ヨシュア記6−8章 「信仰の勝利」


アウトライン

1A 主への従順 6
   1B 人の道を超えた道 1−14
      1C 主の再臨 1−7
      2C 忍耐 8−14
   2B 神に与えられる栄誉 15−27
      1C 聖絶のもの 15−21
      2C 救いとあわれみ 22−27
2A 罪の除去 7
   1B 罪の影響 1−15
      1C 自己信頼 1−9
      2C 内側のさばき 10−15
   2B きよめ 16−26
      1C 貪欲 16−21
      2C 肉に対する死 22−26
3A 立ち直り 8
   1B 主の導き 1−29
      1C 異なる方法 1−17
      2C 祈りの手 18−29
   2B みことばの朗読 30−35

本文

 ヨシュア記6章を開いてください。今日は、6章から8章までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「信仰の勝利」です。

 ヨシュア記はモーセ五書の続きになっていることは、ヨシュア記を学んだときから話してきました。モーセを通して主が約束してくださったもの、具体的には「土地」ですが、それを実際に自分たちのものにしていくのが、ヨシュア記のテーマになっています。神から約束が与えられていることと、それを相続することには違いがあります。クリスチャンになるということは、罪に対して死に、キリストに対して生きるようにされた者ですが、それでも御霊ではなく、自分が支配している生活の領域があります。そのギャップは、まだ信仰をもって、神がキリストによって与えてくださった約束を適用させていないからです。パウロはコロサイ人への手紙にて、「あなたがたは、・・・キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらせたのです。(2:12)」と言いましたが、キリストをよみがえらせるほどの力を神が持っておられることを信じるときに、私たちのうちに、私たちではできなくなっていることを、うちにおられる主が行なってくださいます。このような、信仰によって罪に打ち勝っていく姿を、ヨシュア記を通して見ていくことができます。

 今日は、実際に土地の中に入って、二つの町を攻め取る場面を読みます。二つの町とは、エリコとアイです。

1A 主への従順 6
1B 人の道を超えた道 1−14
1C 主の再臨 1−7
 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。

 イスラエルのスパイがラハブの家にいたときに、ラハブはスパイに、エリコの住民が、イスラエルのことで恐怖に満たされていることを話しました。エリコの住民は、イスラエルが近づいているのを知って、その城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がいませんでした。

 主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。」

 渡した」と、時制が完了形になっています。もうすでに主が行なってくださったものを、信仰によって自分のものにしていきます。

 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。

 堅く閉ざされた城壁は、くずされることによって、イスラエルは攻め入ることができます。イスラエル人は、エリコの町を囲っていますから、自分たちがいるその場所からまっすぐに、エリコの町に入っていきます。

 そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」

 イスラエル人は、一日に一周エリコの町を回ります。七日間そうするのですが、七日目だけは七周回ります。そして、回るときは、契約の箱をかつぐ祭司たちがいます。その前に、雄羊の角笛を持った祭司が七人歩きます。さらにその前に、武装した者たちが歩きます。そして神の箱の後ろには、その他のイスラエル人たちがいます。そして、七日目に七周回ったとき、ヨシュアの合図によって、祭司が角笛を長く吹き鳴らします。そして、イスラエルの民が大声をあげると、城壁の壁が崩れます。

 実に変な方法によってエリコを陥落しますね。これはいったい何を意味しているのでしょうか?新約聖書によると、大声とかラッパの音とか出てくるのは、主イエスが再臨されるときです。テサロニケ人への手紙第一4章を思い出してください。パウロは言いました。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身が天から下って来られます。(16節)」ヨシュアが声を出して、ラッパが響きわたり、そして武装した者たちがエリコに攻め入る姿は、まさに、主が戻って来られるときに、御使いたちが行なうものであることが分かります。さらに、黙示録を読むと、七つの封印が出てきます。七つ目の封印が開かれると、次に七つのラッパがあり、七つ目のラッパが吹き鳴らされると、七つの鉢が地上にぶちまけられました。七日目に七週回るイスラエル軍と同じです。

 つまり、ヨシュアが率いるイスラエルがエリコに対して行なうのは、神が終わりの時に悪に対して地上に怒りを下されるときの、一つのパターンであると言えます。

2C 忍耐 8−14
 ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。

 ヨシュアは注意して、ときの声を上げさせないように制しています。そして一日に一度だけ町を回らせるようにしています。

 翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。

 私たちには新約聖書がありますから、一日に一周回ることについて理解が与えられていますが、実際のイスラエル人たちは、むろん何をしているのか分からなかったでしょう。何のためにこんなことをしなければいけないのか?いちいち、一日に一周ずつ回るその意義は何なのか?といろいろ考えていたとしても、おかしくありません。

 けれども、彼らは自分で理解できなくとも、主が言われることだからということで行ないました。私たちは、できれば、自分が行なっていることを自分が理解しながら行ないたいと願います。そして主が行なわれていることが理解できなくて、じれったくなるときがあります。「主よ、あなたは今いったい、何をされているのですか?」と聞きたくなるときがあります。けれども、往々にして主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道と異なる道を持っておられます。ですから、私たちは力を尽くして主に拠り頼み、己の悟りに頼らないことが大切です。

2B 神に与えられる栄誉 15−27
1C 聖絶のもの 15−21
 七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。

 「聖絶」という言葉が出てきました。「聖」という言葉が出てきたら、「神のもの」と言い換えると理解しやすくなります。「神の絶滅」と言えます。主が怒りをもって、エリコの町を破滅させるということです。

 ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。

 戦闘において、勝った者は残された財産を略奪することができます。いわば戦争の勝利品でありますが、エリコの町の場合は、それを行なってはいけません。なぜなら、それは、神のものだからです。神が怒りを発して、エリコの町を破壊し、のろわれたので、それに触れてはならないのです。同じように、神の怒りを招くようなものから、私たちも離れなければいけません。パウロは、不信者と信者が同じくびきをいっしょにつけることはできないと話した後で、「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。(2コリント6:17)」と言いました。私たちがその汚れの中に入ったら、私たち自身もまた神の怒りの対象になってしまいます。ですから、聖絶のものを取ってきてはいけません。

 同じように主は、金や銀、青銅や鉄の器は聖別されたものであると言われています。金銀も略奪品として取ってきたい貴金属でありますが、けれどもそれは主の宮のために使われるものです。彼らが取ってはいけません。したがってエリコの町は、主によってさばかれて、主にささげられる特別な町です。イスラエル人がそこで自分たちが行なったという栄誉をいっさい取らずに、主によって行なわれ、主に至る、主の栄光が現れる場所です。主はゼカリヤを通して、「権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によって」とお語りになりました。人ではなく、神に栄光がもたらされます。

 そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。

 信仰によるときの声です。ヘブル書11章には、「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。(30節)」とあります。

 そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。

 なぜ男だけでなく、女も年よりも、そして家畜まで殺されなければいけないのか、と疑問に思う人がいるでしょう。これは、エリコの町また、約束の地にいる住民たちが、ひどい罪と悪の中にいるため、神のさばきを受けなければいけなかったからです。主はかつてアブラハムに、「そして、四代目の者たちが、ここに戻ってくる。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。(創世15:16)」と言われました。イスラエルは、神のさばきの道具として用いられているのです。

2C 救いとあわれみ 22−27
 ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。

 イスラエルのスパイたちがラハブの家を出るときに、赤いひもがその窓から垂しておくように言いました。そこの部分がラハブの家であり、城壁の中にあるその家は、イスラエルのときの声によって崩れることがなく、また攻め入ってきたイスラエルによっても殺されませんでした。ラハブは遊女です。彼女が救われるべきその素性や行ないはありません。けれども、なぜ、神の怒りから救われたかといいますと、イスラエルのスパイをかくまうところに現われた、彼女の信仰のゆえでした。そして、一本の赤い糸が彼女とその家族を救ったのです。私たちも同じように、キリストが流された血潮によって、信仰をとおして、神の怒りから救われます。

 そしてラハブとその家族は、それ以来、イスラエル人の中で住みました。彼女はイスラエルの神を信じる生涯を、それ以来送るようになりました。そして、驚くべきことに、ラハブの名がマタイ1章のイエス・キリストの系図の中に入っています。遊女であり、また異邦人であった彼女がメシヤの系図の中にはいっているということは、神のかぎりないあわれみと、恵みの現われです。私たちが、「こんなひどい罪を犯したのだったら、決して私は赦されることはないであろう。」と思ったとしても、主の恵みは、その罪よりもさらに上回り、私たちを満たしてくださるのです。

