アウトライン
1A 傷の中のシオン 1
1B 奪われる輝き 1−11
1C 喪に服す女 1−7
2C 汚れた女 8−11
2B 泣く「私」 12−22
1C 主からの火 12−17
2C 敵への叫び 18−22
2A 主の御怒り 2
1B ご自分の足台 1−10
1C 要塞から神殿へ 1−6
2C 城壁 7−10
2B 飢える幼子 11−22
1C 海のように大きい傷 11−16
2C 主に注ぎだす心 17−22
本文
哀歌1章を開いてください。私たちは前回エレミヤ書を学び終えましたが、哀歌は同じエレミヤによって書かれた歌です。彼が、エルサレムの町がバビロンによって滅ぼされたのを目撃し、それを哀歌として記しています。葬式の時に歌われる嘆きの歌です。
ヘブル語の聖書では、哀歌は「ああ」という題名になっています。1章1節を見てください、「ああ」という嘆息の言葉から始まっていますね。このように、しばしばヘブル語の聖書は初めの言葉を書名にしています。この「ああ」という言葉が2章1節にも出てきて、各章の始めに出てきます。哀歌は5章ありますが、歌詞が五番まであると考えてよいでしょう。そしてちょうど、詩篇119篇のように各節がヘブル語のアルファベットの順番で始まっています。1節はアレフ、2節はベイト、そして3節はギメルという風に、です。歌詞を覚えやすくするためです。
この哀歌の中に、「嘆きの預言者」と呼ばれたエレミヤの涙が噴き出しています。その悲しみの感情を精一杯描いています。そしてそれは、エルサレムの人たちが犯した罪によるものでした。この書物で学ぶことのできる教訓は、「罪によってもたらされる悲しみ」です。私たちが罪を犯した時に、それを軽々しく考えがちです。けれども、どれほどの悲しみをもたらすものなのか、ここを読むと分かります。そして私たちも、罪を悲しみをもって受け止め、悔い改める必要のあることをこの書物を通して学ぶことができます。それで、今日のメッセージ題は「罪を悲しむシオン」です。
1A 傷の中のシオン 1
1B 奪われる輝き 1−11
1C 喪に服す女 1−7
1:1 ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。
今エレミヤは、ひっそりとしたエルサレムの町を眺めています。バビロンがこの町を破壊して、その住民たちは殺され、捕え移されたので、人がいないのです。
「国々の中で大いなる者」「諸州のうちの女王」というのは、ダビデとソロモン時代のことです。ダビデが、周囲の敵であったエドム、モアブ、アモン、シリヤ、ペリシテを平定しました。彼らはイスラエルに貢物を持ってきていました。
1:2 彼女は泣きながら夜を過ごし、涙は頬を伝っている。彼女の愛する者は、だれも慰めてくれない。その友もみな彼女を裏切り、彼女の敵となってしまった。
バビロンの脅威が大きくなると共に、これら敵であった周囲の諸国はユダと連合を結びました。ところがエルサレムが破壊されるとなると、彼らは助けるどころか、かえって敵となってしまいました。オバデヤ書を見ると、エドム人たちはエルサレムの町にやってきて、バビロンがエルサレムを滅ぼすのを喜んでみていたことが書かれています(11−12節)。
1:3 ユダは悩みと多くの労役のうちに捕え移された。彼女は異邦の民の中に住み、いこうこともできない。苦しみのうちにあるときに、彼女に追い迫る者たちがみな、彼女に追いついた。
人々を自分に従わせていたユダは、今や奴隷の身となってしまいました。そして捕え移されました。
1:4 シオンへの道は喪に服し、だれも例祭に行かない。その門はみな荒れ果て、その祭司たちはうめき、おとめたちは憂いに沈んでいる。シオンは苦しんでいる。
「例祭」というのは、例年行なわれる主への祭りのことです。主にレビ記23章に書いてありますが、過越の祭りを初め、種無しパンの祝い、初穂の祭り、五旬節、ラッパを吹き鳴らす日、贖罪日、そして仮庵の祭りがあります。この例祭の時にはエルサレムは、人々でごった返します。特に、過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りは、ユダヤ人成年男子にその参加が義務付けられていましたので、人々でいっぱいになります。ところが今は、荒れ果てた門しかなく、残された祭司は文字通り、食料がなく呻いており、乙女たちも鬱状態になっています。
