がエルサレムに戻ってくるという神の預言を語っていましたが、それとは異なり、もっと大きな規模で起こる最終的なユダヤ人の帰還を見ます。「その日」とありますが、イザヤ書にも数多く出てきました。これは神が最終的に完成してくださる計画、終わりの日に行なってくださることを示す表現です。そして「イスラエルとユダの捕われ人を帰らせる」つまり、南ユダの民だけではなく北イスラエルを含む、すべての民、イスラエル全体の帰還についてです。
そしてこれをエレミヤは、夢の中で見たようです。31章26節に、「ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。」とあります。将来と希望を与える夢、これを見て眠りが心地よかったと言っています。そしてこれを書物として書き記せ、夢で終わらせてしまうのではなく、わたしの啓示として書き記せと今、神がエレミヤに命じておられるのです。
2C 大患難 4−11
30:4 主がイスラエルとユダについて語られたことばは次のとおりである。30:5 まことに主はこう仰せられる。「おののきの声を、われわれは聞いた。恐怖があって平安はない。30:6 男が子を産めるか、さあ、尋ねてみよ。わたしが見るのに、なぜ、男がみな、産婦のように腰に手を当てているのか。なぜ、みなの顔が青く変わっているのか。30:7 ああ。その日は大いなる日、比べるものもない日だ。それはヤコブにも苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。
とてつもない苦難を、産婦でもないのに腰を当てて苦しんでいることによって表現しています。これを「ヤコブにも苦難の時」つまり、イスラエルの民、ユダヤ人にとっての苦しみの時であると言っています。
聖書には「主の日」という日、終わりの日に起こる大患難について数多く預言しています。「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。(イザヤ13:6-8)」
これは「すべての者」つまり地上にいる諸国の民に襲いかかる患難ですが、ユダヤ人には特別な意味をもって、また特別な取り扱いとして襲ってくることを聖書では預言しています。イエス様が大患難の始まりについて語られる時、「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。・・・あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。(マタイ24:16,20)」と言われました。ユダヤにいる、また安息日を守っているユダヤ人に対して語っておられるのです。ダニエルがかつて語った「荒らす憎むべき者」、ギリシヤから出てきたアンティオコス・エピファネスが神殿を汚し、ユダヤ人を虐殺したように、反キリストはあなたがたを迫害します、という預言だったのです。
これが黙示録12章にも出てきて、ひとりの女が荒野に逃げて、竜が彼女を食い殺そうとしている幻として表れています。
その患難の目的は、7節「彼はそれから救われる」であります。諸国の民にとって大患難は神の怒りの現われですが、ユダヤ人にとって神の懲らしめの現われなのです。彼らのかたくなさが砕かれて、そしてイエス・キリストこそが、自分たちが待ち望んでいたメシヤ、救い主であることを認めるための神の取り扱いなのです。物理的な救いだけではなく、霊的な救いを受ける約束であります。
30:8 その日になると、・・万軍の主の御告げ。・・わたしは彼らの首のくびきを砕き、彼らのなわめを解く。他国人は二度と彼らを奴隷にしない。30:9 彼らは彼らの神、主と、わたしが彼らのために立てる彼らの王ダビデに仕えよう。
ユダヤ人の離散の歴史は、バビロン捕囚から始まりました。彼らはペルシヤ時代にエルサレムへ帰還することができ、また自治を許されましたが、かつてのようにユダヤ人を王とする主権国家ではなかったのです。今でこそイスラエルは主権を取り戻しましたが、それでも彼らは大国の意向にいつも聞き従わなければいけない弱い立場にいます。
このようなくびきや縄目をわたしは解くという約束です。そして確かに、あなたがたの王ダビデを立てるという約束です。この「ダビデ」が、実際にダビデが復活して彼らを支配するのか、それともダビデに神が約束された「世継ぎの子」、メシヤを表しているのか、聖書教師、聖書学者によって意見が分かれます。私は、おそらくメシヤではないかと思います。御使いガブリエルが、イエス様をみごもるマリヤに告げました。「また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(ルカ1:32‐33)」
