本文
エレミヤ書32章を開いてください、今日は32章と33章を学びたいと思います。ここでのメッセージ題は「理解を越えた大いなる事」です。
今回は前回に引き続き、ユダとエルサレムに対する神の幸いの計画について読みます。「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ(29:11)」という約束を持って、ユダヤ人が捕囚の地バビロンから帰還することができる約束を神はくださいました。
そして30章と31章では、この幸いな計画はバビロン捕囚に限らず、終わりの日に主が最終的にユダヤ人に対して行なう救いの計画であることを読みました。彼らは世界に散らされた国々から戻ることができ、その時に彼らは神の民となり、また神は彼らの神となられる。新しい契約を結ばれる、と約束してくださいました。
この幻をエレミヤは夢の中で見ましたが、今回は監視の庭の中で監禁されている中で見ます。
1A 信仰による行動 32
1B 土地の購入 1−15
1C 包囲 1−5
32:1 ユダの王ゼデキヤの第十年、すなわち、ネブカデレザルの第十八年に、主からエレミヤにあったみことば。32:2 そのとき、バビロンの王の軍勢がエルサレムを包囲中で、預言者エレミヤは、ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた。
時はゼデキヤが王であった時で、その終わりの時です。彼は自分の治世第九年の時にバビロンに反逆したため、バビロンはエルサレムを包囲しました。その間、バビロンは塁を築いて、城壁を越えて中に入る準備をしていましたが、エルサレムの中では皆が飢えで苦しんでいました。そして、第十一年に城壁が破られ、ゼデキヤは逃げますが捕まえられます。ですから今は、包囲が始まってから一年ぐらい経った時です。そしてエルサレムが破壊される一年前ぐらいの時です。
エレミヤが王の家の中にある監視の庭に監禁されている、とあります。このいきさつは37章に書いてあります。包囲が一時期、解かれた時がありました。エジプトから軍勢がやってきたという知らせを聞いて、バビロンがエルサレムから離れたのです。それで別の用事でエレミヤが自分の故郷アナトテに行った時に、バビロンに亡命しようとしているという疑いをかけられ、捕まえられエルサレムに連れ戻されました。殺されかけましたが、王ゼデキヤは彼に個人的に会い、それからエレミヤは王の家の監視の庭で監禁されていたのです。
32:3 彼が監禁されたのは、ユダの王ゼデキヤがエレミヤに、「なぜ、あなたは預言をするのか。」と尋ねたとき、エレミヤが次のように答えたからである。「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはこの町をバビロンの王の手に渡す。それで、彼はこれを攻め取る。32:4 ユダの王ゼデキヤは、カルデヤ人の手からのがれることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、彼と口と口で語り、目と目で、彼を見る。32:5 彼はまた、ゼデキヤをバビロンへ連れて行く。それでゼデキヤは、わたしが彼を顧みる時まで、そこにいる。・・主の御告げ。・・あなたがたはカルデヤ人と戦っても、勝つことはできない。』」
個人的に会ったゼデキヤに対し、エレミヤは非常に個人的な預言を行ないました。一般的な預言をした時でさえ、その内容から非常に強い反対を受けたのに、エレミヤは個人的で具体的な預言をゼデキヤに行なったのです。これは非常に勇気の要ることです。私も、複数名の人々に一般的な事柄を話すのは比較的易しいですが、個人的な相談を受け、その問題が見えてしまう時に非常に苦しみます。でも、言わなければなりません。
ということで、エレミヤは監禁されていたのですが、けれどもそれは必ずしも悪いことではありません。王の庭で監禁されていたので、エレミヤを憎むエルサレムにいる者たちから命を守られました。そして、主は彼に続けて語られました。そして続けて彼を用い続けました。パウロも同じように牢獄に入れられていた時、「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。(2テモテ2:9)」と言いました。
2C 代金の支払い 6−15
