ヨシュア記1−2章 「信仰の踏み出し」

アウトライン

1A ヨシュアに対する任務 1
   1B 「強くあれ、雄々しくあれ」 1−9
   2B 準備の指令 10−18
2A ラハブの信仰 2
   1B 匿い 1−7
   2B 救いの誓い 8−21
   3B エリコの恐怖 22−24

本文

 ヨシュア記を開いてください。私たちはついにモーセ五書を読み終わり、新しく歴史書の中に入っていきます。けれども、話はそのまま連続しています。一節をご覧ください。

1A ヨシュアに対する任務 1
1B 「強くあれ、雄々しくあれ」 1−9
1:1 さて、主のしもべモーセが死んで後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げて仰せられた。

 私たちは前回、申命記の最後を学び、モーセが死んだところを読みました。その後すぐに主がヨシュアに対して語られた言葉がヨシュア記の始まりです。

 私たちが創世記から申命記までをついに読み終えました。それはモーセが書き記したものです。もちろんモーセは出エジプトの時期に生まれたので、それ以前の話は口伝によってモーセは聞いていました。あるいは、主ご自身から啓示されていたかもしれません。いずれにしても、その五書にある大切なものは、「アブラハムに対する神の約束」でした。アブラハムがウルの町を離れ、主が示される地に移り住みました。そこはカナン人の住むところでしたが、そこを彼の子孫に与えると主は約束してくださいました。そして、アブラハム以前においては、実は神が初めに人を造られた時に、人が被造物のすべてを支配するように命じておられたのです。その至上命令を神はアブラハムの子孫に託されたのです。そしてアブラハムの子孫であるキリストが現れ、キリストのうちにある者が神の国の約束を受け継ぐようにされています。

 そして今、イスラエルの民がその約束の地に入り、そこを占領し、自分たちの土地にしようとしています。したがって、この出来事はついに主が、イスラエルの民に対してアブラハムへの約束を実現させようとしておられる重要な時であり、また人類の歴史においても主が人に与えられた相続の約束を表しているものです。

 したがって、ヨシュア記に出てくる出来事には、主が終わりの日に行なわれることに似ています。例えば、エリコの町を攻略する時に彼らが城壁の周りを一日一周まわり、七日目には七週回ります。黙示録においては、小羊なるイエス様が七つの封印を解かれますが、七つ目の封印を解くと七つのラッパがあります。そして七つ目のラッパの後に七つの鉢が地上にぶちまけられます。地上に神の国が到来する時に神が行なわれる裁きが、ヨシュアたちがカナン人を打ち滅ぼす時に表れているのです。

 さらに、もう一つ大切なのは、キリスト者が今、御霊によって霊的祝福を神によって与えられているということです。目に見える形では将来を待ちますが、御霊によって今、主が与えられた天における祝福がキリストにあってすべて与えられています。「神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3」これを信仰によって、確かに自分のものにしていく勝利の生活を、ヨシュア記を通してしっかりと学ぶことができます。キリストを信じたのに、自分がキリストにある者としてふわしくないという葛藤を抱いておられる方は、ぜひヨシュア記の学びをいっしょにしていきましょう。

 私たちは出エジプト記を学んでいるときに、エジプトはこの世を表していることを学びました。そしてそこから出ていくことは、キリストの血によって罪から贖い出されたことを学びました。けれども、荒野の生活があります。まだ約束のものを手にしていなけれども、主が共におられることを学んでいく大切な訓練の時です。私たちキリスト者の生活も、救われたことは分かっているけれども、主に拠り頼むことがまだよく分からず、主が確かに真実な方であることを学ぶ大切な期間があります。けれども、そこからさらに一歩踏み出て、御霊によって、信仰によって罪に打ち勝ち、肉に打ち勝ち、確かに神の約束があるのだという体験をすることができます。その体験を、ヨルダン川を渡って、敵どもに打ち勝っていくヨシュア記において学んでいくことができるのです。

 ヨシュア記は主に三つに分けることができます。ヨルダン川を渡り、その土地を占領する記録が1章から12章までにあります。そして13章から21章までに、その土地を十二部族に割り当てる記録があります。それから22章から24章に、約束の地における生活の始まりを読むことができます。

