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エレミヤ書3章を開いてください、今日は3章6節から学びます。そして5章まで学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「裏切る女ユダ」です。
私たちは前回から、エレミヤの預言メッセージを学んでいます。彼が行なった始めの預言は、2章1節から3章5節までにありました。それは基本的に、「エルサレムの人々は、初めの愛から離れて、姦淫の罪を犯している。」というものでした。神ご自身と結んでいた婚姻関係を破棄して、霊的姦淫を犯していると、神はユダを責めました。
そして今日は、第二回目のエレミヤの説教を読みます。本当は6章の終わりまで続くのですが、5章まで読みたいと思います。ここでも同じように、ユダをご自分の妻として神がお語りになります。
1A 背信イスラエルの立ち返り 3
1B 神の離婚状 6−10
3:6 ヨシヤ王の時代に、主は私に仰せられた。「あなたは、背信の女イスラエルが行なったことを見たか。彼女はすべての高い山の上、すべての茂った木の下に行って、そこで淫行を行なった。3:7 わたしは、彼女がすべてこれらのことをしたあとで、わたしに帰って来るだろうと思ったのに、帰らなかった。また裏切る女、妹のユダもこれを見た。
今、主は、北イスラエルのことをお語りになっています。北イスラエルが偶像礼拝の罪を犯したことを語っておられますが、彼らは南ユダに先立って行なっていました。覚えていますか、ソロモンの死後、統一イスラエルは北の十部族と南の二部族に分かれましたが、初代王ヤロブアムは、イスラエルの人々がユダにあるエルサレムの神殿で礼拝をすることがないように、北イスラエルの北端の町ダンと、南端の町ベテルにそれぞれ金の子牛の祭壇を設け、そこで礼拝をするように命じました。さらに、祭司のアロンの家系からではなく、自分勝手に選びました。
それ以来、北イスラエルでは高き所における偶像崇拝を続けて行きました。南ユダにおいては、偶像礼拝を行なうこともありましたが、北イスラエルの程度ではありませんでした。このことを、今、主は「背信の女イスラエル」と呼ばれ、そしてそれをユダが見ていた、と言われています。
3:8 背信の女イスラエルは、姦通したというその理由で、わたしが離婚状を渡してこれを追い出したのに、裏切る女、妹のユダは恐れもせず、自分も行って、淫行を行なったのをわたしは見た。3:9 彼女は、自分の淫行を軽く見て、国を汚し、石や木と姦通した。3:10 このようなことをしながら、裏切る女、妹のユダは、心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった。・・主の御告げ。・・」
離婚状を出した、というのは、モーセの律法の中にある規定です。「人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。(申命24:1)」これを今、北イスラエルの国に神は当てはめておられます。これの意味するところは、北イスラエルの破壊です。紀元前722年にアッシリヤが北イスラエルを滅ぼし、彼らを捕え移しました。
この出来事の後、マナセが偶像礼拝を大体的に導入したのです。北イスラエルが滅んだのは偶像礼拝によるものを見ておきながら、自分たちも同じことを行なったというのです。これを主は「裏切り」と呼んでおられます。
単なる「背信」であれば、それは背を向けることであります。神から背を向けて歩むことであります。けれども「裏切り」というのは、顔と顔を合わせていながら、なおかつ背信行為をすることです。思い出すのは、イスカリオテのユダです。彼は、主に口づけをしながら、主をユダヤ人指導者に売り渡すことを行いました。このような裏切り行為を、ユダは神に対して働いているということです。
「心を尽くしてわたしに帰らず、ただ偽っていたにすぎなかった」とありますね。表向きは、ユダは神につながっているとされています。けれどもそれは口先だけのもので、行ないはあまりにもかけ離れていたことを行なっていた、ということです。「心」が離れています。そして、私たちは「嘘」というと口で行なうものだけを考えてしまいますが、言っていることと違う行動を取っていれば、それは偽りとなるのです。
2B 主の癒し 11−18
3:11 主はまた、私に仰せられた。「背信の女イスラエルは、裏切る女ユダよりも正しかった。
これは一体どういうことなのでしょうか?ユダが行なっていることは、イスラエルが行なっていたことよりも悪かったのでしょうか?いいえ、ここで大事なのは「背信の女」と「裏切る女」の違いです。イスラエルは単に「背信」しただけです。主から背を向けただけです。けれども、ユダは裏切りました。主に顔を向けていると言いながら、背信行為を行ないました。この違いから、ユダと比べればイスラエルはまだ正しかった、ということです。