32:6 そのとき、エレミヤは言った。「私に次のような主のことばがあった。32:7 見よ。あなたのおじシャルムの子ハナムエルが、あなたのところに来て、『アナトテにある私の畑を買ってくれ。あなたには買い戻す権利があるのだから。』と言おう。32:8 すると、主のことばのとおり、おじの子ハナムエルが私のところ、監視の庭に来て、私に言った。『どうか、ベニヤミンの地のアナトテにある私の畑を買ってください。あなたには所有権もあり、買い戻す権利もありますから、あなたが買い取ってください。』私は、それが主のことばであると知った。
彼ははじめ、主の言葉を聞いた時、それが本当に主からのものなのかどうか確信を持てませんでした。主が彼にどう語られたのか分かりませんが、現代の私たちにも主は心の中に何らかの思いを置かれて、それでそれが実際にそうなるのを後で見て、これは主からのものだったのだと確認することができる事があります。
エレミヤは、ハナムエルの願い出を受け入れるかどうか迷ったでしょうが、この主の語りかけによって確かに主の御心だと確認したのです。
32:9 そこで私は、おじの子ハナムエルから、アナトテにある畑を買い取り、彼に銀十七シェケルを払った。32:10 すなわち、証書に署名し、それに封印し、証人を立て、はかりで銀を量り、32:11 命令と規則に従って、封印された購入証書と、封印のない証書を取り、32:12 おじの子ハナムエルと、購入証書に署名した証人たちと、監視の庭に座しているすべてのユダヤ人の前で、購入証書をマフセヤの子ネリヤの子バルクに渡し、32:13 彼らの前で、バルクに命じて言った。
ユダヤ人の慣習の中で、この「近親の者による土地の買い戻し」がありました。これは律法の中で定められていました。主が彼らに与えられた土地は、それを所有しつづけなければならない、というものです。ですから、自分が貧しくなってもそれを手放してはいけません。そのために主は、貧しくなった時に一番近い親戚、近親者がそれを買い取って、その土地が他者の手に渡らないようにさせたのです(レビ25:23以降)。
有名な話としてルツ記がありますね。ルツの姑ナオミの近親者ボアズが、ナオミの亡き夫エリメレクの名を残すために、その土地を買い戻しました。そして同時に、エレメレクの子孫を残すために、律法にしたがってルツを自分の妻にしたのです。
そして具体的な手続きとして、今ここに購入証書があります。不動産の権利証書です。巻き物になっており、それを巻いて蝋で封印します。そしてその写しも用意します。こちらは封印しないでおきます。そしてもちろん土地の金額を支払って、これらを証人の前で行なって、売買成立です。
これをエレミヤは監禁の庭の中で行ないました。そしてバルクに命じました。バルクはエレミヤの口述の預言を書記する人です。彼は後で何回も出てきます。
32:14 『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。これらの証書、すなわち封印されたこの購入証書と、封印のない証書を取って、土の器の中に入れ、これを長い間、保存せよ。32:15 まことに、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。再びこの国で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるのだ。』と。」
「土の器」とありますが新共同訳では「素焼きの器」です。ちょうど死海文書のことを思い出していただければよいでしょう。紀元前100年ごろに壷の中に入れておいた写本が、1940年代に発見されたのです。それだけ長く保管することができます。
そして長い期間を経た後に、この証書をもって土地の所有権を行使することができるようになる。そのようにこの土地が再びイスラエル人の手に戻る、という預言を行なったのです。
2B 祈り 16−44
1C ついてゆかない知性 16−25
このようにエレミヤは、主の促しに従って土地を購入するという行動に移し、そして預言も行なったのですが、このスピードが速すぎで彼の心と思いは付いていけなくなります。次をご覧ください。
32:16 私は、購入証書をネリヤの子バルクに渡して後、主に祈って言った。32:17a 「ああ、神、主よ。
