ヨブ記40−42章 「塵と灰の中で」


アウトライン

1A 誇り高き獣 40−41
   1B ベヘモット 40
      1C 全能者の腕 1−14
      2C 腰にある力 15−24
   2B レビヤタン 41
      1C 制御できない海獣 1−10
      2C 竜 20−34
2A 主の慈愛 42
   1B ヨブの悔い改め 1−6
   2B 二倍の繁栄 7−17
      1C 友人のための祈り 7−9
      2C 慰め 10−17

本文

 ヨブ記40章を開いてください。今日でヨブ記は最後です、42章まで学びます。今日のメッセージ題は、「塵と灰の中で」です。さっそく本文に入ります。

1A 誇り高き獣 40−41
1B ベヘモット 40
1C 全能者の腕 1−14
40:1 主はさらに、ヨブに答えて仰せられた。40:2 非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。

 前回の学びから、私たちは主がヨブにお語りになる場面を読んでいます。主は嵐の中からヨブにお語りになりました。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。(38:2」と主は言われて、ご自分がお造りになられて自然界のことをヨブに尋ねられました。自然界の一つ一つのメカニズムは、もちろんヨブには分かりません。そして主は今、「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」とヨブを問い詰められます。

 ヨブの過ちは何だったのでしょうか?彼は、神の主権を受け入れていました。ヨブ記1章を思い出してください。彼はすべてを失った後に、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21」と言って主を呪うことをしませんでした。主への信頼は揺るがなかったのです。しかし、友人ら三人が来ました。彼らは、ヨブの苦しみは神からの罰であると言いました。そこでヨブは、自分が罰を受けるような見覚えは全くないと、誓いを立てて自分の無罪を主張しました。彼は神からの試練に受け答えしたのではなく、しつこく自分を責め立てる友人らに反応して、自分の今の状況に不平を鳴らし、また神が不公平であるとの訴えをしました。このことについて、神は「非難する者が全能者と争おうとしている」と言われている所以です。

 私は自分を振り返ると、何とヨブと同じような過ちを繰り返していると思います。私は神さまの主権を信じています。この世では、また特に日本では、ちょっと自分に不都合なことが起こるだけで、周りの状況や人々を非難するだけでなく、神への信仰そのものを捨ててしまうことがたくさんいます。けれども私は、「どんなことが起ころうとも、そのような愚かなことは致しません。あなたは主権者ですから。」と心から祈ることができます。多くの兄弟姉妹も同じ思いを持っておられると思います。

 けれども私の場合、それは自分の人生の全般的な姿勢であって、自分の目の前に差し迫っている試練や逆境、不条理に思えることについては、いらいらしたり、不安になったり、怒ったり、またヨブと同じように心ない人々からの批判に反応して弁明をしようとしたり、具体的な一つ一つの事柄における神の主権を認めることがとても難しいです。そのように目の前の状況に対応しているうちに、結果的に全能者であられる神を非難する過ちを犯してしまいます。

40:3 ヨブは主に答えて言った。40:4 ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。

 「つまらない者です。」という日本語は、私たち日本人が贈り物をするときにしばしば使う「つまらない物ですが・・・」の類の謙遜の言葉以上の意味を持っています。英語ではvile、「下劣な、恥ずべき、嫌な、悪質な」などの意味を持った言葉が使われています。口語訳は「まことに卑しい者」と訳されていますが、この言葉が持つ意味合いの方がもっと正確でしょう。

 つまりヨブは、主ご自身に会って、主ご自身からの言葉を聞いて、そして具体的に創造物に現われている主の知恵と知識、栄光を認識して、自分がいかに惨めであるかを悟ったのです。主に出会った人は、このように自分がいかに卑しいかを悟ることができます。本当の謙虚さは、主ご自身を見つめるところから出てくるのです。

 しかしヨブは、友人らが自分に対して責めることに反応してしまいました。主の言葉ではなく、友人らの言葉を聞いてしまいました。そして主ご自身ではなく、自分の内を見過ぎてしまいました。これは私たちがしばしば陥る罠です。「あなたはこんなことを言った。あんなことも言った。あなたは、こんな性格を持っている。」などなど、自分に対する評価を聞きます。それで自分を内省して、直そうとします。自分のことを真剣に取り組んでしまうのです。

 もちろん私たちは、主によって自分の姿を明らかにしていただくことは必要です。しかし、自分のことを内省しながら、その過程で主ご自身を見ることを怠り、主を締め出してしまう過ちを犯します。ある牧師がこんなことを言いました。Dont take yourself seriously.  Take God seriously.(自分のことで深刻になるな。主ご自身を深刻に考えよ。)人からの判断について、パウロは次の大胆な発言をしています。「しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。(1コリント4:3−4)」自分を真に判定される主に目を注ぐのです。

40:5 一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。40:6 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。40:7 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。

 ヨブは、主から問い詰められて口を閉ざしますと言ったのに、主は再び先に言われた言葉を繰り返されています。勇士のように腰に帯を締め、わたしが尋ねることに答えよ、示せ、と言われています。理由は分かりますか?彼は告白をしていないのです。自分は何が誤っていたのか言い表していないのです。

 誰かが過ちを犯して、その人に説明を求めると、その人は、「もうやらなければいいんですよね。分かりました。」と答えて、口を閉ざしてしまうっていうことがよくありますね。今ヨブが行なっているのはこのことです。自分の心を主に開いて、明け渡すのではなく、ただ黙ってしまったのです。そこで主はもう一度、ヨブを問い質さなければいけなくなったのです。

40:8 あなたはわたしのさばきを無効にするつもりか。自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。

 これはエリフも語っていた言葉です。ヨブが友人らとの議論で自分の義を主張するあまり、神のさばき、判断を横に追いやってしまったことを話されています。

 神のさばきとはご存知ですね、神がヨブを正しい者、潔白な者であると認められましたが、サタンがヨブは神から祝福を受けているから神を恐れているのだ、と告発をしました。このサタンの挑戦に対して、主が、ヨブの命を取ってはいけないが体にサタンが触れることを許可されたのが、神の判断です。

 このさばきを無効にしてしまうのか?と主は今、ヨブに語られています。今、この言葉を発せられた神の御顔はご自分の名誉が傷つけられたことに対する突発的な怒りではなく、ヨブへの思いやりです。ヨブが自分の義を主張することによって、神との交わり、神との語り合いの機会は失われてしまいます。神により頼むのではなく、自分により頼んでしまうことになり、ヨブが自分ひとりだけ、孤独になってしまうことになります。このことを神は悲しまれ、惜しいと思われているのです。

 今、神は、ヨブが再びご自身のほうを向いて、ご自分の前で語り、ご自分との親しい交わりを取り戻したいと願われて話されています。私たちはとかく、神は意地悪で恐い方であるという誤ったイメージを、神の言葉に投影させることがあります。けれども、真実は逆です。神にすがることなく、一人で泣いているヨブを立ち上がらせたいと願う主のあわれみです。

40:9 あなたには神のような腕があるのか。神のような声で雷鳴をとどろき渡らせるのか。40:10 さあ、誉れ、気高さで身を装い、尊厳と威光を身につけよ。

 今現在も嵐は続いています。この稲妻の輝きのように、この雷鳴のとどろきのように、尊厳と威光を身につけよ、と言われています。そして尊厳と威光を身につけたら、高ぶるものを低くせよと命じておられます。

40:11 あなたの激しい怒りを吐き散らし、すべて高ぶる者を見て、これを低くせよ。40:12 すべて高ぶる者を見て、これを押え、悪者どもを、その場で踏みにじれ。40:13 彼らを共にちりの中に隠し、その顔を隠れた所につなぎとめよ。40:14 そうすれば、わたしはあなたをたたえて言おう。あなたの右の手があなたを救えると。

 聖書では「高ぶる」という言葉は広範囲に使われています。威力があり、他者に害をもたらし、制御できないものであれば、高ぶるという言葉が使われます。前回学んだ主のことばには、「あなたの高ぶる波はここでとどまれ。(38:11)」とありました。

 そこで主は次から、獣の中で高ぶっている代表格をあげられます。前回学んだ39章には野生の動物が登場しましたが、野生であることに加え、どんなに力ある者も制御することができない獣を取り上げられます。