ここは、神から与えられた啓示と知識に私たちが責任を負っていることをよく表しています。イエス様は、このことを、ご自分がいつもおられた町に対してお語りになりました。まず、ナザレの町です。主はおよそ30歳まで、ガリラヤ地方を中心に宣教活動を始める前まで、ずっとそこにおられたのです。
そして主は、安息日にナザレの会堂でイザヤ書を読まれて、メシヤについての箇所を朗読された後に、「聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。(ルカ4:21)」と言われました。けれども、長年、イエス様を見てきた彼らは、その言葉が信じられませんでした。そこで主はこう語られました。「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。(同25-27節)」異邦人のほうがかえって、神の癒しの御業に触れることができた事例です。
さらに主が本拠地とされていた、ガリラヤのカペナウムの町、またコラジンとベツサイダにはこう宣告されました。「それから、イエスは、数々の力あるわざの行なわれた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。『ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。』(マタイ11:20-24)」カペナウム、コラジン、ベツサイダのほうが、ツロやシドン、ソドムよりも重い罰を受ける、というのです。
主に触れたことがなく悪を行なっている人たちのほうが、主にたくさん触れているにも関わらず、それでも応答しないよりもましなのです。そこで次から主は、イスラエルに対する悔い改めの呼びかけ、そして回復の約束を与えておられます。
3:12 行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。・・主の御告げ。・・わたしは、いつまでも怒ってはいない。3:13 ただ、あなたは自分の咎を知れ。あなたは自分の神、主にそむいて、すべての茂った木の下で、他国の男とかってなまねをし、わたしの声を聞き入れなかった。・・主の御告げ。・・
主は豊かな罪の赦しを約束してくださっています。「あなたがたをしからない」と言われています。けれども、その赦しに必要なのは自分が行なったことを認めること、罪を認めることです。自分のしたことに対して責任を負うときに、初めて罪の赦しを得る土台ができます。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(箴言28:13)」
それができなかったのがユダですね。私はそんなことをしませんでした、と言い続けています。後でまた出てきますので、その時に話します。
3:14 背信の子らよ。帰れ。・・主の御告げ。・・わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。
「わたしが夫になるからだ」とありますね。離婚状を出しましたが、再婚してくださるという約束です。
北イスラエルは、エルサレムに下って神殿で礼拝せず、ダンとベテルの高き所で礼拝をささげたことはもうお話しましたが、ヒゼキヤの時代、北イスラエルがすでにアッシリヤに捕え移されてから、そこに残っている民に対して、ヒゼキヤがエルサレムで過越の祭りに加わるように呼びかけたことがあります(2歴代30:10‐12)。ほとんどの人は物笑いにし、嘲りましたが、一部の人はへりくだって、エルサレムに上ってきました。
このような回復を、主はイスラエルに対して約束してくださっています。エルサレムに上ってくる代表者を主は起こしてくださいます。
3:15 また、あなたがたに、わたしの心にかなった牧者たちを与える。彼らは知識と分別をもってあなたがたを育てよう。
すばらしいですね、教会にも、霊的な知識と分別のある牧者が必要です。このような牧者がいれば、私たちはキリストにある生活を健全に、幸せに送ることができます。
3:16 その日、あなたがたが国中にふえて多くなるとき、・・主の御告げ。・・彼らはもう、主の契約の箱について何も言わず、心にも留めず、思い出しもせず、調べもせず、再び作ろうともしない。
契約の箱について、イスラエルには苦い記憶があります。ペリシテ人と戦った時に、イスラエルは、当時シロにあった神の幕屋から、契約の箱を戦場に持ってきてペリシテ人に対峙しました。ちょうど私たちが神社のお守りを持つように、その箱に力があると信じたからです。けれども大敗しました。箱そのものに力があるのではなく、主がそこにいる、と言われるその約束とご臨在に力があるのです。
そしてこれから、ユダの国から契約の箱がなくなります。バビロンによって捕え移された後に、契約の箱がどこに行ったか、いろいろな説がありますが知られていません。けれども、必要のなくなる時が来るというのが、ここに書いてあるエレミヤの預言です。なぜか?次をご覧ください。
3:17 そのとき、エルサレムは『主の御座』と呼ばれ、万国の民はこの御座、主の名のあるエルサレムに集められ、二度と彼らは悪いかたくなな心のままに歩むことはない。
主ご自身がエルサレムにある御座に着かれるからです。イエス・キリストが再臨されたら、シオンの神殿を建てられ、そこの王座に着かれます。物理的に主ご自身がおられるのですから、契約の箱は必要ないわけです。
そしてすばらしいのは、「二度と、悪いかたくなな心のままに歩むことはない」という約束です。今の私たちにも必要なのが、御霊による神のご臨在です。この意識さえあれば、私たちも悪い心になって歩むことを避けることができます。
3:18 その日、ユダの家はイスラエルの家といっしょになり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る。」
すばらしい約束です。ソロモンの死後、イスラエルが北と南に分かれました。けれどもそれが一つになるという約束です。そして北から、というのは、北イスラエルはアッシリヤの地から、そして南ユダはバビロンから戻ってきます。
今の時代、完全ではないですがイスラエルと言う国ができたこと、そして大量の帰還民が戻ってきていることで、一部成就しています。
3B 哀願の声 19−25
続けてイスラエルに対する、悔い改めの呼びかけがあります。
3:19 「わたしはどのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに、慕わしい地、諸国のうちで最も麗しいゆずりの地を授けようかと思っていた。また、わたしは、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れまい、と思っていた。
イスラエルを「息子」たちの中に入れる、そしてイスラエルが神を「父」と呼ぶ関係です。旧約の時代、イスラエルは神をここまで近しく呼ぶことはありませんでした。「主」とか「神」とか呼ぶことはありましたが、「お父さん」と呼ぶことはありませんでした。
イエス様がこのように祈りなさいと命じられた祈りに、「天にいます私たちの父よ。(マタイ6:9)」という呼びかけがあります。イエス様によって、私たちはこんなに親しく神と交わることができるようになったのです。イエス様は復活された後に、マグダラのマリヤに対して、「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。(ヨハネ20:17)」と言われています。イエス様が私たちの兄弟とまでなってくださったので、イエス様にとって神が父であられるように、私たちにとっても父になってくださったのです。
そして、約束の地が「諸国のうちに最も麗しい地」とあります。皆さんにも、イスラエルへの旅行を強くおすすめします。この意味が分かるでしょう。特に周囲にあるエジプトやヨルダンからイスラエルに入れば、荒野の中にある巨大なオアシスのような状態になっていることに気づくはずです。
3:20 ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ。・・主の御告げ。・・3:21一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らは自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。3:22a 背信の子らよ。帰れ。わたしがあなたがたの背信をいやそう。」
「帰れ」これが、罪が赦される第二のステップになります。一つ目は罪を認めることでしたね。二つ目は、神のところに帰ることです。自分の罪は気づいているのに、その重荷を自分に背負わせて、神のところに行こうとしない人がいます。自分は罪は赦されないはずだ、と思っているのです。けれども約束は、「あなたの背信をいやそう。」なのです。
3:22b「今、私たちはあなたのもとにまいります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。3:23 確かに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主に、イスラエルの救いがあります。3:24 しかし、私たちの若いころから、バアルが、私たちの先祖の勤労の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしました。3:25 私たちは恥の中に伏し、侮辱が私たちのおおいとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖たちも、私たちの若いころから今日まで罪を犯して、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」
罪の告白、そしてイスラエルの神にこそ救いがあるという信仰です。
2A ユダを襲う滅び 4
1B 真実な悔い改め 1−4
4:1 「イスラエルよ。もし帰るのなら、・・主の御告げ。・・わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない。4:2 あなたが真実と公義と正義とによって『主は生きておられる。』と誓うなら、国々は主によって互いに祝福し合い、主によって誇り合う。」
