レビ記17−20章 「自分の身の聖別」

アウトライン

1A 血の尊厳 17
   1B 主の幕屋へのささげ物 1−9
   2B 命なる血 10−16
2A 性の尊厳 18
   1B 周囲の風習 1−5
   2B 近親相姦 6−18
   3B 忌み嫌うべき関係 19−23
   4B 住民の吐き出し 24−30
3A 律法の神聖 19
   1B 神に対する聖別 1−8
   2B 隣人への愛 9−18
   3B 区別と忍耐 19−25
   4B 異教儀式 26−31
   5B 敬いと公正 32−37
4A 裁きの厳しさ 20
   1B 異教の慣わし 1−9
   2B 姦通 10−21
   3B 選り分けられたイスラエル 22−27

本文

 レビ記17章を開いてください、私たちはここから、レビ記の後半部分に入ります。後半部分の主題は、「聖別によって神と歩む」です。神が聖なる方であるから、私たちも聖なる者となるというのが全体の主題ですが、いけにえによって神に近づく方法を前半で学んだ私たちは、次にいかに、その聖さの中にいることができるのかについて学びます。

 そこで鍵となる聖句が、207節です。「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。」「聖別」とは何であるか?これは、いろいろあるものから別けられて、そしてある目的のために用いられる、という意味です。たとえば「聖書」という言葉は、「いろいろある書物の中で、神に属する言葉として別たれている。」という意味です。ですから、「私たちが、主のものとなるためにこの世にいる人々から別たれている。」ということです。

 イエス様が、ユダヤ人の裁判を受けるために捕えられる直前にいられた祈りの中で、こう言われました。「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。(ヨハネ17:16-17」ちょうど水の中に油を入れても混じり合わないように、私たちがこの世の中にいても、この世のものではなくなりました。そして神だけのものになりました。その生活を送るにあたって、これから聞いていく御言葉によって、私たちの思いと心が洗い清められることを願います。

1A 血の尊厳 17
1B 主の幕屋へのささげ物 1−9
17:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。17:2 「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。主が命じて仰せられたことは次のとおりである。17:3 イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、17:4 主の幕屋の前に主へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。17:5 これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、主に持って来て、主への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。17:6 また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある主の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を主へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、17:7 また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。

 聖別の生活は、自分たちが殺した動物をどのようにして食べるか、ということから始まります。それはまず、「和解のいけにえ」として主の前に持ってきてから、その分け前を食べるということです。いけにえと言っても、和解のいけにえの場合は脂肪と内臓の一部だけを火で焼くのですから、肉の部分は自分のものとなります。

 これは、私たちが食べることにおいて、それが主への礼拝の一貫なのだ、神の栄光のために行なうことなのだ、ということであります。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(1コリント10:31」そして、「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。(1テモテ4:4-5」とあります。私たちが食前に祈る、というのは、イスラエル人の和解のいけにえにある神の教えから来ているんですね。

 そしてもう一つの目的は、7節にある偶像礼拝を避けるため、であるとしています。「やぎの偶像」とありますが訳によっては「悪霊」と訳されています。古代エジプトで山羊を祭る儀式がありました。また、イエス様が弟子たちといっしょに行かれた「ピリポ・カイザリヤ」は、「パン」と呼ばれる山羊のギリシヤ神を祭る儀式の場所でした。

 その背後に「悪霊」がいる、と主は言われています。偶像のあるところに悪霊がいる、ということではなく、いろいろなところにいます。けれども、私たちが偶像礼拝を行うことによって、それは単に木や石に対する儀礼行為に留まらず、悪霊そのものに仕えているというオカルト行為なのだ、ということです。「私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(1コリント10:19-20」したがって、私たちは注意して偶像礼拝を避けるべきなのです。

17:8 また、あなたは彼らに言わなければならない。イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、17:9 それを主にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。

 和解のいけにえではなく、全焼のいけにえを、会見の天幕以外のところで捧げるのであれば、その民から「断ち切られます」。これは殺される、あるいはイスラエル共同体から追放される、という意味です。ちなみに申命記12章では、すでに約束の地に住みつき、イスラエルの人々が幕屋から遠くに住む場合は、和解のいけにえをささげなくても食べることができる、という但し書きがあります。

 これは、会見の天幕の入口のみが、神の栄光に近づくために主が設けてくださった所だからです。他の箇所で自分なりにいけにえを捧げても、それは自分の方法で近づいているのであって、神の方法で近づいているのではありません。ちょうどそれは、カインとアベルのいけにえの違いと同じです。アベルは、主が皮の衣でアダムとエバを覆われたように、血を流す、いけにえによって神に近づきました。カインは、土地から出るものは呪われているという神の宣言を知っていながら、自分が耕した作物の実を神に捧げました。