ここの「ああ」は、当惑している時に使うことばです。「ああ、やばい!とんでもないことをしてしまった。」という意味合いの嘆息です。彼は主に語られて、主に思いが与えられて、そのまま信じて行動に移したのですが、よく考えてみてください、今、土地はすべてバビロンの手に渡されているのです。エルサレムは包囲されて、これから破壊されるのです。土地を購入したところで、その売買はまったく無意味になるのです。そこで彼は祈り始めました。
けれども、これが信仰であり、信仰にともなう行動です。目に見えるところでは全く意味のないこと、時に愚かで、理屈に適わないことを、主に示されたという理由だけで行動に移します。私たちがクリスチャンになる、ということからその信仰による歩みは始まりました。皆さんはこうお考えになったことはないでしょうか?私がそうでした。「福音にしたがって、イエス様を自分の主として、イエス様に従っていこう。」と決断して、教会の人々にもその信仰を告白します。その後で、「ああ、とんでもないことを私はしてしまった。これは、一時的な感情ではなく、自分の残りの生涯を180度、変えてしまうものだ。」と私は思いました。信仰によって行動に移したのですが、知性が追いついていかないのです。
だから、この後は自分の知性に頼るのではなく、祈りと信仰によって生きるしかなくなるわけです。ではエレミヤの祈りを読みましょう。
32:17 「ああ、神、主よ。まことに、あなたは大きな力と、伸ばした御腕とをもって天と地を造られました。あなたには何一つできないことはありません。
エレミヤは、いま自分が肉眼で見ている状況から目を離し、主ご自身を見つめています。特に、いま主の全能ある力に目を留めています。自分が行なっていること、すなわち将来のために土地を購入したことが、どんなに滑稽に見えても、主によって出来ないことは何一つないという事実を見つめています。
32:18 あなたは、恵みを千代にまで施し、先祖の咎をその後の子らのふところに報いる方、偉大な力強い神、その名は万軍の主です。
主がご自分の栄光をモーセに現わされた時に、これがわたしの名であると言われて語られたのが、これです。恵みを千代にまで及ぼし、罰は三代、四代に、という言葉です。主は確かに罰せずにおかない方です。正義の神です。けれども、その正義は圧倒的な神の恵みに支えられています。
32:19 おもんぱかりは大きく、みわざは力があり、御目は人の子のすべての道に開いており、人それぞれの生き方にしたがい、行ないの結ぶ実にしたがって、すべてに報いをされます。
「おもんぱかり」は謀(はかりごと)のことですね。主がお考えになっていることは、私たちが意図し、企画することよりも、遥かに高い所にあります。
そして主はすべてをお見通しです。自分は隠れて行なっていると思っていても、主は私たちの行ないすべてに報いられる方です。
32:20 あなたは今日まで、エジプトの国で、イスラエルと、人の中で、しるしと不思議を行なわれ、ご自身の名を、今日のようにされました。32:21 あなたはまた、御民イスラエルを、しるしと、不思議と、強い御手と、伸べた御腕と、大いなる恐れとをもって、エジプトの国から連れ出し、32:22 あなたが彼らの先祖に与えると誓われたこの国、乳と蜜の流れる国を彼らに授けられました。32:23 彼らは、そこに行って、これを所有しましたが、あなたの声に聞き従わず、あなたの律法に歩まず、あなたが彼らにせよと命じた事を何一つ行なわなかったので、あなたは彼らを、このようなあらゆるわざわいに会わせなさいました。
神のご性質を述べた後、エレミヤは神の御業を語っています。主は確かに、ご自分が生きておられることをイスラエル誕生の歴史において表してくださいました。天と地を造られた力と御腕とをもって、イスラエルをエジプトから連れ出してくださいました。そしてまた、主がすべての人ことをご存知でその行ないに応じて報いられるように、イスラエルの背きに対して主が災いを下しておられます。
32:24 ご覧ください。この町を攻め取ろうとして、塁が築かれました。この町は、剣とききんと疫病のために、攻めているカルデヤ人の手に渡されようとしています。あなたの告げられた事は成就しました。ご覧のとおりです。
バビロンが包囲しているために、中の食糧が枯渇しつつあります。そのため略奪が起こっています。それで剣を使って仲間のユダヤ人を殺したりしています。そして飢えがあり、飢えがあれば免疫機能が低下しますから疫病にもかかりやすいです。こうして「剣と飢饉と疫病」という神の御言葉が成就しています。