真実の悔い改めによって、イスラエルが回復するだけでなく、イスラエルを通して国々、つまり異邦人が主を中心にして祝福し、誇るという約束です。そして次が本題です。
4:3 まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。4:4 ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者もいないだろう。」
イスラエルは背信の罪を犯しただけですが、ユダはそれに加えて、心をかたくなにしているという問題があります。ここに二つの比喩があります。一つは、「いばら」です。イエス様が種まきの例えを語られたので、お分かりですね。いばらの生えているところに種を蒔けば、芽は出て育つのですが、いばらがそれをふさいでしまい、実を結ばせなくします。
そしてもう一つの比喩は、「心の包皮」です。イスラエルの男子はみな割礼を受けましたが、パウロは、律法の規定を守ってはじめて割礼に意味があるのであって、外側だけの肉の割礼だけであるなら、無割礼と変わりないとローマ2章で論じています。
どちらの比喩にしても、「心に他のものが詰まっている」状態を表しているのです。これは私たちに、大きな警告になります。というのは私たちはとかくあからさまな罪を犯している人のほうが、罪が大きいと考えるからです。けれども、今読んだ箇所によると、宗教的な、正しい装いをしているのに、心が離れていることのほうが、もっと神に立ち返るのが難しくなるという現実があります。ユダヤ人の中で、遊女や取税人、罪人のほうがイエス様のところに近づいて、宗教指導者のほとんどがいつまでも心をかたくなにしたいたことにも、この傾向を見ることができます。
この偽りから脱却する方法は、ここに書かれているように、心の中の「いばら」または「包皮」を取り除くことです。「いばら」は、素直に御言葉に従うことができない「世の思い煩い」のことです。包皮も、実際は御言葉に従っていないのに、外面は従っているように見せている二重生活です。
私たちは、心の中で、ほったらかしにしている罪はありませんか?表には出てきていないけれども、心で抱いている、汚れた思い、肉の思いはないでしょうか?日々の忙しさの中においても、立ち止まって、主の前でへりくだり、悔い改める祈りを捧げましょう。
2B 北から来る災い 5−18
1C 主による破壊 5−10
4:5 「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。国中に角笛を吹け。大声で叫んで言え。『集まれ。城壁のある町に行こう。』4:6 シオンのほうに旗を掲げよ。のがれよ。立ち止まるな。わたしがわざわいを北からもたらし、大いなる破滅をもたらすから。4:7 獅子はその茂みから上って来、国々を滅ぼす者は彼らの国から進み出た。あなたの国を荒れ果てさせるために。あなたの町々は滅び、住む者もいなくなろう。」
バビロンがエルサレムの町に襲ってくる預言です。エルサレム以外のユダの町々に住む人々に、エルサレムの中に行きなさいという呼びかけを行っています。
4:8 そのために荒布をまとい、悲しみ嘆け。主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ。4:9 「その日には、・・主の御告げ。・・王の心、つかさたちの心は、ついえ去り、祭司はおののき、預言者は驚く。」
自分自身が神から離れ、民に神のことを告げ知らせなかったこれら王、祭司、預言者たちは、バビロンが来たことによって怖気立ち、驚きます。
彼らの姿は、ヘブル10章26,27節に書かれている、最後の裁きを受ける人々の姿と重なります。「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。(ヘブル10:26-27)」
今、ロゴス・ミニストリーを見て、メールで相談してきている兄弟がいるのですが、ある罪を犯してしまったから、もう自分は神の救いに預かることはできないとのことで、この御言葉などを引用して、私を説得しようと(?)しています。けれども、ここや他の聖書の箇所で語られている神の裁きは、一回性の罪のことではありません。いつまでも、かたくなに罪を犯し続け、最後まで悔い改めなかった人に対するものです。このような人が、神の裁きを免れることはないのだというメッセージです。
4:10 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを全く欺かれました。・・『あなたがたには平和が来る。』と仰せられて。それなのに、剣が私ののどに触れています。」
エレミヤが預言を始めていた頃、他の預言者らはこの預言を行なっていました。バビロンの脅威はあるけれども、その脅威はすぐに取り除かれ平和が戻ってくる、という約束でした。エレミヤは、神の裁きの預言を聞いて、かなり驚いているようです。ならば、他の預言者たちの預言はみな偽りということになるではないか。ということは、神は、これらの偽預言をすべてお許しになられているということではないか、という驚きを今、ここで言い表しています。
