アウトライン
1A 力強い真実 3
1B 自分を苦しめる主 1−20
1C 攻撃 1−14
2C 苦味 15−20
2B 滅んでいない憐れみ 21−45
1C 待ち望み 21−39
2C 尋ね調べ 40−45
3B 敵からの救い 46−66
1C 深い穴からの叫び 46−58
2C 敵への報復 59−66
2A エルサレムの零落 4
1B 飢え衰え 1−16
1C 一般の民 1−12
2C 預言者と祭司の罪 13−16
2B 滅び 17−22
3A 回復への叫び 5
1B 他国人の虐げ 1−18
1C 失われた権利 1−10
2C 奴隷生活 11−18
2B とこしえの御座 19−22
本文
哀歌3章を開いてください、最後5章まで読みますが、今日のメッセージ題は「神による悲しみ」です。私たちは前回から哀歌を読んでいますが、ここはバビロンによって滅ぼされるエルサレムを悲しむ歌になっています。1章では、エルサレムを一人の女に例えて、彼女が頼っていたすべての物が剥ぎ取られていく様子をエレミヤは歌っていました。「私に慰める者がいない」という言葉が難解も出てきましたね。ただ主のみしか、自分たちには残されていないように神がされているのです。
2章では、バビロンによるエルサレム破壊は、まさに主ご自身の手によるものであることをはっきりと描いています。エルサレムの要塞、家々、宮殿、神殿を、主ご自身が打ちつけておられることが書かれています。神殿が破壊されているのは、主がおられないから、主が生きておられないからではなく、むしろ主がおられることを証ししていたのです。
私たちは、良いことについては主がそこにおられることを認めることは簡単ですが、悪いことにおいて主が介在されているのを認めるのは難しいです。けれども、この悪いことに主がおられることを私たちが認め、それゆえ主の前で悲しみ、悔い改めることによって、私たちと主との関係は一気に深まります。この悪いことにおける主の臨在を受け入れる勇気について、哀歌は中心的に教えています。
そして3章に入りますが、神がエルサレムに下している災いを、自分の体に受けているエレミヤの苦しみを描いています。これが預言者エレミヤの大きな特徴です。自分と、自分が愛してやまないエルサレムを一体化させているのです。バビロンは神の裁きの現われであると言いながら、その裁きを自分が受けるようにしているのです。これこそ、究極の執り成しの姿であり、パウロが同胞の民のために、「この私がキリストから切り離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9:3)」と言ったことに通じ、そして主ご自身が、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27:46)」と祈られた、身代わりの苦しみを表しているのです。
1A 力強い真実 3
1B 自分を苦しめる主 1−20
1C 攻撃 1−14
3:1 私は主の激しい怒りのむちを受けて悩みに会った者。3:2 主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ、3:3
御手をもって一日中、くり返して私を攻めた。3:4 主は私の肉と皮とをすり減らし、骨を砕き、3:5 苦味と苦難で私を取り囲んだ。3:6 ずっと前に死んだ者のように、私を暗い所に住まわせた。
これは、エルサレムの町が敵に包囲されて、取り囲まれていることを自分のこととして言い表しています。敵に見つからないように、暗い所に隠れています。
3:7 主は私を囲いに入れて、出られないようにし、私の青銅の足かせを重くした。3:8 私が助けを求めて叫んでも、主は私の祈りを聞き入れず、3:9 私の道を切り石で囲み、私の通り道をふさいだ。3:10 主は、私にとっては、待ち伏せしている熊、隠れている獅子
逃げようとしているのに、その逃げ口を塞がれました。
3:11 主は、私の道をかき乱し、私を耕さず、私を荒れすたれさせた。3:12 主は弓を張り、私を矢の的のようにし、3:13 矢筒の矢を、私の腎臓に射込んだ。
取り囲まれ、逃げ口を塞がれ、そして敵が自分に矢を放ち、それが自分の腎臓を貫通したと言っています。ですから、彼はこの苦しみを感情だけでなく肉体で受けています。
3:14 私は、私の民全体の物笑いとなり、一日中、彼らのあざけりの歌となった。
このあざけりは、バビロンによるものではなく、ユダの民によるものです。エレミヤが、いつも、何十年間もまったく同じ預言を行なっていたために、「いつも同じことを言っている」と嘲られていました。私たちも、エレミヤ書を学んで、何度も何度も、同じことをエレミヤが預言したのを感じましたね。それは、エレミヤの問題ではなく、ユダの民の問題です。何度聞いても、その度に拒んでいたからです。聞き従えば、次の道筋を主は示してくださいますが、聞かなければ同じことを言われます
