ヨシュア記3章14-17節 「新しい御霊の生活」
アウトライン
1A 肉に属する生活
1B 救われた事実
2B 敵前逃亡
3B 神への不信
1C 自分の必要に従う生活
2C 自分の力に従う生活
2A 御霊に導かれる生活
1B 自己への死
2B 神への信頼
1C 神が必要を満たされる信仰
2C 神の力に頼る生活
3B 従順と前進
本文
ヨシュア記3章を開いてください。午後礼拝では3章から5章までを学んでみたいと思っていますが、今朝は3章14-17節から、「新しい御霊の生活」という説教題でお話していきたいと思います。
14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、・・ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれるのだが・・16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
ヨシュアとイスラエルは、云わば「第二の紅海体験」をしました。エジプトを出ていった後に、分かれた紅海の間をイスラエルは通りましたが、今、堰き止められたヨルダン川の乾いた所を歩いて、その川を渡りました。この渡河の奇蹟が、今後展開する、彼らの勝利の生活の出発点となります。
前回の午後礼拝の学びの中で、ヨシュア記の霊的意義の説明をしました。エジプトはこの世を表します。そこから出てきたことは、この世から神の所有の民となるべく贖い出されたことを意味することを話しました。そして霊的祝福の約束をキリストにある者は与えられていますが、約束の地に入ることはそのことを意味しています。けれども、神に信頼するのに時間がかかり、神への信頼を学ぶために荒野の生活が一時的に与えられている、ということができます。
新約聖書ではこの三つの種類の体験を、三つの種類の人に分けて説明している部分があります。コリント人への手紙第一2章14節から3章3節までを読みます。
14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。15 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。
3:1 さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。3 あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。
ここでは、御霊に属すること、つまり神に関する事柄をどれだけ悟ることができるのか、その理解力について三種類の人がいることを挙げています。一つは、「生まれながらの人」です。もう一つは、「御霊を受けている人(2:15)」あるいは「御霊に属する人」です。そしてさらにもう一つは、「肉に属する人」です。生まれながらの人、御霊を受けている人、肉に属する人の三つです。
「生まれながらの人」というのは、神の御霊による新生体験をまだ持っていない人のことです。つまり、肉体の欲求によって支配されている人です。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」という事以上に自分を支配する力を持っていない人のことです。エジプトの中にいるイスラエルが、そのことをよく表わしています。けれども、「御霊を受けている人」は、イエス・キリストを信じることによって、御霊によって新しく生まれ、今は肉ではなく、御霊によって支配されている人のことです。この人たちは、約束のカナン人の地に入ったイスラエルと似ています。確かに、敵との戦いはあります。けれども実質的な勝利を収めています。そして確かにそこを自分たちの所有の地として、安息を得ることができています。
そして生まれながらの人でもなく、御霊に属している人でもない人が、次に出てくる「肉に属する人」であり、荒野の生活をしていたイスラエル人に似ています。約束が与えられているのに、それを自分たちで楽しむことができていない人たちです。私たちはこれまで、出エジプト記と民数記において、中途半端なままで死んでしまったイスラエルの古い世代から大きな教訓を学ぶことができました。
1A 肉に属する生活
まず、「肉に属する生活」について、イスラエルの荒野の生活から学んでみたいと思います。
1B 救われた事実
まず、この人たちは救われているのか、救われていないのかという質問があると思います。パウロがコリントの人たちを、「あなたがたの間でねたみや争いがある」と言っており、それでは「ただの人と同じではないか」と言っています。クリスチャンの間で争いとねたみがあれば、初めて教会に来た人は、「これでは会社など、世の中で起こっていることと同じではないか。」と思います。このようなものから離れ、救われたのがクリスチャンのはずだからです。
彼らは救われています。パウロは彼らのことを「キリストにある幼子」と話しました。幼子ですが、確かに新しく生まれたのです。イスラエルは確かに、分かれた紅海を渡り、エジプトから出ていきました。イエス・キリストの血によって、この世から救い出されたのです。新しくイエス様を信じた人は、この部分で悩みます。イエス様を信じたはずなのに、信じる前に持っていた肉の欲望が自分から出てくるのを知って、まだ救われていないのではないか、と思います。自分は十分に救われていないのではないか、と思います。けれども、私は、ある牧師さんが言っていた例をよく持ち出します。「私たちは、泥沼から救い出されて、今、乾いた陸地にいます。けれども、体に付いた泥を聖霊によってこれから洗っていただく必要があります。けれども私たちはしばしば、自分の体にある泥を見て、まだ泥沼の中にいると勘違いするのです。もう陸地にいるのです!」
2B 敵前逃亡
けれども、問題はイエス・キリストを自分の主にして生きていません。確かに、自分の罪のために死んでくださった救い主として心に受け入れたかもしれません。けれども、イエス様を主と仰いでいく生活を送っていないので、肉の欲望が自分の心で強くなってそれにいつも負けてしまう生活になってしまっているのです。
一度、イエス様を信じると、自分の目の前に有象無象の問題が現われ出ます。ちょうど冒険ゲームを始めたような感じで、これまで見たことのないような敵が自分の目の前に次々と出現していきます。その時に必要なのは、「キリストを主としてあがめる」ことです。イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ8:34)」と言われました。自分が今、していることがあります。それが実は、神の命令に違反すること、神の心を悲しませることであることを知ります。けれども、それはずっと今まで行ってきて、あまりにも慣れ親しんでいたものです。しかし、イエス様を主とすることによってそれを克服します。イエス様が命じられているのだから、自分のあり方を退けるのです。そしてイエス様の命令を選び取り、握りしめるのです。このことを行なえば、敵は逃げ去ります。敵への勝利は、自分がどれだけイエス様の主権に自分の身を委ねることができるかにかかっています。
けれども私たちは、民数記でイスラエルの民が敵前逃亡した姿を読みました。カデシュ・バルネアまでの荒野の旅は、荒野であったけれども敵の攻撃は、アマレク人との戦いを除けばありませんでした。カナン人の地の中に数多くの巨人がいたのです。確かに乳と蜜の流れる地ですが、そこには同時に敵も多いのです。けれどもイスラエルは逃げました。敵と戦いたくないと思いました。数多くの人が、同じように敵に対峙しないで逃げてしまいます。王なるイエス・キリストの御座にまで来て、自分の心を注ぎ出し、この方に自分の身をゆだねさえすれば良いのですが、その御座にまで近づく前に、「今の生活のままで良い」と現状維持を選んでしまうのです。
3B 神への不信
それはひとえに、「神に対する信頼の欠如」という問題に起因します。問題の渦中にいる人々は、「私には神に従う力がないのだ。だから克服できないのだ。」と思います。いいえ、問題は「克服する力を与える神に信頼していないからだ。」ということができます。主もイスラエルのことを「不信の罪」を犯した、と言われています。
1C 自分の必要に従う生活
荒野の生活における、神がイスラエルに与えられた目的は「神に信頼する」ことです。これまでは、自分の必要に対して自分で満たしていこうとする生活を送ってきました。けれども、荒野においてはそれを満たすことはできません。彼らが不平を鳴らす毎に、神は彼らの必要を満たしてくださいました。喉が渇けば、岩から水を出してくださいました。お腹が空けば、天からマナを降らせてくださいました。そしてそれは、実にヨルダン川を渡る時まで、一日も欠かすことなく降らせてくださいました。(もちろん安息日を除きます。)
このことを通して、主が真実な方であることを知り、少しずつ神に自分の必要を満たしていただくことができるのだと知るようになります。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)」例えば、自分が淋しくなったら、お酒に頼っていたかもしれないけれども、主が満たしてくださることを覚えるようになります。彼氏がいてくれたら、あるいは彼女がいてくれたらと今までは思っていたけれども、イエス様がその拠り所を与えてくださいました。ちょうど、初めて家に連れて来られた子犬が初めは非常に警戒しているところを、新しい飼い主の優しさを見て、次第に体を緩めて、ついになついてくるのと同じように、主に信頼することができるようになるのです。
