レビ記19−20章 「聖なる行ない」

アウトライン

1A 戒め 19
   1B 目的 − 聖なる者となる 1−2
   2B 内容 3−36
      1C 尊敬 3
      2C 偶像の拒否 4
      3C 食物についての態度 5−10

         1D 新しい食物 5−8
         2D 分け与える食物 9−10
      4C 他者への配慮 11−12
      5C 付け込むことへの拒否 13−14
      6C 真実な人間関係 15−16
      7C 心の中の態度 17−18
      8C 神の法則への尊重 19−25
         1D 区別 19
         2D 性における区別 20−22
         3D 果実についての戒め 23−25
      9C 異教への態度 27−28
      10C 真の礼拝 29−30
      11C 霊媒と口寄せ 31
      12C 老人への態度 32
      13C 在留異国人への態度 33−34
      14C 正しい量り 35−36
   3B 勧め 「行ないなさい」 37
2A 刑罰 20
   1B 異教の罪 1−9
      1C モレク 1−5
      2C 霊媒と口寄せ 6
      3C 聖別する必要性 7−8
      4C 両親への反抗 9
   2B 性的な罪 10−21
      1C 他人の妻 10−12
      2C 破廉恥な行為 13−16
      3C 近親相姦 17−21
   3B 聖めへの勧め 22−27
      1C 約束の地における祝福 22−23
      2C 他の民との区別 24−26
      3C 霊媒や口寄せの除去 27


本文

 レビ記19章を開いてください。今日は、19章と20章を学びます。ここでのテーマは、「聖なる行ない」です。私たちはレビ記において、主を礼拝すること、主と交わることについて学んでいます。レビ記の前半部分では、いけにえによって神に近づくことについて学びました。そして、17章からの後半部分において、聖別によって神とともに歩むことについて学んでいます。聖なる方と交わるには、私たちの歩みが聖いものとなっていなければなりません。前回の学び、17章と18章においては、宗教的な儀式において異教のならわしをまねてはならないこと。また、性的な営みについて、周囲の民族のならわしにまねてはならないことについて学びました。つまり、古い人を捨てて、新しい人を身に着けていく生活を営まなければいけません。

 そして19章に入ります。私たちはかつて、神がモーセをとおしてイスラエルに与えられた十戒について学びましたが、神は今ここで、その十戒をどのように具体的に、私たちの生活に当てはめればよいかについて、語っておられます。

1A 戒め 19
1B 目的 − 聖なる者となる 1−2
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人の全会衆に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」

 
主は、具体的なさまざまなおきてをお与えになるまえに、それらのおきての目的についてお語りになっています。それは、イスラエルの民が、聖い生き方をするためです。聖いということは、単に罪から離れていることではありません。ここにあるとおり、主が聖であるから、聖なる者とならなければいけない、つまり主との交わりを保つためです。使徒ヨハネは、言いました。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Tヨハネ
1:6-7」私たちが神との交わりを保つためには、光の中を歩んでいなければいけません。

 ですから、私たちは聖く生きなければならないのですが、大事なのは、もうすでに、いけにえによって神に近づいていることです。私たちが、キリストのみわざによってすでに聖められていること。十字架の血潮によって、罪と汚れが洗われました。私たちの古い人は、すでにキリストともに十字架につけられたので、死んでいます。私たちは、キリストにあって完全な者とされています。この立場に立っているときに、私たちは初めて、聖なる歩みを始めることができます。自分の行ないによって、自分自身の力によって神が命じられたことを行なおうとするのは、間違っています。ローマ書7章にあった、パウロの葛藤のように、自分が憎む悪をかえって行なっているようになってしまいます。けれども、私たちがしっかりとキリストのみわざに立っているときに、聖なる御霊が私たちを導いてくださいます。私たちは、聖霊が導いてくださるときに、肉の行ないを殺すことができます。ですから、これから読んでいく神の戒めは、聖霊の導びかれるための道しるべであります。