終わりの時になればなるほど、このような驚きを私たちも経験します。正統的なキリスト教会と言われていても、聖書の教えから逸脱したものを教えている人々が大ぜい出てきています。惑わしがたくさん出てきています。なぜこのようなことをお許しになっているのでしょうか?と叫びたくなることがたくさんあります。けれども事実はそうなのです。主は、惑わしが増えることを終わりの時の徴としてお語りになっているのです(1テモテ4:1等)。
2C 激しい風 11−18
4:11 その時、この民とエルサレムにこう告げられる。荒野にある裸の丘の熱風が、わたしの民の娘のほうに吹いて来る。・・吹き分けるためでもなく、清めるためでもない。4:12 これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。
砂漠みたいな気候では、風が吹けばそれだけ涼しくなるし、また溜まっている埃も吹き飛ばされてよいと、日本にいる私たちなら考えます。けれども本当に砂漠に行って、実際はそうでないことを知りました。砂漠は本当に暑いです。けれども風が吹いたら、涼しいのではなく、熱風が吹くのでもっと暑くなる場合があります。今、主がお語りになっているのはこのような熱風のことです。
4:13 見よ。それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ。私たちは荒らされる。4:14 エルサレムよ。救われるために、心を洗って悪を除け。いつまで、あなたの中には邪念が宿っているのか。
厳粛な警告、命令です。「心を洗って悪を除け」です。先ほど話しましたように、そのままにしている心の中の罪はないでしょうか?へりくだって、主の前にその罪を言い表し、取り除いていただく必要があります。
4:15 ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。4:16 国々に知らせよ。さあ、エルサレムに告げ知らせよ。包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に叫び声をあげる。
今、急速にバビロン軍が、北からエルサレムに向かっている幻をエレミヤは見ています。ダンはイスラエルの北端の町です。そしてエフライムはちょうど中部に位置します。そして南にユダがありますが、そこにも叫び声があがっています。
4:17 彼らは畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。・・主の御告げ。・・4:18 あなたの行ないと、あなたのわざが、あなたの身にこれを招いたのだ。これがあなたへのわざわいで、実に苦い。もう、あなたの心臓にまで達している。
主は強調されています、災いは自分自身で招いているのだ、ということです。イザヤ書の最後でも主は強調されていました、「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:1-2)」主は、いつでも私たちを豊かに憐れみ、恵み、祝福しようと待っておられます。けれどもそれを遠ざけているのは、神ご自身ではなく私たちの咎です。
3B 心の痛み苦しみ 19−22
4:19 私のはらわた、私のはらわた。私は痛み苦しむ。私の心臓の壁よ。私の心は高鳴り、私はもう、黙っていられない。私のたましいよ。おまえが角笛の音と、戦いの雄たけびを聞くからだ。4:20 破滅に次ぐ破滅が知らされる。全国が荒らされるからだ。たちまち、私の天幕も荒らされ、私の幕屋も倒される。4:21 いつまで私は、旗を見、角笛の音を聞かなければならないのだ。
主の御言葉や幻を聞いて、見ながら、エレミヤは自分自身が感じていることもこのように表明しています。彼は、この悲惨な姿を預言と幻の中でまざまざと見ています。それで心が刺されています。
4:22 実に、わたしの民は愚か者で、わたしを知らない。彼らは、ばかな子らで、彼らは悟りがない。彼らは悪事を働くのに賢くて、善を行なうことを知らない。
主は、この愚かな者たちを「わたしの民」と呼ばれています。このようななじるお言葉、責めるお言葉の中にも、神の彼らに対する愛を、愛するがゆえに引き裂かれているお心を読むことができます。
そして「悪事を働くのに賢くて、善を行なうことを知らない」という言葉を反対にして、パウロは、ローマにいる信者たちにこう言っています。「私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。(ローマ16:19)」私たちはどれだけ、善を行なうのに貪欲でしょうか?機転を利かせているでしょうか?「私にできることは、そんなにない。」とあきらめていたりしないでしょうか?また悪については、「罪の世界を客観的に知っていないと、伝道ができない。」という理由で、いろいろ調べたりしていないでしょうか?悪には疎くて良いのです。
4B 天変地異的な破壊 23−31
