ヨブ記9−11章 「仲裁者への叫び」
アウトライン
1A 神との隔たり 9
1B 圧倒的な力 1−20
2B 一方的なさばき 21−35
2A 地上の現実 10
1B 正しい者への災い 1−17
2B 苦しむ者の命 18−22
3A 高飛車な非難 11
1B 知識の欠如 1−12
2B 悔い改めへの招き 13−20
本文
ヨブ記9章を開いてください、今日は9章から11章までを学びます。ここでのテーマは、「仲裁者への叫び」です。さっそく本文を読みましょう。
1A 神との隔たり 9
1B 圧倒的な力 1−20
9:1 ヨブは答えて言った。9:2 まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。
これは、8章のビルダデの言葉に対するヨブの返答です。ビルダデは、8章3節で「神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。」と言いました。神は公義がおありである、つまり公平で公正な方であると言いました。それで、神が何の理由もなく、理不尽にヨブを苦しめることはない、と考えたのです。ヨブが罪を犯しているという理由がなければ、神は正しくヨブを苦しめることはないだろうと考えたのです。
このビルダデの意見に対してヨブは、「まことにそのとおりであることを私は知っている」と答えています。確かに神は正しい方なのです。ビルダデが神は公義を曲げたり、正義を曲げたりすることはない、というのは正しいのです。
そこでヨブは、非常に重要な問いかけをしています。「どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」と言っています。ヨブは、自分が受けている災いに相応する罪を思い出すことはできませんでした。私たちが1章で学んだとおり、ヨブは自分だけでなく子供たちのためにも全焼のいけにえをささげていたほどでした。だから彼は正しいのです。けれども、神は人間から桁外れに超越したところにおられます。人間同士が、どちらが正しいかを話し合うのならまだしも、神は超越的に、絶対的に正しいのですから、肩を並べるようにして自分の正しさを訴えることはできるような存在ではない、とヨブは言っているのです。
ヨブは、小細工的に自分の罪を取り除いたところで、決して神に近づくことができない大きな隔たりを感じていたのです。
9:3 たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。9:4 神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。
いま話したように、神は絶対的に知恵において、また力において人間をはるかに上回っている方です。
9:5 神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。9:6 神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。
黙示録にて、「天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。(6:14)」と書いてあります。主の日、大患難のとき神は山々を動かされます。また、大地震を起こされます。
9:7 神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。
これも大患難のときに起こる出来事です。太陽の光や月や星の光が暗くなることが、聖書のいろいろな箇所で預言されています。
9:8 神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。
海の波も、神によって起こされています。その力をイエスさまは地上におられたときに現わされたのを覚えていますか?ガリラヤ湖にて弟子たちが舟に乗っていると嵐が来ましたが、イエスさまは水の上を歩かれて、また波に命じるとそれは凪になりました。海を支配している力です。
9:9 神は牡牛座、オリオン座、すばる座、それに、南の天の室を造られた。
星座もみな、神の指によって並べられています。
9:10 神は大いなることを行なって測り知れず、その奇しいみわざは数えきれない。
他にもいろいろ具体的に挙げることはできますが、あまりにもたくさんあると言ってしめくくっています。
9:11 たとい神が私のそばを通り過ぎても、私には見えない。神が進んで行っても、私は認めることができない。
神は目に見えない方であること言っています。聖書には、「神は霊である」とあります。黙示録など、神の御座の描写が描かれているところでも、神の顔形は出てきません。神の栄光の輝きのみが描かれています。