 そして初めの1章から12章までにおける土地の占領については、1章から5章までにイスラエルの民がヨルダン川を渡る記録があります。ヨルダン川を渡るということが、とてつもなく大きな意義を持っていることが、その長さの中でも見ることができます。私たちはここを二回に分けて学びたいと思います。そして6章から8章までに、エリコの町とアイの町の攻略があります。この二つの町は約束の地の中央に位置しており、ここを切り開くことができれば数あるカナン人の王どもを二分することができるからです。また彼らはこの二つの町の攻略の後に、モーセによって命じられた、律法の朗読をエバル山とゲリジム山で行ないます。そして9章から12章までに、南部戦線と北部戦線の記録があります。初めに南にいる王たちが集まってイスラエルを攻めますが、イスラエルが打ち勝ちます。それから北にいる王たちがイスラエルを攻めますが、イスラエルが打ち勝ちます。

 今、主がヨシュアに直接語り始めておられます。モーセが死んだので、ヨシュアに語られているのです。ここがヨシュアにとって大きな重責となります。そこでこの1章には、神からの励ましの言葉、「強くあれ。雄々しくあれ。」が何度も出てくるのです。

1:2 「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。1:3 あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。

 ここにある時制がとても大切です。新改訳は、新共同訳や口語訳とは異なり、「与えている」と既に起こっている状態として訳しています。英訳でもそのとおりで、"I have given you"と、完了形で訳しています。この反面、ヨシュアはこれから足の裏で、その土地を踏んでいくのであり、これからの出来事であります。

 既に主の約束は与えられています。神の約束は、キリストを信じている者全てに与えられています。しかし、それを確かに自分のものとして楽しむためには、ヨシュアが足の裏で土地を踏んでいくように、踏み出していかなければいけません。その時に必要なのは「信仰」です。単に、客観的に神の約束を眺めるのではなく、まさに自分のものであるという所有権を行使するのです。イエス・キリストが成し遂げられたこと、そしてこれから行なわれることを、他人事のようにして見るのではなく、自分の生活の真ん中にその真理を置くことです。「聞いて、信じる」とはそういうことです。

 民数記で私たちは、約束の地の境まで来たのに入っていくことのできなかったイスラエルの民のことを読みました。ヘブル書42節で、次のような解説があります。「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。(ヘブル4:2」聞いているだけでは、その人のものとなりません。それはあたかも、砂糖を見つめているのにそれを口にまで持っていくことをしないのと同じです。聞いて、それを自分のものとして受け入れるのです。

1:4 あなたがたの領土は、この荒野とあのレバノンから、大河ユーフラテス、ヘテ人の全土および日の入るほうの大海に至るまでである。1:5 あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 主は既にモーセに対して語られたことを、ヨシュアに対しても語っておられます。申命記1124-25節でモーセがこう教えました。「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユ一フラテス川から西の海までとなる。だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。

 4節の「この荒野」とは、ヨシュアから見て左、南に広がっているユダヤの荒野です。そして「レバノン」は、ヨシュアにとっては右、北であり、それがユーフラテスの川までであると神は言われます。「日の入るほうの大海」あるいは「西の海」は地中海のことです。このようなとてつもなく広い土地を、しかもそこには、イスラエルの民よりも大きくて強い民がたくさんいるのです。しかし主は、「だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。」と励ましてくださっています。

 キリスト者になることについて、みなさんはどのような勇気を要しましたか?人それぞれだと思いますが、私は「キリスト者になるということは、キリストに似た者になっていくこということだ。キリストは完全だが、私は不完全極まりない。どうすれば良いのか?この信仰の冒険を始めてしまってよいのか。」という恐れがありました。ヨシュアが今、広大な地と、そこにいる強大な民を見ているのと同じであります。けれども、主が必ずその敵どもを取り除いてくださる、という約束を信じて前に進んだのです。

 そして主は、「モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。」と励ましておられます。ヨシュアはモーセの従者でした。モーセがいかに偉大な人物であるかを、最も身近に目撃した人です。しかし大事なのはモーセではなく、モーセと共におられた主ご自身であります。

 私がカルバリーチャペル・コスタメサに行って間もない時に、今でも鮮明に覚えているチャック・スミス牧師の言葉があります。「私が神にとって大切なのと同じように、あなたも神にとって大切なのです。」私にとってチャックは、あまりにも偉大で遠い存在です。彼が神に近づいているのと、私が近づいているのでは、あまりにも差があると思っていました。けれども全くそうではなく、キリストはチャックに近づいてくださったのと同じように、私にも近づいてくださったのです。

 そして、「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」という、すばらしい励ましの言葉を与えておられます。主の御心を行なおうとすると、私たちは孤独を味わいます。他の人々に理解されない領域に入っていくことになるからです。けれども神はその空白を埋め、埋めるだけでなく溢れさせてくださいます。興味深いことに、ヘブル書13章では、金銭な心配についてこの約束が適用されています。「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』(5節)

1:6 強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。

 「強くあれ」と主が励ましておられるということは、ヨシュアは弱くなっていたのです。「雄々しくあれ」と励まされているということは、彼は勇気を失っていたのです。聖書に出てくる人物の中で、恐れなかった人、勇気を失わなかった人は、私は一人も思い浮かびません。主に用いられた器がみな、恐れと不安を通っています。

 私たちが恐れていないのは、別に信仰によるのではなく、無知だからという時もありますね。こういういう話を読みました。ある大学生たちが、漁をしに沖に出ようということになりました。舟と船乗りを雇いましたが、その朝、嵐が起こりました。その年老いた船乗りは、操縦席に座って、不安な表情を見せました。学生たちは彼の怖れを見て笑い、笑いながら「私たちは恐くありませんよ。」と言いました。その海の男は彼らを見て、こう答えました。「あまりにも知らないから、恐れないでいられるのだ。」・・私たちは軽々しく、「大丈夫だよ」という言葉によって兄弟姉妹を励まそうとしますが、それは信仰の言葉ではなく、その置かれている状況を知らないから言えている時が多いです。

 ヨシュアにとっての恐れは、主に三つあります。一つはモーセというあまりにも偉大な指導者の後継になったということです。申命記の最後を私たちは前回、読みました。「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された。それは主が彼をエジプトの地に遣わし、パロとそのすべての家臣たち、およびその全土に対して、あらゆるしるしと不思議を行なわせるためであり、また、モーセが、イスラエルのすべての人々の目の前で、力強い権威と、恐るべき威力とをことごとくふるうためであった。(34:10-12」このような大きなことを行なったのに、自分には同じようにはできないという圧倒です。

 二つ目は、イスラエルの民がこれまで反抗していたことです。モーセは主の契約の箱を持っているレビ人にこう言いました。「私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。(31:27」彼らが逆らってきたのはヨシュアも見ていますが、モーセの死後にはますますそうなる、ということです。指導者にとって、極めて厳しいのは反抗されることですが、このことについて確かにヨシュアの心に不安があったでしょう。

 そして三つ目は、根本的なことです。先ほど話した「主がヨシュアに直接語られる」ということであります。私たちはモーセ五書の学びで、「主がモーセに語られた」という言葉を数多く読んできました。他のイスラエルの民は主の言葉を聞きますが、それはあくまでもモーセの仲介によるものでした。直接主から聞いたのはモーセなのです。けれども今からヨシュアは自分自身で聞かなければいけません。

 自分自身が主から聞いているかどうか如何によって、自分の下にいる人々が全て影響を受けます。以前、男女の違いについて学びましたが、「男が女のかしらであり、キリストが男のかしら」という言葉について、それは男尊女卑の言葉ではなく、男が責任を負うことなのだと話しました。アブラハムのことを思い出してください、彼はサラではなくハガイによって子を得たので、そこからアラブ民族が出てきて、ユダヤ民族とアラブ民族の間に対立になりました。主から聞くということが、いかにしんどい作業なのかがここからでも良く分かります。しかし、主の前にへりくだって出ていくことを間断なく行うことによって、初めて人は他の人々を治めていくことができるのです。

1:7 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。

 申命記において、モーセが最初から最後まで繰り返して強調していたことですね。7節にある、「右にも左にもそれはならない」という言葉は、律法の完全性を表しています。モーセによって語られた神の言葉に忠実になり、純粋にその教えを保っていなければいけません。ヨシュア記はまさに、モーセが申命記で教えていたことをそのまま実行していったことを教える書物です。そうではあれば、既に出てきたものであり、つまらないではないかと思ったのであれば大間違いです。ヨシュア記は極めて興奮する話に満ちています。ヨルダン川が堰き止められ、エリコの町の城壁がときの声を上げるだけで崩れ落ち、敵を負っている時に太陽と月が天に留まりました。そして何よりも、イスラエルよりもはるかに強大な民が、彼らの前でことごとく倒れていくのです。

 ジョン・ストットという説教者がこう言いました。「キリスト者はみな、保守的であり急進的である。信仰を保つことについては保守的であるが、それを適用することにおいては急進的である。」私たちが使徒たちから伝え聞いた教えは、二千年前から何ら変わることがありません。ある時には教えの風が吹き、多くの人が揺らされていくのですが、本来のキリスト者は、いつもと変わりない福音によってぶれることはありません。しかし、その生活はつまらないかと言いますと大間違いです。その福音が、いま生きている時代においてあまりにも急進的なのです。イエス・キリストがよみがえられ、私たちもキリストにあってよみがえるということが、どれほど急進的なことでしょうか。麻原彰晃の空中浮揚どころではないのです!