4:23 私が地を見ると、見よ、形もなく、何もなく、天を見ても、そこには光もない。4:24 山々を見ると、見よ、揺れ動き、すべての丘は震えていた。4:25 私が見ると、見よ、人間はひとりもいない。空の鳥もみな飛び去った。4:26 私が見ると、見よ、果樹園は荒野となり、町々は主によって、主の燃える怒りによって、取りこわされていた。
エレミヤは今、バビロンがエルサレムを襲う姿を見ながら、なおかつ終末の姿を見させられています。エルサレムをバビロンが襲う出来事から、終わりの日に全世界の軍隊がエルサレムを攻めることも示しておられます。その時に起こるのは天変地異です。
4:27 まことに主はこう仰せられる。「全地は荒れ果てる。しかし、わたしはことごとくは滅ぼさない。4:28 このために、地は嘆き悲しみ、上の天も暗くなる。わたしが語り、わたしが企てたからだ。わたしは悔いず、取りやめもしない。」
神の深い、深い憐れみがここに示されています。天変地異を引き起こすほどの裁きであるにも関わらず、ユダの民をことごとくは滅ぼさない、という約束をしてくださっています。これが神の御心です。イスラエルに対する神の召命と選びは決して変わることはありません。
4:29 騎兵と射手の叫びに、町中の人が逃げ去った。彼らは草むらにはいり、岩によじのぼった。すべての町が捨てられ、そこに住む人もない。4:30 踏みにじられた女よ。あなたが緋の衣をまとい、金の飾りで身を飾りたてても、それが何の役に立とう。目を塗って大きく見せても、美しく見せても、かいがない。恋人たちは、あなたをうとみ、あなたのいのちを取ろうとしている。4:31 まことに、わたしは、産みの苦しみをする女のような声、初子を産む女のようなうめき、シオンの娘の声を聞いた。彼女はあえぎ、手を伸べて言う。「ああ。私は殺す者たちのために疲れ果てた。」
バビロンがエルサレムを包囲したとき、バビロンを宥めるためにいろいろな努力をしたエルサレムの姿を、きれいに着飾って、色気をつかっている女に例えています。けれども相手は自分を殺す意図は何一つ変えていません。
悪と言うものは、こういうものです。私たちは悪を宥めることができると思ってしまいます。もしかしたら、気を変えてくれるだろうと期待してしまいます。けれども無理なのです。過去の日本のキリスト教会は、自分たちの教理を妥協することによって迫害を免れようとしましたが、最後は、「復活はおとぎ話のようなものだから、なくしてしまうように。」という文部省からのお達しになったのです。最初から、主に与えられた良心に基づいて、対立や迫害が起こっても、主にあってしっかりと立つべきなのです。
3A かたくなな心 5
そして5章から、さらに詳しく、「なぜエルサレムは神の裁きを受けなければいけないのか」その理由について、主がお語りになります。
1B 神の正義 1−11
1C 義人の存在 1−5
5:1 エルサレムのちまたを行き巡り、さあ、見て知るがよい。その広場で捜して、だれか公義を行ない、真実を求める者を見つけたら、わたしはエルサレムを赦そう。5:2 たとい彼らが、「主は生きておられる。」と言っても、実は、彼らは偽って誓っているのだ。
主はとても憐れみ深い方です。たとえ一人でも真実な者がいたら、町全体をお赦しになる方です。覚えていますか、アブラハムがロトのことを思いながら、ソドムとゴモラの町のことで執り成しをしました。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。(創世18:23-24)」そうしたら主は赦す、とおっしゃいました。アブラハムは人数を減らして、最後は十人まで減らしました。それでも主は赦す、とおっしゃいました。実際、そこには十人の正しい人もいなかったのですが、それでもロトとその家族がソドムの町から出て行くのを待ってから、その町に災いを下しておられるのです。
5:3 主よ。あなたの目は、真実に向けられていないのでしょうか。あなたが彼らを打たれたのに、彼らは痛みもしませんでした。彼らを絶ち滅ぼそうとされたのに、彼らは懲らしめを受けようともしませんでした。彼らは顔を岩よりも堅くし、悔い改めようともしませんでした。
神が与えられる懲らしめは、まさに人が神のところに戻ってきてくれるためのものです。罪について悲しみを覚える時、その人はもう救われていると言ってよいでしょう。その人は主の御霊によって、罪を犯したことをひどく痛み、苦しみ、惨めになっているのですが、そのために悔い改めることができているのです。
けれども悲惨なのは、それでも悔い改めようとしない人です。そのような人には神の裁きしか残っていません。
5:4 そこで、私は思いました。「彼らは、実に卑しい愚か者だ。主の道も、神のさばきも知りもしない。5:5 だから、身分の高い者たちのところへ行って、彼らと語ろう。彼らなら、主の道も、神のさばきも知っているから。」ところが、彼らもみな、くびきを砕き、なわめを断ち切っていました。