 私たちは幕屋がすべて、イエス・キリストの栄光を表すことを学びましたね。儀式がいかに神々しく、壮麗なものであっても、いかに優れた倫理性のある教えであっても、キリストの栄光なしには神に近づくことはできないのです。この方こそ、神に至る道であり、真理であり、命なのです。

 現代の社会は、「自分」というものを中心にしています。共同体の中に生きる自分ではなく、個々人が自分の気持ちや信条にしたがって生きていくことが最も優れていると考えています。したがって、この流れにしたがって、「個人主義クリスチャン」という考えもできています。信者の交わりなしに、自分だけで礼拝を持つことができる。他者の干渉を受ければイエス様と交われなくなる、と主張します。けれども、そこで祈っている相手は、そこで礼拝しているという相手は本当にイエス様なのか?という問題が出てきます。イスラエル人と同じように、主なる神にいけにえを捧げているようで、実は自分の方法で行っているので、主とは異なる存在に祈っていくようになります。自分の気持ちや自分の考えに沿った、聖書とは異なる神、聖書とは異なるイエスになってしまいます。

2B 命なる血 10−16
17:10 また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。17:12 それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。『あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。』17:13 イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕えるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。17:14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』17:15 自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れている。彼はきよい。17:16 もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。」

 血を食べてはいけない、という強い戒めです。なぜ主がそこまで強調されているのかと言いますと、第一に、11節の「肉のいのちは血の中にあるからである」というものがあります。医学的にもこれは本当ですね。血液の中に酸素があるから、その血流によって体全体の細胞を生かしています。ちょうど私たちは水の中の魚のように、血の中で生かされているわけです。ですから、霊的にも血が命そのものを表しているのであり、それを食べる行為は、まさに命を貪ること、生命を軽視することに他なりません。

 私たちは命の尊厳が軽視されている社会に生きています。平気で人々が殺されます。そして、殺されなくても、人を物質であるかのようにみなす傾向があります。人が心の悩みを持っていれば、それを薬で治せるという傲慢さがあります。会社では、働いているのは魂のある人間であるのに、「人材」という言葉があるように材料としかみなさない傾向があります。人を軽視する会社はいくら費用削減ができたとしても必ず衰退します、成功しません。

 もしやすると、私たち教会がこのような世の価値観の中に、血を食べるような価値観に影響されてしまうのではないかと案じます。教会のプログラムが優先して、そのプログラムを運営するために私たちが駒のようにして働く、ということが起こります。そうではなく、教会の弱い人々に届き、そして教会の外の人々に目を向け、積極的に人に仕えていく仲間作りが必要です。

 そして第二に、「いのちとして贖いをするのは血である」ということです。このように尊い命だからこそ、私たちの罪に対する代償となりえるのだ、ということです。金銀ではなく、それよりも尊い命が、血によって注ぎだされて、その大きな犠牲によって私たちの罪が赦される、ということです。ゆえに血を食べないというのは、流されたキリストの血を軽々しく見ないということです。ヘブル書は、「神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、(10:29」と福音の知識を捨てる者について述べています。

2A 性の尊厳 18
1B 周囲の風習 1−5
18:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。18:2 「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、主である。18:3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。18:4 あなたがたは、わたしの定めを行ない、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、主である。18:5 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行なう人は、それによって生きる。わたしは主である。

 これから主は、性的な関係について、聖くなければいけないことを話されます。ここで主が繰り返して仰られているのは「風習」や「慣わし」です。エジプトの地での慣わし、またこれから入っていくカナン人の地での風習です。これらを真似てはいけないという戒めです。

 私たちは、この世における習慣、当たり前に受け止められているものがあります。私たちはこれを、「みながやっているから」という理由でそのまま行なってしまうことが実に多いです。アメリカでは、婚前交渉をする若いクリスチャンが、クリスチャンではない人と同じぐらいいると聞いています。韓国では、四分の一がクリスチャンだと言われているのに、なんと一年間に約34万件の堕胎数があります。人口比にすると日本の四倍なのです。

 つまり、「みながやっているから」「以前からそうだったから」という圧力は、非常に強いということです。異邦人の多くいる教会に対してパウロは、性的な聖潔について強調して戒めています。テサロニケ人の教会は、その兄弟愛で非常に優れていましたが、性的罪から抜け出せていない人が多くいました。それでパウロはこう教えています。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分にからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。(1テサロニケ4:3-6

2B 近親相姦 6−18
 6節から18節は、いろいろな形の近親相姦を取り扱っています。

18:6 あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。18:7 父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。18:8 あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。

 母と寝ることについての戒めですが、背景に一夫多妻があることを忘れないでください。神は一人の男と一人の女の結婚を定められましたが、一時期的に一夫多妻を許容しておられました。それで、自分の母親ではないけれども父の妻の存在もあるのです。

18:9 あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。18:10 あなたの息子の娘、あるいはあなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。18:11 あなたの父の妻があなたの父に産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、あなたはその娘を犯してはならない。

 ダビデの息子アムノンが、妹タマルを陵辱しましたが、まさにこれに当てはまります。

18:12 あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親である。18:13 あなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親であるから。18:14 あなたの父の兄弟をはずかしめてはならない。すなわち、その妻に近づいてはならない。彼女はあなたのおばである。18:15 あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。18:16 あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることである。

 ヘロデが、兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分の妻としていましたが、この律法があったのでバプテスマのヨハネは責めました。

18:17 あなたは女とその娘とを犯してはならない。またあなたはその女の息子の娘、あるいはその娘の娘をめとって、これを犯してはならない。彼女たちは肉親であり、このことは破廉恥な行為である。18:18 あなたは妻を苦しませるために、妻の存命中に、その姉妹に当たる女をめとり、その女を犯してはならない。

 あらゆる形の近親相姦を神は禁じておられますが、ここまで詳細に教えておられる理由は例外を作らせないことだと思います。私たち人間は、例外を探して罪を犯そうとする性質を持っていますから。そして私たちは近親相姦を忌まわしいと思いますが、調べてみると、古代エジプトやカナンはもちろんのこと、歴史の中でも、また日本では近現代においても頻繁に起こっています。

3B 忌み嫌うべき関係 19−23
 そして次は、その他の忌み嫌うべき関係です。

18:19 あなたは、月のさわりで汚れている女に近づき、これを犯してはならない。18:20 また、あなたの隣人の妻と寝て交わり、彼女によって自分を汚してはならない。

 いわゆる姦淫です。

18:21 また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

 モレクはアモン人から伝わってきた神ですが、幼児を犠牲の供え物として受け入れる快楽の神です。腕があり、そこに赤子を載せ、火を付けて熱します。これらはみな、望まぬ妊娠をしたときの子供を処理する方法、つまり当時の堕胎だったのです。

 けれども、聖書の中で実に残念なことに、イスラエルの民がこの慣わしを受け入れてしまいました。アハズ王やマナセ王は自分の子をモレクにささげています。

18:22 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。18:23 動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。

 同性愛は「忌み嫌うべきこと」、そして獣姦は「道ならぬこと」です。その度合いが強くなっています。

4B 住民の吐き出し 24−30
18:24 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、18:25 このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。

 モーセ五書の次、ヨシュア記には、イスラエルの民がカナン人の地に入り、女子供含めて聖絶せよ、という神の命令があります。そこを読んで、いかに神は残虐な存在であるかと非難する人たちがいます。けれども、その背景はここにあるのです。今、私たちが見てきた忌まわしい行ないが、実に風習として彼らは行なっていたのです。ゆえに、イスラエルの民がカナン人を滅ぼすことによって、彼らが神の裁きの器となったのです。幼児犠牲の骨がわんさとカナン人の遺跡から出てきましたが、それを発掘した考古学博士は、「なぜ神がもっと早く彼らを滅ぼさなかったのか不思議だ。」と言いました。

18:26 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守らなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの間の在留異国人も、これらの忌みきらうべきことを、一つでも行なうことがないためである。18:27 ・・あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行なったので、その地は汚れた。・・18:28 あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。

 もう一つ、彼ら自身がこれらのことを行って、約束の地から吐き出されることのないように、という神の思いもあります。つまり、同じ行いをしたら、彼らが神の契約の民であるとしても、へこひいきなく裁きを受けるということです。「罪を犯しても、クリスチャンなのだから天国に行ける。」という考えは、まったく間違っているといわざるをえません。

18:29 これらの忌みきらうべきことの一つでも行なう者はだれであろうと、それを行なう者は、その民の間から断たれる。18:30 あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行なわれていた忌みきらうべき風習を決して行なわないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である。」

 このようにして、「性」の尊厳についての戒めを読みました。神が与えておられる唯一の性行為は、創世記2章にある男と女の結びつき、すなわち結婚です。この制度によって神はその行為を祝福してくださいます。

3A 律法の神聖 19
 次は十戒について、それを、尊厳をもって守るようにという戒めです。

1B 神に対する聖別 1−8
19:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。19:2 「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。19:3 おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。19:4 あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 十戒の初めの五つに関わる戒めです。初めに父と母を敬えとありますが、親の権威に服従することは神の権威に服従することにつながります。

 そしてこの章で繰り返し出てくるのは、「わたしはあなたがたの神、主である」という言葉です。聖めの第一歩は何なのか?それは、私たちが考えていること、思っていること、感じていることよりも、主なる神の御言葉の権威を認めることにあります。その仰っていることが、自分の知性や感情にどれだけそぐわなくても、それでも主を選び取ります、という姿勢です。

19:5 あなたがたが主に和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。19:6 それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。19:7 もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。19:8 それを食べる者は咎を負わなければならない。主の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。

 三日目以上経つと、もちろん肉は腐敗します。主はこの腐敗を忌み嫌われます。私たちと神との交わりは常に新鮮でなければならず、その腐敗を神は忌み嫌われるのです。

2B 隣人への愛 9−18
 次からは隣人に対する配慮と敬いです。

19:9 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。19:10 またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。19:11 盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。19:12 あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。19:13 あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。19:14 あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。

 主に弱者に対する憐れみが書かれています。落穂については当時の福祉制度です。落ち穂をあえて残すことによって、貧困者を救済する目的です。そしてここには、気前の良さがあります。そして日雇い労働については、貧しい人はその賃金でその日食べられるのか、または寒さをしのぐ着物を買うことができるのかが決められますので、その日に支払うのは彼らの生存に関わってきます。それから身障者に対して、その障害にあてつけて意地悪をするという、私たちの心から出てくる悪い思いに対する戒めです。

19:15 不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。19:16 人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。19:17 心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。19:18 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

 「公正」についての教えです。裁判において、経済的な格差によってどちら側についてはいけない。あくまでもその行ったことに対しての判断を下しなさい、ということです。それから、中傷や憎しみ、また恨みは避けなければいけません。「懇ろに戒めなければいけない」とのことですが、私たちはしばしば、問題回避のためにただ心に恨みを抱いたままにしていることがあります。これは罪です。むしろ、親切な心をもって相手にその問題を提示してみる努力が必要だ、ということです。

 そして、その背後にある神の聖さの基準は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」であります。私たちが恨みを抱きそうになるとき、相手の身になって考えてみる余裕が必要です。たとえ腹立たしくなっても、もしかしたら相手はこういうところを通ってきたのかもしれない。その行ったことは悪くても、そこに至った経緯を憐れむことができるかもしれません。

3B 区別と忍耐 19−25
19:19 あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。

  極めて興味深い律法ですが、この背後にある神の聖さは、「区別」であります。神は天地を創造されたときに、水と空を区別し、海と陸を区別し、また植物や動物は、その種類ごとに実を結ぶようにされました。この律法は、新約聖書の教えの中に銘記されていないので、私たちが今、守るべき基準ではないですが、それでも秩序や区別というところは私たちが学ばなければいけないことがあります。

19:20 男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていないなら、彼らは罰せられる。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。19:21 その男は、主への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。19:22 祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によって主の前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。

 20章には、姦淫の現場で捕えられた者は両者とも殺されなければいけないことが書いてありますが、彼女は奴隷なので純粋に強姦の状態です。ゆえに罪過のいけにえによってのみ償われます。

19:23 あなたがたが、かの地にはいって、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。19:24 四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。19:25 五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。

 これは、実際的な神の助言です。事実、果樹を植える時、三年間は待たなければならないとされています。そうしなければ、続けてその木が実を結ぶことができません。けれども、この背後には神の聖さについての霊的原則があります。「割礼のないもの」という表現は、「まだ神のものとなっていない。」という意味です。私たち人に例えて分かりやすくいえば、まだ心の割礼を受けておらず御霊によって聖められたものとなっていない、ということです。そして、四年目ですが、「主への賛美のささげ物となる」とありますが、私たちの賛美を神は聖なる果実のように受け入れてくださいます。

 私たちはこのように、御霊によって忍耐して、主によって実を結ばせていただくということが必要です。早急に結果が得たいと思って行動に移すと、主が育てておられるものまでもが駄目になってしまいます。じっくりと成長を待ちなさいということです。

