レビ記12−14章 「罪の広がり」
アウトライン
1A 出産において 12
1B 不浄の期間 1−5
2B 清めのいけにえ 6−8
2A らい病において 13−14
1B 隠された罪 13
1C 人の皮膚 1−46
1D かさぶたの広がり 1−8
2D ただれ 9−17
3D 腫物 18−23
4D 火傷 24−28
5D 疥癬 29−37
6D 湿疹 38−39
7D はげ 40−44
8D 宿営外の居住 45−46
2C 衣服 47−59
2B 新たな出発 14
1C 二羽の小鳥 1−9
2C いけにえ 10−32
1D 羊のみ 10−20
2D 羊と鳩 21−32
3C 家屋 33−53
1D 患部の調査 33−47
2D 家の清め 48−53
4C まとめ 54−57
本文
レビ記12章を開いてください、私たちは前回から「清めと汚れの区別」についての教えを学んでいます。10章において、アロンの息子が、主に命じられていない異なった火を捧げたことで火によって焼かれてしまいましたが、聖なるものと俗なるもの、清さと汚れを区別する教えを与えると仰せになりました。それで初めに出てきたのが食物規定です。清い動物と汚れた動物がいましたが、私たちはそれが、私たちの心のうちにある態度を表しているものであることを学びました。汚れは外から食べて入ってくるのではなく、心の内から出てきて私たちを汚すということを主は語られています。そして12章も続きます。
1A 出産において 12
1B 不浄の期間 1−5
12:1 それから、主はモーセに告げて仰せられた。12:2 「イスラエル人に告げて言え。女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れる。その女は月のさわりの不浄の期間のように、汚れる。12:3 ・・八日目には、その子の包皮の肉に割礼をしなければならない。・・12:4 その女はさらに三十三日間、血のきよめのために、こもらなければならない。そのきよめの期間が満ちるまでは、聖なるものにいっさい触れてはならない。また聖所にはいってもならない。12:5 もし、女の子を産めば、月のさわりのときと同じく、二週間汚れる。その女はさらに六十六日間、血のきよめのために、こもらなければならない。
女が出産をすると不浄の期間に入る、という教えです。お母さんが赤ちゃんを産むと、月経の時と同じように出血が続きます。「悪露」と呼ばれます。それが一か月以上続きますが、徐々に少なくなります。その色も初めは鮮血のような赤さですが、褐色になり、黄色になり、クリーム色、そして白色に変わっていくそうです。この出血を汚れであると主はみなされます。
もう一度確認しなければいけませんが、主がここで汚れを教えておられるのは、それ自体が汚いということではありません。もちろん、衛生面もあるでしょう。悪露は確かに汚いです。そしてユダヤ教の女性は、この長い期間、多くの活動をすることができないので、産後休暇を自ずと取ることができます。そうした肉体面における利点はあるのですが、主がここで語られているのはそれが主眼ではありません。
また、これがその人自身の罪深さや汚れを表しているのでもないことも大切です。イスラエルは、神が聖なる国民として、諸国民に対してご自分が聖なる方であることを表すために選ばれた民です。したがって、その国民生活そのものが神の証言となっています。彼らの日常生活の中に神が規定を設けられることによって、そこに表象している霊的真理を認めることができるのです。前回学びましたように、これらのものは後に来るものの影であって、実体はキリストにあるのです。
それで、その霊的真理とは何でしょうか?「出産」というのは、罪の贖いに密接に関わっている重要な話題です。創世記を思い出してください。主は、被造物に、「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じられました。人間にも命じられました。ところがエバが蛇に惑わしを受け、そしてアダムが罪を犯しました。そして主が、子を産む祝福において、出産時における呪いを与えられました。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。(創世3:16)」出産時における陣痛は、主が造られた原初の目的ではなかったのです。
したがって、子を産むということについて、確かに祝福という面がある一方で、罪が世界にはいってきたという厳粛な現実を想起する出来事になっているのです。「見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。(127:3)」と詩篇にはあります。子を産むことは大いなる祝福です。けれども、私たちが知らなければいけない厳しい事実は、「母の胎にいる時から、その子は罪を宿している。」という事実です。ダビデは、自分がバテ・シェバと姦淫の罪を犯して、その罪を告白している時に、「ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。(詩篇51:5)」と言いました。母の胎にいる時から持っていた罪が、もう壮年になっていたであろう彼が犯した姦淫の罪を犯させた、というわけです。
ここで私たちは、救いにおいて非常に大切な教理を知る必要があります。ローマ5章12節です。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12)」アダムの子孫はみな、「罪」という遺伝子を受け継いでいます。生まれてからしばらくして罪を身に付けるのではなく初めから罪を宿しており、それゆえに罪を行なうのです。
私たちは、赤ちゃんが既に罪を持っているという事実を、御言葉によって受け入れなければいけません。この子はこんなにかわいいのに、罪を持っているのですか?という判断、あるいはこの子はこんなに自己中だからやはり罪の子だよね、という判断をするのではなく、あくまでも、生まれてきた子はみな、キリストの罪の贖いによって救われる必要がある、ということを知らなければいけません。
1-5節では、男の子と女の子のそれぞれの出産を取り扱っていますが、不浄の期間が二倍違います。男の子を産んだ場合は四十日間、こもらなければいけません。礼拝にあずかることはできません。けれども女の子の場合は八十日間です。なぜ二倍違うのか?これは、この女の子も将来、新たに子を産むという現実を表しているかと思われます。この女の子が成長して、男に結ばれて、子を産む時には、その子も罪を宿しているという事実です。そのことを見据えて二倍の期間になっているかと思われます。
「四十」という数字は、神の裁きの時に使われる数字です。四十日の雨が、洪水の時に降りました。律法という神の裁きの定めを与えられたモーセは、四十歳でエジプトから荒野へ、八十歳でイスラエルを率いて、百二十歳で死にました。そしてイエス様は、四十日間の断食の後で悪魔の誘惑を受けられました。ここで男子の出産の不浄の期間に神の裁きが表れています。
さらに興味深いことに、割礼がモーセの律法の中で定められました。元々、アブラハムに対して神はその子種が契約の民に入ることを表すために、八日目に割礼を施しなさいと命じられました。ですから男の子は、母親は不浄の期間にいるけれども、自分自身は神の民になる印を受けることになります。
