ヨブ記32−35章 「別の言い分」


アウトライン

1A 溢れる言葉 32
   1B 口による罪 1−5
   2B 若者の弁明 6−22
      1C 不十分な証拠 6−13
      2C 沈黙 14−22
2A よみの穴からの救い 33
   1B 真心からの言葉 1−7
   2B 神への言い争い 8−30
      1C 語られる方法 8−22
      2C 代言者 23−30
   3B 人への言い返し 31−33
3A 神の公義 34
   1B 悪を行なわない神 1−15
      1C 聞き分ける耳 1−9
      2C 全能者 10−15
      3C すべてを見ている方 16−30
   2B 無意味な反対 31−37
4A 人間の義 35
   1B 無関係な行い 1−8
   2B むなしい叫び 9−16

本文

 ヨブ記32章を開いてください、今日は32章から35章までを学びます。メッセージ題は「別の言い分」です。今日から、ヨブ記の中の長い議論で、新しい部分に入ります。これまではヨブと三人の間の言い争いでしたが、今日から若者エリフの言い分が始まります。

 前回の内容を思い出してください。延々と続いた議論に終止符が打たれました。それは、ヨブが全能者の前に誓いを立てて、自分が身に受けている苦しみに値するような罪をなんら犯していないことを主張したからです。三人の友人は、ヨブがとてつもない罪を犯しているから、その罰としてこんなひどい苦しみを受けているのだと主張しました。けれども、ヨブは、神の前で自分の良心にかけて、決して罪を犯していなかったと主張しました。

 ところが、ヨブのこの勢い余った自分の義に、これまでの議論を立ち聞きしていたエリフが反応しました。ヨブの自分の義の主張が、神の義を出し抜いているとエリフは感じたのです。また、これまでの議論は、ヨブが実際に犯した罪について焦点が当たられていました。けれども、これからの議論は、ヨブの発言そのものに不義があるとの議論が展開されます。

1A 溢れる言葉 32
1B 口による罪 1−5
32:1 この三人の者はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。32:2 すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。

 エリフについての紹介は、「ラム族のブズ人、バラクエルの子」とあります。創世記2220節からアブラハムの兄弟ナホルの子どもたちの名が記されています。「ミルカもまた、あなたの兄弟ナホルに子どもを産みました。すなわち長男がウツ、その弟がブズ、それにアラムの父であるケムエル、・・・」とあります。エリフはブズの子孫と考えられます。そしてナオルの長男がウツとありますが、ヨブたちがいたのはウツという土地でした(ヨブ11)。ですからヨブ記が、アブラハム後の族長時代における出来事が記されているということが言えます。

 そしてエリフは怒りを燃やしましたが、それは先に説明したように、神を差し置いて自分が正しいと主張したと考えたからです。

32:3 彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったからである。

 三人の友人は、ヨブは罪を犯したから苦しみを受けていると断定していましたが、その根拠をなんら提供できずに尻尾を巻いたことに腹を立てました。

32:4 エリフはヨブに語りかけようと待っていた。彼らが自分よりも年長だったからである。32:5 しかし、エリフは三人の者の口に答えがないのを見て、怒りを燃やした。

 ヨブ記には、他の箇所にも年長かどうかについて言及されているところがあります。聖書がオリエントつまり東洋の文明や文化を背景としていることが良く分かります。日本では終身雇用制というものが存在していますが、人の能力・実力に関わりなく年功序列が尊ばれます。同じように、エリフは、ヨブに語りたかったけれども三人の友人が年長だからということで意見を控えていました。

2B 若者の弁明 6−22
1C 不十分な証拠 6−13
32:6 ブズ人、バラクエルの子エリフは答えて言った。私は若く、あなたがたは年寄りだ。だから、わきに控えて、遠慮し、あなたがたに私の意見を述べなかった。32:7 私は思った。「日を重ねた者が語り、年の多い者が知恵を教える。」と。32:8 しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。32:9 年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない。

 私はまだ若者の部類に入る人間だと思いますが、彼の気持ちがよく分かります。聖書について、霊的な事柄について意見を言うと、時に「君は若いね。」という言葉を年配の人から聞くことが、私もあったからです。(もっと若いとき、大学を卒業して間もないときのことでした。)それが私にとって非常につらい経験になりました。だって、正しいこと間違っていることは、年齢に関係なく存在しているのではないか、神の御霊に関する事柄は、その器が何であるかは関係ないのではないか、と思ったからです。エリフがここで話しているとおりです、「人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える」なのです。