4B 異教儀式 26−31
19:26 あなたがたは血のついたままで何も食べてはならない。まじないをしてはならない。卜占をしてはならない。19:27 あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。19:28 あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは主である。19:29 あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。この地がみだらになり、この地が破廉恥な行為で満ちることのないために。19:30 あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。19:31 あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。 

 ここのいろいろな戒めの背後にあるのは、「異教の儀式」です。まじないはもちろんのこと、頭の鬢の毛を剃り落とさないのは、毛髪をそり落とす異教の儀式が背景にあるからです。自分の体を傷つけることも、また入墨をすることも同じです。では、これらを今の時代に適用させることはできるか?正統派ユダヤ教徒の人たちは、ここの戒めを受け取って、鬢の髭をそのまま伸ばしています。また入墨をした人は今、たくさんいます。私たちはどう応答すればよいでしょうか?

 キリスト者の倫理基準は新約聖書の中にあります。そこに魔術や偶像礼拝を避けることは書かれています。また不品行を避けよと命じられています。けれども、コリント第一7章で「召されたところにとどまっていなさい」という勧めがあり、割礼をせずに信仰によって救われることを知らずに、以前、異邦人がユダヤ教に改宗すべく割礼を受けた人たちがいます。けれども、その跡を消す必要はないと言われています。したがって入墨をことさらに消し去る必要はないですが、私たちが適用できるのは、「偶像礼拝の儀式や不道徳に思われるものは外見上でも避けるべき。」ということです。例えばコリントにある教会では、女性は被り物をしなさいと命じられています。それは当時のコリント社会において、被り物をしていない女は神殿娼婦しかいなかったからです。

5B 敬いと公正 32−37
19:32 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。19:33 もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。19:34 あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

 老人、また在留異国人は、どちらも社会でないがしろにされがちな存在です。老人についてですが、「わざわざ起立までしなくていいだろう。」と思うかもしれません。私が驚いたのは、ある韓国系の若者たちの集まりにいたときに、老齢の大学教授が後からいらっしゃいました。若者たちはいっせいに起立し、おじぎをして挨拶をするのです!もちろんそれは儒教の影響からですが、私たちが老人の方々を敬うのは、儒教だから、文化だからということではなく、むしろ主が命じられている「聖いことだから」ということでしょう。老人を貶めることは、神への恐れが欠けている行為です。

 そして在留異国人についても、同じことが言えます。私たち教会が集まると、自ずと社会的に多数派の人たちに合わせていきます。その時に忘れてはいけないのは、それに当てはまらない人が来るときです。そのような人たちに「関心」を寄せる、ということが私たちキリスト者の義務であると私は考えます。ご聖霊の呼び名は「もうひとりの助け主」ですが、元々の意味は、「そばにやってきて、援助する」ということです。そばに寄り添い、そして助けるという心遣いが必要になります。

19:35 あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。19:36 正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。19:37 あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行ないなさい。わたしは主である。」

 商売においてごまかしてはいけない、という教えです。私たちの利益に有利に働くように、嘘までついて行動するのは聖い行為ではありません。

4A 裁きの厳しさ 20
 そして20章では、18-19章で主がしてはいけないと言われた事柄に対して、それらを行った時に神が罰せられることについて述べています。

1B 異教の慣わし 1−9
20:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。20:2 「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。20:3 わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。20:4 人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、20:5 わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならいモレクを慕って、淫行を行なう淫らな者をすべて、その民の間から断つ。

 モレクに対する罰は極めて厳しいものになっています。モレクへの人身供養を行っているのみならず、それを見過ごしている者に対しても同様の厳罰が下されます。実に、ユダ国の末期にこれを王が行い、そして民に対しても行わせたので、それで神のユダに対する裁きが決定したのです。

20:6 霊煤や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。20:7 あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。20:8 あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行なうであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。

 主が罰を下すことを語られながら、その途中に、「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる」と言われています。自分自身の体を、神のものだけにしておくことです。汚れから離れることです。それによって神との聖なる交わりを保つことができます。

20:9 だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。

 ここの「のろう」は、単に悪いことを発言したというよりも、持続的な反抗、そして親に対して危害を加えようとするような暴力性を意味しています。

2B 姦通 10−21
 次は、姦通の罪を犯した時の罰です。

20:10 人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。20:11 人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。20:12 人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。20:13 男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。20:14 人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。彼も彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。20:15 人がもし、動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。20:16 女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。20:17 人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。20:18 人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現わしたのである。ふたりはその民の間から断たれる。20:19 母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。20:20 人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。20:21 人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。

