ヨシュア記21章4345節 「一つも違わない言葉」

アウトライン

1A 先祖に誓われたこと
   1B 占領
   2B 安住
   3B 全て良い事
2A 将来と希望の計画
   1B 実現した約束
   2B 栄光の希望
3A 拒む者への警告

本文

 ヨシュア記21章を開いてください。午後は20章から22章までを読んでみたいですが、今朝は214345節を学びたいと思います。

43 こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。44 主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。45 主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。

 私たちは前回、ヨシュアが老齢になり、最後の仕事を始めたところを読みました。イスラエル十二部族に対して割り当ての地を与えることです。祭司がくじを引くことによって、神の定めによってそれぞれに割り当て地が与えられました。そして残りはレビ人です。レビ人には相続地はありませんが、自分たちの住む町と放牧地をあてがわれました。それが21章に書いてあります。これですべてが終わりました。それで全ての要約として、今、読んだ箇所があるのです。

 私たちはここで、主なる神の真実を見ることができます。確かにイスラエルは全力を尽くして戦いましたが、ヨシュア記にあるのは彼らの戦いではなく、主ご自身の戦いでした。それはちょうど、少年ダビデが、巨人であり重装備の武具を身につけたゴリヤテに戦った時のようです。小さなイスラエルの軍隊が、数多くのカナンの王たちにことごとく打ち勝つことができたのです。彼らの剣によらずに、例えば天から雹を降らせて彼らを倒すようなことも神は行なわれました。43節から45節まで読みますと、その主語は「主」となっています。43節は「こうして主は」と始まっています。44節も「主は」から始まっており、45節も「主がイスラエルの家に約束された」となっています。全ては主の真実に拠るものなのです。

 私たちは、太陽がアヤロンの谷の上で留まったしるしを神が与えられた所で、絶大な力を神がご自分の民のために働かせてくださることを学びました。天における太陽の軌道を見ますと、私たちは神の声を聞くことができます。これほど絶妙に、精密に天体の運行を神が守っておられるので、私たちはこの優しい環境の中で生きることができるのです。天体や自然に目を留める時に、私たちは神の生きた声を聞くことができます。

 けれども神の啓示は自然の中だけではありません。実に、気が遠くなるほどの大きな規模で、長い期間をかけて主はご自分が語られたことを守ってくださっているのです。43節から45節に書かれているその短い文章は、実に何百年もかけて神が何度となく約束してくださったことの実現なのです。

 私たちは自分たちが約束したこと、誓ったことに対してどれだけ実行をしているでしょうか?聖書の中でも神の生き証人と言われているユダヤ人の中には、数多くの逸話があります。1940年のこと、ナチスの手から逃れるためにポーランドから東方へ逃げていたユダヤ人難民がいました。彼らに対して当時の外務省の訓令に反して、日本を通過するビザを書き続けた一人の領事がいました。杉原千畝です。リトアニアを併合したソ連が領事館の閉鎖を命じ、彼は外務省によって命じられていたベルリンへ向かうため列車に乗りました。彼は押し寄せてくるユダヤ人に、プラットホームで、さらに列車に乗ってからも窓越しでビザを書き続けました。汽車が出発すると、「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」という叫び声があがりました。

 日本の敗戦後、杉原氏は外務省から依願退職をしました。その後、職を転々としながら細々と生活していました。また自分の息子や近い親戚を失うという悲劇にも遭いました。ところがその28年後、1968年に彼の家に突然、一人の紳士が訪問してきたのです。その紳士は、ボロボロになった一枚の紙を杉原さんに見せながら訊ねました。「これを憶えてますか?杉原さん」 その紙は、28年前に杉原さんがリトアニア・カウナスで発給したビザでした。彼は当時の駐日イスラエル大使館の補佐官で、28年前に「私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ。」と言った本人でした。

 杉原千畝氏が発行した通過ビザによって六千人以上のユダヤ人が生き延びることができましたが、その中に数多く、新しく誕生したイスラエルの中枢を担う人々がいたのです。彼らは杉原さんの消息をつかむために、世界中に情報網を張り巡らせていたのです。その補佐官は続けてこう言いました。「とうとう、あなたを見つけましたよ、杉原さん。私たちはいまでもあなたを忘れることができません。」杉原さんは、イスラエル国では最高の栄誉賞である「正義の異邦人」の中に入れられることになりました。

 いかがですか、28年前に別れ際に約束したことを、あたかも数日前に約束したかのように語っているのです。神から、「あなたがたは、わたしの証人である」と呼ばれたユダヤ人がそのような人々ですから、ましてや神ご自身が約束されるとなると、途方もなく真実なのです。私たちは、このような約束の言葉を持つ神を信じていることを忘れてはいけません。

1A 先祖に誓われたこと
1B 占領
 43節に「こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えられたので、彼らはそれを占領して、そこに住んだ。」とあります。「先祖たちに与えると誓った」その誓いは、なんと約五百年前にさかのぼります。ヨシュアのいるシロから少し南にあるベテルにおいて、主がアブラハムに現れてこう言われました。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。(創世13:14-15

 アブラハムが立っていたベテルから北に見えるのは、ヘルモン山でした。その方面はすでにマナセ半部族の相続地となっています。南を見渡せば、手前にはエルサレムがあり、その向こうはヘブロンなどのユダの山地です。南東にはユダの荒野もあるし、また南西にはシェフェラもあります。すべてユダ部族のものとなりました。東はアラバまたはヨルダン渓谷があります。エリコやギルガルなどの町があり、既にイスラエルのものとなっています。そして西は地中海沿岸地域です。アシュル族、マナセ、エフライム、ダン、そしてユダが相続地をそこに得ました。もちろん、前回学んだようにすべての地域に住み着いておらず、まだ追い出さなければいけないカナン人らはいましたが、彼らが占領しているところはすべて、神が予め約束してくださったところです。約五百年前にアブラハムに語られ、またイサク、ヤコブに語られたこの約束は、今、目で見える形で実現したのです。

2B 安住
 そして44節には、「主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。」とあります。イスラエルはエジプトで奴隷生活を強いられていました。その時に、荒野で羊飼いをしているモーセに現れました。そしてこう言われました。「わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。(出エジプト3:8」エジプトという圧制から彼らを救い出し、そしてカナンの地においてはそれらの住民を追い出して、敵によって悩まされることのない安心して定住の地を与えると約束してくださいました。これは約五十年前に神がモーセに対して約束してくださったことです。

 そしてモーセの死後、ヨシュアに対して主が、「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。(1:3」と約束しておられました。約七年後、事実このとおり、イスラエル十二部族すべてに割り当て地を与えることができ、さらにルベン、ガド、マナセ半部族も安心してヨルダン川の向こう側に自分たちの相続地に帰ることができます。

3B 全て良い事
 そして45節には、「主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわず、みな実現した。」とありますが、彼らは安住するだけでなく、そこでいろいろな恵みが与えられることを神は約束されました。シナイ山のふもとで、例えば主はこう語られています。「わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。・・・あなたがたの神、主に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。(出エジプト23:23-26」病というものがなくなり、主が子をもって祝福することをアブラハムに約束されたように、流産や不妊もありません。こうした祝福がすでに少しずつ見え始めていたのでしょう。

 いかがでしょうか?イスラエルの民は完全ではありませんでした。彼らはしばしば失敗しました。私たちは荒野の旅だけでなく、ヨルダン川を渡ったイスラエルのあり方にも過ちがあるのを見ました。けれども、主はご自分の約束を守られたのです。私たちもしばしば失敗します。主に栄光を帰すことなく、かえって御名を汚してしまったのではないかと自分に悲しくなるときがあります。けれども主は真実な方です。立ち直ろうとする私たちに神は恵みを施してくださいます。なぜか?神は真実な方だからです。神はご自身の真実に反することをすることはできないからです。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。(2テモテ2:13

2A 将来と希望の計画
1B 実現した約束
 神はご自分の言葉に対して、情熱を持っておられます。ご自分がこうすると決められたのであれば、それを必ず成し遂げる意図をもって語られます。バラムがこう預言しました。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか。(民数23:19

 神は、ご自分が造られた初めの人であるアダムとエバに対して、女の子孫から蛇の子孫のかしらを砕く約束をしてくださいました。そして主は、そのことをご自分の独り子によって成し遂げることを前もって証しされました。神はアブラハムに命じられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。(創世22:2」主は、ご自分の子を人類の罪のいけにえとしてささげることを、アブラハムとイサクに対して示されたのです。

 アブラハムがこの試みに耐えた時に、こう約束してくださいました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。(同16-17節)」主は、自分よりも偉い人はいないので、「自分にかけて誓う」と言われました。これで実行しなければ、神の信憑性は一気に崩れます。そして、子孫を増し加えると約束されただけでなく、そこから「敵の門を勝ち取る」子孫が出てくる、という約束、つまりアダムとエバに与えられた約束、キリストの約束を与えられたのです。

 キリスト到来の約束は、神は人間の歴史、ことにイスラエルの歴史の中で事ある毎に与えておられました。ダビデに与え、預言者に与え、その数は数千とあります。苦難を受ける、しもべの姿の預言は三百以上あると言われますが、それから約二千年前、イエスにあってすべて実現したのです。私たちは誰の言葉を信じるでしょうか?いろいろな人がいろいろな約束をします。仏陀が約束しました。モハメットが約束しました。そしてその後の数々の宗教が勝手に自分たちの言葉で預言をし、約束を与えました。しかし独りとして、その誕生から死、そして何と復活に至るまでのすべての事柄を、何百年も前に予め語ってくださった神には、到底匹敵しないのです。

 このような恐るべき正確な預言の成就に、私たちは神の声を聞くのです。この方こそ真実な神であることを感じ取るのです。「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。(ヘブル1:1-2

 さらに、御子イエスにおける預言の成就だけではなく、神はご自分の選びの民ユダヤ人によって数多くの約束を与えられました。その中の大きな一つが、「世界に散らされた後に、神が彼らを再び集める」という預言です。「わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。(エゼキエル34:13」私たちはイスラエルへの聖地旅行を計画していますが、現在イスラエルという国自体があることが奇蹟そのものであり、神が語られたことがその通りであることを表しているのです!

2B 栄光の希望
 このようにして、過去から現在に至るまで私たちは、神の真実を目撃することができています。個々人の生活においてそうなのです。「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。(1コリント1:9」今、皆さんが主イエス・キリストとの交わりをすることができているのは、神の真実によります。そして今まで真実であられたのだから、将来もそうであるという確信を持つことができるのです。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。(ピリピ1:6」必ず主は皆さんの中で始められたことを、途中で放棄されたりせずに完成してくださいます。

 そして神が用意しておられる将来は、とてつもなく栄光に富んだものです。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(1ペテロ1:5-7」パウロは、これを「大いに喜んでいる」と言って、実に患難の中でも喜ぶことのできる重みを持っていることを話しています。

 イエス様は言われました。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35」私たちが知りうる、もっとも永続するのではないかと思われるものが、この地上とそして天体です。これが崩れ落ちた時は、それこそ世の終わりです。しかし、キリスト者にとってはそうではありません。イエス様が語られた言葉は、天地が滅び去っても、決して滅びることがありません。ですから、皆さんの生活で何がこれからあろうが、どんな試練があろうが、神の言葉に拠り頼んでいきさえすれば必ず支えられて生き抜いて行くことができます。

 私たちには感情があります。そして知性もあります。これらは、神が私たちに与えてくださった賜物ですが、これらによってしばしば邪魔されることがあります。朝起きて、気分の良いときは一週間のうちで何日ありますか?私たちはストレスの多い社会に生きていますから、感情にはいつも大きな起伏があります。けれども、もしその感情こそが自分の真実であると思うのであれば、それは間違いです。私たちの感情に関わらず、私たちの知性、思っていることに関わらず、神の真実の愛は変わらないのです。

 ヨハネ第一319節から22節まで読みます。「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。」ここで大事なのは、「たとい自分の心が責められてもです」という言葉です。私たちの感情は私たちを騙します。自分の心を責め立てるのです。けれどもヨハネは、それでも「神の御前に心を安らかにされるのです。」と言っています。そして、「神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。」とあります。私たちのちっぽけな心ではなく、天地が過ぎ去ってもなおのこと留まっている、イエス様の真理の御言葉があり、私たちが自分の心を私たちが知っている以上に神が知っておられることを知るときに、私たちは心が安らかにされます。

 私たちクリスチャンは、不思議な体験をします。「悲しいのに、うれしい。」「苦しいのに、喜んでいる。」「悩んでいるのに、平安だ。」これは、私たちの感情が教えてくるもの以上に、神の真実が私たちの心に迫っているからです。反対に世的な楽しみについては、「楽しいのに、空しい」「笑っているのに、苦しい。」「平穏だが、何か不安だ。」ということになるのです。

3A 拒む者への警告
 そして最後に、警告の言葉を読みたいと思います。それは、神はご自分を受け入れる者、ご自分の命令に聞き従う者に真実を尽くされるだけでなく、拒む者に対しても同じようにご自分の御言葉を実現される、ということです。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ6:7-8」肉の欲望のために自分の時間を費やせば、必ず刈り取りがあり、それは滅びであるということです。今、そのような兆候を見ることができずに「大丈夫だ」と思っていても、「思い違いをしてはいけない。神は侮られるような方ではない。」と言っています。

 また、旧約時代、モーセの律法によって裁かれ、滅ぼされた者がいましたが、新約時代はさらに厳しいのだということをヘブル書の著者がこう話しています。「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私たちが、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。(ヘブル12:25

 神の御言葉は真実です。必ず神はその通りに行なわれます。まだイエス様を自分の心の中で主として受け入れ、この方に従う決心をされておられない方は、ぜひこの機会を捕えて、自分の心を開いてください。そしてすでに開いている人は、イエス様が決してあなたを見捨てないことを知ってください。イエス様は言われました。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ6:37

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME