4:1 すると、テマン人エリファズが話しかけて言った。
エリファズは、ヨブのところにやって来た三人の中で、おそらく年長者だったのでしょう。ヨブ記の最後の章にて、彼が三人の中の代表として名前が挙げられています。
4:2 もし、だれかがあなたにあえて語りかけたら、あなたはそれに耐えられようか。しかし、だれが黙っておられよう。
エリファズは、これから話す自分の言葉がヨブにとって耐え難いものかもしれない、と言っています。けれども、言わなければいけない、という正義感によって語ります。
4:3 見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。4:4 あなたのことばはつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた。
ヨブがこれまで行なってきたミニストリー、霊的に人々を助けた奉仕を思い起こさせています。ガラテヤ書6章1節に、「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。」とあります。自分の過ち、愚かさ、罪によって弱くなった人々をヨブが柔和な心で正し、彼らを取り戻していたではないかとエリファズは言っています。
4:5 だが、今これがあなたにふりかかると、あなたは、これに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたはおびえている。
つまり、あなた自身が誘惑に陥って、罪を犯したではないか、ということです。
4:6 あなたが神を恐れていることはあなたの確信ではないか。あなたの望みはあなたの潔白な行ないではないか。
どうしたのだ、ヨブ、あなたは神を恐れることがあなたのよりどころで、潔白な行ないにこそ希望があったではないか、と思い起こさせようとしています。
4:7 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。4:8 私の見るところでは、不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取るのだ。
ここでエリファズが言っているのは、「あなたは罪を犯している。このようなひどい苦しみにあっているのは、あなたが罪を犯したからだ。」と言うことです。後で他の二人の友も同じことを話します。初めはそれとなく指摘して、次に当てこすり的に表現し、最後は明確にヨブが罪を犯していると話します。
彼らの考えは、「蒔いたものが刈り取る。」という原則です。日本人になじみがある表現では、仏教用語の「自業自得」です。自分が行なったその行ないに応じて報いがある。正しい者には祝福が、悪者にはのろいがある、という考えです。
これは確かにその通りです。聖書の中にもこの原則があります。しかし、聖書はそんなに単純ではないことを書いています。「どこに正しい人で絶たれた者があるのか」とエリファズは言っていますが、どうでしょうか?私たちの主、イエス・キリストは、罪のない、正しい方でした。この正しい方が裏切られ、苦しみを受け、死に渡されました。
もちろんエリファズは、先のことはわかりません。けれども、アベルはどうでしょうか?紀元前2000年ごろに生きていた彼らも、アダムの息子であるカインとアベルのことは知っていたでしょう。アベルが殺されたのは、彼が罪を犯したからですか?いいえ、彼のいけにえは神に受け入れられました。彼はその信仰によって正しい人でした。けれども殺されたのです。聖書に描かれている現実は、単純に苦しむ者すべてがその罪悪によって不幸を招いているのではないのです。
そして、エリファズが言った中で致命的な過ちがあります。8節の初めに「私の見るところでは」とあります。先ほど話したとおり、エリファズはおそらく最長者です。もしかしたらヨブよりも年上だったかもしれません。彼は、自分の観察によって、自分の経験によって、「不幸を耕し、害毒を蒔く者が、それを刈り取る。」という原則を見つけたのです。
エリファズはこれから神のことについてたくさん話します。彼は神を信じていた信仰者でした。しかし、彼はヨブの苦しみの理由を探すときに、その答えを見つけたいばかりに、神の真理である御言葉ではなくて、自分の経験に基づいて論を進めていくのです。彼自身も気づいていなかったかもしれません。答えを見つけたいばかりに、その答えを自分の経験にたよるという過ちを犯しました。
興味深いことに、その後の友人も神の御言葉以外の権威により頼んでいます。ビルダデは8章8節で、「さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探求したことを確かめよ。」と言っています。それほど年寄りでもない彼は、自分の経験ではなく先代の人々の知識を頼りにしました。エリファズが年配の人たちにありがちな過ちだとすれば、ビルダデは中年の人たちにありがちな過ちでしょう。自分はたくさんの本を読んで、世の中のことをいろいろ知っている。だいたい世の中はこのようなものだと、わかる。そしてツォファルは、とにかく自分の見方が正しいという慎重さを欠いた最も若者的な見方をしています。
こうして、神のことをたくさん語りながらも、その多くが真理の一面をついていながらも、みことばではないものにより頼むことによって、ヨブの苦しみの状況を完全に見誤っていたのです。
4:9 彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消えうせる。4:10 獅子のほえる声、たける獅子の声は共にやみ、若い獅子のきばも砕かれる。4:11 雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散らされる。
不義を行なう者が、獅子のように強くてもたちどころに砕かれる、ということです。暗に勢力のあったヨブをほのめかしています。
2C 滅び 12−21
4:12 一つのことばが私に忍び寄り、そのささやきが私の耳を捕えた。4:13 夜の幻で思い乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、4:14 恐れとおののきが私にふりかかり、私の骨々は、わなないた。4:15 そのとき、一つの霊が私の顔の上を通り過ぎ、私の身の毛がよだった。4:16 それは立ち止まったが、私はその顔だちを見分けることができなかった。しかし、その姿は、私の目の前にあった。静寂…、そして私は一つの声を聞いた。
長々と自分が神秘的な体験をしたことを語っています。現代にもたくさんいますね、自分の勝手な思いを、神秘的な体験をしたことによって権威づけします。「主が昨日、私に語られました。あなたの牧会の仕方は間違っています。」などと挑みます。神秘的な体験そのものが間違っているのではありません。使徒の働き2章に、ペテロはヨエルの預言を引用して、老人は夢を見て、若者は預言をすることを話しました。使徒たちも他の聖徒たちも、幻や夢などを通して主から語られています。けれども、権威付けのために神秘的体験を使ったり、聞いている人を不必要に恐れさせるのは間違いです。
4:17 人は神の前に正しくありえようか。人はその造り主の前にきよくありえようか。
つまり、ヨブよ、あなたは罪人であることを認めなさい、ということです。
4:18 見よ。神はご自分のしもべさえ信頼せず、その御使いたちにさえ誤りを認められる。4:19 まして、ちりの中に土台を据える泥の家に住む者はなおさらのことである。彼らはしみのようにたやすく押しつぶされ、4:20 彼らは朝から夕方までに打ち砕かれ、永遠に滅ぼされて、だれも顧みない。4:21 彼らの幕屋の綱も彼らのうちから取り去られないであろうか。彼らは知恵がないために死ぬ。
ヨブの家はつぶされ、子どもたちはそれに押しつぶされました。ヨブよ、それだけあなたははかない存在だよ、と訴えているのです。
2B 神の懲らしめ 5
滅んでしまうのは知恵がないからだとエリファズは言っていますが、愚か者にどのようなことが起こるのかをエリファズは説明します。
1C 愚か者 1−7
5:1 さあ、呼んでみよ。だれかあなたに答える者があるか。聖者のうちのだれにあなたは向かって行こうとするのか。
どのような聖なる存在に向かっても、あなたのことはとりなすことはできない、ということです。
5:2 憤りは愚か者を殺し、ねたみはあさはかな者を死なせる。5:3 私は愚か者が根を張るのを見た。しかし、その住みかは、たちまち腐った。5:4 その子たちは危険にさらされ、門で押しつぶされても、彼らを救い出す者もいない。
ヨブにふりかかった災難について再び触れています。ヨブは根をはって繁栄したが、その家はたちまち腐ってしまった。息子が押しつぶされ、救い出されることはなかったということです。
5:5 彼の刈り入れる物は飢えた人が食べ、いばらの中からさえこれを奪う。渇いた者が彼らの富をあえぎ求める。5:6 なぜなら、不幸はちりから出て来ず、苦しみは土から芽を出さないからだ。5:7 人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。
不幸や苦しみは土やちりのように環境にあるのではなく、人間の内側から出てくるのだ、ということです。そこでエリファズはヨブに目を神に向けさせようとします。
2C 悪知恵 8−16
5:8 私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう。
これは口語訳では、「しかし、わたしであるならば、神に求め、神に、わたしの事をまかせる。」となっています。これはすばらしいことです。苦しんでいるとき、神を求め、神に自分のことをまかせます。私たち人間は、わからないことが起こるとき、どうしてそうなるのか、その理由を求めます。けれども、神に任せることが大事です。
5:9 神は大いなる事をなして測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。5:10 神は地の上に雨を降らし、野の面に水を送る。5:11 神は低い者を高く上げ、悲しむ者を引き上げて救う。
神は大いなる方で正しい方だということです。
5:12 神は悪賢い者のたくらみを打ちこわす。それで彼らの手は、何の効果ももたらさない。5:13 神は知恵のある者を彼ら自身の悪知恵を使って捕える。彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。5:14 彼らは昼間にやみに会い、真昼に、夜のように手さぐりする。
神に逆らって悪知恵を使っても、ただ墓穴を掘るだけだということです。
5:15 神は貧しい者を剣から、彼らの口から、強い者の手から救われる。5:16 こうして寄るべのない者は望みを持ち、不正はその口をつぐむ。
エリファズが言っていることは正しいです。けれども、ヨブがこの悪知恵を働かせている人であると断定しているところに過ちがあります。彼は、「神に任せよ」と言っていますが、実は彼自身が神にヨブに起こっていることを任せないで、自分の経験に頼っているのです。
3C 神の癒し 17−27
そしてエリファズは、ヨブが悔い改めた後にある回復を話しています。
5:17 ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は。だから全能者の懲らしめをないがしろにしてはならない。
この言葉は聞き覚えがあるのではないでしょうか?ソロモンが箴言の中で、こう言っています。「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる。(3:11-12)」おそらく、エリファズの言葉を意識してこう言ったのでしょう。そしてヘブル書の著者も主の懲らしめをないがしろにしてならないことを、12章のところで教えています。
ですから、エリファズの言っていることの全てが間違っているのではありません。真理の一面を話しています。しかし、これを今のヨブの状況に当てはめているところに間違いがあります。
5:18 神は傷つけるが、それを包み、打ち砕くが、その手でいやしてくださるからだ。5:19 神は六つの苦しみから、あなたを救い出し、七つ目のわざわいはあなたに触れない。
聖書の中でしばしば、このような表現が出てきます。六つあって、そして七つ目がある、という表現です。
5:20 ききんのときには死からあなたを救い、戦いのときにも剣の力からあなたを救う。5:21 舌でむち打たれるときも、あなたは隠され、破壊の来るときにも、あなたはそれを恐れない。5:22 あなたは破壊とききんとをあざ笑い、地の獣をも恐れない。5:23 野の石とあなたは契りを結び、野の獣はあなたと和らぐからだ。
いろいろな災いから救い出されますが、ここでエリファズが挙げている災いは、ヨブが経験したことです。
5:24 あなたは自分の天幕が安全であるのを知り、あなたの牧場を見回っても何も失っていない。5:25 あなたは自分の子孫が多くなり、あなたのすえが地の草のようになるのを知ろう。5:26 あなたは長寿を全うして墓にはいろう。あたかも麦束がその時期に収められるように。
災いからの救いの後、何の災いもなく過ごすことができる、ということです。
5:27 さあ、私たちが調べ上げたことはこのとおりだ。これを聞き、あなた自身でこれを知れ。
今度はあなたがよく考える番だ、といってエリファズは話を終えています。しかし、ここでも「さあ、私たちが調べ上げたことは」と言って、自分たちが権威になっていることがお分かりになるでしょうか?ここに彼らの致命的な過ちがあるのです。
私たちが苦しむとき、どうしてもその理由を探したくなります。「なぜ、こんな目にあったのか。」という思います。そしてその原因を探求しはじめます。けれども、答えはありません。そこで、神の真理である御言葉以外のリソースに頼っていく傾向を私たち人間は持っています。心理学かもしれないし、その他の学問、哲学、そしてエリファズのように自分の経験や観察などです。
けれども、そこには真の知識はありません。そこには真の知恵はありません。コロサイ書にこう書いてあります。「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。(2:8)」そして、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。(2:3)」とあります。
キリストにこそ、知恵と知識の宝があります。この方は、ヨブ以上の理不尽な苦しみを経験されました。私たちは苦しむとき、キリストを経験することができます。私たちが苦しむ時、キリストの慰めを経験することができます。この方はすべての苦しみを経験されたからです。そして、私たちが苦しむと、私たちは他に苦しんでいることを、慰めることができます。コリント第二1章にこう書いてあります。「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(1:4-5)」
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