もちろん、これもまた、内実のともなったものでなければいけません。アブラハムが信仰によって神を信じたように、割礼を受けた者も心の一新によって神に捧げた者でなければいけません。肉体の割礼を受けただけでは救われないことを、預言者もまた使徒も、そして執事のステパノも「心の割礼を受けていない」と言って咎めたのです。また、初代教会において割礼は大きな論争になっていました。異邦人も割礼を受けるべきかどうかという問題であり、パウロとバルナバは福音の真理のために一歩も譲ることなく、信仰によるだけの救いの教えを保持したのです。
2B 清めのいけにえ 6−8
12:6 彼女のきよめの期間が満ちたなら、それが息子の場合であっても、娘の場合であっても、その女は全焼のいけにえとして一歳の子羊を一頭と、罪のためのいけにえとして家鳩のひなか、山鳩を一羽、会見の天幕の入口にいる祭司のところに持って来なければならない。12:7 祭司はこれを主の前にささげ、彼女のために贖いをしなさい。彼女はその出血からきよめられる。これが男の子でも、女の子でも、子を産む女についてのおしえである。12:8 しかし、もし彼女が羊を買う余裕がなければ、二羽の山鳩か、二羽の家鳩のひなを取り、一羽は全焼のいけにえとし、もう一羽は罪のためのいけにえとしなさい。祭司は彼女のために贖いをする。彼女はきよめられる。」
出血がなくなって清められたことを示すために、全焼のいけにえと罪のためのいけにえを捧げます。基本は子羊を全焼のいけにえとして、鳩を罪のためのいけにえとして供えますが、経済的余裕のない人は、羊のかわりに鳩を捧げることもできます。
以前もお話ししましたが、主イエス・キリストの両親は、この部類にありました。ルカ2章によると、清めの期間が終わってエルサレムに行った夫婦は、二羽の鳩をいけにえとして捧げています(ルカ2:24)。イエス様は貧しさの中で生まれました。それは、あらゆる人がイエス様によって富むことができるようになるためです(2コリント8:9)。もし主が富んでいる方であれば、私たちの弱さや貧しさに届くことはできなかったでしょう。けれども、この方が貧しくなられたことにより、私たちは富んでいても、貧しくてもその生活に満足する秘訣を学ぶことができ、かつ、他の人々に自分の生活を分かち合うことのできる豊かさや余裕を与えられます。
そしてここでは、「汚れの後には清めがある」という福音です。出産が、罪が世界にはいって来たことの現実を表しているのですが、清めは義が世界にはいって来たことを表しています。先ほど引用したローマ5章の言葉の続きになります。「ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。(ローマ5:15)」つまり、イエス様というたった一人の方が、十字架におけるたった一つの義の行ないによって、罪の中で死んでいた数多くの人々を生かすことができる、というものです。
私たちにある、生まれながらの罪は、キリストにある義の性質に取って変えられたのです。私たちがどんなに罪を犯したとしても、キリストにある神の恵みはそれをすべて義に取り替えてしまったのです。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。(ローマ5:20)」したがって、私たちの拠り所は、専ら「イエス・キリストを信じる信仰」にあるのです。この方から目を離せば、アダムから続いている罪のDNAの縄目の中でもがくことになります。イエス・キリストに目を留めれば、すでに罪から解放した御霊の力が私たちのものになります。
2A らい病において 13−14
そして次に、「らい病」についての教えです。12章が、生まれる前から宿している罪が取り扱われていましたが、13章ではその罪がいかに私たちの生活と人生を蝕んでいるのか、その陰湿性と破壊性が取り扱われています。けれども希望があります。14章では、清められた時の教えがあり、その罪にさえ打ち勝つ恵みがあるのだということを教えてくれます。
1B 隠された罪 13
1C 人の皮膚 1−46
1D かさぶたの広がり 1−8
13:1 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。13:2 「ある人のからだの皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったときは、その人を、祭司アロンか、祭司である彼の子らのひとりのところに連れて来る。13:3 祭司はそのからだの皮膚の患部を調べる。その患部の毛が白く変わり、その患部がそのからだの皮膚よりも深く見えているなら、それはらい病の患部である。祭司はそれを調べ、彼を汚れていると宣言する。
らい病については、ぜひ第一礼拝の説教を聞いてください。新改訳聖書第三版をお持ちの方は、「ツァラアト」となっていると思います。新共同訳の聖書の人は、「重い皮膚病」となっていると思います。らい病と言いますとハンセン病のことですが、これから読んでいく「らい病」の症状は、必ずしもハンセン病と合致するわけではありません。他の可能性として、いろいろな皮膚病が考えられます。ここ1節から28節までは、「乾癬」ではないかと言う人もいます。私もじっくり調べたのですが、乾癬であっても合致しない描写があります。「毛が白く変わり」というのが合致しない部分です。
いずれにしても、「皮膚に傷を受けている」という事については、聖書の中では極めて重要な主題になっています。このように皮膚を患うときは、往々にして罪との関連性があります。以前、エジプトにおける災いで腫瘍の災いがあり、エジプトの魔術師たちの皮膚を侵しました。民数記ではミリヤムがモーセにたてついたので、らい病に七日間かかりました。ナアマンというシリヤの将軍がいましたが、彼はらい病が癒されたものの、エリシャのしもべゲハジが不正な利得を得たので、そのらい病が彼に降りかかりました。ユダの王ウジヤは、王の身分であるにも関わらず祭司の務めであるいけにえを捧げようとしたところ、らい病にかかってしまいました。そして、ヨブ記の主人公ヨブは重い皮膚病にかかりましたが、友人はそれを彼の隠れた罪にある、と疑いました。
そしてダビデが、罪を犯したので、皮膚の病の中で悲しんでいる姿を詩篇の中で読むことができます。「あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。…私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。…私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。…私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。(詩篇38:3,5,7,17,18)」預言書において、エレミヤ等が、悔い改めなければいけないのに安易に「平和だ」と言っている人に対して、「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。(8:11)」と言っています。