2B 内容 3−36
1C 尊敬 3
 おのおの、自分の母と父とを恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 
初めのおきては、両親を敬うことであります。両親に従うことは、神の御前に聖いのです。親の言うことを聞かない子どもたちは、神の前では罪であり、汚れたものであります。また、安息日を守らなければいけないとありますが、これはイスラエル民族に与えられたものです。けれども、私たちクリスチャンも、週1回、からだを休めること、主を礼拝することは聖いことであると考えなければいけません。日本人は、一生懸命働くことを美とし、休むことを重要視しませんが、聖書はその逆なのです。

 そして、「わたしはあなたがたの神、主である。」とありますね。これは、19章を読むときに、繰り返して出てきます。いや、この言い回しが出てくる毎に、段落が変わると言って良いでしょう。このような具体的なおきては、主にあって行なうこと、主と交わりたいという目的があって行なうことであります。私たちはとかく、おきてを守ること自体を目的としますが、おきてはあくまでも、主なる神と交わるための手段にしかすぎません。

2C 偶像の拒否 4
 あなたがたは偶像に心を移してはならない。また自分たちのために鋳物の神々を造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 
次は、偶像についてのおきてです。偶像を拒むこと、これは聖なることです。とかく、異教の社会にいる私たちは、偶像との決別を、「愛がない」「相手への配慮がない」と言われて批判される、あるいは、そのような反発を受けるのではないかなあ、という恐れがあります。けれども、それが間違っていることがここで明らかです。

3C 食物についての態度 5−10
 次に、5節から10節まで、食物に対する態度について取り扱われています。

1D 新しい食物 5−8
 あなたがたが主に和解のいけにえをささげるときは、あなたがたが受け入れられるように、それをささげなければならない。

 ここでは、「あなたがたの自由意思で」という言葉が使われています。つまり、自ら進んでささげなければいけない、ということです。パウロも、「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(Uコリント
9:7」と言いました。私たちが何かをするときに、人から言われるのを待っている、という態度は主の前で聖くありません。自分自身が主の御前に出て、「私はここにいます。私をお用いください。あなたは、私に何を行なってほしいと願われていますか。」と聞く態度が必要です。人から自由になるためには、主から与えられる責任を担うことによってのみ、可能になります。ですから、人から言われるのを待って行なうことは汚れており、自ら進んで行なうことは、聖いことなのです。

 それをささげる日と、その翌日に、それを食べなければならない。三日目まで残ったものは、火で焼かなければならない。もし三日目にそれを食べるようなことがあれば、それは汚れたものとなって、受け入れられない。それを食べる者は咎を負わなければならない。主の聖なるものを汚したからである。その者はその民から断ち切られる。

 三日たつと、当時、冷蔵庫がありませんから、その和解のいけにえは腐り始めます。腐ることは、罪に蝕まれることの象徴ですから、神は、これを一切拒絶されます。私たちが罪の中にとどまること、これは私たちを汚し、神との交わりから、また他の兄弟たちとの交わりから引き離してしまうものとなります。

2D 分け与える食物 9−10
 そして次は、収穫物を貧しい人たちに残しておくことについての教えです。あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 
貧しい人たちのため、また在留異国人のために、収穫の刈り入れのときに、ぶどうの実を残しておかなければいけません。「この端っこのぶどうの実はもったいないから、全部、取ってしまおう。」とか、「これらはみな、私たちのものだ。だれかに食べられたくない。」と思ったりすること、これは汚れています。したがって、自分の財産を、困っている人たちが利用することができるようにさせる、という態度は私たちが持たなければいけないものです。自分のものが多少失われてもよい。それが困った人、事欠いている人に使われてもよい、という態度を私たちは、聖なる歩みをする上で必要なのです。


4C 他者への配慮 11−12
 盗んではならない。欺いてはならない。互いに偽ってはならない。あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。

 
盗んではならないことは主の前に聖いことです。私たちはとかく、人の物を借りたときに、いつまでも返さない、ついに返さないことをしてしまいがちです。けれども、それが神がその人に与えられた財産であり、他者はそれを侵してはならないことを知れば、そのようなことはできません。ですから、人のプライバシーに立ち入らないことも、ある意味で盗まないことであると言えるでしょう。面白い話を聞いたことがあります。ある牧師の息子が、だれかの家の木から外にはみ出している果物を、取って食べました。そうしたらお母さんが、「これは、他の人のものよ。」と言われて叱られたそうです。他の人の物には手を触れない、また、触れるときには許可を得る、という考えですね。


 そして欺いてはならない、というおきてがあります。物事をスムーズに動かすために、多少のごまかしは必要である、と私たちはこの世から教えられてきました。けれども、それは汚れたことです。私たちは、細かい事柄においても、正直でなければいけません。これは主の前に聖なることです。

5C 付け込むことへの拒否 13−14
 次は、人の弱みに付け込むことについての戒めです。あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。

 これは、自分が日雇人になったことがあれば、十分に理解できます。その日の食べ物のすべてが、その日に支払われる賃金にかかっています。私も大学生のときに、そのような経験をしました。神は、このように弱い者たちの味方になっておられ、深いあわれみを注がれています。自分の前に、事欠いている人が、困っている人がいて、その人を助けることは聖いことです。

 あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。


 これは、もちろん文字通りに受け止められますが、それだけではなく、相手の弱さを知っていながら、その弱さに付け入って、その人をけなしたり、つまずかせたりすることすべてを含みます。だれにも弱さはあります。その弱さを私たちは補ってあげなければいけないのに、かえって、そのことでからかってみたり、言ってはいけないことを言ってみたりすること、これらはみな汚れたことです。

6C 真実な人間関係 15−16
 次に、人間関係において真実でなければいけないことについてのおきてです。不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない。

 正しいさばきについていましめです。たとえ弱い者であっても、さばきにおいてはおもねることはできません。また、もちろん強い者にへつらうことはできません。けれども、私たちは、ある人のことについて、あるいはある特定のグループについての真実を明らかにするときに、つまり告発をすると、強い反発を受けます。「あなたは、その人の気持ちがわからないのか。」「あなたは、だれだれの権威を認めないのか。」など、人間関係や組織への裏切り行為だとして非難されます。けれども、それは間違っています。真実は明らかにしなければいけません。それは、教会がきよめられるためには、なくてはならないものなのです。


 人々の間を歩き回って、人を中傷してはならない。あなたの隣人の血を流そうとしてはならない。わたしは主である。

 真実ではない間違ったことを話すこと、これは中傷です。まだ明らかではないこと、はっきりしていないことについて、他人に話して事実のようにして言い広める、これは汚れたことであります。隣人の血を流そうとしてはならない、とありますが、ある意味で、中傷は人の心に血を流す行為です。


7C 心の中の態度 17−18
 心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。

 心の中で憎しみをもたないこと、これは聖い歩みをする上で、とても大切なことです。私たちは、その人に対して怒るべき、憎むべき正当な理由がたくさんあるかもしれません。それらは間違っていません。けれども、主の御前に歩むときに、また、私たちの心のために、憎しみは私たちを疲弊させて、私たちを汚し、主にある喜び、平安、愛を楽しむことができなくなります。心を守ること、これは聖潔にとって重要なことです。

 復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。

 このみことばを、イエスさまは、「すべての律法は、このいましめによっています。」と言われたものですね。神を愛して、そして、自分自身のように隣人を愛することです。私たちはとかく、自分が聖いか汚れているかを、自分がしていないことによって推し量ります。「私は、こういう罪を犯していない。」という感じにです。けれども、ここでは、「愛しなさい。」とあり、自分が行なっていることにとって聖さが計られています。私たちは、どれだけ人々に愛の行ないを見せているでしょうか。見せていないのであれば、それは罪なのです。「こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ
4:17」とヤコブは言いました。