 それから、「口ずさまなければならない」とあります。これは単に口に出すことではなく、口ずさむほど心に常に留めておく、ということであります。頭で理解する以上に、生活の各場面で御言葉を思い起こし、それを適用していくことであります。「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。(ヤコブ1:25

 さらに、これらのことを行なっていれば「栄えることができる」とあります。「どこででも」栄えることができるとあります。主によってすでに知らされていることに対して私たちが責任を持てば、私たちが願っていること、志していることは、主のみこころにかなったことです。私が海外にいる時に、日本に戻ってくるべきかどうか祈りました。主がいつも語られていたのは、「どちらでもよい」ということでした。「福音を宣べ伝えているのであれば、どちらでもよい」ということです。

1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

 このようにして主はヨシュアの恐れに答えて励ましてくださいました。そして次にヨシュアは、主の指令に応じて、イスラエルの民にヨルダン川を渡る準備をさせます。

2B 準備の指令 10−18
1:10 そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った。1:11 「宿営の中を巡って、民に命じて、『糧食の準備をしなさい。三日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を渡って、あなたがたの神、主があなたがたに与えて所有させようとしておられる地を占領するために、進んで行こうとしているのだから。』と言いなさい。」

 三日という準備期間をヨシュアは与えました。モーセもかつて、シナイ山に主が降りて来られるのは三日目のことだから用意しなさいと命じました(出エジプト19:11)。糧食の準備もありますが、生ける主に会うための備えとも言えるでしょう。

1:12 ヨシュアは、ルベン人、ガド人、およびマナセの半部族に、こう言った。1:13 「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、『あなたがたの神、主は、あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える。』と言ったことばを思い出しなさい。1:14 あなたがたの妻子と家畜とは、モーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側の地に、とどまらなければならない。しかし、あなたがたのうちの勇士は、みな編隊を組んで、あなたがたの同族よりも先に渡って、彼らを助けなければならない。1:15 主が、あなたがたと同様、あなたがたの同族にも安住の地を与え、彼らもまた、あなたがたの神、主が与えようとしておられる地を所有するようになったなら、あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに与えたヨルダン川のこちら側、日の上る方にある、あなたがたの所有地に帰って、それを所有することができる。」

 ヨシュア記は、ここ1章から22章まで、ルベン、ガド、マナセ半部族の活躍を克明に描いています。民数記における彼らの要求を思い出してください。エモリ人の王シホンとオグを倒してから、彼らはヨルダン川のこちら側に相続地を与えてくれ、と頼みました。そしてモーセは既に割り当て地を彼らに与えていました。それには条件がありました。成年男子は共にヨルダン川を渡って、他の部族と共に戦い、それから初めて相続地に安住することができる、というものです。彼らはきちんとその条件を満たしていく様子をヨシュア記で見ていくことができます。

 それはおそらく、このヨシュア記を読む人々が、確かにルベン、ガド、マナセ半部族がイスラエルの一部であることを確認することができるためでありましょう。ヨルダン川の西が元々の約束の地なのに彼らが東側を求めたからです。

1:16 彼らはヨシュアに答えて言った。「あなたが私たちに命じたことは、何でも行ないます。また、あなたが遣わす所、どこへでもまいります。1:17 私たちは、モーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います。ただ、あなたの神、主が、モーセとともにおられたように、あなたとともにおられますように。1:18 あなたの命令に逆らい、あなたが私たちに命じるどんなことばにも聞き従わない者があれば、その者は殺されなければなりません。ただ強く、雄々しくあってください。」

 すばらしいですね、ヨシュアは主から語られたことの確認を得ました。彼らも「強く、雄々しくあってください」とお願いします。主が直接ヨシュアに語られたことは、すでに自分の部下たちにも語っておられたということです。このように真の霊的指導者は、主がその人に直接語られるだけでなく、その下にいる人々に、この人は主によって立てられた器であるという信仰を与えます。

 彼らはバランスを持った発言をしています。ヨシュアの命じることは何でも聞き従うと言っています。そして「聞き従わない者がいれば殺されなければいけない」というのは、過激なように聞こえますが、軍事行動を起こしている時に指令に聞き従わない者が一人でもいれば多くの兵士の命を失いかねない深刻な影響をもたらします。事実、後にアカンが聞き従わなかったので、36人が敵に殺されています。しかし彼らは同時に、「主が、モーセとともにおられたように、あなたともともにおられますように。」と言っています。彼らはヨシュアを盲信するのではありません。あくまでも、ヨシュアが主から命令を受けることによって、自分たちはその指令を執行していくのだという気構えでいました。

2A ラハブの信仰 2
 次、2章において、驚くべき信仰の持ち主に出会います。それは遊女ラハブです。

1B 匿い 1−7
2:1 ヌンの子ヨシュアは、シティムからひそかにふたりの者を斥候として遣わして、言った。「行って、あの地とエリコを偵察しなさい。」彼らは行って、ラハブという名の遊女の家にはいり、そこに泊まった。

 かつてカデシュ・バルネアにおいて十二人のイスラエル人をモーセが遣わしたように、ヨシュアは二人の者を斥候として遣わしました。

 調べさせたのは「エリコ」の町です。彼らがいま位置しているモアブの草原の向かいにある町であるだけでなく、エリコは当時の強大なカナン人の町の一つでした。この町を陥落させないかぎり、他の町々を攻めていくことはできません。ところで、エリコは申命記で「なつめやしの町」と呼ばれていました(申命34:3)。そこはオアシスであり、確かに今もなつめやしの木が生えています。そこには、世界で最も古い都市と呼ばれる遺跡が発掘されています。石器時代からの遺跡がありますが、紀元前十五世紀辺りの遺物も数多く出てきており、確かにエリコがヨシュアらによって滅ぼされた跡も確認することができます。

 そして彼らが匿われた家が「ラハブ」という、なんと「遊女」の家でした。どの国にも、どの民にも遊女はいますが、けれどもカナン人が極めて堕落した民であることは、既にモーセが教えていました。その姿をよく表わしています。

 けれども、遊女である彼女が、新約聖書においては三度も、その信仰の偉大さにおいて際立っている記述を残しています。読んでみましょう、ヘブル書1130-31節です。「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました。(ヘブル11:30-31」信仰の英雄たちがヘブル書11章にはありますが、彼女はその中に数えられているのです。ヤコブ225節にはこうあります。「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか。(ヤコブ2:25」信仰によって起こした行動が、彼女が義と認められたことを示している、ということです。そしてマタイ伝1章のイエス・キリストの系図に、なんと彼女はその系図の中に書きしるされているのです。

 私たちは、彼女から多くのことを学ぶことができます。「人は、そのありのままの姿で神に近づくことができる。」ということです。彼女は確かに、遊女の道を後に捨ててイスラエルの共同体の中に入ることになりますが、けれども、その道を捨ててから神を信じたのではありません。その反対です。神を信じたので、その後で自分を変えたのです。

2:2 エリコの王に、「今、イスラエル人のある者たちが、今夜この地を探るために、はいって来ました。」と告げる者があったので、2:3 エリコの王はラハブのところに人をやって言った。「あなたのところに来て、あなたの家にはいった者たちを連れ出しなさい。その者たちは、この地のすべてを探るために来たのだから。」

 極めて熾烈な諜報活動がエリコ側でも始まっています。「エリコの王」とありますが、当時は統一国家というものはこの地域にはなく、町一つ一つに王がいました。そして、町は常に城壁で囲んでいましたが、夕暮れに戸をしっかりと閉めます。その前にイスラエルの斥候が入って来たという情報をすでに掴んでいたのです。

 そして、ラハブの家に入ったという情報まで掴んでいました。ラハブは遊女ですが、昔も今も、売春婦の世界には国々の様々な諜報活動が行き交いします。すぐにラハブに目を付けて、それで確かに入ったのを認めたのでしょう。イスラエル人だけでなく、自分自身も殺されかねない、いま恐怖の瞬間を迎えています。

2:4 ところが、この女はそのふたりの人をかくまって、こう言った。「その人たちは私のところに来ました。しかし、私はその人たちがどこから来たのか知りませんでした。2:5 その人たちは、暗くなって、門が閉じられるころ、出て行きました。その人たちがどこへ行ったのか存じません。急いで彼らのあとを追ってごらんなさい。追いつけるでしょう。」