32:25 神、主よ。あなたはこの町がカルデヤ人の手に渡されようとしているのに、私に、『銀を払ってあの畑を買い、証人を立てよ。』と仰せられます。」
最後に、エレミヤは自分の頭の中で起こっている混乱を主に申し上げています。私たちはとかく、これを始めに持ってきてしまいます。そして祈っている相手と対話するのではなく、相手がどのような方かを無視して一方的に語ってしまうのです。まず主がどのような方かを認めること、つまり礼拝することが祈りの始めに来なければいけないものです。
2C 不可能のない神 26−44
そしてエレミヤの祈りに対する主の答えが次にあります。
1D 怒り 26−35
32:26 エレミヤに次のような主のことばがあった。32:27 「見よ。わたしは、すべての肉なる者の神、主である。わたしにとってできないことが一つでもあろうか。」
エレミヤが最初に祈ったこと、神にとって出来ないことは何一つない、という真理を確認してくださっています。私たちはこの真理を信じて、それで行動に移しても、その状況がその通りにならず、エレミヤのように迷うときがあります。けれども、その時に祈ってみてください。神は必ず、同じ言葉をもって私たちの心に確証を与えてくださいます。
32:28 「それゆえ、主はこう仰せられる。見よ。わたしはこの町を、カルデヤ人の手と、バビロンの王ネブカデレザルの手に渡す。彼はこれを取ろう。32:29 また、この町を攻めているカルデヤ人は、来て、この町に火をつけて焼く。また、人々が屋上でバアルに香をたき、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こしたその家々にも火をつけて焼く。
エルサレムの町の屋根は、ちょうどバルコニーのように平らになっています。今でも旧市街に行って、城壁の上を歩けば屋根が平らであることに気づきます。そこで一日の仕事を終えてゆっくりしたり、昼間は洗濯物を干したり、居住空間の一部となっています。そこにエルサレムの人々は、バアルの像を置き、それを拝んでいたのです。
どうでしょうか、私たちの居住空間に同じようなものを置いていないでしょうか?外に出たら教会に通うが、家の中であってはならない物を置き、やってはいけないことを行なってはいないでしょうか?
32:30 なぜなら、イスラエルの子らとユダの子らは、若いころから、わたしの目の前に悪のみを行ない、イスラエルの子らは、その手のわざをもってわたしの怒りを引き起こすのみであったからだ。・・主の御告げ。・・
「若いことから」です。一時的ではなく、長いこと引き続き行なっていたので、習慣になりそれを捨てるという考えさえも起こしませんでした。私たちが新しい歩みを行なうときに、「ずっと昔からやっていたから」と言って古いものを変えようとしないなら、それは言い訳なのです。
32:31 この町は、建てられた日から今日まで、わたしの怒りと憤りを引き起こしてきたので、わたしはこれをわたしの顔の前から取り除く。
エルサレムの町を建てたダビデの子ソロモンの晩年から、すでに偶像礼拝は始まりました。
32:32 それは、イスラエルの子らとユダの子らが、すなわち彼ら自身と、その王、首長、祭司、預言者が、またユダの人もエルサレムの住民も、わたしの怒りを引き起こすために行なった、すべての悪のゆえである。
一部の人たちの行ないではありません。あらゆる社会的地位にいる人々が行なっていたのです。
32:33 彼らはわたしに、顔ではなくて背を向け、わたしがしきりに彼らに教えるが、聞いて懲らしめを受ける者もなく、32:34 わたしの名がつけられている宮に忌むべき物を置いて、これを汚し、32:35 わたしが命じもせず、心に思い浮かべもしなかったことだが、彼らはモレクのために自分の息子、娘をささげて、この忌みきらうべきことを行なうために、ベン・ヒノムの谷にバアルの高き所を築き、ユダを迷わせた。」
「まさかここまで堕落してしまうとは?」と、主ご自身が「心に思い浮かべもしなかったことだが」と驚いておられます。そうです、人間の心は邪悪で、直りようがないものなのです。
2D 回復 36−44
32:36 それゆえ、今、イスラエルの神、主は、あなたがたが、「剣とききんと疫病により、バビロンの王の手に渡される。」と言っているこの町について、こう仰せられる。32:37 「見よ。わたしは、わたしの怒りと、憤りと、激怒とをもって散らしたすべての国々から彼らを集め、この所に帰らせ、安らかに住まわせる。