30:10 わたしのしもべヤコブよ。恐れるな。・・主の御告げ。・・イスラエルよ。おののくな。見よ。わたしが、あなたを遠くから、あなたの子孫を捕囚の地から、救うからだ。ヤコブは帰って来て、平穏に安らかに生き、おびえさせる者はだれもいない。30:11 わたしがあなたとともにいて、・・主の御告げ。・・あなたを救うからだ。わたしは、あなたを散らした先のすべての国々を滅ぼし尽くすからだ。しかし、わたしはあなたを滅ぼし尽くさない。公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが。」
ここに契約の民と、そうではない国々との違いがはっきりと表れています。契約の民、ユダヤ人は、その不従順のゆえに神の怒りを招きました。これまで私たちが読んだエレミヤの預言の通りです。そして、諸国に対する神の裁きの預言もあります。エレミヤ書の後半に出てきますが、私たちは既にイザヤ書13章から23章までの諸国に対する預言の中でも読みました。同じように悲惨な状態、いや、もっと悲惨な状態にユダヤ人はなりました。聖書以後も、私たちは歴史の中で彼らの悲惨な境遇をよく知っています。
けれども、彼らと諸国との違いは、「滅びし尽くされるか、生き残るか」なのです。ユダヤ人は生き残ります。他に主が裁くと言われた民で、その存在そのものが無くなった民は数多くあります。例えばカナン人、今どこにいるでしょうか?絶滅した民族です。けれども同じように裁きの宣言を受けたユダヤ人は今でも生き残っているのです。
それは目的が違うからです。「公義によって、あなたを懲らしめ、あなたを罰せずにおくことは決してないが」とあります。懲らしめるだけなのです。懲らしめの目的は滅ぼすことにありません。悪から離れることです。自分たちが行なっていることがどのような結果をもたらすのか、それを自分自身で経験することができるように、神が引き渡される働きのことを言います。神は契約の民を愛しておられるのです。
これはキリストによって神の契約の中に入れられた私たちも同じです。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:31‐32)」
3C 傷の癒し 12−17
そこで神はその懲らしめによって与えられた傷の癒しについて語られます。
30:12 まことに主はこう仰せられる。「あなたの傷はいやしにくく、あなたの打ち傷は痛んでいる。30:13 あなたの訴えを弁護する者もなく、はれものに薬をつけて、あなたをいやす者もいない。30:14 あなたの恋人はみな、あなたを忘れ、あなたを尋ねようともしない。わたしが、敵を打つようにあなたを打ち、ひどい懲らしめをしたからだ。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いために。
ここの「恋人」とは周囲の諸国のことかもしれません。また彼らが拠り頼んでいた偶像のことかもしれません。いずれにしても自分たちの受けた傷を神以外の他のもので癒そうとしても、その助けは来ません。
30:15 なぜ、あなたは自分の傷のために叫ぶのか。あなたの痛みは直らないのか。あなたの咎が大きく、あなたの罪が重いため、わたしはこれらの事を、あなたにしたのだ。30:16 しかし、あなたを食う者はみな、かえって食われ、あなたの敵はみな、とりことなって行き、あなたから略奪した者は、略奪され、あなたをかすめ奪った者は、わたしがみな獲物として与える。30:17 わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ。・・主の御告げ。・・あなたが、捨てられた女、だれも尋ねて来ないシオン、と呼ばれたからだ。」
分かりますか、ユダヤ人はただ、神のみによってのみ癒される民なのです。神からしか頼みが来ない民なのです。自分たちが、誰にも相手にされない捨てられた女であることを悟った時、主は、「わたしがあなたの打ち傷を癒すからだ」と言ってくださいます。
ユダヤ人はいろいろな方法で、自分たちが生き残る道を捜しました。近年ではシオニズムです。自分たちの国、自分たちの土地を所有して初めて、反ユダヤ主義に対抗して生きることができるのだ、と考えました。ところがいま世界は、「ホロコーストは無かった。イスラエルは滅ぼされるべきである。イスラエルは人種差別の国だ。」と豪語してやまないイランの大統領に拍手喝采しているのです。
彼らはどのようなことを行なっても、結局、敵対されるだけなのです。救われるのは神のみなのです。「わたしがあなたの傷を直し、あなたの打ち傷をいやすからだ」なのです。主のみが、彼らの敵を粉砕してくださるのです。人ではありません。
これは私たちも同じですね。誰かの言葉、神以外のほかのものによって自分の傷、自分の弱さを直してもらおうとしても駄目なのです。主のみが私たちを癒してくださいます。「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)」なのです。主のみが、私たちの敵である罪、肉、悪魔の仕業を滅ぼしてくださいます。
4C エルサレムの再建 18−24
30:18 主はこう仰せられる。「見よ。わたしはヤコブの天幕の捕われ人を帰らせ、その住まいをあわれもう。町はその廃墟の上に建て直され、宮殿は、その定められている所に建つ。