再び言いますが、皮膚病を患っていればそれは罪のせいだ、ということでは決してありません。先にも説明しましたが、衛生や防疫の分野でレビ記は大きな貢献を果たしました。伝染病の流行を水際で防ぐために少しでも疑わしきは隔離するという体制は、この13章の中に見ることができます。けれども衛生面が主眼ではなく、あくまでも私たちのうちに潜み、広がり、そして隠れて私たちを蝕む罪の影響力を如実に表している、ということです。私たちの霊的状態を目に見える形で表象している、ということであります。
1節に、「皮膚にはれもの、あるいはかさぶた、あるいは光る斑点ができ、からだの皮膚でらい病の患部のようになったとき」とあります。腫れ、かさぶた、斑点などは、私たちが普段、自分の皮膚にも現れますね。その日常性がかえって私たちを油断させます。その症状が、ハンセン病であるとか重い皮膚病であるとか、恐ろしい病気と始めは同じ症状なのですが、症状が同じなので平気だと思ってしまうのです。
けれども、私たちの欲というのも、初めは何でもないもののようにして表れます。いろいろな犯罪の中で、その犯人に動機を聞くと、「ただ欲しかった」「言われたことが頭にきた」などという短絡的な理由を聞きます。けれども、私たちは「思い」の中においては、特段に害をもたらしているわけではないし構わないだろうと過ぎ去らせることが多いのです。けれども、ヤコブが手紙の中で言っているように、これは子供を孕んで、実を結ぶのと同じように、悪い思いは進行し発展します。「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。(1:14-16)」
ですから、祭司が調べてもらうのです。私たちはここで祭司を取調官のように考えてはいけません。私たちの粗探しをするために調査している人のように考えてはいけません。なぜなら14章では、同じ祭司がやって来てきよめの宣言を行ってくれるからです。祭司が行なっているのは、医者の診断と同じです。医者の大きな仕事は、癒すことでは実はありません。実際に癒すのは薬によって、まあ外科手術は確かに医者の手腕にかかっているでしょうが、医者の大きな仕事は診断することです。そして適切な治療法を見つけることです。
原因を発見できれば、治療の90パーセント以上を行なうことができた、ということができます。現存する医療技術の中でその人に何を適用することができるかを判断するのであり、医者が人を直すのではありません。したがって私たちも、ご聖霊また主ご自身による心の診断が必要になります。「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。(1コリント2:10-11)」主の御霊こそが、私たちの罪を知っておられます。
13:4 もしそのからだの皮膚の光る斑点が白くても、皮膚よりも深くは見えず、そこの毛も白く変わっていないなら、祭司はその患者を七日間隔離する。13:5 祭司は七日目に彼を調べる。もしその患部が祭司の目に、そのままに見え、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をさらに七日間隔離する。13:6 祭司は七日目に再び彼を調べる。もし患部が薄れ、患部が皮膚に広がっていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。それはかさぶたにすぎない。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。13:7 もし、その者が祭司のところに現われ、きよいと宣言されて後、かさぶたが皮膚に広がってきたなら、再び祭司にその身を見せる。13:8 祭司が調べて、かさぶたが皮膚に広がっているなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはらい病である。
よろしいでしょうか、極めて厳しい手続きを祭司は取っています。問題は、「患部が皮膚より深く見える」ということと、「毛が白く変わっている」というのがらい病であることの診断です。ところが、4節でその症状が出ていないので、それで清いと診断するのではなく、むしろ隔離します。「七日間」とありますが完全数ですね、神にかなう完全な期間が七日間です。
そして七日後に祭司が再び調べるのですが、患部が広がっておらず、そのままに見える場合は、清いのではなく、むしろさらに七日間隔離するのです。「ちょっと待ってくれよ、なぜそんなに私のことを疑うのか。私はそんなに悪い人間ではない。」と反発したくなるかもしれません。案の定、さらに七日間待ったら、6節を読むと、患部が薄れて、皮膚に広がっていません。それで彼を清いと祭司は宣言しますが、問題は最後です。7-8節に、清いと宣言されて後にかさぶたが皮膚に広がれば、それで汚れている、らい病であると宣言するのです。
つまり、症状として一時的に表出しても、調べると、潜伏する可能性があるということです。しばらくすると、潜行する形で再発する、ということです。はっきり症状として現れるのなら現れてほしい、とじれったくなります。けれども、これこそが人の罪深さです。私たちは自分の罪を隠したいと思うのです。一度出てきたら、これはやってはいけないという抑制はするのですが、そして抑制すると、自分はもうこの問題は持っていないと思うのですが、それはあくまでも内に隠しているからです。けれども、「隠している」という事実をも認めたくありません。ですから「清い」と宣言されるや、自分のやりたかったことを再び行ない始めるのです。
ここから私たちは、イエス様が、私たちの表面的な行ない以上に、内にあるどろどろとしたものを取り扱われようとしておられるということが分かります。黙示録2−3章にある七つの教会に対して、イエス様は、例えばラオデキヤにある教会に対してこう言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。(3:17)」意識下では豊かだという認識ですが、真実は惨めて貧しく、哀れで、盲目になっているというのがイエス様の評価でした。
2D ただれ 9−17
13:9 らい病の患部が人にあるときは、その人を祭司のところに連れて来る。13:10 祭司が調べて、もし皮膚に白いはれものがあり、その毛も白く変わり、はれものに生肉が盛り上がっているなら、13:11 これは、そのからだの皮膚にある慢性のらい病である。祭司は彼を汚れていると宣言する。しかし祭司は彼を隔離する必要はない。彼はすでに汚れているのだから。
ここの症状は、1-8節の例とは異なり、慢性もの、明らかであるものです。白い腫れがあり、生肉が盛り上がっているので、明らかにらい病の症状であります。隔離するまでもなく、彼はらい病なのです。そして次が極めて興味深いです。
13:12 もし吹き出物がひどく皮膚に出て来て、その吹き出物が、その患者の皮膚全体、すなわち祭司の目に留まるかぎり、頭から足までをおおっているときは、13:13 祭司が調べる。もし吹き出物が彼のからだ全体をおおっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。すべてが白く変わったので、彼はきよい。
ここにはっきりと、「らい病」そのものが罪を持っているのではないことが分かるでしょう。吹き出物が全身に行き渡っているのです。それで、むしろ全身が白くなっているから、その姿を見て「きよい」と祭司は宣言したのです。
