レビ記1章 「生ける供え物」
アウトライン
1A はじめに
1B 出エジプト記との関連
1C 時 − 幕屋が造られたあと
2C 場所 − 幕屋の中
3C 登場人物 − 神ご自身
4C 内容 − 礼拝
2B テーマ 「聖潔への招き」
1C キーワード 「聖い」
2C 特徴 「呼びかけ」
3B アウトライン
1C いけにえによる神への近づき 1−15章
2C 聖別による神との歩み 16−27章
2A 最初の応答 − 全焼のいけにえ
1B 性質 − 自発的 1−2
1C 条件 「もし」
2C 内容 家畜(自分自身)
2B 対象 − キリストの贖い 3−9
1C 性質 「傷のない」(無罪性)
2C 特徴 「手を置く」(犠牲)
3C 効果 「主の前」(個人的)
4C 内容 「血を注ぐ」(契約)
3B 効果 − 罪の除去 10−13
1C 特徴 「部分に切り分け」(契約)
2C 内容 「洗い」(きよめ)
4B 特徴 − 犠牲 14−17
1C 責任 「鳥」
2C 結果 「なだめのかおり」
本文
レビ記1章を開いてください。今日からレビ記を学びます。メッセージの題は、「生ける供え物」です。私たちがイエスさまを信じてから、神への生ける供え物として生きていくことになります。
1A はじめに
私は、このレビ記を準備しはじめて、とてもわくわくしています。今までの、モーセ五書の学びと同じように、これら聖書の最初の書物は、私たちクリスチャン生活の土台となる教えを提供してくれていることを知るからです。また、新約聖書において説明されている、目に見えない真理や抽象的な事柄が、モーセ五書においては、目に見える形になって現われています。ちょうど、まだ文字を読むことのできない子どもが、紙芝居によって神の真理を知ることができるようにです。実際、神が、イスラエルの民にさまざまな不思議としるしを与えられたのは、その目的の一つが、子どもに教えるためであると書かれています。
そして、私たちは、このモーセ五書が、神の祝福について述べていることを学びました。神がアブラハムに、「わたしは、あなたを祝福する。」と言われたように、この豊かな、祝福された人生を与えることが、神が私たちに持っておられる目的です。神は、私たちを、厳しい規則によって縛って、懲らしめるために選ばれたのではありません。イエスは、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10)」と言われました。そこで、創世記においては、神は、祝福の約束について描かれています。アブラハムとイサクとヤコブに、神は、「あなたを大いなる者とする。子孫は星の数のようになり、あなたはこの地を所有する。」と約束されました。彼らは、それを目で見ることはありませんでしたが、その約束を信じて死にました。ですから、私たちが神から祝福されるには、信仰が必要であることを学びます。
そして、出エジプト記に入ると、その約束が実現されたのを見ます。けれども、祝福とは反対の、奴隷状態から救い出された結果として与えられたのを見ます。つまり、出エジプト記では贖いについて書かれています。イスラエル人の子孫がエジプトでふえて、そのためエジプトで奴隷として苦役を課せられました。しかし、神は、エジプトに災いを与えて、過越の子羊の血を見てイスラエルを救い出し、また、エジプト軍を紅海に沈めることによって救い出されました。同じように、私たちは、キリストの血潮によって救われ、私たちの古い人がキリストとともに死んだことによって救われたのです。そして、神は、イスラエルをシナイ山に導かれ、シナイ山の上でご自分が聖なる方であることを示されました。神は、律法を与えられることによって、ご自分がどのように聖い存在であるかを明らかにされました。また、幕屋を造ることを命じられて、「わたしはそこに住む。」と言われました。同じように、神は、今の人間にも聖霊によって、神の聖さを人に啓示して、自分の罪深さを示して、イエスを救い主と信じるように促し、そして、信じた者の内側に生きてくださいます。このように、出エジプト記を読むと、神がどのようにして人間をお救いになるのかを見ることができるのです。
1B 出エジプト記との関連
1C 場所 − 幕屋の中
そして、私たちは前回、イスラエルの民が主に命じられたように、幕屋を建設した部分を学びました。各部分を造りましたが、最後にモーセが組み立てて、ついに出来上がりました。そうすると、主の栄光が幕屋の中に満ちました。出エジプト記40章34節をご覧ください。レビ記1章の前のページです。「そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」こうして出エジプト記は終わりました。けれども、話はそのままレビ記に続くのです。ふたたびレビ記1章一節をご覧ください。主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。とあります。主が、栄光の雲が満ちていた幕屋の中におられて、そこからモーセを呼び寄せられました。レビ記のヘブル語の題名は、「そして、主は呼び寄せられた。」となっています。レビ記は、このように、モーセを、またイスラエルの民をご自分のところに呼び寄せている書物となっています。出エジプト記では、主がイスラエルに近づいてくださった記事を読むことができました。イスラエルが宿営を張っているシナイ山のところに現れてくださいました。レビ記では、イスラエル人が主に近づき、主ともに歩むように導かれています。ですから、私たちはレビ記から、私たちが主に近づいて、主ともに歩むことについて学ぶことができます。出エジプト記では、どのようにして救われることができるのか、どうしたらクリスチャンになるのか、について学びました。レビ記では、救われたらどのようにして生きればよいのか、クリスチャンになってから、どういう生活をすれば良いのかについて学ぶことができるのです。
2C 時 − 旅立つ前
ところで、モーセが幕屋の中に入ったのは、イスラエルがエジプトを出た時から一年後のことでした。出エジプト記40章17節には、「第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。」とあります。そして、主がモーセに語られて一ヶ月たったときに、シナイ山のふもとから約束の地へ向かう旅を始めます。民数記1章一節には、「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」とあります。この1ヶ月のあいだずっと、主はイスラエル人に、彼らがどのように主に近づき、主の中に生き、主とともに歩んでいくべきか、つまり、どのように主を礼拝すべきかについて学んだのです。それから、実際の旅をするという行動に出ました。そして、旅をしている間もずっと、幕屋における礼拝を中心とした生活を行なっていたのです。ここがとても重要です。私たちがクリスチャンになって、まず学ばなければいけないのは礼拝です。礼拝と言っても、日曜日の礼拝プログラムについて学ぶということではなく、主との交わりをするということです。この点において、あまりにも多くの教会が過ちを犯しています。教会が、伝道をして、奉仕をして、聖書を学んだり、そうしたことができる信者になるようにすることを目標にしています。ある教会が洗礼を受けたばかりの人に、このような手紙を書いたのを読んだことがあります。「一生懸命、聖書を読んでください。伝道をしてください。教会に通ってください。そうすれば、神さまから祝福されます。」とんでもないことです。このような外側の行ないを磨くことがクリスチャンになった目的ではありません。パウロは、「見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。(Uテモテ3:5)」と警告しました。外側の行ないではなく、主をほんとうに知っている、個人的に人格的に知っている、という内実をつくりあげることがクリスチャンの役目です。
3C 登場人物 − 神ご自身
そして、レビ記の特徴は、主ご自身が語りかけておられる回数が、聖書の中でもっとも多くあるということです。他の書物では、「モーセが、こうこうした。」という記事と、「主がこう仰せになった。」という記事のどちらもがあるのですが、レビ記では、「主がこう仰せになった。」という記事がほとんどになっています。38回あるようです。つまり、レビ記から、私たちは、「神を相手にして生きる」ことを学びます。他のだれかがこうした、というクリスチャン生活から、「主が何をしておられるのか。」「主はどうお考えになっているのか。」「主に対して、これらのことをする。」とか、神を相手にした生活をしていかなければいけないことを学びます。教会において、「あの人がこういうことをしている。」とか、「牧師はこうだから。」とか、人間の行動についての事柄が会話の中心になったりしています。「それでは、聖書ではどう語られているんだろうね。」とか、「神さまは、どうお考えになっているのだろう。」という会話になりません。それは、神を相手にしているのではなく、人を相手にして生きているからです。けれども、人間中心の生き方から、神中心の生き方に変えられていくことも、レビ記を学ぶことによって可能になります。
