ヨシュア記10714節 「信者に働く神の絶大な力」

アウトライン

1A 被造物にある神の絶大な力
   1B 天体にある力
   2B 人間の小ささ
      1C 天体との比較
      2C 自然の驚異
      3C 支配していると思いたい人間
2A 信じる者に働く御力
   1B 不完全な人間
   2B 戦いの最中
   3B 日と月の停止
3A 呼び求める者に応える主
   1B 御心への積極的介入
   2B 求める者への応答

本文

 ヨシュア記10章を開いてください。午後は9章から12章まで学びますが、今朝は107節から14節に注目したいと思います。

7 そこでヨシュアは、すべての戦う民と、すべての勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行った。8 主はヨシュアに仰せられた。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」9 それで、ヨシュアは夜通しギルガルから上って行って、突然彼らを襲った。10 主が彼らをイスラエルの前でかき乱したので、イスラエルはギブオンで彼らを激しく打ち殺し、ベテ・ホロンの上り坂を通って彼らを追い、アゼカとマケダまで行って彼らを打った。11 彼らがイスラエルの前から逃げて、ベテ・ホロンの下り坂にいたとき、主は天から彼らの上に大きな石を降らし、アゼカに至るまでそうしたので、彼らは死んだ。イスラエル人が剣で殺した者よりも、雹の石で死んだ者のほうが多かった。

12 主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」13 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。14 主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった。主がイスラエルのために戦ったからである。

 驚くべき主の力の現れです。ヨシュア率いるイスラエル軍は、盟約を結んだギブオン人を助けるために、エモリ人の王たちに対して戦いました。一目散に逃げている彼らを追跡していましたが、主は天からの雹によってその軍隊に甚大な打撃を与えました。けれども、まだまだ敗北させるところまでは至っていません。そこで、ヨシュアはとんでもないことを祈るのです。日が暮れたら、追跡している敵は見えなくなります。それで、「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」と祈るのです!それで丸一日は、日が落ちなかったのです。

 今朝はもう一つの聖句を見て、お話していきたいと思います。エペソ書119節です。パウロがエペソにある教会の信徒たちのために祈っています。「また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」新共同訳では「全能の力の働き」が、「絶大な働きをなさる神の力」と訳されています。まさに、日と月をとどめるような絶大さです。

1A 被造物にある神の絶大な力
1B 天体にある力
 ところで私たちは天体を見るときに、それを創造された神の偉大な力を知ります。詩篇19篇にこうあります。「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19:1-6

 私たちは日頃の生活の中で積み重なった細々した出来事を忘れて、天体について調べる時間を取ると良いと思います。そこには、驚くべき声が聞こえてきます。神の声です。今週ナショナルグラフィックのウェブサイトで太陽の写真や動画、そして説明を読みました。原発事故の問題、また核戦争危機に私は関心を寄せていましたが、太陽においては、何万倍、いやおそらく何億倍の単位で絶えず核融合の営みがなされています。そして、その絶妙な地球との距離によって、このような優しい環境が保たれています。そして地球の自転軸が少し傾いていることによって、見事に季節ができあがっています。そして太陽風があっても地球の磁場によってその被害から守られており、太陽の重量と地球、その他の惑星の重量によって、それぞれの公転が、数学的正確さで秩序正しく行なわれています。神がいかに偉大で、そして私たち生命をこんなにも守っておられるのかを思いました。

 苦しみの中でもだえていたヨブに対して神はこう問い詰められました。「あなたはすばる座の鎖を結びつけることができるか。オリオン座の綱を解くことができるか。あなたは十二宮をその時々にしたがって引き出すことができるか。牡牛座をその子の星とともに導くことができるか。あなたは天の法令を知っているか。地にその法則を立てることができるか。(38:31-33」これらの驚くべき軌道に触れるとき、私たちはただ神への畏敬しか残されていません。

2B 人間の小ささ
1C 天体との比較
 そして私たちが日常の生活に戻りますと、なんと私たちは小さいのか!と思いますね。太陽を見ても地球はその百分の一の大きさしかなく、その地球の中で私たちは点にもならない体積しか持っていない存在です。詩篇の著者はこう歌いました。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。(詩篇8:3-4