エルサレム再建の約束です。これまでは「天幕」でした。自分たちの土地から離れたところで生活していましたが、そこは故郷ではありません。けれどもエルサレムでは「住まい」を設けることができます。
同じように、私たちの今の肉体をパウロは「幕屋」と呼び、復活の体を「建物」と例えましたね。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。(2コリント5:1-2)」ユダヤ人が将来、離散の地から帰還することができるように、私たちキリスト者はこの寄留者としての地を離れて、天の故郷に帰ることができます。
30:19 彼らの中から、感謝と、喜び笑う声がわき出る。わたしは人をふやして減らさず、彼らを尊くして、軽んじられないようにする。30:20 その子たちは昔のようになり、その会衆はわたしの前で堅く立てられる。わたしはこれを圧迫する者をみな罰する。30:21 その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。・・主の御告げ。・・30:22 あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」
先ほど、ダビデが立てられるという約束がありましたが、かつてダビデが王であった時に与えられていた感謝、喜び、そして神の前に出て行くことなど、これらの祝福が取り戻されます。「彼らのうちのひとり、その支配者」とはメシヤのことです。ユダヤ人であられるイエス様のことです。
30:23 見よ。主の暴風、・・憤り。・・吹きつける暴風が起こり、悪者の頭上にうずを巻く。30:24 主の燃える怒りは、御心の思うところを行なって、成し遂げるまで去ることはない。終わりの日に、あなたがたはそれを悟ろう。
これは先ほどと同じ大患難についての預言です。けれどもその結果は次の通りです。
2B 民 31
1C エフライムへの慰め 1−22
1D 永遠の愛 1−6
31:1 「その時、・・主の御告げ。・・わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」31:2 主はこう仰せられる。「剣を免れて生き残った民は荒野で恵みを得た。イスラエルよ。出て行って休みを得よ。」
主が彼らの神となり、彼らは主の民となります。霊的に回復します。
そして、「剣を免れて生き残った民」とあります。この大患難において彼らの多くは殺されます。ゼカリヤ書13章によると「三分の二」は断たれます(8節)。さらに「荒野で恵みを得た」とありますが、これは反キリストが神殿で自分が神であると宣言してから、ユダヤ地方から逃げたからです。ユダの荒野へ逃げ、そしてイザヤ書63章、ダニエル書11章などによると、エドムの地ボツラ、今のヨルダンのペトラに逃げると考えられます。そこで彼らは恵みを得ます。主が戻ってこられて、彼らの敵に戦われます。
そしてここに「イスラエルのすべての部族の神」と、すべての部族が強調されています。これから「エフライム」の名が何回も出てきますが、それは北イスラエルを代表する部族です。南ユダだけではなく、北イスラエルも含めた全てのイスラエルへの約束です。
31:3 主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。
すばらしいですね「永遠の愛」です。世俗の歌の中で永遠の愛についてどれだけ歌われているでしょうか。そして本当に永遠なのでしょうか?違いますね、花がしぼむように一時のものです。
けれども神の愛は堅固です。神がイスラエルを民族としてモーセの時代に立てられてから、もう3千年以上経っています。主は彼らを今もお見捨てになっていないのです。これが永遠の愛です。
キリスト者に対する永遠の愛も、次のように示されています。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ1:4-5)」永遠の昔から私たちを、愛をもって選んでくださいました。
31:4 おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。31:5 再びあなたはサマリヤの山々にぶどう畑を作り、植える者たちは植えて、その実を食べることができる。31:6 エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう。』と呼ばわる日が来るからだ。」
サマリヤの山々、エフライムの山で、「シオンに上ろう」というのは、まぎれもなくリバイバルです。北イスラエルは、初代の王ヤロブアムが、民がエルサレムに行って神を礼拝して、ユダに心がなびかないように、ダンとベテルに子牛の偶像を拝ませたのが始まりです。
2D 残りの民の帰還 7−14
31:7 まことに主はこう仰せられる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらのために叫べ。告げ知らせ、賛美して、言え。『主よ。あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』
ヤコブのため、国々のかしらのため、とありますが、これはヤコブが国々のかしらであることを示しています。終わりの日は、イスラエルが諸国の民のかしらとなります。
そして「残りの者を救ってください」と言っています。これは大患難で生き残った民でありますが、物理的な生き残りだけでなく、霊的な残りの民でもあります。ローマ11章でパウロは、「ユダヤ人がイエス様を拒んだからと言って、イスラエルを神が退けられたのではない。私が列記としたイスラエル人であるように、神は残りの民を選んでいてくださっている。」という論を展開させています。大患難で生き残っている民は、主のみに、神のみにこそ救いがあると気づき始め、そしてイエス様が来られた時にその確信が与えられるのです。
31:8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中にはめしいも足なえも、妊婦も産婦も共にいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。
「北の国」とは、かつてはアッシリヤでありバビロンです。イスラエルを捕虜として連れて行くとき、北からやってきます。ローマによる捕囚も、北からです。
そして身体障害者も妊婦もいっしょに来る、というのは、そのような弱さ、障害によって帰還を妨げられることはない、という意味があります。
31:9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに導き、彼らは平らな道を歩いて、つまずかない。わたしはイスラエルの父となろう。エフライムはわたしの長子だから。」
先ほど、「わたしが彼らの神で、彼らはわたしの民」とありましたが、ここでは「父となろう」と言われています。そこまで近しくなってくださいます。イエス様が私たちに祈る時に、「天におられる私たちの父よ」と指導されたのは、私たちにはそれだけ近しい関係の特権が与えられているからです。
そして、「エフライムは長子だから」とあります。エフライムは、ヨセフの次男でした。長男がマナセ、そしてエフライムが次に生まれました。けれどもヤコブが死ぬ前に、彼は二人を自分の息子にするとヨセフに言いました。つまり、ヨセフが二人分の相続を受ける、二倍の分け前を受けることになります。
そして二人を祝福しました。その時、彼は右手と左手を交差して、右手をエフライムに左手をマナセの頭に置いたのです。ヨセフは間違いだと思ってやめさせようとしましたが、ヤコブは、「私にはわかっている。マナセも確かに大きくなるが、エフライムが先なのだ」として、エフライムを長子にさせたのです。そして事実、その後、エフライムがイスラエルの代表的な部族となりました。
ですから「長子」というのは必ずしも順番ではないのです。エホバの証人などの異端は、イエス様が長子と呼ばれているので、神の被造物であり神ではないと主張しますが、聖書の「長子」の定義が分かっていないからそう言うのです。長子とは神のものを相続する特別な権利が与えられている人のことです。イエス様は、神の相続人として特別な地位を持っておられる「神の独り子」です。
31:10 諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る。」と。31:11 主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。
諸国の民に対する言葉です。彼らの国に離散のユダヤ人がいるのですが、それは、「わたしが散らした者である」とまず言われています。離散を行なったのは、アッシリヤ、バビロン、ローマですが、けれども実はそこに神の力強い御手があったのです。
したがって、神がそれを集めるとお決めになれば、そうなるのです。これが将来起こります。今も、その前座のような動きを見ています。世界各地からユダヤ人がイスラエルに戻っています。けれども主が再臨される時には、今どころではありません。
31:12 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。31:13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。31:14 また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。・・主の御告げ。・・」
すばらしいですね、これが、主が戻ってこられた神の国の中で実現します。
今でも不思議なことに、イスラエルの国は農産物で潤っています。キブツという農業の共同体があるからなのですが、彼らがその作物によって喜び輝き、踊って楽しんでいる姿を今も見ることができるのです。このキブツは、もともとロシアや東欧出身の社会主義者によるものです。彼らは神を信じていません。イスラエル建国時の指導者の多くは社会主義者であり、神も聖書も信じていないのです。にも関わらず、なぜか彼らは農業による共同体という構想によって開墾したのです。
彼らは否定しても、神は彼らを選んでおられるのです。
3D ラケルの泣き声 15−22
31:15 主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」
「ラケル」が出てきました。ヤコブの妻です。ラケルがヨセフを産んだとき、また「男の子を加えてくださいますように」と言って、彼の名をヨセフと名づけました。そして確かに生まれたのですが、それはラバンの家から故郷に戻ってくる旅をしていて、ベツレヘムに行く道でのことでした。難産でその苦しみの中で死んでしまったのです。その子がベニヤミンです。
ラケルが泣いているというのは、このラケルの苦しみ、子と別れなければいけないという悲しみを表しています。「ラマ」は、エルサレムの北にある町ですが、バビロンがユダの民を捕え移す時にまずラマに連れて行き、そこからバビロンに移しました。そこでイスラエルの子らがバビロンに引かれていくその悲しみを、母が子を失う悲しみになぞらえているのです。
ところで、ここの箇所をマタイは、ベツレヘムの男の赤ちゃんが殺された時のことで引用しています(2:18)。このエレミヤ書の文脈の中では、バビロン捕囚の悲しみを話しているのですが、聖霊の導きによってマタイは、イエスを殺そうとしたヘロデ大王が、ベツレヘムの子らを殺した時の母の悲しみに当てはめているのです。
31:16 主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。・・主の御告げ。・・彼らは敵の国から帰って来る。31:17 あなたの将来には望みがある。・・主の御告げ。・・あなたの子らは自分の国に帰って来る。
すばらしいですね、「せっかく子を産んだのに、いなくなってしまったら、いったいなぜ産んだのか。」と絶望的になっていた母親たちに、「あなたの労苦には報いがある」と慰めておられます。必ずその子孫が戻ってくるという約束です。
主にある労苦には必ず報いがあります。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。(1コリント15:58)」私たちも、この母たちのように自分たちの労苦は無駄になったのではないかと感じる時があります。けれども、必ず報いがあります。望みがあるのです。今は苦しいですが、将来に必ず報いがあるのです。
31:18 わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。31:19 私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。
患難を通って彼らが救われる、残りの民が救われるというのは、ここにある悔い改めを通してです。「ももを打った」とありますが、これは原語では性器の部分を打ったことを話しています。痛いです、けれどもこのような行為にとって、自分に対する悲しみ、嘆きを表しています。「悲しむ者は幸いです」と主が言われました。
31:20 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。・・主の御告げ。・・
「はらわた」という訳が良いですね。これが直訳であり、英訳や新共同訳は「心」と訳しています。聖書時代は、感じる所は胸ではなく腹と考えられていました。中国の諺で「断腸の思い」とか、「腹黒い」という言葉がありますが、これと同じです。単なる胸の部分ではないのです、腹にまで響く憐れみを主はエフライムにかけておられるのです。
31:21 あなたは自分のために標柱を立て、道しるべを置き、あなたの歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ。帰れ。これら、あなたの町々に帰れ。
捕えられていくときに、標柱を立て、道しるべを置きなさいと命じていますが、理由は、後で戻ってくる時の道しるべとなるように、ということです。だから捕え移されるのですが、戻ってくるという希望をもって捕え移されなさい、ということです。
31:22 裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。主は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう。」
「ひとりの女」とはイスラエルのことです。では「ひとりの男」は誰なのか?もちろん、神でありキリストご自身です。イスラエルが主のみを神とし、キリストを自分の王とします。
2C ユダの建て直し 23−40
1D 魂への潤い 23−26
31:23 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「わたしが彼らの捕われ人を帰らせるとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。『義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。』
「再び」と言っていますから、昔もこのように語っていたのでしょう。おそらく、ダビデとソロモンの時代にそう呼んでいたのだと思われます。義の住みか、聖なる山です。
31:24 ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。31:25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。31:26 ・・ここで、私は目ざめて、見渡した。私の眠りはここちよかった。・・
義と聖があって、それで魂の安らぎがあります。義のないところに、聖のないところに安らぎや、新鮮な力はありません。
ここまでがエレミヤが夢で見たものを書き記しましたが、今度は目覚めてから預言を続けます。
2D 神による種蒔き 27−30
31:27 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に、人間の種と家畜の種を蒔く。31:28 かつてわたしが、引き抜き、引き倒し、こわし、滅ぼし、わざわいを与えようと、彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見守ろう。・・主の御告げ。・・
覚えていますか、エレミヤが召命を受けた時に、主は、「引き抜き、引き倒し、倒し、そして建て直し、植える」という言葉を話しておられました(1:10)。ユダヤ人を約束の地から引き抜いたのは、引き抜くのが目的ではなく、新たに植えるためでありました。
「ユダヤ人の入植地」という言葉を聞くと、多くの人は敏感に反応します。非常に政治的な響きを持っていて、否定的な響きだからです。けれども、ユダヤ人の入植はここにあるように神の御心なのです。神が種まき、植えてくださるのです。
31:29 その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』とは言わない。31:30 人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。
非常に大切な御言葉、原則がここに書いてあります。父の咎が子に受け継がれるという考えは間違っていることを、彼らが後に気づきます。聖書では必ず、その本人が犯した罪に対しては本人に責任がある、という原則です。三代、四代まで罰があるという神の言葉は、父が犯した罪を子も犯しているからこそ実現するのであり、子が罪を犯さなければそれで終わりで恵みは千代まで続くのです。
3D 新しい契約 31−37
そしてエレミヤが、神と人との関係の中、非常に重要な時代の推移を次に語ります。
31:31 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
古い契約から新しい契約への推移です。旧約聖書から新約聖書への移行です。エレミヤ書は、人がいかに堕落しており、神に従うことができない存在かを表す書物です。旧約聖書は律法を土台にしています。シナイ山における神の律法からその契約が始まっています。もちろん、その前にアブラハムへの契約と約束がありました。けれども律法が入ってくることによって、人がかえって律法を守ることができないことを現したのです。
モーセがシナイ山で、レビ記において、またヨルダン川の東側で申命記において、イスラエルのこれからの歩みを預言しました。聞き従い、律法を守り行なえば祝福があるが、そうでなければ呪いがある。そしてモーセは、その呪いについて祝福よりも多くを当たりました。呪いの行く末は、神が約束された地から引き抜かれることだ、ということでした。それから神は彼らを連れ戻すという約束で終わっています。
そしてモーセの後の歴史書は、ずっとイスラエルがいかに神に従えないのかを表す歴史でした。そしてついに、エレミヤの時代に徹底的に従えないこと、無能であることを決定的にしたのです。
けれどもこれは神が、彼らが律法の行ないではなく、ただ信仰によって救われるためでした。自分たちが行なうことではなく、神がキリストにあって行なってくださったことを信じることによって救われるようにされるためでした。もともと人間には自分を救うことはできないのですが、律法によってそれを神は明らかにし、そして初めて新しい契約を与えられたのです。
主語が、「わたしは、何々をする」と主ご自身になっていることに注目してください。イスラエル側の行為がそこには入っていないのです。これが新約の特徴です。旧約は、「あなたがたが守り行なえば」でしたが、新約は「わたしが行なう」なのです。
そして旧約と新約の決定的な違いは、律法がどこに置かれているか、であります。古い契約は石の板でした。けれども新約は心の板です。どのようにして、それが可能になるのでしょうか?「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。(ローマ7:6)」御霊によってです。神の御霊が私たちの内に住んでくださることによって、私たちは自分の力で、神の要求を満たそうとしなくてもよくなりました。神がご自分の御霊で私たちが命令に従うことができるようにしてくださったのです。
31:34 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
石の板であれば、私たちは絶えず「主を知れ」と言って互いに教えなければいけません。私たちの外側にある規則によって半強制的に押し付けられなければ、行動に移すことができません。それでも心は変えられていないので、あくまでも表面的なものです。
けれども、御霊が与えられた人は自然です。心が変えられていれば、自ら主に従おうとします。旧約では、人々は掟を守ることに集中しましたが、新約では、神を知ること、神と交わることに集中するのです。
そして新約の大きなもう一つの特徴は、「完全な罪の赦し」です。二度と罪を思い出さない、という神の宣言があります。それを可能にするのは、イエス様が最後の晩、弟子たちに言われた、「これが、新しい契約のためのわたしの血です」と言われた、御子の血です。この方の血は、私たちを良心から完全に清めることができます。
そして最後に、この契約はもともと誰に与えられると書いてありますか?31節、「イスラエルの家とユダの家」です。ユダヤ人は律法であり、教会は新約だ、ではないのです。もともとイスラエルに与えられた約束なのですが、その約束がイエス・キリストの血によって異邦人にも分け与えられたのです(エペソ2章)。だから、今、異邦人なのにクリスチャンになって神様との親しい交わりができているのに、当のユダヤ人の多くが律法に縛られているという現象が起こっています。
けれども、終わりの日、イエス様が再び戻ってこられる時に、彼らにエゼキエル書、ゼカリヤ書に預言されているように、彼らに御霊が注がれ、彼らも新しい契約の中に入ることが約束されています。
31:35 主はこう仰せられる。主は太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名は万軍の主。31:36 「もし、これらの定めがわたしの前から取り去られるなら、・・主の御告げ。・・イスラエルの子孫も、絶え、いつまでもわたしの前で、一つの民をなすことはできない。」31:37 主はこう仰せられる。「もし、上の天が測られ、下の地の基が探り出されるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行なったすべての事のために退けよう。・・主の御告げ。・・
「もうイスラエルは神の救済の計画の中では無関係である」という人たちは、いったいこの御言葉をどのように受け止めるのでしょうか?というか、そのままじっくりと御言葉を読んでいないので、恣意的になっていくのです。
もしイスラエルに対する約束を無効にしたいのなら、太陽と月をミサイルか何かで破壊しなければいけません。海流や波をすべて止めさせなければいけません。また銀河、宇宙の実際の大きさを測り、地球の中身のすべてを調べなければいけません。もしこれができるなら、イスラエルは退けられると主は言われるのです。
4D 新しいエルサレム 38−40
31:38 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、この町は、ハナヌエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される。31:39 測りなわは、さらにそれよりガレブの丘に伸び、ゴアのほうに向かう。31:40 死体と灰との谷全体、キデロン川と東の方、馬の門の隅までの畑は、みな主に聖別され、もはやとこしえに根こぎにされず、こわされることもない。」
新しいエルサレムが聖別されることの約束です。ネヘミヤ記にハナヌエルのやぐら隅の門が出てきますが、エルサレムの城壁の北東から西廻りで測り縄が伸びています。それから北西に行ってから、南に行き、そして死体と灰の谷つまりヒノムの谷、そして再び東に来たので北上してケデロンの谷です。これらの中に、死体のような、汚れているとされているところも含まれます。けれども、それらもすべて聖別するという約束です。
神は、イスラエルの民がここに入ることができるように、ご自分を礼拝することができるようにしてくださる、ということです。主は、同じように天の聖所を聖別してくださったことがヘブル書に書いてあります。キリストがご自分の血を携えて聖所に入られたので、私たちは神の御座のところに大胆に近づくことができるようになったことが書かれています。
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME