1A 帰らない民 8
1B しがみつく民 4−7
2B 偽りの筆 8−17
3B エレミヤの傷 18−22
2A 悟らない民 9
1B 偽証 1−9
2B 焼き払われた荒野 10−16
3B 嘆きの声 17−22
4B 主を知る誇り 23−26
3A 異邦人の道 10
1B 偶像の破滅 1−16
1C 造られた物 1−11
2C ヤコブの分け前 12−16
2B 悲しみと傷 17−25
本文
エレミヤ書8章を開いてください。私たちは前回、8章3節まで学びましたので、今日は8章4節から学びます。そして10章まで学んでみたいと思います。ここでのメッセージの題は「まことの知恵」です。
エレミヤの第二のメッセージを私たちは今、読んでいます。その場所は、神殿の敷地でした。神殿における人々の偽りをエレミヤは指摘しました。「これは主の宮、主の宮、主の宮(7:4)」と、主の宮の中にいさえすれば、自分たちは外敵から守られる。主がおられるからだ、と信じ込んでいたのです。
けれども、その中で行なわれていたのは偶像礼拝でした。驚くことに、神殿の敷地内にバビロン宗教の女神である「天の女王」を、家族こぞって拝んでいたのです。また、ヒノムの谷では、自分の赤ん坊を偶像にささげるために火で焼いていました。
このように、彼らが神殿礼拝という形だけは持っているのですが、心が神から離れていることを神はエレミヤによって明らかにされています。それでは8章4節から読みましょう。
1A 帰らない民 8
1B しがみつく民 4−7
8:4 あなたは、彼らに言え。主はこう仰せられる。「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。8:5 なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。
主はここで、背信者となることを問題としておられません。背信者となっても、また起き上がればよいではないかと問われています。間違った道を歩んでしまうことはあっても、そこから引き返せばそれでよい、と譲歩しておられます。
ところが、それさえも彼らはやっていませんでした。一度罪を犯したら、もう自分はその罪を犯し続けるのだ、と決めてしまっているのです。主は真実な方です。私たちが立ち止まり、そして立ち上がるなら、その時に主は豊かに憐れんでくださいます。そして回復の道を与えてくださいます。
ところが私たちは、その神の真実を知らず、いや信じないで、一度罪を犯したら、それが悪いと分かっていても、それを犯し続けるのだと思ってしまうのです。
8:6 わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか。』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。
主は、私たちの心、思い、そして言葉を注意して聞いておられます。そして、「ああ、なんていうことをしているのだろう。こんなことをしていては、主が悲しまれる。」と嘆くその言葉を聞いてくださいます。へりくだること、悔い改めることをためらわないでください。
ここではそれができないユダの民の姿を描いていますが、まさに猪突猛進です。まったく立ち止まろうとせず、周りが見えていない状態です。
8:7 空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない。
エレミヤ書や他の聖書の箇所には、すでに動物や自然界に働く神の法則、定めを使って、人間の心の不思議を描いています。例えば、海岸線というのは長い年月を経ても変わらないぐらい、荒波でさえも神の定めに従っているのに、彼らは背いているとあります(エレミヤ5:22)。
ここでは、渡り鳥が季節を知って帰ること、また他の鳥も夜になったら帰るとか、自分の時を知っているのに、それをわきまえなかった、ということです。
2B 偽りの筆 8−17
8:8 どうして、あなたがたは、『私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある。』と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。
神殿の書記官たちに対する言葉です。律法を書き記す、というよりも、その解釈を施す、という役目をしている人たちです。この働きが後に、「律法学者」と呼ばれるようになっていきます。
彼らは確かに「律法」を持っていました。私たちが今持っているのと同じ、創世記から申命記までのモーセの律法を持っていました。これらは完璧であり、誤りの無いものです。では、これを持っていること自体が彼らを正しくしているのでしょうか?いいえ、違いますね。聖書を自分の手に持っていて、かつその聖書は誤りの無い神の御言葉だと信じていても、その御言葉を、確信をもって受け入れ、それに従って生きているかどうかはまた別問題なのです。
テサロニケ人にパウロが手紙を出した時、彼は彼らが確信をもって御言葉を受け入れたことをほめました。テサロニケ人への第一の手紙から読みます。「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。また、私たちがあなたがたのところで、あなたがたのために、どのようにふるまったかは、あなたがたが知っています。あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。(1:5-7)」彼らが信者の模範となるほどまで影響力を持つことができたのは、御言葉を御言葉としてそのまま受け入れていたからでした。
そして2章13節にはこう書いてあります。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」事実どおりに神のことば、です。
ですから、ここエレミヤ書の「偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている」というのは、第一に、律法に命じられている通りに生きていない、ということがあります。そして第二に、律法に命じられていることを歪曲して教えている、ということがあります。自分たちの生活、罪の生活を正当化できるように、聖書の言葉の解釈を変えてしまうのです。
ペテロがパウロの手紙のことについてこう説明しています。「その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。(2ペテロ3:16)」パウロが強調する、「律法の行ないではなく、ただ信仰によって義と認められる。」という神の恵みの福音を、放縦へと変えて教える人たちがいました。この二つの過ち、すなわち、行ないと聖書の解釈において、彼らは主に背いていました。
8:9a知恵ある者たちは恥を見、驚きあわてて、捕えられる。
バビロンは自分たちを攻めることはないと思っていた者たち、律法を持っているから大丈夫だと思っていた者が、捕え移されていくので恥を見、驚きます。
8:9b見よ。主のことばを退けたからには、彼らに何の知恵があろう。
本当にその通りですね、何の知恵もありません。主を恐れることが知恵の始まり、と箴言にはありますが、世においては数多くの「知恵」と呼ばれるものがあります。けれども、福音の真理を退けてしまったら、どんなに天才と呼ばれる人でも、愚かな選択をしていく外はありません。「また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。(2テサロニケ2:10-11)」
8:10 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に与え、彼らの畑を侵略者に与える。なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。
ここから12節までの箇所は、6章にも既に出てきたものです。繰り返されているのは、それだけ主が強調されたいからです。
8:11 彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。
「平安だ」という教えは、世においてどこにもあります。「こうすれば平和になれます」「こうやれば心の平安が与えられます」という教えです。けれども福音の真理のみが、私たちの心の邪悪さを教えています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。(エレミヤ17:9)」これをバイパス、迂回して、平安を教えることはできないのです。
8:12a 彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。
私たちが罪を犯して、羞恥心が与えられるなら、それはすばらしいことです。聖霊が与えておられる感情です。けれどもそれがなければ悲惨です。
8:12bだから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、彼らの刑罰の時、よろめき倒れる。」と主は仰せられる。
「倒れる者の中に倒れ」とありますが、ユダの民だから、契約の民だから倒れないという考えは誤りです。神を知らない異教徒と同じように倒れてしまうのです。
8:13 「わたしは彼らを、刈り入れたい。・・主の御告げ。・・しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする。」
ここでの刈り入れは、実の刈り入れのことです。彼らに実が結ばれていることを願っているのに、それがないという神の嘆きです。そして「葉をしおれたままにする」と言われています。主が、いちじくの木に実がないのを見てそれを枯らされましたが、実がなければ葉もなくなるのです。私たちが本当に持たなければいけないものを持っていなければ、今持っているものまでもなくなってしまうのです。
8:14 どうして、私たちはすわっているのか。集まって、城壁のある町々に行き、そこで死のう。私たちの神、主が、私たちを滅ぼす。主が私たちに毒の水を飲ませられる。私たちが主に罪を犯したからだ。8:15 平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、見よ、恐怖しかない。
ここで「主に罪を犯した」と言っているので、彼らは主に立ち上がったかのように見えます。けれども、これは「どうせ、罪を犯したのだから」と言い換えるとここの意味が正しく伝わります。今、彼らは悔い改めているのではありません。落ち込んでいるのです。エレミヤが言っていたけれども、私たちはどうせそのようになるんだ、と鬱になっている状態です。
どうでしょうか、私たちは罪を犯してしまいその結果を自分の身に受けて、「自分の蒔いた種をこの身に受けているだけだ」と落ち込んでも、それは悔い改めではありません。悔い改めは、自分の罪の結果ではなく、罪を犯したそのものを悲しみそれを憎むことです。そして主の所に行き、憐れみを請うことです。これを、死にかけている時でさえ彼らは悟ることができませんでした。
その証拠に、彼らのこの声を無視するかのように、主はバビロンの襲撃を間髪居れずにお語りになっています。次をご覧ください。
8:16 「ダンから馬の鼻息が聞こえる。その荒馬のいななきの声に、全地は震える。彼らは来て、地と、それに満ちるもの、町と、その住民を食らう。8:17 見よ。わたしが、まじないのきかないコブラや、まむしを、あなたがたの中に送り、あなたがたをかませるからだ。・・主の御告げ。・・」
ダンはイスラエルの北端の町です。北からバビロンがエルサレムに向かってきています。そして制御できない毒蛇のように、バビロンはユダの民を噛み殺します。
3B エレミヤの傷 18−22
8:18 私の悲しみはいやされず、私の心は弱り果てている。
これはエレミヤの声です。主が容赦ない裁きをユダに下すことを自分自身が語りながら、自分自身はユダの民と一体になっています。
8:19a 聞け。遠くの地からの私の民の娘の叫び声を。「主はシオンにおられないのか。シオンの王は、その中におられないのか。」
これは、すでにバビロンに捕え移された後の叫びです。「遠くの地から」とありますね。
8:19b「なぜ、彼らは自分たちの刻んだ像により、外国のむなしいものによって、わたしの怒りを引き起こしたのか。」
これは主の声です。彼らが、シオンに王はいなくなったのかと言っていることに対して、主が答えられているところです。彼らはまだ、自分たちが何をしたことによって、遠い地に連れて来られているのかを理解していなかったのです。
8:20 「刈り入れ時は過ぎ、夏も終わった。それなのに、私たちは救われない。」
主がお答えになっているのに、彼らはまだ気づいていません。刈り入れは春の刈り入れのことだと思いますが、それが終わって夏も終わったのに、まだバビロンから解放されることはない、とがっくりしているのです。
分かりますか、彼らは悲しみ、がっかりしているのです。けれどもその本質のところ、自分たちが主から離れて、外国の神々を拝んだということについては受け入れていないのです。
私たちも、すべてのことに主の御手を受け入れる必要があります。自分には不都合なこと、耐え難いことが起こったとき、それを主にあって起こったことであり、主が行なわれたことだと受け入れる時に真の癒しが与えられます。
8:21 私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕えた。8:22 乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。
ギルアデは、ヨルダン川東側の地域ですが、そこには医薬として用いられる乳香がありました。すぐそばにあって簡単に入手できそうなのに、できないというもどかしさを表現しています。
エレミヤはこのように、泣く預言者です。私はここから、エレミヤの彼らに対する愛、そして神の愛の本質を勉強しています。エレミヤの嘆きはまさに神ご自身の嘆きであり、それはまず、罪に対して報復しなければいけない正義を表しています。正義がなく、ただ可愛いとしているのは、神の愛ではありません。けれども、完全に彼らと一体になっておられます。彼らが滅びることを最も望んでいないのは神ご自身です。
神の愛とは何か?それは、「罪から来る滅びを免れるように願い、祈る」であります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」私たちは、愛する人のために祈っているでしょうか?泣いているでしょうか?本当に地獄に行ってしまうことを泣いているでしょうか?
2A 悟らない民 9
エレミヤの泣き悲しみが続きます。
1B 偽証 1−9
9:1 ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。9:2 ああ、私が荒野に旅人の宿を持っていたなら、私の民を見捨てて、彼らから離れることができようものを。彼らはみな姦通者、裏切り者の集会だから。
分かりますか、エレミヤは彼らと一体になりながら、かつ彼らから離れたいと願っています。これもまた愛の現われです。彼らの罪と汚れを憎んでいるのです。罪を憎むことのない愛は、本当の愛ではありません、神の愛ではありません。
9:3 彼らは舌を弓のように曲げ、真実でなく、偽りをもって、地にはびこる。まことに彼らは、悪から悪へ進み、わたしを知らない。・・主の御告げ。・・9:4 おのおの互いに警戒せよ。どの兄弟も信用するな。どの兄弟も人を押しのけ、どの友も中傷して歩き回るからだ。
嘘という罪です。そして、人をおとしめるために言う嘘は中傷と呼ばれます。箴言に、主の憎む者が七つあると書いてある中で、始めに来るのが「高ぶる目」ですが次が「偽りの舌」です。私たちは教会の中で誰かが姦淫の罪を犯した、不品行の罪を犯した、となればその衝撃は大きいです。また社会の中では、誰かが人を殺した、となれば大きなニュースとなります。
けれども、「誰かが人を中傷した」と言って、人々に衝撃が走ることはありません。なぜなら、それだけ頻繁に行なっているからです。慣れっこになっているからです。罪意識も少ないです。けれども、主の目にはそうではありません。
これが、神殿の中にいる人々に対して語られていることを思い出してください。ヤコブがこう言いました。「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。(ヤコブ1:26)」宗教に熱心、つまり教会で熱心にしている人々が人を中傷します。そして、こうも言いました。「私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。(同3:9)」他の兄弟を貶めるような言葉を吐くときに、私たちは神に対して大きな罪を犯しているのです。
9:5 彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。偽りを語ることを舌に教え、悪事を働き、依然として悔い改めない。9:6 彼らはしいたげに、しいたげを重ね、欺きに欺きを重ねて、わたしを知ろうともしなかった。・・主の御告げ。・・
3節でも、ここでも、「わたしを知らない」という言葉があります。主を知る、神を知ることは、頭の知識のことではありません。ここのヘブル語は親密な関係を表す「知る」が使われています。彼らは律法があるから知恵を持っているとされるが、このように偽り合っているのであれば、わたしを知らないのだ、と言っているのです。だから使徒ヨハネがこう言いました。「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。(1ヨハネ4:7-8)」
9:7 それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「見よ。わたしは彼らを溶かしてためす。いったい、わたしの民の娘に対し、ほかに何ができようか。9:8 彼らの舌はとがった矢で、欺きを語る。口先では友人に平和を語るが、腹の中では待ち伏せを計る。9:9 これらのために、わたしは彼らを罰しないだろうか。・・主の御告げ。・・このような国に対して、わたしが復讐しないだろうか。」
「口先で平和、けれども腹では待ち伏せ」・・・これは私たちに大きな課題を与えています。教会の中で、きれいな言葉を使っていても、心の中では何を思っているか、ということを考えなければいけません。どれだけ真実な、心からの愛があるかを試さなければいけません。
2B 焼き払われた荒野 10−16
9:10 私は山々のために泣き声をあげて嘆き、荒野の牧草地のために哀歌を唱える。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜まで、みな逃げ去っているからだ。
エレミヤが、バビロンによってエルサレムやユダが荒廃している姿を幻の中で見ています。そして泣いています。
9:11 わたしはエルサレムを石くれの山とし、ジャッカルの住みかとする。ユダの町々を荒れ果てさせ、住む者もなくする。
今度は主ご自身の言葉です。聖書の中に「ジャッカル」が出てくる時は、ここにあるように全くの荒廃と、人々が住んでいない所に棲む動物として現れます。
9:12 知恵があって、これを悟ることのできる者はだれか。主の御口が語られたことを告げ知らせることのできる者はだれか。どうしてこの国は滅びたのか。どうして荒野のように焼き払われて、通る人もないのか。
主が尋ねておられます。律法を持ち、自分たちは知恵を持ち、悟っていると考えている者たちに尋ねておられます。どうして国が滅んだのか?と。けれども、主は、彼らに答えがないことをご存知です。だから、彼らの答えを待つことなく、ご自分で答えられます。
9:13 主は仰せられる。「彼らは、わたしが彼らの前に与えたわたしの律法を捨て、わたしの声に聞き従わず、それに歩まず、9:14 彼らのかたくなな心のままに歩み、先祖たちが彼らに教えたバアルに従って歩んだ。」
何度も語っておられますが、この一点です。モーセがかつてシナイ山において、またネボ山のところで、イスラエルの民に語った律法の中に、律法を捨てて、聞き従わず、異教の神々にしたがうのであれば、国が荒廃することを預言していました(レビ26:31、申命29:25‐28)。主は、この一点を悟ってほしいと熱心に願っておられます。
9:15 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「見よ。わたしは、この民に、苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませる。9:16 彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、剣を彼らのうしろに送り、ついに彼らを絶滅させる。」
「苦よもぎ」は、麻酔としても使われますが、基本的に精神撹乱をももたらすことのできる毒草です。つまり気が狂うような、非常に辛い経験を、「苦よもぎ」「毒の水」を摂取することとして言い表しています。
3B 嘆きの声 17−22
9:17 万軍の主はこう仰せられる。「よく考えて、泣き女を呼んで来させ、使いをやって巧みな女たちを連れて来させよ。」9:18 彼らをせきたて、私たちのために嘆きの声をあげさせ、私たちの目に涙をしたたらせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。
この「泣き女」は、当時いたプロの泣き屋のことを表しています。葬儀の時に、遺族はお金を払って、泣くことを商売にしている人々を雇います。この人たちが激しく泣き、死者を悼んでいるのを見て、親族の人や知人・友人が訪問したときに、その人たちも心動かされて泣きやすくするためです。イエス様が、すでに死んでいるラザロのところに行かれた時も、ユダヤ人の人たちが泣いていましたね。それがプロの泣き屋です。
そこでここでは、「巧みな女」そして「私たちの目に涙をしたたらせ、まぶたに水をあふせさせよ」と書いてあるのです。
9:19 シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、いたく恥を見た。私たちが国を見捨て、彼らが私たちの住まいを投げやったからだ。9:20 女たちよ。主のことばを聞き、あなたがたの耳は、主の言われることばを受けとめよ。あなたがたの娘に嘆きの歌を教え、隣の女にも哀歌を教えよ。9:21 死が、私たちの窓によじのぼり、私たちの高殿にはいって来、道ばたで子どもを、広場で若い男を断ち滅ぼすからだ。
バビロンによるユダヤ人虐殺の預言です。その死のゆえに嘆きの声をあげなさい、と、泣き屋に頼んでいます。
9:22 語れ。・・主の御告げはこうだ。・・人間のしかばねは、畑の肥やしのように、刈り入れ人のあとの、集める者もない束のように、横たわる。
殺された死体は、誰も葬ることなく、捨てられたままになる、ということです。
4B 主を知る誇り 23−26
9:23 主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。9:24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。・・主の御告げ。・・
非常に大事な言葉です。律法を持っている者に対して、また神殿で礼拝している者に対して、何を誇らなければいけないのか、と問われています。それは唯一つ、「主を知っている」ことです。先に話しましたように、頭の知識として知っているのではなく、主を人格的に、個人的に、親密な形で知っている、ということです。
私たちがすべてのものを失った時、なお残っている者は何でしょうか?「私はすべてを失っても、すべてを持っています。キリストがおられるからです。」という告白をすることができるでしょうか?それだけの個人的な、慕わしい関係を持っているでしょうか?誇るのなら、主を知っていることを誇れ、ということです。
そして、「恵みと公義と正義」というご性質において、主を親しく知りなさいということです。「恵み」は、主の私たちに対する好意です。私たちはどれだけ、主が私たちを好ましく思っておられるか、私たちをよく思っておられるか。そして「公義」は、司法的な意味を持ちます。「公正」と訳すと分かりやすいでしょう。そして「正義」は、もっと道義的なものです。
恵みを持ち、そして公義、正義です。これを多くの人が誤解しています。公義や正義の話をすると、それから立ち返り、主の御名を呼び求めれば、主はすぐにでも赦してくださることを忘れています。そして主が私たちの行なったその仕業に関わらず、私たちを祝福してくださることを忘れます。そして恵みの話をすると、神の正しさについて忘れます。けれども恵みは、神の公義と正義と裏腹なのです。公義と正義がわからなければ、なぜ恵みなのかも分からないのです。
9:25 見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、すべて包皮に割礼を受けている者を罰する。9:26 エジプト、ユダ、エドム、アモン人、モアブ、および荒野の住人でこめかみを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼であり、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」
主はご自分の公義と正義のゆえに、異教徒を滅ぼされます。「無割礼」というのは、アブラハム契約の入っていない、まことの神を知らず、偶像のならわしを行なっている者たちのことです。けれども、驚くことにそこに「ユダ」の名前も入っています。彼らは割礼を受けているのです。けれども、問題は「心に割礼を受けていない」ことでした。心に割礼を受けていなければ、肉に割礼を受けていないのと同じであることを、パウロはローマ2章で論じています。
だから、えこひいきはないのです。律法を持っているということで、救いにあずかるのではない、ということです。
3A 異邦人の道 10
そこで次に、エレミヤは叫び始めます。イスラエルの民が偶像を拝んでいることによって、まことの神の栄光が抑えられ、見えなくなってしまっている時、主がいかに優れた方であるのか、大いなる神であるのかを、改めて語り始めます。
1B 偶像の破滅 1−16
1C 造られた物 1−11
10:1 イスラエルの家よ。主があなたがたに語られたことばを聞け。
ユダだけでなく、北イスラエルも含めてイスラエルの全家に語っています。
10:2 主はこう仰せられる。「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。
雷があれば、何とかのカミ様が怒っているからだ、と言って、そのカミを宥めるためにいろいろな儀式を行なうのが異教ですが、そんなものを見習うな、と言っています。
10:3 国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。10:4 それは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。
偶像のむなしさは、偶像のことをよく知っている私たち日本人ならよく分かります。イザヤ書44章9節から読むと、ここの偶像を作る様子が鮮やかに描かれています。
10:5 それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」
「かかし」とはうまい表現です。かろうじて人間の形はしているけれども、ただのわらで作っているものです。
10:6 主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は、力ある大いなるものです。10:7 諸国の民の王よ。だれかあなたを恐れない者がありましょうか。それは、あなたに対して当然なことです。諸国の民のすべての知恵ある者たちの中にも、そのすべての王国の中にも、あなたと並ぶような者はいないからです。
エレミヤがまことの神に対して話しています。偶像と比べたら、圧倒的にその姿は偉大です。あらゆる王国の上におられて、すべての王、すべての主であられる方です。
10:8 彼らはみなまぬけ者で愚かなことをする。むなしい神々の戒め・・それは木にすぎない。10:9 銀箔はタルシシュから、金はウファズから運ばれる。偶像は木工と金細工人の手の作。その衣は青色と紫色、これらはみな、名匠の作。
タルシュシュは、スペインの南部、鉱物が採掘できるところです。そしてウファズは、アラビヤの方面にあるところだと言われていますが、金が採掘されます。衣が「名匠の作」とありますが、そうですね芸術的、美術的に見れば、高度なものがたくさんあります。日本の寺などでも、すばらしい出来の建築物や衣服があります。けれども、その礼拝対象はあくまでも木なのです。
10:10 しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。
主は諸国の民に憤りを下す時を定めておられます。大患難です。黙示録を読めば、この「国々は耐えられない」という姿を、まざまざと見ることになります。
10:11 あなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」と。
非常に興味深い神の発言です。この言葉はアラム語で書かれています。10節まで、また12節からはヘブル語で書かれていますが、ここだけはアラム語なのです。アラム語は、当時の貿易用語で、世界共通語的に使われていたものです。
つまり主は、ここで言語を変えられて、イスラエルに対してでなく、諸国に宣言することを望まれてお語りになったのです。私たちの周りにある神棚、仏壇も主は滅ぼされます。このことを考えて、私たち信者は、主を畏れかしこみ、これらのものから遠ざかり、また自分のところにあるのなら取り除くことを考えなければいけません。
2C ヤコブの分け前 12−16
10:12 主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。10:13 主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。
私たちは天地を見てわかる神のご性質は、力と知恵、そして英知です。これだけのものを造るのは相当の力、いや無限大の力を要します。そしてこれだけ秩序をもって世界が成り立つには、とてつもない知性が必要になります。さらに、ここでは「英知をもって天を張られた」とありますが、天体の星の運行には驚くべきものがあります。とてつもない理路整然とした法則を見るのです。
10:14 すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。10:15 それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。10:16 ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。
「ヤコブの分け前」すばらしいですね、偶像ではなく天と地を創造し、今もそれを保っておられる神がおられることを証しするために、イスラエルの民は造られたのです。そして異邦人である私たちも、イエス・キリストにあってこの神に近づくことができるようになったのです。
2B 悲しみと傷 17−25
ここまで創造の神の威光を表された後で、彼らがこの神に立ち返らない現状を次のように嘆いておられます。
10:17 包囲されている女よ。あなたの荷物を地から取り集めよ。10:18 まことに主はこう仰せられる。「見よ。わたしはこの国の住民を、今度こそ放り出し、彼らを悩ます。彼らに思い知らせてやるためだ。」
「荷物を取り集める」というのは、もちろんこれからバビロンによって捕え移されるからです。こんなにも神が偉大であられ、そしてこんなにも受け継ぐものが富んでいるにも関わらず、彼らは他の異教徒とともに滅びなければいけないのか・・・。この究極の痛みを次にエレミヤは言い表します。
10:19 ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷はいやしがたい。そこで、私は言った。「まことに、これこそ私が、負わなければならない病だ。」10:20 私の天幕は荒らされ、すべての綱は断ち切られ、私の子らも私から去って、もういない。再び私の天幕を張る者はなく、私の幕屋を建てる者もいない。
エレミヤは、ユダの滅びを完全に自分のものとしています。彼らの天幕が荒らされるのではなく、自分の天幕が荒らされて、自分の天幕の綱が断ち切られ、自分の子らが取り去られます。
ここまでなぜ一体となっているのでしょうか?再び繰り返しますが、愛のためです。ユダヤ人を、同胞の民をこよなく愛する愛のためです。自分はここから離れたいと思っても、決して離れることはできない愛の絆です。
そしてイエス様が私たちと同じように肉体を持たれた、というのはこういうことです。主があのような酷い仕打ちを、むちで打たれ、人々から嘲られ、十字架上で釘を打たれたのは、まさに私たちと一体になるためです。罪人の一人となられたのです。
私たちがこのような悲しみを覚えるのは誰でしょうか?もし自分の配偶者、夫や妻が神から離れていれば、祈りをやめることはできないでしょう。愛しているからです。そして自分の息子、娘、自分の父と母、祈りをやめろと言われてもやめることはできません。
それから自分の周りの人々のためにも祈ります。他の人に、「この人たちは無理だよ。」と言われても、やはり涙を流しながら祈ります。これが神の愛であり、救霊の愛です。
10:21 牧者たちは愚かで、主を求めなかった。それで彼らは栄えず、彼らの飼うものはみな散らされる。
エレミヤは、牧者たち、つまり政治的指導者、霊的指導者に対する告発を止めません。なぜなら、それだけ大きな責任を担っているからです。彼らの愚かさによって、ユダの民全体が迷い、散らされたのです。教会の指導者に対する戒めでもあります。
10:22 聞け、うわさを。見よ。大いなる騒ぎが北の地からやって来る。ユダの町々を荒れ果てた地とし、ジャッカルの住みかとするために。10:23 主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。
ユダの滅びを前にして、エレミヤは自分の道を主にゆだねています。「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか。(20:24)」と箴言にあるとおりです。そして、こう願っています。
10:24 主よ。御怒りによらず、ただ公義によって、私を懲らしてください。そうでないと、私は無に帰してしまうでしょう。
自分の行為ではなく、主のご性質に訴えています。御怒りによれば、自分はまたたくまに滅ぼされてしまう。けれども主の公義によれば、主は恵み深い方であり、ご自分のものに憐れみを注いでくださるから、懲らしめだけをされる。懲らしめであれば、その後に希望があります。再び立ち上がる希望があります。詩篇に、「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。(103:10)」とありますが、その通りにしてくださいと願っています。
10:25 あなたを知らない諸国の民の上に、あなたの御名を呼ばない諸氏族の上に、あなたの憤りを注いでください。彼らはヤコブを食らい、これを食らって、これを絶滅させ、その住まいを荒らしたからです。
これは、バビロンに捕え移された後のことに行なってほしいと願っていることです。エレミヤ書の最後のところで諸国に対する神の裁き、特にバビロンに対する永遠の裁きが書かれています。主はバビロンをユダに対するご自分の器として用いられたのですが、彼らはそれをよいことに、ほしいままにユダを虐げました。ゆえに、主はバビロンを永遠に滅ぼされるのです。
主は、私たちが罪を犯していれば懲らしめられます。罪に対する恥、憎しみを私たちの心に与えてくださいます。そのことによって、私たちが罪から離れることができるようにするためです。けれども、罪を犯すように引き寄せる、この世に対しては容赦ない裁きを行なわれます。世とその中にある欲は滅びると第一ヨハネに書いてありますが(2:16)、容赦ない報復を行なってくだいます。
こうして私たちは、「まことの知恵」という題名で学びました。律法を持っている、神殿で礼拝している、ということが、私たちを明るくするのではありません。聖書を持っている、教会に通っているということが明るくするのではなく、恵みと公義と正義の神を知っていることが知恵なのです。
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