皮膚病の中に「白斑」というものがありますが、その説明をすれば何となくイメージがつかめるのではないか、と思います。それはメラミン色素がきちんとできていないために起こります。ですから、白くまだらになっている皮膚の人を見かけることがありますね。それが酷くなると、全体が白くなっていきます。そしてついに、全身が真っ白になる場合もあります。
これに罹患した有名人は、マイケル・ジャクソンや森光子です。マイケル・ジャクソンは、白人のようになりたくて色素を取る手術をしたのではないかと疑われましたが、実は白斑でした。森光子も、非常に白い肌だそうです。つまり全身が白くなれば、白いということで人々の前に立つことができる、ということです。
これを霊的に考えるならば、自分の罪の姿が主の前に完全に露わにされている時に、かつて主がらい病人を癒されたように、清めをいただくことができる、ということです。イザヤ書59節には、イスラエル人たちの体の器官すべてが罪によって汚れている姿が描かれています。
実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。(3-8節)
手が流血で汚れ、唇にはまむしの毒があり、足は罪のない者の血を流すのに速い、と書いてあります。頭から足のつま先まで罪にまみれている状態です。これを神学用語で「全的堕落」と言います。一部だけが堕落しているのではありません。自分には善を行なう力が全くない、善いも思われる可能性がただ一つもない状態です。この時にこそ、私たちは、主によって与えられる清めを体験できるのです。
13:14 しかし生肉が彼に現われるときは、彼は汚れる。13:15 祭司はその生肉を調べて、彼を汚れていると宣言する。その生肉は汚れている。それはらい病である。13:16 しかし、もしその生肉が再び白く変われば、彼は祭司のところに行く。13:17 祭司は彼を調べる。もしその患部が白く変わっているなら、祭司はその患者をきよいと宣言する。彼はきよい。
先ほどと同じように、きよいと宣言した後も生肉が出てくれば汚れます。けれども、また白く変わればきよいという宣言を受けます。隠れている、潜行している罪とは異なり、一度明らかになった罪は、主からの清めを受けることができ、その後、罪が出てきても、また清められる可能性が大きくなります。
3D 腫物 18−23
13:18 また、人のからだの皮膚に腫物ができ、それがいやされたとき、13:19 その腫物の局所に白色のはれもの、または赤みがかった白い光る斑点があれば、祭司に見せる。13:20 祭司が調べて、もしそれが皮膚よりも低く見え、そこの毛が白く変わっていたなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。それはその腫物に吹き出たらい病の患部である。13:21 もし祭司がこれを調べて、そこに白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司はその者を七日間隔離する。13:22 もしそれが一段と皮膚に広がってくれば、祭司はこの者を汚れていると宣言する。これは患部である。13:23 もしその光る斑点がもとのままであり、広がっていなければ、それはただ、できもののあとである。祭司は彼をきよいと宣言する。
ここは腫物あるいは「吹き出物」にできるらい病です。ハンセン病の中に、他の傷を受けたところから症状が出てくることがあります。腫物自体は癒されたのですが、その局所に先ほどと同じ、白色の腫物、赤みがかった白く光る斑点ができます。
4D 火傷 24−28
次の火傷についても、同じ現象です。
13:24 あるいは、人のからだの皮膚にやけどがあって、そのやけどの生肉が赤みがかった白色、または白色の光る斑点であれば、13:25 祭司はこれを調べる。もし光る斑点の上の毛が白く変わり、それが皮膚よりも深く見えるなら、これはやけどに出て来たらい病である。祭司はこの者を汚れていると宣言する。それはらい病の患部である。13:26 祭司がこれを調べて、その光る斑点に白い毛がなく、それが皮膚より低くなっておらず、それが薄れているなら、祭司はその者を七日間隔離する。13:27 それから七日目に祭司が彼を調べる。もしそれが一段と皮膚に広がっていれば、祭司はこの者を汚れていると宣言する。これはらい病の患部である。13:28 もしその光る斑点がもとのままであり、その皮膚に広がっておらず、それが薄れているなら、それはやけどによるはれものである。祭司は彼をきよいと宣言する。これはやけどのあとであるから。
火傷は火傷で、それが癒えれば終わりなのですが、火傷の部位かららい病が出てくる場合です。ですから吹き出物であっても、火傷であっても、「傷を受けたところ」を狙ってらい菌が動いている、と言うことがいえます。
それは、ある痛みをともなう出来事をきっかけとして、罪を犯すことがあります。神の与える試練は私たちに忍耐を与え、私たちが主にあって成熟する良い訓練となりますが、その反面、私たちが不信の罪を犯して、神に対する反抗として動くことがあります。荒野の旅において、水がない、パンがないというのは、彼らが主に求めて、主の真実を知る良い機会であったのですが、彼らは主に不平を鳴らし、主を試す罪の機会となりました。腫物の上に、あるいは火傷の上にらい病が出てきたのと同じです。けれども、私たちには生活の中で、人生の中で受けた辛い経験は、主の真実を知り、主にある幸せをえる機会にもなりえるのです。
5D 疥癬 29−37
13:29 男あるいは女で、頭か、ひげに疾患があるときは、13:30 祭司はその患部を調べる。もしそれが皮膚よりも深く見え、そこに細い黄色の毛があるなら、祭司は彼を汚れていると宣言する。これはかいせんで、頭またはひげのらい病である。13:31 祭司がかいせんの患部を調べ、もしそれが皮膚よりも深く見えず、そこに黒い毛がないなら、祭司はそのかいせんの患者を七日間隔離する。13:32 七日目に祭司は患部を調べる。もしそのかいせんが広がらず、またそこに黄色い毛もなく、かいせんが皮膚よりも深く見えていないなら、13:33 その人は毛をそり落とす。ただし、そのかいせんをそり落としてはならない。祭司はそのかいせんの人を、さらに七日間隔離する。13:34 七日目に祭司がそのかいせんを調べる。もしかいせんが皮膚に広がっておらず、それが皮膚よりも深く見えていないなら、祭司は彼をきよいと宣言する。彼は自分の衣服を洗う。彼はきよい。13:35 しかし、彼がきよいと宣言されて後に、もしも、そのかいせんが皮膚に広がったなら、13:36 祭司は彼を調べる。もしそのかいせんが皮膚に広がっていれば、祭司は黄色の毛を捜す必要はない。彼は汚れている。13:37 もし祭司が見て、そのかいせんがもとのままであり、黒い毛がそこに生えているなら、そのかいせんはいやされており、彼はきよい。祭司は彼をきよいと宣言する。
28節までにあった症状とは、異なったものです。皮膚が深い、というのは同じですが、「細い黄色の毛」がある時にはらい病であると診断されます。ここで「疥癬」と訳されていますが、新共同訳では「白癬」と訳されています。いわゆる水虫ですね。けれども、白癬では黄色い毛は生じないので、「黄癬」ではないかと言う人もいます。ヘブル語では、「痒い」とか「引き剥がす」という意味があり、やはり非常に痒みの伴う疥癬や白癬に似たものではないかと思われます。
