ヨシュア記6−8章 「御霊の戦い」
アウトライン
1A 信仰の従順 6
1B 神の戦法 1−11
2B 勝利の声 12−21
3B ラハブの救い 22−27
2A 手を出す罪 7
1B 自力による敗北 1−9
2B 民の清め 10−26
3A 御霊の働きの再開 8
1B 主の勝利 1−29
1C 用意周到な準備 1−17
2C 投げ槍の手 18−29
2B 律法の朗読 30−35
本文
ヨシュア記6章を開いてください。イスラエルはついに、ヨルダン川を渡りエリコの町を攻めます。午前礼拝で学んだように、彼らは霊的に用意周到な準備を終えました。あとは実行あるのみです。
エリコの町を倒してからは、彼らは約束の地の真ん中を南北に走っている山地を制覇しなければなりません。エリコから上りアイの町に行き、そこを倒すことによって、南にいる王たちと北にいる王たちの連合を分断することができます。
1A 信仰の従順 6
1B 神の戦法 1−11
6:1 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。
イスラエル人がヨルダン川を渡った時に、彼らの心はしなえ、もはや勇気がなくなってしまった、と5章1節にあります。彼らのできることは、この城を堅く守ることです。
6:2 主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。
主は、エリコの住民の必死の努力を無にするように、断定的に彼らが倒れることをヨシュアに教えられました。ここの「渡した」というのは、預言的な完了形で書かれています。あまりにも確かなので、既に完了したことのように語っておられるのです。キリスト者がこの完了した神の業にどこまで立つことができるかが、勝利の決め手です。「だれでもキリストにある者は、新しく造られた者です。」この新しく造られた者になったことを、どこまで保持できるかが勝負を決定します。
6:3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。6:4 七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。6:5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」
これが主の軍の将がヨシュアに命じられた戦略です。人間的に見れば、これは滑稽であるばかりでなく、危険でもあります。今、エリコ軍が城壁の上から矢を放ってきたらどうするのでしょうか?また彼らが入口から一斉に出てきたら、イスラエル軍は元もこうもありません。しかし、ここで主の軍の将の司令を忠実に遂行しなければいけません。午前中に学んだように、「自分では理解できなくても、主が言われたということだけで従っていく。」ことが勝利の秘訣になります。
ここで特徴的なのは数字の「七」です。七日に渡って町を回ります。しかも七日目は七週回ります。それだけではなく、契約の箱の前に七人の祭司がそれぞれ角笛を持ち、それを吹き鳴らします。そうしたら、彼らが最も拠り頼んでいた城壁が崩れ落ちるというのです。聖書には「七」は完全数として登場します。あるいは「神の数字」と呼んだらよいでしょう。神のご性質と働きを表す数字です。
そして、司令官が主の軍の将であることを思い出してください。そして契約の箱が神の栄光の臨在を表していることを思い出してください。主の栄光の臨在があり、その到来において角笛が吹き鳴らされているのです。これは天の実体を表しています。主が来られます。そして主は、地上に不義に対して裁きを行なわれます。その時に主に仕えている天使は、ラッパを持ち、それを吹き鳴らすことによって神の裁きを執行します。黙示録には、小羊なるキリストが七つの封印を解きます。それをすべて解かれた後、七つのラッパを天使が吹き鳴らす場面が出てきます。そして七つのラッパの後に、七人の天使がさらに七つの鉢を地上にぶちまけます。
繰り返しますが、自分自身は理解できなくても主の命令を守ることは非常に大事です。なぜなら、その従順において神の栄光をこのように表しているからです。自分の愛する独り子イサクを捧げなさいと主が命じられたアブラハムを思い出してください。彼は、到底理解できませんでした。けれども従いました。それは、父なる神ご自身が独り子キリストを罪の供え物として捧げることを表していたのです。同じように、彼らの行動も神の栄光を表していました。
6:6 そこで、ヌンの子ヨシュアは祭司たちを呼び寄せ、彼らに言った。「契約の箱をかつぎなさい。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行かなければならない。」6:7 ついで、彼は民に言った。「進んで行き、あの町のまわりを回りなさい。武装した者たちは、主の箱の前を進みなさい。」6:8 ヨシュアが民に言ったとき、七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って主の前を進み、角笛を吹き鳴らした。主の契約の箱は、そのうしろを進んだ。6:9 武装した者たちは、角笛を吹き鳴らす祭司たちの先を行き、しんがりは箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら、角笛を吹き鳴らした。6:10 ヨシュアは民に命じて言った。「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」6:11 こうして、彼は主の箱を、一度だけ町のまわりを回らせた。彼らは宿営に帰り、宿営の中で夜を過ごした。
ヨシュアは、契約の箱をかつぐ祭司たち、そしてその前で角笛を吹き鳴らす祭司たちの前に武装する者たちを置きました。さらに契約の箱の後に武装した者たちを、列をなして進ませました。エリコの町の大きさを考えると一周するのに30分ほどで済むそうです。
ヨシュアは、「私が叫ばせるまで、決してときの声を上げてはならない。」と強く命じています。これはヨシュアにとって忍耐が必要ですが、イスラエル人にも忍耐が必要だったでしょう。エリコ軍がいつ何時、自分たちに矢を放ってくるかもしれません。ちょうど、迫ってくる敵に対して兵士が上官の命令を無視して発砲してしまうように、ときの声を上げて攻めようという誘惑があったに違いありません。けれども、自分自身を御霊に従わせました。
2B 勝利の声 12−21
6:12 翌朝、ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱をかついだ。6:13 七人の祭司たちが七つの雄羊の角笛を持って、主の箱の前を行き、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは彼らの先頭に立って行き、しんがりは主の箱のうしろを進んだ。彼らは進みながら角笛を吹き鳴らした。6:14 彼らはその次の日にも、町を一度回って宿営に帰り、六日、そのようにした。
一日、一周のみです。一日、一日、彼らの信仰は試されました。おそらくヨシュアからの伝令は毎朝、彼らに伝えられていたと思われます。私たちの信仰の歩みも同じです。昨日、主にあって勝利したからといってそれが次の日の勝利の保証とならないのです。「あすのことを誇るな。一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。(箴言27:1)」
6:15 七日目になると、朝早く夜が明けかかるころ、彼らは同じしかたで町を七度回った。この日だけは七度町を回った。6:16 その七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。6:17 この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。ただし遊女ラハブと、その家に共にいる者たちは、すべて生かしておかなければならない。あの女は私たちの送った使者たちをかくまってくれたからだ。6:18 ただ、あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。6:19 ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない。」
七日目に七週回った後に、ついにヨシュアの「ときの声を上げよ」という命令が出ました。その時に、他にも命令を出しています。一つは、「町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい」というものです。それは主が裁き、滅ぼされる対象です。それで主だけのものになっています。金銀や青銅、鉄の器は主への礼拝の時に用いられ、やはり主にのみ属するものになっています。これらを持ち出すことは、自分自身が主の裁きの対象になってしまいます。
私たちキリスト者に対しても、同じように強い警告が発せられている部分があります。エペソ書5章5-6節です。「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。」
もう一つの命令は、ラハブとその家に対しては全て生かしておかなければいけない、ということです。二人の偵察を彼女はかくまいました。
6:20 そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。6:21 彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。
20節の「くずれ落ちた」は、「その場に落ちた」というのが直訳です。したがって、イスラエル軍は自分の持ち場からそのまま城内に入ることができました。そして、そこに生きているものは、容赦はありません。男女はもちろんのこと、家畜の命までも取らなければいけませんでした。
この場面だけを読めば、私たちは、神はあまりにもむごすぎると感じます。けれども私たちは、ここに至るまでのカナン人の悪を見てきました。幼児を神々に捧げるために、火の中を通すようなことを行なっていました。そして神がカナン人やエモリ人に対して、何百年もかけて忍耐されていたという事実があります。そして何よりも神には、人や生き物に命を与える権利も、その命を取る権利もあります。イスラエルはその裁きの器として用いられ、かつ、イスラエルがこれらの忌み嫌うべき行ないに触れることのないよう、神は聖絶を命じられたのです。