 彼女は嘘をつきました。けれども、モーセが十戒の中でいった「偽りの証言をしてはならない」という戒めの違反になるのでしょうか?先ほど見たように、むしろ彼女のこの行動が新約聖書では称賛されているのです。

 彼女の取った行動は、出エジプト記1章におけるヘブル人の助産婦の取った行動に似ています。パロがヘブル人の母から出てきた赤ん坊が男の子をみな殺せと命じましたが、彼女たちは「ヘブル人の女は、私たちが来る前に子を産んでいるのです。」と言いました。おそらく嘘でしょう。けれども、主は彼女たちが神を恐れたので、その家を祝福されたとあります。ここにある原則は、「生死に関わること、そして神の民の命に関わること」において、自分の身の安全も顧みないで守ろうとする行動の中で行なったことであります。

 そして次に、軍事行動において偽情報による攪乱は戦略の一つであります。諜報活動そのものが偽りを行なう、ということです。ラハブの取った行動はいわゆる「嘘をついた」よりも、エリコの住民であるにも関わらずイスラエル側についたという「反逆罪」であります。けれども、イスラエルにとっては英雄であります。

 さらに、「偽り」という言葉がどのように旧約聖書で使われているかと言いますと、それは「事実に即したことを話す」こともありますが、それ以上に「誠実を尽くす」という意味合いがあります。ラハブは、イスラエルに誠実を尽くしました。自分の命を顧みずにイスラエル人を匿ったのです。これは偽りではなく、むしろ真実な行ないであり、モーセの話す「偽り」には当たりません。とはいえ、もちろん私たちキリスト者は、真実を話していかなければいけません。事実に反することを軽々しく語るべきではありません。たとえ語ることは大きな損害が出るような時でも、嘘によってではなく、神から知恵を頂いて偽りの証言という罪を犯さないように気をつけなければいけません。

 けれども、ここでの大事な点は、「信仰による行動は、不完全でも取ることができる。」ということです。他に不足なことは、主が後で正してくださいます。むしろ、全てを正さないと信仰の一歩を踏むことができないというほうが、大きな問題です。ラスベガスにあるカルバリーチャペルでは、ナイトクラブで働いているような人が信仰を持つことがあるそうです。イエス様を知って、この方を自分の救い主と受け入れますが、その職業を辞めるとの間には時間差があります。自分自身が聖霊によって気づきを与えられて、それでやめるわけです。大事なのはその一歩を踏み出すことです。

2:6 彼女はふたりを屋上に連れて行き、屋上に並べてあった亜麻の茎の中に隠していたのである。2:7 彼らはその人たちのあとを追って、ヨルダン川の道を渡し場へ向かった。彼らがあとを追って出て行くと、門はすぐ閉じられた。

 屋上は平らになっているので、そこで亜麻の茎を乾かすこともよくしていました。そこに彼女は二人を隠しました。そして追ってきた者たちはヨルダンの「渡し場」に向かったとありますが、浅瀬になっていて歩いても渡ることのできるような所、という意味です。考えてみれば、彼らがラハブが嘘をついていたことを知ったら、彼女は間違いなく殺されます。けれども、彼女はそのことも分かりつつ、しかしイスラエルの神が自分を救うのだと信じていたに違いありません。

2B 救いの誓い 8−21
 彼女が驚くべき信仰の発言を次に行います。

2:8 ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、2:9 その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。2:10 あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。2:11 私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。

 彼女ははっきりと、「主がこの地をあなたがたに与えておられる」と言いました。先ほど、主がヨシュアに語られて与えられた約束ですが、彼でさえ本当に占領することができるのかどうか不安だったのです。けれども彼女は、大胆にこう宣言しました。信仰というのが、神からの賜物であることが良く分かります。主が恵みによってそうした確信を与えてくださいます。

 そしてイスラエルの斥候にとって、極めて重要な情報を提供しています。カナン人が「恐怖に襲われている」ということです。戦争においては、地形と戦力の他に、戦う者たちの士気が極めて重要です。恐れを持っている者が一人でもいると、伝染病のように部隊全体に広まっていきます。ゆえに、戦いに行く前に、例えば士師ギデオンは恐れのある者は帰りなさいと命じていました。

 そして次に重要なのは、出エジプトの出来事、またヨルダン川の東でイスラエルが戦ったシホンとオグとの戦いのことが、すでにカナン人の間に広まっているということです。出エジプトについては、それはエジプト人のみならず、世界にいる者たちにこの方が主なる神であることを知らせるためであったことを教えています。紅海の水の中でエジプト軍が沈んだ後にモーセがうたった歌に、こういう文句があります。「国々の民は聞いて震え、もだえがペリシテの住民を捕えた。そのとき、エドムの首長らは、おじ惑い、モアブの有力者らは、震え上がり、カナンの住民は、みな震えおののく。(15:14-15」確かにカナン人にまで恐怖を呼び起こしていました。

 そして最も大切なのは、彼女が出エジプトとヨルダン川の向こうで起こった出来事を聞いたことで、次の信仰告白をしていることです。11節、「あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。」偶像礼拝者であるカナン人が、このことで天地を創造されたまことの主を信じました。これは驚くべきことです。イスラエル人が、数多くの奇蹟やしるしを目撃しているのに、まことの神ではなく金の子牛を拝んでしまったのに、彼女はただ神の御業を聞いただけで、その知識に対して精いっぱいの応答をしたのです。

 神の救いは、その知識の大きさに拠るものではありません。与えられた知識への応答に拠るものです。しばしば、幼い子供が福音を信じることができるのかどうか、という議論を聞きますが、私は逆に言わせていただくと、大人が福音を信じることができるのかどうか、という議論をしたほうが良いと思います。イエス様は、「この小さな子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」と言われましたが、子供は応答するということを良く分かっています。知識は自分の頭に貯めるものではありません。知識は、そのまま従ったり、真似してみたりする、権威あるものであることをわきまえているからです。

 聖書の中には、イスラエル人がかえって信じないで、異邦人が信じるという場面が数多く出てきます。イエス様ご自身が言われましたが、預言者エリヤは、イスラエルの中にいたやもめの所に遣わされず、シドンにいたやもめの所に遣わされました。預言者エリシャの時にはイスラエルにらい病人が多くいたにも関わらず、シリヤのナアマン将軍だけが清められました(ルカ4:26-27)。

 イエス様はガリラヤ湖畔にあるカペナウムを本拠地にして活動されていましたが、遠くの地方からやって来て、その癒しを受け、神の御名をほめたたえる人々が大勢いたにも関わらず、肝心のカペナウムやその回りの町々の人々はそれを見ても信じなかったのです。そこでイエス様はそれらの町々に裁きを宣告されます。「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。・・・どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。(マタイ11:21,23」これだけ多くの知識が与えられていたら、あの極悪な町ツロやシドン、またソドムであっても悔い改めていたことだろう。少ない知識であっても、十分に悔い改めるに足る、ということです。

2:12 どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。2:13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」2:14 その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

 主は、カナン人に対しては彼らをことごとく滅ぼせ、と命じておられました。けれども彼女は、「真実を尽くしてください」と嘆願しています。ここの言葉はヘセドというもので、愛であるとか、恵みと訳されるものであり、「真実な愛」を意味しています。私たちは「愛」という言葉を聞くと感情しか考えませんが、聖書的には、意志と献身の伴った誠実に裏打ちされた愛を「愛」と呼びます。

 私たちの多くが、神がなさることを宿命的あるいは機械的にとらえます。救いにしても、裁きにしても、そうです。人がイエス様を一度「信じます」と口で言って、それから信じているとは全く言えない生活を送っているのにも関わらず、「あの人は天国に行く」と言います。私が見るに、その神様は自動販売機とあまり変わりません。「信・じ・ま・す」ということを発言すれば、そのまま缶コーラが出てくるような機械です!神は、ご自分との交わりを持つために私たちを救われたのであって、私たちがその交わりを拒んでいるのであれば、それは救われている状態ではないのです。

 裁きについても同じです。カナン人をみな滅ぼす、と主が言われたら、カナン人が何を行なっていようと無条件で神は滅ぼすと思っています。それで、「神は不公平だ」と非難するのです。全く違います、カナン人がかたくなに自分たちの道を悔い改めないので滅ぼされるのです。そして神はカナン人が神を知ろうとしないことを予め知っておられるから「滅ぼせ」とイスラエルに命じられたのです。