ここで祭司がこれがらい病であるかどうかを見極めるのに邪魔しているのが、「毛髪」です。頭にしろ顎にしろ、髪また髭がその患部を詳しく見るのを邪魔しています。それで33節にあるように、その毛を剃り落します。疥癬そのものを剃り落してはいけません。そしてもう一つの特徴は、34節で清いという宣言を受けたら衣服を洗います。疥癬には一部に衣服もお湯で消毒しなければいけないものがあるそうです。
疥癬が頭髪や顎髭でなかなかその全貌を見ることができないように、そして疥癬を調べるために毛を剃るように、私たちも自分の心をそのようにして主に知らせていかなければいけません。何が私たちを、主が私たちの心を調べていくのに邪魔しているでしょうか?忙しさかもしれません。いつも言っている言い訳かもしれません。立ち止まって、主に自分自身をさらけ出す、思い煩いを主に取り払っていただいて、主の前で裸になっていく必要があります。
6D 湿疹 38−39
13:38 男あるいは女で、そのからだの皮膚に光る斑点、すなわち白い光る斑点があるとき、13:39 祭司はこれを調べる。もしそのからだの皮膚にある光る斑点が、淡い白色であるなら、これは皮膚に出て来た湿疹である。その者はきよい。
「湿疹」と訳されているところは、単純に「白斑」と訳すこともできます。つまり、先ほど説明した白くなっていく病気です。白斑はただ白くなるだけで、痒みもなければ、体の健康を脅かすこともありません。らい病の症状のように見えて、そうではない例です。らい病の場合は「淡い白」ではなく、「赤みがかった白」だからです。
7D はげ 40−44
13:40 男の頭の毛が抜けても、それははげであって、その者はきよい。13:41 もし顔の生えぎわから頭の毛が抜けても、それは額のはげであって、その者はきよい。13:42 もしその頭のはげか、額のはげに、赤みがかった白の患部があるなら、それは頭のはげに、あるいは額のはげに出て来たらい病である。13:43 祭司は彼を調べる。もしその頭のはげ、あるいは額のはげにある患部のはれものが、からだの皮膚にあるらい病に見られるような赤みがかった白色であれば、13:44 その者はらい病人であって汚れている。祭司は彼を確かに汚れていると宣言する。その患部が頭にあるからである。
「はげ」は清いです。エリシャのはげを馬鹿にした若者たちは、雌熊二頭に襲われてしまいました!なんて、ちょっと冗談ですが、男性の頭髪の自然の成り行きであり、らい病ではありません。
ところが、そのはげの部位にらい病の患部が出来ました。逆に言うと、皮膚炎が出てきたので毛髪が落ちていた、とも考えられます。先ほどの疥癬あるいは白癬は、頭髪の中にあるから見るのがやっかいですが、これは毛が既にないのですぐに症状を見分けることができます。そういう明らかなところに症状が現れます。私たちは意外に、あまりにもはっきりと罪が出ているのに、そのことに気づいていないということがあるかもしれません。「えっ、それが罪だったの?」と今まで平然と行っている自然の営みに、実は罪だったということもあります。
8D 宿営外の居住 45−46
13:45 患部のあるらい病人は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。13:46 その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。
らい病の患者の定めがここに書いてあります。彼は汚れた者ですから、自分に近づいてくる人に対して、その人が触れて汚れないように、衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって唾がかからないようにしながら、「汚れている!汚れている!」と叫ばなければいけません。衣服を引き裂くのは嘆きと悲しみを表現しているものです。
さらに、イスラエルの宿営の外に住まわなければいけません。ミリヤムがらい病に冒されたときに宿営の外に彼女はいなければいけませんでした。北イスラエルの首都サマリヤがアラムに取り囲まれていたとき、四人のらい病人がアラムの陣営に行きましたが、彼らは町の入口にいました。それは町から出てくる残飯を自分たちが食べていたからです。城の中にはゴミさえも出てこなくなり、彼らは飢え死にするしかありませんでした。
これがらい病の「呪い」と呼んでもよいでしょうか?共同体から切り離されてしまうのです。私たちは、これが罪のもたらす結果だということをわきまえなければいけません。つまり、「孤独」になるということです。罪によって、神と自分の関係が引き離されます。そして人と人の関係も引き離されます。「指輪物語」あるいは映画「ロード・オブ・ザ・キング」の第一部が「仲間の指輪」という副題です。その意味するところは、指輪を自分のものにしようとした者がいたことによって、その仲間が引き離されてしまった、という意味があります。罪を犯すと、私たちの間にある仲間意識、交わりが損なわれてしまうのです。
2C 衣服 47−59
そして聖書の「らい病」は、人体だけにとどまりません。衣服にも及びます。
13:47 衣服にらい病の患部が生じたときは、羊毛の衣服でも、亜麻布の衣服でも、13:48 亜麻または羊毛の織物でも、編物でも、皮でも、また皮で作ったどんなものでも、13:49 患部が緑がかっていたり、赤みを帯びたりしているなら、衣服でも、皮でも、織物でも、編物でも、またどのような皮製品でも、それはらい病の患部である。それを祭司に見せる。13:50 祭司はその患部を調べる。そして患部のある物を七日間隔離する。13:51 七日目に彼はその患部のある物を調べる。それが衣服でも、織物でも、編物でも、皮でも、また皮が何に用いられていても、それらにその患部が広がっているときは、その患部は悪性のらい病で、それは汚れている。13:52 羊毛製であるにしても、亜麻製であるにしても、衣服、あるいは織物でも、編物でも、それがまたどんな皮製品でも、患部のある物は焼く。これは悪性のらい病であるから、火で焼かなければならない。
興味深いですね、ここでの「らい病」は「カビ」のことです。そして「患部」という言葉を使っていますが、これはもちろんカビが発生している部分であります。このように聖書は、一つの霊的真理を伝える時に、実際に存在しているものの意味をさらに広げて他のことにも適用する場合があります。以前もお話しましたが、「栄光の雲が幕屋に満ちた」というときに、その雲が必ずしも実際の物質の雲とは限らない可能性があります。
ですから、このことさえ分かっていれば、新改訳第三版のように「ツァラアト」と呼ばなくても「らい病」のまま呼び続けても良いのです。らい病にある潜行性、つまり、何年も症状を表すことなく潜伏していること。そして症状として出てきても、また引っ込むこともあること。そして進行が遅いので、対処するのを怠ること。そして進行したときにはもう治癒が極めて困難である。こうした特質は、他の皮膚病にもカビにもあるのです。神は、陰湿で、自分の正体を隠し、そして自分自身を滅ぼしていく罪を、ハンセン病にも皮膚病にもカビに共通している部分に見出しておられるのです。
ですから対処法は、皮膚病の時と同じです。衣服を隔離します。七日待ち、広がっていれば火で燃やします。そして次に、広がらなかった場合について書いてあります。