 ヨシュアは、そのとき、誓って言った。「この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」主がヨシュアとともにおられたので、そのうわさは地にあまねく広まった。

 ヨシュアが言ったことばは、見事に成就しました。第一列王記16章34節に、エリコの町を再建させようとするヒエルという者が出てきます。彼が、エリコの町の礎を据えたときに、長子アビラムが死に、門を建てたときに、末の子セクブが死にました。そして16章34節には、「ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。」とあります。

2A 罪の除去 7
 こうしてエリコの町は陥落しました。彼らはその次の町アイを攻め取ろうとします。

1B 罪の影響 1−15
1C 自己信頼 1−9
 しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。

 エリコの町からアイまで、だいたい15キロぐらいでしょうか。たいした距離ではありません。そして、エリコの町は海抜マイナス数十メートルのところにあり、そして内陸にベテルの町がありますが、そこは海抜数十メートルのところにあります。その上昇する途中に、小さな町アイがあります。

 「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」

 1節のところで、イスラエルが聖絶のもののことで罪を犯した、とあり、また主の怒りがイスラエルに対して燃え上がったとあります。その怒りがどのような形で現われているかと言いますと、ここ、イスラエルが、アイが小さな町だからと言って、二、三千人ぐらい上らせばよいだろうという言葉の中にあります。主に伺いを立てることなく、自分たちの判断で、またエリコに勝利したのは自分たちによるものであるかのように考えたのです。

 パウロはコリントの教会に対して、わずかなパン種でも粉全体に広がることを話し、教会の中の悪は全体に広がることを話しました。アカンという一個人が犯した罪でありますが、すでにイスラエルの中に良くない霊的雰囲気をつくってしまい、イスラエル人が信仰によって前進することを忘れさせていたのです。主ご自身が、イスラエル人が自分たちのうちに罪があることを知らせるために、このような霊的油断を許された、とも言えます。

 そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。

 エリコの町は確かにアイの町より大きく、難攻不落の町と言えたでしょう。そして人間的に考えれば、アイの町には兵力をそんなに多く投入しなくても良いでしょう。けれども、主にあっては、それは間違っています。主は、私たちの能力ではなく、私たちの心を見ておられます。イスラエルの民がすべて戦いに出るという「全き心」が求められているのであって、中途半端な心であれば、どんなに力量があっても、必ず負けてしまいます。イエスさまは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛しなさい。」と言われましたが、「尽くす」ことが大事です。前回の新約聖書の学びでも、ペテロの第二の手紙に、「あらゆる努力をして」という言葉が使われていました。霊的に立ち止まっている状態は、非常に危険です。

 ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。

 ヨシュアが信仰を失っています。彼は臆病になってしまいました。これまで主が数多くの不思議をしるしを与えてくださり、ヨルダン川の水をせきとめたり、またエリコを陥落させたりしてくださったのに、ただ一回、負けてしまったことによって、ヨルダン川を渡ることさえ後悔しています。主が10回良いことをされても、一回何か悪いようなことが起こると、私たちはもうこれでだめだと思ってしまいます。ヨシュアがこの不信仰に陥ってしまいました。

2C 内側のさばき 10−15
 主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。

 聖絶のものを取ったのは、盗みと偽りの罪でした。

 だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。

 主は、罪に対して妥協されません。私たちが罪を犯していて、それで主がともにおられて働かれるということはなさいません。主が何かを行なわれる前に、まず罪の問題が処理されなければいけません。

 立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。「イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。あしたの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。主がくじで取り分ける部族は、氏族ごとに進みいで、主が取り分ける氏族は、家族ごとに進みいで、主が取り分ける家族は、男ひとりひとり進み出なければならない。その聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならない。彼が主の契約を破り、イスラエルの中で恥辱になることをしたからである。」

 イスラエルの祭司は、ウミムとトンミムという二つの石を持っていました。おそらく白と黒の石ではなかったかと言われていますが、白は受け入れられる意味であり、黒は拒絶される意味です。この方法で、黒になった部族、氏族、家族、そして個人へと絞られます。

2B きよめ 16−26
1C 貪欲 16−21
 そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた。そこで、ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。」

 アカンはもう死刑になる身であるのに、ヨシュアは「わが子よ」と言って、優しく語りかけています。

 アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。

 罪を犯すときの経路がここに書かれています。初めに「見て」、次に「欲しくなり」、そして「取り」ます。私たちが罪を犯すときに、まず「見ること」を避けなければいけません。見えることは仕方がありませんが、好奇心をもってじっくり見るところから問題が始まります。そして「欲しくなる」つまり貪ることです。主は、「ほしがってはならない」と十戒の中で言われました。

2C 肉に対する死 22−26
 そこで、ヨシュアが使いたちを遣わした。彼らは天幕に走って行った。そして、見よ、それらが彼の天幕に隠してあって、銀はその下にあった。彼らは、それらを天幕の中から取り出して、ヨシュアと全イスラエル人のところに持って来た。彼らは、それらを主の前に置いた。ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。そこでヨシュアは言った。「なぜあなたは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけた。こうして彼らは、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた。そういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。

 アカンは、家族もみな、その財産もみな火で焼かれてしまいました。恐ろしいことかもしれませんが、霊的には、私たちが自分の肉の問題を中途半端にしてはいけない、ということです。心の中で弄んではいけません。パウロは、コロサイ書で、「地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。(3:5)」と言いました。

3A 立ち直り 8
 ヨシュアは、ひれ伏しているときに、「立て」と二度も主に命じられました。そして、罪をイスラエルから取り除いた後に、立ち上がることができました。

1B 主の導き 1−29
1C 異なる方法 1−17
 主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」

 ヨシュアは再び主から、「恐れてはならない。おののいてはならない。」という励ましの言葉を聞くことができました。信仰が復活しました。そして、主は、「戦う民全部を連れてアイを攻め上れ」と命じられています。人間的な計算をするのではあく、まったき心で戦いに臨みます。

 けれども、エリコの時とは二つの面で異なります。一つは、分捕りものを戦利品としてよいという言葉です。主は、ご自分が良いと思われるときに、私たちに恵んでくださいます。欲しがって、取るのではなく、主が与えてくださるのを待つのです。もう一つは、「伏兵」を置くことです。エリコの時は町の周りを回ることでしたが、戦術が変わりました。このように、私たちは神が行なわれることを、一定の法則の中に当てはめることはできません。主が言われることを行なう必要があり、御霊に導かれて歩まねばいけないのです。

 そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。その町を取ったら、その町に火をかけなければならない。主の言いつけどおりに行なわなければならない。見よ。私はあなたがたに命じた。」こうして、ヨシュアは彼らを派遣した。彼らは待ち伏せの場所へ行き、アイの西方、ベテルとアイの間にとどまった。ヨシュアはその夜、民の中で夜を過ごした。

 ヨシュアたちは今、アイの町の東にいます。けれども精鋭兵士3万人を選んで、反対の西に行かせました。ヨシュアは前回と同じように、アイの町を北のほうから攻めますが、それはおとりです。アイから人が出てきたら、ヨシュアたちは逃げるふりをします。そしてアイの町に戦う人たちがいなくなったところで、西側で待機していたイスラエル人たちが、アイの町に入って占領します。細かい指図をヨシュアは与えていますが、主ご自身が「伏兵を置け」と命じられているから、指図しています。自分たちで何となく計画を立てて、それをやってみようではなく、御霊に導かれながら行なっているのです。

 ヨシュアは翌朝早く民を召集し、イスラエルの長老たちといっしょに、民の先頭に立って、アイに上って行った。彼とともにいた戦う民はみな、上って行って、町の前に近づき、アイの北側に陣を敷いた。彼とアイとの間には、一つの谷があった。彼が約五千人を取り、町の西側、ベテルとアイの間に伏兵として配置してから、民は町の北に全陣営を置き、後陣を町の西に置いた。ヨシュアは、その夜、谷の中で夜を過ごした。

 ここでの五千人は、ペテルの町からもしかしたら攻められるようなことがないように配置したのかもしれません。

 アイの王が気づくとすぐ、町の人々は、急いで、朝早くイスラエルを迎えて戦うために、出て来た。王とその民全部はアラバの前の定められた所に出て来た。しかし王は、町のうしろに、伏兵がいることを知らなかった。ヨシュアと全イスラエルは、彼らに打たれて、荒野への道を逃げた。アイにいた民はみな、彼らのあとを追えと叫び、ヨシュアのあとを追って、町からおびき出された。イスラエルのあとを追って出なかった者は、アイとベテルにひとりもないまでになった。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルのあとを追った。

 作戦どおりにアイの者たちが、町から出て行きました。

2C 祈りの手 18−29
 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。

 主がまた別の命令を出されました。投げ槍をアイのほうに差し伸べせという命令です。

 伏兵はすぐにその場所から立ち上がり、彼の手が伸びたとき、すぐに走って町にはいり、それを攻め取り、急いで町に火をつけた。アイの人々がうしろを振り返ったとき、彼らは気づいた。見よ、町の煙が天に立ち上っていた。彼らには、こちらへも、あちらへも逃げる手だてがなかった。荒野へ逃げていた民は、追って来た者たちのほうに向き直った。ヨシュアと全イスラエルは、伏兵が町を攻め取り、町の煙が立ち上るのを見て、引き返して来て、アイの者どもを打った。ある者は町から出て来て、彼らに立ち向かったが、両方の側から、イスラエルのはさみ打ちに会った。彼らはこの者どもを打ち、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにした。しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れて来た。

 アイの人々ははさみうちにあって死にました。

 イスラエルが、彼らを追って来たアイの住民をことごとく荒野の戦場で殺し、剣の刃で彼らをひとりも残さず倒して後、イスラエルの全員はアイに引き返し、その町を剣の刃で打った。その日、打ち倒された男や女は合わせて一万二千人で、アイのすべての人々であった。ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。

 イスラエルがアマレク人と戦ったとき、モーセが杖をずっとあげていましたが、同じように投げ槍を上げていました。同じように霊的な戦いでは、絶え間なく祈ることが求められています。

 ただし、イスラエルは、その町の家畜と分捕り物を、主がヨシュアに命じたことばのとおり、自分たちの戦利品として取った。

 戦利品を取るのも、「主が命じられたとおり」にしました。自分が良いと思ったのではなく、主に言われたから行ないました。

 こうして、ヨシュアはアイを焼いて、永久に荒れ果てた丘とした。今日もそのままである。ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。今日もそのままである。

 生けどりにした王は、見せしめのために木にかけてさらし者にしました。

2B みことばの朗読 30−35
 それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。

 覚えているでしょうか、申命記にて、モーセがイスラエルの民に、エバル山で石を用意して、その石に律法を書き記し、そしてそこで石の祭壇でいけにえをささげるように命じていました。エバル山は、イスラエルの地のちょうど真中にあります。ベテルの町をさらに西に行ったところが、シェケムであり、そこでアブラハムがはじめに祭壇をきずき、イサクが井戸を掘りました。モーセがヨルダン川東岸で命じたとおりに、ヨシュアは律法の朗読と、エバル山とゲルジム山における祝福とのろいの宣言を行ないます。

 その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。

 ゲルジム山が西に、エバル山が東にあります。その二つの山の間にイスラエル人全部が集まり、その真中に主の契約の箱があります。

 それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。

 ヨシュアは申命記をすべて、イスラエル人と在留異国人のすべてに語りました。彼らを支配するのは、この神のみことばであり、神のみことばによって彼らは強くなります。私たちも同じです。神のみことばによって強められ、信仰によって神の約束を自分のものにしていきます。

 こうして二つの町の攻略を読みました。エリコの町とアイの町ですが、アイの町のほうが小さいのに失敗してしまったのは興味深いです。これは、私たちが肉の力ではなく、主に拠り頼む信仰が大切であることを教えてくれます。そして罪は、勝利を妨げる最大の要因です。内側から罪を取り除き、きよめていただき、そして自分で何かを行なうのではなく、神が命じられるとおりに、御霊に導かれながら歩みます。


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