ローマ人への手紙5章に、「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全世界に広がった(12節)」とあります。そうです、それだけ罪と死の力は強いのです。けれども、「もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。(15節)」とあります。
これが、主が先ほど語られた「わたしにとってできないことは一つでもあろうか」なのです。主は、全世界にユダヤ人を散らされましたが、それ以上に、散らされたところから彼らを集め、そこに帰らせ、安らかに住まわせることのお出来になる方です。
32:38 彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。32:39 わたしは、いつもわたしを恐れさせるため、彼らと彼らの後の子らの幸福のために、彼らに一つの心と一つの道を与え、32:40 わたしが彼らから離れず、彼らを幸福にするため、彼らととこしえの契約を結ぶ。わたしは、彼らがわたしから去らないようにわたしに対する恐れを彼らの心に与える。
覚えていますか、これは前回学んだ、イスラエルに対する神の新しい契約の内容です。石の板に神が律法を書き記す古い契約とは違って、心の板に書き記してくださるというものです。問題は「心」にありました。律法を守り行なおうと思う意志はあっても、肉はそれに違反することを行なわせます。外側の行ないを変えようとしても、心が変わらなければ何もできないのです。
そこで主は、エレミヤ書には書かれていませんが、エゼキエル書に、イスラエルに御霊を注いでくださり、彼らの心を石から肉に変えると約束してくださっています。「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。(36:26)」
32:41 わたしは彼らを幸福にして、彼らをわたしの喜びとし、真実をもって、心を尽くし思いを尽くして、彼らをこの国に植えよう。」
非常に興味深い表現です。「心を尽くして思いを尽くして」と来たら、「主なる神を愛しなさい」という命令を思い出すと思います。申命記にある律法であり、イエス様がもっとも大事な律法の一つとして取り上げられました。けれどもここでは、心を尽くして思いを尽くしているのは私たちではなく、神ご自身です。
32:42 まことに、主はこう仰せられる。「わたしがこの大きなわざわいをみな、この民にもたらしたように、わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす。32:43 あなたがたが、『この地は荒れ果てて、人間も家畜もいなくなり、カルデヤ人の手に渡される。』と言っているこの国で、再び畑が買われるようになる。32:44 ベニヤミンの地でも、エルサレム近郊でも、ユダの町々でも、山地の町々でも、低地の町々でも、ネゲブの町々でも、銀で畑が買われ、証書に署名し、封印し、証人を立てるようになる。それは、わたしが彼らの捕われ人を帰らせるからだ。・・主の御告げ。・・」
ここで主は、エレミヤが行なったことは確かに正しいことなんだ、という保証を与えてくださいました。英語に"vindicate"という言葉がありますが、自らの正しさを立証するという意味の言葉です。主は私たちに、信仰によって行なったこと、自分が正しいと思って行なったこと、それが間違っているような要素がたくさんあるように見えても、大丈夫だよ、正しいのだよ、と確認してくださいます。
私たちが主にあって行なったこと。福音を語ることや、主にあって善を行なうことについて、私たちは悩むことが多いでしょう。「はたしてあれで本当に良かったのか?もっと良い方法があったのではないか?」と悩む時があると思います。
パウロも、エルサレムに戻ってユダヤ人に語った時に、誰も信じることなく、むしろ殺されかけました。彼は失敗したという思いでいっぱいだったに違いありません。けれども、「その夜、主がパウロのそばに立って、『勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。』と言われた。(使徒23:11)」とあります。主はパウロがエルサレムに行ったことを間違ったということを一言も仰っておられません。むしろ、証しを立てたこと、それ自体が正しかったことを念押ししてくださったのです。