32:10 だから、私は言う。「私の言うことを聞いてくれ。私も、また私の意見を述べよう。」32:11 今まで私はあなたがたの言うことに期待し、あなたがたの言い分を調べ上げるまで、あなたがたの意見に耳を傾けていた。32:12 私はあなたがたに注意を払っていたのに、ヨブに罪を認めさせる者はなく、あなたがたのうちで彼のことばに答える者もいない。

 エリフは注意深く、三人の語る内容を聞いていました。ところが、彼らにヨブを告発するネタが尽きてしまいました。

32:13 だが、おそらくあなたがたは言おう。「私たちは知恵を見いだした。人ではなく、神が彼を吹き払った。」と。

 あなたがたは、神がヨブを裁かれるとうそぶいて匙を投げている、ということです。

2C 沈黙 14−22
32:14 彼はまだ私に向かってことばを並べたててはいない。私はあなたがたのような言い方では彼に答えまい。

 エリフは、三人とは別の言い分で語ると言っています。ヨブの苦しみについて、ヨブが罪を犯したから神が罰したのだという三人の言い分とは別の言い分です。

32:15 彼らはあきれて、もう答えない。彼らの言うことばもなくなった。32:16 彼らが語らず、そのままじっと答えないからといって、私は待っていなければならないだろうか。32:17 私は私で自分の言い分を言い返し、私の意見を述べてみよう。

 エリフの独壇場が始まります。ヨブと三人の友人は、それぞれ互いに言い争っていましたが、エリフは相手からの返答がないのに、相手がこう言い返すだろうと自分で推測して、その言い分に対してさらに反論していきます。

32:18 私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している。私の腹を。32:19 今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。32:20 私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。

 当時は、ぶどう酒は皮袋に入れていましたが、福音書で主が語られたように、新しいぶどう酒は新しい皮袋でないとだめでした。膨れてくるので、かたくなった古い皮袋に入れたら皮袋が割れてしまうからです。また、気化したぶどう酒の抜け口がなければ、張り裂けてしまいます。

32:21 私はだれをもひいきしない。どんな人にもへつらわない。32:22 へつらうことを知らないから。そうでなければ、私を造った方は今すぐ、私を奪い去ろう。

 人の顔色を見ながら、私は語らないとエリフは言っています。

 こうしたエリフの姿は現代に直すと、カリスマ性のある若い伝道者のような感じです。全能者の息が私に悟りを与える、とエリフは言いましたが、既存の神学や教団に縛られず、私は聖霊によって語っていると主張します。また、人間関係にも縛られません。多くの人が権力や発言力を持っている人々を気にして言葉を控えているのに対して、その人はあけすけに語ります。生意気、高慢な言い方をしますが、的を射たことも言います。

 ヨブの三人の友人が既存の神学や哲学に捉えられて、その神学や哲学では説明できないヨブの状態に答えを与えることができなくなったのに対して、エリフは新鮮な見方を提供します。しかし、自分の感性や個性に拠り頼んだ手法は、その脆さをあらわにしていきます。

2A よみの穴からの救い 33
1B 真心からの言葉 1−7
33:1 そこでヨブよ。どうか、私の言い分を聞いてほしい。私のすべてのことばに耳を傾けてほしい。33:2 さあ、私は口を開き、私の舌はこの口の中で語ろう。33:3 私の言うことは真心からだ。私のくちびるは、きよく知識を語る。33:4 神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを与える。

 ヨブの最後の格言の中で、彼は、「私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、私のくちびるは不正を言わず、私の舌は決して欺きを告げない。(27:3-4」と言いました。自分のくちびるには不正も欺きもないことを示すのに、神の息が自分の鼻にあるという表現を使いました。この証言は神の前で行なわれるのであり、神からのものであり絶対である、ということです。

 エリフも同じことを言っています。私はこれから、自分の真心で語るのであり心に欺きや悪巧みはない、神の息が私にその言葉を与える、と言っています。

33:5 あなたにできれば、私に返事をし、ことばを並べたて、私の前に立ってみよ。

 ヨブは友人に語っていたとき、初めに友人に語ったあと、それから神に向かって自分の不平を申し上げていました。けれどもエリフはここで、「いいから、私に語ってみなさい。私が盾になってあげる。」と言っています。ヨブがかつて、神と自分の上に置く仲裁者が二人の間にはいない(9:33)と言いましたが、エリフは、「私が仲裁してあげるよ。」と言っているのです。

33:6 実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。33:7 見よ。私のおどしも、あなたをおびえさせない。私が強く圧しても、あなたには重くない。

 エリフはヨブに、やさしく語りかけています。三人がヨブに対して非常に高圧的だったが、私はあなたを高いところから裁かない。同じ神から造られた人間だ。だから私が忠告を与えても、それは重くあなたにのしかかることはない、ということです。

2B 神への言い争い 8−30
 ここまでが彼の言い分の前置きです。これから本文に入ります。

1C 語られる方法 8−22
33:8 確かにあなたは、この耳に言った。私はあなたの話す声を聞いた。33:9 「私はきよく、そむきの罪を犯さなかった。私は純潔で、よこしまなことがない。

 「確かに、言った。あなたの話す声を聞いた」と言いながら、このヨブの言葉を他の箇所で見つけることはできません。彼は自分の身の潔白を何度も主張しましたが、自分に罪がないなどとは主張しませんでした。潔白であることと罪がないことは意味が違います。テモテへの手紙の中に、監督者の資格として「非難されるところがない(1テモテ3:2」ことが取り上げられていますが、それは罪がないということではありません。ヨハネは手紙の中で、「罪はないというなら、私たちは自分を欺いて(1ヨハネ1:8」いると語っています。神を恐れている人は、自分の罪をなくそうとする人ではなく、罪に対して死んでいる人です。自分の罪を自覚して、キリストの十字架のみもとに身を引き寄せて、自分は死んでいるとみなし、キリストに拠り頼む人のことを言います。

ですからエリフは誤った引用をしています。三人の友人も同じように、ヨブが苦しみの中で語ったその言い回しを取り上げて、文脈から外してヨブを責め立てましたが、私たち人間がしばしば陥る過ちです。言ってもいないことを言ったとして、相手を非難することがよくあります。

33:10 それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、私を敵のようにみなされる。33:11 神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張る。」

 神が自分を苦しめたとして、神を非難するかのようなヨブの発言に対して、エリフは強く反応します。

33:12 聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。33:13 なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに神がいちいち答えてくださらないといって。

 ヨブは、「私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。(30:20」と言いました。それに対するエリフの答えは、「神は沈黙されることもある」です。そして、語っておられるのに人のほうが気づいていない場合もあることを次から述べます。

33:14 神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。33:15 夜の幻と、夢の中で、または深い眠りが人々を襲うとき、あるいは寝床の上でまどろむとき、33:16 そのとき、神はその人たちの耳を開き、このような恐ろしいかたちで彼らをおびえさせ、33:17 人にその悪いわざを取り除かせ、人間から高ぶりを離れさせる。

 夜の幻や夢の中で神が語られることがあります。

33:18 神は人のたましいが、よみの穴に、はいらないようにし、そのいのちが槍で滅びないようにされる。33:19 あるいは、人を床の上で痛みによって責め、その骨の多くをしびれさせる。33:20 彼のいのちは食物をいとい、そのたましいはうまい物をいとう。33:21 その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる。33:22 そのたましいはよみの穴に近づき、そのいのちは殺す者たちに近づく。

 痛みの中で、死ぬかもしれないという状況そのものが、神が人に語られる一つの方法であるとエリフは言っています。そのとおりですね。私たちが神のことを真剣に考えるとき、多くの人が病院のベッドで神の語りかけがあったと証しします。それは痛みを通して、病を通して神が私たちにご自分のほうに注意を引き寄せたいと願われることがあるからです。

 今、ヨブは激しい痛みの中にいます。そしてまもなく死ぬかもしれないと思われるような状況です。エリフは、これは神の語りかけであると論じています。

2C 代言者 23−30
33:23 もし彼のそばに、ひとりの御使い、すなわち千人にひとりの代言者がおり、それが人に代わってその正しさを告げてくれるなら、33:24 神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、よみの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を得た。」33:25 彼の肉は幼子のように、まるまる太り、彼は青年のころに返る。

 エリフは確かに、神の御霊によって導かれたことを話しています。ここで彼が語っている代言者は、まさにイエス・キリストの働きです。この方が仲裁してくださり、贖い金を支払ってくださり、滅びに至る罪人がよみの穴から救い出されます。エリフは肉体の回復を約束していますが、新約では霊の新生が約束されています。

33:26 彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。彼は喜びをもって御顔を見、神はその人に彼の義を報いてくださる。33:27 彼は人々を見つめて言う。「私は罪を犯し、正しい事を曲げた。しかし、神は私のようではなかった。33:28 神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る。」と。

 ヨブの友人三人が、ヨブの苦しみを彼の罪に対する罰であると考えたのに対して、エリフは、神の懲らしめ、訓練であると考えています。ヨブが罪の中にいて滅びに至ることがないように、神がヨブに苦しみを与え、肉体の痛みを通して彼が神に立ち返ることができるようにしてくださっている、というものです。

 聖書の中に、特にヘブル書12章にその神の働きが詳しく書かれています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。(12:5-6」実際は、ヨブの苦しみは主からの懲らしめや訓練でもないのですが、エリフの見方は、全ての苦しみは罪から来るという単純な図式よりも、奥深い視点です。

33:29 見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行なわれ、33:30 人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。

 神は忍耐を持って、何度も何度も私たちに語りかけられます。一度語って、私たちが振り向かなかったらあきらめるような方ではありません。

3B 人への言い返し 31−33
33:31 耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。33:32 もし、言い分があるならば、私に言い返せ。言ってみよ。あなたの正しいことを示してほしいからだ。33:33 そうでなければ私に聞け。黙れ。あなたに知恵を教えよう。

 完全な独壇場です。言い分があるならば言ってみよ、と言いながら、「黙れ、私が語ろう。」と言って、ヨブが言い返す余地をなくしてしまっています。

 このように、エリフはかたり生意気な、高飛車な言い方をしています。けれども、意味深いことも語っています。確かにヨブは、痛みを通してもっと神に近づくことができるし、代言者であられるイエス・キリストの働きをもっと深く知ることができるでしょう。

3A 神の公義 34
 しかし先に触れたとおり、的を射たことを言っている人が、必ずしも御霊に満たされている、霊的な人であるとは限りません。

ペテロのことを思い出してください。イエスさまが弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と聞かれたとき、彼は、「あなたは生ける神の御子キリストです。(マタイ16:16」と答えました。主はペテロのこの言葉を、人間ではなく天におられる父からの啓示であると言われました。その直後です。主が、これからご自分がユダヤ人指導者らによって苦しみを受け、殺され、三日目によみがえることをお語りになられました。ペテロはイエスさまを引き寄せて、いさめて、「そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」と言いました。そうしたら主はペテロに、「下がれ、サタン。」と言われたのです。今さっき、神の御霊による啓示をペテロは受けたのに、その次にサタンによって影響を受けた思いを彼は語ったのです。

私たちの中にも、実に的を射たことを話し、多くのクリスチャンの益となるようなことを話す人たちがいます。だからといって、その人が霊的であり、いつも正しいことを言うとは限らないのです。むしろ、そのカリスマ性のために人々を誤った方向に導くことさえあるのです。次の章からのエリフの発言に、その危うさを見ることになります。

1B 悪を行なわない神 1−15
1C 聞き分ける耳 1−9
34:1 エリフは続けて言った。34:2 知恵のある人々よ。私の言い分を聞け。知識のある人々よ。私に耳を傾けよ。34:3 口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分ける。

 今、主にヨブの三人の友人に語っています。彼らのことを「知恵のある人々よ」と呼びかけています。

34:4 さあ、私たちは一つの定めを選び取り、私たちの間で何が良いことであるかを見分けよう。34:5 ヨブはかつてこう言った。「私は正しい。神が私の正義を取り去った。34:6 私は自分の正義に反して、まやかしを言えようか。私はそむきの罪を犯していないが、私の矢傷は直らない。」

 これは、ヨブが自分の格言として語ったところから、導き出している発言でしょう。ヨブは、「もし、あなたがたが言っているように私がとんでもない罪を犯していると私が言ったなら、私は嘘をつくことになる。私は罪を犯してはないのだ。」という旨の発言を27章の最初のところでしています。しかし、エリフは再び、ヨブが言っていないことを言ったこととして引用しています。

34:7 ヨブのような人がほかにあろうか。彼はあざけりを水のようにのみ、

 「あざけり」とは、友人らのあざけりのことです。あれだけ友人らが彼を非難したのに、それを水のように飲み込んで、彼は全然影響を受けていない、ということを言っています。

34:8 不法を行なう者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩んだ。

 完全な偽りの告発です。ヨブの友人らと同じことをエリフは語っています。先に、私たちは、エリフは怒った、と読みました。彼は怒りにまかせて、自分の感情にしたがって語っているのでしょう。ついさっき、「私のおどしも、あなたをおびえさせない」と言って、高圧的にならないと約束したのに、その約束を破っています。

34:9 彼は言った。「神と親しんでも、それは人の役に立たない。」

 このことも、ヨブは言っていません。エリファズが22章2節にて、「あなたが正しくても、それが全能者に何の喜びであろうか。」と発言していますが、ヨブは言っていません。エリフは、かっこいいことを語っていますが、実際のヨブの発言からかけ離れて、空論へとさまよい込んでいます。

 しかし彼の引用は、苦しみを受けている人がしばしば問う疑問であることは確かでしょう。詩篇73篇に、アサフが、悪者が栄えるのを見てうらやむ場面が出てきます。悪者がなんらさばかれずに栄えているのに、「私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。(73:13」と思いました。私たちも自分の周囲を見るとき、この世を見るとき、教会に通い、日々祈り、罪の告白をし、小さな事柄に注意を払っている自分がむなしく感じるときがあります。しかしアサフは、「私は、神の聖所にはいり、ついに彼ら(悪者)の最後を悟った。(73:17)」と言いました。悪者はたちまち滅ぼされることを知ったのです。彼は賛美を導く奉仕者でしたが、神への賛美の中で神の臨在の中に招き入れられ、神の御霊によって実際に起こること、今は目に見えないけれども将来に起こることを知らされました。

2C 全能者 10−15
 しかしエリフは、ヨブが、「神が自分の正義を取り上げ、私を苦しめている。神と交わっても、意味がない。」と言っているものとして持論を展開していきます。

34:10 だから、あなたがた分別のある人々よ。私に聞け。神が悪を行なうなど、全能者が不正をするなど、絶対にそういうことはない。

 エリフには、ヨブの言葉は、神が悪を行なったと聞こえていました。

34:11 神は、人の行ないをその身に報い、人に、それぞれ自分の道を見つけるようにされる。

 悪があっても、それは神からではなく人からのものである。その悪を通して、人は自分の行くべき道を見つけることができる、と言っています。

34:12 神は決して悪を行なわない。全能者は公義を曲げない。34:13 だれが、この地を神にゆだねたのか。だれが、全世界を神に任せたのか。34:14 もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、34:15 すべての肉なるものは共に息絶え、人はちりに帰る。

 神は主権者であられ、いまこの瞬間、すべて生きている物の息の根を止めようと思えば止めることがおできになる、と言っています。けれども、そうなっていない。神は良い方であるとエリフは言っています。

3C すべてを見ている方 16−30
34:16 あなたに悟りがあるなら、これを聞け。私の話す声に耳を傾けよ。

 語りかける相手が単数になりました。「あなたに」とエリフは言っています。これからヨブ個人に語りかけます。

34:17 いったい、公義を憎む者が治めることができようか。正しく力ある方を、あなたは罪に定めることができようか。34:18 人が王に向かって、「よこしまな者。」と言い、高貴な人に向かって、「悪者。」と言えるだろうか。

 ヨブが神を非難していると受け止めたエリフは、地上の高い地位にいる人にさえ、私たちは非難することができないのに、まして正しい神を非難するあなたは何者か、と問いただしています。

34:19 この方は首長たちを、えこひいきせず、貧民よりも上流の人を重んじることはない。なぜなら、彼らはみな、神の御手のわざだから。

 エリフは階級制度を信じていませんでした。神にあってすべての人は平等であると言っています。

34:20 彼らはまたたくまに、それも真夜中に死に、民は震えて過ぎ去る。強い者たちも人の手によらないで取り去られる。34:21 神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ。34:22 不法を行なう者どもが身を隠せるような、やみもなく、暗黒もない。

 神はすべてをお見通しだから、正しい裁きを行なうことがおできになる、ということです。

34:23 人がさばきのときに神のみもとに出るのに、神は人について、そのほか何も定めておられないからだ。34:24 神は力ある者を取り調べることなく打ち滅ぼし、これに代えて他の者を立てられる。34:25 神は彼らのしたことを知っておられるので、夜、彼らをくつがえされる。こうして彼らは砕かれる。34:26 神は、人々の見ているところで、彼らを、悪者として打たれる。

 影響力のある人、権力のある人も、神の前ではまったく無力であるということです。

34:27 それは、彼らが神にそむいて従わず、神のすべての道に心を留めなかったからである。34:28 こうして彼らは寄るべのない者の叫びを神の耳に入れるようにし、神は悩める者の叫びを聞き入れられる。

 ヨブが神は黙って答えないと言っているが、神は実際に、人の祈りと叫びを聞き入ってくださっているということです。

34:29 神が黙っておられるとき、だれが神をとがめえよう。神が御顔を隠されるとき、だれが神を認めえよう。一つの国民にも、ひとりの人にも同様だ。34:30 神を敬わない人間が治めないために、民をわなにかける者がいなくなるために。

 神が沈黙しているかのように見えるときは、実は、神のお考えがあってのことだ、ということです。国のレベルで考えるとき、今の国の状況が悪いので指導者を変えてくださいと言っても、神はお答えにならないように見えるときがあるかもしれない。けれども、次に権力の座を狙っているのは、神を敬わない人間かもしれないのだ、ということです。

2B 無意味な反対 31−37
34:31 神に向かってだれが言ったのか。「私は懲らしめを受けました。私はもう罪を犯しません。34:32 私の見ないことをあなたが私に教えてください。私が不正をしたのでしたら、もういたしません。」と。

 エリフはここで、ヨブがへりくだって祈ることをしていないとなじっています。エリフが先に忠告したように、ヨブの苦しみは神の懲らしめなのだから、そのことを認めて祈ったらどうか、と言っています。しかしヨブは祈るどころか、神の働きに反対し、言い争っている、と言っています。

34:33 あなたが反対するからといって、神はあなたの願うとおりに報復なさるだろうか。私ではなく、あなたが選ぶがよい。あなたの知っていることを言うがよい。

 いちいち、人の願いどおりに神は動くのだろうか。神はあなたのしもべなのだろうか、とエリフは言っています。

34:34 分別のある人々や、私に聞く、知恵のある人は私に言う。34:35 「ヨブは知識がなくて語る。彼のことばには思慮がない。」と。

 分別のある人や知恵のある人なら、当然、ヨブの言葉に知識や思慮がないことを認めるだろう、ということです。

34:36 どうか、ヨブが最後までためされるように。彼は不法者のように言い返しをするから。34:37 彼は、自分の罪にそむきの罪を加え、私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする。

 エリフはついに他の三人と同じように、ヨブを罪があるとして定めました。彼の焦点は、ヨブが隠しているであろう罪ではなく、神に対して言い争っているとする言葉ですが、いずれにしてもヨブを罪に定めています。

4A 人間の義 35
1B 無関係な行い 1−8
35:1 エリフはさらに続けて言った。35:2 あなたはこのことを正義によると思うのか。「私の義は神からだ。」とでも言うのか。

 ここは、「私の義は神にまさる」とも訳すことができます。

35:3 あなたは言っている。「何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか。」と。

 この言葉もヨブは語っていません。仮の話として、「私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに私は何ができましょう。(7:2)」と言っただけです。再び、苦しみの中で、痛みの中で語った言葉の言葉尻を捉えて、文脈から外してエリフは引用しています。

35:4 私はあなたと、またあなたとともにいるあなたの友人たちに答えて言おう。35:5 天を仰ぎ見よ。あなたより、はるかに高い雲を見よ。35:6 あなたが罪を犯しても、神に対して何ができよう。あなたのそむきの罪が多くても、あなたは神に何をなしえようか。35:7 あなたが正しくても、あなたは神に何を与ええようか。神は、あなたの手から何を受けられるだろうか。35:8 あなたの悪は、ただ、あなたのような人間に、あなたの正しさは、ただ、人の子に、かかわりを持つだけだ。

