1A はかない期待 37
1B 聞かれない祈り 1−10
2B 密かな興味 11−21
2A 偽りの忠誠心 38
1B 反対者の怒り 1−13
1C 反対に無力な者 1−6
2C 果敢に行動する者 7−13
2B 些細な恐れ 14−28
3A 逆転の運命 39
1B 滅ぼされる者たち 1−10
2B 救われる二人 11−18
本文
エレミヤ書36章を開いてください、今日は36章から39章までを学びます。メッセージ題は「臆病な者」です。
ついに、これまでエレミヤが預言してきたバビロンによるエルサレム陥落を今日は読みます。これまで、エホヤキムの時代とゼデキヤの時代を行ったり来たりしていましたが、今回でついにエルサレムの町の包囲から陥落までを順を追って読むことになります。
歴史的に、そして預言的に、この出来事はとても大切になりますが、イエス様は「異邦人の時」と呼ばれました。「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:24)」エルサレムを異邦人が支配する時が紀元前586年から始まりました。確かに70年後、エルサレムにユダヤ人は神殿を再建しますが、ペルシヤの支配下にありました。その後は、ギリシヤそしてローマです。
実は、つい最近までエルサレムは他国の主権の中にありました。1967年に、エルサレムがイスラエルの主権の中に入ります。48年にイスラエルが建国、そして67年に六日戦争が勃発、その時イスラエル軍がヨルダン軍からエルサレム旧市街を奪取したのです。
けれども、これで異邦人の時が終わったかと言えば、非常に微妙です。神殿の丘の敷地は六日戦争後もそのままイスラム教の管轄下にあります。そしてエルサレムを首都と宣言しているのはイスラエルだけであり、世界の諸国は大使館をテルアビブに置いています。名実ともにエルサレムが回復されるのは、おそらくイエス様が地上に戻ってこられて、神の国を建てられる時でしょう。
このように、エルサレムが破壊されるという、歴史的にも預言的にも重要な出来事をこれから読んでいくことになります。
1A はかない期待 37
1B 聞かれない祈り 1−10
37:1 ヨシヤの子ゼデキヤは、エホヤキムの子エコヌヤに代わって王となった。バビロンの王ネブカデレザルが彼をユダの国の王にしたのである。
エルサレムが破壊されるのは、ゼデキヤが王の時です。彼が王になったのは、バビロンによってであり、ゆえに彼はバビロンの傀儡でした。バビロンに歯向かうことは到底許されないことでした。けれども、それを行なってしまうことにより、バビロンはエルサレムを滅ぼすのです。
37:2 彼も、その家来たちも、一般の民衆も、預言者エレミヤによって語られた主のことばに聞き従わなかった。
これは、これから読む40章までの出来事をまとめた分です。「主のことばに聞き従わなかった」というのがまとめです。非常に残念な事です。興味深いのは、ゼデキヤは兄弟のエホヤキムのように、必ずしも御言葉を鼻っから拒絶したのではないことをこれから読みます。エレミヤの言葉に聞きはしたのです。けれども、「聞き従わなかった」という結論を出さざるを得ない行動をしています。
37:3 ゼデキヤ王は、シェレムヤの子エフカルと、マアセヤの子、祭司ゼパニヤを預言者エレミヤのもとに遣わして言った。「どうか、私たちのために、私たちの神、主に、祈ってください。」37:4 ・・そのとき、エレミヤは民のうちに出入りしていて、まだ獄屋に入れられていなかった。37:5 パロの軍勢がエジプトから出て来たので、エルサレムを包囲中のカルデヤ人は、そのうわさを聞いて、エルサレムから退却したときであった。・・
覚えていますか、エレミヤ書32章で、従兄弟のハナムエルの土地をエレミヤが買い取った時、彼は監視の庭に監禁されていたのを読みました。けれどもこの時はまだ監禁されていませんでした。ですから、36章は32章の前に起こった出来事です。
またこの時は、パロの軍勢がエジプトから出てきた時でした。もう既に包囲は始まっていました。紀元前588年から始まります。けれどもエジプトのパロ・ホフラ(エレミヤ44:30参照)がユダに加勢するために出てきた時、バビロンはエジプトと戦うために一時、包囲を解除したのです。
この時に、ゼデキヤは自分の高官と祭司を遣わして、「私たちのために、どうか主に祈ってください。」と頼んだのです。もちろんこれは、バビロンから自分たちが救われるように祈ってくれ、ということです。包囲が解除された今、もしやこれが恒久的に続くのではないかという期待を抱いていたのです。
祈りを人に頼むことは良いことです。ゼデキヤは、エレミヤを神の預言者と認めていましたが、ヤコブ書には「義人の祈りは働くと、大きな力があります。(ヤコブ5:16)」とあります。けれども、「自分たちが願っていることがかなえられるように、どうか祈ってください。」と自分たちの願いに同意してもらう隠れた動機を、ゼデキヤの中に見ることができます。
