ヨシュア記24章14-15節 「仕える神を選ぶ」
アウトライン
1A 誠実と真実の奉仕
1B 熱意と実際の格差
2B 過去の遺物
2A 人が選ぶ神
1B 選択という能力
2B 霊的個の自立
本文
ヨシュア記24章を開いてください。ついに今日でヨシュア記を読み終えることになります。午後は23-24章を学びます。今朝は24章14-15節です。
14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」
1A 誠実と真実の奉仕
これはヨシュアが死ぬ前にイスラエルの民に与えた言葉の一部です。23章には、イスラエルのかしらたちを集めて語ったことで、24章には一般のイスラエル人を含む全イスラエルに対してヨシュアが語っています。
彼は、アブラハムがまだ、バビロンのウルにいるときのことから話を始めました。そこで偶像礼拝を行っていたが、神に呼ばれてカナンの地に来たこと。そしてヤコブがエジプトに下って、そこから救い出されたこと。そしてヨルダン川の向こう側のエモリ人の王シホンとオグを神が根絶やしにしてくださったこと。そして、こちらのカナンの地でことごとく主が勝利を与えてくださったことを語りました。このようにイスラエルに対して良くしてくださったヤハウェなる方がおられる一方で、イスラエルの民はアブラハムから数えると、バビロンにある神々、エジプトにある神々、そしてエモリ人やカナン人の神々を経験してきました。ヨシュアは自分がイスラエルを導いていくことができなくなることから、彼らがこれらの偶像礼拝の中に陥ることを危惧して、今、主に心を決めるように厳粛な命令を与えています。
ヨシュアがいる間は、イスラエルの民は主に従っていくかもしれません。これほど、数多くのすばらしい御業を目撃し、主が良くしてくださったことを彼らは見てきたのですから、偶像礼拝を犯すなど考えられません。けれどもヨシュアがいなくなってからは、どうなるでしょうか?自分では主に仕えていると思っていても、実は心の中で決められていないことがあって、ヨシュアによる監督がなくなれば自由になれると思って心を許し、たちまち偶像崇拝に陥るということです。
ある人が経験したことですが、本人は日本人ですが、他の国の大学生と共に韓国語の授業を取っていました。その大学は学生たちがカンニングをしないことを教えるよう、教授たちに達しが来ていました。そこで教授が「カンニングはしてはいけない。」と教えます。学生たちは当然のごとく「それは悪いことです。」ときっちりと答えます。試験の時が来ました。先生が教室から離れた途端、学生たちは互いに解答が何であるかを話し合い始めるのです!カンニングというよりも、協力して点数を取ると言う感じでした。カンニングがいけないということは、理性的に考えればはっきりしていることでした。悪いと知っているのです。けれどもこれまでの慣習で当たり前だとされているものを、心の中から意識的に捨てていなかったので、監督がなくなると一挙に出てきたのです。
1B 熱意と実際の格差
ヨシュアがイスラエルの民に見ていたものは、これでした。これまで通って来たユーフラテス川の向こう側の神々、エジプトの神々、エモリ人の神々を彼らは拝むだろうし、また既に秘かに拝み始めている者たちがいると見ていました。そこで14節、次のように言います。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。」単に主に仕えるのではなく、誠実と真実をもって仕えなさい、ということです。
イスラエルの民はヨシュアが話し終えると、強烈に否定します。ヨシュアは、エモリ人の神々にでも仕えなさい、と言うので、「絶対にそんなことはありません。」と断固として否定します。16節、「私たちが主を捨てて、ほかの神々に仕えるなど、絶対にそんなことはありません。」けれどもヨシュアは、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。・・・もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。(19-20節)」と断言しました。そこでまた断固として否定します。「いいえ。私たちは主に仕えます。(21節)」
ヨシュアは、「その言葉を証拠として残して良いのだな。」と尋ねると、「もちろん、私たちはこのことについて自らの証人となります。」と言ったら、ヨシュアは、ならば、「今、あなたがたの中にある外国の神々を除き去り、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。(23節)」と言いました。彼らは偶像を既に持っていたのです。具体的に、秘かに偶像を自分たちの家に持ち込んでいる人が一部にいたのか、あるいは偶像を拝む方向に傾く様子をヨシュアが察知していたのか、あるいは知識の言葉が与えられて、イスラエルの心の中に偶像がすでにあったのか、いずれかであったのでしょう。主に仕えるという熱意は思っていましたが、それが自分の本当の姿ではなかったのです。誠実でなかったし、真実でなかったのです。
「誠実」という意味は、「終わった」とか「完全になった」という意味合いのある言葉です。つまり、これまでイスラエル人が歩んできた、周囲にいた異邦人の神々に関わる生活は一切終わりにした、今は新しい心で主に仕えるということです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」
そしてイエス様は、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(マルコ10:15)」と言われました。子供には経験や知識が少ないゆえに、権威ある者に服従するしかありません。霊的に新しくされた者も、たとえ自分が大人でも、これまでの自分の経験や知識を使って生きていくことができません。もっぱら主の命令に自分を服従させていくのです。
パウロは同じことを言っています。パウロは、人間的なことにおいては、様々な点で秀でていました。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。(ピリピ3:5-8)」これらすぐれているものが、キリストを知ることのすばらしさのゆえに、塵あくたとみなしているのです。
そして「真実」という単語には、「揺るがされない」という意味があります。どんなことがあっても、どんなに試され、反対され、もみくちゃにされようと、それでも不動の状態でいることをヘブル語では「真実」と呼びます。ある時には主に仕え、ある時には自分の肉に仕えるのではありません。いかなる時も自分は一切、主に明け渡しますという決断を行なうのです。明け渡した魂は、揺らぐことがありません。私たちは主に明け渡すというと、いかに不自由になるのかと思ってしまいます。いいえ、実際はその逆です。明け渡さない魂が、自分の周りの環境や自分の感情や知性など、いろいろなものに左右されて、実に不自由です。明け渡していれば、いつも変わらずに主に仕えることができます。
2B 過去の遺物
そして、ヨシュアは、「あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。」と言いました。
なぜ彼らは、こんなにもヤハウェなる神の真実を目撃したのに、彼らの間に以前の偶像があったのでしょうか?偶像とヤハウェの神の境目は歴然としていますが、しかし一見、類似点もあります。例えば、カナン人が拝んでいたバアルという神は、元々は嵐と恵みの雨の神であると言われています。バアルが農耕生活の成功を決める存在だったのです。聖書にはヤハウェは、嵐を引き起こすし、また恵みの雨も降らせるお方です。けれども、ヤハウェは天と地を創造され、聖なる方であったのに対して、バアルは単なる木や石にしかすぎず、人の欲望を満たす存在であったのです。
つまり「似て非なるもの」なのです。ゆえに、私たちは主に仕えていると言いながら、実は自分自身に仕えていることが起こってしまいます。神の与えられる賜物、良い物が独り歩きして、心の中で他の神々を抱いていることがあります。例えば「愛」を挙げてみましょう。キリスト者の間でさえ、キリストがあがめられるのではなく、「愛」ばかりが歌われることがあります。ある人は、「大事なのは、愛、愛、愛」と連発していました。それで、何でもかんでも受け入れるのが愛にもなってしまうのです。
聖書の語る愛はどこにあるでしょうか?「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」「なだめの供え物」です。キリストが動物のいけにえと同じように、ほふれたという中に愛があるのです。「私たちが神を愛したのではなく」と使徒ヨハネは強調しています。私たちの語る愛の中には何一つ、聖書の定義するところの「愛」など存在していないのです。現に、私たち人間の理解で、なぜあの、あまりにもむごたらしい十字架が、愛になりえるのでしょうか?
そこには神の聖があるのです。神が罪なき者しかいけにえとして受け入れられいという厳しい現実があります。ゆえに、神は罪なき方であるご自分の子のみしか、いけにえとして残っていなかったのです。そして十字架には神の義があるのです。罪に対する厳しい処罰がそこにはあります。神が聖なる方であって、義なる方であるからこそ、私たちが滅ぼされ、罰を受けるはずがキリストを身代わりにされたというところに、愛があります。
そして続けて、「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。(11節)」とあります。ゆえに、私たちの互いの愛は聖い愛です。また正義のともなった愛です。また感情以上に、極めて意志的なものです。そして何よりも、犠牲的な愛です。自分を捨てたところの愛であります。したがって、人間的なものと神の命令を区別しておかないといけないということです。愛であるならば、私たちは「愛している」と言いながら、実は自分自身を愛していることにすり替わっていることにもなりえます。
ですから、私たちは主に仕えていると言いながら、何か自分の必要を満たそうとしているのではないか、と自問する必要があります。キリストご自身を求めなければいけないのに、実際は自分自身を求めているのではないかと自問する必要があります。吟味する必要があります。
2A 人が選ぶ神
1B 選択という能力
そしてヨシュアは言いました。「15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」
ヨシュアは、「神々を取り除き取りなさい」と言いました。けれども、彼らがそれでも主に仕えることが気に入らなければ、ヨシュアがイスラエルの民に主に仕えさせることは強制することはできません。それで、「川の向こうにいた先祖たちが仕えた神々でも、エモリ人の神々でも、仕えようとしているものに選びなさい。」と言っています。
ここに、私たちと神との関係の中で極めて大切な真理があります。それは、私たち人間は選ぶことができる、という事実です。神が人をご自分のかたちに造られた時に、ご自身が自由意志を持っているのと同じように人に自由意志を与えられました。したがって、神はその人が選び取ることに影響力を与えることはできるものの、最終的にはその人の選択を尊ばなければいけません。
多くの人が、「信じることはできないのだ」あるいは「従うことはできないのだ」と言います。いいえ、こう言い換えなければいけません。「私は決して信じようとしない自分が可愛いのだ。」あるいは「絶対に従いたくない、といっている自分を捨てることができないのだ。」そのようにかたくなになっている人の選択を、全能者である神でさえ変えることはできません。ご自身が造られた、人に与えられた自由意志に違反することはできないからです。
ですから、多くの人の次の質問に対して答えることができます。「なぜ神は多くの人々を地獄に送ったりされるのか。神が愛ならば、それを引き止めることができるはずだ。」いいえ、「神が愛であるがゆえに、多くの人が地獄に行くのだ。」なのです。神の愛は強制できません。あくまでも、人がその愛を受け入れる選びを行なわない限り、その人は永遠の命を受け取ることはできないのです。神を拒むのであれば、神の祝福を自ら拒んだのであるから、それとは反対の呪いの中に入りたいと願ったのです。ゆえにその意志を尊重せねばなりません。
人は選択することによって、その生活が固められていきます。神を選択すれば、神が責任をもってその人を変えてくださいます。他の偶像を選択すれば、その欲望がその人を支配するのです。「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。(ローマ1:28)」「不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。(黙示22:11)」
「仕える」という言葉は、とても強い言葉です。これは自分の権利や意志を落として、自分より上の存在に対して労することです。「仕事」と言えば、みなさんの多くが会社に通っておられるのですぐに分かると思います。拘束時間は、自分の時間ではなく会社の時間であります。
同じように、私たちは神の時間にいることを「神に仕える」と言います。神のフルタイム・スタッフなのです。いや、会社のフルタイムは朝9時から夕6時かもしれませんが、神に仕えることは24時間そうなのです。私たちはゆえに、絶えず神に祈り、感謝することを怠らず、いつも喜び、すべてのことをイエス・キリストの名で行なうのです。ペテロ第一1章には、「王である祭司」とあります。どこにいっても、神に仕える祭司なのです。
もしそれを行なっていなければ、ここでヨシュアがイスラエルの民に言っているように、何らかの神々、つまり人の欲望を代表するようなものに仕えていることになります。イエス様は、二人の主人に仕えることはできない、と言われました。またローマ書6章16節には、こうあります。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ6:16)」
では私たちは、どのようにしてその選択をすることができるのでしょうか?それは、徹底したへりくだりです。心を砕くことです。ヤコブの手紙4章を6節から読んでみたいと思います。「しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:6-10)」これはもちろん痛い作業です。けれども、ちょうど手術を受けて悪いところを取り除いていただいたように、私たちは痛いけれども、霊魂の髄にまで浸透する癒しを経験します。神の深い憐れみと恵みを得ることができます。
2B 霊的個の自立
そして最後に言ったヨシュアの言葉が大事です。「私と私の家とは、主に仕える。」ヨシュアは、「私と私の家とは」と言って、自分の行くべき道をはっきりと決めています。他の多くの者が違うところに行こうが私は主に仕える、と決めているのです。
皆さんが今、自分の決断で主に仕えているでしょうか?仮にこんなことが起こるとします。「私、明石清正はロゴス・クリスチャン・フェローシップの牧師をやめさせていただきます。さようなら。」というメールを送ります。続けて、「イエス・キリストという人物は存在しませんでした。これまで教えていたことは間違っていました。」と書いていました。そして自分が頼りにしていたクリスチャンの友人や知人までが、「あのイエス・キリストっていうのはね、実際はいなかったんですよ。」どんどん人が教会から離れていきます。
それでも、あなたはイエス・キリストこそが自分の主であり、神であり、他の大勢の人が反対の方向に進んでも、自分は主に仕えると言えるでしょうか?自分自身で聖書を調べて、確かにイエスこそが救い主で、この方が自分の罪のために死なれ、そして復活によって今の生きておられると信じるでしょうか?それがここにある「私と私の家とは、主に仕える」という意味です。しばしば、他のものから自立している人格を「個の確立」と言いますが、霊的個の確立がなされているかどうか、であります。
主は私たちに良くしてくださいました。午後礼拝で、主がいかにイスラエルに良くしてくださったかを学びますが、イエス・キリストを思っているなら、私たちは他の大勢が反対のことを言っていても、自分はこの方に従うという力を神は与えてくださいます。「私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。(ヘブル3:1)」教会に来てよ、と何度も誘われて、ようやく行くのではなく、教会に来るなと言われても、それでも行きますという思いが与えられます。この方だけがこの罪人の私を救うことがおできになるのですから。この方がずっと真実を尽くしてくださったのですから、だからこの方を裏切ることはできないと思えるのです。