ヨシュア記3−5章 「無くなったエジプトの誹り」
アウトライン
1A ヨルダン渡河 3
1B 先頭に立つ契約の箱 1−6
2B 堰をなすヨルダン川 7−17
2A 記念の石 4
1B 石を運ぶ十二人 1−14
2B 元に戻る水 15−23
3A 渡河後の聖別 5
1B 割礼と過越祭 1−12
2B 主の軍の将 13−15
本文
ヨシュア記3章を開いてください。私たちはついに、ヨルダン川を渡るイスラエルの姿を読むことになります。ついに約束の地に入ります。エジプトの地から出たとき以来、このことがイスラエルにとっての夢でした。けれども何が彼らをこれまで阻んでいたのか?それが「不信仰」であり、「自分」そのものでありました。主ご自身に自分自身を明け渡し、この方のみによって生きていく決断ができなかったので、その入口まで行っておきながら入れなかったのです。
けれども彼らはヨルダン川を渡ります。これによって、昔の自分との決別を行ないます。自分に死ぬのです。イエス様は、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。(マルコ8:35)」と言われました。いのちを失うこと、自分に対して死んだとみなすこと、これがヨルダン川渡河の大きな意義です。
1A ヨルダン渡河 3
1B 先頭に立つ契約の箱 1−6
3:1 ヨシュアは翌朝早く、イスラエル人全部といっしょに、シティムを出発してヨルダン川の川岸まで行き、それを渡る前に、そこに泊まった。3:2 三日たってから、つかさたちは宿営の中を巡り、3:3
民に命じて言った。「あなたがたは、あなたがたの神、主の契約の箱を見、レビ人の祭司たちが、それをかついでいるのを見たなら、あなたがたのいる所を発って、そのうしろを進まなければならない。3:4 あなたがたと箱との間には、約二千キュビトの距離をおかなければならない。それに近づいてはならない。それは、あなたがたの行くべき道を知るためである。あなたがたは、今までこの道を通ったことがないからだ。」
ヨシュアは、二人の偵察からエリコの住民の心理的状態についての報告を受けていました。2章24節、「主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。そればかりか、あの地の住民はみな、私たちのことで震えおののいています。」ヨシュアはこの言葉を聞き、主から命じられたことについての確認を得ました。彼は恐れ慄いていましたが、主が、「強くあれ。雄々しくあれ。」と励まされ、ヨルダン川東岸の二部族半の戦士も、「強く、雄々しくあってください。」と声をかけていました。そして偵察した二人からの報告があります。ヨシュアはこれらの啓示に対して応答しました。
モアブ草原にあるシティムからさらにヨルダン川に近づき、川岸まで来ました。そこに宿営させているうちに、イスラエルのかしらたちを通して指示を出したのです。それが、「契約の箱を目印にして進まなければならない。」ということです。契約の箱は、幕屋の中の至聖所に安置されている、神ご自身の栄光が輝く源です。契約の箱の上に贖いの蓋が載っており、その蓋はケルビムが彫られていました。つまり、天における神の御座そのものを表していました。
私たちはこれから、彼らがヨルダン川を渡っていく様を見ますが、それは通常の地上戦と全く性質を異にします。武器や兵器が前面に出るのではなく、まさに主の前に出ていく礼拝行為そのものです。どこかの地域に攻撃するのであれば、近代戦であれば、空から爆弾を投下し、それから空挺部隊を投入し、そして地上から戦車を投入させて敵陣を粉砕します。ところがイスラエル軍は、契約の箱が前面に出て行くのです。私たちはイスラエルの歩みが、まさに信仰の歩み、神の御霊によって動いていく歩みであることが分かります。パウロが言いました。「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。(2コリント10:4)」私たちには、同じように肉の生活、あるいは物理的な、目に見える生活があります。そこにおいて、御霊の働きは力強く、それらのものを一網打尽にすることのできるような能力を持っているということを忘れてはいけません。
そして、契約の箱が前に進むときに、そこから約二千キュビト、約九百メートル離れなさいと言っています。それは大勢のイスラエルの民が動いていく時にどこからでも契約の箱が見えるようにするためであることが一つにあります。全ての人が主から目を離さないことによって、前進することができます。私たちも、一人一人が主イエスから目を離さないことによって教会として前進することができます。
さらに距離を取っているのは、契約の箱が聖なるものだからです。主の御座の栄光が宿してあるところです。私たちが絶えず、悔い改めとへりくだりと、また血による贖いのある中で近づくことのできるお方です。私たちが信仰生活、そして教会生活を歩んでいく中で、聖なる神を求める必要があります。つまり、聖なる神の御言葉に自分自身を照らし合わせることによって、自分が神の聖さの中に生きているかどうかを確かめていくのです。