けれども聖書は、そのような祈りは聞かないと言っています。「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4:3)」とあります。また、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ5:14)」とあります。まず自分自身が神の御心に服するからこそ、その祈りと願いは聞かれるのであって、それがなければ他人に祈ってもらっても意味がありません。
そしてゼデキヤは、おそらく自分自身は神に祈っていないと思います。「祈りはエレミヤに頼めばよい」という、他人任せでした。自分自身が神ご自身の前に出て行くということをしていないのです。自分自身は神の前に出る勇気がないのです。この点、ヒゼキヤ王と違いますね。アッシリヤにエルサレムを包囲された時、彼は自分自身が主の宮に行き、衣を裂き、そして祈りました。それからイザヤにも祈りを頼んでいます(イザヤ37:1‐4)。
37:6 そのとき、預言者エレミヤに次のような主のことばがあった。37:7 「イスラエルの神、主は、こう仰せられる。『わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。見よ。あなたがたを助けに出て来たパロの軍勢は、自分たちの国エジプトへ帰り、37:8 カルデヤ人が引き返して来て、この町を攻め取り、これを火で焼く。』37:9 主はこう仰せられる。『あなたがたは、カルデヤ人は必ず私たちから去る、と言って、みずから欺くな。彼らは去ることはないからだ。37:10 たとい、あなたがたが、あなたがたを攻めるカルデヤの全軍勢を打ち、その中に重傷を負った兵士たちだけが残ったとしても、彼らがそれぞれ、その天幕で立ち上がり、この町を火で焼くようになる。』」
エレミヤは主の強い意思をゼデキヤに伝えました。バビロンによってエルサレムが焼かれることが主の御心です。神はそれを重傷の兵士だけが残っても、彼らがこの町を火で焼くという極端な表現で言い表しておられます。
2B 密かな興味 11−21
37:11 カルデヤの軍勢がパロの軍勢の来るのを聞いてエルサレムから退却したとき、37:12 エレミヤは、ベニヤミンの地に行き、民の間で割り当ての地を決めるためにエルサレムから出て行った。
32章のある、従兄弟ハナムエルの土地を買い戻した出来事は、おそらくこの割り当ての地を決めることの延長だったのでしょう。これからエレミヤは監禁されてしまいますが、そのために割り当ての地を決められなかったので、ハナムエルが監禁されているエレミヤのところにやって来て、土地を買い戻してほしいと言ったのだと思います。
37:13 彼がベニヤミンの門に来たとき、そこにハナヌヤの子シェレムヤの子のイルイヤと言う名の当直の者がいて、「あなたはカルデヤ人のところへ落ちのびるのか。」と言って、預言者エレミヤを捕えた。37:14 エレミヤは、「違う。私はカルデヤ人のところに落ちのびるのではない。」と言ったが、イルイヤは聞かず、エレミヤを捕えて、首長たちのところに連れて行った。
エレミヤは、「バビロンに投降しなさい」という神の言葉を伝えていたので、イルイヤは、彼がバビロンに亡命するのではないかと疑いました。
37:15 首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れた。そこを獄屋にしていたからである。37:16 エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた。
ここから彼の監獄生活が始まります。「丸天井の地下牢」とありますが、これは元々貯水槽のために造られたものです。イスラエルに行くと、至る所に貯水槽の遺跡が見つかりますが、岩を切り刻んで、奥深く掘ったものです。入口は小さいですが、中に入ればものすごく大きく、広いものが多いです。これを使って牢屋にしています。
37:17 ゼデキヤ王は人をやって彼を召し寄せた。王は自分の家でひそかに彼に尋ねて言った。「主から、みことばがあったか。」エレミヤは、「ありました。」と言った。そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます。」と言った。
おそらくバビロンの包囲が再び始まったのではないかと思われます。それで、地下牢に入っていたエレミヤを引き出し、何か主から新たに語られていることはないかゼデキヤは聞いたのだと思われます。
ここに「密かに」という言葉がありますが、これがゼデキヤの特徴を端的に表しています。彼は御言葉には興味はありました。けれども、一般の民、首長たち、そして側近らを恐れていました。だから、バビロンに服しなさいという神の言葉に聞き入ってしまうなら、自分はユダヤ人から危害を受けるかもしれないと恐れていたのです。