8C 神の法則への尊重 19−25
 次は、いろいろなところに働いている神の法則を尊重をしなければいけないことについてのおきてが書かれています。

1D 区別 19
 あなたがたは、わたしのおきてを守らなければならない。あなたの家畜を種類の異なった家畜と交わらせてはならない。あなたの畑に二種類の種を蒔いてはならない。また、二種類の糸で織った布地の衣服を身に着けてはならない。

 さまざまな種類や区別は、神が設けられたものであります。それを混じり合わせることは、神のおきて、あるいは法則に反することであります。遺伝子組替えとかは、行き過ぎると神のおきてに反することになるかもしれません。また、申命記に書かれていますが、男の人が女の人の身なりをすること、女の人が男の身なりをすることは、神が望んでおられないことです。


2D 性における区別 20−22
 この区別は、性行為において当てはめられています。男が女と寝て交わり、その女が別の男に決まっている女奴隷であって、まだ全然贖われておらず、自由を与えられていないなら、彼らは罰せられる。女が自由の身でないので、彼らは殺されない。

 男と女が寝て交わることによって、その二人は一体となります。したがって、もうすでに夫が決まっている女と寝ることは、その神の秩序を壊すものとなります。本当なら、ここで死刑なのですが、女奴隷は、主人の命じることをすべて行なわなければいけないので、彼女の意思に関わらず従わなければいけません。ですから、殺されることはありません。

 その男は、主への罪過のためのいけにえとして、罪過のためのいけにえの雄羊を会見の天幕の入口の所に持って来る。祭司は、彼の犯した罪のために、その罪過のためのいけにえの雄羊によって主の前で彼の贖いをする。彼はその犯した罪を赦される。この男は、もっとも高価な家畜をささげなければいけません。主人の所有物は何をしてもかまわない、と思われていた当時の世界の中で、このようにして女奴隷が神さまによって保護されています。


3D 果実についての戒め 23−25
 次は、果実、作物の実をいつになったら食べることができるかについてのおきてです。あなたがたが、かの地にはいって、どんな果樹でも植えるとき、その実はまだ割礼のないものとみなさなければならない。三年の間、それはあなたがたにとって割礼のないものとなる。食べてはならない。

 三年間は食べてはいけません。十分に育ててから、食べなければいけません。これは比喩的に、霊的に当てはまるかもしれません。私たちは、十分に成長したものから取らなければいけない、ということです。教会において、イエスさまを信じたばかりの人に、伝道や奉仕の仕事をたくさんあてがう。会社において、新しく結婚した人に対しても無理に仕事をさせる。そっとしておくような期間を、神は私たちの設けているのではないでしょうか。これも、聖い生き方には欠かせないことです。

 四年目にはその実はすべて聖となり、主への賛美のささげ物となる。


 3年たってので、それでは自分たちが食べよう、ではありません。主への賛美のささげ物となります。私たちのものはすべて、最初に神にささげなければいけません。自分の最初の時間、自分の最初の給料など、何でも自分の最初の収穫は主のものなのです。


 五年目には、あなたがたはその実を食べることができる。それはあなたがたの収穫を増すためである。わたしはあなたがたの神、主である。

 
実を食べることによって、収穫を増すことができます。取ることによって、増やすことができるのです。私たちの霊的生活も同じです。使うことによって、増えていきます。自分の賜物を用いることによって、その賜物が主からますます注がれます。ささげなければ、ふえていくことはない、という法則があるのです。


9C 異教への態度 27−28
 次に、異教に対する態度が書かれています。あなたがたの頭のびんの毛をそり落としてはならない。ひげの両端をそこなってはならない。

 
正統派のユダヤ教徒は、今も、このおきてを守っているので、長いびんの毛になっている人が多いです。けれども、これは周囲にあった異教の習慣があったからであろうと思われます。体毛をそること、それに宗教的な意味があったのです。

 あなたがたは死者のため、自分のからだに傷をつけてはならない。また自分の身に入墨をしてはならない。わたしは主である。

 
自分のからだを傷つけること、また入墨をすることも宗教的な意味がありました。私たちは、流行っているとか、習慣だからという理由ですべてを受け入れてはいけないことが、ここから分かります。その習慣を止めることによって、あるいは、改良することによって、私たちは、自分たちが神によって区別された民であることを明確に打ち出さなければいけません。心が正しければ外側がそれほど重要ではない、というのは、非聖書的な教えです。

10C 真の礼拝 29−30
 あなたの娘を汚して、みだらなことをさせてはならない。この地がみだらになり、この地が破廉恥な行為で満ちることのないために。あなたがたは、わたしの安息日を守り、わたしの聖所を恐れなければならない。わたしは主である。

 
娘にみだらなことをさせるとは、これが宗教の一つになっており、礼拝の行為の一部だったからです。異教には、聖い神という概念がありません。むしろ、自分の欲望を満たすことを肯定してくれるような宗教になっています。聖なる神を礼拝することは、「わたしは主である。」とあるとおり、自分の思い通りではなく、主が考えておられることに自分を合わせることに他なりません。私たちは、物理的に異教の神を拝んでいないかもしれませんが、心の中で異教の神々を拝んでいる可能性があります。自分の願っていることを受け入れてくれることを、神に求め、また教会に求めます。自分を肯定してくれなければ、その教会は去ります、という態度を持っている人は、神を求めているといいながら、自分を求めており、神ではない偶像を拝んでいるのです。


11C 霊媒と口寄せ 31
 あなたがたは霊媒や口寄せに心を移してはならない。彼らを求めて、彼らに汚されてはならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 霊媒や口寄せに心を移してはいけません。死者の霊との交わりを求めてはいけません。神は、ご自分が啓示されたものを私たちが受け取ることを望まれていますが、神を介さずに、またキリストを介さずに、霊の世界と接触しようとするときに、私たちは汚れます。占い、超能力やチャネリングがそうです。オカルト関係の雑誌や映画も私たちを汚します。そのようなことを行なって、確かに、ある程度、将来のことがわかるかもしれません。他人の真実について分かるかもしれません。けれども、それらを教えているのは、死者の霊でも、もちろんキリストの霊でもなく、悪霊なのです。そのようなことを行なっている人々には、聖さがありません。喜びがありません。愛がありません。けれども、私たちは、キリストによって神に近づくことが許されており、天の御国の姿をおぼろげに見ることが許されています。この啓示に私たちが目を留めているときには、私たちは聖められ、愛と喜びと平安に満たされるのです。


12C 老人への態度 32
 あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

 このごろ、年老いた人たちに対する不親切が、社会の中に広まっていますが、それは汚れたことであります。私たちは、老人の方々を見下げるのではなく、むしろ尊敬して接しなければいけません。老人を敬うこと、これは聖いことなのです。


13C 在留異国人への態度 33−34
 もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

 神は、在留異国人に対して、何回も繰り返して彼らを愛すること、大事にすることについて語っておられます。イスラエル人自身が、エジプトにおいて在留異国人だったから、彼らの苦しみや痛みをよく知っているからです。


 私たちがアメリカにいたときに、あるお店で、アメリカ人の方から、「あなたたちは、納税しているの?」と聞かれました。私たちは、アメリカにいるときだけではなく、日本にいたときも合衆国政府に対して税金を収めていた、ということを話しました。アメリカでは、永住者は海外にいても、納税の義務があります。そのようなことを率直に語った私たちに対して、その方は喜んでくれました。けれども、この女性のように、一般のアメリカ市民の多くは、「私たちの国で、外国人がほしいものだけとって、市民である私たちが税金を払って、苦労している。」というフラストレーションを少なからず持っています。けれども、私たち外国人の、このような複雑な事情を知らないのです。

 同じように、在日外国人は、私たちにとっては空気のようになっている日本国民の権利を持っていません。私たちが知らないところで、外国人の方々は大変なところを通っています。彼らが基本的人権について訴えているとき、「であれば、日本から出て行けばよい。」という意見がありますが、それはあまりにも短絡的な意見です。神さまは、「あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。」と命じれらています。また、外国人の犯罪が増えていたので、一般の外国人に対する偏見も芽生えています。これらの偏見、無関心は、彼らをさらに苦しめることになりますが、私たちクリスチャンは、神に喜ばれ、きよく生きるには、そうであっては決していけません。

14C 正しい量り 35−36
 あなたがたはさばきにおいても、ものさしにおいても、はかりにおいても、分量においても、不正をしてはならない。正しいてんびん、正しい重り石、正しいエパ、正しいヒンを使わなければならない。わたしは、あなたがたをエジプトの地から連れ出した、あなたがたの神、主である。

 
不正をしてはならないこと、これは聖潔にとって大切なことです。正しいはかりをつかう、私たちも金銭などにおいてごまかしをしてはいけません。


3B 勧め 「行ないなさい」 37
 このようにさまざまなおきてを与えられたあとに、主は、これらを行ないなさいと勧めておられます。あなたがたは、わたしのすべてのおきてとすべての定めを守り、これらを行ないなさい。わたしは主である。

2A 刑罰 20
 そして20章に入りますが、20章は、これらのおきてを破ったときに対する刑罰について語られています。18章において、とくに性的罪について語られていました。この性的罪と、また19章の数々の戒めを破った場合について、神は多くの場合、死刑を命じておられます。

1B 異教の罪 1−9
1C モレク 1−5
 ついで主はモーセに告げて仰せられた。「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。わたしはその者からわたしの顔をそむけ、彼をその民の間から断つ。彼がモレクに子どもを与え、そのためわたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を汚すからである。

 モレクについては、
18章に登場しました。これは、鉄で造られた偶像であり、これを熱して真っ赤にします。そのモレクの両腕に、生まれたばかりの赤ちゃんをのせて、赤ん坊をささげます。そして、太鼓などの音を鳴らすのですが、それは赤ん坊の泣き声をかき消すためです。このようなことを行なう者は、必ず石で打ち殺さなければならない、と主は命じています。神は、赤ちゃんのいのちをも、大人のいのちと同じように大切にされているのです。ですから、日本にある、中絶の是認と奨励の習慣、赤ちゃんが殺されたときと大人が殺されたときの刑罰の違い、これらはみな異教から出てきたものであり、汚れたことであります。

 ここで、先ほど大切しなさいと主が私たちに命じられた在留異国人が出てきますが、彼らもこれらの罪を犯したら、打ち殺されます。さばきにおいては、弱い者におもねてはいけないのです。ですから、最近の少年が犯した事件は、聖書の原則によれば、間違いなく死刑であり、「少年だから」という理由は神の御前には通用しません。

 人がモレクにその子どもを与えるとき、もしこの国の人々が、ことさらに目をつぶり、彼を殺さなかったなら、わたし自身は、その人とその家族から顔をそむけ、彼と、彼にならいモレクを慕って、淫行を行なう淫らな者をすべて、その民の間から断つ。

 
たとえ人々がその罪を行なっている者をさばかなくても、神ご自身が介入されて、その者をさばかれます。


2C 霊媒と口寄せ 6
 霊煤や口寄せのところにおもむき、彼らを慕って淫行を行なう者があれば、わたしはその者から顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。

 霊媒や口寄せも、モレクと同じような罰を受けます。「民の間から断つ」とか「顔をそむけ」というのは、失われる、地獄に行くのと同じ意味合いを持っています。


3C 聖別する必要性 7−8
 あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは、わたしのおきてを守るなら、それを行なうであろう。わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。

 主はここで、私たちが自分自身を聖別する必要性について語っておられます。私たちは確かに、神によって、キリストにって聖なる者とされました。けれども、自分自身で、実際の場面において、自分自身を聖めることが必要です。パウロが言いました。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(Uコリント
7:1」またヤコブが言いました。「罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。(ヤコブ4:8」と言いました。自分が果たすべき責任があります。

4C 両親への反抗 9
 だれでも自分の父あるいは母をのろう者は、必ず殺されなければならない。彼は自分の父あるいは母をのろった。その血の責任は彼にある。

 
両親への執拗な反抗は、死刑に値します。父母を敬うことがいかに大切であるかを、私たちが考えている以上に、神はお考えになっています。


2B 性的な罪 10−21
 そして次から性的な罪に対する刑罰について述べられています。18章で列挙されていた罪が、いかに罰せられるのかが語られています。

1C 他人の妻 10−12
 はじめは、他人の妻との性行為です。人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。人がもし、父の妻と寝るなら、父をはずかしめたのである。ふたりは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。人がもし、息子の嫁と寝るなら、ふたりは必ず殺されなければならない。彼らは道ならぬことをした。その血の責任は彼らにある。

 
他人の妻、彼女が親族であってもそうでなくても、他人の妻と寝るなら死刑に値します。ふたりとも殺されなければいけません。女奴隷と異なり、女は同意のもとで行なっているので、ふたりとも殺されるのです。


2C 破廉恥な行為 13−16
 次に、破廉恥な行為、または道ならぬことについての刑罰です。男がもし、女と寝るように男と寝るなら、ふたりは忌みきらうべきことをしたのである。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。同性愛の行為は、死刑です。人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。彼も彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。母とその娘をともにめとるなら、それも死刑です。人がもし、動物と寝れば、その者は必ず殺されなければならない。あなたがたはその動物も殺さなければならない。女がもし、どんな動物にでも、近づいて、それとともに臥すなら、あなたはその女と動物を殺さなければならない。彼らは必ず殺されなければならない。その血の責任は彼らにある。

 男の場合でも、女の場合でも、動物と交わるなら殺されます。動物も殺されます。神のさばきは、怠りなくなされます。


3C 近親相姦 17−21
 次は近親相姦についてです。人がもし、自分の姉妹、すなわち父の娘、あるいは母の娘をめとり、その姉妹の裸を見、また女が彼の裸を見るなら、これは恥ずべきことである。同族の目の前で彼らは断ち切られる。彼はその姉妹を犯した。その咎を負わなければならない。姉妹との性行為です。人がもし、月のさわりのある女と寝て、これを犯すなら、男は女の泉をあばき、女はその血の泉を現わしたのである。ふたりはその民の間から断たれる。生理期間中の女性との性行為です。母の姉妹や父の姉妹を犯してはならない。これは、自分の肉親を犯したのである。彼らは咎を負わなければならない。人がもし、自分のおばと寝るなら、おじをはずかしめることになる。彼らはその罪を負わなければならない。彼らは子を残さずに死ななければならない。おじ、おばとの性行為も死刑です。人がもし、自分の兄弟の妻をめとるなら、それは忌まわしいことだ。彼はその兄弟をはずかしめた。彼らは子のない者となる。

 兄弟の妻との姦通も罰せられます。


 私たちが生きているこの時代に、これらの死刑が当てはめるべきか、という問いがありますが、それはないと私は考えます。それは、律法の要求は、キリストの十字架において実現したからです。イエスさまが律法と預言を成就された方です。姦淫の現場で捕まった女性に対して、石打ちにしようとしたユダヤ人に対して、イエスさまは、「罪のない者が、最初に石を投げなさい。」と言われました。そしてだれも投げることができなかったのを見て、イエスさまは、「わたしも罪に定めない。」と言われました。なぜなら、この罪に対する刑罰も、罪なきイエスさまが代わりに、受けられたからです。けれども、だからと言って、すべての行為が死刑から免れるか、というとそうではありません。神は、不信者が統治している国においても、その支配者に権力を行使することを許しておられます。ですから、その範囲において、死刑がある国があるかもしれないし、ない国があるかもしれません。ここで大事なのは、神は聖なる方であり、どのようなことが聖いことであり、どのようなことが汚れているのかを見分けることであります。神が重大であると考えられていることを、私たちも重大であると考える、ということが大切です。

3B 聖めへの勧め 22−27
 今、イスラエルの民は、シナイ山にいるのですが、神は、約束の地に入ったときの祝福についてお語りになります。

1C 約束の地における祝福 22−23
 あなたがたが、わたしのすべてのおきてと、すべての定めとを守り、これを行なうなら、わたしがあなたがたを住まわせようと導き入れるその地は、あなたがたを吐き出さない。あなたがたは、わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国民の風習に従って歩んではならない。彼らはこれらすべてのことを行なったので、わたしは彼らをはなはだしくきらった。

 主が命じられた、おきてを守り行なうなら、イスラエルの民はこの土地にいつづけることができます。また、主がカナン人をことごとく打ち殺すことをイスラエル人に命じられたのは、このような恐ろしい風習をカナン人が行なっていたからです。神は、自然界を用いられてさばきを行なうだけではなく、民族、個人、グループを用いて、さばきを行なうこともあるのです。


2C 他の民との区別 24−26
 それゆえ、あなたがたに言った。『あなたがたは彼らの土地を所有するようになる。わたしが乳と蜜の流れる地を、あなたがたに与えて、所有させよう。わたしは、あなたがたを国々の民からえり分けたあなたがたの神、主である。

 神は、イスラエルを「えり分けた民」と呼ばれています。この世からえり分けて、そして神ご自身の民族とされました。

 あなたがたは、きよい動物と汚れた動物、また、汚れた鳥ときよい鳥を区別するようになる。わたしがあなたがたのために汚れているとして区別した動物や鳥や地をはうすべてのものによって、あなたがた自身を忌むべきものとしてはならない。

 彼らに与えられた食物規定は、イスラエルが他の民族と区別されていることを示すものでした。ですから、これらのおきても守らなければいけません。

 あなたがたはわたしにとって聖なるものとなる。主であるわたしは聖であり、あなたがたをわたしのものにしようと、国々の民からえり分けたからである。

 何のために選ばれたかというと、神のものになるためです。イスラエルは、自分自身のものではなく、神のものになりました。このことは、私たちクリスチャンでも同じです。私たちは、この世から選び分けられた民です。そして、神のもの、キリストのものになりました。ですから、パウロは、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価をもって買い取られたのです。(Tコリント
6:19」と言いました。

3C 霊媒や口寄せの除去 27
 男か女で、霊媒や口寄せがいるなら、その者は必ず殺されなければならない。彼らは石で打ち殺されなければならない。彼らの血の責任は彼らにある。

 主は最後に、霊媒と口寄せに対する死刑を宣告しておられます。先ほどは、霊媒や口寄せに近寄ることに対する罰ですが、ここでは、霊媒者本人になることについての死刑です。神が、ご自分とキリストを通さないで霊界を見ようとする試みを、断じてお許しにならないみこころを私たちは知ることができます。


 このように、聖なる行ない、という題で学びました。とても具体的な事柄において、何が聖であるかを知ることができたかと思います。私たちが考えている「聖さ」と主がお考えになっている「聖」とは異なることが分かりました。今、みことばを読んでいるときに示された自分の過ちを、御霊のうちにあって正して、さらに聖潔へと向かいましょう。


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