 すべて18章に出てきた、近親相姦、姦淫、異常な性行為に対する罰です。すべて殺される、あるいはイスラエルの共同体から断ち切られるという罰を伴っています。

3B 選り分けられたイスラエル 22−27
20:22 あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行なうなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。20:23 あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行なったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。20:24 それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、主である。20:25 あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また、汚れた鳥ときよい鳥を区別するようになる。わたしがあなたがたのために汚れているとして区別した動物や鳥や地をはうすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。20:26 あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。』20:27 男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。」

 主がこれまでのことをまとめて、イスラエルの民に聖別を呼びかけておられます。約束の地、乳と蜜の流れる地を汚してはならないという思いで、まず今、その地を汚しているカナン人をイスラエルによって滅ぼし、そしてご自分の民がそこで主に属する生活を歩むようにさせたいという願いを持っておられます。

 このような厳しい処罰を見て、私たちはどのように感じたでしょうか?まず、私たちは姦淫の罪を犯した者、同性愛行為をする者、偶像礼拝をする者を打ち殺すべきでしょうか?いいえ。もし行ったら、日本国の法律でむしろ私たちのほうが裁かれますが、法律を守るという理由ではなく、私たちの主の心ではありません。

 新約において、これらの律法を成就された方が来られました。イエス・キリストです。この方は姦淫の現場で捕えられた女に対して、赦しを与えられました。ヨハネ83-11節を読みます。
 

すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

 律法学者とパリサイ人が行っていたのは、まさに私たちが先ほど読んだ10節のところです。二人が殺されなければいけないのに、不思議にも男は連れ出されていません。おそらく周到にイエスにこの女を突き出すために用意した罠だったのでしょう。

 ここから分かるイエス様の態度は、第一に、「石を投げなさい」ということです。石を投げてはいけない、と言っておられません。律法はそのとおり適用されるべきである、と言われたのです。イエス様は「わたしは律法を破棄するためではなく、成就するために来た。」と言われました。すなわち、私たちは神の聖い基準を引き落として妥協してはならない、ということです。相手を愛するということは、キリスト者にとっては、「聖い愛をもって愛する」ということです。愛するのですが、愛するがゆえに、自分も苦しみながら、心で泣きながら、忍耐をもって神の真理を伝えるということです。

 第二に、「あなたのうちで罪のない者が」と言われました。このことばを聞いて、多かれ少なかれ思いの中で情欲の罪を犯したり、律法の抜け穴を捜したと思って姦淫の罪を犯していたのでしょうか、男たちは徐々に引き下がっていきました。つまり、罪を定めることができるのは、本人が罪を持っていない、というのが条件なのです。そこで私たちキリスト者は、自分たちにそのような人たちを憐れみこそすれ、裁くことは決してできないことを知ります。自分も同様の罪人であり、弱さを持っているのですから。キリスト者の奉仕は、祭司の奉仕と同じです。祭司の奉仕は、自分自身が弱さを持っているので、その弱さに同情することがその大きな務めです。

 第三に、イエス様が「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたことです。唯一、石を投げることのできた方が、罪に定めることをなさいませんでした。なぜか?この方が、これらの律法の要求を死罪をもって満たしてくださったからです。この方が、十字架の上でこれまで神が命じられた処罰を満たしてくださいました。

 そして最後に、「今からは決して罪を犯してはなりません。」と言われています。回復の言葉を与えられました。罪の赦しを得たものは、赦しを得た者にふさわしく、悔い改めの実を結ぶようにキリスト者は励まします。

 イスラエルに約束の地があるように、私たちキリスト教会にも相続の地が約束されています。「神の国」です。彼らが聖なる者であるから約束の地に住むことができるように、私たちキリスト者にも神の国に入る基準があります。コリント第一69-11節をお読みします。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6:9-11

 ここに書かれているのは、これらの罪を一切犯さない者だけが神の国を相続する、ということではありません。たとえ失敗しても、悔い改め、罪を捨て、聖潔に向かおうとしている者が約束の御国に入る、ということです。そしてすでに主は、私たちを御霊によって洗ってくださり、聖なる者としてくださり、義と認めてくださったのです。ゆえに、自分はこれらのことから離れられない、と思ってもがっかりしないでください。真にイエス様を信じているなら、御霊の洗いはすでに受けています。したがって、自分が求めるならば聖潔の道を進み出ることはできます。 

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME