ヨシュア記14614節 「最後まで走る」

アウトライン

1A 従い通す姿勢
   1B 最後まで走った人
   2B 一途な信仰
2A 反対する身内
   1B はかない世の友
   2B 握りしめる約束
3A 初めの愛
   1B 新たにされる日々
   2B 神との出会いを求める戦い

本文

 ヨシュア記14章を開いてください。私たちは午後に13章から19章まで学びたいと思っていますが、今朝は146節から14節までを読んでみたいと思います。

6 ときに、ユダ族がギルガルでヨシュアのところに近づいて来た。そして、ケナズ人エフネの子カレブが、ヨシュアに言った。「主がカデシュ・バルネアで、私とあなたについて、神の人モーセに話されたことを、あなたはご存じのはずです。7 主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。8 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。9 そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。10 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。11 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。12 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」13 それでヨシュアは、エフネの子カレブを祝福し、彼にヘブロンを相続地として与えた。14 それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。

 私たちは前回の学びで、イスラエルがカナンの地の王たちを征服したところまでを読みました。彼らは戦い続けましたが、ヨシュアが年を取って死ぬ時期も近づいています。まだ占領していない地域は多く残っているのですが、ヨシュアは主から命じられた最後の仕事である、相続地の割り当てを行ないました。

 十二部族の中で最も大きいユダ族が、ヨシュアのところにやってきました。その時に、ヨシュアの相棒であったカレブがヨシュアのところにやって来たのです。覚えていますか、カレブとヨシュアだけが、カデシュ・バルネアから約束の地を偵察に行った時に、信仰をもって戦うことを民に勧めた二人です。他の十人は悪い知らせをもたらしたので、民の心はくじかれエジプトに帰ろうと言いました。それで四十年間、イスラエルの民は荒野をさまようことになります。二十歳以上の者たちが全て死んで、新しい世代の者たちが約束の地に入りました。けれども、ヨシュアとカレブだけはそのまま約束の地に入ったのです。そして、イスラエルの民と共に戦い抜いたのです。

 そこで今朝の説教題は「最後まで走る」であります。信仰の競走を、最後まで走った人の一人がカレブです。私たちは、ヨシュア記において信仰によって勝利すること、自分に死に、神の力に頼ることについて学びました。そして勝利することは持続させるものであること、つまり一回性の勝利ではなく、むしろ勝利した後が試されることを学びました。けれども、信仰の勝利はそれだけで終わりません。最後まで戦い抜いたのかが問われるのです。

1A 従い通す姿勢
1B 最後まで走った人
 二年前だと思いますが、私たちが一月初めにアメリカに行った時に、韓国系アメリカ人の兄弟と久しぶりに会うことができました。彼は、共に牧会訓練校であるスクール・オブ・ミニストリーで学んだ友です。私の妻が子宮筋腫摘出手術の見舞いで、とても親身に手助けしてくれました。私たちの学年は1997年に卒業しました。けれども、その兄弟は二年前に会った時に「最後の学期を終わらせる」と話したのです。そうです、彼は1997年、確か5月か4月、卒業する間近でやめてしまったのです。残された学生たちは、「何をやっているんだろうか。」と残念でなりませんでした。幸い彼は復学をして、今はもう卒業していますが、実は他にも数人、最後の学期で止めた人たちがいます。

 私たちは19976月に卒業式で、卒業証書を受け取りました。もちろん卒業証書が全てでは全くなく、途中退学でもそこまで学んだことには意味があるのですが、もっと資格と免許を要求する仕事においては、初めのほうであきらめた人と、最後の最後であきらめた人は資格がないということには変わりなく、意味をなさないことを知っています。例えば医師免許は、六年生の医学部を卒業し、医師国家試験に合格して初めて医療行為をすることができます。もし五年間だけの勉学をしても、患者を診察したら犯罪です。信仰とて同じです。信仰を持つことが目標では決してありません。むしろ、それは始まりであり信仰を終わりまで保つことが永遠の報いを受ける道です。

 たとい途中で挫折して霊的に後退してしまっているとしても、遅すぎないうちに、いま主に立ち返るならば、その最後までの競走を完成させることができます。けれども、これまでどんなに正しく生きてきたとしても、今、それを放棄しているのであれば、過去の経歴は神には数えられないのです。主が預言者エゼキエルにこう語られました。「しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。(18:24

 それで使徒パウロは、終わりに受け取る賞もしくは目標について話しています。「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。(1コリント9:24」「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14」そして彼は、皇帝ネロによって死刑の処せられる前にこう言いました。「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(2テモテ4:7-8」確かにパウロは、最後まで走り抜きました。

 先ほど読んだ本文の中に、何回も繰り返されて出てきた言葉がありましたね。「主に従い通した」という言葉です。8節、「私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。」そして9節も、「そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。」それから14節で、「それで、ヘブロンは、ケナズ人エフネの子カレブの相続地となった。今日もそうである。それは、彼がイスラエルの神、主に従い通したからである。」とあります。従ったのではなく、従い通したのです。

 このような信仰の人物は聖書の中に数知れません。ヤコブの生涯は、彼の肉の弱さからいろいろな苦労を強いられましたが、死の床には十二人の息子がおり、そこでそれぞれに預言をもって祝福しました。モーセも同じように、約束の地をネボ山の頂から見た後に主ご自身が彼を葬りました。そしてヨシュアを飛び越して、ダビデも途中で大きな罪を犯しましたが、悔い改めて、死ぬときに息子ソロモンに主にあって命じて死んでいきました。ヘブル書11章は「信仰の殿堂」と呼ばれますが、そこに「これらの人々は、信仰の人々として死にました。(13節)」とあります。

 そして同じように、初めは走っていたのに、終わりまで走らなかった人々の例も多く出てきます。ダビデの前の王はサウルでしたが、彼はその王位を神によって退けられ、退けられただけでなく、ダビデを追い回し、最後は魔女に伺いを立ててペリシテ人によって打たれて、自害しました。ダビデの息子であるソロモンもそうでした。彼は若い時から統治を始め、主に知恵を与えてくださるように願ってそのとおりになったにも関わらず、数多くの異邦人の女を愛したために、それらの女が持ち込んだ神々を拝むようになりました。新約聖書では、「信仰の破船に会いました」と言っている、具体的な教会奉仕者の名前をパウロは挙げています(1テモテ1:2021)。また、パウロやテモテの同労者であるデマスが、「今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしま」ったとパウロは言っています(2テモテ4:10)。

2B 一途な信仰
 そしてカレブの「主に従い通す」という言葉には、もちろん一つ心で、一途に従ってきたという意味もあります。聖書に書かれている、人が歩む道は二つしかないことを教えています。滅びに至る道か、あるいは命に至る道かの二つです。その中間というものがありません。イエス様は山上の垂訓の最後に、狭い門から入りなさい、広い門から入る人は滅びに至ることを話されました。聖書の最後、黙示録22章においてもイエス様は、「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(11節)」と言われました。不正か正しい者か、どちらかしないのです。

 中間にいると思っている人が最も惨めです。それはあたかも、戦場において弾が飛んでくる真ん中に自分を立たせているようなものです。どちらか側につかないでいれば、100パーセント撃たれ死んでしまいます。アメリカの南北戦争の時に、北の軍につくか、南の軍につくか決めかねて、結局、上着は北のものを着て、ズボンは南のものを履いた人がいたそうです。結果は、両軍からの攻撃の標的になったとのことです。信仰的にも、この世にあるものを捨てきれずにいる人は、この世での楽しみも十分に楽しめません。絶えず御霊による良心の咎めを受けるからです。そして教会においても、喜びを味わうことができません。いつも自分が行なったことに対する悔いがあるからです。

 自分のすべてを主に捧げた人には、すばらしい計画が神によって用意されています。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11」私たちは自分を捨てて主に明け渡そうとするときに、必ず悪魔の妨げを受けます。「神の与えるものは災いの計画だ。」というものです。主に明け渡したら、不幸な、貧しい生活が待っている、と思っています。いいえ、平和と希望に満ちた生活です。

2A 反対する身内
 それでは、さらに具体的にカレブの生涯を眺めてみましょう。

1B はかない世の友
 もう一度、8節を見てください。「私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。」カレブには信仰が与えられていました。カナンの地には敵がいるけれども、主が勝たせてくださるという思いがありました。けれども、他の十人は悪い知らせを持ってきたのです。イスラエルの民は十人の言うことを聞きました。そして、説得しようとするカレブとヨシュアに対して、石を投げつけようとさえしたのです。

 私たちが、カレブのように信仰の競走を最後まで走り続けるためには、「他人の目を気にする」という態度を改めることです。主によって与えられた思いがあるけれども、それを他の人がどう見るのかが私たちは気になります。自分の家族はどう見るのか、職場の人たちはどう見るのか、また日本人一般が自分をどう見るのかが、気になります。箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25」とあります。カレブは他の者たちからの強い反対にあったにも関わらず、その信仰の立場を変えませんでした。

 その時に私たちが考えなければいけないのは、「自分の人生について、最後に責任を取れるのは自分自身しかいない。」ということです。自分の気にしている人々が、五年後、十年後に、同じようにして自分に関わっているでしょうか?今、働いている会社がどこまで自分を大切にしてくれるのでしょうか?親でさえ、大抵は自分より先だって死ぬのです。仏式の葬儀が気になるでしょうか?そこにいる人々がどれだけ、その死んだ人のことを考えているのでしょうか?

 死んだ後に、自分がどれだけ見てもらえるのか確かでしょうか?興味深いのは、外国から日本に移住してきた、新しく信仰をもった、ある女性の言葉でした。新しい日本人の旦那さんを得て彼の家に住み始めましたが、家には仏壇もあるし、先祖代々の墓があります。彼女は質問したそうです。「自分の子孫が、どれだけ自分のことを見にくるのか分からないじゃないですか。あまりにも道理にかないません。自分の死については、自分一人で責任の取れる形で決めた方が良いのではないですか。」そうです、他の人々に自分の人生、ましてや死後の生活を任せることはできないのです。自分自身が、確実に永遠の命を得る道を選び取っていかねばならないのです。

2B 握りしめる約束
 そしてカレブの信仰は、他の人々からの圧迫に耐えただけでなく、長い時間にも耐えていったものでした。9節を見てください。「そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである。』と言いました。10 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。」ここで四十五年間とカレブが言っていますが、四十年間の荒野の生活、そして五年間の約束の地における戦いのことを話しています。カレブは、モーセから、必ず約束の地に入ることになり、その地を相続することができる。」という神の約束をいただきました。けれども、その約束が実現するまでに四十五年かかった、ということです。その間、この約束を握りしめて生きていたのです。

 私が考えるに、他の不信仰の人たちと四十年間、荒野での放浪を共にしなければいけなかったというのはとても辛いことだったと思います。自分は信じているのですから、その放浪はしなくても良かったのです。けれども、彼は耐え忍んだのです。けれども、信仰者の生活はこのようなものです。神から与えられたとてつもない栄光にあずかる約束を私たちは受けているのですが、この地上にいる他の人々と同じように生活しなければいけません。アダムが罪を犯したことによる呪い、つまり病や死も同じように受けていかなければいけません。それでも信じていくのです。

 イエス様が、弟子たちを舟に乗せて向こう岸に渡らせた話を思い出してください。イエス様は、向こう岸に渡らせることを意図して弟子たちを舟に乗り込ませました。そして向かい風のために彼らは舟を漕ぎあぐねていました。その時の時間が夜中の三時、とあります(マルコ7:48)。真夜中ではなく、夜中の三時です。夜明け前がもっと暗くなる時だと言われますが、その時にイエス様が水の上を歩かれて来られました。パウロが、主イエスが再び来られる日について、「夜はふけて、昼が近づきました。(ローマ13:12」と言いました。もっとも神の輝かしい光の約束とは遠く離れていると見える時に、神の約束が実現するのです。

 ヘブル人への手紙1036節には、「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。(ヘブル10:36」とあります。見えなくても信じていく、状況が異なるようであっても信じていくときに忍耐が必要になります。そして、314節には「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。」とあります。

3A 初めの愛
1B 新たにされる日々
 そしてカレブは、驚くべきことを次に話しています。10節の途中からです。「今や私は、きょうでもう八十五歳になります。11 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」すごいと思いませんか、85歳の人が戦争に耐える力を持っていました。しかも40歳の時と変わらないと彼は言うのです。

 カレブが持っていたのは「初めの愛」です。キリスト者にとっては、初めに与えられた救いの確信にある神の愛のことです。エペソにある教会の人たちは、使徒の教えをしっかりと守っていましたが、初めの愛から離れてしまったとイエス様が叱責しておられます。けれどもカレブは、その心をしっかりと保っていたので、八十五歳になった今でも若者と同じように動くことができました。カレブの優れている部分は、その心です。7節には「私は自分の心の中にあるとおりを彼(モーセ)に報告しました。」と言っています。そしてその信仰の心を、次にはヘブロンにいるアナク人との戦いにも保っていたのです。

 私たちの信仰は成長します。そして成熟します。肉体の成熟というのは、今後はその力が減っていくことを意味しています。けれども、霊的な成長と成熟は違います。パウロは、「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(2コリント4:16」と言いました。時を経れば経るほど、内なる思いは新たにされているのです。何百万人、何千万人の人をキリストに導いた伝道者ビリーグラハムは、もう百歳に近づいています。彼は以前こう言ったそうです。「年をとっていることを嬉しく思う。・・・霊的に成長して、とてもたくさんのことを学んでいるからです。天国に行って、主とともにいることが待ち遠しいです。

 ですから、皆さんも心配しないでください。これから自分の信仰歴が長くなっていきます。今持っている情熱は冷めてしまうのではないか、と心配されることはあるでしょうか?いいえ、もっと燃やされます。イエス様のことがもっと分かってきます。自分を制限していた肉がどんどんそがれてきます。以前、生まれた時には老人で年を取るごとに若返るという映画がありましたが、そうです、キリスト者は霊としてはもっとも若い時に肉体の終わりが来るのです。

2B 神との出会いを求める戦い
 そしてカレブは、非常に野心的なことをヨシュアに願います。「12 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。」彼の野心はこれでした。他の十人による悪い噂によって、奪い取ることのできなかった巨人アナク人の住む町です。けれども同時に、そこは族長アブラハムが住んでいた所です。そこに主が現れてくださいました。イサクもヤコブも住んだことのある町です。さらに、族長と、ヤコブの妻ラケルを除く妻たちが葬られている墓があるところです。つまり、神との出会いをした霊的に極めて重要なところです。

 つまり、まとめると、神を深く知ることのできる所というのは、敵が不法に要塞を持っているところであると言えます。私たちがキリストとの深い交わりをしたいと願っているのであれば、そこは私たちの内にある肉が最も行きたくないと欲するところです。そして外にある世においては、もっとも魅力のないと思われるところです。また空中にいる悪魔がもっとも私たちを攻撃してくるところです。けれどもただ一心の思い、キリストを知りたいと願うために果敢にその中に入っていくのが、カレブの姿であります。パウロはこのような形で同じことを話しました。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:7-8

 皆さんが歩んでいる信仰の中でも、アナク人がいると思います。けれども、そこには輝かしい主の勝利の約束があります。ぜひ、その信仰の一歩を踏み出してみてください。必ずその後には、すばらしく、麗しい御霊の愛の流れがあなたの内に流れ出ていくことでしょう。

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