レビ記17−18章 「聖別された民」

アウトライン

1A 血による聖め 17
   1B たった一つの道 1−9
   2B 贖いの源 10−13
   3B 日々のきよめ 14−16
2A 脱ぎ捨てるべき行ない 18
   1B 古き人 1−5
   2B 性的な罪 6−23
      1C 近親 6−18
      2C その他 19−23
   3B 神の怒り 24−30


本文

 レビ記17章を開いてください。今日は、17章と18章を学びます。ここでのテーマは、「聖別された民」です。神のために聖め別たれた民は、どのようにして生きていけばよいのか、その歩みについて学びます。

 レビ記は、魂の救いにあずかった人々が、どのようにして生きなければいけないかを教えてくれる書物です。それは、一言で言うと、主ご自身の姿に似せられていく生き方であります。主はイスラエルに、またクリスチャンにも、「わたしが聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。」とおっしゃられました。そしてこのレビ記は、大きく分けて二つの部分によって成り立っています。前半部分は、1章から16章で、神に近づくことについて書いてあります。聖なる神に私たちが近づくには、いけにえをもってのみ近づくことができることについて書いてありました。そして17章から最後までに、神とともに歩むことについて書かれています。私たちが神との交わりを保つには、この世にある汚れから離れて歩まなければいけません。その具体的な指針について、17章以降に書かれています。

 そして、今日は、この後半部分の導入になります。イスラエルの民は主ご自身のものとされたのですから、彼らはこの世の汚れから離れていきなければいけません。聖別された民なのです。そこで、どのようにしてこの世の汚れから免れることができるのか、主はモーセをとおしてイスラエル人に教えられました。

1A 血による聖め 17
1B たった一つの道 1−9
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。主が命じて仰せられたことは次のとおりである。」主はこれから、祭司たちと、また一般のイスラエル人に対して語られます。イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、主の幕屋の前に主へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。

 私たちはレビ記前半部分において、牛や羊ややぎを幕屋の祭壇においてささげなければいけない教えについて学びました。けれども、これら家畜を祭壇のところ以外でほふった場合、その人が罰せられると主は教えておられます。

 今、イスラエル人はシナイ山にいます。つい最近まで、彼らはエジプトにいました。彼らは、他のエジプト人と同じように、偶像崇拝を行なっており、淫らなことも行なっていました。けれども、主は、アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約のゆえに、彼らをあわれんで、エジプトから救い出して、連れ出されたのです。けれども、イスラエル人は、ただエジプトから連れ出されただけで、その思いはエジプトにいたときと何ら変わらないのです。物理的には主のご支配に移されたのですが、彼らの思いが一心されて、思いや行ないおいても主ご自身のものとされなければいけません。

 主は、モーセを通して、イスラエル人が、いけにえによってご自分に近づくように教えられました。イスラエル人がこれから主とともに歩むには、まず主への礼拝がすべての出発地点だったのです。祭司に家畜をほふってもらい、血を祭壇に注ぎかけてもらい、脂肪は火で焼いて、残りの肉は自分たちで食べました。このような行為によって、彼らの思いも新たにされていき、きよめられて、主に喜ばれる者となっていくのです。そこで主は、彼らが家畜をほふるときには、どんな時でも主の幕屋のところまで持って来るように命じられたのです。たとえそれが食事のためにほふるときでも、必ず祭壇のところにもって来て、それを和解のいけにえとしてささげなさい、と命じておられます。それは、彼らの日常生活のあらゆるところで、主を礼拝するように導かれるためです。(ただ、これは荒野の生活を営んでいる時にだけ適用される戒めです。約束の地に導かれた後は、遠く離れている人たちはその場で食べてよいことが、申命記12章20−21節に書かれています。)

 これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、主に持って来て、主への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。

 イスラエル人は、主の天幕で家畜をささげなければ、自分勝手に動物をほふって、そして偶像崇拝をしてしまう、と主はおっしゃっています。動物をほふることにおいては、祭司と同じことをしており、一見、聖なるもののように感じてしまいますが、それは主との交わりをするためではなく、神ではない他のものを拝むためのものになってしまうのです。主は、祭壇においてご自身を現わすようにお定めになりました。動物の血は、その祭壇において注がれるように定められました。脂肪は祭壇の上で焼かれて、その肉の一部を食べることができます。イスラエル人が、自分が良かれと思っている方法で神を礼拝するのではなく、神がお定めになった方法によってのみ、神に近づくことができるのです。神を自分に合わせるように要求するのではなく、自分が神さまに合うように自分を変えなければいけません。

 私たちに与えられている礼拝も、たった一つの方法しかありません。それは、主イエス・キリストご自身を礼拝し、そのみわざを認め、受け入れる方法であります。イエスさまは、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6」と言われました。祭壇はまさに、主が私たちの罪のために血を流され、死なれたところであります。主はモーセに、「主に持ってきて、主への和解のいけにえとして、主の祭壇に注ぎかけ、主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするためである。」と、何回も何回も、主ご自身にお会いするためにいけにえを持ってくることを強調されています。この方を通してでなければ、私たちは決して礼拝を行なうことはできないし、自分勝手な、独り善がりな礼拝になります。教会は、ただ一つの目的、主イエス・キリストと、そのみわざを思い出し、この方に御霊によって交わるために来ているのです。

 また、あなたは彼らに言わなければならない。イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。

 和解のいけにえだけではなく、全焼のいけにえをはじめ、その他のいけにえも、幕屋の祭壇のところ以外でささげては決していけません。「その者は、その民から断ち切られる。」というのは、失われる、神にのろわれた者となる、という意味です。つまり、簡単に言えば、地獄に行く、と言うことであります。主イエス・キリスト以外に神に近づこうとするのであれば、どのような宗教的な行為を行なったとしても、その人は滅んでしまうのです。

2B 贖いの源 10−13
 このように、主を礼拝する場所は定められていましたが、主を礼拝する方法も定められています。また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

 
血を食べてはならない、という戒めです。血を食べる者は、先ほどと同じように、民の間から断たれてしまいます。主は、なぜ血を食べてはいけないのかの理由を教えておられます。それは血によって贖いが行なわれるからです。主はまた、「肉のいのちは血の中にあるからである。」と言われています。

 神は、いのちを尊ばれている方です。カインがアベルを殺したときから、神は、人のいのちを奪う者に対して、そのいのちが取られる、とおっしゃられました。どのような戒めも、その人のいのちに尊厳があるという前提によって、与えられております。英語に、「プロ・ライフ」という言葉がありますが、これは中絶反対の立場、いのちを尊ぶ立場を表すことばです。受精卵から墓場まで、いかなるいのちにも尊厳があり、だれもそれを奪うことができない、という考えは、まさに聖書から来た価値観です。ですから、例えば、石原都知事が、重度知的障害者を見て、「この人に、人格なんてあるのかね。」と発言しましたが、それは異教の考え方、キリスト教とは程遠い考え方であることが分かります。

 そこで、この尊いいのちが犠牲となることによって私たちが受け入れられるということは、いかに偉大なことであるかが分かるでしょう。ものすごく大きな代償が支払われて、私たちの罪が赦されて、神のものとされたのです。動物がほふられるとき、神はその動物を粗末に考えておられるのでは決してなく、むしろ高価で尊いのであり、そのいのちが取られることを何よりも悲しまれているのは神ご自身なのです。けれども、失われた私たちをご自分のみもとに引き寄せることを、神は切に願っておられて、それゆえ、動物が血を流すことを選ばれたのです。しかし、神は、動物ではなく、ご自身のひとり子のいのちを犠牲にされました。いのちはみな尊いのですが、御子のいのちほどに高価で尊いものはありません。けれども、この方を犠牲にすることにより、私たちがキリストにあって完全に贖われるため、永遠に救われるようにされたのです。ペテロは言いました。「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(Tペテロ1:18-19」私たちは、キリストの尊い血によって贖い出されました。

 それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。「あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。」

 血を食べるということは、いのちを取ることに他なりません。また、血による贖いをないがしろにすることです。ヘブル書の著者は、御子の血をないがしろにすることについて、次のように警告しています。「まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』、また、『主がその民をさばかれる。』と言われる方を知っています。(ヘブル
10:29-30」私たちは、ことさらに罪を犯しつづけることによって、主の血潮をないがしろにすることができます。また、自分の行ないか功績によって救われると考えることによって、御子の血を汚れたものとみなすことになります。その一方、イエスさまは、私たちがイエスさまの血を飲み、その肉を食べるように命じられました。「わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。(ヨハネ6:55-56」私たちが主の聖餐にあずかることは、主ご自身のいのちにあずかることであり、主のいのちにあって生きることに他なりません。

 イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。

 先ほどまで家畜をほふることについて教えておられましたので、今は、野のけものについて血を食べてはならないと教えておられます。生きている獣を捕らえたら、まずその血を注ぎだして、土でおおわなければなりません。

3B 日々のきよめ 14−16
 けれども、死んだ獣についてはどうするのでしょうか。生きた獣はいのちがあるので、その血はいのちであることが分かりますが、死んだ獣の場合はどうでしょうか。

 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。「あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。」死んだ獣を食べるときも、血を注ぎ出さなければいけません。自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れている。彼はきよい。もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。

 血を出しても、もともと死んでいる獣を食べるときは、その人は汚れます。罪に問われることはありませんが、汚れます。しかし、もし水の洗いをしなければ、その人は咎を負わなければなりません。血によってきよめられているのですが、水の洗いがないままで生きていれば、罪ある者となってしまうのです。
私たちは主の血潮によってきよめられた者ですが、みことばによる水の洗いが必要になります。日々の歩みの中で汚れたものを、みことばを読み、それを心に蓄えることによってきよめられます。また罪の告白も大切です。「罪を言い表せば、主は真実で正しい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます。」

2A 脱ぎ捨てるべき行ない 18
 このようにして、私たちは、礼拝することにおいて、異教のやり方をまねてはならないことが分かりました。いつも、主イエス・キリストご自身を、また流された血を思い起こす礼拝でなければいけません。次の章には、私たちの普段の行ないにおいて、異教徒をまねてはいけないことについて書かれています。

1B 古き人 1−5
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。」

 主は、祭司ではなく一般のイスラエル人に語りかけておられます。彼らの日々の歩みについて教えられます。

 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。


 先ほど説明しましたように、イスラエル人はエジプトの中にいたので、それらのならわしについて風習について慣れ親しんでいました。それは、これから読むところの性的な罪です。エジプトや、また、約束の地に住んでいるカナン人は、それらを何の罪意識も感じずに習慣的に行なっており、いやむしろ宗教の中に取り組んで、守らなければいけないもののようにしてきました。そしてイスラエル人も、それを何の疑問も持たずに行なってきていたのです。だから、主はイスラエル人に、「彼らのならわしをまねてはいけない。」と命じられています。滅びをもたらすそれらの行ないから、免れなさい、とおっしゃっておられるのです。

 あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。

 主は、彼らのならわしをまねるのではなく、わたしのおきてを守りなさい、それに従いなさいと言われています。二回、「わたしは、あなたがたの神、主である。」と言われています。大事なのは、イスラエルの民が神の主権の中に移ったという事実です。今まではエジプトにおいて奴隷だったのですが、今は、神に仕える者とされました。人は、どちらかに従うことによって、もう一つから自由にされるのです。罪から自由にされるには、神の奴隷とならなければいけません。使徒パウロは言いました。「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。(ローマ
6:16」ですから、主のおきてに従うことによって、エジプトやカナンのならわしにまねしなくてもよくなるのです。