そして何よりも、聖書は信仰の書であることを思い出さなければいけません。この出来事を利用して、人間がある人々に虐殺を命じるということは絶対にあってはなりません。そうではなく、神が与えておられる罪の赦しの備えを拒んだ者たちに対して、神が確かに裁きを行なわれるということを、エリコの町の聖絶によって表しておられるのです。ヘブル10章29-31節を読みます。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。」
3B ラハブの救い 22−27
6:22 ヨシュアはこの地を偵察したふたりの者に言った。「あなたがたがあの遊女に誓ったとおり、あの女の家に行って、その女とその女に属するすべての者を連れ出しなさい。」6:23 斥候になったその若者たちは、行って、ラハブとその父、母、兄弟、そのほか彼女に属するすべての者を連れ出し、また、彼女の親族をみな連れ出して、イスラエルの宿営の外にとどめておいた。6:24 彼らは町とその中のすべてのものを火で焼いた。ただ銀、金、および青銅の器、鉄の器は、主の宮の宝物倉に納めた。6:25 しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそうである。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。
確かにヨシュアは斥候がラハブに告げたように、彼女に真実を尽くしました。全ての人がたった一人も生かさなかったのに、彼女とその家の者は生かしたのです。そして何よりも、主ご自身が彼女とその家に真実を尽くされました。彼女の家は城壁の中にあったのです。そこは崩れ落ちることはありませんでした。
彼らは初め、ギルガルにあるイスラエルの宿営の外に留めておきました。宿営に入るには、レビ記にあったような清めの儀式を経なければならなかったのでしょう。けれども、その後はイスラエルの中に住んでいます。「ラハブはイスラエルの中に住んだ」とラハブが強調されているのは、他の家族はそこに住まわなかったのでしょうか?定かではありませんが、はっきりしているのは、ラハブがイスラエルの神を信じる者、この神に属する者とされたことです。後にモアブ人ルツも同じように、自分の民の神々を捨てて、イスラエルの神を自分の神としました。そしてラハブから生まれた子によって、その子孫にイエス・キリストがおられるということは驚くべきことです。このことからして、神の民に入ることのできる方法は、私たちの素性や過去の行状などとは関わりなく、もっぱら信仰によるのであることが分かります。
6:26 ヨシュアは、そのとき、誓って言った。「この町エリコの再建を企てる者は、主の前にのろわれよ。その礎を据える者は長子を失い、その門を建てる者は末の子を失う。」
この宣言は事実となりました。はるか五百年後に、極悪王アハブがこの町の再建を試みました。列王記第一16章34節にこう書いてあります。「彼(アハブ)の時代に、ベテル人ヒエルがエリコを再建した。彼は、その礎を据えるとき、長子アビラムを失い、門を建てるとき、末の子セグブを失った。ヌンの子ヨシュアを通して語られた主のことばのとおりであった。(1列王16:34)」ヨシュアによって発せられた神の預言の言葉は、五百年という年月が経ってもその通りになるのです。
6:27 主がヨシュアとともにおられたので、そのうわさは地にあまねく広まった。
主がヨシュアに約束してくださったとおりになりました。「わたしがモーセとともにいたように、あなたとともにいることを、彼らが知るためである。(3:7)」ヨルダン川を渡った時に、イスラエルの民がこのことを知りました。そしてエリコの町が陥落することにより、イスラエルの民だけでなくその地全体に、主がヨシュアとともにおられることが知れ渡ったのです。
2A 手を出す罪 7
1B 自力による敗北 1−9
7:1 しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。
「しかし」という言葉から始まります。勝利の直後に大きな罪を犯します。私たちが御霊によって生きていく中で、一回性の勝利ではなく、持続的な勝利が必要であることを午前に学びました。そしてここで大事なのは主語です、「イスラエルの子らは」となっています。アカンという個人が犯した罪であるのに神は、イスラエルの子らが犯した罪であるとみなしています。なぜか?神は、イスラエルを一つの体とみなしておられるからです。一部に欠陥があれば、その全体に欠陥があるとみなしておられます。
同じように教会が「キリストの体」と呼ばれるように、一つの有機体であることを決して忘れないでください。「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(1コリント12:26-27)」あなたは、教会に参加しているのではなく、すでに教会なのです。あなたがいないことによって、教会は欠けたものとなっており、その分苦しみます。キリストにあって、一人一人が必要としているところです。
したがって個人の罪というのは全体に影響を与えます。コリントの教会の中で近親相姦の罪を犯している男がいました。それを教会はそのまま受け入れていました。そこでパウロがこう言います。「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(1コリント5:6)」イースト菌でも、ヨーグルト菌でも、納豆菌でも、ごくわずかでも全体に広げることができます。罪も同じなのです。
「主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。」とありますが、どのようにその怒りが燃え上がったのか?荒野の旅の時には、主は宿営の端に火を付けられましたが、ここではどうされるのでしょうか?次をご覧ください。
7:2 ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。7:3 彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」
エリコから上り坂によってアイに行きました。エリコよりも小さい町ですが、それでも男女合わせて一万二千人いました。ヨシュアはエリコの時と同じように偵察に行かせました。すると彼らはこう答えたのです。「民を全部行かせないでください。」主の怒りは、彼らが自分たちの力に拠り頼ませるままにされたところに表れています。エリコの陥落は、専ら主によってのみ行なわれたことが証明されました。アイの陥落も専ら主に拠ってのみ行なわれなければいけません。午前学んだように、イエス・キリストから離れては、私たちは何もすることができないのです。癌患者のためには私たちは必死になっていのっても、風邪を引いた人には「薬を飲んでおけば良いではないか。」と祈り以外のものに頼ろうとします。
アカンの罪は、事の大小の差こそあれイスラエルの民全体が共有していたのです。それは、エリコによって表された神の栄光を自分のものとしたという過ちです。聖絶のものによって、神はご自分の義と聖を表されたのですが、それを自分のものにしようとアカンはしました。イスラエルの民は、エリコを倒したことがあたかも自分たちの手柄であるかのようにみなしました。イエス様は、「目を覚ましなさい」と命じられましたが、目を覚まさずに霊的に眠ってしまっていたのです。これが神の怒りの現れです。私たちは神の怒りと言うと、“お尻ぺんぺん”のようなイメージを受けますが、それは幼い時のことであって、お仕置きをされずに、自分自身で行なったことを刈り取るようにされることが、もっと辛いことです。けれども、主はイスラエルをご自分の御手の下にへりくだらせるために、そのままにされたのでした。
7:4 そこで、民のうち、およそ三千人がそこに上ったが、彼らはアイの人々の前から逃げた。7:5 アイの人々は、彼らの中の約三十六人を打ち殺し、彼らを門の前からシェバリムまで追って、下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった。
約三十六人の尊い命が奪い取られました。彼らはエリコよりアイのほうが小さいと言いましたが、それでも男女一万二千人、男だけなら六千人ぐらいはいたかもしれません。三千人では足りないです。人間的な力に彼らが頼ろうとしましたから、神も彼らが人間的な力に頼るままにされました。そうすれば当然敗北するのです。私たちは人数が多かろうが少なかろうが、常にまったき心で主の前にへりくだり、従わなければいけません。
7:6 ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。7:7 ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。7:8 ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。7:9 カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」
ヨシュアは、自分の恐れを神にぶちまけました。主が、「恐れてはならない。おののいてはならない。(1:9)」とヨシュアに言われましたが、これがヨシュアの恐れでした。カデシュ・バルネアにいた時のイスラエルの民と変わりません。自分たちを滅ぼすために、主がここまで連れて来たのだ、という非難です。そして、私が先週お話ししましたように、ヨルダン川を渡ったらカデシュ・バルネアの時のように後ずさりはもうできないのです。だから、もう滅びるしかないという絶望にヨシュアは陥ってしまったのです。そして、「あなたは、何をなさろうとするのですか。」と非難しています。私たちも、このような非難をしないでしょうか、何か悪いことが起こると、「あなたはなぜ、こんなことを許されるのですか!」という非難です。
2B 民の清め 10−26
7:10 主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。
主は冷たくあしらっておられます。神の箱の前で着物を裂いて祈っているヨシュアに対して、「立て。何をひれ伏しているのか?」と対応しておられます。けれども、ここで知らなければいけないのは、私たちがどんなに信心深く祈ったとしても、それが神の御心に損なっているままで祈っているのであれば、見当違いの祈りになっているということです。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。(詩篇66:18)」その時は、祈りによってごまかすのではなく、聖書の中で明らかに罪とされているものから離れるという行動に移るべきです。
7:11 イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。7:12 だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。
「取って、盗み、偽る」かなり強い言葉です。けれども事実そうなのです。主の栄光が現れているそのエリコの残骸から何かを取ることは、盗みに他ならず、そして真実ではない行ない、つまり偽りに他なりません。
そして、もっとも恐ろしい言葉は、「わたしはもはやあなたがたとともにはいない」であります。モーセも、金の子牛の事件の後に主が、ご自身はいかないと言われた時に、必死になって抵抗し、執り成しの祈りをささげました。主のご臨在がなくなるということが、いかに恐ろしいことかを彼はよく知っていたのです。エペソにある教会も恐ろしいですね。彼らは使徒の教えを守ることにおいてはしっかりとしていましたが、初めの愛から離れていました。そしてイエス様は、「あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。(黙示2:5)」と言われました。その燭台は主ご自身がおられることを表していますから、主の臨在のない教会になってしまいます。
7:13 立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。
これは、主の憐れみです。聖絶のものが宿営にあるのなら、宿営そのものがエリコのように滅ぼされなければいけません。けれども主は、その罪を犯した者とその所有物を聖絶するだけで、それを取り除くことによって、彼らをお救いになろうとしているのです。私たちに対しても同じです。私たちが罪を犯したら、主は私たちをキリストによる贖いのゆえに、罪に定められることはありません。けれども、その罪を告白して、捨て去ることを命じられています。そうでなければ、神がともにおられるという交わりを保つことはできません。
7:14 あしたの朝、あなたがたは部族ごとに進み出なければならない。主がくじで取り分ける部族は、氏族ごとに進みいで、主が取り分ける氏族は、家族ごとに進みいで、主が取り分ける家族は、男ひとりひとり進み出なければならない。7:15 その聖絶のものを持っている者が取り分けられたなら、その者は、所有物全部といっしょに、火で焼かれなければならない。彼が主の契約を破り、イスラエルの中で恥辱になることをしたからである。』」
旧約時代は、「くじ」という方法でご自分の御心を神は示されました。ヨシュア記後半は、くじによる相続地の割り当てを行なっています。そして新約の使徒の働き1章までそれが続いています。ペテロが、イスカリオテのユダの代わりの使徒職を、祈りと共にくじによって決めました。けれども、それ以降は、特に聖霊の賜物が与えられた教会において、それを行なっている習慣を聖書の中で見出すことはできません。
7:16 そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。7:17 ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。7:18 ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた。
なぜ、くじがこうも当たるのか?と不思議に思われるかもしれません。しかし、ここに主が介入しておられなければ、決してこうなりません。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。(箴言16:33)」
そしてここには、大切な真理があります。罪は必ず明らかにされる、ということです。私たちが罪を犯している時は、詩篇10篇11節の中にある言葉のように考えています。「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」罪を隠すことができると思っています。けれども、エレミヤを通して主はこう言われます。「わたしの目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。(16:17)」
7:19 そこで、ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。」7:20 アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。7:21 私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」
ヨシュアは、アカンのことを「わが子よ。」と呼んでいます。罪を犯した者であっても、彼の尊厳を認めていました。ヨシュアはアカンへの愛を込めて、彼に罪を告白する促しを与えています。
そしてカレブは、「罪を犯した」と答えています。すべてを隠さず、明らかにしました。けれども、これが真実な悔い改めかどうか、というと、おそらくはそうでなかったと思います。聖書に中には、はっきりと、「主に対して罪を犯した」と言った人がいます。例えば、エジプトのパロです。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。(出エジプト9:27)」サウルも同じように罪を告白しました。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。(1サムエル26:21)」しかしどちらも、その後の態度はかたくななままでした。
その一方で、ダビデの告白は真正でした。「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した。』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。 (2サムエル12:13)」彼は年老いて寝床にいたときに、家臣から彼の体を温めるために、若い女の子をはべらせたらよいということで、彼のところにはその子アビシャクが給仕していました。けれども、彼女を知ることはなかった、とあります。
何が違うのでしょうか?前者は言い換えると、「後悔」であります。罪によってもたらされた結果を被って、後悔の念が生じたのです。後者は、後悔の念が生じると同時に、その告白に沿って自分の行ないを改めました。私たちが、自分が悪いと思って、その苦しい思いを「罪を犯した」と言っているのでは足りません。そうではなく、思いを変え、そして行ないを変える作業が必要です。
そして、アカンが隠していた物は、シヌアルの美しい外套と銀と金の延べ棒です。シヌアルはバビロンのことです。そして金銀ですが、それは主の天幕にささげなければいけないものでした。そして彼は、「欲しくなり」と言っています。モーセの十戒、「欲しがってはならない」の違反です。
7:22 そこで、ヨシュアが使いたちを遣わした。彼らは天幕に走って行った。そして、見よ、それらが彼の天幕に隠してあって、銀はその下にあった。7:23 彼らは、それらを天幕の中から取り出して、ヨシュアと全イスラエル人のところに持って来た。彼らは、それらを主の前に置いた。7:24 ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。
「アコルの谷」は、エリコからアイの方面に向かう上り坂になっている谷の途中にあります。
7:25 そこでヨシュアは言った。「なぜあなたは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけた。7:26 こうして彼らは、アカンの上に、大きな、石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた。そういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。
ヨルダン川を渡った後に積み上げた石は、主が彼らにヨルダン川を渡らせてくださったことを記念するものでしたが、この石くれの山は一人の罪がイスラエル全体に広がり、アイとの戦いで敗北したことに対する神の怒りの表れでありました。ちなみに「アコル」は「災いをもたらす」の意の「アカル」の派生語です。彼の名「アカン」とも音が似ており、掛けているのでしょう。
神は時に、目に見える形でご自身の真実を現されます。かつてシナイ山のふもとにいたときも、祭司アロンの息子二人が異なる火をもって聖所の中に入ったので、彼らはその火によって焼き尽くされてしまいました。そして実は教会においても、初代教会においてアナニヤとサッピラが、自分は全財産を教会に捧げたといって偽ったので、その場で倒れて死んでしまいました。教会は聖なる主がおられるところであり、罪を犯すことがどのようにいけないかを知り、人々に健全な恐れを抱かせるためであります。
アカンの罪は私たち個々人が、自分の生活にある罪を取り除くことを教えています。そして、教会に対しても教えています。イエス様は、罪を犯している者がいれば、初めは個人がそれを指摘して、それでも悔い改めないなら、さらに一人、二人の証人を連れていき、それでも悔い改めないなら、教会全体で責めなさいと命じられました。それでも悔い改めないなら、その人を異邦人のように取り扱いなさい、つまり信仰を持った人のようにみなしてはいけないことを教えられました。本人にとって、それは悔い改めの機会となり、立ち返ったら交わりの中に入ることはできますが、教会にとっては、神の聖なることを現すためです。
3A 御霊の働きの再開 8
1B 主の勝利 1−29
1C 用意周到な準備 1−17
8:1 主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。
御霊の導きに従う者たちにとって、神はやり直しをすぐに与えてくださいます。ヨシュアが主にしたがって、宿営の中の悪を取り除いた後、主は以前とまったく変わりなく、約束を与えてくださっています。「恐れてはならない。おののいてはならない。」また、「あなたの手に与えた」と再び完了形で語られています。私たちは、罪を犯した後、悔い改めてもそれ以前に犯した罪によって委縮してしまいがちですが、神は恵みによってまったく同じように取り扱ってくださるのです。
そして神は、「戦う民全部を連れてアイに攻め上れ」と言われました。もう一度思い起こしてください、イスラエルの戦いは通常の人間の戦闘とは異なるのです。それはあくまでも信仰の証しであり、通常の戦闘であれば戦力や兵力は極めて重要ですが、信仰においては絶えず「全き心」で主に従うことが求められます。そこには不断の、主の命令に従っていくというへりくだりが必要です。
8:2 あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」
主はアイの町については、その分捕り物を取ってよいと言われています。大事なのは、それを分捕り物としていいのかどうか、ということではなく、主の命令に従うかどうかということです。そしてあえて意味を探ってみますと、エリコにおける聖絶は、これから主がカナン人やエブス人に対して戦われる徴として残したかったのではないか、と思われます。ちょうど収穫を主に捧げる時に、初めの収穫を初穂として捧げることによって、それをすべての収穫を主に捧げることを象徴しているように、エリコを主にささげて、その後のすべてのカナン人の町を主に捧げると言う意味合いがあったのかもしれません。
そして次に重要なのは、主はエリコと同じ戦術を与えられなかったことです。「伏兵を置け」と命じられています。私たちは、神の御霊の働きを法則化してはいけません。「あの時にうまく働いたから、それを他の時にも採用しよう。」ではないのです。イエス様が癒される時に、ある時は言葉だけで、またある時はその部分に触れることによって癒されました。癒されるための方法に私たちは注目してしまいがちですが、癒し主であられるイエス様に目を留めることが必要です。
そして「伏兵」というのは、通常の人間の戦いにおける戦略です。エリコの時に比べますと、極めて地味です。けれども、主はこうした自然の法則を用いて、ご自分の超自然の働きをされることが多いのです。私たちは超自然的なことは、超自然的な形でのみ認めることができると思いがちですが、実は自然な形で行なわれることが多いです。
8:3 そこで、ヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をした。ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣した。8:4 そのとき、ヨシュアは彼らに命じて言った。「聞きなさい。あなたがたは町のうしろから町に向かう伏兵である。町からあまり遠く離れないで、みな用意をしていなさい。8:5 私と私とともにいる民はすべて、町に近づく。彼らがこの前と同じように、私たちに向かって出て来るなら、私たちは彼らの前で、逃げよう。8:6 彼らが私たちを追って出て、私たちは彼らを町からおびき出すことになる。彼らは、『われわれの前から逃げて行く。前と同じことだ。』と言うだろうから。そうして私たちは彼らの前から逃げる。8:7 あなたがたは伏している所から立ち上がり、町を占領しなければならない。あなたがたの神、主が、それをあなたがたの手に渡される。8:8 その町を取ったら、その町に火をかけなければならない。主の言いつけどおりに行なわなければならない。見よ。私はあなたがたに命じた。」
おびき寄せ作戦を取ります。
8:9 こうして、ヨシュアは彼らを派遣した。彼らは待ち伏せの場所へ行き、アイの西方、ベテルとアイの間にとどまった。ヨシュアはその夜、民の中で夜を過ごした。
「ベテル」とは、以前、ヤコブが天からのはしごの夢を見たところです。「神の家」という意味です。その近くにアイがあります。
8:10 ヨシュアは翌朝早く民を召集し、イスラエルの長老たちといっしょに、民の先頭に立って、アイに上って行った。8:11 彼とともにいた戦う民はみな、上って行って、町の前に近づき、アイの北側に陣を敷いた。彼とアイとの間には、一つの谷があった。8:12 彼が約五千人を取り、町の西側、ベテルとアイの間に伏兵として配置してから、8:13 民は町の北に全陣営を置き、後陣を町の西に置いた。ヨシュアは、その夜、谷の中で夜を過ごした。
今のアイがあったと思われるところの写真を見ますと、その町の西側に険しい谷が走っています。北側にも谷が走っています。そこに隠れて一晩過ごしました。
8:14 アイの王が気づくとすぐ、町の人々は、急いで、朝早くイスラエルを迎えて戦うために、出て来た。王とその民全部はアラバの前の定められた所に出て来た。しかし王は、町のうしろに、伏兵がいることを知らなかった。8:15 ヨシュアと全イスラエルは、彼らに打たれて、荒野への道を逃げた。8:16 アイにいた民はみな、彼らのあとを追えと叫び、ヨシュアのあとを追って、町からおびき出された。8:17 イスラエルのあとを追って出なかった者は、アイとベテルにひとりもないまでになった。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルのあとを追った。
アラバは、ヨルダン川渓谷の南北を走る一帯のことです。彼らの拠点になっているギルガルのある方向に走っていき、彼らを町からおびき出しました。
2C 投げ槍の手 18−29