3:5 ヨシュアは民に言った。「あなたがたの身をきよめなさい。あす、主が、あなたがたのうちで不思議を行なわれるから。」3:6 ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。」そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った。
ヨシュアは、主によってヨルダン川を渡ることを命じられていました。1章2節に、「あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」とあります。渡ることは分かっていましたが、どのように渡るのかは示されていませんでした。けれども主が大いなること、不思議なことをなされることだけは分かっていました。興味深いことに、ヨシュアは少しずつ神からこれから起こることを示されますが、その全ての事柄を初めから具体的に示されることはありません。彼が信仰によって主から命じられていることを受け取り、そして前進していくなかで主がさらに多くの啓示を与えてくださいます。私たちに対しても主は同じようにされます。具体的な事柄に至るまで神は初めから教えられません。けれども神が命じられたことを信仰によって受け取ると、その中で信仰によって具体的な行動に移すまでの道程が少しずつ示されます。
そして「身をきよめなさい」とヨシュアは民に命じました。シナイの山のふもとにイスラエルが宿営した時もモーセは、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせています(出エジプト19:14)。信仰による歩みにおいて必要なのは聖別の備えです。単に行動に移すのではなく、その行動の備えとして主の前に出て行くことです。私が皆さんに、何か行動に移すときには「祈って」と勧めますね。何をするか、あるいはしないかについて決めて行動に移す前に、主の前に出て行くのです。
2B 堰をなすヨルダン川 7−17
3:7 主はヨシュアに仰せられた。「きょうから、わたしはイスラエル全体の見ている前で、あなたを大いなる者としよう。それは、わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。3:8 あなたは契約の箱をかつぐ祭司たちに命じてこう言え。『ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない。』」
ヨシュア記1章から、主は直接ヨシュアに語っておられます。これまでモーセに対して語っておられたのがヨシュアに直接に語っておられます。そして今ここで、主ははっきりとモーセの働きをヨシュアも同じように行なわれることを教えられました。「わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいる」・・・これは、すばらしことです。前回もお話しましたが、私たちは主に用いられている器を見ると、自分が神から遠くはなれているように感じます。いいえ、同じ主が共におられるのです。・・・
そして実際に、ヨシュアがこれから行なうことは、モーセが行なったことと同じようなものであることが分かります。つまり、かつて神が紅海を分けるためにモーセを用いられたように、ヨルダン川をせき止めるためにヨシュアを用いられるのです。そして、「大いなる者としよう」と言われていますが、紅海が分かれた後に、「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じた。(出エジプト14:31)」とあります。紅海の分れによって、民がモーセが神の預言者であることを知り、彼に付き従っていくようになったのです。同じことを主が行なわれます。
3:9 ヨシュアはイスラエル人に言った。「ここに近づき、あなたがたの神、主のことばを聞きなさい。」3:10 ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、あなたがたの前から、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、エモリ人、エブス人を、必ず追い払われることを、次のことで知らなければならない。3:11 見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。3:12 今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。3:13 全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」
イスラエルの民は、ヨルダン川を越えたところにいるカナン人を追い出す時に、これから起こる出来事がその戦いの基になることを教えています。それは、ヨルダン川の水をせき止められる主が、あなたがたと共におられる、ということです。ヨシュアはここで、「生ける神」と言って神が生きておられることを強調しています。また、「全地の主」と言って地域に限定された主ではないことも強調しています。これはもちろん、カナン人などが持っている神々と対比しているからです。彼らの神々は石や木で作られた死んだものです。そしてそれらの神々は、土地の神、天から雨を降らす神、豊穣の神など、限定された所や働きのために神でありますが、まことの神はすべてを支配される神であります。
私たちは生ける神に出会っています。実際に私たちの生活が具体的に変えられるのです。そして全地の神に仕えています。キリスト教の神がいて、神道の神がいて、イスラム教の神がいて、ではないのです。どんな宗教の人も、どの民族も国も、この方のみに自分の救いを呼び求めるべきお方であります。
3:14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。3:15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・3:16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。3:17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
ここには、この出来事がはっきりと奇蹟であることを詳細に記しています。「刈り入れの間」とありますが、時は後に出てきますが第一月の十日、今の暦に直しますと三月下旬から四月上旬にかけての時期です。その時は大麦の収穫があります。そしてヘルモン山からの雪解け水がガリラヤ湖に入ってきて、そしてヨルダン川に流れるので、この時は水かさが最も増します。ですから水が少なかったから川を渡ることができたのではないことを、ここで強調しています。
そして堰止められたところは、エリコの町のある緯度よりもはるかに北にあるところです。アダムという町は、約25キロ離れています。そして同じような時期に、アダムで地震が起こり、土砂崩れが起こったという遺跡があるそうです。そうやって自然現象で説明しようとしている人もいます。けれども、たとえ地震と土砂崩れによって堰き止められたとしても、足の裏が水の中に入った時にそれが起こったというのは、神が直接介入していることに他なりません。
そして、「箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき」というのが、とても大事です。彼らが足を水の中に入れることをしないうちは、川が堰をなすという動きは一切なかったことになります。これが信仰の歩みです。ヨシュアが少しずつ、具体的なことを主が彼に示されていることをお話ししました。そして信仰をもって前進すると、さらに具体的な指示が与えられると話しました。同じように、行動に移すことによって初めてその奇蹟を見るに預かったのです。
私がこの教会が始めることを思い出すに、今のような形で教会礼拝を行なっていることを全く示されていませんでした。2010年末に帰国しましたが、2011年四月頃に夫婦二人だけでも始めようと思っていました。ただ日本に戻って、神の家族、キリストにある兄弟姉妹の愛し合う共同体を見たいと願っただけでした。信仰によって踏み出すのです。
2A 記念の石 4
1B 石を運ぶ十二人 1−14
4:1 民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに告げて仰せられた。4:2 「民の中から十二人、部族ごとにひとりずつを選び出し、4:3 彼らに命じて言え。『ヨルダン川の真中で、祭司たちの足が堅く立ったその所から十二の石を取り、それを持って来て、あなたがたが今夜泊まる宿営地にそれを据えよ。』」4:4 そこで、ヨシュアはイスラエルの人々の中から、部族ごとにひとりずつ、あらかじめ用意しておいた十二人の者を召し出した。4:5 ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各自、石一つずつを背負って来なさい。4:6 それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、4:7 あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」
ヨシュアは、ヨルダン川を渡る前に十二人のイスラエル人を選び出しておきなさいと命じていました。そこまでは命じられていたのですが、その後に彼らが何を行うかは示されていませんでした。けれども川をすべて渡り終えた時に、主が語られたのです。契約の箱を祭司たちはイスラエルの民が渡り切った後も、その真ん中で立っています。そこにある石を一部族の代表が一つ、ですから合計十二の石を持って来ます。この十二人は、また川の中に戻らなければいけません。
そしてこれから宿営する所に積み上げて、そして記念にするのです。その方法は、子供の好奇心です。過越の祭りの時も同じ手法を神は取らせました。「あなたがたの子どもたちが『この儀式はどういう意味ですか。』と言ったとき、あなたがたはこう答えなさい。『それは主への過越のいけにえだ。主がエジプトを打ったとき、主はエジプトにいたイスラエル人の家を過ぎ越され、私たちの家々を救ってくださったのだ。』(出エジプト12:26-27)」このように、私たち大人は抱かない疑問を子供は聞いてきます。ここのヨルダン川の場合は「なぜ、そこに石が積み上がっているの?」と聞かせるようにするのです。そうして、この偉大な出来事を言い伝えるのです。
4:8 イスラエルの人々は、ヨシュアが命じたとおりにした。主がヨシュアに告げたとおり、イスラエルの子らの部族の数に合うように、ヨルダン川の真中から十二の石を取り、それを宿営地に運び、そこに据えた。4:9 ・・ヨシュアはヨルダン川の真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足の立っていた場所の下にあった十二の石を、立てたのである。それが今日までそこにある。・・
イスラエル人たちは命じられたとおり実行に移しました。
4:10 箱をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアに命じて民に告げさせたことがすべて終わるまで、ヨルダン川の真中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。4:11 民がすべて渡り終わったとき、主の箱が渡った。祭司たちは民の先頭に立ち、4:12 ルベン人と、ガド人と、マナセの半部族は、モーセが彼らに告げたように、イスラエルの人々の先頭を隊を組んで進んだ。4:13 いくさのために武装した約四万人が、エリコの草原で戦うために主の前を進んで行った。4:14 その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れた。
少し時間的に戻っています。9節までは渡り終わって、その後でイスラエルの十二人が石を運んできた話でしたが、11節は渡っている最中から話を始めています。主の箱が川の真ん中にある間に彼らが急いで渡りました。そして主の箱が渡りました。それからは主の箱が先頭に行きます。その後に興味深いことに、ルベン、ガド、マナセ半部族が先頭で戦った、とあります。前回お話ししたように、彼らはヨルダン川の東に相続地を持っているが確かにイスラエルの一部であることを書き残しています。神の一致を保つには、こうした率先した献身が必要です。そして14節で、確かにヨシュアをイスラエルの民は恐れた、というところで終わっています。主が大きな業を行なわれたので、人々は確かに彼を神がお立てになったのだという畏敬の念が生じた、ということです。
2B 元に戻る水 15−23
4:15 主がヨシュアに、4:16 「あかしの箱をかつぐ祭司たちに命じて、ヨルダン川から上がって来させよ。」と仰せられたとき、4:17 ヨシュアは祭司たちに、「ヨルダン川から上がって来なさい。」と命じた。4:18 主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。
足が水に入ったときに川は堰となり、出てきたら水が元に戻りました。確かに、このヨルダン川渡河は、主が彼らの真ん中におられることが示されました。契約の箱は主の臨在を表しています。主がともに川を渡り、彼らの道を開いてくださったのです。
4:19 民は第一の月の十日にヨルダン川から上がって、エリコの東の境にあるギルガルに宿営した。4:20 ヨシュアは、彼らがヨルダン川から取って来たあの十二の石をギルガルに立てて、4:21 イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、4:22 あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』4:23 あなたがたの神、主は、あなたがたが渡ってしまうまで、あなたがたの前からヨルダン川の水をからしてくださった。ちょうど、あなたがたの神、主が葦の海になさったのと同じである。それを、私たちが渡り終わってしまうまで、私たちの前からからしてくださったのである。4:24 それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである。」
彼らはこれらの戦いを、ギルガルを拠点にして行っていました(10:15参照)。地形的に比較的安全なところです。東はヨルダン川ですから、敵が攻めてくることができません。そしてヨシュアの時代の後にも、サムエルの時代に彼はベテルとギルガルとミツパを巡回していました。そして王サウルをそこで任命したのです。サウルもまたそこを陣営の拠点としました。興味深いことに、預言者エリヤはここから天に上っていますし、エリシャもここで預言者学校を持っていました。残念なことに、その時代には偶像礼拝もそこで行なわれていたことを預言者ホセアは記しています。
ですからギルガルに来るたびに、その十二の石を彼らは見ていたわけです。それで言い伝えられていきました。子供がその大きな役割を演じるわけです。「どうして石が積み上がっているの?」と尋ねるので、父がヨルダン川を渡った出来事を話します。こうして彼らの戦いにおいて、主がおられることをその石を記念として思い起こすことができたのです。
石による記念は、聖書の他にもあります。例えば、これからヨシュア記を読んでいけばイスラエルはシェケムで律法の朗読をして、石に律法を書き記します。そこに戻れば、全イスラエルが神の律法によって支配されていることを思い出すことができるのです。私たち教会に命じられているのは、この学びの後に行なう聖餐式です。イエス様は、「わたしを覚えて、これを行ないなさい。(1コリント11:24)」と言われました。主イエス・キリストの裂かれた肉、流された血があるから、今の私たちがいるのです。これを思い出す時間を作るのです。
3A 渡河後の聖別 5
1B 割礼と過越祭 1−12
5:1 ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。5:2 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」5:3 そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。
カナン人とエモリ人たちは、すっかり心がしなえてしまいました。それもそのはずです、何十万人、いや百万人を越えていたかもしれない民が、渡し場から少しずつ長い期間をかけて渡ってくるのではなく、一斉に渡って来たのですから、恐怖で縮み上がっています。ですから、これから彼らがすぐに攻めていっても、勝つことができるかもしれません。
けれども、主はそうはされませんでした。彼らが勝つことが、彼らがここに来た目的ではないのです。主の前に出ていくことそのものが目的であります。私たちも問題の解決への勝利こそを求めていく傾向がありますが、いいえ、問題の解決を通して主ご自身に出会うことが目的であります。それで、主は二つのことを命じられます。一つはいま読んだように割礼を受けることです。もう一つは、過越の祭りを守ることです。先に、ヨルダン川を渡ったのは第一月の十日とありましたが、過越の祭りは十四日にあります。そして彼らは、「ギブアテ・ハアラロテ」で割礼を受けましたが、その地名の意味はそのまま、「包皮の丘」であります。
5:4 ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。5:5 その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。5:6 イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたのであった。5:7 主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。5:8 民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。5:9 すると、主はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。
割礼は、アブラハムに対して神が契約を結ばれる時の印として定められたものです。アブラハムの子孫が神の契約の民になるということで、その子種において男性性器の包皮を切り取ることが印となりました。そしてモーセの律法には、生後八日目にそれを施しなさいと明記されました。けれども、ここで主が「エジプトのそしり」と言われたことが起こりました。カデシュ・バルネアで約束の地にそこから入っていくことを拒んだことです。
その後、新しい世代には割礼を施さなかったのですが、割礼がその目的を達することがなかったからでしょう。割礼というのは、性器の一部の包皮を切り取るということの背後に、心の包皮が取り除かれることを表していたからです。モーセがイスラエルの民に言いました。「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。(申命記10:16)」包皮があると、その部分は感じることができなくなります。それと同じように、神の御霊が語られていることに対して、その神の声に対して鈍くなってしまっているのです。切り取られることが必要です。
心の包皮が切り取られるのには、キリストの流された血が必要です。キリストが私たちの罪のために死なれたことを信じるその心には、私たちにある罪を切り取り、除き取る力を持っています。それで私たちが聖別される、つまり、この世のものから切り離されて、神の所有のものとなることができます。「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。(コロサイ2:11-12)」イスラエルの民も同じように、過越の祭りにおける子羊の血を経験し、紅海を渡ったのですが、その流された血を心に当てはめることがなかったのです。それで約束の地に入ろうとしても、午前礼拝で話したように、自分の能力と知恵によって生きようとし、また自分の必要を神についての事柄よりも優先させようとしていました。
けれども今、イスラエルの民はヨルダン川を渡りました。確かに彼らは、自分たちに与えられた神の聖別を自分のものにする決断をしました。ゆえに割礼が意味を持ちます。これは私たちのうける水のバプテスマと同じです。水のバプテスマは、私たちがキリストと共に死んだことを表します。古い自分がキリストと共に十字架につけられたことを表します。自分の罪に対して、また自分の肉に対しては死んだのです。そして水から上がってくる時に、キリストと共によみがえったことを表しています。もう古い自分ではなく、新しく造られた者として生きるのです。
この決断をすっきりとした人にとって、神の命令は単純です。そのまま従えばいいだけのことです。彼らが行なったのはただ足を踏み入れて、川を渡っただけのことです。残りは主が心配してくださいます。必要も力も知恵も、そして勝利もすべて主が備えてくださいます。「ギルガル」というのは、「転がす」というヘブル語の発音に似ています。自分のそしりや恥がローラーで転がしてもらって、ぺちゃんこにしてもらった、ということを意味します。
そしてもう一つ、割礼を受けたので傷を受けている、という点です。癒えるまで時間がかかります。かつてシェケムでシメオンとレビが、その住民をだまして、彼らに割礼を受けさせて、その傷が癒えていないうちに難なく虐殺しました。戦うことができないのです。今、彼らは敵前でこの儀式を行ったということ自体がすごいことです。敵が攻めてくるかもしれないという恐れや思い煩いを主の前に持っていって、ただ主が命じられたことを行なったのです。私たちは、「どうなるのか?」という不安や心配で、主が命じられていることを拒んでいることはないでしょうか?思い煩いは主にゆだねてください、主が守ってくださいます。
5:10 イスラエル人が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。5:11 過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べた。その日のうちであった。5:12 彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。
これで恐らく、三度目の過越の祭りになるのでしょう。初めはもちろん、エジプトを出る時です。そしてシナイ山から約束の地に向かって荒野の旅をする時にも過越の祭りを守りました。けれどもさまよっている四十年間は、行なわなかったものと思われます。
過越の祭りは、先に申しあげましたように、イスラエルの救いの始まりです。エジプトから出たということが、その民の救いそのものでありました。その時に主は、ご自分が裁きをエジプトに下されるのを、子羊の血を家の鴨居と門柱につけさせることによって、その血を見ることによって裁きを下すのを過ぎこされました。同じように、キリストの血のみが私たちを救います。私たちがどれだけ悔い改めたとか、信心深いであるとか、そういったものではなく、ただキリストの血の注ぎを自分に当てはめているのであれば、救われるのです。
そして驚くべきことは、マナはこの時まで彼らに与えられていたことです。エジプトを出てからというもの、一日も絶やさず、もちろん安息日の前日には二日分を与えて安息日には休むようにさせましたが、一日も絶やさず主は備えていてくださいました。彼らが約束の地の実を食べるまで彼らを滅ぼすことはなさらなかったのです。もしかしたら、皆さんの中で自分は聖霊の実を結ばせていないのではないかと悩んでいる人がいるかもしれません。荒野の旅を自分は歩んでいるのではないかと敗北を感じているかもしれません。けれども主は真実な方です。そのような状態でも、神はご自身の憐れみを注ぐことを忘れてはおられません。「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌3:22)」
そして聖霊の実を結ばせることは、信仰によって行います。イスラエルの民がその地の作物を食べているように、信仰によって踏み出すと、恵みとして、または賜物として聖霊が注がれます。人を愛せないと悩んでいる人も、主に信仰によって従順になっていれば、驚くべき熱い愛情が聖霊によって与えられます。私たちの務めは、信じることです。そして従順になることです。自分の意志を打ち落として、神の意志にゆだねることです。そうすれば、主は恵みの御霊をあふれるばかりに降り注いでくださいます。
2B 主の軍の将 13−15
5:13 さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」5:15 すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
エリコを攻略する前に、驚くべきことが起こりました。ヨシュアは、主がエリコを倒してくださることは確信していましたが、一体どのようにされるのだろうかと思いめぐらしていたと思います。エリコのそびえたつ城壁を眺めていたことでしょう。そこに突然、抜き身の剣を持った方が現れます。この存在に対して、ヨシュアは驚いて「敵か味方か」と警戒していますが、実は、主ご自身でした。ヨシュアは、自分が将軍なのではなく、主ご自身が将軍として先頭に立って戦ってくださることをこれで知りました。ヤコブは、同じ人物とかつて格闘しました。主の使いなのですが、主ご自身である方、イエス・キリストです。使徒ヨハネの前には、主はご自分の口から鋭い剣を出しておられました(黙示1:16)。
興味深いことに、主はヨシュアに、かつてモーセに対して命じられたことと同じことを命じておられます。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアに対して、ご自身を礼拝するように命じられたのです。司令官であるヨシュア自身にとっても、神の前にひれ伏すことがその目的であることがここで分かります。私たちが、これから何をしなければいけないのか?それは、自分の意志を折り曲げて、神の意志の中に委ねることです。これが礼拝です。王の前でひれ伏すのは、王の主権に自分の一切を明け渡すことであります。私たちには、いろいろな戦いが生活の中であります。その度にしつづけていくことは、主の前に自分の意志を投げ捨てて、主に自分を支配していただくことです。