1:5 彼女の仇がかしらとなり、彼女の敵が栄えている。彼女の多くのそむきの罪のために、主が彼女を悩ましたのだ。彼女の幼子たちも、仇によってとりことなって行った。
なぜこのように苦しんでいるか、ここに明確に述べられていますね。「彼女の多くの背きの罪」のためです。罪には必ず、このような対価が伴います。事実、ローマ6章23節には、「罪から来る報酬は死です。」とあります。私たちは罪を軽々しく捉えてしまうのですが、必ず結果が伴うのです。
そしてエレミヤは、「幼子たちも」と記していますが、カルデヤ人は老若男女を無差別に殺し、また捕虜として連れて行きました。2章エレミヤは、この家なき子になった子供たちに焦点を当てます。
1:6 シオンの娘からは、すべての輝きがなくなり、首長たちは、牧場のない鹿のようになって、追う者の前を力なく歩む。
自分たちの安全と生命のために存在するはずの首長たちも、今は完全に無力にされています。捕虜となって歩いています。
1:7 エルサレムは、悩みとさすらいの日にあたって、昔から持っていた自分のすべての宝を思い出す。その民が仇の手によって倒れ、だれも彼女を助ける者がないとき、仇はその破滅を見てあざ笑う。
「すべての宝」とは、神殿の宝物倉にあった金や銀のことです。ソロモンの時代は、銀が価値あるものとみなされない程、あらゆるものが金で造られ、また覆われていたとあります(1列王10:21)。そのことを捕虜となって歩いている彼らは、思い出しています。
そしてここに「助ける者がいない」とありますね。後で「慰める者がいない」という言葉が何度も出てきます。これがここ哀歌でのテーマの一つです。つまり、自分たちが頼りにしていたものが、ことごとく剥ぎ取られるということです。そして自分自身の中でもがき苦しむ中で、最終的に主ご自身のみに、主の憐れみのみにすがるよう導かれます。
2C 汚れた女 8−11
1:8 エルサレムは罪に罪を重ねて、汚らわしいものとなった。彼女を尊んだ者たちもみな、その裸を見て、これを卑しめる。彼女もうめいてたじろいだ。1:9 彼女の汚れはすそにまでついている。彼女は自分の末路を思わなかった。それで、驚くほど落ちぶれて、だれも慰める者がない。「主よ。私の悩みを顧みてください。敵は勝ち誇っています。」
ここの「汚れ」とは女性の生理による血による汚れのことを話しています。もちろん何の処理もしておらず血が流れたままにさせ、裾にまでついているのは汚いですが、聖書ではそれ以上の意味があります。レビ記15章には、月のさわりのある女は汚れるので、彼女の床、また彼女が触った物に触れるものは汚れる、と書いてあります。つまり、自分が人々から引き離される、自分の周りから自分を守る人々がいなくなる、ということです。これを今、エルサレムは経験しています。
1:10 仇が彼女の宝としているものすべてに手を伸ばしました。異邦の民が、その聖所にはいったのを彼女は見ました。あなたの集団に加わってはならないと、あなたがかつて命じられたものが。
主はかつて、モーセを通して「アモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない。(申命23:3)」と命じておられました。それ以来、ユダヤ人が集まる神殿の敷地には異邦人は入ってくることがありませんでした。ヘロデの神殿時代、外庭まで異邦人は入ることができましたが、女の庭と内庭には入ることが許されませんでした。ところが今、カルデヤ人が聖所の中にまで入っています。そこの器や金銀を奪い取るためです。これはまるで、陵辱されたのと同じ衝撃だったでしょう。
1:11 彼女の民はみなうめき、食べ物を捜しています。気力を取り戻そうとして、自分の宝としているものを食物に代えています。「主よ。私が、卑しい女になり果てたのをよく見てください。」
神殿にある、主にささげられた金銀を、自分の食料のために売らなければいけなくなった惨めさをここで話しています。ちょうど身を売っている女のように、です。
2B 泣く「私」 12−22
ここまでが、エルサレムを一人の女として描いている部分でしたが、12節からは主語が「私」となります。エルサレムが受けた屈辱を、「私が受けた屈辱」として描いています。11節までは、「外側からのエルサレム」を描いていましたが、今度は「内側から外側を見た」姿を描いています。
つまり、エレミヤがエルサレムの町のことをあまりにも嘆き悲しんでいるので、エルサレムと自分を一体化して、その受けている屈辱を自分のようにして話しているのです。
1C 主からの火 12−17
1:12 道行くみなの人よ。よく見よ。主が燃える怒りの日に私を悩まし、私をひどいめに会わされたこのような痛みがほかにあるかどうかを。
エルサレムを道行く人々に、主の怒りを受けた自分を見なさい、と訴えかけています。
けれどもこの箇所をじっくり眺めていると、もう一つの顔が見えてきます。分かりますか?十字架につけられた主イエスです。道行く人々が、大きな口を開いて、あざけり、「お前は神の子であるのに、なんだこの無様な格好は?神の子なら、自分自身を救ってみよ。」と言い捨てましたが、いかがでしょう、エレミヤのこの言葉は、バビロンによって破壊されたエルサレムのことを言っているだけではなく、罪のために損なわれたイエス様の肉体の姿を表しているのです。
「主の燃える怒りの日に私を悩ました」という言葉は、主が全人類の罪によって招いた神の怒りを、ご自分の肉体に受けられたことと一致しています。そして「このような痛みが他にあるかどうか」というのも、あの惨たらしい十字架刑は究極の痛みを与えるために作られたものです。
エレミヤはまさに、イエス・キリストを表していました。神の怒りを自分のこととして泣き悲しんでいる姿は、私たちの罪の身代わりに罰を受けられたイエス様の苦しみを表していました。主が弟子と共にピリポ・カイザリヤに行かれた時、「人々は人の子をだれだと言っていますか。」と聞かれました。最終的にペテロが、「あなたは生ける神の御子キリストです。」と告白しましたが、他の人々がどのように言っているかイエス様に伝えている時に、「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。(マタイ16:13-16)」と言いました。つまり、それだけエレミヤがイエス様に似ていた、ということです。
「イエス様はエレミヤのように厳しいメッセージが与えなかった。イエス様はもっと優しい言葉を語られた!」と反論する人がいるかもしれません。けれども、果たしてそうでしょうか?「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。(マタイ18:8)」と、イエス様は言われました。罪に対して、決して妥協するようなことは言われませんでした。
けれども、それは単に神の厳格な裁きメッセージだったのでしょうか?いいえ、これら両手両足そろって永遠の火に投げ込まれなければいけない私たちのために、その火の苦しみを十字架の上でご自分の身に負ってくださったのです。神の厳格な裁きの言葉を伝えると共に、ご自分が罪人と数えられるようになって、神の御怒りを受けて苦しまれたのです。
私たちは、自分の犯した罪の重さを思わなければいけません。そして、その深刻な罪の結果を、深刻な形で主が受けてくださったことを考えなければいけません。
1:13 主は高い所から火を送り、私の骨の中にまで送り込まれた。私の足もとに網を張り、私をうしろにのけぞらせ、私を荒れすさんだ女、終日、病んでいる女とされた。
これもエルサレムを語っていると同時に、主の十字架を語っています。「高い所から火」というのは、神の御座にある、聖なる火による裁きを表しています。それを主がご自分の肉体で、骨の髄まで感じ取られました。そして「後ろに仰け反らせ」られたとありますが、主は木の上に仰け反らせられて、手足に釘を打たれました。そして「終日、病んでいる女」とありますが、主は午前9時から午後3時までの終日、罪人として十字架につけられていました。
1:14 私のそむきの罪のくびきは重く、主の御手で、私の首に結びつけられた。主は、私の力をくじき、私を、彼らの手にゆだね、もう立ち上がれないようにされた。
ユダヤ人は首にくびきを付けられて、バビロンに捕え移されました。それをエレミヤは、「罪のくびき」と呼んでいます。罪は、言わば、私たちの首にくびきとなります。自分たちをがんじがらめにして、奴隷状態にします。
1:15 主は、私のうちにいたつわものをみな追い払い、一つの群れを呼び集めて、私を攻め、私の若い男たちを滅ぼされた。主は、酒ぶねを踏むように、おとめユダの娘を踏みつぶされた。
つわもの、若い男たちが、エルサレムから離れていきました。ゼデキヤがエルサレムから逃げて、アラバへの道を急ぎましたが、カルデヤ人がエリコの平原で追いつき、その時、王の軍隊はみな彼から離れてしまいましたね(エレミヤ52:8)。
そして「酒ぶねを踏むように、ユダの娘を踏み潰された」とありますが、これは黙示録において、世界の軍隊が神の怒りによって殺される時にも使われる表現です(14:20)。酒ぶねで、ぶどうの実を足で押しつぶします。そして葡萄汁が出てくるのですが、同じように神の怒りによって踏みつけられて、血がほとばしり出てくる様子を描いています。
1:16 このことで、私は泣いている。私の目、この目から涙があふれる。私を元気づけて慰めてくれる者が、私から遠ざかったからだ。敵に打ち負かされて、私の子らは荒れすさんでいる。1:17 シオンが手を差し出しても、これを慰める者はない。主は仇に命じて、四方からヤコブを攻めさせた。エルサレムは彼らの間で、汚らわしいものとなった。
エルサレムがバビロンに包囲され、町が破られた時に、エジプトを初め、連合を結んでいた国々は誰も助けに来てくれませんでした。そして先ほど話したように、「慰める者がいなくなった」と叫んでいます。エルサレムが神以外のものでより頼んでいたものが、このようにして取り除かれました。
2C 敵への叫び 18−22
1:18 主は正義を行なわれる。しかし、私は主の命令に逆らった。だが、すべての国々の民よ、聞け。私の痛みを見よ。私の若い女たちも、若い男たちも、とりことなって行った。1:19 私は愛する者たちを呼んだのに、彼らは私を欺いた。私の祭司も長老たちも、町の中で息絶えた。気力を取り戻そうとして、自分の食物を捜していたときに。
自分が頼りにしていた、あらゆるものが取り除かれています。若い男と若い女、また同盟を組んでいたはずの周囲の諸国、そして霊的な支えであった祭司や長老、みながいなくなります。そして、その理由が、正義なる主の命令に自分が逆らったからだ、ということです。
1:20 「主よ。ご覧ください。私は苦しみ、私のはらわたは煮え返り、私の心は私のうちで転倒しています。私が逆らい続けたからです。外では剣が子を奪い、家の中は死のようです。
エレミヤはエルサレムに代わって祈っていますが、エルサレムはだんだん気づき始めています。自分自身が主に逆らっていたからだ。これを解決しなければ、他の解決法はないのだ、ということを悟り始めました。
一つ一つ頼っていたものが取り除かれて、ただ正義なる神の前に立つ自分がいます。そして、他のもののせいにすることはできず、ただ自分が主に対して逆らってきたことを、自分自身の中でもがいています。「はらわたは煮え返り、心は私のうちで転倒している」のです。
これが真の悔い改めです。私たちは他の仕事から離れて、祈りに専念する時間が必要です。他の事柄を行なっているうちに、私たちは自分の責任から逃れようとしています。日々の忙しさによって、自分自身の現状について見つめることをせず、また悔い改めなければいけない罪をそのままにしています。
神は時に、そのような私たちに懲らしめを与えられます。状況を通して、私たちに内省を求めるよう導かれます。ダビデが、「ただあなたに、罪を犯し」たと告白した(詩篇51:4)ように、私たちが自分自身のことで悲しみ、泣き、嘆かなければいけないのです。