 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。

 「それを行なう人は、それによって生きる。」というのは、パウロが二度引用しました。律法によって生きる者は、その行ないによって生きる、という文脈で使いました。たしかに永遠のいのちを得るためには、律法によっては救われることはできません。けれども、私たちは、いのちの御霊に従う者とされました。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。(ローマ
8:4」御霊に導かれることによって、肉の欲望を満足させなくともよくなります。

2B 性的な罪 6−23
1C 近親 6−18
 そこで主は、具体的にどのような性的罪を犯してはいけないかを、教えられます。6節から10節までは、一番近しい家族との性行為の禁止です。

 あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。
自分の母親と通じてはならない、と言われています。あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。

 
当時は一夫多妻も良かったので、自分を生んだ母親以外にも、父に妻がいる場合がありました。その罪と結ばれてはいけない、というおきてです。

 あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。
姉妹を犯してはならない、という戒めです。母が父とは異なる男から生まれた娘がいたとしても、彼女は姉妹なので犯してはいけません。あなたの息子の娘、あるいはあなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。孫を犯してはならない、という戒めです。

 このような戒めは、あまりも当たり前で、なぜこのようなことを主がおっしゃられるのか、と思われるかもしれませんが、エジプト人もカナン人もこのことを日常茶飯事に行なっていたことを覚えていなければいけません。周りで他の人が行なっているとき、私たちは、それがどんなに汚れていることなのかわからなくなるときがあります。ですから、主は、これらのことが罪であることをはっきりと教える必要があったのです。

 次に、家族だけれども、血縁的に少し離れた家族との性行為、ならびに結婚の禁止であります。あなたの父の妻があなたの父に産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、あなたはその娘を犯してはならない。これは、自分の母親とは異なる父の妻が生んだ半姉妹のことです。あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親である。あなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親であるから。おばと通じてはならない、という戒めです。あなたの父の兄弟をはずかしめてはならない。すなわち、その妻に近づいてはならない。彼女はあなたのおばである。実のおばだけではなく、義理のおばにも近づいてはいけません。あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。嫁を犯してはいけません。あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることである。

 
兄弟の妻を自分のものとしてはいけません。バプテスマのヨハネが、ヘロデをこの罪で咎めましたが、そのためヨハネは首を取られました。

 あなたは女とその娘とを犯してはならない。またあなたはその女の息子の娘、あるいはその娘の娘をめとって、これを犯してはならない。彼女たちは肉親であり、このことは破廉恥な行為である。
これは、子持ちの母親と結婚するときに、その娘と母親との二人と結ばれてはいけない、ということです。あなたは妻を苦しませるために、妻の存命中に、その姉妹に当たる女をめとり、その女を犯してはならない。妻の姉妹と結婚をしてはいけない、という戒めです。

 さまざまな具体的な例があげられていましたが、それらを貫く原則は、もちろん、「二人は一体となるのである。」という創世記に書かれている教えであります。二人が性行為を行なうとき、それはまさに結婚の行為であり、二人は人格的に一生涯、結ばれているのです。それゆえ、その人格的結びつきを混乱させる性行為は、一切、禁じられているのです。

2C その他 19−23
 次に、近親相姦以外の、行なってはいけない性行為について書かれています。

 あなたは、月のさわりで汚れている女に近づき、これを犯してはならない。

 血によって、生理中の女性は汚れているとされていると、私たちはレビ記
15章で学びました。その女に近づいてはいけません。

 また、あなたの隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。
これが姦淫と言われるものです。また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

 これは、自分の子どもを殺すことであります。モレクという偶像は鉄で出来ており、火によって熱くされて、その両腕は真っ赤になります。そこに赤ん坊を乗せて、赤ん坊をモレクにささげるのです。恐ろしい罪ですが、なぜ、性的な罪が列挙されているところにこの罪が書かれているのでしょうか。簡単です。以上、列挙されたような破廉恥な行為は、子を宿すために行なったことではなく、単に性的欲望を満たすために行なったことなのです。だから、モレクにささげることによって、子を消し去ってしまったのです。

 これの現代版が中絶です。結婚外の性交渉によって、どれだけ多くのいのちが奪われているのでしょうか。日本は、中絶大国と呼ばれています。また、日本では結婚した夫婦の間でも、性的欲望を満たすためだけに性行為をして、妊娠したら中絶させているケースもあるそうです。いずれにしても、これは異教の考えであり、これらの行為に対して神のさばきは怠りなく下ります。

 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。

 
同性愛も聖書では禁じられています。同性愛は遺伝性の病気である、とか、幼少のころ性的虐待を受けたから仕方がないのだ、という意見が今はびこっていますが、聖書では、はっきりと罪であると宣言されています。性を売り物にしている売春婦をさばかずに、愛して受け入れなければいけないのと同じように、同性愛者を受け入れて、愛していかなければいけません。彼らの多くには、心の傷があります。けれども、だからと言って、同性愛が宜しいということではないのです。姦淫と同じように、同性愛も罪です。

 動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。

 
動物と性行為をすることは、信じられないかもしれませんが、ポルノ雑誌には、このような記事が載っているそうです。「男と女が一体となる」というのが性行為の目的であるならば、動物と人間との性行為は、神の秩序をことごとく崩すものに他なりません。

3B 神の怒り 24−30
 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。

 
なぜ、カナン人がことごとく滅ぼされなければいけなかったのか、その理由がここに書かれています。カナン人は、今挙げられた性的汚れを、すべて行なっていたからです。神はアブラハムに、「そして、4代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。(創世
15:16」と言われましたが、神がカナン人やエモリ人を聖絶するように命じられたのは、このような行ないによって彼ら自身に滅びを招いていました。ヨシュア記を読むときに、この背景を知っていれば、なぜ一人も残らず倒しなさい、といわれた主のみこころを知ることができます。

 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。・・あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた。・・あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。

 ここに、神がイスラエルにへこひいきをされているわけではないことを知ることができます。イスラエルも同じことを行なえば、この土地から出て行かなければいけません。

 これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者はだれであろうと、それを行なう者は、その民の間から断たれる。あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 
このように、これら性的罪を行なっている者に対して、神の御怒りがくだります。
これは旧約だけの教えではありません。新約にも、そのまま受け継がれています。私たちは、恵みによって救われる教えを何回も聞いているために、新約聖書ではっきりと宣言されている性的罪について見逃してしまいがちです。コリント第一6章で、パウロがこう言いました。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(6:9-10」次にガラテヤ書でもこう言っています。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。(5:19-21」ここでも、性的罪が、最初のほうに列挙されています。ガラテヤ書の次のエペソ書も同じです。「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。(エペソ5:3-6

 性的な罪のために、神の怒りがくだると、はっきりと言っています。レビ記において、主がさばかれるとおっしゃっているのと全く同じです。コロサイ書にも同じように列挙されていますし、テサロニケ人に対しても、パウロは同じことを勧めました。使徒ペテロも同じように、手紙の中で勧めています。したがって、異教徒に囲まれて生きるなかで、性的な純潔を保つことは、私たちの大きな課題なのです。

 私たちは、新たに生まれて、主イエスさまに従う者となりました。けれども、私たちは、神の怒りを招くような社会の中で生きていたし、また自分自身もその思いによって支配されていました。ですから、救いにあずかった私たちは、今までの古い生活を捨てていく選択を、日々行なって行かなければいけないのです。私たちは教会に来ます。礼拝に来ます。しかし、その教会でさえ、礼拝でさえ、自分勝手な方法で行なうことがあるのです。そこで、私たちは主イエス・キリストがなされたみわざに心を留めつづける、あの祭壇における儀式に示されている主イエスさまのみわざに目を注がなければいけません。この真の礼拝こそ、神の民となるための出発点です。そして、社会の中にある罪、ここでは性的罪が取り扱われていましたが、そのような風習を脱ぎ捨てて、主イエス・キリストを身につけます。


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