13:53 もし、祭司が調べて、その患部がその衣服に、あるいは織物、編物、またすべての皮製品に広がっていなければ、13:54 祭司は命じて、その患部のある物を洗わせ、さらに七日間それを隔離する。13:55 祭司は、その患部のある物が洗われて後に、調べる。もし患部が変わったように見えなければ、その患部が広がっていなくても、それは汚れている。それは火で焼かなければならない。それが内側にあっても外側にあっても、それは腐食である。
広がっていなければ、衣服を洗った後にさらに七日間隔離します。そして変わっていなければ、それはカビではなく腐食でした。したがって、カビが広がっているのと同じ悪影響をもたらすので同じように火で燃やします。
13:56 祭司が調べて、もしそれが洗われて後、その患部が薄れていたならば、彼はそれを衣服から、あるいは皮から、織物、編物から、ちぎり取る。13:57 もし再びその衣服に、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品にも、それが現われたなら、それは再発である。その患部のある物は火で焼かなければならない。13:58 しかし、洗った衣服は、あるいは織物、編物、またはどんな皮製品でも、それらから、もし患部が消えていたら、再びこれを洗う。それはきよい。」13:59 以上は、羊毛あるいは亜麻布の衣服、織物、編物、あるいはすべての皮製品のらい病の患部についてのおしえであり、それをきよい、あるいは汚れている、と宣言するためである。
広がっておらず、水洗いした後、薄れていたならば、その部分だけはちぎり取ります。そして、その後カビが現れたら、火で焼きます。そしてカビが消えていたら、再び水洗いします。それできよいとの宣言を受けます。
聖書では、衣服は私たちが身につける行ないを表していることが多いです。黙示録19章で、聖徒たちが白い亜麻布の衣を着ていますが、それは聖徒たちの正しい行ないであると書いてあります。私たちが身に付けている習慣で、火で焼かなければいけないものはないでしょうか?あるいは、すっかり変えられており、御言葉の水洗いだけで済むような状態でしょうか?捨てるものが何であるかを峻別しましょう。
2B 新たな出発 14
ここまで読んで、罪の現実を知って、「それでは私の今の罪の問題はいつまでも残り、解決できないではないか。」と思われるかもしれません。けれども聖書はそこで終わりません。14章には、らい病人が清められた時の教えを与えています。
1C 二羽の小鳥 1−9
14:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。14:2 「らい病人がきよめられるときのおしえは次のとおりでなければならない。その者を祭司のところに連れて来る。14:3 祭司は宿営の外に出て行き、調べて、もしらい病人のらい病の患部がいやされているなら、14:4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。14:5 祭司は、土の器に入れた湧き水の上で、その小鳥のうちの一羽をほふるよう命じる。14:6 生きている小鳥を、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプといっしょに取り、湧き水の上でほふった小鳥の血の中に、その生きている小鳥といっしょにそれらを浸す。14:7 それを、らい病からきよめられる者の上に七たび振りかけて、その者をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。
宿営の外に生き、誰かが自分に近づいたら、衣を裂いて、髪を振り乱し、「汚れている、汚れている!」と叫ばなければいけない定めにあった人が、らい病が癒されるという経験をしました。ここで祭司は、清められたらい病患者のところに行って、そのことを確認しているだけで、祭司が彼を癒したのではないことに注目してください。その癒しがどのように行なわれたのか、ここには書いていませんが、神が癒してくださったことは明らかです。
かつて癒しを受けた人で有名なのはナアマンです。彼は預言者エリシャの指示どおり、ヨルダン川に七度浸かることによって、幼子の肌のようにきれいになった、とあります。そして何よりも、私たちの主イエス・キリストが行われた御業です。マタイ8章1節から4節にありますが、らい病人は主のもとに来て、ひれ伏して、「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。(2節)」と言いました。そして主は、こう書いてあります、「手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』」すばらしいですね、これまで誰にも自分を寄せ付けていないらい病人に対して、イエス様はあえて手を伸ばして、彼に触れられたのです。
ここに福音があります。私たちが他人には言えない負い目があり、それによって自分の生活が破壊されていることを知っていて、絶望しているその自分のところに主が降りてきてくださいます。ここの箇所でも、祭司自身が宿営の外に来て彼に会ってくれていますね。ありのままの私たちのところに、主が来てくださるのです。
そして清めの儀式が極めて興味深いです。用意されているのは、二羽の小鳥です。そして土の器と湧き水と、それから杉の木、緋色の撚り糸と、さらにヒソプです。聖書では実に興味深いことに、同じ方式が何度も出てきます。例えば杉の木であれば、マラの水が苦かった時に、主は一本の木を水の中に投げ入れたらそれが甘くなるとモーセに言われました。緋色の撚り糸は幕屋に多用されていましたね。
この儀式が表しているのは、まさに私たちの主イエス・キリストの全生涯です。初めの小鳥は天から来られたイエス・キリストの姿を表しています。そして、土の器は人となられたイエスを指しています。この方は確かに、土の塵によって造られたアダムと同じ肉体を有しておられました。そして、小鳥がほふられます。十字架の死です。その血は、湧き水の中に落ちています。湧き水と言えば、イエス様はサマリヤの女に、「わたしの与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。(ヨハネ4:14)」と言われました。主が流される血こそが、永遠のいのちを与える源となりました。さらに杉の木は、この方が確かに木に磔にされて死なれたことを意味しています。そして緋色の撚り糸はもちろん、主が流された血潮の色です。
そして、もう一羽の小鳥をその中に浸しています。お分かりですか、「水に浸す」という行為は、水のバプテスマを連想しますね。その水を今、祭司はらい病人に対して七たび振りかけているのです。らい病人が、これら死んだ小鳥とまた生きている小鳥を自分自身が一体化していく意味を持っています。
そしてその生きた小鳥を野に放すのです。これは主が昇天されたことを表します。いかがでしょうか、らい病人は自分が受けていた隔離という呪いが、今、土の器の中で葬られ、そして空に飛び立った小鳥のように、まったく新しい、解放された人生の中に自分が入れられることを感じ取ったことでしょう。同じように、私たちはキリストの死とよみがえりに自分を一体化させ、そして天に昇られたキリストの福音は、これまで自分を卑しめていた罪に打ち勝つ力を与えるのです!