けれども、自分で自分の必要を満たさなければいけないと思っている部分が生活の中であると、それが足かせとなって前進することができません。大声で泣いた、イスラエル人と混じって来た者たちと同じようになります。「また彼らのうちに混じってきていた者が、激しい欲望にかられ、そのうえ、イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。『ああ、肉が食べたい。エジプトで、ただで魚を食べていたことを思い出す。きゅうりも、すいか、にら、たまねぎ、にんにくも。だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。』(民数11:4-6)」自分の必要が先行して、神の命令に従えないのです。
2C 自分の力に従う生活
そしてもう一つ、自分で自分の必要を満たすだけでなく、自分の力で生きてきました。ですから、問題が生じた時に、自分自身が主に明け渡すことによって、主がその問題を解決してくださるということが分からずに、自分自身がその問題に対処しなさいと神から命じられていると勘違いするのです。「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)」けれども、思い煩いによって事を成し遂げようとします。
カナン人の地に入ろうとした時に、巨人を見ました。彼らは主がここまでエジプトから連れてきて、荒野で死なせるつもりだったのだ、と嘆きます。自分たちの能力以上のノルマを課し、その中で社員が倒れていくような会社と、神に対しても同じように考えるのです。神に対してこのような不平を鳴らします。「私に、こんな厳しい命令を課すのですか?」自分でやりなさいと、神は命じておられません。神は「わたしはともにいる」と約束されました。自分は出ていくのですが、神が自分を通して働いてくださり、神が事を成し遂げてくださるのです。
彼らはこのことを知らなければいけませんでした。エジプトにおいて、主の腕がいかに力強いのかを彼らは目撃しました。十の災いが下り、何よりも紅海が分かれたのを見ました。それを彼らは自分たちで行なったのでしょうか?いいえ、確かにモーセは杖を上げ、イスラエルの民は乾いたところを歩きましたが、その他は神がすべてを行なってくださったのです。それにも関わらず、巨人と戦うときに自分たちで全て行わなければいけないと思うのでしょうか?ひとえに、主が行なってくださることを信じられないという問題があるのです。
2A 御霊に導かれる生活
実はここまでがおさらいでした。否定的な話になりましたが、ついに今、彼らは約束の地に入りました。ヨルダン川を渡りました。これを霊的に当てはめるなら、パウロの次の言葉がよく表現しています。ガラテヤ2章20節を開いてください。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」パウロはここで、二つのことを話しています。一つは、「自分は死んでいる」ということです。「私はキリストと共に十字架につけられました」と言っています。もう一つは、「いま生きているのは、キリストが生きておられるからであり、キリストを信じる信仰によるのだ。」ということです。「私は死んでおり、キリストが生きているのだ」ということです。
1B 自己への死
ヨルダン川を渡るという経験は、「自己への死」をよく表わしています。ヨルダン川を渡れば、残るは前進あるのみです。敵と戦うしかありません。もう後には戻れません。けれども、その敵はほぼ40年前にイスラエルの十二人が見た強大な者どもであり、何も変わっていません。したがって、「自分自身に拠り頼むことはできなくなった。ひたすら神とキリストに拠り頼む生活をしていきます。」という献身を表しています。
パウロは、「キリストとともに十字架につけられました。」と言いました。ローマ6章では、「罪に対して死んでいる」と言いました。罪に支配されている古い自分が十字架にキリストともにつけられたのだとみなします。けれども、私たちの肉はそれを拒みます。「私には、もっとできる部分があるのではないか。」と問いかけます。「私はそこまで悪いことをしていない。」と願います。「自分」を神の前に主張してしまうのです。けれども、「確かにこの罪を犯していました。主よ、赦してください。私を憐れんでください。」とひれ伏します。心から悔い改めます。その時に憐れみの御霊が働いてくださいます。自分の心の内から変えてくださいます。その新しくされた心においては、主が命じられていることは重荷とはなっていません。むしろ、それを行ないたいと願っています。主が心を変えてくださるのです。けれども、変えてくださるためには、私たちが自分で生きることを放棄することが必要です。
2B 神への信頼
1C 神が必要を満たされる信仰
そして、「キリストを信じる信仰」によって生きます。ヨルダン川を渡るその直前まで、イスラエルにはマナが与えられていました。けれども、ヨルダン川を渡れば、そこにはその地で取れた作物がありました。彼らはそれを食べました。その時からマナはなくなりました。
これまでは、自分自身を支える食物が与えられていましたが、これからは豊かなものから神が分け与えてくださったものを受けて生きていきます。霊的には、これまでは自分の必要をかろうじて満たしてくださって、憐れみを示してくださった神様がおられました。これからは、上から臨まれる聖霊が自分を満たしてくださり、自分から溢れ出し、他の人々にも分け与えていくようになります。多くの人がこのことを願うのですが、心の中が「自分で生きていきますよ」という古い思いがあれば、ちょうど詰まってしまった排水管のように、御霊が自分から流れ出ていかないのです。自分に死ぬということと、御霊の実に豊かになることは同時に行なうことです。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。(ガラテヤ5:22-23)」これらの特質が、自分自身を通して出てくることになります。
2C 神の力に頼る生活
エリコの城壁のところまで来たヨシュアは、これからどうやって戦っていくのか悩んでいたと思います。そびえたつ城壁があります。彼らには城壁を打ち壊す術が何一つありません。槍と剣を持っているだけです。けれどもそこに、抜き身の剣を手にもって前方に立っている人がいました。ヨシュアは、「お前は敵か、味方か。」と言って戦う姿勢を見せました。けれども、その人はこう言ったのです。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。(5:14)」自分が将軍なのではなく、主ご自身が将軍として来られたのです。彼はただ、主なる神の指令の中で動くだけです。
自分で戦うのではありません。主が戦ってくださいます。自分の力に頼るのではありません、主の力ある御業を神が行なわれます。次回6章では、その城壁はなんと、イスラエル戦士らのときの声だけで、全体が崩れ落ちて、彼らはそのまま一直線に町の中に入ることができたのです。主が将軍であるのです。
3B 従順と前進
そしてそこで必要なのは、神の命令に従順になることです。そして前進することです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5-6)」神の命令は、自分の思いや気持ちにはそぐわないことが数多くあります。そこで信仰が必要になります。自分には分からないけれども、それでも主よあなたが言われますから行います、という従順が必要です。エリコの町は、一日一周ずつ歩きなさいと神はイスラエルの民に命じられました。なんでそんなことが戦いに必要なのか、さっぱり分からなかったと思います。けれども彼らは従順に従いました。そしてひたすら、主に従い前進していったのです。
私たちは、あまりにも自分の感情や知性を大事にする時代に生きています。聖書的には、「自分を愛する」ことをものすごく強調する時代です。それで自由になったのかと言いますと、いいえ、かえって不幸が訪れました。自由になろうと思ってもなれないのです。自由というのは、実は権威の下に自分の身を置き、その権威に従うことによって得られるものです。そんな自分を愛しなさいという世界の中でも、兵役は異なりますね。上官の命令は絶対です。そこに自分の好みなど存在しません。そのことによって一団となって戦うことができ、強大な敵を打ち倒すことができるのです。
だから信仰について称賛を受けている人々に、百人隊長が多くいました。言葉について権威があることを知っている人々です。それは自分が理解し、把握し、支配する対象ではなく、むしろ自分自身を従わせる、自分が支配を受ける存在であることを知っています。「わたしが部下に行け、と言えば、部下は行く。同じように、あなたが言葉を下されば、私のしもべは癒される。」と信じました。将軍である主ご自身の指令を受ける時に、私たちは最も自由な人となれます。その時に、神の偉大な御業を目撃する証人となる恵みと特権を与えられます。