信仰と言うのは、それそのものが「公にする」という性質を持っています。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)」「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32-33)」心の中だけでなく口で言い表し、祈りの中で言い表すだけでなく、人の前でも言い表すものです。
ところが、自分が信じていることを人に言わないでおこうとする人が多くいます。10年間、自分の父親に自分がクリスチャンであることを話さなかった、とか、数年間、会社の同僚に自分がクリスチャンであることを話さなかった、という話をたくさん聞きます。
なぜ、秘密にしてしまうのでしょうか?「これを他の人がどう思うか、どう反応するか、ことさらに摩擦を起こしたくない。」と恐れるからです。ひどい時は、「摩擦を起こすのはクリスチャンらしくない」とその恐れを正当化します。けれども主は何と言われたでしょうか。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。(マタイ10:34-35)」もちろん、不必要な対立を引き起こす必要はありません。周囲の人とできるだけ平和を保ちなさいという御言葉もあります(ローマ12:18等)。けれども、信仰という性質上、対立は避けられないのです。
そして、密かにしているために、結果、主が命じられていることに聞き従わないというゼデキヤと同じ過ちを犯します。
ここでエレミヤは、ゼデキヤの「主から御言葉があったか」という質問に対して、「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と、非常に短く答えています。なぜなら、もう既に語っている言葉なのに、単純にゼデキヤが聞き入れていないからです。彼は御言葉について興味はあるのでしょう。けれども、それを心から受け入れ、聞き従うつもりはないのです。だから、また同じことをそのまま語るしかなく、もうゼデキヤが聞いている言葉なので、非常に短く答えています。
37:18 エレミヤはゼデキヤ王に言った。「あなたや、あなたの家来たちや、この民に、私が何の罪を犯したというので、私を獄屋に入れたのですか。37:19 あなたがたに『バビロンの王は、あなたがたと、この国とを攻めに来ない。』と言って預言した、あなたがたの預言者たちは、どこにいますか。
非常に重要な事実です。覚えていますね、エコヌヤあるいはエホヤキンがバビロンに捕え移された後に、「主はバビロンの王のくびきを打ち砕き、ユダの王も民もこの所に帰らせる。」と言う偽預言者が数多くいました。彼らはいかにも愛国的で、王のために祈っている預言者であるかのように振舞っていました。ところが実際、バビロンが包囲を始めると彼らはいなくなったのです。彼らは言葉が偽りであっただけでなく、その忠誠心や愛も偽りだったのです。
箴言に「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(17:17)」という言葉があります。次回の学びに出てきますが、エレミヤはエルサレムが滅ぼされた後も続けて、残りのユダヤ人と一緒に暮らすことを選び、そして彼らがエジプトに下ったときも彼らと一緒にいました。ユダヤ人はエレミヤの言葉を嫌い偽預言者の言葉を好みましたが、最後まで一緒にいてくれたのはエレミヤだったのです。エレミヤのほうが、神の真実な愛を持っていたのです。
私たちは、聞き心地の良い言葉に気をつけなければいけません。世の流れに沿った教えに注意しなければいけません。エペソ書に、「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、(4:14)」とあります。そして続けてパウロは「愛をもって真理を語り」と言っています。真理を語る人が、真実の愛を持っているのです。
37:20 今、王さま、どうぞ聞いてください。どうぞ、私の願いを御前にかなえて、私を書記ヨナタンの家へ帰らせないでください。そうすれば、私はあそこで死ぬことはないでしょう。」37:21 そこでゼデキヤ王は命じて、エレミヤを監視の庭に入れさせ、町からすべてのパンが絶えるまで、パン屋街から、毎日パン一個を彼に与えさせた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまっていた。
書記ヨナタンの家にあった地下牢には、もちろん食べ物も飲み物もありません。けれども、王の宮にある監視の庭には比較的行動の自由がありました。
2A 偽りの忠誠心 38
ところが再び、地下牢に入れられる出来事が起こります。
1B 反対者の怒り 1−13
1C 反対に無力な者 1−6
38:1 さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、すべての民にエレミヤが次のように告げていることばを聞いた。38:2 「主はこう仰せられる。『この町にとどまる者は、剣とききんと疫病で死ぬが、カルデヤ人のところに出て行く者は生きる。』そのいのちは彼の分捕り物として彼のものになり、彼は生きる。』38:3 主はこう仰せられる。『この町は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」38:4 そこで、首長たちは王に言った。「どうぞ、あの男を殺してください。彼はこのように、こんなことばをみなに語り、この町に残っている戦士や、民全体の士気をくじいているからです。あの男は、この民のために平安を求めず、かえってわざわいを求めているからです。」
首長たちがエレミヤの言葉に怒り狂っています。
38:5 するとゼデキヤ王は言った。「今、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」
なんとゼデキヤは、あっさり自分が弱いことを認めています。彼はバビロンの傀儡だけではなく、閣僚の傀儡でもありました。彼は非常に力の弱い指導者です。
38:6 そこで彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなくて泥があったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。
先ほど話したように、地下牢はもともと貯水槽でした。イスラエルは5月から10月までが乾季ですが、その時は雨がほとんど降りません。そしてエレミヤ書14章によると、主が裁きとして、ユダの地に雨を降らせておられなかったので、日照りが続いていたのだと思われます。それで底は水がなくなって、泥になっていました。
今、エルサレムに行きますと、盛んに遺跡の発掘がされている箇所の一つに、ダビデの町があります。神殿の丘の南に位置するオフェルの丘です。そこから、先ほどエレミヤが預言した、バビロンがエルサレムを火で焼いた焼け跡も残っています。家々が焼けたもので地層のようになっているのです。
そして1998年にエレミヤが閉じ込められた穴が見つかりました。王宮のあった敷地に小さな穴が見つかったので中に入ってみると、大きな地下室のような空間がありました。まさに貯水槽です。当時と同じように、一部が依然として湿って泥になっていました。
こうしてエレミヤは泥の中に沈み、死にそうになっています。後で彼が引き上げられた後、ゼデキヤに対して「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。(15節)」と言いました。実際に穴の中に入れたのは閣僚たちです。けれどもゼデキヤが王としての権力を持ちながら、その権力を彼らの判断に任せる所において用いたのです。これは、自分がエレミヤを穴の中に入れたことに等しいのです。
決断をしないことは、一つの決断をしていることと同じです。自分は決断をヤコブ書に、「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(4:17)」とあります。ゼデキヤと同じことを行なったのは、ポンテオ・ピラトです。彼は主を十字架刑に処しましたが、その時、水を取り寄せて、手を洗って、言いました。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。(マタイ27:24)」彼はユダヤ人の要求のままにしたから自分には罪はないとしましたが、人を殺すこともできる権威を持ちながら、正しい人を殺すままにしたという罪があるのです。
ピラトそしてゼカリヤと同じように、自分は正しいと分かっていながら、私たちは周囲の人のことを気にしたり、圧迫を受けているので、自分が正しいと分かっていることをしないで、そのままにしていたら、その過ちを自分も犯しているという事実に気づかなければいけません。
2C 果敢に行動する者 7−13
ゼデキヤとは対照的に、正しいと分かっていることをそのまま行なった人が次に登場します。
38:7 王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたこと、また王がベニヤミンの門にすわっていることを聞いた。
「エベデ・メレク」という名前の意味は「王のしもべ」です。その役職であり宦官にふさわしい名前ですね。彼はクシュ人すなわちエチオピヤ人です。今、イスラエルには黒人系のユダヤ人がいますが、彼らはシェバの女王とソロモン王の間にできた子の子孫であると主張します。これは定かではありませんが、女王シェバによってユダヤ人の信仰がもたらされたことは確かです。ここで、ユダの国で、ユダヤ人の王に仕えています。