私たちも、エレミヤと同じように考えます。ある分野においては、非常に理性的で、論理的に考えることができ、ならば当然、福音の真理についても理解できるはずだと思ってしまいます。ところが、駄目なのです。福音のことになると、完全に理性を失い、とことんかたくなになるのです。その人の知的水準と、霊的な応答とは相関関係がないのです。
2C 行ないへの報い 6−11
5:6 それゆえ、森の獅子が彼らを殺し、荒れた地の狼が彼らを荒らす。ひょうが彼らの町々をうかがう。町から出る者をみな、引き裂こう。彼らが多くの罪を犯し、その背信がはなはだしかったからだ。
獅子と豹は、バビロンを例えています。
5:7 これでは、どうして、わたしがあなたを赦せよう。あなたの子らはわたしを捨て、神でないものによって誓っていた。わたしが彼らを満ち足らせたときも、彼らは姦通をし、遊女の家で身を傷つけた。5:8 彼らは、肥え太ってさかりのついた馬のように、おのおの隣の妻を慕っていななく。5:9 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。・・主の御告げ。・・このような国に、わたしが復讐しないだろうか。
悪を行なっている者に対しての、神の正義がここに表れています。今現在は悪がはびこって、何も起こっていないので、主はこれらを罰しないのであろうか、という疑問を私たちは抱きますが、そうではありません。必ず裁かれます。「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。(ローマ2:4-5)」今は神の慈愛がありますが、それをないがしろにして悪を行なっていれば、それはただ、御怒りを自分のために積み上げているにしか過ぎません。
5:10 ぶどう畑の石垣に上って滅ぼせ。しかし、ことごとく滅ぼしてはならない。そのつるを除け。それらは主のものではないからだ。5:11 イスラエルの家とユダの家とは、大いにわたしを裏切ったからだ。・・主の御告げ。・・
主は、ご自分の義の性質から「やむを得ず」イスラエルとユダを裁かれます。けれども、彼らへの契約、そして憐れみのゆえに、「ことごとく」滅ぼすことはなさいません。
2B 必ず起こる預言 12−18
5:12 彼らは主を否んでこう言った。「主が何だ。わざわいは私たちを襲わない。剣もききんも、私たちは、見はしない。5:13 預言者たちは風になり、みことばは彼らのうちにない。彼らはこのようになる。」
エレミヤが語っている預言を、彼らはこのように受け止めました。風のようなもので実際には起こらない、と。
どうでしょうか?これは私たちにとって、非常に身近なことです。聖書が語られているとおり、死んだ後には神の裁きを受ける地獄を、神が語られたとおり本当に信じている人はどれだけいるでしょうか?未信者は信じていない人がほとんどです。そして信者の中でさえ、地獄を語らない教会が非常に増えています。
そしてこの世に神の裁きが下る、という終末の預言についてはどうでしょうか?これこそ、信者の間でさえ信じられていないことが多々あります。ペテロがこのように警告しました。「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』(2ペテロ3:3-4)」神の預言を風のようであると受け止めているのです。
5:14 それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「あなたがたが、このようなことを言ったので、見よ、わたしは、あなたの口にあるわたしのことばを火とし、この民をたきぎとする。火は彼らを焼き尽くす。
このような信じない人に対しての裁きは怠りなくされます。
5:15 イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めに、遠くの地から一つの国民を連れて来る。・・主の御告げ。・・それは古くからある国、昔からある国、そのことばをあなたは知らず、何を話しているのか聞き取れない国。
つまり、カルデヤ人のカルデヤ語です。
5:16 その矢筒は開いた墓のようだ。彼らはみなつわもの。5:17 彼らはあなたの刈り入れたものとあなたのパンを食らい、あなたの息子、娘を食らい、あなたの羊の群れと牛の群れを食らい、あなたのぶどうと、いちじくを食らい、あなたの拠り頼む城壁のある町々を、剣で打ち破る。5:18 しかし、その日にも、・・主の御告げ。・・わたしはあなたがたを、ことごとくは滅ぼさない。」
これで三回目です、「ことごとくは滅ぼさない」。主の豊かな憐れみです。この出来事の後に哀歌を書き記したエレミヤはこう言いました。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。』(3:22-23)」
3B 神への恐れ 19−31
1C 逆らう心 19−25
5:19 「あなたがたが、『何のために、私たちの神、主は、これらすべての事を私たちにしたのか。』と尋ねるときは、あなたは彼らにこう言え。『あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で、外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる。』
わずかに残された民がエレミヤに尋ねてきた時に、「こう答えなさい」という指示です。
5:20 ヤコブの家にこう告げ、ユダに言い聞かせよ。5:21 さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない。5:22 あなたがたは、わたしを恐れないのか。・・主の御告げ。・・それとも、わたしの前でおののかないのか。わたしは砂を、海の境とした。越えられない永遠の境界として。波が逆巻いても勝てず、鳴りとどろいても越えられない。5:23 ところが、この民には、かたくなで、逆らう心があり、彼らは、そむいて去って行った。5:24 彼らは心の中でも、こう言わなかった。『さあ、私たちの神、主を恐れよう。主は大雨を、先の雨と後の雨を、季節にしたがって与え、刈り入れのために定められた数週を私たちのために守ってくださる。』と。5:25 あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ。
主は、逆らう心にある不思議を、海の境を例えにして話しておられます。自然界は、主に従っています。私たちには日本地図がありますが、江戸時代に測量をした伊能忠敬の地図は非常に正確で、現在のものと大きな差はありません。数百年前も、今も、海岸線が変わっていない証拠です。波は激しく岸辺を打っているにも関わらず、変わることがないのです。
このように被造物は神の意思に従っているのに、唯一、ユダの民は逆らっています。そして主は前もって、逆らえば雨を止めると警告されました。そして実際に雨が降っていないのに、それでも主の言葉を思い起こすことがありませんでした。このことを主は、「わたしを恐れないのか」と言われています。
神を恐れるというのは、神の御言葉をそのとおりに受け止めることです。反応し、応答することです。「はい、わかりました。」と理解するだけでは、恐れていることになりません。実際に行動に移すときに、その人が神を恐れていることが分かります。私たちは、人を恐れて、神の御言葉に従わないときがありますが、人を恐れると、神を恐れることができなくなります。どちらかなのです。
2C 悪事 26−31
5:26 それは、わたしの民のうちに、悪者たちがいるからだ。彼らは、待ち伏せして鳥を取る者のように、わなをしかけて人々を捕える。5:27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きでいっぱいだ。だから、彼らは偉い者となって富む。5:28 彼らは、肥えて、つややかになり、悪事に進み、さばきについては、みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない。
司法における罪です。貧しい者から騙し取ることを、神の民と言われている者たちが行なっていたのです。けれども、教会においても、兄弟を欺いたり、騙し取ることが起こらないとも限りません。
5:29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。・・主の御告げ。・・このような国に、わたしが復讐しないだろうか。5:30 恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。5:31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。」
ここで大事なのは、「わたしの民はそれを愛している」です。私は、一般の信徒の人に聞きますと、教会の指導者の人のことについて批判的な声をよく聞きます。確かに正しい場合が多いでしょう。けれども、今度は教会の奉仕者、牧師でなくても奉仕の働きを始めた人に聞けば、もう一つの面が見えてくるのです。それは、「自分たちの聞きたくないことを語る奉仕者は嫌がる。自分たちを変えたくない。」という傾向です。偽りの預言をすること、自分かってに治めることは確かに悪いことです。けれども、ならば正しい預言をして、神の支配に導こうとする人々を受け入れ、尊敬しなければいけません。けれども、それも拒むのです。つまり、ここに書いてある「わたしの民はそれを愛している」という状態です。
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:3-4)」どうでしょうか、心地よい言葉だけでなく耳の痛い言葉も聞き入れる用意ができているでしょうか?愛や平和などの言葉だけでなく、懲らしめや裁きの言葉を聞く用意ができているでしょうか?自分のあり方が、それでは駄目なんです、という自分を否定するような言葉を聞く用意ができているでしょうか?それで初めて、私たちは神の預言を聞き、神を恐れることができるのです。
主は憐れみ豊かな方です。私たちに必要なのは、ただへりくだりです。主の前にへりくだってください、そうすれば主が引き上げてくださいます。
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