2C 苦味 15−20
3:15 主は私を苦味で飽き足らせ、苦よもぎで私を酔わせ、
「苦よもぎ」は、ものすごく苦い草で、たくさん食べると精神的におかしくなる毒を含みます。主による辛酸を舐めているわけです。黙示録にも、神の災いの一つに苦よもぎによる水の汚染によって、人々が死に絶えることが予言されています(8:11)。
3:16 私の歯を小石で砕き、灰の中に私をすくませた。
パンをこねる時、石が混じってしまい、そのパンを食べて歯が欠けてしまった、という経験です。
3:17 私のたましいは平安から遠のき、私はしあわせを忘れてしまった。3:18 私は言った。「私の誉れと、主から受けた望みは消えうせた。」と。3:19 私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。3:20 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。
エレミヤはとことんまで落ちぶれてしまいました。けれども、次にまた別の見方をします。
2B 滅んでいない憐れみ 21−45
1C 待ち望み 21−39
3:21 私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。3:22 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。
苦よもぎと苦味を思い出しては、落ち込んでいたエレミヤですが、けれども、そのように落ち込んでいる自分がまだ生きているという事実に今、気づいたのです。「私たちが滅び失せていないではないか。」ユダヤ人はことごとく滅ぼされたが、すべて滅ぼされたわけではないではないか。私自身も、自分の誉れと望みは消えてしまったが、現にこうして生きているではないか、と気づいたのです。そしてそれが「恵み」であり、また「憐れみ」であると気づいたのです。
非常に大事な視点です。これが、主が、私たちに行なわれる懲らしめです。すべてを滅ぼすことをせず、けれども罪犯す者がご自分のところに来ることができるように、他のものを取り除かれるのです。
ダニエル書4章にある、ネブカデネザルの話を思い出してください。彼の見た夢は、大きな木が切り取られ、根株だけが残されました。それは彼自身を表しており、彼は理性が失われ、獣のようになってしまいました。けれども、根こそぎ取られなかったのです。根株は残っていました。ここに憐れみがあり、主は私たちをこのようにして生かしてくださるのです。
私がクリスチャンになったきっかけは、その前に抑鬱に悩んでいたことがありますが、クリスチャンになってからもその気の沈みは自分を襲いました。涙を流して祈っていた時、ふとアパートの一室の窓から日差しと、木が見えるのに気づきました。「ああ、主はこのように光を与え、木々を与えておられるではないか。」と思ったのです。そして、自分が生きているではないか、ということに気づいたのです。
このような、ごく基本的な、根本的なところにある主の憐れみに気づけば、自分と主との関係は堅く、揺るがされないものになります。
3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。3:24 主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
自分の誉れや主にある望みはすべてなくなってしまっても、なお滅び失せない自分がいます。そして朝ごとに、自分は生きています。それを知って、今エレミヤは、「主の憐れみは、朝ごとに新しい。」と言っているのです。
私が若かった時、ある牧師から、「神様について、自分が今、一番強く、何が必要ですか?」と聞かれた時、私はとっさに「憐れみです。」と答えました。今もその気持ちは変わっていません。自分はそのままでは決して生きられない、必ず裁きを受ける。だから、主の憐れみによってのみしか、御国に入ることはできないという気持ちがあります。
そしてすばらしいことに、聖書の約束は、その憐れみはいつまでも続くということです。神は真実な方だからです。なんというすばらしい神の真理でしょうか!神の御性質でしょうか!
さらに、「主こそ、私の受ける分です。」という告白も重要です。自分の栄誉、望みはすべてなくなったとしても、主ご自身がおられます。この方が自分にとっての相続であり、この方がおられるだけで十分だ、という確信、そして満足を表している言葉です。私たちは、持っているでしょうか?
そして次に、この告白と理解に基づいて、具体的にこれからの生活と人生をどのように歩んでいけば良いかについて、エレミヤは述べます。
3:25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。3:26 主の救いを黙って待つのは良い。3:27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。3:28 それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
くびきを負わされることは、屈辱的なことです。特に、体力があり、希望のある若者が黙ってくびきを負うのは、なおさら辛いことです。けれども良いのです、主の憐れみは尽きることなく、自分は生かされているのですから。
そしてその屈辱を体験することによって、自分はただ主のみに期待し、主を求めるようになります。この主との関係の基盤が大事なのです。
3:29 口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。3:30 自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。
口を塵につける、また自分を打つ者に頬を与えることは、奴隷に対して語られていることです。ユダヤ人が今、奴隷としてバビロンに捕え移されています。このような仕打ちを受けても、主はずっとこのままにしておられるのではありません。
3:33 主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。
ここです、私たちが心の奥底で受け入れなければいけない真理です。ただむやみに苦しめておられるのではなく、目的があるのです。主を求め、主を待ち望み、主のみを自分の分け前としていくことを学ぶという、とても大事な教訓があるのです。このような苦しみを通らなければ、私たちの命の根底にあるところの主との関係を学ぶことはできないのです。
悪魔はこれを、「神は意地悪であるから、このようなことをしているのだ。」と私たちの耳に吹き込みます。そしてそれを聞き入れて、主から離れてしまうことがどれほど多いことでしょうか!
3:34 地上のすべての捕われ人を足の下に踏みにじり、3:35 人の権利を、いと高き方の前で曲げ、3:36 人がそのさばきをゆがめることを、主は見ておられないだろうか。
悪が行なわれている時に、「だから神はいない」という人々がたくさんいます。けれども、そうではないのです、主は見ておられます。
3:37 主が命じたのでなければ、だれがこのようなことを語り、このようなことを起こしえようか。3:38 わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。
はい、ここです。主が良いことだけでなく、悪いことにおいても介入しておられるという真理です。ですから悪いことが起こっていても、主はそれをご自分の御心とし用いておられるのです。
私たちが日本において、クリスチャンになる人が少なくて、神が本当に気にかけておられるのか?と感じる時がありますね。けれども、1%以下であっても、そのようにされているのは神ご自身であり、神は日本に積極的に臨在しておられるのです。そして神は、エレミヤと同じように、私たちが日本のために泣くことを望んでらっしゃるのではないか?自分たちがへりくだって、主のみが自分の分け前と告白できるようにされようとしておられるのではないでしょうか?そのような主の憐れみを知ってほしいと願っておられるからではないでしょうか
3:39 生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。
これも非常に重要な点です。私たちは、状況について、悪い状況についてつぶやきます。けれども、悪い状況については、私たちはへりくだり、主を待ち望むことを神は願っておられます。つぶやくのは、自分が罪を犯した時だけにしなさい、「自分はいったい、どんなに愚かな者なんだろう。」というつぶやきだけにしなさい、ということです。
私たちはいろいろ思い煩いますが、それはすべて主に任せよ、と神は言われます。私たちの責任範囲外なのです。でも、罪については、真剣に心配したほうがよいのです。
2C 尋ね調べ 40−45
3:40 私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
今まで話したことは、この「尋ね調べる」ことです。自分と主との関係はいったいどうなっているのか、それを深く考え、自分の道、自分の心を知っていくことです。
3:41 私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。3:42 「私たちはそむいて逆らいました。あなたは私たちを赦してくださいませんでした。3:43 あなたは、御怒りを身にまとい、私たちを追い、容赦なく殺されました。3:44 あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎり、3:45 私たちを国々の民の間で、あくたとし、いとわれる者とされました。」
「罪を赦してくださる」という神と、ここで書かれている「罪を赦されない」また「祈りを遮る」というのは矛盾していません。彼らの従来の祈りは、「バビロンから救ってください」というものでした。けれども、その時、彼らは「私たちは神に背きました。」という告白はしませんでした。罪の悔い改めなしの救いを願っていたのです。
だから、その祈りは聞かれません。その結果、バビロンによって殺されました。けれども、今ここで初めて、「私たちはそむいて逆らいました」と告白しているのです。
3B 敵からの救い 46−66
1C 深い穴からの叫び 46−58
3:46 私たちの敵はみな、私たちに向かって口を大きく開き、3:47 恐れと穴、荒廃と破滅が私たちのものになった。
バビロンによる破壊のことです。
3:48 私の民の娘の破滅のために、私の目から涙が川のように流れ、3:49 私の目は絶えず涙を流して、やむことなく、3:50 主が天から見おろして、顧みてくださる時まで続く。3:51 私の目は私の町のすべての娘を見て、この心を苦しめる。
そうです、顧みてくださる時まで泣き続けます。彼女たちがこのような状態でいるからには、決して慰められることはありません。これが私たちの救霊の情熱です。日本の人たちがイエス様を信じないままで、どうして平気でいることができるでしょうか?泣くしかありません。救いのために泣いて祈るしかありません。もしこの状態に平気になったら、それこそ心から愛がなくなったということになります。
3:52 わけもないのに、私の敵となった者たちは、鳥をねらうように、私をつけねらった。
バビロンによる破壊が近づいていた時、ユダの首長らがエレミヤを迫害した時のことを、彼は思い出しています。
3:53 彼らは私を穴に入れて殺そうとし、私の上に石を投げつけた。3:54 水は私の頭の上にあふれ、私は「もう絶望だ。」と言った。3:55 「主よ。私は深い穴から御名を呼びました。
覚えていますか、エレミヤは地下牢の穴の中に入れられました。泥になっていたので、彼はその中に沈み始めました。もし、宦官のエベデ・メレクが王ゼデキヤに訴えなければ、彼は死んでいました(エレミヤ38章)。
3:56 あなたは私の声を聞かれました。救いを求める私の叫びに耳を閉じないでください。3:57 私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。3:58 主よ。あなたは、私のたましいの訴えを弁護して、私のいのちを贖ってくださいました。
ここにも、「私たちが滅び失せなかったのは、主の恵みによる」という神の真実があります。主はエレミヤを殺さずに生かしておいてくださいました。
2C 敵への報復 59−66
3:59 主よ。あなたは、私がしいたげられるのをご覧になりました。どうか、私の訴えを正しくさばいてください。3:60 あなたは、私に対する彼らの復讐と、たくらみとをことごとくご覧になりました。
救い出されたエレミヤは、迫害者に対する復讐を主にお願いします。
3:61 主よ。あなたは、私に対する彼らのそしりとすべてのたくらみとを聞かれました。3:62 私の敵のくちびると彼らのつぶやきが、一日中、私に向けられています。3:63 彼らの起き伏しに目を留めてください。私は彼らのからかいの歌となっています。3:64 主よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し、3:65 横着な心を彼らに与え、彼らに、あなたののろいを下してください。
バビロンによって滅ぼされるという警告に横着になってほしいと願っています。
3:66 主よ。御怒りをもって彼らを追い、天の下から彼らを根絶やしにしてください。」
激しい祈りをしていますね。ダビデの詩篇の中にも、迫害を受けた時の祈りはこのようなものでした。私たちは、「敵を愛しなさい」と言われましたね。そうです、愛さなければいけません。愛することができるまで、戦い祈らなければいけません。けれども、その祈りの戦いの中で、主に復讐をおゆだねするのです。復讐は自分のすることではなく、神がなさることだ、と主にすべてを任せるのです。これが復讐についての祈りです。
2A エルサレムの零落 4
次に1章に引き続き再び、エルサレムが落ちぶれてしまう、その写実的な姿をエレミヤは描いています。
1B 飢え衰え 1−16
1C 一般の民 1−12
4:1 ああ、金は曇り、美しい黄金は色を変え、聖なる石は、あらゆる道ばたに投げ出されている。4:2 純金で値踏みされる高価なシオンの子らは、ああ、陶器師の手で作られた土のつぼのようにみなされている。
今、エルサレムに行っても夕映えによって黄金に輝いて見えますが、当時のソロモンによって建てられたエルサレムは神殿に使われていた金によって、燦々と輝いていたことでしょう。ところが、バビロンによって投げ出され、持ち去られています。
4:3 ジャッカルさえも乳房をあらわし、その子に乳を飲ませるのに、私の民の娘は、荒野のだちょうのように無慈悲になった。
だちょうは本当に奇妙な動物です。一般の動物にある母性本能が一切ありません。産んで、砂漠の暑さの中で孵化するのですが、唯一の気遣いは、他に孵化しそうな卵のそばに新しい卵を産み落とすことです。孵化した雛が、その卵を最初の食べ物にするためです。
聖書の中には、例えばヨブ記に、このことについて神が、「わたしが、それに知恵を忘れさせ、悟りを授けなかった。(ヨブ39:17参照)」と言われています。
4:4 乳飲み子の舌は渇いて上あごにつき、幼子たちがパンを求めても、それを裂いて彼らにやる者もない。
ああ、本当にかわいそうです。私たちは、アフリカの貧しい国でこの様子を見ますが、心が辛くななり、見ることができない光景です。
4:5 ごちそうを食べていた者は道ばたでしおれ、紅の衣で育てられた者は、堆肥をかき集めるようになった。
豊かにしていた者が急変した姿を見るのも、辛いことです。
4:6 私の民の娘の咎は、人手によらず、たちまちくつがえされたソドムの罪より大きい。
なぜソドムより罪が大きいのでしょうか?彼らには知識は少なかったけれども、ユダヤ人には多かったからです。どちらが正しいのかと言えば、やはりユダです。ソドムほどユダは酷いことをしませんでした。けれども裁きはもっと大きいのです。主は、私たちに与えられる知識に応じて、責任を取らせます。
イエス様がカペナウムに対して、こう預言されました。「カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。(マタイ11:23-24)」カペナウムはイエス様の宣教の本拠地であり、一番、イエス様の栄光を見ていたにも関わらず、この方を信じませんでした。
4:7 そのナジル人は雪よりもきよく、乳よりも白かった。そのからだは、紅真珠より赤く、その姿はサファイヤのようであった。4:8 しかし、彼らの顔は、すすよりも黒くなり、道ばたでも見分けがつかない。彼らの皮膚は干からびて骨につき、かわいて枯れ木のようになった。
すばらしい体の持ち主も、飢えで干からびてしまっています。
4:9 剣で殺される者は、餓え死にする者よりも、しあわせであった。彼らは、畑の実りがないので、やせ衰えて死んで行く。
飢えで死んでいくその悲惨さを見なくても済んだ、ということです。
4:10 私の民の娘の破滅のとき、あわれみ深い女たちさえ、自分の手で自分の子どもを煮て、自分たちの食物とした。
これは、前回も読みました。飢えの中で起こる最も悲惨な出来事、そして主がモーセを通して語られた最も大きな呪いの一つが、この母が子を食べるということです。
4:11 主は憤りを尽くして燃える怒りを注ぎ出し、シオンに火をつけられたので、火はその礎までも焼き尽くした。4:12 地の王たちも、世に住むすべての者も、仇や敵がエルサレムの門に、はいって来ようとは信じなかった。
まさか、エルサレムが滅びるなんてと、諸国の王たちも思っていました。エルサレムは神がおられるところであり、あのような黄金に輝く神殿があり、これまでもアッシリヤ軍が滅んで、無敵であったと思ったのに、その門をくぐる敵がいるとは、と衝撃を受けています。
2C 預言者と祭司の罪 13−16
なぜ、エルサレムの門の中にまで入ってきたのか?その理由は、その中で悪が行なわれていたからです。
4:13 これはその預言者たちの罪、祭司たちの咎のためである。彼らがその町のただ中で、正しい人の血を流したからだ。4:14 彼らは血に汚れ、盲人のようにちまたをさまよい、だれも彼らの着物に触れようとしなかった。
預言者と祭司たちの働きは、弱い人、貧しい人に向けられるべきです。その人たちを強めるために存在するのに、それをむしろ避けることを行なってきたのが罪だと言います。これは教会の働きでもあります。「私たちの力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。(ローマ15:1)」とありますが、もし自分たちだけで喜んでいる教会にしているなら、私たちもこの罪を犯しています。
4:15 「あっちへ行け。汚れた者。」と人々は彼らに叫ぶ。「あっちへ行け。あっちへ行け。さわるな。」彼らは、立ち去って、なおもさまよい歩く。諸国の民の中で人々は言う。「彼らはもう立ち寄ってはならない。」4:16 主ご自身も彼らを散らし、もう彼らに目を留めなかった。祭司たちも尊ばれず、長老たちも敬われなかった。
これまで、「汚れた者だ」と言って、弱っている人、貧しい人を避けていた預言者、祭司たち自身が、汚れた者として敬遠されている状態になりました。
2B 滅び 17−22
4:17 それに、私たちの目は、衰え果てた。助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。
これはエジプトです。エジプトが来て、バビロンから自分たちを救ってくれるものと思っていましたが、やってきませんでした。
4:18 私たちの歩みはつけねらわれて、私たちは広場を歩くことができなかった。私たちの終わりは近づいた。私たちの日は満ちた。私たちの終わりが来たからだ。
バビロンに包囲され、エルサレムが滅びようとしています。
4:19 私たちを追う者は、大空の鷲よりも速く、山々の上まで追い迫り、荒野で私たちを待ち伏せた。4:20 私たちの鼻の息である者、主に油そそがれた者までも彼らの落とし穴で捕えられた。「この者のおかげで、諸国の民の中でも私たちは生きのびる。」と私たちが言った者なのに。
この油注がれた者とは、ゼデキヤ王のことです。王は油注ぎによって任命を受けますが、彼がアラバへの道を逃げていたときに、捕えられてしまいました。
4:21 ウツの地に住むエドムの娘よ。楽しみ喜べ。だが、あなたにも杯は巡って来る。あなたも酔って裸になる。4:22 シオンの娘。あなたの刑罰は果たされた。主はもう、あなたを捕え移さない。エドムの娘。主はあなたの咎を罰する。主はあなたの不義をあばく。
エドムについてはこの前も話しましたが、バビロンによってエルサレムが滅んだ時に、そこに来て、その破壊を喜んだのです。それほどエドムは偏屈であり、イスラエルに対して憎しみを抱いていました。それゆえ、主は、エドムを完全に滅ぼされます。
3A 回復への叫び 5
最後、5章では、エレミヤが先んじていのった祈りについて、ユダヤ人の残りの者たちが罪を悲しみ、回復を願う祈りを捧げる場面です。主語が「私たち」となっています。
1B 他国人の虐げ 1−18
1C 失われた権利 1−10
5:1 主よ。私たちに起こったことを思い出してください。私たちのそしりに目を留めてください。顧みてください。5:2 私たちの相続地は他国人の手に渡り、私たちの家もよそ者の手に渡りました。
彼らは、自分たちが所有していたもの、また自分たちの権利が奪われて、奴隷状態となってしまったことを嘆いています。
5:3 私たちは父親のないみなしごとなり、私たちの母はやもめになりました。5:4 私たちは自分たちの水を、金を払って飲み、自分たちのたきぎも、代価を払って手に入れなければなりません。
自分たちの土地の水だったのに、今はバビロンのものになっているので、代価を支払わないといけません。
5:5 私たちはくびきを負って、追い立てられ、疲れ果てても、休むことができません。5:6 私たちは足りるだけの食物を得ようと、エジプトやアッシリヤに手を伸ばしました。
食物を得るために、遠く南のエジプトのほうまで、また北のアッシリヤ地域まで探しに行きました。
5:7 私たちの先祖は罪を犯しました。彼らはもういません。彼らの咎を私たちが背負いました。
エルサレムが破壊されてからしばらく経っているのでしょう、このような目にあっているのは「先祖の罪」であると言っています。
5:8 奴隷たちが私たちを支配し、だれも彼らの手から私たちを救い出してくれません。
これが一番酷い形の支配です。「奴隷根性」という言葉がありますね、自分が奴隷だったので主人の立場につくと、反動で酷い酷使をします。
5:9 私たちは、荒野に剣があるために、いのちがけで自分の食物を得なければなりません。
食物を得るところ、またその途中は、自分たちが通っていけない場所なのでしょう。兵が剣をもって警備しているようなところでも、行かなければいけないということです。
5:10 私たちの皮膚は、飢えの苦痛のために、かまどのように熱くなりました。
飢えた人が皮膚に感じる熱さです。
2C 奴隷生活 11−18
そして、それぞれの人々が追っている奴隷生活を次に描いています。
5:11 女たちはシオンで、おとめたちはユダの町々で、はずかしめられました。
女性たちは強姦されます。戦争には付き物です。
5:12 首長たちは彼らの手でつるされ、長老たちも尊ばれませんでした。
地位のある人にはそれなりの尊厳が与えられてしかるべきですが、バビロンはそれさえもしませんでした。
5:13 若い男たちはひき臼をひかされ、幼い者たちはたきぎを背負ってよろめき、5:14 年寄りたちは、城門に集まるのをやめ、若い男たちは、楽器を鳴らすのをやめました。
みなが奴隷生活を強いられています。幼い者までが、重く束ねたたきぎを背負っています。
5:15 私たちの心から、喜びは消え、踊りは喪に変わり、5:16 私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。5:17 私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。5:18 シオンの山は荒れ果て、狐がそこを歩き回っているからです。
今の災いを、すべて自分の罪のせいにしています。真の罪の告白であり、悔い改めです。責任を周囲の環境のせいにするのではなく、すべて自分のせいなのだとすることが、回復の始まりです。
放蕩息子の例えを思い出してください。放蕩息子は、神が罪人を受け入れる愛について、日本の教会では好んで語られる箇所ですが、しばしば重要な箇所を言い忘れています。父の財産の分け前をもらったあの弟息子は、豚の食べるえさで腹を満たしたいと思うほど惨めな姿になったとき、こう言いました。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』(ルカ15:17-19)」子と呼ばれる資格はない、としたのです。雇い人の一人にしていただくだけでも、ありがたいと思ったのです。自分が犯した罪に対して、このように責任を取っています。
自分が神の裁きに甘んじる、神から来る苦しみは受けて当然だ。この認識があって、初めて私たちは神の恵みが恵みであることを知ることができるのです。初めから、「地獄なんてとんでもない。そんなところに私は行くことはない。でも、天国があるなら行ってみたい。」ということではないのです。
2B とこしえの御座 19−22
5:19 しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。
すばらしい告白です。主は御座におられる。このようなひどい状況にあっても、神がいなくなられたのではない、むしろ支配されているという認識です。
5:20 なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。私たちを長い間、捨てられるのですか。
帰還までには70年が必要でした。この長い期間を待たなければいけません。その間、このように嘆きの声を上げていかなければなりません。
これが罪を悲しむことです。主はあえて、このように私たちに罪を悲しむようにされます。このことによって、私たちが回復するときに、神の憐れみに基づいた関係、主のみを自分の分け前とする関係をもって回復できるようにするためです。
5:21 主よ。あなたのみもとに帰らせてください。私たちは帰りたいのです。私たちの日を昔のように新しくしてください。5:22 それとも、あなたはほんとうに、私たちを退けられるのですか。きわみまで私たちを怒られるのですか。
この最後の節は、「それとも」という接続詞はありません。新共同訳ですと、ただ「あなたは激しく憤り/わたしたちをまったく見捨てられました。」とあります。昔のように新しくしてほしいのだが、今はまったく退けられ、見捨てられたように感じます、と泣き悲しんでいるのです。
哀歌はこれで終わってしまって希望がないのですが、けれども、神によって悲しむという重要性を強調しています。私たちはこれを避けたいのです。すぐに癒されたいのです。すぐに立ち返って、これまでと変わりない生活を送りたいのです。けれども、それが偽預言なのだということを私たちはエレミヤを通して知りました。大きく開かれた傷を、気軽に癒して、「平安だ。平安だ。」と言ってしまうのです。
私たちがこの人格の深いところで感じる悲しみを経た時に、その後に真の癒しがあります。真の回復があります。悲しんだからこそ、得ることのできる幸いがあります。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(ヘブル12:11)」「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5:4)」