新約聖書にもエチオピヤの宦官が出てきますね。彼はイザヤ書を読んでいるとき、ピリポの伝道によってイエス様を信じました(使徒8:26‐40参照)。
38:8 そこでエベデ・メレクは、王宮から出て行き、王に告げて言った。38:9 「王さま。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの方を穴に投げ込みました。もう町にパンはありませんので、あの方は、下で、飢え死にするでしょう。」38:10 すると、王は、クシュ人エベデ・メレクに命じて言った。「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」
なぜ三十人も連れて行くのか考えますと、おそらく護衛のためだと考えられます。エレミヤを殺したい人たちが周りにいるからです。王はベニヤミンの門に座っていたので、自分の親衛隊を連れて行かせたのかもしれません。
それにしても、ゼデキヤは、他の人に言われて始めて行動に移しています。間違っていると分かっているなら、なぜ初めから止めさせなかったのでしょうか?理解に苦しみます。
38:11 エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着ふるした着物やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろした。38:12 クシュ人エベデ・メレクはエレミヤに、「さあ、ふる着やぼろ切れをあなたのわきの下にはさんで、綱を当てなさい。」と言ったので、エレミヤがそのとおりにすると、38:13 彼らはエレミヤを綱で穴から引き上げた。こうして、エレミヤは監視の庭にすわっていた。
綱だけだと、脇に綱が食い込んでしまうので、古着やぼろ切れをあてがいなさいとエベデ・メレクは言っています。
2B 些細な恐れ 14−28
38:14a ゼデキヤ王は人をやって、預言者エレミヤを自分のところ、主の宮の第三の入口に召し寄せた。
38:14b王がエレミヤに、「私はあなたに一言尋ねる。私に何事も隠してはならない。」と言うと、38:15 エレミヤはゼデキヤに言った。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず、私を殺すではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞きません。」38:16 そこで、ゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓って言った。「私たちのこのいのちを造られた主は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちをねらうあの人々の手に、あなたを渡すことも絶対にしない。」
再び出てきました「密かに」という言葉です。ゼデキヤはそんなに主の御言葉が聞きたいなら、その通りにすればよいのですが、また、聞き入れないなら、初めから聞こうとしなければよいのに、でも聞きたいのです。
似たようなことを行なった人物が新約聖書に出てきます。そしてローマのユダヤ属州の総督で、ペリクスという人がいました。カイザリヤにパウロが拘留されていた時、パウロを呼び出して、信仰について話を聞きたいと言いました。彼はキリスト教について相当の知識があったのです。けれどもパウロは、正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、恐れを感じて、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言いました。彼の妻ドルシラは他の男の妻でした。公然と姦淫の関係にいたのです。(使徒24章参照)
彼が言った「おりを見て」というのは、二度と来ませんでした。ペリクスが行なった不正がばれて一度死刑判決を受けたのですが、ある人の執り成しによって、国外追放になりました。興味があるのに、悔い改めるという決断をすることができず、決断を先送りにしたため、とうとう機会を失ってしまったのです。
御言葉に興味を持つのなら、それは自分を変えることなのです。今までのあり方を捨てて、新しい歩みをすることなのです。けれども、ゼデキヤはそれができない弱い人間でした。
