ヨブ記6−8章 「激しい風」


アウトライン

1A 友人への失望 6
   1B 自分の状態 1−13
   2B 言い返し 14−30
2A 神への嘆き 7
   1B 苦しみの夜 1−6
   2B 死への渇望 7−21
3A さらなる責め立て 8
   1B 神の広義 1−7
   2B 先代の人 8−22

本文

 ヨブ記6章を開いてください、今日は6章から8章までを学びます。メッセージ題は「激しい風」です。私たちは今、ヨブと友人との論争の部分を読んでいます。そこには大きなすれ違いがあります。ヨブは、今うけている苦しみや苦悩を言葉にして言い表している、その感情を吐露しているのに対して、友人はヨブの心ではなく言葉だけを聞いて、それに基づいてヨブを責めています。

 さらに友人たちは、なぜヨブが苦しんでいるかの問いに対して、彼が罪を犯したからだという結論を出しています。ヨブはなぜ自分が苦しんでいるのかわかりません、そして友人たちも実は分かっていません。けれども、自分の理解を超える事態が今、目の前にいるヨブに起こっているので、彼らは自分の理解の範囲で彼の状態を分析したのです。

 ヨブはこれから、エリファズの言葉に応えて話していきます。

1A 友人への失望 6
1B 自分の状態 1−13
6:1 ヨブは答えて言った。6:2 ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の災害も共にはかりにかけられたら。6:3 それは、きっと海の砂よりも重かろう。だから、私のことばが激しかったのだ。

 ヨブは、自分の言葉が激しかったその理由を弁明しています。天秤があって、片方には自分の苦悶と受けた災害が置かれ、もう片方の皿には海の砂が置かれます。海の砂は相当重いですが、それよりも自分の苦しみは重いと言っています。

6:4 全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲み、神の脅かしが私に備えられている。

 彼は今の苦しみを神にあって受け止めています。彼の信仰を思い出してください、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(1:21」でした。すべてのものが主から来ている、という信仰がありましたから、今の苦しみも主から来ていると認識したのです。今受けているのは、彼にとって「矢」であり「毒」であり「脅かし」です。

6:5 野ろばは若草の上で鳴くだろうか。牛は飼葉の上でうなるだろうか。

 野ろばが、若草があったらわざわざ鳴きません。牛も飼葉があればうなることはありません。これらのものがないとき、鳴いたり、うなったりします。ヨブは、自分が嘆きの声を挙げているのは、自分の心が休まるものが何もないからだ、と言っています。

6:6 味のない物は塩がなくて食べられようか。卵のしろみに味があろうか。6:7 私はそんなものに触れるまい。それは私には腐った食物のようだ。

 エリファズの言葉をたとえています。塩がはいっていない味の無い物、例えば卵のしろみだけなら、おいしくないから口に入れることはしません。エリファズの言葉は、空論と言うか、ヨブの状態をまったくわきまえていない言葉の羅列であるから、そんなものは受け入れられない、と言っています。

 パウロは言いました。「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ4:6」私たちの言葉が、人に対しても、また神に対する祈りにおいても、言葉だけ多くて、的をはずしていたり、内容のないことを話していないか、気をつけなければいけません。

6:8 ああ、私の願いがかなえられ、私の望むものを神が与えてくださるとよいのに。6:9 私を砕き、御手を伸ばして私を絶つことが神のおぼしめしであるなら、6:10 私はなおも、それに慰めを得、容赦ない苦痛の中でも、こおどりして喜ぼう。私は聖なる方のことばを拒んだことがないからだ。

 ヨブは、死ぬことを望んでいます。彼は初めに自分の生まれた日をのろいましたね、ここでも死を望んでいます。ここで注意すべき点は、彼は自分で命を絶とうとする気はまったくないことです。自殺願望ではありません。彼はいのちを与えるのも取るのも、その権利は主のみにあると信じていました。だから彼は、主に自分のいのちを取ってくださるようにと祈っているのです。

6:11 私にどんな力があるからといって、私は待たなければならないのか。私にどんな終わりがあるからといって、私は耐え忍ばなければならないのか。6:12 私の力は石の力であろうか。私の肉は青銅であろうか。6:13 私のうちには、何の助けもないではないか。すぐれた知性も私から追い散らされているではないか。

 自分の体に力がなくなってしまっていることを表現しています。きちんと考える思考の力も失われてきています。そのため、なぜ神が、このように弱まっている自分をなおも生かしておられるのか、という問いかけをしています。

2B 言い返し 14−30
 こうしてヨブは、自分の苦しみの状態にまったく同情も考慮もしていないエリファズに対して、初めに自分の苦しみの状態を説明しました。それから彼らに対する失望の念を吐露します。

6:14 落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう。

 ここは、口語訳では「その友に対するいつくしみをさし控える者は、全能者を恐れることをすてる。」となっています。友であるはずなのに、いつくしみ、あわれみ、同情の思いを控えることは、紙への恐れを捨てていることだ、ということです。

6:15 私の兄弟たちは川のように裏切った。流れている川筋の流れのように。6:16 氷で黒ずみ、雪がその上を隠している。6:17 炎天のころになると、それはなくなり、暑くなると、その所から消える。

 イスラエルやヨブが住んでいたであろう死海の南東付近は乾燥地域ですから、夏に干上がる川はたくさんあります。一番水を欲している夏に水がなくなってしまうように、友人たちは自分が一番慰めを必要としているときに、責め立てる言葉を話している、ということです。

6:18 隊商はその道を変え、荒地に行って、滅びる。6:19 テマの隊商はこれを目当てとし、シェバの旅人はこれに期待をかける。6:20 彼らはこれにたよったために恥を見、そこまで来て、はずかしめを受ける。

 ここも同じことのたとえです。荒野を旅している隊商が、水を求めて歩いたのですが、あると思っていたところになく死んでしまいます。同じように、一番慰めを期待していた友人には、自分の魂を潤す水がありませんでした。

6:21 今、あなたがたは、そのようになった。あなたがたは恐ろしいことを見ておびえる。

 友人たちは、ヨブを真正面から見ることができないでいます。彼の容貌が見るに絶えず、おびえています。

6:22 私が言ったことがあるか。「私に与えよ。」とか、「あなたがたの持ち物の中から、私のために贈り物をせよ。」と。6:23 あるいは「敵の手から私を救い出せ。横暴な者の手から私を贖え。」と。

 以前、ヨブは彼らに助けを呼んだことはありませんでした。けれども、今助けが必要です。でも、この必要な瞬間に、彼らは救いの手を差し伸べません。本当に酷いことですが、私たちもヨブの友人と同じように、相手の状況を見誤るときに同じことをしてしまうことがないでしょうか?相手がもっとも事欠いているけれども、相手に手を貸したら間違ったことを手助けするかもしれないと思って、わざと助けないようにすることがあるかもしれません。

6:24 私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか、私に悟らせよ。

 そんなに私に罪があるというなら、教えてくれ、と訴えています。

6:25 まっすぐなことばはなんと痛いことか。あなたがたは何を責めたてているのか。

 あなたは責め立てているが、何の根拠があるのか?言葉は痛いだけで、中身がない、と。

6:26 あなたがたはことばで私を責めるつもりか。絶望した者のことばは風のようだ。6:27 あなたがたはみなしごをくじ引きにし、自分の友さえ売りに出す。

 夏のときの熱風のように、私の心身を痛めるようなことしか言っていないではないか?ということです。

6:28 今、思い切って私のほうを向いてくれ。あなたがたの顔に向かって、私は決してまやかしを言わない。

 今、友人たちが顔を背けています。

6:29 どうか、思い直してくれ。不正があってはならない。もう一度、思い返してくれ。私の正しい訴えを。6:30 私の舌に不正があるだろうか。私の口はわざわいをわきまえないだろうか。

 私は無実だ、心当たりのある罪は見出せない、どうかあなたがたが私を罪定めすることをやめてほしい、と訴えています。

2A 神への嘆き 7
 それでヨブは、友人への訴えから神への祈りを始めます。

1B 苦しみの夜 1−6 
7:1 地上の人には苦役があるではないか。その日々は日雇人の日々のようではないか。7:2 日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち望む日雇人のように、7:3 私にはむなしい月々が割り当てられ、苦しみの夜が定められている。

 いつも苦しむ日雇い人や奴隷のように、日々私は苦しい夜を過ごしていると言っています。

7:4 横たわるとき、私は言う。「私はいつ起きられるだろうか。」と。夜は長く、私は暁まで寝返りをうち続ける。

 彼は痛みが激しくて、眠ることができません。

7:5 私の肉はうじと土くれをまとい、私の皮は固まっては、またくずれる。

 今のヨブの皮膚の状態です。本当にひどいです。

7:6 私の日々は機の杼よりも速く、望みもなく過ぎ去る。

 彼には、なぜこのような災いが自分の身に振りかかったかもわからないだけでなく、これからどうなるのかも分かりません。ただ苦しんでいるだけです、そこで望みもなく日々が過ぎ去ります。

2B 死への渇望 7−21
7:7 思い出してください。私のいのちはただの息であることを。私の目は再び幸いを見ないでしょう。

 神への祈りが始まっています。友人は正面を向いて自分の話を聞いていません。彼はただ、神に向かって祈り始めました。

7:8 私を見る者の目は、私を認めることができないでしょう。あなたの目が私に向けられても、私はもういません。7:9 雲が消え去ってしまうように、よみに下る者は、もう上って来ないでしょう。7:10 彼はもう自分の家に帰らず、彼の家も、もう彼を認めないでしょう。

 私はもう死んでしまいます、と言っています。

7:11 それゆえ、私も自分の口を制することをせず、私の霊の苦しみの中から語り、私のたましいの苦悩の中から嘆きます。

 ヨブがずっと行なっているのはこれです。霊の苦しみを語り、たましいの苦悩から嘆いています。これを、教科書的な、良い子のクリスチャンであるかごとく、正しく話すことを要求しているのがあの友人たちです。

7:12 私は海でしょうか、海の巨獣でしょうか、あなたが私の上に見張りを置かれるとは。

 これはちょうど、猛獣が檻に入れられて、監視する人がいつもいるような状態です。神がヨブを、そのような形で見張られている、ということです。

7:13 「私のふしどが私を慰め、私の寝床が私の嘆きを軽くする。」と私が言うと、7:14 あなたは夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。

 悪夢を見るのでしょう。彼は寝ているときだけが楽になれると思っているのに、夢の中でも苦しまなければいけません。だから神が、自分を海の巨獣のように見張られている、と言っています。

7:15 それで私のたましいは、むしろ窒息を選び、私の骨よりも死を選びます。7:16 私はいのちをいといます。私はいつまでも生きたくありません。私にかまわないでください。私の日々はむなしいものです。

 再び死を望んでいます。

7:17 人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。

 詩篇の中にも、この表現があります。天や月・星を眺めるとき、人間はちっぽけに見えるが、神はその人間にみこころを留めておられる、という内容です。けれどもヨブは、これを自分に与えられている試練に関連付けています。

7:18 また、朝ごとにこれを訪れ、そのつどこれをためされるとは。7:19 いつまで、あなたは私から目をそらされないのですか。つばをのみこむ間も、私を捨てておかれないのですか。

 つばを飲み込むときも、彼には激しい痛みが走ります。けれどもここで驚くことは、ヨブは自分が感じているすべての痛みを神にあって受け止めていることです。つばを飲み込むときに、神を感じているのです。私たちはここまで、神を近く感じているでしょうか?すべてのことは神から来ているという信仰は大事です。この領域は神さまのものだけれども、他の領域は人間の領域だといつの間にか分けてしまっていることがあります。けれどもヨブはそうではありませんでした。

7:20 私が罪を犯したといっても、人を見張るあなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。私が重荷を負わなければならないのですか。7:21 どうして、あなたは私のそむきの罪を赦さず、私の不義を除かれないのですか。今、私はちりの中に横たわります。あなたが私を捜されても、私はもうおりません。

 ヨブは、仮定を話しています。自分が罪を犯したとて、なぜ神は赦しの道もなにも示されずに、このように苦しみ続けられるのだろうか?ということです。彼の思いはかなり困惑しています。自分がこれだけ苦しんでいる理由が全然分からないからです。

3A さらなる責め立て 8
 このようなうめきに対して、友人はさらに無慈悲な言葉を浴びせます。

1B 神の広義 1−7
8:1 シュアハ人ビルダデが答えて言った。8:2 いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。

 先にヨブが友人らの言葉は風のようである、と言いましたが、ビルダデはあなたの言葉こそ激しい風のようであると言い返しています。

8:3 神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。

 ビルダデは、エリファズよりもさらに立場を固めています。ビルダデの考えによると、ヨブが罪を犯しているのは当たり前であり、それでもヨブが、自分を罪人であると認めないことに腹を立てています。

 彼は神の正義がヨブの発言によって曲げられていると怒っているのです。義憤を抱き、自分を神の正義の側に置いています。神に代わって、神の正義を守ろうと頑張っていきます。

8:4 もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪の手中に送り込まれたのなら、

 ヨブの息子たちは、息子たちの罪によって死んだということです。

8:5 もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、8:6 もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。8:7 あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。

 悔い改めなさい、そうすれば回復する、と言っています。

2B 先代の人 8−22
8:8 さあ、先代の人に尋ねよ。その先祖たちの探求したことを確かめよ。8:9 私たちは、きのう生まれた者で、何も知らず、私たちの地上にある日は影だからである。8:10 彼らはあなたに教え、あなたに語りかけ、その心からことばを出さないだろうか。

 これは前回はなしました。友人たちに過ちは、神のみことば以外のものに頼った点にあります。先代の人たちには、確かに知恵があります。けれども、完全ではありません、間違いもあります。今、ヨブは自分が経験している苦しみについて、「なぜ」と問いかけてもだえています。苦しみに対する解答を自分勝手に出していません。

 しかし、友人たちは「なぜ」という問いかけに、自分勝手に結論を出しています。自分は世界に起こっているすべてに答えを持っているかのように、弁証しているのです。ここに彼らの間違いがあります。私たちには、答えはイエス・キリストしかなく、みことばにしかありません。

8:11 パピルスは沼地でなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。8:12 これは、まだ若芽のときには刈られないのに、ほかの草に先立って枯れる。8:13 すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消えうせる。

 ヨブのことを指しています。

8:14 その確信は、くもの糸、その信頼は、くもの巣だ。8:15 彼が自分の家に寄りかかると、家はそれに耐えきれない。これにすがりつくと、それはもちこたえない。8:16 彼が日に当たって青々と茂り、その若枝は庭に生えいで、8:17 その根は石くれの山にからまり、それが岩間に生えても、8:18 神がもし、その場所からそれを取り除くと、その場所は「私はあなたを見たことがない。」と否む。

 ヨブは「いなくなってしまいたい」と言いましたが、その言質を取って神の怒りとしてヨブを取り除いてしまうと言っています。

8:19 見よ。これが彼の道の喜びである。ほかのものがその地から芽を出そう。8:20 見よ。神は潔白な人を退けない。悪を行なう者の手を取らない。8:21 ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。8:22 あなたを憎む者は恥を見、悪者どもの天幕は、なくなってしまう。

 悔い改めた後の回復です。

 そして次の章のヨブの返答では、「そのとおりであることを私は知っている」とヨブは言っています。ビルダデが根拠にした「神は正義である」という前提はその通りなのです。しかし、ヨブの苦しみが、神の正義に基づくさばきであるとするのは、あまりにも単純であり、彼はその点で完全に間違っていました。

 私たちもビルダデのように、正しいことは言っていても、目の前にある現実を無視した言動をすることがあります。自分はすべてを知っているかのように、自分の哲学、あるいは神学の中ですべてのものを推し量ることがあります。

 そしてビルダデは、自分が神の正義を守らなければいけないという使命感で語っています。正義をふりかざすことで、神に仕えていると思っていました。けれども、神の正義は神ご自身が証しされるのであり、ましてや苦しんでいる友人の前で振りかざすものではありません。神の正義と同時に、神のあわれみも学ばなければいけないのです。

 ヤコブ2章13節にはこうあります。「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」そしてミカ書6章8節には、こうあります。「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。(新共同訳)」正義はふりかざすものではなく、自分が行なっていくものです。そして、人々に対してはいつくしみを愛します。相手のことをあわれむことが好きにならなければいけません。そして、すべてにおいて神の前でへりくだることです。


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