2B テーマ 「聖潔への招き」
このようにレビ記のテーマは礼拝ですが、もっと掘り下げるならば、「聖潔への招き」と言えます。
1C キーワード 「聖い」
レビ記には「聖い」という言葉が、多数でてきます。ヘブル語ではコデシュであり、もともとの意味は、「別れている」という意味です。「聖」という言葉だけなら、新改訳ですと108回、「聖なる」であれば64回、そして英語でholyは、新欽定訳ですと70回出てきます。
2C 特徴 「呼びかけ」
それもそのはず、聖なる方としてシナイ山に現れた神が、今、ご自分のもとにイスラエル人を引き寄せようとされているのですから、「聖」という言葉がたくさん出てきます。神がモーセを呼び寄せられたように、私たちも聖なる神に呼び寄せられているのであって、それゆえ、聖潔への招き、というのがテーマになります。鍵となる聖句は、「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。(11:45;19:2)」であります。これは、新約聖書における命令でもあります。ペテロは、その第一の手紙1章14節においてこう言っています。「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」ですから、私たちが神の聖さにあずかることが、レビ記で学ぶことです。
3B アウトライン
1C いけにえによる神への道 1−15章
そして、レビ記全体は二つに分かれます。1章から15章までと、16章から27章までの二つです。前半の、1章から15章までは、「いけにえによる、神への道」です。「いけにえによる、神への道」です。つまり、神に近づくときには、いけにえを必要とする、ということです。神は聖なる方ですから、そのままの私たちが神に近づくことはできません。近づけば、必ず打たれて死んでしまいます。代わりに犠牲になる存在がぜったいに必要なのです。ヘブル書9章22節には、「それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」と書いてあります。多くのクリスチャンが、自分の行ないで神に近づこうとします。聖書に書かれている戒めを守って、また、イエスさまのように自分も生きていかなければいけないと思って、努力します。けれども、そうすることができないので、悩んで、苦しんで、心に葛藤を持つのです。そこで、逆に、そんなに気張らないで自分らしく生きていこう、と考える人たちもいます。神は愛なのだから、そのままの自分を愛してくださる、と思っています。しかし、いずれにしても、神さまとの交わりを楽しむことはできません。どちらも、神に近づいていないからです。神との交わりに入るには、唯一、ささげものを持っていくことによって入ることができるのです。そのことが、1章から15章までに書かれています。
2C 聖別による神との歩み 16−27章
そして、16章から27章までは、「聖別による、神との歩み」です。「聖別による、神との歩み」です。いけにえによって神に近づいた人は、神とともにいて、神とともに歩むことができます。ただ、そのときに必要なのが聖別です。聖別とは、他のものから離れて、別けられる、という意味があります。つまり、汚れているもの、きよくないものから離れて生きることによって、神とともに歩んでいくことができるのです。私たちは、日々の生活の中で誘惑を受けています。その誘惑に抵抗するための方法は、誘惑になっているものから離れることであります。ある人が、牧師にこう言いました。「私は、主張で空港を利用するときに、どうしてもポルノ雑誌を立ち見してしまうのです。どうしたら、この誘惑に打ち勝つことができるでしょうか。」牧師は応えました。「本屋に立ち寄らないことですね。」相談した人は驚きました。「ちょっと待ってくださいよ。たとえば、こうやって祈ればいいとか、こういう御言葉があるとか言われると思っていたのに、本屋に立ち寄らないなんてできませんよ。」牧師は応えました。「いや、あなたが誘惑になっているものから離れるのが、誘惑に打ち勝つ方法です。」このように、いったん、いけにえによって神に近づいた私たちは、汚れたものから離れることによって、神との交わりを維持することができます。
2A 最初の応答 − 全焼のいけにえ
そして、1章から15章の前半部分のうち、最初の7章には、神が要求されているいけにえの種類が書かれています。主に5種類あります。全焼のいけにえ、穀物のいけにえ、和解のいけにえ、罪のいけにえ、そして罪過のいけにえです。この5種類のいけにえについて、神が私たちのどのようにささげるべきかを最初の7章で学ぶことができます。そして、今日読むところの1章は、全焼のいけにえについてであります。
全焼のいけにえとは、文字通り、すべてが火によって燃え尽くされるいけにえです。これは、聖書で述べられているいけにえのうちで、もっとも古いいけにえです。ノアが、洪水のあとに箱舟から出てきて、そのとき祭壇の上でささげたのが全焼のいけにえでした。アブラハムも、イサクも、ヤコブも全焼のいけにえをささげています。そして、この全焼のいけにえの示すところは、自分のすべてを神にささげることです。自分自身をすべて神にささげることが、全焼のいけにえであります。ローマ人への手紙で、パウロは、神が私たちに注がれたあらゆる霊的祝福を述べたあとで、12章の1節でこのように言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」私たち自身が、神に対する全焼のいけにえとなるのです。
私たちがイエスさまを信じて、まずいちばん初めに行なうべきことは、この「ささげる」という行為です。これは、自分の仕事をやめたり、財産を教会にささげるということではなく、神さまの計画とみこころを全面的に受け入れることを意味します。「イエスさま、あなたがこれから私の人生の主です。私にはいろいろな願いや思惑がありますが、それらが、あなたが考えておられることに反するならは、あなたの意思を優先します。」と祈ることが、自分自身をささげることになります。神が主権をもっておられ、神がご自分の思うままにすべてのことを行なわれることを認めるのです。イエスさまを信じてから、後でつまずいて信仰を捨ててしまう人、また、クリスチャンになって何十年たっても愛や喜びや平安の実が結ばれていない人は、このような決断ができていないからであります。自分の人生にイエスを主として迎えたのではなく、自分のために助けてくださる方、支えてくださる方、困ったときに救い出してくださるかた、自分の願いをかなえてくださる方などとして受け入れています。けれども、イエスさまを救い主として受け入れるとき、その次にしなければならないのは、自分自身をすべて神にささげることであります。
1B 性質 − 自発的 1−2
それでは、1節と2節を読みます。主はモーセを呼び寄せ、会見の天幕から彼に告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。もし、あなたがたが主にささげ物をささげるときは、だれでも、家畜の中から牛か羊をそのささげ物としてささげなければならない。
1C 条件 「もし」
主は、まずイスラエル人全般についてモーセに語っておられます。アロンとその子の祭司についてではなく、イスラエル人について語っておられます。なぜなら、幕屋は、イスラエル人すべての人たちのものだったからです。この幕屋が建設されるときに、この材料はすべて、イスラエル人によってささげられました。そのときに頻繁に出てきたのは、「感動して、心から進んでささげる」という言い回しでした。ささげたくない者は、ささげる必要はまったくなく、ただ、心が動かされた人たちによってささげられたのです。そして、イスラエル人は喜んでささげたので、幕屋の建設には余りあるほどになってしまいました。今、このできあがった幕屋のところに来て、主を礼拝したいと願っているのは、この一般のイスラエル人たちだったのです。だから主は、まずイスラエル人に対して語られています。これは、教会のあるべき姿でもあります。教会を、牧師が奉仕するところ、牧師が伝道するところと考えているクリスチャンがあまりにも多くいます。しかし、それは大きな間違いです。主役は信者ひとりひとりであり、信者がすべて、伝道、奉仕などの特権と責任を持っているのです。
そして、ここで、ささげるのは、「もし、だれでも」となっていることに注目してください。イスラエル人がささげなければいけない、と言った命令ではなく、もしささげる人がいるならば、こうのようにささげなさい、と言っているのです。つまり、全焼のいけにえをささげるのは、まったくの自由なのです。ささげることを強制されることはなく、ささげなくても一向に良いのです。これは新約聖書にも貫かれている原則ですね。イエスは、「あなたがたは聞きなさい。」と強要することをせず、「聞く耳のある者は聞きなさい。(マルコ4:9)」と言われました。また、ただやみくもに、イエスさまの命令を守らなければいけないのではなく、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守ります。(ヨハネ14:15)」という条件つきのものでした。ですから、私たちは、自分自身を神にささげることについて、他人には決して強制することができません。「もっと、教会の奉仕に積極的にならないと。」と説得して、たとえその人がその奉仕をしたとしても、心から進んだ自発的なものでなければ、神に受け入れられないのです。けれども、その一方、ささげることはまったく自由だ、という話しを聞くと、「じゃあ、ささげなくてもいいのだ。」と思う人たちがいます。もちろん、ささげなくても良いのですが、ささげるのは自分のためであることをその人は忘れています。神は、べつに私たちを必要としていません。私たちがささげなくたって、神は痛くもかゆくもないのです。損をするのは私たち自身です。私たちはささげることによって、神と親しい交わりをするという霊的祝福にあずかることができるのです。
2C 内容 家畜(自分自身)
そして、ここで、ささげる動物が家畜になっています。猟をして生け捕りにした、野生の動物はいけにえで用いることはできません。聖書では、猟をすることが否定的に描かれています。例えば、ニムロデは力ある猟師であると書かれていますが、彼によって、あの忌むべきバベルの町ができました。また、エサウは、外に行って猟をするのが好きでしたが、「俗悪な者」であったとヘブル書12章16節には書かれています。なぜ、野生の動物ではなく、家畜が要求されるかというと、家畜が自分のものであるからです。自分が育て、養い、世話をしているような、自分の財産であり、貴重な財産だからです。自分にとって尊い存在をささげるからこそ、それが神に受け入れることになります。自分自身をささげるとは、主が自分にとって最も大切な方とし、もっとも愛しすることだからです。
2B 対象 − キリストの贖い 3−9
それでは3節から9節までを読みます。もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、主に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。日本語では出てきませんが、英語では、「主に受け入れられるために、自分の自由意思で、連れて来なければならない。」となっています。ですから、自発的なささげものです。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。その人は主の前で、その若い牛をほふり、祭司であるアロンの子らは、その血を持って行って、会見の天幕の入口にある祭壇の回りに、その血を注ぎかけなさい。祭壇とありますが、おぼえていますか、幕屋は入口から入ると、最初に祭壇を見ることができます。縦横がおよそ2メートルという大きなグリルです。また、その全焼のいけにえの皮をはぎ、いけにえを部分に切り分けなさい。祭司であるアロンの子らは祭壇の上に火を置き、その火の上にたきぎを整えなさい。祭司であるアロンの子らは、その切り分けた部分と、頭と、脂肪とを祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。祭司はこれら全部を祭壇の上で全焼のいけにえとして焼いて煙にする。これは、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。なだめのかおりとは、香ばしいかおりのことです。つまり、このいけにえが神に受け入れられたことを現わしています。
このようにささげられる牛は、いったい何を表しているのでしょうか。ほふられて、血が注がれ、最後は香ばしいかおりを放ちます。新約聖書では、これは、主イエス・キリストを表わしていると言っています。使徒パウロが言いました。「キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5:2)」イエスさまが、私たちのために全焼のいけにえとなられたのです。
1C 性質 「傷のない」(無罪性)
3節をご覧ください。いけにえの牛は、「傷のない」ものでなければいけません。英語ではこの「傷」は”blemish”になりますが、この言葉を私がアメリカにいるとき、歯医者さんで聞きました。王冠の型を取るときに、blemishがあってはならない、と話していました。削った歯型に合うように、どのような気泡も、欠陥も造ってはならない。完全に正確な型でなければいけない、ということです。このように、傷のない牛でなければいけないのですが、ペテロの第一の手紙18章には、「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」とあります。イエスがこの地上におられたとき、ただ一度も罪を犯すことのなかった、完全な方でありました。
2C 特徴 「手を置く」(犠牲)
そして、4節には、牛の頭の上に手を置く、とあります。手を置くのは、手を置いた対象といっしょになる、という意味があります。パウロとバルナバが宣教地に遣わされるとき、アンティオケの教会の指導者たちが、二人に手を置きましたが、それは、二人が教会の代表として遣わされることを意味していました。ですから、牛のうえに手を置くのは、自分のために、イエス・キリストがご自分のすべてをおささげになったことを意味します。
3C 効果 「主の前」(個人的)
そして5節には、「主の前」となっていることに注目してください。物理的には、幕屋の入り口のところでほふられたのですが、そこは主の前だったのです。3節には、「主に受け入れられるために」とあります。つまり、牛を連れて来た人は、祭司のためにも、他のだれのために対して、これらのことを行なうのではなく、あくまでも主に対して行なうのです。同じように、私たちが主イエスさまに自分自身をささげるのは、牧師のためでもなく、教会のためでもなく、家族のためでもなく、他のだれのためでもなく、主に対してささげるのです。
4C 内容 「血を注ぐ」(契約)
そして、血が祭壇のまわりに注がれます。これはむろん、私たちのために流されたイエス・キリストの血潮を表わしています。牛をほふっている人が、牛を連れて来た本人であることに注目してください。自分の牛ののどを、自分が掻き切るのは、自分自身が直接的に、この牛を死なせたことを示します。同じように、私たちは、自分自身が、イエスを十字架に追いやった。自分がイエスを十字架につけたのだ、と信じなければならないのです。
ですから、この全焼のいけにえは、イエスさまご自身を表わしているのですが、ここがとても大事なのです。私たちが、自分自身を神にささげるとは、あくまでも、イエス・キリストが私たちのためにしてくださったことへの応答である、ということです。私たちが神にささげる前に、イエスさまが私たちにささげてくださいました。私たちが神に仕えるために、イエスさまが私たちにお仕えになりました。イエスさまは、十字架につけられる前に、過越の夕食を弟子たちととっておられるとき、その席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれました。そして、弟子たちの足を洗われたのです。ペテロは、「主よ。あなたが私の足を洗ってくださったのですか。」と言いました。主人である方が、しもべの足を洗うのはあべこべなのです。けれども、イエスさまが、弟子たちを最後まで愛されて、弟子たちにお仕えになって、ご自分のすべてをささげられたから、弟子たちは後に、主イエスに自分のすべてをささげることができるようになったのです。ですから、私たちが、神に自分自身のすべてをささげることができるのは、まず自分のためにすべてをささげてくださったイエスさまがおられるからです。パウロは言いました。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(2コリント5:14)」キリストの愛が、私たちを駆り立てる唯一の動機であるのです。
3B 効果 − 罪の除去 10−13
それでは、10節から13節までを読みます。しかし、もし全焼のいけにえのためのささげ物が、羊の群れ、すなわち子羊またはやぎの中からなら、傷のない雄でなければならない。先ほどの動物は牛でしたが、今度は羊です。けれども手順はほとんど同じです。その人は祭壇の北側で、主の前にこれをほふりなさい。そして祭司であるアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。また、その人はそれを部分に切り分け、祭司はこれを頭と脂肪に添えて祭壇の上にある火の上のたきぎの上に整えなさい。内臓と足は、その人が水で洗わなければならない。こうして祭司はそれら全部をささげ、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
1C 特徴 「部分に切り分け」(契約)
牛のいけにえのときもそうでしたが、祭壇の上で焼くときに、からだを部分に切り分けなければいけません。これは単に、焼きやすいようにとか、祭壇のサイズに入るようにするためではありません。創世記15章には、神がアブラハムに、子孫と土地の約束を確認される場面が出てきます。アブラハムが、「どうしてこの土地が私の所有であることを、どのように知ることができましょうか。」と聞きました。主は、「わたしのところに、3歳の雌牛と、3歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持ってきなさい。」と言われました。アブラハムは、「それを全部持ってきて、それらを真二つに切り裂いて、その半分を互いに向かい合わせにした。」と書いてあります。そして、夜になったときに、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれたものの間を通りすぎた、とあります。この切り裂く儀式は、当時の契約を結ぶときの証印でした。契約を結ぶ双方がその動物の間を通って、「もし、この契約を破れば、この動物のようにされる。」ということを示すものでした。アブラハムに対しては、主は、ご自分が一方的にその間を通られたので、人がこの契約を破ったとき、主ご自身がその罰を受けるということを表わしています。それは、ひとり子であるイエス・キリストが、私たちの代わりに死んでくださったことによって実現しました。このように、祭壇で焼くときに部分に切ることは、イエスさまによって、神と私たちとの契約が確かに結ばれたことを意味します。
2C 内容 「洗い」(きよめ)
そして、内臓と足を水で洗うように書かれているのは、何を表わしているでしょうか。新約聖書では、水の洗いは良心のきよめを表していると書いてあります。イエスさまの犠牲によって、私たちの心はきよめられました。罪が取り除かれたのです。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。(詩篇103:12)」と詩篇の筆者は言いました。このきよい心で、私たちは自分自身を主におささげします。
4B 特徴 − 犠牲 14−17
それでは、14節から17節をご覧ください。もしその人の主へのささげ物が、鳥の全焼のいけにえであるなら、山鳩または家鳩のひなの中から、そのささげ物をささげなければならない。祭司は、それを祭壇のところに持って来て、その頭をひねり裂き、祭壇の上でそれを焼いて煙にしなさい。ただし、その血は祭壇の側面に絞り出す。またその汚物のはいった餌袋を取り除き、祭壇の東側の灰捨て場に投げ捨てなさい。さらに、その翼を引き裂きなさい。それを切り離してはならない。そして、祭司はそれを祭壇の上、火の上にあるたきぎの上で焼いて煙にしなさい。これは全焼のいけにえであり、主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
1C 責任 「鳥」
鳥をささげるときの規定が書かれています。牛のつぎは羊で、その次は鳥でした。これは、牛がもっとも高価であり、次に羊で、鳥は3つのうちでもっとも安い動物です。高すぎて、牛をささげることができない人は羊、羊でさえささげることができない貧しい人は、鳥をささげます。おぼえていますか、ヨセフとマリヤが生まれたイエスを神殿に連れて来たとき、鳥をささげました。これは、ヨセフの家は経済的に貧しかったことを表わしています。イエスは貧しい家庭で育ったのです。パウロは、こう言いました。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(Uコリント8:9)」このように、どのような経済的状態の家族であっても、主に受け入れられる全焼のいけにえをささげることができるように律法で定められていたのです。主は、私たちの持っていないものをささげなさい、と命じることはありません。自分の持っているものでささげなさい、と命じられているのです。ですから、だれでもささげることができるし、また、自分はささげることができないと言い訳を言うことはできません。
2C 結果 「なだめのかおり」
けれども、このような鳥のいけにえでも、牛のいけにえと同じように、主が受け入れてくださる、というのはすばらしいですね。「主へのなだめのかおりの火によるささげ物である。」という言葉で締めくくられています。ですから、自分がどれだけのものをささげることができたのか、ということを神は気にしておられません。今の自分をすべてささげているか、ということを気にしておられます。今、自分がいる場所で、今の状況で、今、自分がもっているものでささげているか。このことが問われています。そして、これは、だれからも問いただされるものではなく、純粋に主と自分との関係です。主ご自身でさえも、ささげるように強要することはありません。ただ、キリストの愛に駆り立てられて、主との交わりのなかに深く入っていきたい、もっと神を深く知っていきたい、神を礼拝したい、という願いを持った人が、ささげるのです。その生ける供え物は、神が快く受け入れ、たとえ人がたいしたものではないと思ったとしても、神は喜んでくださいます。