38:17 するとエレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、主は、こう仰せられる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのいのちは助かり、この町も火で焼かれず、あなたも、あなたの家族も生きのびる。38:18 あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この町はカルデヤ人の手に渡され、彼らはこれを火で焼き、あなたも彼らの手からのがれることができない。』」38:19 しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデヤ人に投降したユダヤ人たちを恐れる。カルデヤ人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするかもしれない。」
ゼデキヤがなぜ、神の御言葉に聞き従うことができないのか、その理由をここで明かしています。投降した後に既にバビロンにいるユダヤ人たちから、自分が馬鹿にされるかもしれないという恐れを抱いていました。
ああ、何と言う些細なことで神の御言葉を退けていたことでしょうか!けれどもこれが、思い煩いが行なうことです。箴言に「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)」とあります。冷静に判断すれば、馬鹿にされることのほうが、はるかにバビロンの手の中に落ちるよりも優っているのです。けれども、人が恐れを抱き、思い煩うと、有ること無い事を考え始めます。
主はこう言われました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4-5)」人を恐れると、神の権威を忘れてしまいます。神を恐れれば、人への恐れが消えてゆきます。
38:20 エレミヤは言った。「彼らはあなたを渡しません。どうぞ、主の声、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたはしあわせになり、あなたのいのちは助かるのです。
ゼデキヤの心配は無用だと、エレミヤは励ましています。カルデヤ人は、ユダヤ人の中にゼデキヤを放り出すことはしないと確証しています。主は神の国と神の義を第一にする人には、加えて与えてくださいます。主の言葉を第一にするなら、バビロンの剣から救われるだけでなく、懸念しているユダヤ人の嘲弄からも救われるのです。大事なのは主に服従すること。そうすれば、主がその他のことを世話してくださいます。
38:21 しかし、もしあなたが降伏するのを拒むなら、これが、主の私に示されたみことばです。38:22 『見よ。ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長たちのところに引き出される。聞け。彼女らは言う。・・あなたの親友たちが、あなたをそそのかし、あなたに勝った。彼らはあなたの足を泥の中に沈ませ、背を向けてしまった。
この親友とは、エレミヤを殺してくださいと言った閣僚たちのことです。彼らは、あなた、ゼデキヤを唆す、と言っています。先ほどの偽預言者と同じです。王に忠誠心がたくさんあるように見せながら、いざとなったら彼らは逃げてしまうのです。真実に王を愛していないのです。
そしてゼデキヤの足を泥の中に沈ませる、とあります。ゼデキヤがエレミヤを泥の中に沈ませたことが、自分にも跳ね返ってくる、ということです。
38:23 あなたの妻たちや、子どもたちはみな、カルデヤ人のところに引き出され、あなたも彼らの手からのがれることができずに、バビロンの王の手に捕えられ、この町も火で焼かれる。』」
これは次の章で詳しく読むことになります。特に息子たちは、彼の目の前で虐殺されます。
38:24 ゼデキヤはエレミヤに言った。「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは殺されることはない。38:25 もし、あの首長たちが、私があなたと話したことを聞いて、あなたのところに行き、あなたに『さあ、何を王と話したのか、教えてくれ。私たちに隠すな。あなたを殺しはしない。王はあなたに何を話したのだ。』と言っても、38:26 あなたは彼らに、『私をヨナタンの家に返してそこで私が死ぬことがないようにしてくださいと、王の前に嘆願していた。』と言いなさい。」38:27 首長たちがみなエレミヤのところに来て、彼に尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに、彼らに告げたので、彼らは黙ってしまった。あのことはだれにも聞かれなかったからである。
エレミヤが預言したことは、彼ら首長たち本人に関わることだったので、これを彼らが聞いたら、必ずエレミヤを殺すに違いないとゼデキヤは思いました。それで、「ヨナタンの家に返さないでくれ」というエレミヤの以前の要求で返答しなさいと命じました。
ゼデキヤについて興味深いのは、エレミヤが語った神の御言葉には応答していないのですが、エレミヤという神の器を守らなければいけないということについては強く反応しました。彼はある意味、自分自身が神の御言葉に応答しないのを、他のもので補充しようとしていたのです。自分は神の御言葉に従わないが、神の預言者を大切に扱えば、神は自分をよく見てくださるのではないか、と思ったのです。
私たちも、単純に、そして直接的に、神の御言葉に応答していないことを、他の事柄で補おうとします。たくさん聖書を読むことで補おうとすることもあるでしょう。教会でたくさん献金しようと思うこともあるでしょう。けれども明らかな神の命令には従いません。従っていないので、他の事柄で一生懸命になるのです。
38:28 エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。彼はエルサレムが攻め取られたときも、そこにいた。
エレミヤはバビロンによって解放された後も、神のしもべでした。ユダの国が滅んでバビロンの国になっても、彼は変わることなく神の御言葉を告げる預言者でありました。似たような人でダニエルがいます。彼はバビロンで高官として働いていましたが、バビロンが突如として滅び、メディヤ・ペルシヤの国が始まっても、同じように政府の中で仕事をしていました。そして変わることなく、預言を通して王に預言していました。
このように自分に与えられている神の召しをはっきりとわきまえている人は幸いです。どんなに環境が変わろうとも、国が代わってしまうという大変事が起こっても、自分自身は変わることなく神に仕えます。
3A 逆転の運命 39
私たちは39章で、これまでのエレミヤの預言の成就、確認を見ることができます。
1B 滅ぼされる者たち 1−10
39:1 ユダの王ゼデキヤの第九年、その第十の月に、バビロンの王ネブカデレザルは、その全軍勢を率いてエルサレムに攻めて来て、これを包囲した。39:2 ゼデキヤの第十一年、第四の月の九日に、町は破られた。
これはユダの暦なので、現代のに変えて数えると30ヶ月です。30ヶ月の包囲の後、城壁が破られました。
39:3 そのとき、バビロンの王のすべての首長たちがはいって来て、中央の門に座を占めた。すなわち、ネルガル・サル・エツェル、サムガル・ネブ、ラブ・サリスのサル・セキム、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェル、およびバビロンの王の首長の残り全員である。
これでエルサレムが実質的にバビロンの国のものとなりました。
39:4 ユダの王ゼデキヤとすべての戦士は、彼らを見て逃げ、夜の間に、王の園の道伝いに、二重の城壁の間の門を通って町を出、アラバへの道に出た。
王の園はシロアムの池のあるところ、エルサレムの南側に面しています。そこから町を出ました。アラバは、ヨルダン川沿いの南北に伸びている低地です。エリコの方面に逃げています。
39:5 しかし、カルデヤの軍勢は彼らのあとを追い、エリコの草原でゼデキヤに追いつき、彼を捕えて、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王ネブカデレザルのもとに連れ上った。そこで、王は彼に宣告を下した。
エルサレムを陥落させた時、そこにはネブカデネザルはいませんでした。彼は、今のシリアにある、ユーフラテス上流地域の方面にあるリブラにいました。かつて、エジプトのパロ・ネコが、ユダの王エホアハズを連れてきた所と同じです。
ここでエレミヤの預言、「彼は必ず、バビロンの王の手に渡され、彼と口と口で語り、目と目で、彼を見る。(32:4)」が実現しました。
39:6 バビロンの王はリブラで、ゼデキヤの子たちをその目の前で虐殺し、またユダのおもだった人たちもみな虐殺し、39:7 ゼデキヤの両眼をえぐり出し、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンに連れて行った。
目が見えている時の最後の記憶が、自分の息子たちが虐殺されるという酷い仕打ちです。ここで「あなたは、バビロンに行く。(34:3)」という預言が成就しました。
39:8 カルデヤ人は、王宮も民の家も火で焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。
「火で焼く(37:8等)」という預言の成就です。
39:9 侍従長ネブザルアダンは、町に残されていた残りの民と、王に降伏した投降者たちと、そのほかの残されていた民を、バビロンへ捕え移した。
これも預言の成就です。「カルデヤ人に出て行く者は生きる。そのいのちは彼の分捕り者として彼のものになり、彼は生きる。(38:2)」とありました。
39:10 しかし侍従長ネブザルアダンは、何も持たない貧民の一部をユダの地に残し、その日、彼らにぶどう畑と畑を与えた。