14:8 きよめられる者は、自分の衣服を洗い、その毛をみなそり落とし、水を浴びる。その者はきよい。そうして後、彼は宿営にはいることができる。しかし七日間は、自分の天幕の外にとどまる。14:9 七日目になって、彼はすべての毛、その髪の毛と口ひげとまゆ毛をそり落とす。そのすべての毛をそり落とし、自分の衣服を洗い、水をそのからだに浴びる。その者はきよい。
衣服を洗い、そして毛をそり落としてから宿営の中に入ります。けれども、自分の天幕の中にはまだ入ることができません。七日待ち、その一週間で生えた毛をすべてそり落として、再び衣服を洗い、体を水で洗ってから中に入ることができます。
これが意味しているのは、「完全な清め」です。毛によって隠されたところがない状態で、全身が清められたことをこのような形で表しているのです。いやされたナアマンの肌は幼子のようになっていたことが書いてありますが、ちょうど幼子のように、私たちは全く新しい人生をキリストの中で始めることができる、という意味です。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ1:18)」
2C いけにえ 10−32
完全に清めを果たしただけではありません、次のいけにえの儀式を読むと、彼はイスラエル共同体の中に大いに歓迎されている姿を見ることができます。
1D 羊のみ 10−20
14:10 八日目に彼は、傷のない雄の子羊二頭と傷のない一歳の雌の子羊一頭と、穀物のささげ物としての油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログとを持って来る。14:11 きよめを宣言する祭司は、きよめられる者と、これらのものを主の前、会見の天幕の入口の所に置く。14:12 祭司はその雄の子羊一頭を取り、それを油一ログといっしょにささげて罪過のためのいけにえとし、それを奉献物として主に向かって揺り動かす。14:13 罪のためのいけにえと全焼のいけにえをほふった所、すなわち聖なる所で、その雄の子羊をほふる。罪のためのいけにえと同様に、罪過のためのいけにえも祭司のものとなるからである。これは最も聖なるものである。
初めに、罪過のいけにえを捧げます。穀物のささげものも一緒に捧げます。罪過のいけにえが初めに捧げられるのは、らい病が他の人々に対して大きな影響を与えるものだからです。個人の汚れにとどまらず、他の人にもその汚れを移してしまう恐れがあったからです。
14:14 祭司は罪過のためのいけにえの血を取り、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗りつける。14:15 祭司は油一ログからいくらかを取って、自分の左の手のひらにそそぐ。14:16 祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指で、油を七たび主の前に振りかける。14:17 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち先の罪過のためのいけにえの血の上に塗る。14:18 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭に塗り、祭司は主の前で彼のために贖いをする。
ここが、らい病人の清めの儀式の特長であります。血を右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指にあてがう儀式は、祭司が任職するときの儀式と同じであります。それだけでなく、さらに油をそこに塗り、残った油を頭に塗ります。つまり、彼は祭司と同じような栄誉ある地位を得たということを表しています。血によって耳、手、足が清められ、さらに油によって聖別を受け、聖霊に満たされたものとみなされています。
これが恵みの御業です。私たちは単に罪が洗い清められただけでなく、とてつもない祝福をもって迎え入れられるのです。放蕩息子の話を思い出してください。彼は文無しになり、豚のえさを食べているという始末でした。そして天と父に対して罪を犯したことを悟り、父の下でしもべとして働くことを決意しました。父の財産を使い果たしてしまったのですから、当然です。ところが、父は彼に一番良い服を着せました。手に指輪をはめさせました。足にくつを履かせました。そして、肥えた子牛を屠り、大きな祝宴を開いたのです!