 私たちは、自分の存在価値を知るためには、必ず聖書に啓示されている神の働きに戻るべきであります。世の中で働いているのであれば、私たちは自分がなぜこのようにして生きているのか分からなくなります。巨大な機械の小さな部品にも至らないのではないか、と感じます。けれども聖書は、神がご自分のかたちに人を造られた、と宣言しているのです。あまりにもちっぽけなこの人間を、この自分を、地球の百倍もある太陽よりも大きい、太陽系の億倍もあるこの宇宙よりも大きい神が、実に顧みてくださっているのです。どうかこのことを忘れないでください、あなたの存在価値は聖書に啓示されている神によってのみ見出されるのです。

2C 自然の驚異
 私たちはこのような偉大な力を持つ神を、普段の生活ではなかなか感じることができません。特に安全で便利な現代社会に生きている私たちには、なおさらのことでしょう。けれども主は、地上に住む人間と他の生き物にその偉大な力を時に現されます。「自然の驚異」と私たちが呼ぶものによって現されます。例えば雷鳴です。詩篇29篇、「主の声は、水の上にあり、栄光の神は、雷鳴を響かせる。主は、大水の上にいます。主の声は、力強く、主の声は、威厳がある。主の声は、杉の木を引き裂く。まことに、主はレバノンの杉の木を打ち砕く。主は、それらを、子牛のように、はねさせる。レバノンとシルヨンを若い野牛のように。主の声は、火の炎を、ひらめかせる。主の声は、荒野をゆすぶり、主は、カデシュの荒野を、ゆすぶられる。主の声は、雌鹿に産みの苦しみをさせ、大森林を裸にする。その宮で、すべてのものが、「栄光。」と言う。(3-9節)」これらの現象は非常に恐いですが、けれども私たちに誰がこの世界を支配しているのかを知らしめるものです。

 地震や火山によっても、私たちは神の偉大さを知ります。「主が地に目を注がれると、地は震え、山々に触れられると、山々は煙を上げます。(詩篇104:32」私たちは、東日本大震災においてこのことを体験しました。あの巨大地震はいったい何なのでしょうか?あの津波の力はいったい何なのでしょうか?地盤沈下が起こり、地形そのものも変化し、地図の海岸線を書き直さなければいけないほどです。

 ある人が、こんなことを書き記していました。ご本人はクリスチャンではないと思いますが、非常に的確なことを仰っています。「・・・大地震と大津波でひとつだけは確実に実感しなければならないはずのこととは、我々人間が信じ切って、そこに浸り切って生きて来た現代文明の価値観なんて、しょせんとても果敢ないということではないのか?絶対に安全で快適な暮らしなど求めたところで、そんなこと自体が、この宇宙の巨大さの前に、決して到達できないものなのだ。確かに今年の地震と大津波は、我々が知っている歴史のなかでは未曾有の天然災害だろう。東北の太平洋沿岸ではところによっては数十センチの地盤沈下も起きている。それは凄いことだ。でも一方で、そうした地球の活動がなければ、この日本列島自体が存在していない。逆に言えば、その壮大な大地の創造の物語のなかでは、この未曾有の大地震ですら、ほんのかすかな地殻の変動でしかない。」(toshifujiwara.blogspot.jp/2011/12/blog-post_31.html

 確かに現代文明は果敢ないです。けれども私たちは、ほんの少しだけ指を動かし地殻を変動せしめた神を知っています。私たちの今の安定は、この方があえて正確にこの地上を保っていてくださっているから安定しているのです。

3C 支配していると思いたい人間
 ところが人間は、自分の生活は自分が支配していると思いたがっています。自分たちではどうすることもできない状態に陥っているにも関わらず、それでも全てを支配されている神に助けを求めません。自然災害によって私たちは、防潮堤が自分たちを守っているのではなく、神がおられることを知りました。どうすることもできない日本の経済状況を見るにつけ、私たちは、国や政治が私たちを守ってくれるのではないことを知りました。大勢の自殺者が毎年8万人を超え、生きる意味を与える方が神以外にはおられないことを知っています。

 そのはずなのですが、どういうわけかこの方の名を呼び求めることをしません。いつまでも、自分自身に拠り頼もうとしています。ある夫婦のお家に訪問したことがあります。私はかつて、その旦那さんにイエス様のことを伝えましたら、「私は神は信じません。自分自身を信じています。」と言われました。けれどもその奥様は鬱にかかりました。ご主人が自分で仕事をし、家計を支える能力に著しく欠けているのに、それに気づいておらず、奥様がずっとその重荷を背負っていたからです。ご主人が亡くなったときに奥様は入院していましたが、なんと葬儀にも出席しなかったそうです。自分自身が崩壊していることを知らずに、それでも自分を信じて生きていくのだ、と言うのです。

2A 信じる者に働く御力
 けれども、私たち人間には、この天と地を造られ、支配されておられる神がおられます。その絶大な力をもって信じる者に働いてくださいます。私たちがこの方の名を呼び求めさえすれば、神は憐れみ深い方ですから喜んで私たちを助けてくださいます。それがエペソ書119節にある言葉、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力」であります。

1B 不完全な人間
 ここで、「絶大な働きをなさる神の力」が完全な者に対して働く、となっていないことに気づいていください。信じる者たちに働きます。ヨシュアは、完全な者ではありませんでした。午後に学びますが、ギブオン人が来て、遠い国からやって来たと偽っているのに、ヨシュアは主に伺いを立てることをせず盟約を結びました。そしてその盟約によって、ギブオン人が五人の王とその軍隊に攻められているところを守らなければならなかったのです。ところが主はこのことを用いられました。主が命じられたエモリ人をことごとく打つという約束を果たしてくださったのです。

 主は、たとえ私たちが失敗したとしても、信仰によって果敢に進みゆく私たちをこのようにして大いに用いてくださいます。

2B 戦いの最中
 そして主はヨシュアに約束してくださいました。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。」彼らはギルガルにいましたが、夜が明けるのを待つことなくギブオンに向かいました。そこで彼らを激しく打ち、残った者たちが逃げていきました。ところが、主が彼らに雹を降らせました。雹で死んだ者は、剣で死んだ者よりも多かったとあります。

3B 日と月の停止
 夜が明ける前から戦いましたが、彼らを追跡していて、これでは日が暮れるまでに彼らを絶滅させることはできないことをヨシュアは悟りました。そこで祈ったのです。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」太陽はギブオンのところにあったのでしょう。そして西にはアヤロンの谷の上に月がありました。そこから動かさないでください、と祈ったのです。そうしたら、主は止めてくださったのです!

3A 呼び求める者に応える主
 天体の運行を定められた神が、その運行に少し変化を入れることによって、小さき者ヨシュアの祈りを聞いてくださいました。神はそれだけ、小さい者に心を留めていてくださいます。以前、来日したカルバリーチャペルの牧師が、カンファレンスの中で一つの体験を話しました。日本に飛び立つ飛行機の出発時間に間に合わなかったそうです。彼は一心に走り出発ロビーに到着しましたが、もう機体がゲートから離れていました。彼は一心にお願いしました。そこにたまたま航空会社のマネージャー級の人がいました。そしてマネージャーは無線トランシーバーで何と管制塔に連絡を入れたのです!確か遅れた理由は、旅券を忘れたか何かだったと覚えていますが、私は、「何をやっているのだろうか。」とあきれてしまいましたが、けれども管制塔に連絡を入れたというところに、「神は憐れみを示されると、管制塔まで動かしてくださるのだ。」と驚きました。

 ここでは、このことが数億倍の規模で行なわれています。ヨシュアが追跡する敵を全滅せしめるために、太陽を周る地球の回転を神はわざわざ遅くしてくださったのです。神は、小さき者たちに大きなことを行なってくださる方です。

