エレミヤ書47−49章 「諸国への裁き」

アウトライン

1A ペリシテ 47
2A モアブ 48
   1B 辱め 1−10
   2B 安逸 11−25
   3B 高慢 26−39
   4B 恐怖 40−47
3A アモン他 49
   1B アモン 1−6
   2B エドム 7−22
      1C 役に立たない知恵 7−13
      2C 小さくされる民 14−22
   3B ダマスコ 23−27
   4B ケダル・ハツォル 28−33
   5B エラム 34−39

本文

 エレミヤ書47章を開いてください、私たちは続けて「諸国への裁き」についての預言を読みます。前回はエジプトに対する宣告を読みました。続けて、「ペリシテ」に対する預言が来ます。

1A ペリシテ 47
47:1 パロがまだガザを打たないうちに、ペリシテ人について、預言者エレミヤにあった主のことば。47:2 主はこう仰せられる。「見よ。北から水が上って来て、あふれる流れとなり、地と、それに満ちるもの、町とその住民とにあふれかかる。人々は泣き叫び、地の住民はみな泣きわめく。47:3 荒馬のひづめの音、戦車の響き、車輪の騒音のため、父たちは気力を失って、子らを顧みない。

 ガザという町が出てきましたが、これでペリシテがどこにあるか分かりますね。現在のガザ地区です。イスラエルの地中海沿岸地域の南の部分です。今はパレスチナ自治区になっており、ガザの町はガザ地区の首都です。

 旧約聖書を読めば、何度もペリシテ人が出てきます。古くはアブラハムの時代から、そしてイスラエルとの戦いは士師の時代から始まります。覚えていますね、サムソンはペリシテ人と戦いました。そしてダビデが戦ったのは、ペリシテ人のゴリヤテです。彼らは海洋民族です。海の神ダゴンを信じていました。

 「パロがまだガザを打たないうちに」とありますが、おそらく前回学んだ、パロ・ネコのことであろうと思われます。カルケミシュの戦いでバビロンに徹底的な打撃を受けた王です。そして、ここの預言の内容は、エジプトによる攻撃ではなく、バビロンによるものです。「北から水が上ってきて」とありますね。エジプトは南ですが、バビロンが北からです。

 その時の様子をエレミヤは幻の中で見ていますが、その恐怖は父が子を忘れるほどである、とあります。相当の恐怖です。

47:4 すべてのペリシテ人を破滅させる日が来たからだ。その日には、ツロとシドンを、生き残って助ける者もみな、断ち滅ぼされる。主が、カフトルの島に残っているペリシテ人も破滅させるからだ。

 当時のユダとその周辺諸国は、バビロンに対抗するため連合を結んでいました。「ツロとシドン」から助けが来てほしいと願ったのですが、ツロもバビロンによって滅ぼされます。

 ここの「カフトル」はキプロスのことと考えられます。ペリシテ人はクレテ島ではないかと考えられています。彼らの出身地までも破滅させられる、とのことです。

47:5 ガザは頭をそられ、アシュケロンは滅びうせた。アナク人の残りの者よ。いつまで、あなたは身を傷つけるのか。」

 アシュケロンはガザの北にある町です。今はイスラエルの町になっています。

 ここで興味深いのは、「いつまで、身を傷つけるのか」という表現です。これは彼らの異教の慣わしの中で、祈りや痛みを表すときにそのようにしたのだと思われます。エリヤがバアルの預言者と対決した時も、バアルの預言者が身を傷つけたように、です。

 こんなことをしても主の裁きを免れることはできないよ、ということです。異教の慣わしを行ない、異教の神々に願い求めても、その祈りは聞かれないよ、ということです。

 私は、そのような姿を見ると心が痛みます。試練の中にいる人、例えば、自分の娘が交通事故になって植物状態になってしまった。そして新興宗教のところに行って、祈り求めている姿などを見ると、本当に心が痛いです。「イエス様の名さえ呼びさえすれば、希望があるのに。」と思うのです。異なる神々は役に立たないのです。

47:6 「ああ。主の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め。」47:7 どうして、おまえは休めよう。主が剣に命じられたのだ。アシュケロンとその海岸・・そこに剣を向けられたのだ。

 これは、主がペリシテを剣で滅ぼすことを強く意図されていることに現われです。

2A モアブ 48
 それでは次、モアブに対する預言を読みましょう。モアブは、今日のヨルダンの南側の部分です。死海の東側にあります。ロトとその娘の近親相姦によって出来た子であり、モアブ人はイスラエルの敵として数多くでてきます。モーセが荒野の旅をしている時も、モアブ人バラクがイスラエルを呪おうとし、預言者エリシャの時に、モアブの王メシャがイスラエルとユダに対して戦っています。