33章にも出てきますが、44節に出てくるイスラエルの地理について説明したいと思います。ここはベニヤミンから南の地域全体について説明しています。ベニヤミンの地はエルサレムの北に隣接する部分ですね。今、エレミヤが購入した土地もベニヤミンにあります。そしてエルサレム近郊、それからユダの町々はその南に広がっています。
「山地の町々」というのは、ベツレヘムとかヘブロンとか、山地にある町のことです。イスラエルの国は地中海とヨルダン川の間に挟まれた長細い土地ですね。その真中に山脈が走っています。ですから、エルサレム、ベツレヘム、ヘブロンのあたりは高い山地になっているのです。
そして「低地の町々」とあります。ここは「シェフェラ」と呼ばれています。山地の町々と地中海沿岸地域の間にある地域です。ペリシテ人の町々、ガザとかアシュケロンとか、地中海沿岸の地域がありますが、もっと内陸に入ったところです。ダビデがゴリヤテと戦ったエラの谷はそこにあります。
そして南側に「ネゲブ」があります。ベエル・シェバの町から始まり、そこから南下すると一帯が砂漠になります。けれどもそこでも土地の購入が行なわれるぐらい価値が上がる、ということですが、今やネゲブは重要なキブツの地域になっており、農作物を産出しています。
2A 祈りへの答え 33
1B エルサレムの将来 1−13
1C 回復の約束 1−9
33:1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような主のことばがあった。33:2 「地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。33:3 わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。
32章とは別の時のことですが、内容は32章の続きになっています。主がエルサレムを破壊された後に行なってくださる回復を、さらに詳しくエレミヤに示してくださいます。
ここでの重要な言葉は、「理解を越えた大いなる事」です。ここへブル語の元々の意味は「囲いがあって立ち入ることができない」です。城壁があって町の中に入ることができないがごとく、人間には到底測り知ることのできない思いを、神はご計画や、はかりごとの中に抱いておられるということです。
聖書の中で、主は一貫して、これを限られた、ご自分と親しい関係を持っている者たちだけに示されました。例えば、アブラハムに対して主の使いは、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。(創世17:17‐18)」と言われました。
ダビデに対して主が、世継ぎの子が永遠の国を治めることを約束してくださり、ダビデは、「あなたは、ご自分の約束のために、あなたのみこころのままに、この大いなることのすべてを行ない、このしもべにそれを知らせてくださいました。(2サムエル7:21)」と祈っています。ダニエルに対して主は、「愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。(ダニエル10:11)」と言われ、そして終わりの時に起こる戦いについて啓示されました。
このように神を愛する、神を求める者たちに主は、ご自分の大いなるはかりごとを明かしてくださいます。イエス様が、ご自分の名によって悪霊を追い出すことができた七十人の弟子たちのことで、父なる神に喜んでこう賛美されました。「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。(ルカ10:21)」必要なのは、幼子のような主への全幅の信頼です。この世の知者が到底たどり着くことのできない結論を、主はいとも簡単に教えてくださいます。
そして神は「わたしを呼べ」と命じられています。信仰を持っていても、積極的に神を求めなければ、主がこれからしてくださることをわきまえ知ることはできません。あるクリスチャンの方から自分の子供のことで相談を受けたことがありましたが、実はその問題も含めて先行きが不安なので、占いに頼っていたという話を聞きました。なぜ占いなどに頼る必要があるのでしょうか?初めから終わりのことを告げてくださる神は、占いなんかよりもはるかに偉大な、そして私たちを自由にし、平安に満たす啓示を与えてくださるのです!