8:18 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。8:19 伏兵はすぐにその場所から立ち上がり、彼の手が伸びたとき、すぐに走って町にはいり、それを攻め取り、急いで町に火をつけた。8:20 アイの人々がうしろを振り返ったとき、彼らは気づいた。見よ、町の煙が天に立ち上っていた。彼らには、こちらへも、あちらへも逃げる手だてがなかった。荒野へ逃げていた民は、追って来た者たちのほうに向き直った。
挟み撃ちです。
8:21 ヨシュアと全イスラエルは、伏兵が町を攻め取り、町の煙が立ち上るのを見て、引き返して来て、アイの者どもを打った。8:22 ある者は町から出て来て、彼らに立ち向かったが、両方の側から、イスラエルのはさみ打ちに会った。彼らはこの者どもを打ち、生き残った者も、のがれた者も、ひとりもいないまでにした。8:23 しかし、アイの王は生けどりにして、ヨシュアのもとに連れて来た。
アイの王はあとで木につるして殺します。
8:24 イスラエルが、彼らを追って来たアイの住民をことごとく荒野の戦場で殺し、剣の刃で彼らをひとりも残さず倒して後、イスラエルの全員はアイに引き返し、その町を剣の刃で打った。8:25 その日、打ち倒された男や女は合わせて一万二千人で、アイのすべての人々であった。8:26 ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。
興味深いですね、モーセが分かれた紅海に対して、神の杖を持ちながら手を引っ込めませんでしたが、同じようにヨシュアはこの戦いの間、投げ槍を差し伸べつづけました。それがヨシュアの神に対する祈りになっており、神が戦ってくださっていたのです。
8:27 ただし、イスラエルは、その町の家畜と分捕り物を、主がヨシュアに命じたことばのとおり、自分たちの戦利品として取った。8:28 こうして、ヨシュアはアイを焼いて、永久に荒れ果てた丘とした。今日もそのままである。8:29 ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。今日もそのままである。
申命記でモーセが、こう教えました。「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。(21:22-23)」その通り行っています。それから、先ほどのアカンと同じように石くれの山を積み上げさせました。
2B 律法の朗読 30−35
8:30 それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。
イスラエルの周りには、数多くの敵がいるのですが、ヨシュアはかつてモーセに命じられたことを行なうことを優先させました。エバル山において律法の言葉を書き記し、それを朗読することです。エバル山は、アイよりずっと北にあります。シェケムというところです。イスラエルの戦士だけでなく、女も子供も年寄りも参加しなければいけませんから、ギルガルに一度戻って、共にみなでシェケムに向かったのだと思われます。
8:31 それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。8:32 その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。8:33 全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。8:34 それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。8:35 モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。
ヨシュアは、第一にしなければいけないことを第一にしました。それは契約の箱を先頭にするだけでなく、神の律法を全イスラエルの地で高らかに宣言するためでした。これは、神の律法がこの地におけるすべての成り立ちと、あり方を決定するものになるからです。
私たちも同じです。神の御言葉を教会の中で第一とし、神の御言葉がこれからの教会にあり方を決定づけます。初代教会が行なった活動は次のとおりです。「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒2:42)」使徒たちの教え、つまり聖書の教えを堅く守りました。ただそれを学ぶだけでなく、堅く守っていったのです。そしてその中で交わりをしました。交わりの中で、私たちは具体的生活の中で使徒たちの教えを具体的にどのように適用させていけばよいかが明らかになります。ヨシュアたちも、イスラエル共同体という交わりの中で生きていました。そしてパンを裂きます。パンを裂くというのは、キリストにあずかることであり、この方こそが教会のかしらであることを体験する一時です。ヨシュアたちも、だれが司令官であるか、それは主ご自身であることを体験しました。そして祈りを捧げます。祈りが私たちが自分を主の前に引き下げる手段です。ヨシュアたちも祈りの教訓を学びました。
どうか、この教会がヨシュアたちと同じように持続する勝利を経験することができるよう祈りたいと思います。