 「メシャ碑文」あるいは「モアブ碑」と呼ばれる石碑が見つかっています。そこには、このモアブの王メシャが戦った記録を残しており、そこに「ヤハウェ」や「ダビデの家」「イスラエル」という言葉が出てきたので、大きな発見です。

 ここの石碑にはメシャ王の勝利が書かれていますが、聖書は彼が不利になったことを記述しています。そして不利になったことが分かると、自分の長男を全焼のいけにえとしてささげた、とあります。それを見て、イスラエル人たちはあまりにもむごたらしいその宗教を目の当たりにして引き下がりました。

 この人間のいけにえをさえ行なう宗教が、モアブ人のケモシュ信仰です。

1B 辱め 1−10
48:1 モアブについて。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「ああ、悲しいかな、ネボ。これは荒らされた。キルヤタイムもはずかしめられ、攻め取られた。そのとりでは、はずかしめられて打ちのめされた。48:2 もはやモアブの栄誉はない。ヘシュボンでは、これに悪事をたくらんでいる。『行って、あの国民を断ち滅ぼして無き者にしよう。』マデメンよ。おまえも黙る。剣がおまえのあとを追っている。」48:3 聞け。ホロナイムからの悲鳴。「破壊だ。大破滅だ。」と。48:4 モアブは打ち破られた。その叫びはツォアルまで聞こえた。48:5 ルヒテの坂を泣きながら嘆きが上る。敵はホロナイムの下り坂では、いたいたしい破滅の叫びを聞いた。48:6 逃げて、おまえたちのいのちを救え。荒野の中の野ろばのようになれ。

 モアブに対する預言はイザヤ書にもありました。イザヤ書でもエレミヤ書でも共通して特徴的なのは、モアブの数々の町々の具体名が出てくることです。ネボ、キルヤタイム、ヘシュボン、マデメン、ホロナイム、ツォアル、ルヒテが出てきました。

 モアブは、エルサレムが破壊された5年後に、バビロンによって破壊されました。北から攻めてくるバビロンがこれらの町を一つ一つ倒していく時、それを泣き叫んでいる、その悲鳴の声を描いています。

 私が、一ヶ月前ぐらいからこの箇所を読んでいたのですが、ちょうどその時ニュースで、北朝鮮が日本を核兵器攻撃で脅している放送を見ました。朝鮮語の中に、日本国の地名が数多く出てきました。「東京、横浜、静岡、大阪、福岡」というふうに、具体的な大きい都市を並べて、それを殲滅させるとのことです。その時に、ここのモアブへの預言の意味が少し分かりました。具体的な町の名を聞くことによって、それぞれの町にある誇り、愛着、楽しみなどを思い出します。これらがすべてなくなってしまうのだよ、という宣言です。

48:7 おまえは自分の作った物や財宝に拠り頼んだので、おまえまで捕えられ、ケモシュはその祭司や首長たちとともに、捕囚となって出て行く。

 ここにモアブが裁かれたその理由が書かれています。自分たちの財産により頼んでいたことです。主が、エルサレムとユダを裁かれたその理由は、主のに聞き従わなかったこと、その教えと律法を守り行なわなかったことが、何度も出てきましたね。ご自分の民には、主が与えられている啓示がはっきりとしているのです。

 けれども、周囲の諸国に対しては、主の律法が与えられていません。それに対する責任はありません。けれども、やはり裁かれているのです。神の御言葉が与えられていなくても、彼らは彼らに与えられた神の啓示によって裁かれているのです。

 ローマ人への手紙で、異教徒に対する神の怒りの現われが書かれています。1章18節からです。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。(ローマ1:18-20」被造物に神の啓示があるから、弁解の余地はない、とのことです。また2章には、それぞれに与えられている良心が、その人にとって律法になると書かれています。

 だから、「神を知らない」というのは、神の裁きを免れる理由にはなりません。しかも、モアブ、ペリシテ、そしてその周りにある国々は、イスラエルと接して、イスラエルの神を何となく見聞きしているのです。にも関わらず、イスラエルの神を認めなかったのですから、裁きを免れられないのは当然です。

 ここで私は日本のことを思います。キリストの福音を聞いたことがないという人たちが大勢います。けれども、実はいろんなところで、少しずつ福音に触れています。日本は、カトリックは戦国時代から、明治維新以後はプロテスタントが来ています。ミッション系の学校も多く、キリストの知識には触れているのです。にもかかわらず、キリストを受け入れないのですから、言い訳はできません。

 ここ7節では、モアブの問題は財産です。これも、日本の問題であります。世界第二位の経済大国である日本が、いかに自分たちの持っているものに頼っているため、まことの神に頼ることができていないかをとても強く感じます。

48:8 荒らす者がすべての町にはいって来る。一つの町ものがれることができない。谷は滅びうせ、平地は根絶やしにされる。主が仰せられるからだ。

 平地と言っても実際は台地です。イスラエルからヨルダンを見ると、山々がずっと連なっているのを見ます。ヨルダン川は水面下にあるような低い地ですが、そこから高くなり、そして台地として平らなところがヨルダンには広がっています。

48:9 モアブに翼を与えて、飛び去らせよ。その町々は住む者もなくて荒れ果てる。48:10 主のみわざをおろそかにする者は、のろわれよ。その剣をとどめて血を流さないようにする者は、のろわれよ。

 この「主のみわざ」とは、モアブが剣によって血を流すことです。ペリシテ人に対するのと同じように、主がモアブを滅ぼされる強い意思を感じます。

2B 安逸 11−25
48:11 モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。48:12 「それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く。

 非常に興味深い例えです。モアブの安逸を、ぶどう酒の滓と比べています。ぶどうは、それを酒にするために発酵させるとき、沈殿物が下に沈むようにしておきます。40日経ってから、底に溜まっている滓を取り除くために、ぶどう酒をそっと他の容器に移します。もしこの容器に移す作業をしないと、ぶどう酒があまりにも甘くなり、台無しになってしまうからです。

 モアブは、以前から外敵による侵攻を受けていませんでした。それによって、安らかに暮らしていました。けれども、その安らかに暮らしていたのが自分たちをだめにして言ったのです。安逸と、それにともなう高ぶりです。そこで神は、バビロンを送られることによって彼らを無理やり他の器に移すと言われているのです。つまり、モアブの地から引き抜かれ、捕らえ移されることです。

 私たちは、自分の環境が変わることを嫌がります。いつまでも同じ生活でいたいし、変化すれば多くの不便が出てくるし、辛いことも、苦しいこともあります。けれども、その変化がなければ、私たちはその快適の中で蝕まれ、おかしくなっていくのです。アラブの諺に、「日光をいっぱい浴びたら、砂漠になる。」というのがあります。私たち日本人にとって、日光は快適さをもたらしますが、アラブ人はその快適さが荒廃をもたらすことを知っていたのです。雨があり、他のちょっと不快なこと、不便なことがあるからこそ、私たちは健康に生きることができます。

 このモアブの姿も日本に似ているでしょう。日本は外国の支配を受けたことがありません。他の国の植民地になったこともなく、戦場になったこともあります。ゆえに、それが私たちを蝕むのです。自分たちが何のために生きているのか分からないで生きている人があまりにも多いのです。

48:13 モアブは、ケモシュのために恥を見る。イスラエルの家が、彼らの拠り頼むベテルのために恥を見たように。」

 先ほど説明しましたように、モアブ人はケモシュを民族の神、国の神としてあがめていました。けれども、それは役に立ちません。北イスラエルが、ベテルで金の子牛を拝んでいましたが、それが役に立たなかったようにです。

48:14 どうして、あなたがたは「われわれは勇士、戦いの豪の者。」と言えようか。48:15 モアブは荒らされ、その町々は襲われて、えり抜きの若者たちも、ほふり場に下って行く。・・その名を万軍の主という王の御告げ。・・48:16 モアブの災難は近づいた。そのわざわいは、すみやかに来る。

 自分たちが誇っている軍事力も役に立ちません。

48:17 その回りの者、その名を知る者はみな、これのために嘆け。「どうして力ある杖、美しい笏が砕かれたのか。」と言え。48:18 ディボンに住む娘よ。栄光の座からおりて、潤いのない地にすわれ。モアブを荒らす者が、あなたを襲い、あなたの要塞を滅ぼしたからだ。48:19 アロエルに住む女よ。道のかたわらに立って見張れ。逃げて来る男、のがれて来る女に尋ねて、「何が起こったのか。」と言え。48:20 モアブは打ちのめされて、はずかしめられた。泣きわめき、叫べ。アルノンで、「モアブは荒らされた。」と告げよ。

 王のように、栄光の座に着いていたのに、そこから降ろされました。

48:21 さばきは次の平地に来た。ホロン、ヤハツ、メファアテ、48:22 ディボン、ネボ、ベテ・ディブラタイム、48:23 キルヤタイム、ベテ・ガムル、ベテ・メオン、48:24 ケリヨテ、ボツラ、モアブの国の遠近のすべての町々に。48:25 「モアブの角は切り落とされ、その腕は砕かれた。・・主の御告げ。・・」

 先ほど話しましたように、これら一つ一つの町が、モアブにとって力だったのです。「角」とか「腕」は力を表します。

3B 高慢 26−39
48:26 彼を酔わせよ。主に対して高ぶったからだ。モアブは、へどを吐き散らし、彼もまた物笑いとなる。48:27 イスラエルは、あなたの物笑いではなかったのか。それとも、あなたが彼のことを語るたびごとに彼に向かって頭を振っていたのは、彼が見つけられた盗人のひとりであったためか。

 イスラエルがバビロンによって滅んだ時、モアブは喜びました。そして馬鹿にして、笑いました。それを神は「高ぶっている」と言われ、その高ぶりに対する報いを与えられます。

 聖書の中には、歴然とした神様の法則があります。それはアブラハムに言われた、「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。(創世記12:3」です。イスラエルに対して行なうのは、イスラエルが神の所有の民であるがゆえ、神ご自身に対して行なうのと同じだ、ということです。

 私たちは、イスラエルが裁かれるのを見て、そのような裁き主がおられることを知って、神への恐れ、畏敬を持つべきで、それが、神がイスラエルを裁かれる理由ともなっています。けれども、「イスラエルは何と愚かな民であろうか。神にいつまでも背き続け、自らを滅ぼしている者たちだ。」とするならば、それは要注意なのです。モアブと同じ高ぶりの罪を犯します。

 ローマ11章で、パウロはイスラエルが倒れた木の枝、異邦人の信者をつぎ合された木の枝に例えて、こう話しています。「枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。(ローマ11:19-21

48:28 モアブの住民よ。町を見捨てて岩間に住め。穴の入口のそばに巣を作る鳩のようになれ。48:29 私たちはモアブの高ぶりを聞いた。実に高慢だ。その高慢、その高ぶり、その誇り、その心の高ぶりを。48:30 「わたしは、彼の高ぶりを知っている。・・主の御告げ。・・その自慢話は正しくない。その行ないも正しくない。」

 箴言の中で、主が憎まれる者が七つあるとして、筆頭に挙げているのが「高ぶる目(6:17」です。「高ぶり」というと、私たちは偉ぶっている人を思い浮かべますが、ここでモアブに対して使われていることに気づいてください。その高ぶりとは、「自分自身が、イスラエルと同じように、いやそれ以上に、神に対して罪を犯している。」という事実を認めないことです。

 「自分は大丈夫だ」とする態度こそが、神が最も忌み嫌われることです。主がおられること、主がすべての審判者であることをまったく認めないこと、エジプトのパロがモーセに対して、「主とは誰だ。私は主を知らない。」と言ったあの態度こそが、高慢なのです。

 こう考えると、高慢の見方ががらっと変わると思います。かなり大勢の日本人がこの高慢の罪を犯していることが分かります。「私はキリストというものは知りません。自分自身を信じていますから。」と返答します。

 私の知り合いの人で、「私は、神を信じません。自分を信じていますから。」と私がクリスチャンであることを知って答えました。元気で、しっかりしているおじさん、という感じでした。けれども、それから十年以上経ち、その奥さんは旦那さんのことで鬱を煩い、自分自身も独りで寂しく何もしないで暮らしています。かわいそうなおじいさんになってしまいました。

48:31 それゆえ、モアブのために私は泣きわめき、モアブ全体のために私は叫ぶ。キル・ヘレスの人々のために嘆く。

 これはエレミヤの嘆きの言葉ですが、同時に神ご自身の泣き喚きです。この高慢で、安逸で、財産により頼んでいるモアブが滅ぼされるのを見て、その苦しみと叫びを見て、泣き叫んでおられるのです。

 神はこのような方です。神が裁きを行なわれる時、それを喜んで行なわれていると考えたら、大間違いです。最も裁きを下したくないと願っているのは、神ご自身です。けれども、その正義のゆえ、裁かなければいけないのです。ある説教者は、「地獄については、地獄のことで涙を流したことのある人のみが語ることができる。」と言いました。

48:32 シブマのぶどうの木よ。ヤゼルの涙にまさって、私はおまえのために泣く。おまえのつるは伸びて海を越えた。ヤゼルの海に達した。おまえの夏のくだものとぶどうの取り入れを、荒らす者が襲った。

 シブマとヤゼルは、ぶどうで有名なところです。

48:33 「モアブの果樹園とその国から、喜びと楽しみは取り去られ、私は酒ぶねから酒を絶やした。喜びの声をあげてぶどうを踏む者もなく、ぶどう踏みの喜びの声は、もう喜びの声ではない。」48:34 ヘシュボンが叫んだため、その声はエルアレとヤハツまで、ツォアルからホロナイムやエグラテ・シェリシヤまで届いた。ニムリムの水さえ、荒廃した地となるからだ。

 人々に喜びをもたらすぶどうの収穫がまったく無くなってしまう、という預言です。他の聖書箇所にある、神の裁きの日についての預言にも、人々が楽しんで喜んでいるものがなくなることを話しています。結婚式であるとか音楽であるとか、そのようなものがなくなります。つまり、世の楽しみは過ぎ去る、ということです。

48:35 「またわたしは、モアブの、・・主の御告げ。・・高き所でいけにえをささげ、その神々に香をたく者を取り除く。」48:36 それゆえ、私の心はモアブのために笛のように鳴り、私の心はキル・ヘレスの人々のために笛のように鳴る。彼らの得た富も消えうせたからだ。48:37 彼らは頭の毛をみなそり、ひげもみな切り取り、手にもみな傷をつけ、腰に荒布を着けているからだ。

 モアブの異教の慣わし、ケモシュ信仰がみな取り除かれるということです。

48:38 モアブのすべての屋根の上や、広場には、ただ嘆きだけがある。「わたしがモアブを、だれにも喜ばれない器のように、砕いたからだ。・・主の御告げ。・・」48:39 どうしてこうも打ちのめされて、泣きわめくのか。どうして、モアブは恥を見、背を見せたのか。モアブは、その回りのすべての者の物笑いとなり、恐れとなってしまった。

 モアブはイスラエルを物笑いにしていましたが、今度は自分自身が物笑いの種となります。「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。(マタイ7:2」とある通りです。

4B 恐怖 40−47
48:40 まことに、主はこう仰せられる。「見よ。彼は鷲のように飛びかかり、モアブに向かって翼を広げる。

 「鷲」はネブカデネザル王のことです。

48:41 町々は攻め取られ、要害は取られる。その日、モアブの勇士の心も、産みの苦しみをする女の心のようになる。48:42 モアブは滅ぼされて、民でなくなった。主に対して高ぶったからだ。

 モアブ人は、民族としてペルシヤの時代にはもうなくなっていることがわかっています。主が言われたとおりです。

48:43 モアブの住民よ。恐れと穴とわなとが、あなたを襲う。・・主の御告げ。・・48:44 その恐れから逃げた者は、穴に落ち、穴から上る者は、わなに捕えられる。わたしがモアブに、彼らの刑罰の年を来させるからだ。・・主の御告げ。・・

 裁きを免れることは絶対にできない、ということです。自分は穴から這い上がってきたと思っても、今度は罠が待ち受けています。

48:45 ヘシュボンの陰には、のがれる者たちが力尽きて立ち止まる。火がヘシュボンから、炎がシホンのうちから出て、モアブのこめかみと、騒がしい子らの頭の頂を焼いた。48:46 ああ。モアブ。ケモシュの民は滅びた。あなたの息子はとりこにされ、娘は捕虜になって連れ去られた。48:47 しかし終わりの日に、わたしはモアブの捕われ人を帰らせる。・・主の御告げ。・・」ここまではモアブへのさばきである。

 すばらしいです、最後に一線の光が差し込んでいます。これだけの悲惨がモアブに襲ってくるのですが、それでも終わりの日にはモアブの地に帰還する人がいる、というのです。

 ここに福音があります。モアブ人のように、多くの異邦人は神とキリストを知りません。モアブ人のように、神とキリストを他人事のようにあしらい、自分の財産、自分の偶像に頼っています。そして神の裁きがその民族の上に下ります。けれども、その中に帰ってくる人、すなわち救われる人が起こされるのです。

 だから、私たちはどんなに希望がないように見えるような所でも、福音を語り続ける必要があります。あるいは悔い改めて、罪が赦されるかもしれない、という人が一人でも起こされることを願いながら語り続けるのです。必ずモアブ人の残りのように、神が救いに選んでくださっている人がいるのです。

3A アモン他 49
 次はアモンに対する預言です。アモンはモアブの北にあります。モアブと同じくロトとその娘から生まれた子から出てきており、イスラエルに対して敵対していました。

1B アモン 1−6
49:1 アモン人について。主はこう仰せられる。「イスラエルには子がないのか。世継ぎがないのか。なぜ、彼らの王がガドを所有し、その民が町々に住んだのか。49:2 それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、アモン人のラバに戦いの雄たけびを聞かせる。そこは荒れ果てた廃墟となり、その娘たちは火で焼かれる。イスラエルがその跡を継ぐ。」と主は仰せられる。

 北イスラエルがアッシリヤによって捕らえ移された時、ヨルダン川東岸にあるガド部族も捕らえ移されました。そこはイスラエルの地であったにも関わらず、アモン人が来て、そこを取ってしまいました。それが、アモン人がバビロンによって滅びる原因となります。

 神の所有物を自分のものにしようとする貪欲、盗みはこのようにして裁かれることを知ります。自分のものではないのに、まるで初めから自分のものであるかのように主張する人がいますね。この罪を避けるべきです。

49:3 「ヘシュボンよ。泣きわめけ。アイが荒らされたから。ラバの娘たちよ。叫べ。荒布をまとえ。嘆いて囲い場の中を走り回れ。彼らの王が、その祭司や首長たちとともに、捕囚として連れて行かれるからだ。

 「ヘシュボン」の町はモアブのところにも出てきましたが、それはこの町が国境あたりにあったからです。ここではアモンの町になっています。

49:4 裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。『だれが、私のところに来よう。』49:5 見よ。わたしは四方からあなたに恐怖をもたらす。・・万軍の神、主の御告げ。・・あなたがたはみな、散らされて、逃げる者を集める者もいない。

 アモンもモアブと同じく、自分たちのものを誇っています。ここでは「谷」つまり、自分たちの地形を誇っています。外敵が来るのが難しいところに私たちはいる。私たちは安全だ、というのです。

49:6 そうして後、わたしはアモン人の捕われ人を帰らせる。・・主の御告げ。・・」

 ここもすばらしいです。アモン人にも残りの民がります。アモンはちょうど新約時代では、デカポリス地方です。そしてデカポリスと言えば、悪霊レギオンから解放された人がイエス様に命じられて、福音を伝えた所です。彼らにも希望が与えられました。

2B エドム 7−22
 次はエドムです。エドムはモアブの南、死海の南に位置するところにありました。そしてエドムは、ヤコブの兄エサウの子孫です。ですから、他の民族よりもイスラエルとは深い縁にあります。主はモーセを通して、「エドムを忌み嫌ってはならない。あなたの親類だからである。(申命23:7」と言われました。にも関わらず、エドムはイスラエルへの憎悪を抱き、粘着的に攻撃し、ユダがバビロンによって倒れた時は、何知らぬ顔をして立っていました(オバデヤ11)。

1C 役に立たない知恵 7−13
49:7 エドムについて。万軍の主はこう仰せられた。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか。49:8 デダンの住民よ。逃げよ、のがれよ。深く潜め。わたしがエサウの災難をもたらすからだ。彼を罰する時だ。

 テマンはエドムの中の町の一つですが、テマンという名前がエサウの孫として出てきます(創世36:11)。そしてヨブの友人の一人が、「テマン人エリファズ(ヨブ2:11」です。ヨブに助言を与えるべく、いろいろな知恵を与えようとしますが、そのようにテマンはその知恵で知られていました。

 けれども、その知恵もバビロンによる襲撃の前には無力であることが明らかにされるのです。

49:9 ぶどうを収穫する者たちが、あなたのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さない。盗人は、夜中に来るなら、彼らの気のすむまで荒らす。49:10 わたしがエサウを裸にし、その隠し所をあらわにし、身を隠すこともできないようにするからだ。彼の子孫も兄弟も隣人も踏みにじられてひとりもいなくなる。49:11 あなたのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生きながらえさせる。あなたのやもめたちは、わたしに拠り頼まなければならない。」

 これは神の憐れみですね。ごくわずかに残された孤児、やもめは主ご自身がついていてくださる、というのです。私たちは自分たちでもはや守ることができない、と思っていても、実は主ご自身が守ってくださるのです。

49:12 まことに主はこう仰せられる。「見よ。あの杯を飲むように定められていない者も、それを飲まなければならない。あなただけが罰を免れることができようか。罰を受けずには済まない。いや、あなたは必ずそれを飲まなければならない。

 これは、他の民族、イスラエルの民と強い結びつきのない民族でさえ、神の怒りの杯を飲まなければいけなかった。ならば、なおさらのこと、ヤコブの兄であるエサウの子孫は神の怒りを受けることになるのだ、ということです。

49:13 わたしは自分にかけて誓ったからだ。・・主の御告げ。・・必ずボツラは恐怖、そしりとなり、廃墟、ののしりとなる。そのすべての町々は、永遠の廃墟となる。」

 ボツラはエドムの町です。ここは今は「ペトラ」と呼ばれているところで、世界遺産に指定されています。岩による要塞化されたところで、入り口はろばに載って入らなければいけないほどです。ナバテア人という遊牧民の首都となっていました。けれども今は、誰も住んでいません。

 そして終わりの日の預言に、このボツラが、メシヤと国々との最後の戦いの地になることがあります。敵の返り血によって衣が真っ赤になっているメシヤが、ボツラからやってくるという預言がイザヤ書63章1節にあります。ですから、ここの預言はエドム人以後の姿でもあり、終わりの日の預言にもなっています。

2C 小さくされる民 14−22
49:14 私は主から知らせを聞いた。「使者が国々の間に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに立ち上がれ。』49:15 見よ。わたしはあなたを国々の中の小さい者、人にさげすまれる者とするからだ。

 エドムはバビロンによって襲われます。そしてその後、アラビヤ人、そして今話したナバテア人によってそこを追い出されます。ユダの南の地域に強制移住させられますが、彼らは「イドマヤ人」と呼ばれるようになりました。そしてその時のユダにはハスモン朝があり、ヨハネ・ヒルカノスによってユダヤ教に強制的に改宗させられます。あのヘロデ大王はイドマヤ人です。ですから、彼らは国々の中の小さな者、さげすまれる者になりました。

49:16 岩の住みかに住む者、丘の頂を占める者よ。あなたの脅かしが、あなた自身を欺いた。あなたの心は高慢だ。あなたが鷲のように巣を高くしても、わたしは、そこから引き降ろす。・・主の御告げ。・・」

 ベトラがいくら難攻不落でも、主が彼らを引き降ろすと言われています。「岩の住みかに住む者」とは、そうした自然の要塞の中に住む者たち、ということです。これらのものに拠り頼み心が高慢になっていたのです。

49:17 エドムは恐怖となり、そこを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。49:18 ソドムとゴモラとその近隣の破滅のように、・・主は仰せられる。・・そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。

 ソドムとゴモラは、エドムの北のところにある町です。アブラハムとロトの時代に、この町が滅んだようにエドムも滅ぼされる、ということです。

49:19 「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。なぜなら、だれかわたしのような者があろうか。だれかわたしを呼びつける者があろうか。だれかわたしの前に立つことのできる牧者があろうか。」

 だれも仲裁に入ることはできない、ということです。

49:20 それゆえ、エドムに対してめぐらされた主のはかりごとと、テマンの住民に対して立てられたご計画を聞け。必ず、群れの小さい者まで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場はそのことでおびえる。49:21 彼らの倒れる音で地は震え、その叫び声が葦の海でも聞こえた。

 「葦の海」は「紅海」のことです。エドムは紅海のアカバ湾に面しています。

49:22 見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲い、ボツラの上に翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみをする女の心のようになる。

 ネブカデネザルが、鷲として描かれています。先ほどは獅子でしたね。

3B ダマスコ 23−27
 では次に、ダマスコ、つまりシリヤに対する預言です。

49:23 ダマスコについて。「ハマテとアルパデは恥を見た。悪い知らせを聞いたからだ。彼らは海のように震えおののいて恐れ、静まることもできない。49:24 ダマスコは弱り、恐怖に捕われ、身を巡らして逃げた。産婦のような苦しみと苦痛に捕えられて。

 ハマテとアルパデはダマスコの北にあるシリヤの町ですが、そこにバビロンが襲ってきています。それでダマスコが恐怖で弱っています。

 ダマスコは、以前アッシリヤによって倒されました。覚えていますか、イザヤ書でユダのアハズがアッシリヤに助けを呼んだので、同盟を組んでユダを倒そうとしていたイスラエルとシリヤが倒されました。けれどもその後、ダマスコは復興します。けれども再びバビロンの手の中に落ちます。

49:25 いったい、どうして、栄誉の町、わたしの喜びの都は捨てられたのか。

 ダマスコは古代からある都市です。そこにアラム人が住んで、知られるようになりました。ですから、その歴史と強さを誇っていたのですが、捨てられます。

49:26 それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、断ち滅ぼされる。・・万軍の主の御告げ。・・49:27 わたしは、ダマスコの城壁に火をつける。その火はベン・ハダデの宮殿をなめ尽くす。」