33:4 まことにイスラエルの神、主は、塁と剣で引き倒されるこの町の家々と、ユダの王たちの家々について、こう仰せられる。33:5 彼らはカルデヤ人と戦おうとして出て行くが、彼らはわたしの怒りと憤りによって打ち殺されたしかばねをその家々に満たす。それは、彼らのすべての悪のために、わたしがこの町から顔を隠したからだ。
バビロン軍が塁を築いて、そこから矢を放ちます。また進入したら家々にいる人々を剣で殺していきます。
33:6 見よ。わたしはこの町の傷をいやして直し、彼らをいやして彼らに平安と真実を豊かに示す。
イザヤ書でもエレミヤ書でも、罪を犯すことを「傷」として言い表しています。私たちが罪を犯せば、一番傷つくのは実は本人なのです。神のかたちに造られたところから損なわれることによって、傷を受けているのです。
けれどもその傷は癒されます。イザヤ書53章にあるとおり、キリストの受けられた打ち傷によって私たちは癒され、心に平安が与えられます。
33:7 わたしはユダの捕われ人と、イスラエルの捕われ人を帰し、初めのように彼らを建て直す。
この「初め」はダビデの時です。栄光に輝くイスラエルを神は取り戻してくださいます。
33:8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしにそむいたすべての咎を赦す。
すばらしい約束です。私たちが自分でどんなにこすり落とそうとしても自分の罪、咎を拭い落とすことはできません。けれども、主はキリストの血によってそれを行なってくださいます。しかも「すべて」です。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7)」
33:9 この町は世界の国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり栄えとなる。彼らはわたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの町に与えるすべての祝福と平安のために、恐れおののこう。」
今のエルサレムは確かに世界の注目の的になっており、クリスチャンにとっては特に感嘆の的となっています。けれども、祝福と平安によってだけではなく、エルサレムを取り巻く争い、対立、緊張によって有名です。けれども後にそれは変わります。
2C 喜びと繁栄 10−13
33:10 主はこう仰せられる。「あなたがたが、『人間も家畜もいなくて廃墟となった。』と言っているこの所、人間も住民も家畜もいなくて荒れすたれたユダの町々とエルサレムのちまたで、33:11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、『万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。』と言って、主の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が再び聞こえる。それは、わたしがこの国の捕われ人を帰らせ、初めのようにするからである。」と主は仰せられる。
廃墟となったと言われるその所で、まさに楽しみの声と喜びの声が聞こえます。これが神の恵みの力です。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)」私たちは、自分が罪を犯して滅茶苦茶になった部分を見て、「ああ、これはもう取り返しがつかない」と思うでしょう。そして、その状況がかろうじて良くなれば幸いだと思うでしょう。けれども主は、そんな無力なお方ではありません。その罪の部分に恵みを満ちあふれさせてくださるお方なのです。
そしてエルサレムのその喜びの声は、花嫁や花婿の声という一般的なお祝いだけでなく、それ以上に「万軍の主に感謝せよ」という主への感謝の声になります。以前のエルサレムにも、花婿と花嫁の声はありました。けれども「万軍の主に感謝せよ。主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。」という言葉に裏打ちされた喜びなのです。霊的な喜びがあるからこそ、他の喜びがさらに豊かになります。
33:12 万軍の主はこう仰せられる。「人間も家畜もいなくて廃墟となったこの所と、そのすべての町々に、再び、群れを伏させる牧者たちの住まいができる。33:13 この山の町々でも、低地の町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレム近郊、ユダの町々でも、再び群れが、数を数える者の手を通り過ぎる。」と主は仰せられる。
「数を数える者の手」というのは、羊飼いの手です。イエス様はご自分のことを「羊の門」と言われたことがありましたが、それは羊が囲いに帰ってくるときに、門のところに杖を横にして羊を一匹ずつ入らせるようにさせます。そして数をかぞえるのです。それをすることができるぐらい、羊も多くなるということです。
2B エルサレムの統治 14−26
1C 正義の若枝 14−16
33:14 「見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家に語ったいつくしみのことばを成就する。
「その日」と言ったら、主がお定めになっている特別の日、特に終わりの日のことです。
33:15 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる。彼はこの国に公義と正義を行なう。33:16 その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住み、こうしてこの町は、『主は私たちの正義』と名づけられる。」
イエス・キリストの預言です。エレミヤ書23章にもすでに「正しい若枝」という預言がありました。そして、「主は私たちの正義」という名前も出てきました。ヤハウェなる神は、ご自分の民の必要になってくださる方です。戦いで勝利が必要なときには「ヤハウェ・ニシ(主は旗)」、心の平安が必要な時には「ヤハウェ・シャローム(主は平安)」です。今のエルサレムに最も必要なのは、公義と正義です。ですから主が「私たちの正義」になってくださるのです。
そしてすばらしいのは、主ご自身が正義であられるだけでなく、エルサレムの町も同じ名前で呼ばれることです。主がその町のただ中におられるからであり、またエルサレムにキリストの義がとどまっているからです。
なぜクリスチャンが「クリスチャン」と呼ばれるのでしょうか。「キリスト者」と呼ばれるのでしょうか?「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21)」キリストの義が転嫁されているからです。
2C 永続する王座 17−26
33:17 まことに主はこう仰せられる。「ダビデには、イスラエルの家の王座に着く人が絶えることはない。33:18 またレビ人の祭司たちにも、わたしの前で全焼のいけにえをささげ、穀物のささげ物を焼き、いつもいけにえをささげる人が絶えることはない。」
主はダビデに、「あなたから世継ぎの子が出る」との約束を与えられました。エコヌヤ(エホヤキン)に対して、「彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。(エレミヤ22:30)」と主は言われましたが、イエス・キリストはエコヌヤの子孫ヨセフの子であるだけでなく、ダビデの息子ナタンからの子孫マリヤの子であられます。主が再び来られて、ダビデの座に着いてくださいます。
そしてレビ人でありますが、これは理解できないと思われる人が多いと思います。イエス・キリストがただ一度死なれたことにより、罪のいけにえは果たされたはずなのに、なぜ再び動物のいけにえの制度が始まるのか?ということです。
けれども、千年王国ではいけにえの意味が変わります。それは、キリストが成し遂げられた罪の贖いを記念して行なうものであり、実際に罪を贖うためにささげるものではないからです。ちょうど私たちが今、聖餐式においてキリストの死を記念するように、これら動物のいけにえ、また穀物のささげ物によって主がなされたことを記念します。
33:19 エレミヤに次のような主のことばがあった。33:20 「主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、33:21 わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。33:22 天の万象が数えきれず、海の砂が量れないように、わたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人とをふやす。」
主がノアに与えられた契約、「昼と夜とは、やむことはない。(創世8:22)」は見事に守られています。何千年も、一日も休むことなく、主はこの契約を守り続けてくださっています。
この契約が破られるのであれば、他のダビデに対する契約も破られると言われます。どうでしょうか?イエス・キリストはダビデの王座に着かない、神の国を立てるために地上に戻ってくることはないと挑みかかる人は、昼と夜の法則を変えてみてください。実際に、終わりの時に反キリストはこの法則さえ変えようと躍起になりますが(ダニエル7:25参照)。
33:23 エレミヤに次のような主のことばがあった。33:24 「あなたは、この民が、『主は選んだ二つの部族を退けた。』と言って話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民をもはや一つの民ではないと見なして侮っている。」
二つの部族とはユダとイスラエルのことです。ソロモンの死後、二つの国に分裂してから、まるで二つの民であるかのように別の道を辿りました。そして北イスラエルを「失われた十部族」などと言っています。
33:25 主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、33:26 わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。しかし、わたしは彼らの捕われ人を帰らせ、彼らをあわれむ。」
これだけはっきりと主がお語りになっているのですから、イスラエルは必ず回復するのです。「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。・・・もし彼らの捨てられることが世界の和解であるとしたら、彼らの受け入れられることは、死者の中から生き返ることでなくて何でしょう。(ローマ11:12,15)」
このように私たちには、「理解のできない大いなる事」が用意されています。目で見たことのないもの、耳で聞いたことのないもの、心に思い浮かびもしないことを、主は、神を愛する者たちのために用意しておられます。目で見えることでがっかりしないでください。目で見えることで、信仰による一歩を踏み出すことを止めるようなことはしないでください。主の偉大さを祈りの中で認め、前に果敢に進んで行ってください。
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