14:19 祭司は罪のためのいけにえをささげ、汚れからきよめられる者のために贖いをする。そのあとで全焼のいけにえがほふられなければならない。14:20 祭司は祭壇の上で、全焼のいけにえと穀物のささげ物をささげ、祭司はその者のために贖いをする。その者はきよい。
罪過のいけにえの次に、罪のためのいけにえ、そして全焼のいけにえを捧げます。
2D 羊と鳩 21−32
14:21 その者が貧しくて、それを手に入れることができないなら、自分を贖う奉献物とするために、雄の子羊一頭を罪過のためのいけにえとして取り、また穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の一エパと油一ログを取り、14:22 また、手に入れることのできる山鳩二羽か家鳩のひな二羽を取らなければならない。その一羽は罪のためのいけにえ、他の一羽は全焼のいけにえとする。
これまでも、貧しい人のためのいけにえの定めがありましたが、らい病人はとくに貧しかったことでしょう。それで、子羊二頭の代わりに一頭、小麦粉十分の三エパの代わりに十分の一エパだけ用意します。そして、その後の儀式はすべて同じです、読んでみましょう。
14:23 八日目に、その者のきよめのために、それらを主の前、すなわち会見の天幕の入口の祭司のところに持って来る。14:24 祭司はその罪過のためのいけにえの子羊と油一ログを取って、これを奉献物として主に向かって揺り動かし、14:25 罪過のためのいけにえの子羊をほふる。祭司はその罪過のためのいけにえの血を取って、それをきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に塗る。14:26 祭司はその油を自分の左の手のひらにそそぐ。14:27 祭司は右手の指で、左の手のひらにある油を、主の前に七たび振りかける。14:28 祭司はその手のひらにある油をきよめられる者の右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指に、すなわち罪過のためのいけにえの血と同じところにつける。14:29 祭司はその手のひらにある残りの油をきよめられる者の頭の上に塗り、主の前で彼のために贖いをする。14:30 その者は、手に入れることのできた山鳩か、家鳩のひなのうちから一羽をささげる。14:31 すなわち、手に入れることのできたもののうち、一羽を罪のためのいけにえとして、他の一羽を全焼のいけにえとして、穀物のささげ物に添えてささげる。祭司は主の前で、きよめられる者のために贖いをする。」14:32 以上は、らい病の患部のある者で、きよめに要するものを手に入れることのできない者のためのおしえである。
このように貧しい人に対する教えを、そうではない人に対する説明と同じように、一切省略せずに主は説明しておられます。貧しい人たちが圧倒的に多かったということ、そして主はそのような境遇にある人でも主の前ではまったく同じように受け入れられ、また主に用いられるのだ、ということをここで教えています。
私たちは、いろいろな制限によって、他の人より効率的に主にお仕えできないと感じている人がいるかもしれません。給料がさほど高くない職についているので、献金を多く出すことはできない。自分は体が弱いので、教会の活動に頻繁に参加することができない。主はそのような弱い部分をことさらに大切にしておられます。私たちキリストの体が、他者に対するいたわりを忘れ、教会の運営を優先させるなら、ここにある神の心を忘れていることに気づかなければいけません。
3C 家屋 33−53
最後は「家屋のらい病」です。先ほど話したように実際はカビなのですが、らい病と同じ特徴をカビが持っているので、そこにある霊的真理を伝えるために主は同じ言葉を使われています。
1D 患部の調査 33−47
14:33 ついで主はモーセとアロンに告げて仰せられた。14:34 「わたしがあなたがたに所有地として与えるカナンの地に、あなたがたがはいり、わたしがその所有地にある家にらい病の患部を生じさせ、14:35 その家の所有者が来て、祭司に『私の家に患部のようなものが現われました。』と言って、報告するときは、14:36 祭司はその患部を調べにはいる前に、その家をあけるよう命じる。これはすべて家にあるものが汚れることのないためである。その後に、祭司はその家を調べにはいる。
カナンの地に入ってから、という前置きを主は伝えておられますが、なぜなら今は荒野で天幕の中で住んでいるからです。定住生活に変われば、石造りの家を建てます。
14:37 その患部を調べて、もしその患部がその家の壁に出ていて、それが緑がかったか、または赤みを帯びたくぼみであって、その壁よりも低く見えるならば、14:38 祭司はその家から入口に出て来て、七日間その家を閉ざしておく。14:39 七日目に祭司がまた来て、調べ、もしその患部がその家の壁に広がっているなら、14:40 祭司は患部のある石を取り出し、それらを町の外の汚れた場所に投げ捨てるよう命じる。14:41 またその家の内側の回りを削り落とさせ、その削り落とした土は町の外の汚れた場所に捨てる。14:42 人々は別の石を取って、前の石の代わりに入れ、また別の土を取って、その家を塗り直す。14:43 もし彼が石を取り出し、家の壁を削り落とし、また塗り直して後に、再び患部が家にできたなら、14:44 祭司は、はいって来て調べ、そして、もし患部が家に広がっているなら、それは家につく悪性のらい病であって、その家は汚れている。14:45 その家、すなわち、その石と材木と家の土全部を取りこわす。またそれを町の外の汚れた場所に運び出す。14:46 その家が閉ざされている期間中にその家にはいる者は、夕方まで汚れる。14:47 その家で寝る者は、その衣服を洗わなければならない。その家で食事をする者も、その衣服を洗わなければならない。
原則は他の重い皮膚病と衣類の時と同じです。七日間の隔離の後にカビが広がっているなら、石を取り出し、そして内壁全体も削り落とさせ、新しい石を入れて、それから漆喰で塗ります。けれども、またカビが生じたら、その家全体を壊します。
新約において、私たちの仲間が、教会が、御霊の住まわれる神殿であると書かれています。「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(1コリント3:16-17)」教会にカビをしのばせ、私たち仲間を破壊しようとする悪の分子がいます。それは偽の教師であったり、個々人に肉の弱さにつけこむ悪魔の仕業かもしれません。けれども神が、そのような者を滅ぼしてくださる、という約束です。
2D 家の清め 48−53
14:48 祭司がはいって来て調べて、もしその家が塗り直されて後、その患部が家に広がっていないなら、祭司は、その家はきよいと宣言する。なぜなら、その患部が直ったからである。14:49 祭司は、その家をきよめるために、小鳥二羽と杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り、14:50 その小鳥のうちの一羽を土の器の中の湧き水の上でほふる。14:51 杉の木とヒソプと緋色の撚り糸と、生きている小鳥を取って、ほふられた小鳥の血の中と湧き水の中にそれらを浸し、その家に七たび振りかける。14:52 祭司は小鳥の血と湧き水と生きた小鳥と杉の木とヒソプと緋色の撚り糸とによって、その家をきよめ、14:53 その生きている小鳥を町の外の野に放つ。こうして、その家のために贖いをする。その家はきよい。」
らい病人とまったく同じように、家に対しても清めによる儀式を行ないます。
4C まとめ 54−57
14:54 以上は、らい病のあらゆる患部、かいせん、14:55 衣服と家のらい病、14:56 はれもの、かさぶた、光る斑点についてのおしえである。14:57 これは、どんなときにそれが汚れているのか、またどんなときにそれがきよいのかを教えるためである。これが、らい病についてのおしえである。
13章、14章のまとめです。私たちは、罪の元であるアダムの罪を出産という現場によって知ります。また、罪の性質というものをらい病によって知りました。けれども、アダムではなくキリストによって、先祖から受け継いでいる罪が取り除かれます。そして、罪の力に対しても清めの力によって回復してくださることを知りました。キリストを信じているのであれば、私たちの頭はキリストなのです。罪の現実に悩んでいても、福音によって克服できる約束もあるのです。