2C 腰にある力 15−24
40:15 さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの、牛のように草を食らう。

 新改訳は「河馬」と訳していますが、次から読んでいくこの獣の描写はまったくカバのそれに合致しません。新共同訳は、ヘブル語の読み方でそのまま書いています「ベヘモット」です。

40:16 見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。40:17 尾は杉の木のように垂れ、ももの筋はからみ合っている。

 カバの尾は杉の木のように長く垂れていませんね。明らかに異なる動物です。

40:18 骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようだ。40:19 これは神が造られた第一の獣、これを造られた方が、ご自分の剣でこれに近づく。

 神ご自身が剣でこの獣に近づかれるほど、ものすごく頑強な動物です。

40:20 山々は、これのために産物をもたらし、野の獣もみな、そこで戯れる。

 この動物が存在すると、周囲すべてがこの動物を中心に生態が変わっていくようです。

40:21 彼ははすの下、あるいは、葦の茂みや沼に横たわる。40:22 はすはその陰で、これをおおい、川の柳はこれを囲む。

 地上の獣でありますが、川や水があるところに棲息しています。

40:23 たとい川があふれても、それはあわてない。その口にヨルダン川が注ぎ込んでも、動じない。

 大量の水が押し寄せてもびくともしません。みなさんは、どのような動物を想像したでしょうか?恐竜ですね。恐竜の中でも草食恐竜です。四足で歩き、首と尾が非常に長く、全長が7メートルから40メートルほどあったと言われる巨大な恐竜です。

 興味深いことに、主はヨブと並べてわたしが造った、と言われていることです。ヨブが生きていたころ紀元前2000年ごろに草食恐竜、またそれに類似した獣がいたという事実です。進化論に基づく仮説では、恐竜の絶滅後はるか後に人間が登場するように説明されていますが、つい聖書の記述によるとつい最近まで恐竜は存在していました。

40:24 だれがその目をつかんでこれを捕ええようか。だれがわなにかけて、その鼻を突き通すことができようか。

 恐竜は、人間がとうてい制御できるものではありません。

2B レビヤタン 41
 そして神は極めつけに、さらに高ぶった獣を紹介されます。

1C 制御できない海獣 1−10
41:1 あなたは釣り針でレビヤタンを釣り上げることができるか。輪縄でその舌を押えつけることができるか。

 レビヤタンです。

41:2 あなたは葦をその鼻に通すことができるか。鉤をそのあごに突き通すことができるか。41:3 これがあなたに、しきりに哀願し、優しいことばで、あなたに語りかけるだろうか。41:4 これがあなたと契約を結び、あなたはこれを捕えていつまでも奴隷とすることができようか。41:5 あなたは鳥と戯れるようにこれと戯れ、あなたの娘たちのためにこれをつなぐことができるか。41:6 漁師仲間はこれを売りに出し、商人たちの間でこれを分けるだろうか。41:7 あなたはもりでその皮を、やすでその頭を十分に突くことができようか。

 レビヤタンもまた、人間には到底、制御できない獣です。この獣は主に海に生息しているようです。

41:8 その上にあなたの手を置いてみよ。その戦いを思い出して、二度と手を出すな。41:9 見よ。その望みは裏切られる。それを見ただけで投げ倒されるではないか。41:10a これを起こすほどの狂った者はいない。

 人間が制御できるどころか、ただ見ただけで投げ倒されます。

41:10bだから、だれがいったい、わたしの前に立つことができよう。41:11 だれがわたしにささげたのか、わたしが報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。

 レビヤタンの前に立つのが人間には到底できないのであれば、レビヤタンを造られた神の前に立つことは到底、不可能です。私たちはとかく、神の威力を矮小化します。自分の思い通りになるような存在が神であると思います。神が自分の願いとすべての祈りに聞いてくださって、自分の指示や考えに従ってくださってほしいと願います。これでは主としもべの逆転であり、神が召使のように考えてしまうのです。けれども、神はご自身の主権によって、ご計画にしたがって、すべてを動かしておられるのです。その御心に服し、従うのは我々です。

41:12 わたしは彼のおしゃべりと、雄弁と、美辞麗句に黙っていることはできない。

 新改訳聖書のこの訳は間違っていると私は思います。口語訳では「わたしはこれが全身と、その著しい力と、/その美しい構造について/黙っていることはできない。」となっています。次の節からレビヤタンの描写が書かれているからです。

41:13 だれがその外套をはぎ取ることができるか。だれがその胸当ての折り目の間に、はいれるか。41:14 だれがその顔の戸をあけることができるか。その歯の回りは恐ろしい。41:15 その背は並んだ盾、封印したように堅く閉じている。41:16 一つ一つぴったりついて、風もその間を通らない。41:17 互いにくっつき合い、堅くついて離せない。

 ここの描写からレビヤタンはワニではないかという人たちがいます。しかし、次の描写を読めばワニではないことが分かります。

2C 竜 18−34
41:18 そのくしゃみはいなずまを放ち、その目は暁のまぶたのようだ。41:19 その口からは、たいまつが燃え出し、火花を散らす。41:20 その鼻からは煙が出て、煮え立つかまや、燃える葦のようだ。41:21 その息は炭火をおこし、その口から炎が出る。

 火を吹く獣です。私たちが思い出すのは何でしょうか?そうです、竜です。竜は想像上の動物であると私たちは教えられています。しかし、これまでの描写から実在の動物であったことは確かです。聖書の中に竜がたくさん出てきます。実は創世記3章に出てくるエバを惑わした蛇は、ヘブル語の「ナハシュ」は竜と訳すことができる箇所です。

 興味深いのは、先ほど出てきた「恐竜」の漢字が「恐い竜」と書くことです。この漢字が使われている理由は、中国は恐竜の化石の宝庫であり、恐竜についての歴史資料もたくさんあり、そこに恐竜のことが「竜」と書かれているからです。さらに興味深いことに、竜が一番登場するのは中国です。世界中に竜の伝説がありますが、中国が一番多いです。今、神は、恐竜の中の一部に数えられていた竜に焦点を当てて話しておられる可能性があります。

41:22 その首には力が宿り、その前には恐れが踊る。41:23 その肉のひだはくっつき合い、その身にしっかりついて、動かない。41:24 その心臓は石のように堅く、臼の下石のように堅い。

 先ほどの恐竜の骨格の描写同様、竜の体も非常に頑強に出来ています。

41:25 それが起き上がると、力ある者もおじけづき、ぎょっとしてとまどう。41:26 それを剣で襲っても、ききめがなく、槍も投げ槍も矢じりもききめがない。41:27 それは鉄をわらのように、青銅を腐った木のようにみなす。41:28 矢もそれを逃げさせることができず、石投げの石も、それにはわらのようになる。41:29 こん棒をもわらのようにみなし、投げ槍のうなる音をあざ笑う。

 人間はまったく太刀打ちできません。

41:30 その下腹は鋭い土器のかけら、それは打穀機のように泥の上に身を伸ばす。41:31 それは深みをかまのように沸き立たせ、海を香油をかき混ぜるなべのようにする。

 海底に横たわっている竜が泳ぎ始めるときに、海底の泥が海中に舞い上がる様子です。

41:32 その通ったあとは輝き、深い淵は白髪のように思われる。

 非常に幻影的な描写です。

41:33 地の上には、これと似たものはなく、恐れを知らないものとして造られた。41:34 それは、すべて高いものを見おろし、それは、すべての誇り高い獣の王である。

 初めにヘベモットを紹介し、そしてレビヤタンを紹介し、これがもっとも誇り高い、高ぶった獣の王であると主は言われます。

 このレビヤタン、聖書のほかの箇所にも出てきます。詩篇の7414節「あなたは、レビヤタンの頭を打ち砕き、荒野の民のえじきとされました。」同じく詩篇10414節「そこを船が通い、あなたが造られたレビヤタンも、そこで戯れます。」そしてイザヤ27章1節「その日、主は、鋭い大きな強い剣で、逃げ惑う蛇レビヤタン、曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し、海にいる竜を殺される。

 この最後のイザヤ書の箇所で、蛇、竜、そしてレビヤタンの関係が分かるかと思います。この箇所の前後には終わりの時の預言になっています。大患難を経てイスラエルが神の国の中で回復する話の中で出てきます。つまりここで語られているのは悪魔、サタンのことです。

 創世記3章でエバを惑わすのが蛇あるいは竜であることを話しました。そして黙示録12章では、サタンがこの竜であり蛇であることが啓示されています。「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。(9節)」竜は実在の動物であり、かつて実際に、竜をとおしてサタンがエバを惑わし、そして悪魔、サタンを指す象徴でもあるのです。

 とすると、神さまがヨブにレビヤタンのことをお語りになられたのには、もう一つの意味が含まれているかもしれません。その意味とは、神は悪魔を創造された方であり、悪魔の活動は神の完全な支配下にあり、掌握されているということです。

 悪魔は初めに神さまに挑戦状を突きつけました。そして悪魔による試みの中にヨブは入れられました。財産はすべて奪い取られ、健康をも奪い取られました。しかし、悪魔のこの仕業は神の主権の中で完全に抑制されており、主はヨブのそばにいて見守っていてくださっていたのです。

 彼は神への不平は言ったものの、神を捨てたり、神を呪ったりすることはしませんでした。このテストにヨブは合格したのです。いや、神のあわれみの守りの中で合格させていただいた、と言ったほうが正しいでしょう。ヤコブの手紙の中にあるヨブ記の注解を読んでみましょう。「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。(ヤコブ5:11

2A 主の慈愛 42
1B ヨブの悔い改め 1−6
 次にヨブの告白を読みます。

42:1 ヨブは主に答えて言った。42:2 あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。

 主が語られた数々の天地創造の業、それからどんな獰猛な獣も主が完全に掌握されていることを彼は認識しました。主にはすべてがおできになり、どんな計画も成し遂げられます。前回、ローマ人への手紙11章の最後の部分を引用して、神の知恵と知識の深さについて勉強しました。その箇所とその続きの箇所を読んでみたいと思います。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。(11:33-36

42:3 知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。

 前半部分「知識もなくて、摂理をおおき隠した者は、だれでしょう。」というのは主が言われたことです。主がおっしゃったことを引用して、それにヨブは、「私は分かりもしないことを話していました。分かりえないことを話していた。」と悔いています。

42:4 どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。

 この訳は間違いです。これはヨブが語っている言葉ではなく、主が語られた言葉をヨブが引用しているところです。新共同訳には、「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」と鍵括弧であります。先に主がそう言われましたね。その問いに対する返答が次にあります。

42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。

 ここは非常に大切な箇所です。ヨブがこの苦しみを通して得た霊的財産です。彼はこの苦しみによって、神について単に聞いただけでなく、神ご自身に出会うことができたのです。もちろんヨブは以前も神を知っていました。けれども主に直接語りかけられて、それから被造物に現われている神の栄光について考えさせられて、彼は神の深いご臨在の中に招き入れられたのです。

 私たちは、神について単に聞いているだけでしょうか?それとも本当に神に出会っているでしょうか?私たちは、神がともにおられるという確信が必要です。苦しみのとき、試練のとき、一番必要なのは神のご臨在です。いや、苦しみのときに、神がご自分がともにおられることを私たちに知ってほしいと願われています。

 神はヨブに、ヨブの疑問に答えられませんでした。なぜ苦しまなければいけないのかという訴えには応じられませんでした。しかし、ご臨在という答えを持ってこられました。神ご自身が苦しみに対する答えであり、その臨在によって私たちは完全に満足することができるのです。なぜかは分かりません、でもすべてを知っているという確信です。

42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

 ああ、なんとすばらしい告白でしょうか!彼は自分の肉体の痛みを取り除こうとしていません。主のご臨在を意識しながら、その痛みの中でひれ伏しています。神にすべてをゆだねるときに、そのときから癒しが始まります。

2B 二倍の繁栄 7−17
 こうして神はヨブ自身をご自分のもとへ引き寄せることがおできになりました。今度は友人たちをご自分のところに引き寄せられます。

1C 友人のための祈り 7−9
42:7 さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。

 友人は三人いましたが、エリファズだけを名指しされています。おそらく彼が最年長だからだと考えられます。

 彼らの過ちは、神について真実を語らなかったことです。自分の経験や哲学、思想の中で神を語り、その結果、神がゆがめられた形で伝えられました。あらゆる苦しみは罰であるとする神概念を、ヨブに植えつけようとしました。

 この過ちは、私たちは犯しやすいです。私たちの神についての説明によって、また私たちの行ないによって、他の人に間違った神概念を植え付けることをするとき、神は怒られます。私たちは恐れをもって、みことばに啓示されているとおりの神を人々に伝えなければいけません。

42:8 今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、あなたがたのために全焼のいけにえをささげよ。わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れるので、わたしはあなたがたの恥辱となることはしない。あなたがたはわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったが。」

 神はヨブの友人らの罪を赦そうとされています。けれども興味深いことに、ヨブの赦しの祈りをとおして赦そうとされています。神はヨブと友人たちの和解を求めておられるのです。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23-24」神と人との正しい垂直の関係のためには、人と人との正しい水平の関係が必要とされます。

42:9 テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルが行って、主の彼らに命じたようにすると、主はヨブの祈りを受け入れられた。

 この祈りはヨブにとっても勇気が要ったことでしょう。あれだけひどいことを言った友人らのために赦しの祈りをしなければならないのです。しかしヨブは祈りました。ちりと灰の中で主にひれ伏したヨブは、彼らが自分に悪いことをしたという意識はありませんでした。

2C 慰め 10−17
 そして主は、ヨブが彼らのために祈った後に回復を与えられます。

42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにし、さらに主はヨブの所有物をすべて二倍に増された。

 財産は二の次です。主はいつも、ご自分と私たちとの関係、そして私たちの間の関係を最優先に考えられます。ヨブが本当に心に平安が与えられて、それから財産が加えて与えられました。

42:11 こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で彼とともに食事をした。そして彼をいたわり、主が彼の上にもたらしたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはめいめい一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。

 別にヨブに財産が増えたから集まってきたのではありません。10節に書かれているのは結論であり、11節以降はその経緯です。おそらくヨブの健康が取り戻されたことを聞いた兄弟姉妹、知人らがそれを祝うためにやってきたのでしょう。財産も少しずつ取り戻されていったのでしょう。

42:12 主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。

 1章に記されている家畜の数のちょうど二倍です。

42:13 また、息子七人、娘三人を持った。

 興味深いことに新たに与えられた子供たちの人数は二倍になっていません。それもそのはず、死んでしまった子供十人は、死後の世界において生きているからです。十足す十で合計20人です。

42:14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハプクと名づけた。

 エミマは「鳩」、ケツィアは「香水」、ケレン・ハプクはアイシャドーのような化粧品の角という意味です。美を表しています。

42:15 ヨブの娘たちほど美しい女はこの国のどこにもいなかった。彼らの父は、彼女たちにも、その兄弟たちの間に相続地を与えた。

 当時の習慣には娘への相続はありませんでした。娘たちへの愛、また父ヨブに与えられた土地が非常に広大だったこと、あるいは娘たちの影響力が強かったことなどが理由に挙げられます。

42:16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。

 この箇所からおそらくヨブは当時70歳だったのではないかと考えられます。二倍の回復として140年生きたのですから、当時は70歳だったのかもしれません。

42:17 こうしてヨブは老年を迎え、長寿を全うして死んだ。

 すばらしい最期です。彼は苦しみを包みいやす慰めを受けました。私たちも苦しみに対する慰めは用意されています。新天新地には永遠の慰めが用意されています。「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:4

 ヨブ記を読むに当たって、私たちは、「なぜ正しい人たちに、苦しみや困難があるのか?」という問いをしました。今すべてを読み終えて、それに対する答えは「分からない」です。しかし、苦しみにはすばらしい約束があることが分かりました。神の臨在です。そして私たちが苦しみの中でもだえているとき、私たちが神への問いかけをヨブのように繰り返すときに、私たちがその苦しみの中でその痛みの中で主にすべてを明け渡すとき、豊かな慰めが用意されていることを知りました。ヨブは、ちりと灰の中で得たその霊的祝福は私たちにも用意されています。


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