レビ記10章13節 「異なった火」

アウトライン

1A 祭司の務め
2A 祭壇からではない火
   1B 主からの火
   2B 自分で作った火
   3B ぶどう酒
3A 主の栄光に触れる者

本文

 レビ記の10章を開いてください。第二礼拝では8章から10章あるいは11章まで学んでみたいと思っていますが、今晩は101節から3節に注目してみたいと思います。

10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。10:2 すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。10:3 それで、モーセはアロンに言った。「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」それゆえ、アロンは黙っていた。

 私たちは前回、火によるいけにえや穀物の捧げ物についての教えを読みました。それはみな、建てられたばかりの神の幕屋に、神がそこからモーセを呼び寄せて教えられたことです。その教えが終わり、主はさっそく祭司がいけにえを捧げることができるように、祭司の任職式を行わせました。それから初めての奉仕が始まりました。アロンが、罪のためのいけにえと全焼のいけにえ、そして和解のいけにえを捧げ、モーセと共に幕屋の聖所の中に入っていきました。そして驚くべきことが起こったのです。92324節をご覧ください。

 ついでモーセとアロンは会見の天幕にはいり、それから出て来ると、民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現われ、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。」主がこれらのいけにえを受け入れられたことを、直接、主ご自身が火をもって焼き尽くすことによって顕示されました。そして民は、この光景に驚き、また喜び、そして主がここにおられることに畏敬を感じて、ひれ伏したのです。ところが、アロンの息子ナダブとアブフが、「異なった火」と書かれている、主が命じられなかった火をささげようとしました。それで、同じ祭壇のいけにえを焼き尽くした主の火が、今度は彼ら自身を焼き尽くしてしまったのです。

 なんとも残念な話で、突然の話であります。私はこのような聖書箇所を読むときに、聖書は決して作り話ではないことを感じます。もし物語を楽しいもの、人々にたくさん読まれるものにするには、せっかく湧き上がった全体の興奮を、このような形で興ざめさせるような出来事を書き記さないはずです。主がこのような形で現れたのですから、その直後でそれを台無しにしてしまう話は出してこないはずです。

 けれども、これは人間の真実です。現実の生活では、何か新しい働きを起ころうとする時に、その中にいる人々のエゴやねたみ、競争や対立によって、それが始まった矢先におじゃんになることがしばしば起こります。私たちは今日、異なった火を捧げたことによってアロンの息子が死んでしまったことから、私たちの間にある異なった火がないかどうかを見分けていきたいと思います。

1A 祭司の務め
 初めに、なぜ神が二人に対して、このような厳しい処置を下されたのかを考えてみたいと思います。新共同訳には、「それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。」と訳されていますが、単に規定に反したことだけでなぜ火によって焼かれるという惨いことを行われたのでしょうか。

 ここには祭司の務めという、極めて重大な責務を負っていることがあります。天地を創造された神が、数ある諸国民の中でイスラエルという小さな共同体に目を留められているのは、神がご自分を、彼らを通して世界に示そうとされているからです。主はイスラエルと契約を結ばれるときに、「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。(出エジプト19:6」と言われました。「聖なる国民」とは、「聖め別たれた国民」ということです。他の諸国から別たれて、神ご自身の所有になった民ということです。したがって、彼らが代表となって世界に神の聖さを表します。

 したがってイスラエル人が行うことは、世界の人々に神がどのような方か、その印象を決定づけるものです。私たちが、日本人のほとんどいない外国に住んでいたら、現地の人々は私たちが行うことによって日本人や日本という国の姿を見ています。同じように、イスラエルは異邦人たちにとって神の代表者であり、大きな責務を担っています。

 さらに、神の本質についてイスラエルの会衆全体に表す人と言えば、それは祭司です。今読んだ聖書箇所には、「わたしにとって祭司の王国」とありました。祭司という仲介者を通して神が支配する国だということです。ですから、祭司が行う一つ一つの言動は、神の聖さを映し出していなければならないのです。極めて重い責務です。もし神が、ナダブとアブフが行ったことをそのままにしておられたら、神の栄光がイスラエルの民の前で損なわれることになります。それで、主は彼らに対して、火による裁きという形でご自分の聖なることを表さざるを得なかったのです。

 私たちは、キリストを表す者として、この地上で祭司であることを知らなければいけません。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9」被災地から来られたKさん親子は、「イエスのグループは、私たちがこれまで知っていた宗教とは違う。」と仰います。それは、これまで出会ってきた宗教団体は、自分たちの教えを強要してもそれを裏付ける行いがないからだ、ということです。

 つまり私たちが話していること、行っていることの全てが、周囲の人々にとってはイエス様がどのような方なのかを測るものさしになっています。私たちが怒り散らしたら、イエス様がそのような方なのか?と疑われます。私たちが妬んだら、イエス様の信憑性が落ちます。これだけ重大な責務を担っているということです。

 教会においても、神がご自分の聖さを保つために、教会にいる人を殺さなければいけないときがありました。アナニヤとサッピラの事件です。教会の中では、人々が愛をもって互いの財産を分け合う動きが起こっていました。みなが所有物を一つにして、とくに困っている人々に対して施しができるようにしていたのです。ところがアナニヤとサッピラは、財産の一部しか出していなかったのにそれがすべての財産であると偽りました。それでペテロは、「あなたは人を欺いたのではなく、聖霊を欺いたのだ。」と言い、そして彼らはその場で息絶えてしまったのです。

 けれども教会においては、多くの場合、悪い種はそのまま残されています。天の御国の奥義の例えの中に、麦畑の中に敵が毒麦の種を蒔いて、毒麦が混じってしまいましたが、主人は収穫の時まで待ちなさいと言いました。「毒麦を摘み取ろうとして、良い麦も取ってしまってはいけないからだ」と言いました。けれども、それは裁きがないのだ、ということではありません。むしろ、悪いものがはっきりとした時、露になったときに、収穫として主はこれらの悪い麦を取り除き、火の中で燃やしてしまう、と言われます。

 キリスト者は、救いを失うことはありません。けれども、地上で行っていることに応じて報いが与えられます。私たちが、主によって行わなかったこと、正しい動機で行わなかったことは、火として焼かれてしまいます。その残ったものによって、主から報いを受け取るのです。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(1コリント3:12-15

2A 祭壇からではない火
1B 主からの火
 ここでナダブとアビフが、「主が彼らに命じられなかった異なった火」を捧げたとありますが、この「異なった火」とはいったい何でしょうか?「異なった」という言葉のヘブル語を調べますと、元々は「逸れていった」「途中で離れた」というような意味合いがあります。

 主が命じられたところから逸れていった行為でしたが、レビ記1612節にそのヒントがあります。「主の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持ってはいる。」つまり、外庭にある青銅の祭壇の火から火を取って、その炭から香を聖所の中に携えなければいけないことが書いてあります。つまり、主が受け入れてくださった聖なる火ということになります。「オリンピックの聖火リレー」という言葉がありますが、まことに聖なる火はここ祭壇の火でです。

 特にここにおいては、主ご自身が火を起こされて、モーセとアロンが供えたいけにえを燃やし尽くしました。この火を火皿にとって聖所の中に入らなければいけなかったのを、二人はそうしなかったと考えられます。それが「異なった火」でありました。

 イスラエルの民は、主の聖さと栄光が火の中に現れてきたのを見てきました。シナイ山に主が降りてこられたときは、山が主の火の中にあった、とあります。そして宿営をしているとき夜には、雲の柱が火になりました。今、宿営の真ん中にある幕屋において立ち上る火と立ち上がる煙は、彼らの只中に主がおられることを表していました。けれども、彼らは同じように火を持っていたけれども、その火は神からのものではなく、自分自身でこしらえたものだったのです。

 ここでは、「主が彼らに命じられなかった」とあることが大事です。これまで、出エジプト記にある神がモーセを召しだされた時から、モーセまたアロンは、主が命じられたとおりのことを行ないました。何度も何度も、主に命じられたとおりに行った、という言葉があります。私たちは、自分たちが目立つことをことさらに行うことによって、自分たちがキリスト者であることを誇示するのではなく、あくまでもイエス様が命じられたことをただ行うことによって、神の栄光を表します。自分自身の思いや力ではなく、黙々と主が命じられたことを行うことによって初めて神の栄光が現れるのです。

2B 自分で作った火
 ところが二人は、命じられたものとは異なった火を焚きました。なぜでしょうか?いろいろな動機が考えられます。一番可能性のあるのは「自慢」です。父アロンが聖所から出てきて、モーセと共に民を祝福しました。それは実に栄光に輝いています。自分たちも、その栄光にあずかりたいと思ったかもしれません。人々によく見られたいという動機が働いて、異なった火を捧げたのかもしれません。

 そして「うぬぼれ」もあったかもしれません。自分はアロンの子であるから、これを行う力と自由をもっていると思ったかもしれません。さらに「妬み」もあったかもしれません。モーセばかりが中心的な仕事をしている。私たちだってやることはできるのだ、という妬み、あるいは競争心です。あるいは単に、「待つことができなかった」のかもしれません。焦燥感です。主がこのような形で栄光を表したのに、続けてこの栄光を人々に表さなければいけないのではないか、という思いです。

 どのような動機であれ、彼らが自分たちで火を香炉にいれたのは確かです。1節に、「おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り」とあります。神の御霊に導かれたのではなく、自分の肉の思いからこれを行ったのです。私たちは「火」が出ていれば良いではないか、と思ってしまいます。けれども、それは間違っています。神の御霊によって導かれたのではない肉の努力による行ないは、まさに似て非なるものであり偽物なのです。使徒パウロは、律法主義に陥るガラテヤの教会の人たちにこう言いました。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。(ガラテヤ3:3

 私たちは、感情的に興奮すればそこに御霊が働いておられるのでは決してありません。知的に触発されるから御霊が働いておられるのではありません。心理的に充足しても御霊の現れを意味しません。あくまでも、キリストの似姿に変えられる、キリストの道に自分を服従されるという実が結ばれていくところに御霊が働いておられるのです。ダニエル書3章に、金の像をバビロンの王が高官たちに拝ませましたが、あらゆる楽器によるすばらしい音楽が奏でられたことが書いてあります。けれども、ダニエルの友人三人が拝まないことを聞いたら、王は怒りたけったとあります。その美しい音色は彼を霊的にすることはなかったのです。

 チャック・スミス牧師がまだカルバリーチャペルを始める前、教団にいたときに、ある会議で「教会間で競争をさせよう」と提案した人がいました。礼拝の出席者数が少ないので、人々を最も連れてくることのできた教会に賞を与えよう、というものです。未信者の人たちにキリストを紹介するという使命をきちんと果たしていないから、競争という肉的な動機でもいいから人を集めればよい、という提唱でした。彼はこれに参加するのを拒みました。肉的な動機を働かせるのではなく、教会の人々を霊的に養い育てて、正しい愛の動機で人々をキリストに導くようにさせるのが正しい道です。

 主が私たちのために戻ってきてくださる時に、戻ってきて私たちを天に引き入れ、そして各々に賞を与えられるときに、その報いは私たちが表面的に行ったことについて与えるのではありません。何人の人をキリストに導いた、祈りを何時間行なっていた、教会に毎週出席していた、などの行いではありません。あくまでも、心の動機によるのです。「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。 (1コリント4:5

 もし私たちが人に見られるために善行を行なうのであれば、天には報いがないと主は言われます。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。(マタイ6:1-2」もし私が説教をした後で、「先生のメッセージはすばらしかったです!」というほめ言葉を聞いて、私はそれで悦に浸ったら、その「すばらしかったです」という言葉だけが報いになり、天には報いは残されていない、ということです。なんというちっぽけな報いでしょうか!

 では何をもって御霊から来たものなのでしょうか?何をもって私たちは、いわゆる「主からの火」を携えることができるのでしょうか?すべては「愛」の動機です。使徒パウロは「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。(2コリント5:14 新共同訳)」と言いました。キリストが私たちのためにしてくださったこと、それに応答する行為のみが永遠の報いにふさわしいのです。私たちが教会として集まるのは、心を尽くして神を愛したいと思うからです。また私たちが教会で奉仕と交わりをするのは、キリストが愛されたように兄弟を愛したいという動機によります。私たちが伝道をするのは、その人の魂が救われてほしいというキリストの愛によります。

 私たちはどれだけ、キリストの愛に燃えているでしょうか?イエス様は、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15」と言われました。イエス様を愛している人、その愛をいっぱいに受けた人は、イエス様が命じられたことに応じて動いていきたいと願います。この純真な動機のみが神の命令を守ることを可能にし、神に栄光をお返しすることができるのです。

 そして、キリストについての言葉を聞いている時に私たちの心は燃えます。復活後のイエス様から、二人の弟子が話を聞きました。彼らはエルサレムから離れてエマオと呼ばれる村に向かって歩いていましたが、そこに復活のイエス様が横を歩かれました。そして、キリストについての預言を聖書全体から説き明かされました。そして、イエス様が見えなくなった後に彼らはこう言ったのです。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。(ルカ24:32」この心の中にある火こそが、主が与えられたものです。

3B ぶどう酒
 そして、注目すべき主の言葉が9節にもあります。「会見の天幕にはいって行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々守るべき永遠のおきてである。」二人は、おそらく強い酒を飲んでいたものと思われます。そのために判断力が鈍り、異なった火を主に捧げたのかもしれません。

 キリスト者が飲酒についてどう考えるべきか、意見が分かれます。泥酔することについては、明らかに肉の行いであると聖書に書いてありますが、ぶどう酒を飲むことは多くのユダヤ人が行っていました。聖餐式にあずかるとき、それは過越の祭りの食事なのですが、ぶどう酒を飲むことがその中の儀式の一つなのです。

 けれども、ここに書かれているように、私たちが「ワイン」と呼んでいる物は聖書では「強い酒」に該当します。アルコール度が高いのです。もっと不純物が入っているもの、あるいは水で薄められたものが当時、ぶどう酒として飲まれていました。いわゆる「グレープジュース」も少し熟成加工すればぶどう酒のようになります。

 そして酒についての最も大きな点は、それが聖霊に満たされることと対比されていることです。エペソ518節には、「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」とあります。酒を私たちが飲みたいと願うその理由と、聖霊に満たされることが極めて似通っているので、このように並列して書かれています。ストレス解消、また、自分が他の何かに支配されたいと願いという願いもあるでしょう。ご聖霊は、私たちをあらゆる重荷や罪から自由にしてくださります。そして私たちを支配して、言葉に言い尽くすことのできない喜び、はかり知るこできない愛、そして私たちの理解を超えたところの平安で満たしてくださいます。

 けれども酒とご聖霊の違いは、後者が明晰な分別力を与えるということです。酒はそれを鈍らせますが、ご聖霊はかえって覚醒を与えてくださいます。イエス様が聖霊に満たされることが預言されているイザヤ書には、御霊についてこう書いてあります。「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(11:2」御霊に支配されると、私たちは理性を失うどころか、これまで暗くなって鈍くなっていた思いに啓示が与えられ、見えないものが見えるようになるのです。

 したがってレビ記109節の次、10節にはこう書いてあります。「それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また汚れたものときよいものとを区別するため」これらのものが区別できるようになるのです。まことの聖霊の火は私たちに区別をする力、分別力を与えてくださいます。

3A 主の栄光に触れる者
 そして最後に、彼らが主からの火によって燃やされてしまった理由として考えられるのは、レビ記1612節にあります。「アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが主の前に近づいてそのために死んで後、主はモーセに告げられた。主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」この箇所から、彼らはおそらく、自分自身で火を作っただけでなく、垂れ幕から至聖所の中に入ろうとしたと思われます。

 至聖所は、レビ記16章にありますが、年に一度、贖罪の日に大祭司一人だけが中に入って、民のための贖罪をすることのできる所です。それにも関わらず彼らがそこに入ったというのは、言い換えると、「神の栄光を自分のものにしようとした」と言えます。主が与えられている分を越えて、神の栄光を自分のものにしようとしたのです。神のみに栄光が帰されるべきところを、自分が栄光に輝くと思い上がったのではないかと考えられます。

 3節には、「わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしの自分の栄光を現わす。」とあります。栄光はすべて神だけが持つものです。ゆえに、神はご自分の聖さを保つために、彼らを殺さざるを得なかったと言えます。これは、かつて悪魔が犯した罪であり、もっとも美しく、天使の中で最も優れていた天使が自分こそいと高き神になろう、いやそれ以上になろうと思ったので、堕落したのです。

 火が降りてきて祭壇のいけにえを焼きつくすというような、すばらしい神の御霊の働きに付いてくるのは、私たちの高慢という危険です。神が働かれるところに、自分の功績を入れようとする誘惑です。主が祝福してくださったことによって与えられた栄誉を神にお返しすることをせず、あたかも自分がそれを行ったかのように誇る。主が祝福してくださったことによって与えられた富を、自分の腹を肥やすために用いる。このようなことをすると、その栄光の輝きは、裁きの火に変わります。

 けれども、私たちは日常生活において、それを行ってしまうことがしばしばあります。それは、「神がしておられることを、神がしてくださったと言って感謝しない。賛美しない。」ということです。イエス様がガリラヤとサマリヤの境におられた時に、十人のらい病人が「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と叫びました。イエス様は「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と言われました。そして行く途中で、その十人はみな癒されたのですが、一人だけサマリヤ人が、「大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」とあります。(ルカ171119節参照)九人は直っても、そのことで神に栄光を帰さなかったのです。

 もし私たちが、主が良くしてくださったことについて、そのことで主がどのような方なのかを見つけて、喜び、神をあがめることをしなければ、それは神の栄光を自分自身のものにしているのと同じです。先ほどお話した被災者のKさん親子に、私はこのようにお話しました。「献身的に救援活動をしたり、犠牲的な宣教活動をしている人を見て、すばらしいと思うのはごく自然です。けれども、その背後に働いておられる神が、このように惜しみなく与える方であり、愛である方であることを認めるときに、真の理解に至るのです。これだけ、キリストはすばらしい方だということです。」

 私たちは、日頃、主がこれだけ良くしてくださっているのに、未だ、イエス・キリストに対するイメージが旧態依然である場合はないでしょうか?主がこれだけ、ご自分が恵みに満ちていることを示してくださっているのに、主が恵みに満ち溢れている方であることを認める時間を持っているでしょうか?これこそ、私たちがしていかなければいけない分別であり、主の栄光に見えることであり、ひれ伏すことです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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