 神は、カナン人を滅ぼすことを御心としておられます。そしてラハブは、その裁きを受けるに値する者の一人です。遊女でもあります。しかし、裁かれるに値する者であることを知りながら憐れみと恵みを求めたのです。あまりも多くの人が、自分のあり方を変えることができないので、「初めから自分はこのように生まれたのだ。」と言います。とんでもないことです!あなたは運命の中にいるのでもなく、機械でもないのです!神がそのように定められてはおらず、変わることのできる恵みを受けることができるのです。

 彼女は神から与えられたわずかな知識に応答して、その信仰がイスラエル人をかくまうという行動に駆り立てたのです。それが信仰生活の長い者にとっていかに幼稚に見えたとしても、いいえ、その新しく信じた者たちの生きた信仰の働きは、神の前で称賛に値するものであります。

2:15 そこで、ラハブは綱で彼らを窓からつり降ろした。彼女の家は城壁の中に建て込まれていて、彼女はその城壁の中に住んでいたからである。

 ここは大事です。城壁を頑丈にするため、当時の城壁はこのようにしていました。二重の城壁になっていましたが、その間にしっくいを入れたり、またはこのように家を建てていたりしました。

2:16 彼女は彼らに言った。「追っ手に出会わないように、あなたがたは山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこで身を隠していてください。それから帰って行かれたらよいでしょう。」2:17 その人たちは彼女に言った。「あなたが私たちに誓わせたこのあなたの誓いから、私たちは解かれる。2:18 私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。2:19 あなたの家の戸口から外へ出る者があれば、その血はその者自身のこうべに帰する。私たちは誓いから解かれる。しかし、あなたといっしょに家の中にいる者に手をかけるなら、その血は私たちのこうべに帰する。2:20 だが、もしあなたが私たちのこのことをしゃべるなら、あなたが私たちに誓わせたあなたの誓いから私たちは解かれる。」2:21 ラハブは言った。「おことばどおりにいたしましょう。」こうして、彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は窓に赤いひもを結んだ。

 先ほど12節で、ラハブは「確かな証拠をください」と言いました。この誓いにおいて、しるしとなるものを願ったのです。それで斥候は、自分たちが綱で降りる時の赤い糸を吊るしておきなさいと言いました。そして、その糸のある家の中に、ラハブの家族がいるのであれば、彼らは救われます。斥候たちは、後にイスラエル全体に「赤いひもを吊るしてある家は襲ってはならない」と言い伝えるはずだったのでしょうか、後で神が城壁をみな崩されると聞いた時には、背筋が凍ったかもしれません。けれども、神は真実な方です。城壁が崩れる時、ラハブの家だけは残ったのです。

 この誓いはちょうど、出エジプト記のようです。最後の災い、エジプトの初子を殺すと神が言われた時に、イスラエルの家に対して過越の食事をしなさいと命じられました。子羊をほふって、その血を、家の門柱と鴨居につけなさいと命じられました。その家にいる者はだれでも、救われます。初子を殺しに来た御使いが、その血を見て過ぎ越します。同じように、ここでも赤いひもを垂らすことによって、その家の中にいれば安心なのです。

 もう一度、愛また救いについて、それは証拠にある誓い、すなわち契約に基づくことを思い出しましょう。私たちの気分の浮き沈みではなく、確かな証拠があります。それが新しい契約では、キリストの流された血なのです。私たちが、神が本当に自分を愛しているのかどうか分からなくなった時に、十字架につけられたキリストを仰ぎ見てください。確かにそこに神の真実な愛があります。

3B エリコの恐怖 22−24
2:22 彼らは去って山地のほうへ行き、追っ手が引き返すまで三日間、そこにとどまった。追っ手は彼らを道中くまなく捜したが、見つけることができなかった。2:23 ふたりの人は、帰途につき、山を下り、川を渡り、ヌンの子ヨシュアのところに来て、その身に起こったことを、ことごとく話した。2:24 それから、ヨシュアにこう言った。「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」

 エリコのすぐ西側に、ユダヤの荒野の山々があります。伝承としてイエス様が誘惑を受けられた山もそこにあります。洞窟があるので、その一つに隠れたのでしょう。三日後彼らが戻っていき、ヨシュアに報告しました。先に、ルベン、ガド、マナセ半部族から、「強くあれ。雄々しくあれ。」という確認を受けましたが、再びイスラエルの斥候からも主の御心の確認を得ました。そして、先ほど引用した申命記1125節にも、モーセの言葉が残っています。「だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。

 次回は、イスラエルの民がヨルダン川を渡るところを読みます。

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