これは、そこで事後処理をしているカルデヤ人が糧食を得ることができるようにしておくためでしょう。
2B 救われる二人 11−18
39:11 バビロンの王ネブカデレザルは、エレミヤについて、侍従長ネブザルアダンに次のように命じた。39:12 「彼を連れ出し、目をかけてやれ。何も悪いことをするな。ただ、彼があなたに語るとおりに、彼にせよ。」
ネブカデネザルは、おそらくエレミヤが語った、自分のことについての役割を聞いていたのでしょう。自分が神のしもべとして、エルサレムとユダ、また周辺の諸国を支配するという言葉です(27章参照)。それでエレミヤは完全に自由にさせました。
39:13 こうして、侍従長ネブザルアダンと、ラブ・サリスのネブシャズ・バンと、ラブ・マグのネルガル・サル・エツェルと、バビロンの王のすべての高官たちは、39:14 人を遣わして、エレミヤを、監視の庭から連れ出し、シャファンの子アヒカムの子ゲダルヤに渡して、その家に連れて行かせた。こうして彼は民の間に住んだ。
ここでエレミヤ個人についての神の預言が実現しました。エレミヤを召し出されるとき、神がこう言われましたね。「見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、・・主の御告げ。・・あなたを救い出すからだ。(1:18-19)」地下牢と穴の中に入れられて、死にかけましたが、それでもこのように彼は救われました。
私たちはすぐに、今、自分たちが置かれている経過ばかりを見ます。それで今の状況から救われたいと願って、自分を救い出そうと試みます。けれども、主は何と言われたでしょうか?「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ9:35)」逆のことが起こるのです。バビロンから救われようとした者がかえって滅び、バビロンに投降したものがかえって生きたのです。
そしてエレミヤの他に、もう一人、救われた人が次に紹介されています。
39:15 エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき、エレミヤに次のような主のことばがあった。39:16 「行って、クシュ人エベデ・メレクに話して言え。『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。39:17 しかしその日、わたしはあなたを救い出す。・・主の御告げ。・・あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。39:18 わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。・・主の御告げ。・・』」
エレミヤを穴の中から救い出したエベデ・メレクも、エレミヤと同じように自分の命を分捕り物とすることができます。
彼の恐れは、ユダヤ人の首長たちでした。彼らがエレミヤを自分が助けたことによって、自分に危害を与えるのではないかと恐れたのです。けれども、主が「その者たちの手に渡されることはない」と確約してくださいました。
こうしてエルサレムの最後を私たちは読みましたが、どのようにして滅んだかお分かりになったでしょうか?それは、ひとりの人の「臆病」によって滅びました。ゼデキヤは弱い王でした。政治的に弱かったという以上に、神の御前に出ていくことができない弱さを持っていました。神の言葉を自分のものとして受け入れ、神のみを恐れることができない弱さを持っていました。そのために、彼の意思決定のすべてが他人によって支配されていたのです。
興味深いことに、黙示録の最後で天のエルサレムの中に入ることのできない者たち、火と硫黄の池に投げ込まれる者たちの初めが、「おくびょう者(21:8)」が挙げられています。神の福音を受け入れることのできないという臆病が、その他のあらゆる悪より先に出てきているのです。
だからヘブル書では、次のような勧めがあります。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル10:39)」人を恐れてはいけません。また神の御言葉を自分のものとして受け入れ、神の御座の前に出て行くのを恐れはいけません。信じれば命を得るのです。
そしてコリント第一の最後のところには、こう書いてあります。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。(16:13)」男になりなさい、強くありなさい、というのは、霊的に強くなれ、ということです。これまで見てきた、神の御言葉を自分自身が受け入れ、正しいと分かっていることを行なうことのできる勇気です。
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