 神は全能者であられ、すべてを超越した方です。人が悪いことを行なったとして、良いことを行なったとしも、神に印象づけたり、影響を与えたりすることはできない、ということです。

確かにそのとおりです。しかし同時に、神の心には影響を与えます。神は愛です。心、深い感情を持っておられます。私たちが罪を犯したとき、神は悲しまれます。全能者であられますから、まったく悪い影響を受けることはありませんが、間違った方向へ行く子を見る父親のように、その心は痛んでおられます。私たちが善を行なうとき、神はその恵みによって私たちに褒美を与えたいと願われます。ですから、その心において神は影響を受けられます。

2B むなしい叫び 9−16
35:9 人々は、多くのしいたげのために泣き叫び、力ある者の腕のために助けを叫び求める。35:10 しかし、だれも問わない。「私の造り主である神はどこにおられるか。夜には、ほめ歌を与え、35:11 地の獣よりも、むしろ、私たちに教え、空の鳥よりも、むしろ、私たちに知恵を授けてくださる方は。」と。35:12 そこでは、彼らが泣き叫んでも答えはない。悪人がおごり高ぶっているからだ。

 多くの人が、いろいろな問題について叫びの声を上げます。しかし、神に対して祈り求めることはしません。その高慢な心のゆえに、神への祈りをささげることができないとエリフは言っています。そして、ヨブが今まさに、祈りと願いがささげられない状態になっていると言っているのです。

 他の友人と同じように、ヨブについての誤った状況判断です。しかし、この二つの叫びについて聖書の中で見つけることができます。キリストが十字架につけられていたときに、人々が叫んだ言葉です。祭司長らは、「神の子なら十字架から降りてくるがよい。」と叫びました。そして、主の隣にいた罪人までが、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。しかし、もう一人の十字架につけられている罪人が、「この仕打ちを受けているのは、当たり前だ。しかしこの方は罪を犯していない。主よ、あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と願いました(以上ルカ23:39節以降)。

もう一人の罪人は、自分の今の状況からの救いを願いました。けれどもこの罪人は、キリストと神を認め、自分が犯した罪を認め、その中であわれみとして願いを申し上げています。さらに、彼は肉体の救いではなく、霊の救いを願いました。同じ願いでも、大きな違いです。多くの人は叫びますが、神への叫びを行ないません。

35:13 神は決してむなしい叫びを聞き入れず、全能者はこれに心を留めない。

 これまでのヨブの神への語りかけは、むなしい叫びであるとエリフは言っています。

35:14 しかも、あなたは神を見ることができないと言っている。訴えは神の前にある。あなたは神を待て。

 確かにヨブは、神を見ることはできないと言いました。しかしそのすぐ後で、「神は、私の行く道を知っておられる。(23:10」と言っています。神は霊であるから見ることはできません。けれども、神はいつも自分を見てくださっている、という意味でヨブが語ったところを、神に対する疑いであるかのように、エリフは引用しています。

35:15 しかし今、神は怒って罰しないだろうか。ひどい罪を知らないだろうか。35:16 ヨブはいたずらに口を大きく開き、知識もなく、自分の言い分を述べたてる。

 エリフのヨブに対する断罪、非難はさらにひどくなっています。神が罰しないのはなぜか、とまで言っています。この後エリフは、神の偉大さについて語ります。その間に、雲行きが怪しくなっていきます。彼はその天気を言及しながら神の偉大さについて語っていきますが、実は神ご自身が近づいておられたのでした。38章から神ご自身のヨブへの語りかけが始まります。

 
エリフの言葉には、正しいことがたくさんありました。的を射ているところがたくさんありました。しかし、彼もまた、ヨブや友人と同じように、すべてのことについて知らされていません。けれども、議論をしているなかで、自分はすべてのことを知っているかのように話していきます。そして、今起こっていることについて、誤った結論を出しました。

 けれども、これが私たち人間の現実です。正しい人がとてつもない苦しみを味わうという不条理を目の当たりにしたとき、私たちは延々と議論をします。「なぜ?」という思いが絶え間なく私たちの頭をよぎり、それに答えるべく自分の頭でいろいろな考え、哲学、神学、直感などを駆使して解答を与えようとします。エリフのように、自分は他の人たちが知らないことを知っているという自負を持って別の視点から語ったとしても、同じことなのです。答えは、38章以降にある神からの直接の語りかけです。


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