9:12 ああ、神が奪い取ろうとするとき、だれがそれを引き止めることができようか。だれが神に向かって、「何をされるのか。」と言いえよう。
神が行なわれることに、だれも対抗することはできない、神の主権について話しています。バビロンの王であるネブカデネザルも、自分が獣のようになり理性を取り戻したあとで、「御手を差し押えて、『あなたは何をされるのか。』と言う者もいない。(ダニエル4:35)」と言いました。
9:13 神は怒りを翻さない。ラハブを助ける者たちは、みもとに身をかがめる。
ここの「ラハブを助ける者たち」とは、「高ぶった者どもの勢力」とも訳すことができます。聖書ではエジプトにラハブという言葉を使うこともあります。どんな高ぶった権力であっても、主の前では身をかがめるしかない、ということです。そこで、ヨブは初めに言ったことをもう一度言います。
9:14 いったい、この私が神に答えられようか。私が神とことばを交せようか。9:15 たとい、私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ。
人間は決して、自分の正しさによって神に近づくことはできません。神のあわれみのみによって、この方に近づくことができます。罪を犯している罪人であればなおさらのことです。覚えていますか、二人の人が宮に上って祈りました。一人はパリサイ人でしたが、彼は、「私は、ゆする者、不正をな者、姦淫する者ではないことを感謝します。」と祈り、取税人は目を天に向けて自分の胸を叩いて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈りました(ルカ18:9−14参照)。
けれどもヨブは、取税人のような意識的に犯した罪はなかったのです。いや、犯してもすべて神さまの前で告白して、いけにえをささげていました。そうであっても、いま読んできたように神は知恵に豊かで、力のある方で、自分とは大きな隔たりがある存在です。だから、あわれみを請うことしかできません。
9:16 たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。9:17 神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、9:18 私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。
ヨブは、自分の正しさにしたがって仮に神が答えてくださったとしても、こんなに苦しみを神が与えておられるのだから、答えてくださることはない、と言っています。このことは、その通りです。神は、ヨブが潔癖であることを知りながら、サタンがヨブを痛めるのをお許しになったのです。だから、自分の正しさを証明したところで、神がその苦しみを取り除くことにはなりません。
9:19 もし、力について言えば、見よ、神は力強い。もし、さばきについて言えば、だれが私を呼び出すことができるか。9:20 たとい私が正しくても、私自身の口が私を罪ある者とし、たとい私が潔白でも、神は私を曲がった者とされる。
彼は神との間にとてつもない差があり、神の前では罪人としてしか数えられないことを繰り返して言っています。
2B 一方的なさばき 21−35
9:21 私は潔白だ。しかし、私には自分自身がわからない。私は自分のいのちをいとう。
ヨブは、人間の限界を話しています。自分の意識の中では潔白であっても、どんなに神を恐れて、正しく生きても、それで自分の心の中の思いをすべて測り知ることはできない、と言っています。ダビデはこう言いました。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。(詩篇139:23)」自分でも分からない自分の心を調べ、知ってくださいますようにと祈っています。
9:22 みな同じことだ。だから私は言う。神は、潔白な者をも悪者をも共に絶ち滅ぼされる。9:23 にわか水が突然出て人を殺すと、神は罪のない者の受ける試練をあざける。9:24 地は悪者の手にゆだねられ、神はそのさばきつかさらの顔をおおう。もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。
これは地上で起こっていることだけを見れば、現実です。正しい者も悪者も同じ災いを受けます。罪のない人が酷い目にあいます。そして裁判所では正しい裁判が行なわれません。ヨブは、「もし、神がそうするのでなければ、そうするのはだれか。」と言っています。彼は神の主権に焦点を合わせています。もちろん人の罪が、そして世の制度が、そして悪魔が不正な裁判をさせる背後に存在します。けれども、これらのものはみな神の許しあって起こっていることです。神はすぐにでも、人を、この世を、悪魔を滅ぼすことができますが、それをあえてなさいません。もちろん、これは人々が自分で神を愛する選択をすることができるようにするためのものですが、神の主権の中で起こっていることです。
9:25 私の日々は飛脚よりも速い。それは飛び去って、しあわせを見ない。9:26 それは葦の舟のように通り過ぎ、獲物に襲いかかるわしのように通り過ぎる。
自分の命はまもなく終わることを予期しています。(実際は、最後に長寿を全うしますが。)
9:27 たとい「不平を忘れ、憂うつな顔を捨てて、明るくなりたい。」と私が言いましても、9:28 私の受けたすべての苦痛を思うと、私はおびえます。私は知っています。あなたは、私を罪のない者とはしてくださいません。
自分が神の前で罪ある者とみなされて、明るくなることなどできないと訴えています。
9:29 私はきっと、罪ある者とされましょう。ではなぜ、私はいたずらに労するのでしょうか。9:30 たとい私が雪の水で身を洗っても、灰汁で私の手をきよめても、9:31 あなたは私を墓の穴に突き落とし、私の着物は私を忌みきらいます。
これまでヨブは、罪を取り除くことに細心の注意を払いました。しかし、いま自分の前に立ちはだかっている課題は、神の圧倒的な力の中で自分はどうすることもできないことです。自分が今、知りうる限りの罪を言い表して、その罪を捨てたところで、神と自分との間にある淵は決して狭まることはできない、ということです。そこでヨブは、根本的な問いを投げかけています。
9:32 神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう。」と申し入れることはできない。9:33 私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。
仲裁者の不在です。これまでヨブは、無限の神について語ってきました。永遠の神であり、知恵と知識に富み、全能で全知であられる方で、霊であられ、ご自分の欲するままに何事もすることができる方です。その反面、自分はちりにすぎない人間です。このギャップ、隔たりをどう埋めたらよいのか、という問いかけなのです。
ヨブの問いかけは、単にこれこれの罪を犯した、犯さないという問題以上のものです。もちろん人間はアダムの子であり罪を犯します。そして罪にともなう結果もあります。けれども仮に、罪を全然犯さない、あるいは罪をすべて悔い改めてすっかりきれいな者になったとしても、神と対等に方を並べることはできないのです。神のあらゆる、人間と自然界、宇宙を超越した方と、神に造られたにしか過ぎない人間には、雲泥の差があります。
だからヨブは、神と人との間に立ち、その両側で手を置いてくれる仲裁者あるいは仲介者が必要である、と叫んでいます。イエスさまはユダヤ人宗教指導者たちに、あなたがたが永遠のいのちについて聖書を調べているが、聖書はわたしについて証言しているのだ(ヨハネ5:39参照)と言われましたが、ヨブ記にもキリストの姿このようにして現われています。ヨブは、有限である自分が無限の神との関係を持つために、仲裁者の存在を待ち焦がれたのです。
そして私たちは今、仲介者であられるイエス・キリストが与えられています。テモテ第一2章5節には、「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2:5)」とあります。万物の創造主であられる方が肉体を取られ、人々の間に住まわれました(ヨハネ1:16参照)。キリストにあって、私たちはヨブが叫んでいた、とてつもない隔たりを完全に埋めることができます。
9:34 神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。9:35 そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。
神が苦しみを与える杖が取り去られるのであれば、安心して神に話すことができるのだが・・・と言っています。
2A 地上の現実 10
そこでヨブは、神に対して不満をぶちまけます。
1B 正しい者への災い 1−17
10:1 私は自分のいのちをいとう。私は自分の不平をぶちまけ、私のたましいの苦しみを語ろう。10:2 私は神に言おう。「私を罪ある者となさらないように。なぜ私と争われるかを、知らせてください。
これから神にさまざまな問いかけをするので、「罪ある者となさらないように」と祈っています。
10:3 あなたが人をしいたげ、御手のわざをさげすみ、悪者のはかりごとに光を添えることは良いことでしょうか。
これが世の中の現実です。人はしいたげられています。そして神のことを何も考えない悪者は栄えています。
10:4 あなたは肉の目を持っておられるのですか。あるいは、人間が見るように、あなたも見られるのですか。10:5 あなたの日々は人間の日々と同じですか。あるいは、あなたの年は人の年と同じですか。10:6 それで、あなたは私の咎を捜し、私の罪を探られるのですか。10:7 あなたは、私に罪のないことを知っておられ、だれもあなたの手から救い出せる者はいないのに。
ヨブの友人のように人間であれば、ヨブに罪があると責めることもありましょう。けれども、あなたは神なのに、どうしてこのような仕打ちを与えられるのですか?と神に尋ねています。
10:8 あなたの御手は私を形造り、造られました。それなのにあなたは私を滅ぼそうとされます。10:9 思い出してください。あなたは私を粘土で造られました。あなたは、私をちりに帰そうとされるのですか。10:10 あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、10:11 皮と肉とを私に着せ、骨と筋とで私を編まれたではありませんか。
自分の誕生を、比喩的に表現しています。自分が受精卵から成長し胎児になり、母の胎から生まれ出る中ですべて神が介在されているのに、せっかく与えた命をご自分でまたなくそうとされるのですか?ということです。
10:12 あなたはいのちと恵みとを私に与え、私を顧みて私の霊を守られました。10:13 しかし、あなたはこれらのことを御心に秘めておられました。私はこのことがあなたのうちにあるのを知っています。10:14 もし、私が罪を犯すと、あなたは私を待ちもうけておられ、私の咎を見のがされません。10:15 もし、私が罪ある者とされるのなら、ああ、悲しいことです。私は、正しくても、私の頭をもたげることはできません。自分の恥に飽き飽きし、私の悩みを見ていますから。
ヨブは、友人たちが自分を断罪するのをずっと聞いてきました。それが彼の心の奥に突き刺さっています。自分がことさらに大きな罪を犯していないのは分かっているのに、友人たちがとてつもない罪を犯していると何度も言うものだから、神は自分の罪を探して、何とかして自分を罪人にしようとされている、と言っています。
これが友人たちの罪です。後に神は、「あなたがたはわたしについて真実を語らなかった(ヨブ42:8参照)」と友人たちにお語りになりましたが、友人たちが何度も何度も間違ったことを話すので、ヨブの深層意識に間違った神概念が植え付けられてしまったのです。これは罪です。自分が言った言葉によって、聞いた人がまことの神の姿を見ることができなくさせるのは、罪です。
10:16 私の頭が上がると、あなたはたける獅子のように、私を駆り立て、再び私に驚くべき力をふるわれるでしょう。10:17 あなたは私の前にあなたの新しい証人たちを立て、私に向かってあなたの怒りを増し、私をいよいよ苦しめられるでしょう。
「新しい証人」とは、友人たちの代わりの証人ということです。彼はおびえてしまっています、慰めを与えてくれると思っていた友人たちが、あまりにも酷いことを言うので、また新たな告発者らが出てくるのではないかとおびえています。
2B 苦しむ者の命 18−22
そしてヨブは、自分の命を嘆きます。
10:18 なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたら、だれにも見られなかったでしょうに。10:19 私が生まれて来なかったかのように、母の胎から墓に運び去られていたらよかったものを。10:20 私の生きる日はいくばくもないのですか。それではやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくなりたいのです。10:21 私が、再び帰らぬところ、やみと死の陰の地に行く前に。10:22 そこは暗やみのように真暗な地、死の陰があり、秩序がなく、光も暗やみのようです。
ヨブ記には、死者が行く陰府についてたくさん出てきます。新約聖書ではハデスと呼ばれているところですが、旧約聖書では、単に死者が行くところとしてのみ出てきて、その姿ははっきり啓示されていません。そこは暗闇の地であると理解しています。
3A 高飛車な非難 11
そしてヨブの友人が口を開きます。
1B 知識の欠如 1−12
11:1 ナアマ人ツォファルが答えて言った。
エリファズ、ビルダデの次に、ツォファルが口を開きました。おそらく彼が三人のうちで最年少なのでしょう。当時の文化における、年上への尊敬の考え方からして彼が一番若いと考えられます。そして、これから読むと彼がすぐに若いと気づきます。エリファズ、ビルダデ以上に、慎重さを欠き、その言葉には棘があり、誤った正義感でいっぱいになっています。
11:2 ことば数が多ければ、言い返しがないであろうか。舌の人が義とされるのだろうか。11:3 あなたのおしゃべりは人を黙らせる。あなたはあざけるが、だれもあなたを恥じさせる者がない。
ずんずん自分の話を押してくる様子が伝わってきますか?「お前はおしゃべりだ。これで相手の口を封じこめようとしているな?だれかが、お前を恥じ入りさせないといけない。」と言っています。
11:4 あなたは言う。「私の主張は純粋だ。あなたの目にも、きよい。」と。11:5 ああ、神がもし語りかけ、あなたに向かってくちびるを開いてくださったなら、11:6 神は知恵の奥義をあなたに告げ、すぐれた知性を倍にしてくださるものを。知れ。神はあなたのために、あなたの罪を忘れてくださることを。
神はまだヨブに、本当のことを話しておられない。もっとたくさん、二倍にして話してくださると良いのに。ヨブの罪に対して、神はまだ知識に基づいて完全にさばいておられないのだ、ということを言っています。
11:7 あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。11:8 それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。11:9 それを計れば、地よりも長く、海よりも広い。11:10 もし、神が通り過ぎ、あるいは閉じ込め、あるいは呼び集めるなら、だれがそれを引き止めえようか。
このことは、ヨブも語っていました。自分が正しくても、神に訴えることはできないと言いました。それでもツォファルは、10章でヨブが語った不平を取り上げて、やはり神に訴えているではないか、と思っているのです。
11:11 神は不真実な者どもを知っておられる。神はその悪意を見て、これに気がつかないであろうか。11:12 無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる。
神が不真実な者ども、悪意をご存知でないはずはない、と言っています。もしご存知でないなら、人間も賢くなり、ろばも人になるぐらいの驚きである、と言っています。
2B 悔い改めへの招き 13−20
11:13 もし、あなたが心を定め、あなたの手を神に向かって差し伸べるなら、11:14 ・・あなたの手に悪があれば、それを捨て、あなたの天幕に不正を住まわせるな。・・11:15 そうすれば、あなたは必ず、汚れのないあなたの顔を上げることができ、堅く立って恐れることがない。
悔い改めろ、ヨブ!お前の汚い手を洗い清めよ、と言っています。
11:16 こうしてあなたは労苦を忘れ、流れ去った水のように、これを思い出そう。11:17 あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる。11:18 望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。11:19 あなたが横たわっても、だれもあなたを脅かさない。多くの者があなたの好意を求める。
悔い改めたら与えられる回復があると言っています。
11:20 しかし悪者どもの目は衰え果て、彼らは逃げ場を失う。彼らの望みは、あえぐ息に等しい。
悪者の最後です。ヨブ、お前もこうなるのだ、と責めています。次の章で、ヨブが友人に対してかなり切れてしまっている姿を見ます。ツォファルの、「私にはすべてがわかっている」的な態度に怒ったのです。
もし、人々が苦しむのはすべて罪のためであり、悪者が苦しみ、義人は栄えるだけでしたら、事は単純です。けれども現実はそのようになっていません。正しい人が苦しむことがたくさんあるのです。
その中でヨブは、自分と神の間を埋めてくれる仲裁者を求めました。神であられ、かつ人の肉の弱さや痛みをすべて分かってくださる方を求めていました。全能者であられながら、神の身分に固執することなく人の姿を取られ、十字架の苦しみに至るまで従順であられた方がいます。だから、神は永遠で、超越された方であり、無限大であられながら、人間の有限性にともなう痛みや苦しみをすべて知っておられるのです。
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