 ベン・ハダデは、イスラエルをしばしば攻撃していたシリヤの王の名前として出てきます。元々の意味は「神々の息子」ですが、その力を象徴するベン・ハダデが火で燃え尽きてしまう、ということです。

4B ケダル・ハツォル 28−33
 次は、「ケダル」と「ハツォル」です。

49:28 バビロンの王ネブカデレザルが打ったケダルとハツォルの王国について。主はこう仰せられる。「さあ、ケダルへ攻め上り、東の人々を荒らせ。49:29 その天幕と羊の群れは奪われ、その幕屋もそのすべての器も、らくだも、運び去られる。人々は彼らに向かって『恐れが回りにある。』と叫ぶ。49:30 ハツォルの住民よ。逃げよ。遠くへのがれよ。深く潜め。・・主の御告げ。・・バビロンの王ネブカデレザルは、あなたがたに対してはかりごとをめぐらし、あなたがたに対してたくらみを設けているからだ。

 「ケダル」はイシュマエルの息子の名(創世25:13)で、アラビア人です。遊牧民なので、ここでバビロンが彼らを攻めた時、「その天幕と羊の群れは奪われる」とあります。

 「ハツォル」は、イスラエルの北部にあるカナン人の町「ハツォル」とは違います。アラビア半島のどこかにあると考えられます。

49:31 さあ、安心して住んでいるのんきな国に攻め上れ。・・主の御告げ。・・そこにはとびらもなく、かんぬきもなく、その民は孤立して住んでいる。49:32 彼らのらくだは獲物に、その家畜の群れは分捕り物になる。わたしは、こめかみを刈り上げている者たちを四方に吹き散らし、彼らに災難を各方面から来させる。・・主の御告げ。・・49:33 ハツォルはとこしえまでも荒れ果てて、ジャッカルの住みかとなり、そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」

 ケダル人も、モアブと同じように「安心して」生きていました。けれども理由が違います。モアブはその財産に頼っていましたが、彼らは「孤立して」生きていることで安住していたのです。他の外の世界と離れて、遊牧民としてわが道を行く生活を送っていました。

 どうでしょうか?私たちは、人間関係の中で疲れを覚えて、自分を独りにすることがあります。離れてさえいれば、問題を回避できると思っています。けれども、そこで培われていくものはケダル人と同じ高ぶりです。自分たちだけで生きることができる、独りで暮らして安心だという高ぶりです。

5B エラム 34−39
 最後は「エラム」に対する預言です。エラムは今のイランのところにあった州です。ペルシヤ時代には、エラムがペルシヤの中心的な地域となりました。

49:34 ユダの王ゼデキヤの治世の初めに、エラムについて預言者エレミヤにあった主のことば。49:35 万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしはエラムの力の源であるその弓を砕く。

 エラム人は弓で有名でした。けれども、その力と誇りを主が砕かれます。

49:36 わたしは天の四隅から、四方の風をエラムに来させ、彼らをこの四方の風で吹き散らし、エラムの散らされた者がはいらない国はないようにする。49:37 わたしは、エラムを敵の前におののかせ、そのいのちをねらう者たちの前におののかせ、彼らの上にわざわいを下し、わたしの燃える怒りをその上に下す。・・主の御告げ。・・わたしは、彼らのうしろに剣を送って、彼らを絶ち滅ぼす。49:38 わたしはエラムにわたしの王座を置き、王や首長たちをそこから滅ぼす。・・主の御告げ。・・

 バビロンが攻めてきて、エラム州にも王座を設けました。

49:39 しかし、終わりの日になると、わたしはエラムの捕われ人を帰らせる。・・主の御告げ。・・」

 すばらしいことです、モアブ、アモンと並んで、エラムからも救われる人が起こされます。

 使徒の働き2章を読むと、五旬節に聖霊が下られ、弟子たちが外国の言葉を語り始めました。それを聞いていた各地からエルサレムにやって来ていたユダヤ人の中に「エラム人(2:9」がいます。そして終わりの日ですから、イエス様が再び戻ってこられる時も、神に立ち上がる人々が起こされるのです。

 ですから、私たちは、神が裁くと定めておられる国々の中でも、ご自分のもとに引き寄せる民を残しておいて下さっているのだ、という原則を見ます。まったく救いの民を残されない国もあります。エドムのように、です。私たち異邦人の国々は、それぞれが主の定めの中にあります。果たして、主の怒りの中にあっても、その中でどれだけの人が救われるのか。そして主と同じ思いになって、人々がこのままでは裁かれてしまうことを泣き、そして一人でも救われることを願っているかどうか、自分の心を調べてみましょう。