1B 御心への積極的介入
 私たちは、ここから何を学び取ることができるでしょうか?一つは、主は御心にかなう祈りを確かに聞いてくださる、ということです。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ5:14」ここにおける神の御心は、エブス人を打ち滅ぼすということです。これを神ははっきりと御心としてヨシュアたちに命じておられました。それで、全ての状況においてヨシュアはその御心を果たそうと果敢に介入していったのです。

 私は妻と先週日曜日の晩、ある祈り会に集いました。そこで、ちょっとした映像を見ました。911における世界貿易センターが崩れる映像が流れましたが、そこから逃げる人々がいる一方で、その中に入っていく人々がいたことを述べていました。逃げる人々については、私たち教会が、神が滅ぼされるこの世から、またこの世と一体となっている教会から逃げなさいという勧め、そして果敢に世界貿易センターの中に入っていく消防士の人たちについては、「神の使命のために、紛争から逃げないで、むしろ紛争の中に入っていく」勇気と情熱について触れていました。私はヨシュアたちが、そのような人々ではないかと思います。御心のゆえに、むしろ戦いの前線に出ていこうとするのです。このように御心の中に御霊に導かれて積極的に食い入ろうとする人々に、神はその祈りをかなえてくださいます。

2B 求める者への応答
 そしてもう一つは、「体を動かしている者の求めに神は答えてくださる」ということです。ヨシュアたちは、戦いを止めませんでした。必死に追跡をしていきました。すでに神の御心を行ない、具体的に動いていたので、彼の祈りを神は聞かれました。

 数多くの人が、「神の御心を知るにはどうすれば良いのですか?」と質問します。そのような質問をする時に前提となっているのは、「何も行動に出ることなく主に尋ねれば、主が答えられる。」というものです。仕事が必要な時に、家の中で祈っているのでしょうか?いいえ、そのような祈りに答えはないでしょう。仕事が必要な時にその仕事を与えてくださる神に出会うことのできる人は、すでに履歴書を持ちながら会社回りをしている人であります。イエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:7-8

 後に、イスラエルにはサウルという王がいました。そして息子ヨナタンがいました。ペリシテ人と戦っていましたが、ペリシテ人が圧倒的な力を持っていて、イスラエルはおじけていました。けれどもヨナタンは、道具持ちと共にペリシテ人の陣営まで行っているのです。そして彼らに姿を見せた時に、「お前たちのところに行ってやる。」というならば、主の御心はそこにはない、逃げようと言い、「俺たちのところに来い。」というならば、主は私たちの手に敵を下してくださると言いました。そしてペリシテ人は「俺たちのところに来い」と言いました。それで彼らはたった二人で二十人を殺しました。それからペリシテ人の間に大混乱が起こりました。サウルは遠くで、ざくろの木の下にいたのです。そこで祭司にエポデを持っていかせて御心を探り求めようとさせました。ところが騒ぎはその間にもどんどん大きくなっていきます。サウルは祭司に「もう手をしまいなさい」と言っています(1サムエル14:19参照)。

 祈りが答えられている人は、既に動いています。自分を神に明け渡しています。自分自身では救われないところに自分自身を投入させています。いつまでも祈りが聞かれない人は、立ち止まっています。神の御業が行なわれているのに、なおもそこに立ち止まって御心を探ろうとします。自分自身に頼りながら、なお神が御力を現してくださるよう祈ります。いいえ、私たちのうちに何もないときに神は満たされるのです。私たちが出ていって、どこに行けばよいか分からない時に神は道を示されます。どうか体を動かしてください。ヤコブは、「信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。(2:17」と言いました。

 もちろん、神が御心であると示しておられないのに、「とにかくやってみよう。」と言って踏み出すのは、まったく間違っています。イスラエルの民がカデシュ・バルネアで、主が荒野に四十年の間とどまるのだと言われた後なのに、「とにかく行ってみよう。」と言って、こてんぱんに負けました。そうではなく、明らかに御心であると神が示されたことについて、行動に移すのです。そこに関わるのです。そうすれば、その何もないところに神が備えを与え、導きを与え、力を与えてくださいます。

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