1:21 彼らは私のため息を聞いても、だれも私を慰めてくれません。私の敵はみな、私のわざわいを聞いて、喜びました。あなたが、そうなさったからです。あなたが、かつて告げられた日を来させてください。そうすれば、彼らも私と同じようになるでしょう。1:22 彼らのすべての悪を、御前に出させ、あなたが、私のすべてのそむきの罪に対して、報い返されたように、彼らにも報い返してください。私のため息は大きく、私の心は痛みます。」
襲ってきたバビロン、そしてそれを喜んだエドムに対して、主は怠りない裁きを行なわれることを、私たちはエレミヤ書で学びました。それが「かつて告げられた日を来させてください」という意味です。
私たちが罪に陥るとき、私たちの敵は喜びます。サタンは喜びます。そしてそのことを最も怒っておられるのは神ご自身です。神がそのような懲らしめの中に私たちを置いたのですが、神は私たちがそこから立ち上がって、神と共に歩む生活を望んでらっしゃるのです。ですから、エレミヤが祈ったように、神は悪魔に対して怠りない裁きを行なわれます。火と硫黄の燃える池に投げ込まれます。
2A 主の御怒り 2
そして2章です。1章は、敵どもがエルサレムを痛めつけた場面を見てきましたが、これらのことは神の直接的な介入によって行なわれたこと、神ご自身の裁きであることを教えています。主語に気をつけてください、「主」または「神」になっています。
1B ご自分の足台 1−10
1C 要塞から神殿へ 1−6
2:1 ああ、主はシオンの娘を御怒りで曇らせ、イスラエルの栄えを天から地に投げ落とし、御怒りの日に、ご自分の足台を思い出されなかった。
1章では、イスラエルが「大いなる者であったのに、やもめのようになった(1節)」とありましたが、それが主による強い意思であったことがここで分かります。
そして、「ご自分の足台」とありますが、これが何だか分かりますか?シオンのことです。また、神殿が建てられているところです。ダビデは息子ソロモンに神殿を建築させるにあたって、人々に、「私は主の契約の箱のため、私たちの神の足台のために、安息の家を建てる志を持っていた。(1歴代28:2)」と言いました。
したがって、主はご自分がエルサレム、またその神殿を破壊される時に、それを喜んで行なわれたのではないことがよく分かります。それは主ご自身の足台であられ、自分自身を痛めつけるようなものだったのです。
イエス様が十字架につけられていた時、父なる神はただ怒りの手をイエス様の上に置かれていたとだけ考えてはいけません。コリント第二5章19節に、「神は、キリストにあって、この世をご自身と和解させ」とあります。キリストが苦しまれていた時、父なる神ご自身が苦しんでおられたのです。怒りを下される時、それはご自分がその怒りを身に受けておられたのです。
2:2 主は、ヤコブのすべての住まいを、容赦なく滅ぼし、ユダの娘の要塞を、憤って打ちこわし、王国とその首長たちを、地に打ちつけて汚された。2:3 燃える怒りをもって、イスラエルのすべての角を折り、敵の前で、右の手を引き戻し、あたりを焼き尽くす燃える火で、ヤコブを焼かれた。
主はまず、ユダの要塞を打ち壊されました。「イスラエルの角」とありますが、角は力や権威を象徴しています。軍事的な力である要塞、そして政治的な力である王と首長を打たれました。
2:4 主は敵のように、弓を張り、右の手でしっかり構え、仇のように、いとしい者たちのすべてを虐殺し、シオンの娘の天幕に火のように憤りを注がれた。
エルサレムの中にある天幕、つまり住まいに火を付けられました。この前エレミヤ書で学んだように、エルサレムの家々にバビロンは火をつけました。
2:5 主は、敵のようになって、イスラエルを滅ぼし、そのすべての宮殿を滅ぼし、その要塞を荒れすたらせて、ユダの娘の中にうめきと嘆きをふやされた。
要塞、天幕に続いて、今度は王の宮殿を燃されました。
2:6 主は、畑の仮小屋のように、ご自分の幕屋を投げ捨てて、例祭の場所を荒れすたらせた。主はシオンでの例祭と安息日とを忘れさせ、激しい憤りで、王と祭司を退けられた。
「畑の仮小屋」とは、収穫の時などに臨時に建てるプレハブのことです。後で取り壊します。それと同じように、ご自分の幕屋すなわち神殿を打ち壊されます。
ですから、要塞からエルサレムの家々、エルサレムの家々から王の宮殿、そして最後に神殿です。外側から内側への破壊を行なわれました。
2C 城壁 7−10
そして次に、エルサレムが外敵からの守りとして頼りにしていた城壁に焦点を当てます。
2:7 主は、その祭壇を拒み、聖所を汚し、その宮殿の城壁を敵の手に渡された。すると、例祭の日のように、彼らは、主の宮でほえたけった。
「ほえたけった」とありますが、例祭の日には彼らは喜びの叫び声を上げたのですが、今は、嘆きと恐怖の叫び声となっています。
2:8 主は、シオンの娘の城壁を荒れすたらせようと決め、測りなわでこれを測り、これを滅ぼして手を引かれなかった。塁と城壁は悲しみ嘆き、これらは共にくずれ落ちた。2:9 その城門も地にめり込み、主はそのかんぬきを打ちこわし、打ち砕いた。その王も首長たちも異邦人の中にあり、もう律法はない。預言者にも、主からの幻がない。
今、私たちがエルサレムで目にする城壁は、オスマントルコが建てたものです。その城壁の下にソロモン時代の城壁や門の遺跡が出てきます。「城門も地にのめり込み」とありますが、それはバビロンが城壁を破壊して、門も破壊して、その一帯を平らにしてしまった、ということです。
2:10 シオンの娘の長老たちは、地にすわって黙りこみ、頭にはちりをまき散らし、身には荒布をまとった。エルサレムのおとめたちは、その頭を地に垂れた。
塵を撒き散らしたり、荒布をまとうのは、嘆きと悲しみの表現です。
2B 飢える幼子 11−22
1C 海のように大きい傷 11−16
2:11 私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。2:12 彼らは母親に、穀物とぶどう酒はどこにあるのか、と言い続け、町の広場で傷つけられて衰え果てた者のように、母のふところで息も絶えようとしている。
ここからエレミヤの目は、小さな子たちに向けられています。親が死に、そこら辺をさまよい歩いている幼児がいます。そして親がいても、子に与えるような食べ物はなく、死にそうになっています。
エレミヤにとって、この光景は耐え難いものでした。「はらわたは煮え返り」とありますね。イエス様も同じように、子供に対しては特別の感情を持っておられました。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。(マルコ10:14)」ここにおいても、エレミヤはイエス様に似ています。
2:13 エルサレムの娘よ。私はあなたを何にたとえ、あなたを何になぞらえよう。おとめ、シオンの娘よ。私は何にあなたを比べて、あなたを慰めることができよう。あなたの傷は海のように大きい。だれがあなたをいやすことができよう。2:14 あなたの預言者たちは、あなたのために、むなしい、ごまかしばかりを預言して、あなたの捕われ人を返すために、あなたの咎をあばこうともせず、あなたのために、むなしい、人を惑わすことばを預言した。
そうでしたね、偽預言者たちについて主は、「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。(エレミヤ6:14)」と言われました。私たちが、真剣な罪の悔い改めがないとき、気軽に罪の赦しを得られると思って、罪を犯し続ける時、私たちはこの過ちを犯しています。傷は海のように大きくなっているのに、直ったと思わせているのです。
2:15 道行く人はみな、あなたに向かって手を打ち鳴らし、エルサレムの娘をあざけって頭を振り、「これが、美のきわみと言われた町、全地の喜びの町であったのか。」と言う。2:16 あなたの敵はみな、あなたに向かって大きく口を開いて、あざけり、歯ぎしりして言う。「われわれはこれを滅ぼした。ああ、これこそ、われわれの待ち望んでいた日。われわれはこれに巡り会い、じかに見た。」と。
これを行なったのは、エドムです。エレミヤの諸国民に対する預言の中で、モアブやアモン、そしてエラムに対しては、残りの民が帰還するという希望の言葉がありました。ところが、エドムに対しては何の救いも約束されていません。これは、ここで行なったエルサレムへのあざけりのためです。そして興味深いことに、エレミヤ書49章17節には、「エドムは恐怖となり、そこを通り過ぎる者はみな、色を失い、そのすべての打ち傷を見てあざける。」とあります。自分たちが行なったことを、そのまま受けたのでした。
私たちは、罪によって倒れた人々をあざわらう、また見下すことを厳しく戒めなければいけません。罪に陥った兄弟に対して、あわれみをかけなさい、回復させなさい、警戒しながら救い出しなさい、という命令はあっても、喜びなさいという命令はないのです。あわれむ者は、あわれみを受けますが、裁く者には容赦ない裁きがあるのです(ヤコブ2:13)。
2C 主に注ぎだす心 17−22
2:17 主は企てたことを行ない、昔から告げておいたみことばを成し遂げられた。滅ぼして、容赦せず、あなたのことで敵を喜ばせ、あなたの仇の角を高く上げられた。
昔から、主はエルサレムの破壊を告げておられました。イザヤを通して、エレミヤを通して、その他、小預言書にある預言者たちを通して語っておられました。
2:18 彼らは主に向かって心の底から叫んだ。シオンの娘の城壁よ。昼も夜も、川のように涙を流せ。 ぼんやりしてはならない。目を閉じてはならない。2:19 夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。
これです、心を注ぎだして、川のように涙を流して、主に叫ぶこと。これを行なっておられるでしょうか?今、自分が重荷として与えられていること、どうしても解決しないこと。これらを「仕方がない」としてただ諦めていないでしょうか?心の中に、煮えたぎるマグマのように叫びがあるにも関わらず、それを休火山のように放っておいていないでしょうか?主に叫んでください。心を注ぎだしてください。
そしてエレミヤは再び、飢えている幼子について話しています。この子たちのために、心を注ぎだして祈れ、と言っているのです。ところが、次にとんでもない恐ろしいことが書かれています。
2:20 「主よ。ご覧ください。顧みてください。あなたはだれにこのようなしうちをされたでしょうか。女が、自分の産んだ子、養い育てた幼子を食べてよいでしょうか。主の聖所で、祭司や預言者が虐殺されてよいでしょうか。
子に食べ物を与えないどころか、母親が飢えて、その子を食べてしまっているのです。けれども、これは昔、モーセを通して主がすでにお語りになっている呪いの一つでした。「あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。(申命28:56-57)」これ以上の呪いはないと言って良いでしょう、恐ろしいことですが実際に起こりました。
2:21 幼い者も年寄りも道ばたで地に横たわり、私の若い女たちも若い男たちも剣に倒れました。あなたは御怒りの日に虐殺し、彼らを容赦なくほふりました。
バビロンは老若男女、無差別に殺し、無差別に捕虜として連れて行きました。
2:22 あなたは、例祭の日のように、私の恐れる者たちを、四方から呼び集めました。主の御怒りの日に、のがれた者も生き残った者もいませんでした。私が養い育てた者を、私の敵は絶ち滅ぼしてしまいました。」
例祭の日には東西南北から、いろいろなところからユダヤ人たちがエルサレムに集まってきましたが、今はバビロンが四方からやって来ています。
そしてエレミヤは、「私が養い育てた者を」と彼らのことを呼んでいます。そうですね、40年ぐらいかけて、彼は何度も何度も、神の言葉を語り続けました。それをバビロンは滅ぼしてしまいました。牧者としての苦しみです。
こうして私たちは、罪に対する悲しみについて読みました。次回からその悲しみと悔い改めの中から、神の憐れみが芽生えていくところを読んでいきますが、最後にこの悲しみについて、ヤコブが話しているところを読みたいと思います。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(ヤコブ4:8-10)」